其の七 涙
翌朝、床で毛布をかぶって寝ていた蒼次郎は、ベッドの上に珠洲丸がいないことに気が付いた。彼は落胆して溜息を付いたが、すぐに書き置きが残っていることに気が付いて真顔になる。
「珠洲丸さん___」
書き置きの内容は簡潔にまとめられていた。
「考える時間をください。私があなたの好意を受けようと決めたなら、あなたが帰るまでにそちらへ行きます。」
そのころ珠洲丸は市街地へと出ていた。
今まで月那のことばかり考えていた彼女に、それ以上の重みを占める問題が現れた。今の彼女は蒼次郎のことばかり考えている。
「___」
まだどの店のシャッターも閉じたまま。駅へ向かう人々を除けば、市街地にいるのは烏ばかり。珠洲丸はなにをするわけでもなく、ただ歩いているうちにここまでやってきたのだった。静かな場所を好む彼女がどうして市街地へやってきたか。理由は簡単、まかり間違っても桐生と遭遇しないであろう場所だからだ。
「町の烏の生き方を___山の烏も真似るのか?」
意味のないことを呟いて、つまらなそうに溜息を付いた。
「蒼次郎は山の烏。ゴミを漁って食い散らかすことは、烏にとって楽に生きる術。でも理想ではない。理想を忘れて現実ばかりを見ているのが都会の烏。私はどちらだろう?」
そんなことを考えて、珠洲丸は自嘲気味に小さく笑った。
「芸術家に触れて私も変わったかな?」
あまり見たことのない景色を見たい。そう思い、彼女は再び歩き出した。
蒼次郎に対し、思うところは数ある___
実感は今ひとつだが、自分も年頃の女だったということ___
自分に正直であれ___
そんな教えが霊社にあった。でも霊社にいたときから、桐生との渦中にある今の今まで自分は正直だったろうか。肯定的な答えを出すことは難しい。
いるかも分からない怪奇のために、父の意志だけを信じて修行に励み、人恋しさに気が狂いそうになりながら孤独に耐えた。それは正直か?
使命感で自らを鼓舞し、幻のような虚無僧の言葉に従い大蛇を討とうと身を尽くす。怪奇は退魔師の前に姿を見せても、多くの人を露骨に混乱させはしない。そんな相手と戦う意味を自分自身に無理強いする。それは正直か?
八岐大蛇は悪。桐生月那などと名乗り、人間界に身を潜めてはいるものの、幾人かのものがその牙にかかっている。それを討ちたいと思う気持ち。それは正直であろう。だがそのあまりにも絶対的な力量、経験の差を覆そうとする無謀な画策。それは正直か?
肯定的な答えを出すことは難しい。勇気がなければできないことだ。
私は人恋しい。父に抱きしめられたい。母の胸に身を埋めたい。気の合う友と語らいたい。明るい家庭を感じたい。だがそれは不可能だ。
正直であるために、これまでの全てを否定する。それは桐生月那の正体を知った自分にとって言い逃れにすぎない。桐生と向き合うことをやめるのは、逃亡であり、諦めである。
それは卑怯なことだ。卑怯なことは罪だ。許されることではない。
だが一方で、蒼次郎に対して正直であることは罪か?
「私、石川珠洲丸は___都筑蒼次郎の純真な心に惹かれ、恋心を抱いた。」
その言葉を発することは罪か?
「罪ではない、でも両立もできない。」
そうだろう。一方で自分に嘘を付くのなら、もう一方でも嘘を付かねばならない。正直な自分はあくまで正直で、局面だけ嘘つきなることはできない。それは逆もしかり。
人への憧れを掻き捨てて、桐生月那と戦う石川珠洲丸がいるのなら、都筑蒼次郎に淡い想いを抱く石川珠洲丸に嘘を付け。
愛の芽生えに促され、都筑蒼次郎と幸せを感じる石川珠洲丸がいるのなら、桐生月那の前から逃げ去りたいという石川珠洲丸よ正直になれ。
ただ___
都筑蒼次郎が許しても、桐生月那が許すかどうかは分からない。
___夕刻。
今日、蒼次郎は時計ばかりを気にしていた。何時何分が気になるわけではないのだが、時間の経過が遅い気がしてついつい時計に目をやってしまっていた。授業も仕事も、どこかそわそわしていつもの調子ではなかった。
「あんな事は言ったけど、やっぱり僕は珠洲丸さんに惚れたんだな。」
彼は正直な男だ。だから珠洲丸に抱いた恋心を認めるのも早かった。だが彼のポリシーとして、人に押しつけることはしない。それは彼が押しつけられることを嫌い、今こうして絵を学んでいるからだ。押しつけられ、自由を奪われる痛みはよく知っている。
「珠洲丸さんが僕を想ってくれなければ___仕方ないな。でもきっと落ち込むぞ、僕。」
仕事を終え、商店街を経て自宅へ向かう。先ほどリッキーの散歩のために一度自宅へ戻ったときは、まだ彼女はいなかった。今度はどうだろう。
「いてくれたらいいな___」
期待と不安を胸に、彼はいつもより狭い歩幅で自宅に向かって歩いていた。市街地のはずれのはずれ、並び立つ古風な家屋の間をすり抜けるように、日の当たらない路地へと入る。
「___」
胸が高鳴る。あの子は待っていてくれるだろうか。狭い路地の奥に、自宅の片鱗が見えると彼の足は早まった。
「うわっ!」
湿気を含んだ路地の土に足を取られ、転びそうになりながら彼は自宅の前へと飛び出した。
自宅前。扉にはいつも通り南京錠がぶら下がり、木造りの無骨な顔で主人を出迎える。素敵で凛々しい少女の顔ではなかった。
「はぁ___」
珠洲丸がいないと分かり、蒼次郎は深い溜息を付く。
「フフ___」
ただそれも一瞬のことだった。
「!?」
家の横手から微かな笑い声がして、蒼次郎はそちらを振り向いた。
「ごめん、少し意地悪だったね。」
横手から、ゆっくりと彼女が現れた。昨日と同じ服、でも昨日よりも明るい笑顔で、珠洲丸は蒼次郎の前へと現れた。
「もう暫くお邪魔してもいいかな?」
蒼次郎は呆気にとられて暫く呆然としていたが、すぐに満面の笑みを見せ___
「もちろん!!」
と言って何度も頷いた。
珠洲丸は正直になることを選んだ。退魔師ではなく、一人の乙女になることを望んだ。
桐生にはもう二度と会いたくない、そう思った。
それからというもの、毎日が楽しかった。幸せな同居生活だった。
「うわぁ、人に御飯作ってもらうのなんて何年ぶりだろう___!」
「味は自信ないけど___」
「いただきます!」
___
「ん、美味しいよこれ!」
「本当に?」
「うんホント、珠洲も食べてみなよ。」
仲むつましい男女の、ささやかだけど暖かい生活。珠洲丸はこんなのに憧れていた自分を実感した。男のような珠洲丸という名、彼には珠洲と呼んでもらうことを望んでいた。自分が一番嘘を付いていたこと、それは女であると言うことだったらしい。
「湯加減どう?」
「丁度良いよ___」
建物の裏手にあるドラム缶風呂。側には家と林の木に紐を渡した物干しがあり、タオルが何枚かかかっている。リッキーの小屋もここにあった。
「タオルはそこにかかってるの、綺麗なのをつかってよ。」
「ありがとう。」
蒼次郎は建物の横手で身を隠して、声だけを張り上げていた。こんな初々しさが今の二人にとってはたまらなく楽しかった。
「そこの引き出しから赤取ってくれる?」
「これ?」
「そう、ありがとう。」
珠洲丸は絵の具を渡すついでに、彼のキャンバスを覗き見た。彼女が着ていた服は洗濯中なので、今は彼が貸してくれたシャツとズボンでいる。
「素敵な絵だね。」
「そうでもないよ___」
彼がキャンバスに描いているのは空想画だった。自然をテーマにしているのだろうか?昼夜の狭間にある世界で、めくるめく動物たちの躍動を描いている。
「僕はね、絵の具は命の滴だと思うんだ。」
「どういうこと?」
「絵は生き物だと言うことさ。なにもないキャンバスの上に命の滴を落とすことで、キャンバスに生命が生まれる。様々な滴をキャンバスに落としていくと、命は広がって、とっても大きな生き物、つまり絵になっていくんだ。」
今まで黒ずんだ色で塗られていた部分に、赤を塗る。それだけで絵全体が装いを変えた。
「与える滴を少し変えただけで、全く違った生き物になる。絵ってそういうものなんだよ。何一つ同じものなんてない。それぞれに違った命があるんだ。」
蒼次郎が筆をキャンバスに運ぶたび、キャンバスの景色が変わる。それを見ていると珠洲丸にも彼の言っていることが良く理解できた。
「ただそれを生かすことができるかは画家次第。絵は、少しでも綻びや、食い違いがあっただけで命を落としてしまう。その生き物にあった滴を与えなければ、絵は死んでしまうかもしれないんだ。よく生き生きした絵って言うだろ?抽象的な言い方かもしれないけど、それって凄く大事なことだと思うんだ。」
珠洲丸は彼の絵に対する思い入れの深さを感じた。ただ自由に好きなことをやりたくて飛び出してきた?そんなに単純じゃない。
「画家って言うのは命を預かる仕事なんだ。だから中途半端な気持ちじゃいけないと思う。僕みたいな未熟者じゃまだ絵に命を与えることはできないけど、いつか必ず生きている絵を生み出そうって、そう思っているんだ。」
「格好いいね___」
「へ?」
珠洲丸は彼の後ろで、その背中を見守るように暖かな微笑みを浮かべていた。
「そ、そうかな___」
振り返ってその微笑みを目の当たりにし、蒼次郎は頬を赤くしてまたキャンバスに向き直る。
___素敵だよ、蒼次郎は。私みたいに諦めたりしない。
___未熟であることに負けたりしない。
同居生活五日目___日曜日。蒼次郎にとって数少ない休日である。
「ねえ珠洲___」
二人でリッキーの散歩をしている途中、少し改まって蒼次郎が言った。
「君の絵を描いてみたいんだけど。」
「私の___?」
「うん。」
断る理由などない、珠洲丸は快く受け入れた。
「どんな顔をすればいいの?」
家に戻って少し早い昼食をすましてから、蒼次郎は創作活動にかかった。珠洲丸は彼のシャツとズボンのままで、指示通りに壁際の丸椅子に腰を下ろす。
「自然な顔___う〜ん、珠洲にとって一番日常的な、疲れない表情をしてくれればいいよ。変に作らなくたって君は十分に美人だしね。」
「煽てないでよ。」
珠洲丸は少し照れて、どんな顔が自分にとって一番日常的か考えた。
「___普通の顔か。」
珠洲丸は特になにも考えず、自分が一番よくしているであろう顔つきになった。ただそれは、穏やかな少女の顔とは少し異なる。それを見た蒼次郎は少し驚いた顔をする。
(凄い___珠洲ってこんなに力のある顔をするんだ___)
口にはしなかったが、彼は珠洲丸の違った一面に興奮した。女性が女性的な顔をするのは当たり前だ。だが珠洲丸は違う。彼女にとって一番自然な顔は、凛々しさを全面に出したものだった。
「リラックスしてていいよ、辛くなったら動いてくれて構わないから。」
「ああ。」
これほど創作意欲をかき立てられたことは初めてだった。彼は微かに頬を紅潮させて、木炭を手に取った。
一つの姿勢、表情をとどめることは問題ではない。だが彼の強い眼差しを浴び続けることには少し戸惑いがあった。彼の瞳は強い情熱に溢れ、彼が絵に込める熱意を珠洲丸は初めて肌で感じていた。
「___」
蒼次郎は無言で手だけを動かす。キャンバスの中にもう一人の珠洲丸を生み出すために。
「珠洲___」
暫くして不意に彼が声を出した。
「君の夢ってなに?」
「夢___」
夢なんて見たことはない。
「君って何か大きな夢を持ってるんじゃない?」
「なぜ?」
「___なんとなく。」
蒼次郎はそう言って木炭を置いた。真っ黒の手を軽くポンポンと叩いて一言。
「できたよ。」
そして一つ大きな伸びをして彼は立ち上がった。珠洲丸も、少し姿勢を崩してから立ち上がる。
「ありがとう、やっぱりモデルがいいからかな、今の僕には満足できるものが描けたよ。」
「見てもいい?」
彼が頷くのを確認してから、珠洲丸はキャンバスの前へと回った。
「___」
珠洲丸はまず蒼次郎の腕前に感心した。そこにあったのは間違いなく自分の肖像だった。しかしながら彼女は鏡を見た気分にはならなかった。
「どうかな?」
「うん___」
絵の中の自分はなんて生き生きしているのだろう。そしてなぜ悲しみを感じさせないのだろう。霊社で鏡に向かい合ったとき、自分はいつもどこか悲しい顔だった。それがどうだ、白い木炭紙の私は___強気なままでも悲しみはない。
「私___こういう顔してた___?」
「え?う、うん、そうだと思うけど、気に入らなかった?」
「違う、そうじゃない___」
彼が私から悲しみを消して描き出したのか、私の顔から悲しみが消えていたのか___
父や母がいないことをいつまでも悲しんでいては、未来は見えないのか?
新しい出会いが、蒼次郎のような人が私の悲しみを消してくれるのか?
「嬉しいのさ___あなたが私を変えてくれたことが___!」
「ちょっ!珠洲___」
珠洲丸は蒼次郎の胸に身を埋めていた。一瞬戸惑った彼も、どぎまぎした顔のまま彼女の背を抱いてみた。
「蒼次郎___今まで私は夢なんて持ったことなかった___未来に希望なんて持てやしなかった___」
「珠洲___」
珠洲丸は蒼次郎の胸で小さく震えていた。十六歳と言えばまだ若い、だが十六年と言えばそれは人の一生の一時代を占める。その長い年月、満たされなかった珠洲丸の心を、蒼次郎は埋めてくれている。十六年分の切なさが、彼女に今押し寄せていた。
「蒼次郎、私は___夢を見つけたよ___」
「___」
グッ。珠洲丸の手に力がこもる。
「私の夢は、これからもずっとあなたと一緒にいること___」
「珠洲。」
珠洲丸が顔を上げる。蒼次郎との視線が交わった。彼女の顔はいつになく女で、彼の顔はいつになく男だった。そして二人は、互いを抱くことに何のためらいも感じてはいなかった。
だから___唇を重ねた。
「珠洲___」
「うん___?」
二人は同じ毛布を肩にかけ、肌を寄せ合っていた。
「僕___本当はもうここを出ようかと思っていたんだ。」
「え___」
「今から二週間も前かな、ここに親父が来たんだ。」
通風用の小さな窓から月明かりが射し込んでいる。
「喧嘩して家を飛び出して、会うのは一年ぶり以上だった。友達からやっとの思いで聞き出したみたいでさ、凄い顔で飛び込んできたよ。」
珠洲丸は黙って彼の話を聞いていた。
「殴られるって思った。でも違ったよ、親父は『無事だったか。』って言ったんだ。」
蒼次郎は、今まで珠洲丸が見たことのない寂しげな顔で話している。
「その時、僕は自分が馬鹿だったって気が付いたんだ。意地張って、親父やお袋に何の連絡もしてなかった。できればもう会いたくないなんて思ってたんだ。二人の気持ちも考えないでさ___」
彼の目尻に浮かんだ滴が、月明かりできらりと光る。
「親父は僕に言ったよ___『さすが俺の息子だ、有言実行しているな。』___意地っ張りなんだ、うちの親父。僕は___親父は僕の気持ちなんてなにも理解してないと思ってた、でもそんなことないんだよ。僕のことを一番分かってくれているのは___」
彼が涙をこらえる。
「やっぱり両親なんだ___」
声も震えていた。
「申し訳なくてさ、二人にずっと心配かけてたことが___その時は本当に、すぐにでも実家に戻ろうかと思った。でも、珠洲にあって気が付いたよ、それじゃあなんの意味もないってね。」
「私___?」
「君が喜ぶ姿を見てると僕も捨てたものじゃないって、少し元気になれたよ。それに、夢を追うことの大切さをもう一度確かめることもできた。もし実家に戻っていたらきっと親父に殴られてたよ、何で途中で投げ出したんだってね。」
何で途中で投げ出したんだ___今の珠洲丸にとっては辛辣な言葉だ。
「僕はこれからもここで絵の勉強を続けるよ。時々両親に近況を報告しながらね。もちろん、珠洲と一緒に。」
涙目の微笑みに、珠洲丸は優しい微笑みで答えた。
「つまらない話してごめんね、もう寝よう。」
「うん___」
そのまま二人は目を閉じた。お互いがめぐり会えたことの幸せを感じながら。
翌日。
珠洲丸は小屋の裏手で、洗濯物を干していた。自分と蒼次郎の洗濯物が並ぶだけでなんだか心躍るのだから、人というのは面白い。
「よし、こんなものかな?」
炊事洗濯は霊社で慣れっこなので、苦になるどころかむしろ楽しい。尻尾を振ってこちらを見ているリッキーの前にしゃがみ込み、彼の頭を撫でながら、次はなにをしようかな?と考えてみたりする。実に素敵な時間だった。
「そうだリッキー、散歩に行こうか。」
散歩という言葉に反応して彼はワンッと可愛らしく答えた。しかし珠洲丸が立ち上がったその時に、リッキーの表情がただならぬものに変わる。彼女がそれに気付くよりも早く、事態は起こった。
シャァァッ!
「いつっ!!」
右腕に激痛が走る。痛みを与えたものを目の当たりにして、珠洲丸の顔面は一気に蒼白になった。
「い、いやああああっ!!」
現実に引き戻される。蒼次郎との楽しい生活が崩れ落ちていく様が見えた。
シャツに血染みが広がる。彼女の右腕に食らいついていたのは小さな白蛇。その真っ赤な瞳で彼女を睨んでいるようだった。
桐生月那。
忘れていた女の姿が、あの日の園の風景が、一挙に頭の中へと蘇り、蒼次郎との幸せな日々を飲み込んでいく。
「ガルルルルッ!!」
混乱のあまり珠洲丸は白蛇をふりほどくことさえできずにいた。主人の大切な人を危機から救おうと、リッキーは自分を繋ぐロープを必死に引きちぎろうとしていた。
ブチン!
ロープが契れ、リッキーが駆け出す。猛犬の如く牙を剥き、白蛇の長い胴へと食らいついた。
「シャァゥッ!」
白蛇は痛みで珠洲丸から離れ、彼女も漸く我に返った。
「グルルルル!」
「リッキー!」
白蛇がリッキーの首に巻き付いて絞め殺そうとする。だがリッキーも食らいつく力を緩めない。
「何とかしなければ___!」
久しぶりに彼女の顔が戦士に戻った。近くにあった薪用の折れた材木を手に取ると、僅かの躊躇もなく白蛇に向けて突き出した。
「ギシャァァッ!」
材木はリッキーを掠めることもなく、白蛇の首の後ろを的確に捉えた。鋭く尖った切片が白蛇に突き刺さり、すぐにその命を絶った。
「リッキー、大丈夫?」
珠洲丸は材木ごと白蛇の骸を投げ捨て、リッキーに声をかける。幸い彼は外傷もなく、元気良く吠えて見せた。
「良かった___」
白蛇の骸に目を移すと、丁度骸が霧のようになって消えるところだった。これで間違いない。やはりあれは桐生の白蛇だ。
「やっぱり、私も途中で投げ出すことはできないのか___」
珠洲丸は腕の傷に目を移す。浅くはないが大した傷じゃない。
「蒼次郎になんて言おう___」
むしろ心配なのはそこだった。だが、すぐに別の考えが彼女に浮かんできた。
「ここに白蛇が現れたと言うことは___桐生は蒼次郎を知っている!」
そうとも、奴は八岐大蛇ではないか!この町の出来事なんてその気になれば手に取るように分かるのではないか!
「___蒼次郎が危ない!」
桐生の性格はこの町にいる誰よりも良く知っているつもりだ。あの女が私の幸せを許すなんて___悔しいけど考えられない!
珠洲丸は蒼次郎の家へと駆け込み、道具袋から白銀の短刀を取り出す。そしてついこの前彼と一緒に撮った写真を胸ポケットにしまい、家を飛び出した。
「蒼次郎___!」
彼の足取りを追おう、彼と一緒にいなければ安心はできない!
彼が通う学校に辿り着くのに二時間かかった。彼の素性を知る数少ない人、彼の自宅前に住む大家は留守。迷ったあげく落ち着いて考えれば家に何か手がかりがあるだろうと言う結論に達する。結局そこで学校が出版した教科書を見つけ、今度はその場所を人に聞く。
「都筑蒼次郎?駄目ですよ、個人の情報を漏らすわけにはまいりません。」
今度は大学内で彼の足取りを追うことができない。ついに手当たり次第蒼次郎を知るものがいないかと尋ねてみる。
「都筑?ああ、蒼ちゃんな、ええ?なに君、知り合い?」
漸くつかまえたのは蒼次郎とは見た目のタイプが異なる男たちだった。素朴な蒼次郎に反して彼らは奇抜さが目を引く。
「親戚です、彼のお母さんが突然倒れられたんで、至急連絡をしないと___」
「え、まじ!?」
「蒼ちゃん今日来てなかったよなぁ。」
「ああ。もう知ってんじゃないの?だから休んだとか。」
「連絡っつってもあいつ携帯もってねえだろ?」
学校に来ていない。あれだけ絵に夢中になっている彼には考えられないことだ。
「彼、学校終わってから仕事をしていたと思うんですけど。」
「ああ、そうらしいね、今の時間だともうバイト行ってんじゃない?」
「どこで働いているか分かります?」
「ああ確か___」
彼らから蒼次郎の職場を聞き、今度はそこへ走る。学校は八尾町、彼の職場は隣町。珠洲丸が知っている移動手段は自分の足だけだった。
今度は一時間半。探すことに苦労はしなかったが、靴で走ることになれていないため肉刺(まめ)ができて破れた。今日だけは街頭の時計がやけに気になる。
「来てないんだよ、彼んところの大家さん?そこに電話しても留守みたいだしさぁ、無断欠勤なんて都筑らしくないんだけどね。あ、いらっしゃいませ。」
彼の働き先は弁当屋だった。あまり混雑する時間ではないが、蒼次郎が来ないため残業させられている店員はご機嫌斜めだ。
「なんかあったんじゃないの?学校とかでさ。」
「学校には行ってみました___」
「それじゃあ俺にはわかんねえなぁ。」
珠洲丸は唇を噛みしめる。
「家に帰ってみよう___」
何か事情があって自宅に戻っているかもしれない。淡い期待を胸に彼女は駆けた。
「蒼次郎にもしものことがあったなら、私は___!」
珠洲丸は自分を責めた。正直になったつもりで、彼に自分の身の上を証さなかったことを。結局、過酷であることに嫌気がさして目先の幸せを追いかけただけだったんだと。
「なにも知らない蒼次郎は、私の利己的な行動で、桐生との戦いに巻き込まれた。」
幸せの崩壊は始まったばかり。
とても短い至福の時は、悲劇の前触れにすぎない。
足の裏の痛みなど、蚊が刺すほどのことでしかない。
結末は自宅に待つ。
あの女と共に。
「おかえりなさい。」
蒼次郎の家に戻った珠洲丸を出迎えたのは、桐生だった。古びた扉の前で、彼女は悠然としていた。
「随分探したようね、もう日が暮れてしまうわ。」
「黙れ___」
「犬がお腹を空かせているのではなくて?洗濯物も冷えてしまうでしょう?」
「黙れ。」
「彼の唇の味___如何様だったかしら?」
「黙れぇっ!!」
珠洲丸はあらん限りの声で叫んだ。桐生は憮然とした表情で、彼女に冷たい視線を送る。
「蒼次郎をどこにやった!彼はおまえには関係ないはずだ!!」
「なぜ。」
桐生は扉にかかった南京錠の一つを摘む。彼女が軽く念じるだけで、錠はいとも簡単に開いた。
「なぜ関係がないのかしら?あなたの思い人だというのに。」
「おまえの狙いは私なんだろう!?私以外のものには手を出すな!」
珠洲丸は激白するが、桐生は冷徹そのものだった。
「愚かな。」
赤み帯びた視線が珠洲丸を遅う。桐生の目つきはいつになく厳しいものだった。
「主は何か勘違いしているらしい。」
「主と言うな!あたしは女だ!」
「あたし___フフフ、変わるものね。まあいいわ、珠洲丸。」
桐生がもう一つの錠前に手を伸ばす。
「おまえは私を倒すためにこの町へとやってきた。私はおまえがいなくとも、気に入ったものがいれば園へ導きたいと思う。分かるであろう?」
南京錠が全て外された。
「そして誓ったであろう?必ずや我を討つと。」
桐生が扉の前から数歩動くと、扉はゆっくりと開き始めた。
「ま、まさか___」
「誓いを守れぬものには罰を与えなくてはね。」
扉が開く。その瞬間彼女は慄然と立ちつくすだけだった。
蒼次郎。と、彼女の唇が微かに動いた。しかし言葉にはならない。
真っ先にその躰から漏れたのは___涙だった。
「人々、大蛇の呪縛を断ち切ろうと、娘捧ぐのを絶つ。大蛇は怒り、地を割り、天を唸らせ、人々に大いなる災いをもたらした___これは戒め。恨むのなら己を恨む事ね。」
扉の内側に蒼次郎はいた。ただその姿は見るに耐えないものだった。全身を無惨にも食い破られた姿で、苦悶の表情で、扉に張り付けられていた。
「あ、うそ___う、そ___」
珠洲丸はその場に崩れ落ちた。憚ることなく涙を流し、ただ呆然と物言わぬ蒼次郎を見つめた。暫くして、漸く声が悲しみに追いついてきた。
「うあああああああぁぁ___!」
「益荒男の退魔師が、嗚咽するほどこの男に惚れたようね。」
桐生は少し同情的な顔で珠洲丸を見ていた。そして満足げに一つ息を付く。
「やはり殺さずにして正解だったわ、こんなに壊れてしまっては甲斐がない。」
嗚咽が止まった。
「ふふふ___ふふふふふっ!」
急に桐生が、いつになく大きな声で笑い出した。珠洲丸の思考はその前の一言で止まっている。
「な___んだと?」
桐生は露骨な嘲笑で蒼次郎の骸に手を伸ばした。
「こういうことよ。」
一瞬にして蒼次郎の骸が白い霧に包まれる。霧が桐生の手に吸い込まれていくと次に現れたのは大量の白蛇だった。
「!」
蒼次郎の骸をかたどっていたのは白蛇だったのだ。珠洲丸が見たのは桐生があやかしで作り出した幻の骸だったということである。
「からかったな!」
「ぬるいわ。警告と受け止めてもらいたいものね。」
「う___」
桐生は言葉に詰まった珠洲丸を見て、ニヤリと笑った。
「蒼次郎の唇は実に美味ね。」
「!!」
一瞬安心しかけた珠洲丸は再び愕然とする。
「彼はもはや私の贄。園で私に力を与える存在。ふふふ、もっと早くこうしても良かったのに、あなたにも楽しい思いをさせて上げたのだから___感謝していただきたいわ。」
「貴様___」
常に嘲笑っていた桐生の顔が急に真面目になる。
「珠洲丸。おまえに逃げ道はない。逃げようとすれば今しがたおまえの見たものは現実となるだろう。おまえは___我を倒さぬ限り孤独なのだ。口惜しければ、我をうち倒すほどに強くなれ。」
その言葉を残し、桐生は消えた。残された珠洲丸はその場に座り込んだまま、何度も地面に拳を叩きつけていた。落ち着きを取り戻すにはそれなりの時間が必要だった。
「リッキーに食事を上げないと___」
猶予はなくなった。
もはや桐生は待ってはくれないだろう。彼女を楽しませるために戦うわけではないが、そうしなければ蒼次郎が___
決意、誓い、戦う力、全てが再燃する。
「たとえ幻であっても、蒼次郎のあんな姿は二度と見たくない!」
もう、挫けることはない。だから彼女の目に涙はなかった。
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