其の十 幕
「ここは___」
暫くぶりに霊社に戻り、珠洲丸は見たこともない部屋の入り口を見つけた。それはとある部屋の壁にぽっかりと口を開けていた。決して掛け軸で入り口を隠していたわけではないし、珠洲丸が入り口のある部屋に出入りしたことがないわけでもない。
あったのに気が付かなかっただけなのだ。
「___」
入り口の前の床に白い蛇が転がっていた。今にも息絶えそうで、時折思い出したように震える以外は全く動かなかった。つまりこの部屋は、月那のあやかしによって守られていたのである。
「ここは___」
ためらうことなく中へと入り、蝋燭で室内を照らしてみる。そこには小さな机と椅子、それから書物の詰まった棚が一つあるだけだった。珠洲丸は棚へと近づき、内容を照らしてみる。
「石川元禄(いしかわげんろく)___」
本と呼べるほどしっかりしたものではないが、そこにあった書類の束、その背表紙には全て石川元禄の名が記されていた。それは珠洲丸の父の名である。
「ここは父さんの隠し部屋___でもだったら何でそれを桐生の白蛇が___?」
疑問を胸に抱きながら珠洲丸は束を一つ取り出してみる。その時ひらりと何かが床へ落ちた。
「?」
拾い上げてみればそれはセピア色の写真。
「こ、これって___」
古びたその写真は珠洲丸を絶句させた。
戦場に冷たい雨が降りしきる___
___雨は姫の躰を濡らす
___久しく忘れたその名を聞いて
___過去の思いがめくるめく
___悲しき滴をうち消すために
___雨は、姫の躰を濡らす
冷たい雨と、櫛名田姫の名に、郷愁的になった月那は過去を思い起こしていた。
その昔、まだ八尾町のあるこの土地が辰巳の国と呼ばれていた頃のこと___
全てを超越した力と、崇高なる英知で人を下に見る怪物がいた。
名を八岐大蛇。この国の守り神でもある。
人々は大蛇を崇拝はしていても、恐れてはいなかった。大蛇塚に、収穫した作物と国自慢の清酒を捧げ、毎年彼のために祭りを開いて楽しませていた。
「今年も米が食えるのは、大蛇様のおかげです。またどうか、雨を操り我々に実りを運んでくださいませ。」
人々のその心が大蛇に辰巳の国を守らせていた。
辰巳の国には評判の美女がいた。名を月那。国でも有数の貴族の娘で、高貴で貞淑、それでいて誰にでも優しく、天真爛漫な心を持つ。彼女を知る者は親しみと尊敬の意を込めて、古代伝承に現れる美しい姫君「櫛名田姫」の名で呼んだ。国の男達は月那に憧れ、何人もの男が彼女に交際を持ちかけた。だが彼女の答えはいつも決まってお断りだった。それもそのはず、彼女には思う人がいたのだから。
彼の名は桐生。月那の幼なじみで、自由奔放。地位と名誉は持たないが、活発で強い心を持つ素敵な青年だった。
二人は誰から見ても仲睦ましく、月那も桐生の飾らない態度が大好きだった。だから二人は憚ることなく恋人同士でいたのである。しかし月那の両親はそれを快く思わなかった。月那は貴族の令嬢、桐生はしがない平民の息子である。手塩にかけて育てた娘を薄汚れた平民の家へ嫁がせるなど、絶対に許しはしなかった。彼女の父は桐生の父に大量の財を与え、それを手切れ金として娘に金輪際近づかないことを要求した。金は命の源なり、桐生は怒りと悔しさに打ち震えたが、父は金を傍らに彼の交際を堅く禁じた。
暫くして事実を知った月那は両親の前で涙して、彼との交際を許してくれるよう懇願したという。だが思いは通じず、彼女は夜が来るたび彼を思って啜り泣いていた。両親も彼女の涙は辛かった、しかしどうしても交際を認められない決定的な理由がもう一つあったのだ。
「貴様の娘、月那を我が后に迎えたい。」
若き君主、草薙皇子からの結婚の申し込みである。
草薙皇子は辰巳の国の君主となって間もなかった。先代の君主に世継ぎがなく、隣国より招かれた新君主である。不思議な言動が多く、まだ民の信頼は厚いとは言えないが、その品格と、言葉では言い表せない独特のカリスマ性でその地位を確固たるものとしていた。
「大蛇塚の祭りは行わない。」
数々の祭りの開催をやめ、極力民が多くのものを得るという策は現実的。信心深いものたちの反感を買いはしたが、政策としては当たりだった。だが一方で、彼は月那の心を手に入れられぬ煩わしさに日々頭を悩ませていたという。
「厭です。」
月那は頑なだった。
「なぜだ!一国の皇子が后に迎えてくれると言うのだぞ!」
「あの方には何の魅力も感じませぬ。むしろ恐ろしい___」
「月那!」
「父上は家の繁栄ばかりを見て___私の幸せを思ってはくれないのですか!」
貴族屋敷で毎日のように起こる口論はいつしか民衆の間で語りぐさとなった。若き君主が麗しの姫君を射止めるかどうか、皆はおもしろおかしく語り合っていた。しかしそれも夏までのこと。
日照りが続き、国を過去に類を見ない飢饉が襲う。あるものは言った。
「大蛇塚の祭りを断ったからじゃ___大蛇様が怒っておるのじゃ___」
大蛇は雨を呼び、地に恵みをもたらす。それが辰巳の国の言い伝えだった。その声はいつしか国中に広まり、祭りを断った草薙皇子に対する反感の声は強まった。
その時皇子は群がる民を見据えて言ったという。
「この者たちは、我を疑い大蛇を信じるというのか___?この国を統べるは我ぞ!」
飢饉の原因は大蛇の怒りだと声を大にして言っていたものたちが、相次いで神隠しにあった。皇子の仕業に違いない。噂が噂を呼び、大蛇を信じる国の民は強攻策へと出た。
「きゃ、い、いやぁぁぁっ!」
皇子の身辺の女中が相次いで拉致された。人々は大蛇の怒りを静めるために、作物よりも酒よりもずっと美味なるものを与えねばと思った。それは生け贄である。一人、また一人、大蛇塚に娘が捧げられた。
「月那!」
ある日のこと、桐生が夜を忍んで月那の元を訪れた。
「き、桐生___どうしてここへ?見つかったらなにをされるか分からないわ!」
「君を迎えに来たんだ。町の奴等が言っていた、次の贄は草薙の大事なあの女、櫛名田姫にしようって!」
旅の用意もせず、月那は白装束と草履だけで桐生に連れられ屋敷を抜け出した。すぐに空腹で苛立ちの消えない民が、屋敷へと押し寄せた。月那を探して屋敷を荒らし回り、父と母を無惨にも斬り殺す。月那がいないと分かると民は蓄えられた食料を強奪し、屋敷には火を放つ。破壊童子と化した民は勝利を叫んだ。
ただそれは一時の美酒である。武装した草薙皇子の私兵が民の首を次から次へと切り落とす。皇子はその先頭に立ち、百の首を拵えたと言われていた。
「大蛇よ、これが私の心だ!とくと受け取れ!」
大蛇塚が首塚に変わる。作物、清酒、娘、それらを捧げた祭壇を覆い隠すほど、飢えた民の首が積み上げられた。人々は草薙の恐ろしさを知り、逆らうことをやめた。暫くして辰巳の国に雨が降る。草薙皇子はそれを自らの力だと、強く民に言い聞かせていた。
だが事はそれで終わりはしない。草薙は月那を諦めてはいなかったのだ。
月那の屋敷が焼き討ちにあったあの日、桐生が消えたことはすぐに草薙皇子の耳に届いた。彼は前々から月那と桐生の関係を耳にして、酷く妬ましく思っていたのだ。まずは桐生の両親が悲劇を見る。父の首を右に、母の首を左に持ち、草薙は叫んだ。
「我が后となるものを奪い去った強盗、桐生の首を取ったものに巨万の富を与える!」
国を挙げての桐生探しが始まった。ひっそりと身を隠していた桐生と月那だが、結局は信じていた男の裏切りにあう。
「桐生!桐生ぅっ!」
悲痛の叫びを上げる月那。彼女の目の前で彼は地に押さえつけられ、男は斧を振り上げていた。
返り血は彼女にまで弾け飛んだ。
「私を___大蛇塚に捧げてください___」
全てを失った彼女は生きることを拒んだ。桐生を殺した男達にとっては彼の首があれば十分なわけで、半ば同情するようにして彼らは月那を大蛇塚へと運んでやった。
そして彼女は贄となったのである。
月那は大蛇の存在など信じてはいなかった。だが今だけは、大蛇に自分の躰を食いちぎって欲しかった。桐生と同じ場所へと運んで欲しかった。願いは現実のものとなる。
「___」
塚全体に影を落とす雄壮な姿。力に満ち足りた八つの首で大蛇は月那を見下ろした。月那は無言で、覚悟を決めて目を閉じる。
『妙な___』
大蛇の声は重く、腹の奥底に折り重なって響き渡った。
『貴様は我に喰われることを望んでいるのか___?』
全てに絶望した瞳で、月那は大蛇を眺めた。大蛇の赤い瞳と目があっても身じろぎ一つしなかった。
『来い___醜い人の世に耐える力を持たぬものよ。』
大蛇は月那を塚裏の断層へと導いた。そこでは贄に出された女達が大蛇の帰りを待っていた。多少数は合わないが。
『名は何という___』
「月那。」
八つの首に囲まれるように睨まれながら、月那は答えた。
『良い名だ。』
月那は断層へと下ろされたが、喰われることなどなかった。
「なぜ!なぜ私を喰ってはくれないの!?」
『慾の無いものを喰うても美味くはないからだ。』
それから、月那と大蛇の生活が始まった。
八岐大蛇は贄との戯れをとても楽しんでいるようだった。彼の昔話は彼女たちに天の幻想と地獄の業火を教えてくれる。そのお礼に贄は大蛇に生気を与えた。大蛇の中に微睡んでいると、世で見た絶望が癒される。いつしか大蛇は、月那にとってかけがえのない存在になっていた。
「殺せ。」
首を持ってきた男達もまた首を飛ばされる。月那が得られなかったことに草薙は苛立ち、手にした桐生の首を壁へと投げつけた。壁にぶつかった首が砕けてしまうほど、その腕には力が込められていた。
『夜叉が来る___』
「夜叉?」
『草薙と呼ばれている男だ。』
「!」
『かつて夜叉と呼ばれる怪奇がいた。夜叉はその悪しき波紋にて世を包み、人々に忌まわしき心を植え、世に災いを巻き起こす。奴はまさに夜叉の生まれ変わりだ。』
大蛇がその八首を高らかと持ち上げる。
『夜叉というのは人の魂を喰って力を得る___もはや彼奴は千を越える人を殺し、その魂を喰らった。そして奴はおまえを求めている。』
「なぜ___なぜ草薙は私を求めるので御座いましょう___」
大蛇はその大きな口を真一文字に結び、月那の前へと首の一つを傾ける。
『夜叉は血を紡ぐために汚れ無き心を持つ乙女を望む。夜叉の種は母の純真なる心を喰わねば大きくならぬのだ。奴が欲しいのはおまえであり、おまえの胎であり、おまえの純真なる心なのだ。』
月那は震えた。
「主様(ぬしさま)___」
『案ずるな月那、我はうぬらの主ぞ。たかが夜叉如き下賤者にこの園を汚させはせぬ。』
月那だけではない、全ての贄が大蛇の身を案じていた。大蛇にはもはや生きながらえるだけの力しか残ってはいないのだ。その牙で食らいつくことはできたとしても、雲を呼ぶことなどできはしない。月那たち贄は彼に必死で力を与えた。しかし崇高なる神妖の命を満たすにはあまりに力が足りなさすぎた。
『おまえを渡しはせぬよ___』
「主様___」
こらえきれずに月那は言った。他の贄たちも思いは同じだ。
「接吻を。」
大蛇が優しい笑顔になる。竜を思わせる無骨な顔には似合わないが、月那たちはその顔が大好きだった。
『うむ。』
大蛇は贄の数だけ首を傾け、それぞれと口づけを交わす。月那はできる限り大蛇に力を与えた。大蛇は彼女の頬を伝う涙に呟いた。
『良い子だ。』
優しい紅の瞳を見たのは、それが最後だった。
「八岐大蛇よ!我が名は草薙!貴様に献上された贄、月那を取り戻すがため参った!」
『夜叉よ___月那はうぬの元に参りたくないと言っておる。引き取られよ。』
「夜叉だと!?この私が?戯けたことを!」
『愚かな___自らが怪奇であることすら知らぬか___』
草薙と大蛇の戦いはまさに虚々実々。だがなにより驚いたのは草薙が大蛇と互角に戦えていることだ。奴は宙に浮いたり、矢を放って大蛇の目に突き刺したりしていた。草薙の力は国の全ての魂に匹敵するものだったのだ。周囲の山々を砕き、戦いは一昼夜に及ぶ。だが結末はあっけないものだった。
『ぬっ!』
激しい戦いで断層の谷が崩れ始めたのだ。贄たちが危ない、大蛇は断層へと舞い戻る。
「なるほど、月那はそこか!」
崩れ落ちる岩盤、大蛇はいち早く贄を守る盾となり、巨大な岩をいくつもその身に受けた。だが既に五つの首を矢で射抜かれた今、守りきれたのは月那だけだった。
「主様!」
『無事でなによりだ___』
断層の上、崖の切れ目に草薙が立っていた。彼が両手で掲げているのは白銀に輝く巨大な刀。戦いの中で折れた、八岐大蛇の牙だった。
「ずあああああっ!!」
草薙は地を蹴って、谷底へと飛び降りた。
「主様、上!!」
月那が悲痛の叫びを上げるのと、残った三つの首が切断されるのは同時だった。首は彼女の躰を避けるように転げ落ち、月那は断面より吹き出す緑色の体液を浴びて呆然としていた。
「素晴らしい切れ味の牙だ。全く恐れ入る。くくくっはっはっはっ!」
草薙は満足げに笑った。大蛇の躰が倒れる。自分に向かって倒れてくるのに月那は避けようともしない。
「なっ!」
草薙は慌てた。しかし大蛇の躰は月那をことごとく避けて倒れ、彼女を押しつぶすことはなかった。
「主様___」
月那は脱力した様子で、近くに転がる大蛇の顔へと歩いた。その大きな顔に触れ、身を埋め、啜り泣いた。しかし突如何かを思いだして草薙に目を向けた。
夜叉は魂を吸う。悪い予感は当たっていた。
「ぬう、な、なんだこの力は!まさか大蛇を倒したこの私に、奴の力が受け継がれたというのか!?」
草薙は浮かれた顔で体中に沸き上がる力に興奮している。すぐさま彼の体中から黒い霧が吹き出し始めた。
「おおっ!おおおっ!」
霧の中で声がする。そしてどす黒い四つの首がうごめくのが月那にもはっきりと見えた。
「そんな___!」
月那は嘆いた。なぜこんな事になってしまうのだと。救いを求めた。私の主様に。
『月那、おまえは我を愛しすぎた___おまえの我を思う心が我が魂を半解させたのだ。』
月那の躰を白い霧が包み込む。霧の中で大蛇の息吹を感じ、彼女は四つ首の白大蛇に。
白と黒。その心の色で明暗を分け、大蛇の力は二人の者に引き継がれた。
白大蛇の月那、黒大蛇の草薙。
二人の戦いはこの時より始まったのだ。
雨が止んだ。
夜明け前の冷たい風が、断層の谷を駆け抜ける。
「今思えば、貴様が大蛇の力を得て良かった。」
毒気に満ちた躰を露呈して、草薙は月那の上で呟いた。
「なぜだ。」
月那は問う。朧気に輝く白い肌、背中は土にまみれ、自慢の髪も汚れきっていた。
「我らの子に完全なる大蛇の力を授けることができるからだ。」
もはや逃げる力もない。月那は唇を噛みしめ、ただ貪られるがまま、苦痛と屈辱に耐えることにした。
夜明けか___
断層の上、崖の突端に微かな光が当たり始めている。
主様___申し訳御座いません。仇は討てませんでした。
桐生___ごめんなさい。私があなたのために全てを捨てれば良かったのに。
元禄___許して。私は珠洲丸をも不幸にしてしまった。
珠洲丸___
珠洲丸___?
崖の突端に影が生じる。
「___月那。」
そこに立っていたのは珠洲丸だった。
「___草薙。」
彼女は谷底を一瞥し、力強く短刀を掲げる。
「大蛇よ___我に眠る大蛇の力よ___今こそ、その牙の一太刀を!」
ダッ___
珠洲丸は躊躇無く崖を蹴った。底まで百メートルはあろうかという崖からその身を投げ出した。頭を下にして、そのさらに下へと剣を突きだして、真っ逆様に落ちていく。
「月那___くくく、おまえはもう俺だけのものだ___!」
草薙は月那を貪ることに夢中になって全く気が付いていない。
絶望を___あの男に思い知らせてやらなければ!
「草薙ぃぃぃっ!!」
だから珠洲丸はその名を叫んだ。
草薙は驚きの眼で半身を起こして空を見上げ、目前に迫っていた白銀に絶句した。その刃を握る珠洲丸が白銀の大蛇に見えた瞬間、彼は初めて絶望を知る。
ザンッ!!
骨の砕ける音。だがそれは珠洲丸の骨だ。百メートルの高さから落ちて無事でいられるはずがない。では草薙はどうしたか?
「___そうか___貴様も______大蛇___か_______」
無駄なあがきをするつもりだったのだろう。立ち上がっていた草薙の躰、脊柱線に沿って亀裂が走る。すぐにそこから人とは違う赤黒い血が噴き出し、彼の躰は左右に倒れた。東西に伸びる断層には、底まで日射しが伸びてくる。清らかな光を浴びた途端、草薙の骸は崩れ始め、すぐに灰に変わって風と共に消え去った。
「勝った___うっ、ごほっ!」
彼の骸が消えるのを見届けると、漸く珠洲丸に笑みがこぼれた。しかしすぐに咳き込んで鮮やかな血の塊を吐き捨てる。あの高さから落ちて命があるとは普通ならば信じ難いが、今の珠洲丸にはさして不思議ではなかった。それよりも手足の骨が砕けて月那のところへ行けないのが口惜しい。
「お行き。」
「?」
仰向けに倒れた体を起こすことができない珠洲丸は、月那の声を聞いてせめて首だけをそちらに傾けた。なんと数匹の白蛇が珠洲丸の方へと寄ってくる。
「あっ___」
そして彼女の躰の下へと潜り込むと、荷台の役割をして、重そうに月那の横までその躰を運んだ。
「珠洲丸___よくあの男を滅してくれた___」
月那は朝の淡い光の中で、珠洲丸に語りかけた。
「御免なさい___倒さなければいけないのは草薙だったんだ___なのに私はあなたの命ばかり狙っていた。」
「それは私がそう導いたまでのこと。あなたが悔やむことではないわ。」
「でも!真実を知った今思うと___いくら後悔してもしきれない!あたしがもっと強ければ___つ、月那なにを!」
月那の言葉に応えていた珠洲丸は、彼女が無理に躰を起こそうとしているのを見て焦った。
「その躰では動けないでしょう。」
月那は無理に躰を捻り、珠洲丸の上へ裸を被せた。まだ彼女の躰は暖かい、珠洲丸はその温もりに少しホッとした。
「御免なさい珠洲丸___辛かったでしょう?」
「___そんなことない。」
二人の顔が本当に、くっつくぐらい近づいていた。
「ん___」
月那が珠洲丸に唇を重ねる。
大蛇が生気を得る術、得ることができるのならその逆も可能___
珠洲丸は必死で生気を押し戻そうとするがそれは叶わない。自らの躰が癒されていくのと、月那から温もりが失せていくのが同時に分かる。
「やめて!じゃないとあなたが___!」
腕が動くようになり、月那の躰を珠洲丸が持ち上げたことで長い接吻は終わった。月那は自らの身を案じてくれる珠洲丸に微笑みで答えた。主がそうしてくれたあのときと同じように。
「良いの、良いのよ珠洲丸。私は長く生きすぎたのですもの___」
力無い微笑み。開ききれない瞼。
「いやだ!いかないで!」
珠洲丸は彼女の躰をぎゅっと抱きしめる。命をそこにとどめておきたい一心で。
「愛しい人があなたを待っている___あなたはせめて___」
耳元の囁き声すら遠くなっていく。
「幸せに___」
そして全てが止まった。
霊社にあった書類の束には月那の真相が事細かに記されていた。そして月那と石川元禄の間に生まれた感情についても。
父がなぜ死んだか___そう、夜叉と相まみえて死んだのだ。
草薙は___夜叉だ。
草薙が串刺しになったのは今から何年前か___十五年前。
私の年はいくつか___十六。
点が線で結ばれる。私だって月那のことを分かっていれば、彼女の力になり、草薙を倒そうと思ったさ___父のように。
そう、
私の幼少の頃の曖昧な記憶も、霊社を訪れた虚無僧も、全ては月那のあやかしだった。この白銀の短刀だって、月那が自らの牙で作った武器。霊社にポンとおいてあったわけではない。つまり___いつも見守っていてくれたのは月那だったのだ。
父が死んだのは十五年前のこと。
桐生のために、父は草薙と共に土砂崩れに自らの躰を投げ出し、折れた木の剣山へ奴の躰を突き立てたのだ。自分の命を省みず。ただ草薙がそれでも死ななかっただけ。
だから月那は考えたんだ___娘の力を借りようと。
でも、十六の娘はまだ弱かった。草薙と戦うには、経験を積み、力を付ける必要があった。
セピア色の写真の中で、私たちは幸せそうに笑っていた。
私の尊敬する父と、まだ言葉も話せない小さな私。
そして誰にでも自慢できるような美しい母。
「さようなら、母さん___」
時は流れ、今は私が彼女を抱きしめていた。
そして母は写真の中も、今も、変わらない笑顔だった。
(完)
(C)丸太坊 (1999執筆、2005加筆)
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