其の八       黒

 「よう、また来たのか。」
 「こんにちわ。」
 珠洲丸は八尾神社の資料館へとやってきた。桐生を倒すことに直接関わるかは疑問だが、草薙の弓を見たときにいつも何かを閃きそうになる。それが気になって仕方がなかったのだ。
 「ん?足を怪我したのかい?」
 「ええ。」
 靴を脱いだ彼女の素足が包帯で巻かれているのを見て、受付の老人は尋ねたが、珠洲丸の返事は素っ気なかった。他のものには目もくれず弓の前へと急いだ。
 バシッ!
 「うっ!」
 突然頭痛が走った。閃光のような、一瞬だが白い輝きが脳を劈いたようだった。
 「なんなのさ___」
 今までは弓の前に行って、じっと見たときに何か光が走る感覚があった。だが今日は、視界に弓が入っただけでこれだった。
 「私にとって、この棒きれがいったいなんだって言うんだ___」
 何かあやふやなことがある。何か大切なことを忘れているのだ。それをここに来るたびに思い出しそうになるのに、思い出せない。
 「私はいったいなにを忘れているんだ___」
 忘れていたこと___何だろう?今までどんな出来事があっただろう。
 珠洲丸はガラスの向こうにある弓を睨み付け、腕組みして悩んでいた。これを思い出すのとそうでないのとでは雲泥の差がある。それくらい大事なことだと思うのだが___
 「思い出せ___思い出さないと蒼次郎が___」
 蒼次郎が___何か手を打たなければ蒼次郎がまた___
 「無惨___」
 その言葉を頭に浮かべたとき、なぜか不意に声に出た。
 「無惨___」
 蒼次郎が扉に磔にされ、息絶えている幻。
 「磔___」
 その姿と何かが一致する。
 「無惨にも息絶えた男___」
 そう、それだ。
 「本来あるべきでない場所で___私はそれを二度見ている___」
 一度目は蒼次郎___いや違う、それは二度目だ。
 その瞬間、封じられた記憶が彼女に舞い戻る。つぶらな瞳を見開いて、草薙の弓を見据えた。
 「思い出した___」
 それはあのとき、白蛇と戦い雌雄を決しようとしたまさにその時、樹海の中であるはずがないものを見たではないか。
 「串刺しになっている男の死体だ___」

 珠洲丸は樹海へと向かった。あの死体がなんなのかは全く見当も付かないが、桐生にとって都合の悪いものに違いない。あれほど印象的で、衝撃的なものを忘れてしまった理由、それはたった一つしかなかった。
 「桐生に忘れさせられたんだ___」
 奴のあやかしによって。
 「白蛇との戦いで意識を失ったときだ___その時にあやかしを施された。」
 そしてあの骸が桐生にとって触れられて困るものだとしたら、あそこに白蛇がいたのも納得がいく。しかしそこまでしてなぜ骸への接近を拒むのだろうか?骸は骸、何の力も持たないだろうに。
 「たどり着ければいいが___」
 樹海の端に立ち、彼女は呟いた。何とかかつて自分が残した気配を辿り、同じ場所へ。短刀の感触と、ポケットに眠る写真を確かめ、彼女は樹海へ踏み込んだ。
 「あ。」
 暫く進み、確かな手応えを得る。
 「間違いない。」
 以前より腐敗の進んだ犬の骸をやり過ごし、彼女は先へと足を速めた。白蛇の骸は恐らく残ってはいない。白い霧となって消え失せているはずだ。となると後はかつての記憶と匂いが頼りだった。
 「これは___有り難い。」
 半信半疑に進んでいた珠洲丸は思わず笑顔になる。大部深みへと入ったところで、突然木々が何本も折れ、うち倒されている場所に出た。そこは彼女と白蛇の戦場跡である。
 「近いな___」
 まだ何か障害があるかもしれない。珠洲丸は気を引き締めなおし、慎重に進んだ。それが杞憂に終わったのはそれから一時間ほどたってからだった。

 「見つけた。」
 以前偶然見たものが、今度はこんなにも簡単に見つかってしまう。どこか理不尽な部分を感じながら、珠洲丸は走った。
 「やっぱりだ___串刺しになった男の骸___」
 間近で見るとさすがにゾッとする。倒れて折り重なる木々、その中でも一際鋭い木が、男の腹を貫いていた。男の躰は折れた木の根元あたりまで、深々と突き刺さっている。木の切片が男の躰より三メートルは高い位置にあるのだから、相当の勢いで突き刺さったことになる。
 「土砂崩れか___」
 男の背後はやけに急な斜面になっていた。恐らくここが大蛇塚こと牙山と、樹海の境目なのだろう。察するに、この急斜面の上にいた男が、突然の土砂崩れに巻き込まれ、堆積していたこの木々の上へと落下、無念にも木に腑を根こそぎ奪われたと___
 だがそれではただの事故だ。
 「そんな単純じゃないな___」
 あまりの不気味さ、不可能な状況に珠洲丸は冷や汗を感じていた。黒装束の男は顔を下にして突き刺さっているために俯いており、長い髪で顔が隠れている。
 男の後ろの斜面、ここが土砂崩れを起こしたのは間違いない。木々が堆積しているのはここだけではないし、斜面の途中では、根を空に向けて土に埋もれている木もあった。ただ、問題なのは土砂崩れが起こった時期。
 「斜面には既に新しい植生が育っている___」
 それは不思議ではないことだ。雨に解され肥沃になった土地に、木々が育たないわけがない。しかし今の斜面のように、それなりの草木が生い茂るにはどれくらいの年月がかかるだろう。
 十年?いや、二十年か___?
 勿論男は土砂崩れで息絶えたのではないかもしれない。この急斜面を登ろうとして足を滑らせ、転落して木に突き刺さったのかもしれない。だがそれにしても___
 「なぜこの骸は腐敗していないんだ___」
 足下には少量だが白骨の名残らしきものも転がっている。しかしこの骸には一切の腐敗の跡が見られない。確かに全身が蒼白で、血の通っている様子もないが、珠洲丸がこの骸を目に留めたのはもう十日ほど前のことだ。なのに骸は一切の崩れもない。それどころか、珠洲丸は強い力を感じていた。この骸が何かを発しているような気がした。そして確信する。
 「やはりこの骸___いやこの男は、桐生にとって何か不都合な存在なんだ___」
 と。
 「で、どうするか。」
 確信したはいいものの、それからのことまでは考えていなかった。とりあえず骸のことをよく調べてみようと思い、彼女は男の冷たい躰に手を触れた。その瞬間!
 「えっ!?」
 彼女の頭に直接声が響き渡った。耳から聞こえるのではない、意識に直接言葉が投げかけられた。
 「あ、あなたが___!」
 そしてその内容に、彼女は感激した。

 『我が名は草薙___勇敢なる退魔の意志を持つものよ、よくぞ我が元へ参った。』

 我が名は草薙。珠洲丸にとってこれほど希望を与えてくれる言葉はない。先程まで不気味で仕方なかった骸が無念の勇者の姿であると知った途端、神の使いに見えてしまうから不思議だ。
 「草薙よ、私に、私めに力をお貸しください!あの桐生月那を、八岐大蛇を倒覇する力を!」
 珠洲丸は草薙の骸に触れ、縋るように言った。答えはすぐ、彼女の意識に直接流れ込んできた。
 「分かりました!すぐに持って参ります!」
 そして活力に満ちた顔で頷き、草薙の骸に一礼をすると颯爽とその場から走り去っていった。
 骸から伝わった言葉はこうである。
 『我が弓を持て、さすればそなたの力になろう___』
 その言葉は彼女の意識に何度も何度も響き渡っていた。まるで暗示のように。

 「ようなんだよ、またきたのか?」
 もう日が沈む頃だ。資料館では受付の老人が丁度入り口を閉めようとしているところだった。
 「今日はもう閉館だ、明日来てくれよ。」
 しかし珠洲丸は彼の制止も無視して、土足のまま資料館へと入った。
 「お、おいおい!なにやってんだ姉ちゃん!」
 老人は慌てて珠洲丸の腕を掴み、引き戻そうとする。だが振り返った珠洲丸はためらいもなく白銀の刃を輝かせた。
 「あ___」
 短刀が彼女の腕を掴んでいた老人の胸板を切り裂いた。血飛沫が舞い、珠洲丸も返り血を受ける。
 「ぎゃぁぁぁぁっ!!」
 老人が悲鳴を上げて倒れた。資料館の入り口で身を縮こまらせてのたうつ。それでも珠洲丸は無表情のまま奥へと進んだ。彼女の瞳は無駄に黒い。
 「ど、どうしました!う、うわぁぁっ!」
 「これは大変だ!誰かすぐに救急車を!」
 悲鳴を聞きつけたものたちが本堂からやってくる。その騒然を後目に珠洲丸は弓の前へと辿り着いた。
 「お、おい見ろ、血痕が奥に続いてるぞ!」
 「犯人が中にいるのか!?」
 ガシャン!!
 ガラスの割れる音が入り口にも届く。片手に古びた弓矢を握りしめ、血みどろの女が入り口へ戻ってきたのはそれからすぐのことだった。
 「お、女!」
 駆けつけたものたちはそのおぞましい姿に恐怖した。
 そして園にいた桐生もまた。
 「珠洲丸___迂闊だった!」
 突然の事態に唇を噛みしめていた。
 「ぎゃぁぁっ!」
 「うわああっ!」
 悲鳴と鮮血が飛び交う。白銀の短刀は彼女の邪魔になるもの全てを食らいつくした。血塗れの女は走る。樹海へ向かって。その速さは尋常でなく、人らしからぬものだった。
 まるで何かが乗り移ったようだった___

 「なんて事だ___けが人の応急手当を急げ!済んだものから病院へ運ぶんだ!応援を要請しろ!」
 救急隊が駆けつけ、現場はさらに騒然となっていた。
 「はい見ないで!下がってください!」
 野次馬も押し寄せていた。その野次馬を離れたところから見ているのが他でもない、桐生だ。
 「面倒なことをしてくれる___」
 事態の急転に彼女の表情は深刻だった。その瞳を微かに赤く光らせると、彼女の掌から数本の白い糸が伸びた。よく見れば先端に小さな赤い点が二つ___白蛇だ。
 「お行き。」
 蛇たちは人だかりへと姿をくらましていく。それを見届けてから、彼女は立ち去った。向かう場所は珠洲丸と同じ、樹海だ。
 「で、この事件の犯人ってどんな奴なんだって?」
 「えっと、確か___あれ?どんな奴だっていってたかなぁ。」
 「ていうかぁ、何であの人たちあんな超痛そうなことになってるわけぇ?」
 「え〜、わかんなぁい。」
 あやかしの効果は上々。
 「お〜い、なにかあったの?」
 「あ、裕美久しぶり。聞いたよ〜、プチ家出してたらしいじゃん。」
 「う〜ん、それが良く覚えてないんだよね。」
 「え〜、なにそれ?」
 そう、全ては思い通りに進んでいたはずだった。

 日が暮れると樹海の中はそれこそ闇一色になる。足下は愚か、周囲すら良く分からない世界で、珠洲丸は一直線に草薙のところへと向かっていた。だがそれは彼女の意志なのだろうか?あまりに壮絶な速さで駆けたため足に巻いていた包帯が真っ赤に染まっているというのに、彼女は無表情のままで突き進んでいた。
 樹海の端から、草薙の骸の元へ辿り着くまでおよそ三十分。
 「___」
 驚異的な速さにも関わらず息の乱れもない。相変わらずの無言と無表情で、珠洲丸は草薙に弓矢を捧げた。武具が骸に触れた瞬間、その接点がすさまじい輝きを発した。
 「くっ!!」
 桐生は今樹海の端だった。突然頭を抱えて軽やかだった足を止める。
 「封が解かれた___」
 シャアアッ!闇を切って黒い影が彼女を襲う。
 「屑!」
 だが影は桐生に食らいつく間もなく、その躰を両断された。地面に転がったのは黒い蛇。それはすぐに黒い霧となって闇に消えた。

 「蘇ったぞ___月那。」
 骸が目を開けた。彼を中心に広がった目映い光は、そのまま苔のように周囲の木々に残存し、あたりを幻想的に照らした。そして彼の前で焦点の定まらない瞳をしている珠洲丸の返り血も、あらかた消し飛んでいた。
 「貴様の封術は解かれたのだ___」
 草薙を貫いていた木が轟音を上げて破裂する。空洞になっていた腹には、彼が手を輝かせると見る見るうちに肉が戻った。
 パチンッ!
 「はっ!」
 草薙が指をスナップすると珠洲丸の瞳に光が戻った。
 「あ、あれ?」
 彼女は自分が今なにをしているのかも理解していない。弓矢を取りに行かねばと思って駆けだしたところから空白だった。
 「ご苦労だった、娘よ。」
 「!」
 声を聞いて初めて、彼女は草薙が生きていることを知った。さっきまで木に串刺しになって息絶えていたはずの男が、今はもう自分の目の前で微笑している。彼が手に持つ弓と矢も、腐った棒きれから朱塗りの和弓と神木の破魔矢に蘇っていた。
 「草薙様___でらっしゃいますか?」
 「そうだ。」
 珠洲丸は胸を躍らせた。かつて大蛇を討伐したという勇士が今、目の前にいる。
 「貴様の名は?」
 「石川珠洲丸と申します!」
 「石川?___そうか、石川珠洲丸か。」
 彼はニヤリと唇を歪めた。その微笑みは決して心地よいものではなく、珠洲丸は少し震えた。
 草薙は背の高い男だ。そして細い。黒装束に身を包んでいるから余計なのかもしれないが、彼は細くて長く見える。首から上の肌は男にしては酷く色白で、美しい。切れ長な鋭い目と、妖しげな細い眉。鼻は高く、口の形も抜群だがどこか艶めかしい。絶世の美男であるが、自己陶酔の激しそうな顔だった。はっきりいって珠洲丸が好きになれる顔立ちの男ではないが、桐生を倒すにはこの男の力が必要なのだ。
 「草薙様、どうかお力添えを。私の力だけでは八岐大蛇を倒すことはできませぬ。」
 珠洲丸は草薙に懇願する、だが彼は返事一つせずに一点を見据えていた。それに気付いた珠洲丸もそちらに目を向ける。
 「桐生___」
 木々が立ち並ぶ中、草薙と桐生の対峙を遮るものはなかった。二人の間だけは真っ直ぐで、邪魔がなかった。今まで見たことがないほど険しい表情の桐生。額に汗を浮かべているのが珠洲丸にも見えた。そして思ったのだ___
 「勝てる。」
 と。
 「久方ぶりだな、桐生___月那よ。」
 「たかだか十五年ぶりだ。久しいと言うほどの年月ではない。」
 ___十五年。するとこの男はその間ずっと木に刺さったままでいたのか。となると、父はこの二人の存在を知っていたのかもしれない。
 珠洲丸は会話に入り込むことなどできない。だがおかげで考える余裕を得ていた。
 「手っ取り早く用件を言う。」
 「何だ?桐生___月那。」
 ___なぜだ?さっきから草薙は、やけに桐生という言葉を強調する。この男の癖なのだろうか。
 「その女は私の贄だ。返してくれ。」
 「ほう___そうなのか?」
 ___違う!絶対に違う!
 「首を横に振っているではないか。」
 「___照れているだけだ。」
 「はっはっはっ___!」
 ___何だろう、少しこの会話に妙なものを感じる。
 「駄目だな、この娘は優秀な退魔師だ。そしておまえを退治することを強く願っている、すなわち私の同士だ___」
 「くっ___」
 ___そうだ。桐生が上位でないのが妙なのだ。大蛇と勇士、あらゆる側面で大蛇が勝っているのではないのか?桐生はなぜこの男にあんなにも萎縮しているのだろう?
 「さあ桐生、我々の歴史は十五年前で止まっているぞ。いざ!戦の続きをしようではないか。」
 ___なぜこの男は、こんなにべたつく、嫌らしい喋り方をするのだろう?
 「珠洲丸!!」
 桐生の一喝が、珠洲丸を傍観者から当事者に引き戻した。
 「貴様、とんでもないことをしてくれたな___!」
 口惜しさを全面に滲ませた目で、桐生は珠洲丸を睨んだ。だが今の珠洲丸は強気だ。
 「ああ!貴様を倒すと誓ったからな!」
 「愚か者め___自らの無知を呪え!」
 その言葉の意味は分からなかったが、妙に珠洲丸の胸に焼き付いた。
 「戯言だ、行くぞ。武器を取れ。」
 「はい___!」
 珠洲丸は白銀の短刀を身構える。
 「ほう。」
 それを見て草薙は笑みを浮かべた。
 珠洲丸の視線の先で桐生が揺らめいている。長く麗しい黒髪が、ただならぬ波動で宙に広がり、波打っている。白い霧が彼女の躰を包み込むと、彼女の服は真っ白の装束に替わった。しかし八岐大蛇にはならない。
 「蛇にならんのか?桐生、月那よ。」
 「その必要はない___!」
 「贄の前では蛇になりたくないか。」
 「その口、二度と開かぬようにしてくれる!」
 草薙の優位で進む二人のやり取り。
 「だが、何かが違う___」
 浮かぶ疑念を胸の奥にしまいこみ、珠洲丸は桐生を睨み付けた。大蛇を倒すという誓い、蒼次郎に対する思い、それをぶつけなければいけないのは桐生だと自分に言い聞かせて。




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