其の九       姫

 「はっはっはっ!!」
 草薙が矢を放つ。彼が念じれば、矢は潰えることなく彼の手元へと現れた。桐生は俊敏な動作でそれをやり過ごし、反撃の機会をうかがっているようだった。
 (こんな事になるのなら、珠洲丸に全て話しておけば良かった___後悔先に立たずとはよく言ったものね。)
 そんなことを思いつつ、桐生は宙へ高く飛ぶ。指先が煌めいたと思うと、草薙に向けて白銀の刃を投げつけた。
 「ふん。」
 「くっ!」
 草薙は上へ、珠洲丸は横へと跳躍する。刃は大地に突き刺さり、すぐに白い蛇に姿を変えて飛び上がっている草薙に襲いかかった。
 「猪口才!」
 だが草薙は矢を放つまでもなく、弓を剣のように振るうと白蛇の首を叩き潰した。桐生はその隙を逃すまいと一気に背後から草薙に襲いかかる。
 「草薙、後ろ!」
 「!!」
 珠洲丸の言葉で草薙は鋭い反応を見せる。白銀の刃を手に、今まさに斬りかかろうとしていた桐生を笑顔で迎えた。
 ゴッ!
 弓が撓り、桐生の脇腹に深々とめり込んだ。
 「う___」
 女の細い顎に赤い筋が走った。痛烈な打撃の威力はそのまま桐生をはじき飛ばし、大地に叩きつける。
 「馬鹿力め___」
 口元の血を拭いながら身を起こし、桐生はその目を赤く光らせた。
 「なに___?」
 突如草薙の周囲の木々が騒ぎ出す。
 「うぬっ!」
 そして木立の影から一斉に大量の白蛇が飛び出した。一つ一つは決して大きいものではない、しかし数百を数える白蛇が草薙に食らいつき、巻き付き、彼の躰を埋め尽くしていく。その間桐生は瞳を輝かせ、自らの力を蛇に送り続けていた。
 すなわち、珠洲丸にとっては全くの無防備だった。
 「あああああっ!!」
 「!?」
 巨木の裏で様子をうかがっていた珠洲丸に、機は巡ってきた。彼女は白銀の短刀を握りしめ、桐生月那へ駆けだした。
 痛い。
 今までいろいろな痛みを知ってきた。だが___こんなに痛いのは初めてだ。
 「珠洲丸___」
 「はあっ___はあっ___」
 白銀の短刀は深々と細い腹に突き刺さっていた。鞘から、珠洲丸の手へ、赤くて暖かい血が流れ着く。大蛇とは思えないほど彼女の肌は柔で、血は人肌に暖かい。
 「珠洲丸ぅ___」
 切なげに、桐生が囁いた。珠洲丸の肩を掴む力はどこか貧弱だった。
 「私は、私はこの日のために生きてきたんだ___!」
 「ううっ___」
 短刀を捻ると桐生の呻き声が聞こえる。珠洲丸は目を閉じて、桐生が早く息絶えてくれることだけを願った。
 人を殺している気はしても、大蛇を退治している気にはなれなかった。
 「女、そこを動くな___!」
 離れたところで草薙の声がする。力の弱まった白蛇を蹴散らし、彼は弓を引き縛っていた。
 「く、草薙___」
 彼に背を向ける珠洲丸に状況はつかめない。だが桐生には彼の狙いが見えていた。破魔矢が放たれる瞬間も。
 「どけっ!」
 桐生は渾身の力で珠洲丸を突き飛ばした。珠洲丸は短刀を握りしめたまま、桐生の前に横倒しになり、桐生は迫り来る矢から逃れるために身を捻った。
 もう一突き!
 すぐに身を起こそうとした珠洲丸の動作は、桐生の姿を見てピタリと止まった。
 「___」
 彼女の白装束は腹部のあたりから真っ赤に染まっていた。それだけではない、躰を横に向け、心臓に向かってきた矢を左腕で受け止めていた。
 「き、桐生___」
 大丈夫か?あまりの痛々しい姿に、思わず珠洲丸は彼女の身を案じていた。その視線を感じたか、桐生は確かに珠洲丸を見て笑顔を作っていた。
 「!!」
 突如真顔に戻った桐生が全身から目映い光を発し、珠洲丸は目を覆う。光が止んだとき、彼女はもうそこにいなかった。
 「逃げられたか___あと一歩と言うところで。」
 草薙が珠洲丸の側にやってくる。珠洲丸はその場に座ったままやりきれない顔でいた。自分の手と、白銀の短刀にべっとりと付いた桐生の血を眺め、とても不愉快な気分になった。
 「だがどこに逃げたかは分かっている、暫く休むとしよう。」
 蛇に噛み付かれた傷を多少作ってはいるようだが、草薙は平然としていた。何しろ彼の黒装束では血の跡が分からない。桐生の白とは違って___
 「もしあのとき桐生が私を突き飛ばさなければ___」
 私も草薙の矢に貫かれていた。
 「あいつが私を救った___のか?」
 なぜ。
 いくら考えても答えには届かなかった。

 折れた木の上に座る草薙と地べたに座る珠洲丸。会話は一切ない。
 「おい女。」
 「珠洲丸だ。」
 「珠洲丸。」
 草薙は珠洲丸を呼びつけ、彼女も渋々彼の方を向いた。
 「唇をよこせ。」
 「はぁ?」
 「こい。」
 「やっ!んっ___」
 草薙は強引に珠洲丸の躰を引き寄せると自らの唇を押しつけた。その途端、彼女の躰が妙な脱力感に襲われる。重なり合った唇から自らの生気が吸われていくのが分かった。現に顔に残っていた草薙の傷が見る見るうちに消えていく。
 「はっ___」
 草薙が彼女の躰を支えるのをやめると珠洲丸は力無く汚れた地べたに倒れ込んだ。
 「いい味だ。それにおまえの血は面白い。」
 「同じじゃないか___」
 「む?」
 珠洲丸はゆっくり身を起こし草薙を睨み付けた。
 「これは桐生が人から精気を奪う方法と同じだ___!」
 「そうか?」
 「貴様はいったい何なんだ___!?八岐大蛇を倒した勇士ではないのか!」
 「くくく___さてなにかな?」
 草薙は珠洲丸の顎を強引に掴んだ。
 「知らぬが仏と言う言葉もあろう。」
 珠洲丸は彼の手を振り払い、敵意剥き出しの顔でいた。
 「その顔は良い。奴に似ている。」
 彼は珠洲丸に背を向けて、樹海を歩き出す。
 「少し浮き世を楽しんでくる。そこでじっとしていろ。」
 そして幻想的な光の空間から、彼本来の居場所であろう闇の中へと消えていった。
 私はいったいどうすればいいんだ___
 草薙の気性は確かに正義の志士にはほど遠い感がある、だがそれだけでこの男の全てを見ることはできない。
 「蒼次郎___」
 急な孤独感に襲われ、珠洲丸は蒼次郎の写真を見たくなった。胸ポケットに入れた写真を取り出そうとする。
 「え?」
 手に妙な感触があった。変にざらついた凹凸だ。
 「!!」
 胸ポケットに入れていた写真は、真っ赤な血が染みついて醜く歪んでしまっていた。なぜこんな事に___ポケットに血染みはついていないのに。
 「あ___」
 その時、今までなかった記憶が彼女に痛ましい映像を見せた。草薙のあやかしにかかり、彼の意志のままに弓を奪ったときのあの映像だ。
 「こ、これ、あ、私___」
 突然のことに珠洲丸は錯乱する。だが確かに自分は受付の老人を切り裂き、多くの人に怪我を負わせた。意志ではなかったとはいえ紛れもない事実。
 「草薙は邪悪な男___」
 「っ!」
 草薙が消えた闇とは正反対の方向から、傷だらけの桐生がやってきた。
 「あなたはそれを知らなかったのよ。」
 「桐生___」
 「霊社に行きなさい珠洲丸。あなたに真実を受け止められる強さがあるのなら。」
 桐生はすぐにまた闇の中へと帰っていく。
 「私は草薙と決着をつける。」
 「待ってくれ桐生!」
 「月那と呼べと言ったはずよ。」
 そしてすぐに珠洲丸の届かない世界へ消えてしまった。
 「霊社か___」
 今は草薙よりも___桐生いや月那の方が信じられる。

 長い長い年月よ___
 私はいつまで生きねばならぬ___
 多くの友よ、愛しき主よ___
 憎き男を地獄へ連れて___
 私もすぐに参ります___
 全ての裁きはその時に___

 牙山の頂上には塚がある。塚の向こうには巨大な断層によって生じた谷があり、かつて大蛇はそこにいた。大蛇はそこで捧げられた贄たちを見ていた。彼女たちは人の世より捨てられた、悲しき烙印を押されたものたち。
 「やはりここにいたか。」
 「きたか___」
 その塚の裏手の断層で、月那と草薙は向かい合っていた。今まで射し込んでいた月明かりが雲に隠れる。すぐに冷たい滴が落ちてきた。
 「そろそろ決着をつけようではないか、月那。」
 「決着?そんなものはとうにつけられないと分かっているだろう。私たちの手で雌雄を決したところで、大蛇の魂は半分から一つになろうとするだけだ。」
 「それでいいではないか。私が勝って大蛇を完全なものとする。それで決着だ。」
 そんなことはさせない、そのために長い間粘りに粘り続けたんだ。いつか我々を葬ってくれる第三者が現れる。そう信じて。
 「石川はいないぞ。」
 「だから___」
 「こういうことだ。」
 草薙の全身が黒い霧に包まれる。霧の中で草薙の姿がどんどん大きくなっていく。闇の中に闇の触手が伸びていく。その触手の先には銀色の宝石が二つ。
 「黒大蛇___草薙。」
 霧が弾け飛ぶ。そして草薙は巨大な四つ首の大蛇になっていた。その色は黒。
 「この姿では戦えない___」
 月那の全身が白い霧に包まれる。霧の中で月那の姿がどんどん大きくなっていく。闇の中に光の触手が伸びていく。その触手の先には赤色の宝石が二つ。
 「白大蛇___月那。」
 霧が弾け飛ぶ。そして月那は巨大な四つ首の大蛇になっていた。その色は白。
 大蛇の命を持つものたちは、戦う宿命にある。
 黒は白を奪うことを欲し、
 白は黒を恨み続けた。

 巨大な体を持つもの同士の戦いは熾烈だった。狭い断層で向かい合う大蛇には小細工などない、まさに力と力のぶつかり合いだ。だが言い換えればそれは手負いの月那の不利を意味する。
 「ぐううっ!!」
 四つの首がそれぞれに戦う様は不気味だが壮絶だ。しかし終始優勢なのは草薙で、今もまた白大蛇の首に深々とその牙を突き立てていた。
 「どうした月那、貴様はこんなに弱かったか?」
 黒大蛇の牙が食らいついたままの状態で毒液を放つ。
 「うあああっ!」
 傷口から白い蒸気がわき上がり、大蛇の肉が内側から溶けていく。たまらず月那は残り三つの首で、食らいつく黒大蛇に襲いかかった。
 「ほう。」
 赤い血だけではない、緑色の体液が舞う。三つの白は黒大蛇の首を一本食いちぎった。しかし草薙の優位に変わりはない。三つの首が広がらずにまとまった今は絶好機だった。
 天から降る雨だけではない、毒液の雨が月那を襲う。
 「うあああっ!!」
 毒は躰を焼いて新たな傷を生むだけではなく、既にある傷をさらに掘り下げ、尋常でない痛みをもたらす。雨の滴に紛れることで威力を弱めることはなく、むしろ全身に行き渡り驚異的な破壊力を発揮した。だがそれだけでは終わらない。草薙はさらに追い打ちをかけ、無防備になっていた残りの三本の首に一気に食らいついたのだ。
 「く、くううっ!!」
 月那は喘ぎと共にその姿を変えていく。白い霧が彼女を包み込んだのを見て、草薙も黒い霧に身を包んだ。
 二人の躰が人に戻った。
 月那は雨で濡れた大地に俯せで倒れ、草薙はそれを見下ろしていた。彼の左腕はちぎれて側に落ちていたが、そんなものは大したことではないと言う顔だった。
 月那は___全身を赤と緑で染めていた。躰に欠けている部分はないが、その手足には食いつかれた傷跡があり、中でも右腕の傷口は肉が溶けて骨が露出していた。
 「あうっ!」
 草薙は月那の背中に足を乗せ、強く踏みつける。動けない彼女の顔をよく見ようと、足蹴にして仰向けにさせる。
 「素敵だ___おまえには雨がよく似合う。」
 その草薙の言葉には反吐が出る思いだった。だがこれで終わればまだましだった。
 「う___」
 草薙の舌が長く伸びてくる。細く長く、そして巧みに動く舌は蛇のそれと同じだった。彼の舌が首筋を這い、寒気を感じた月那は呻いた。
 「んん___!」
 彼が躰を重ねてくる。強引な接吻。ただ目を閉じて終わるのを待つ。だが奴の舌は桐生の口内に割って入り込み、喉を潜り抜け食道、胃まで下っていった。胃を内側から嘗め回される嫌悪感に、桐生は満足に動かない手足を必死にばたつかせた。
 「うはっ___はう___ごほっごほっ!」
 「くくく。」
 舌を抜き去った草薙は、蒸せ返っている桐生を見て満足げな笑顔でいた。
 「美しい、容姿も、その気性も。おまえは昔から変わらない。」
 「___貴様も変わりはしない、どうしようもない独占欲と、利己主義の塊、刃向かうものは全て切り捨て、欲しいものは全て手に入れる___!」
 草薙の舌が月那の体中を嘗め回す。白装束の下にまで入り込み、赤と緑の汁を削ぎ取っていく。
 「生まれながら私は神になる素養を持っていた。大蛇の力はその一環にすぎない___そんなものよりも私はおまえを手に入れたいのだ!」
 「そんな___そんなくだらない理由のために、どれだけの人が苦しんだというの!どれだけ無駄な時間を生きたというの!」
 「それも我に捧げた命と思えば良かろう。現に貴様も生きるために贄を取ったではないか。」
 剥き出しになった右腕の骨、それまでも草薙は嘗め回す。こんな負傷をして死なない自分の躰が憎らしい。月那は生きてこの屈辱に耐えねばならないのだ。人なのに、大蛇になれば人でないような緑の体液を放つ躰で。
 「おまえが私を受け入れればすむことなのだ。」
 「厭だ!」
 「桐生でなければか?」
 「貴様___!」
 月那は憎しみを力に変え、拳を振り上げる。しかしただでさえ草薙の躰を上にしているこの体勢、腕は簡単に彼に押さえつけられてしまった。
 「昔が懐かしかろう?あれはもう幾年昔のことであろうな___」
 血と雨の滴が混ざり込み、白から薄紅色に変わった装束が解かれていく。
 「昔を思いだしてみるが良い。」
 徐に、彼は言った。雨音で声が消されぬように、だが決して大きい声ではない。
 もう___その名で彼女を呼べるのは、この世で草薙しかいない。それを誇るかのように彼は彼女の耳元で言ってみせた。

 「櫛名田姫よ。」




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