其の六       間

 桐生を、八岐大蛇を倒すにはどうしたらよいのだろう。珠洲丸はあの日からそればかりを考えていた。桐生の正体を知ってから早三日がたつが、その間、彼女はこれといった進展を見ることはなかった。いまもこうして、この町に初めてやってきた頃と同じように、小さな川のほとりで自分の行く末を案じていた。
 「考えれば考えるほど___」
 かなわない。という結果に辿り着く。
 あわや相打ちと言うところを桐生の慈悲にあったあの白蛇。あれが彼女の人差し指。人差し指一つ傷つけるのに命一つ使っていては、首などどうして切り落とせようものか。
 眼差しと、あの澄んだ声色だけで躰が硬直する。目に見えぬ威圧は勿論、存在感だけで圧倒される。ただ短刀を振るうという行為だけで、自分は肩で息をしていた。
 警鈴ももはや当てにはならない。彼女がまだ人間桐生として振る舞っていたときは、鈴は反応しなかった。自らの気配の質を変えることも彼女にとっては容易いことなのだ。
 なによりあそこは彼女の園。全てが彼女のあやかしの元にある場所。あやかしをうち破る力でもなければ、そんな場所で戦うことすら不可能だろう。
 勝てるものか。なにに目を向けても桐生に勝った部分がない。
 「唯一の望みといえば___」
 短刀が桐生に通じることだ。霊社で見つけた白銀の短刀は、現に桐生の髪を数本切り落とし、その人差し指を切り裂いた。
 「だが、奴は今まで私に桐生の姿しか見せてはいない。あれが大蛇の姿を見せたならばいったいどれほどの力を発するというのか___」
 そう言えば気になることがある。桐生が語った大蛇の話だ。
 「なぜあいつは自分が倒されたようなことをいったんだ?」
 私を欺くため。まあそうなのだろう。できる限り桐生月那としての姿でいて、私の驚く顔を見たかったのだろう。言い伝えでは大蛇は倒されたことになっている。それが桐生にとってはいい隠れ蓑となっているということか。
 「今までどれだけの者が大蛇に挑んだのだろうか?」
 桐生から感じた力は、白蛇の比ではない。珠洲丸は他の怪奇と向かい合ったことがないため比較はできないが、大蛇は怪奇の中でも特に優れた力を持つ部類に入るはずだ。
 「父や、先代の退魔師達とも奴は戦ったのだろうか?」
 恐らくは相まみえたに違いない。現に桐生はこれまでも数多くの戦いをしてきたと言っていた。相手となるものといえば退魔師意外には考えられない。
 「前例でもあれば、そこから活路を見いだすことも___」
 小さな溜息を付き、彼女は立ち上がった。
 「草薙の弓でも見てくるか。」
 最古に桐生と戦ったであろう男の遺品を見て、なにを思うのかは自分でも分からない。ただ、かつて桐生に通じた男を少しでも近くに感じていたかった。

 再び八尾神社の資料館へ。相変わらず人気の少ない参道を抜け、本堂横へ。
 「よう、またあんたか。」
 「こんにちわ。」
 受付の老人は珠洲丸の事を覚えていたらしい。桐生ではない、まともな人間との接触に珠洲丸は少し嬉しくなった。
 「あら。」
 聞き慣れてしまった声がする。靴を脱ごうと身を屈めていた珠洲丸は、ゾッとして顔を上げた。
 「珠洲丸。」
 桐生だ。彼女は入り口に立つ珠洲丸より一段高いタイル床で、こちらを見下ろすように微笑んでいた。
 「なんだい、あんた達知り合いか。」
 「ええ。ちょっとした仲ですわ。」
 老人に嫌みのない返事をする桐生。
 「誰が___」
 珠洲丸は吐き捨てるように呟き、靴を下駄箱に収める。緊張はあるが、自然な振る舞いを徹底しようと決めていた。
 「研究熱心なものね、珠洲丸。」
 「気安く呼ぶな、化け物。」
 「贄として戻るなら___歓迎しますわよ。」
 すれ違いざまに、老人には届かない囁き声でぶつかる二人。だが一瞬の視線の交錯でも、桐生の赤み帯びた瞳に珠洲丸は萎縮してしまっていた。
 「それでは、いずれまた。」
 「___」
 珠洲丸に手を振って資料館を出ていく桐生。黙ってその後ろ姿を見送ってから、珠洲丸は弓の元へ向かった。
 「桐生の余韻があるな___」
 あの女の匂いは独特だ。仄かに甘く、心地よい香りがある。それは香水などではなく、あの女の匂いと言えた。弓の前でどれくらい佇んでいたのだろうか、ガラス棚の前に桐生の匂いが残っていた。
 「よほどこれを気にしているようだな。それとも昔を思い出しているのか___?」
 どちらにせよ、この弓矢は本当にかつて草薙の扱っていたものなのだろう。でなければ大蛇が何度も足を運ぶわけがない。
 「私が草薙のようになるにはどうすればいいんだ___」
 目に見えぬ過去の勇士を弓に見る。彼女は強く祈った。
 桐生を討つ術を教えてくれ!と。
 「!!」
 珠洲丸の動きが止まった。目を丸くして弓を見る。
 「まただ___」
 また何かを感じた。淡い光が一瞬だけ記憶の底に射し込む。何かが思い浮かびそうなのに、すぐに霞の向こうへと消えていく。
 「この弓は___」
 なにを私に見せたいのだろうか?
 私が手に取ることを求めているのだろうか?
 草薙の意志なのだろうか?
 「駄目だ、分からない。」
 結局、苛つきと不快感だけが残った。珠洲丸は数度首を振って、手を口元に添える。もう一度、原形すらとどめていない弓矢を見つめた。
 「帰ろう。」
 まあ、帰る家もないが。

 「今日はどこで眠るか___」
 空腹で腹が鳴る。父の残してくれた金があったはずだが、古い紙幣なので一般商店では取り合ってくれなかった。その上、彼女は銀行で紙幣を交換するという術を知らない。そもそも、あまり積極的に人との接触を取りたいとは思わなかった。
 「___」
 川のほとりで膝を抱いて蹲る。
 ___贄として戻るなら、歓迎しますわよ。
 ___
 「駄目だ!なにを考えてるんだ私は!」
 桐生邸の柔らかい布団、温かい食事、心地よい風呂___
 「あいつの軍門に下ったら、あたしはいったい何のために生まれたことになる!」
 解せない慾を喰らい、腹でも膨らますことができればいいのに。
 やりきれない気持ちをそのままに、日は刻々と暮れていく___

 「ねえ。」
 「!?」
 突然肩を叩かれて驚いた珠洲丸は、ビクリと震えた。後ろを振り返ってみると、そこには一人の青年が立っていた。
 「な、なにか___」
 青年は純真な視線で珠洲丸を見る。珠洲丸はどぎまぎして対応に手間取った。
 「いや、君___昨日も一昨日もここにいたよね。」
 「え、ぁ、はい、い、いました___」
 なにを照れているんだ私は!あまりにも酷い口ごもりかたで、余計に恥ずかしくなってしまう珠洲丸。
 「僕、いつも犬の散歩でここを通るんだ。だから君を見るたびになにしてるのかなぁと思ってさ。あ、こらリッキー!」
 「うわっ!」
 彼が連れていた雑種犬が突然珠洲丸にのし掛かり、彼女は反射的に身を捻った。
 「やめろっ!」
 珠洲丸に月那の妖気を感じたのだろうか、犬は牙を剥いていたようだ。しかし青年に一喝されると彼女から離れ、シュンとして座り込んでしまう。
 「ご、ごめん、大丈夫?」
 「あ、ええ、なにも___」
 彼が珠洲丸の手を引いて、彼女の躰を起こしてくれた。人から優しくされることに慣れていない彼女は、礼を言うことにも慣れていない。
 「___あそうだ、で、君はここでなにをしていたの?」
 「いえ、特になにも___」
 「ふぅん___」
 青年は不思議そうに珠洲丸を見ていた。細身で、背丈は珠洲丸より少し低いが、なかなか素敵な顔をしている。だが珠洲丸は整った顔立ちよりも、彼の毒気のない瞳に惹かれた。純粋に、生きることを全うしている姿に。
 「そうなんだ、ごめんね、変なこと聞いちゃって。この辺、痴漢が出るから気をつけてね。早く家に帰った方がいいよ。」
 「あ、ありがとう、そうするよ。」
 「それじゃ、ほらリッキー。」
 青年は犬の紐を引っ張って立ち去っていった。それから暫くの間も珠洲丸の事をちらちらと振り返って見ていたが、当の彼女はなるだけ目を合わすまいとあさっての方を見ていた。
 「やだな、何でこんな思いをしなくてはならないんだよ。」
 現代の生活に触れているうちに言葉も少し変わったか?心が落ち着かない彼女はいつになく妙な言葉遣いだった。
 とりあえず、少し場所を変えてこれからのことを考えよう。

 珠洲丸は結局なかなか落ち着く場所を見つけられず、町を彷徨いていた。その間も桐生への対策を練るはずが、あの青年とのやり取りがなかなか頭から消えてくれない。
 「ったく___」
 自分の頭を掻いて困った顔になる珠洲丸。もう日も落ちて、コンクリートの町は冷たい。歩き回っているうちに住宅街のはずれにある商店街へとやってきた。
 「あっ!」
 商店街の各店もそろそろ閉店の様子だ。その中で珠洲丸は一軒のお店の前に立つ青年を見つけた。先ほどの彼だ。
 「いつもすみません、おばさん。」
 「いいのよ、どうせ日持ちしないんだから、持っていって。」
 青年がやり取りを終えたらしい、こちらに来そうだ!
 珠洲丸は慌てて方向転換するが___
 「あっ!」
 しまった。
 タッタッタッ___彼の駆け寄る音がする。
 「あ、やっぱりさっきの!君も買い物?」
 「い、いえそう言う訳じゃ___」
 彼は覗き込むようにして珠洲丸を見てくる。珠洲丸は顔を背けて答えた。
 「私、用事があるからこれで___」
 何とかやり過ごそうとする珠洲丸だが、彼は訝しげに彼女を眺めるとこう言った。
 「君、家出してるでしょ。」
 「え?」
 珠洲丸は呆気にとられて彼の方を振り向いた。
 「何となく雰囲気で分かるよ。なんたって僕がそうだからね。」
 それは意外なことだった。

 「こっちだよ、狭いから気をつけてね。」
 「大丈夫___」
 結局珠洲丸は、彼の強い誘いに負けて家へと寄せてもらうことになった。彼の自宅は商店街からそう遠くない場所で、住宅街のはずれのはずれだ。桐生邸からはかなり遠く、周囲の建物も古びた木造建築が多い。
 「ここ。」
 その中でも彼の家はぬきんでて張りぼてだった。察するに廃屋寸前の小屋に格安で住まわせてもらっているという印象だ。背後は林になっており、全体的に鬱蒼としていて、見た目には出来の悪いログハウスである。
 「ただでさえ狭い上に、片づいてないけど___どうぞ。」
 「お邪魔します。」
 さすがにこんな家には泥棒も同情して入らないのか、鍵は大きな南京錠を二つぶら下げているだけだった。ただ中に入るとさらに驚かされる。
 「___」
 彼が白熱球のスイッチを入れると、部屋が一気に明るくなった。
 狭い。何しろものが多くて狭い。ただ驚いたのはそれではなく、小さな家に敷き詰められたものだ。そのどれもが画材道具。家全体に油絵の具の匂いが染みついており、壁際には描きかけの絵や画板が並んでいる。
 「画家___?」
 「を目指してるのさ。でも親の反対にあって、こんなところで描いてるんだ。」
 ここでの生活は楽ではないだろう、しかしこの小さな小屋は彼にとって夢の詰まった空間なのだ。きっとこの家であるからこそ、生きることに前向きでいられるのだろう。
 「ああそうだ、まだ名前を教えてなかったね。僕は都筑蒼次郎(つづきそうじろう)。よろしくね。」
 蒼次郎は手を差し出してから絵の具の汚れに気付き、側にあったタオルで慌てて手を拭いた。その様を見て珠洲丸は小さな笑みを見せる。
 「石川珠洲丸です。」
 渋っては彼に失礼だ。珠洲丸は彼と握手を交わし、名乗った。
 「スズマル___変わってるけど、よく似合ってるね。いい名前だと思うよ。」
 「ありがとう。」
 心なしか自分が素直になっている気がした。
 「お腹空いてるだろ?大したものはないけど一緒に食べよう。」
 断れる雰囲気ではない。この際快くもてなしを受けるとしよう。
 珠洲丸と蒼次郎がうち解けるまでは早かった。小さなお皿に盛った残り物の惣菜をおかずに、一膳御飯を食べる。なんだか楽しい一時だった。
 「ここは手前の家の倉庫だったんだ。使われてなかったから格安で住まわせてもらってるのさ。ガスはないけど電気と水道は通ってるし、これでも一人暮らしには十分なんだ。」
 「さっきの犬は?」
 「ああ、こっちに来てから捨てられてるのを見つけて、一緒に住むことにしたんだ。家の中がこんなだから普段はここの裏手にいるよ。ドラム缶だけどお風呂もそこにあるからもし良かったら___あ、ごめん、女の子に言う事じゃないね。」
 「いいよ、女っぽくないのが取り柄だから。」
 珠洲丸が言葉を解しているのは蒼次郎の勧め。こういう会話が苦手のはずだった珠洲丸も、なぜだか口が良く回った。
 「親父は僕にちゃんとした職について欲しいって言ってたけど、僕はどうしても絵が好きなんだ。で、一人で家を飛び出して、この八尾町にある学校に通って勉強してるっわけ。わがままなことだと思うけどね、人生の道すじを決めるのは今だと思うから勝負したいんだ。」
 「いいことだと思うな。夢を持つのって大事なことだと思う。」
 「珠洲丸さんはどうして家出したの?」
 「うん___」
 話が自分のことになると、忘れかけていたものが蘇ってきた。あの桐生の嘲笑が。
 「あ、話したくなければいいよ___無理しないでね。」
 「ごめん___」
 今は楽しい。とても楽しい。一人の男との会話がこんなに楽しい事なんて今までになかった。だが___彼に真実を伝えたくは、彼を巻き込みたくはなかった。
 「僕って軽薄な奴だと思う?」
 「さあ、私には分からないや。」
 「正直人恋しいんだ。やっぱり家を飛び出してその日暮らしで絵を描いてるなんて人に自慢できることじゃないからね。回りは結構冷たいよ。ただ、それが分かってて出てきたんだから、後悔はしていないけどね。はいコーヒー。」
 「あ、ありがとう。」
 「まあこうして絵を描いていられるのはいいんだけど、やっぱり難しくてさ、思った通りの仕上がりになったことなんてただの一度もないよ。同じ構図の絵でも、色使い、筆圧、明暗の調子、細かいところをほんの少し変えただけで全く違うものになるから。なかなかいいものが描けなくてね___」
 「絵だけじゃないよ、何だってそう。一つのことを全うするのって大変だと思う。行き詰まることは誰にだってあるわ___」
 珠洲丸はその言葉を自分に言い聞かせてもいた。ゆっくりとコーヒーを口にする。
 「えほっ!ごほっ!」
 「!?どうしたの?大丈夫!?」
 突然噎せ返った珠洲丸を心配して、蒼次郎が素っ頓狂な声を出す。
 「凄く苦いねこれ___」
 「え?」
 「コーヒーって初めて飲んだんだ___」
 珠洲丸は蒼次郎に苦笑いしてみせる。彼ははじめ呆気にとられていたがすぐにつられて笑い出した。和やかな時間が過ぎていく。彼女は彼と出会ったことに一時の幸せを感じた。
 「ねえ、珠洲丸さん。」
 「ん?」
 蒼次郎は絵を描き始めた。珠洲丸は邪魔にならないようにと壁際の丸椅子に座っていた。
 「君さえよければ、暫くここに住んでみない?」
 「それって___」
 「いや、別に下心があるわけじゃないよ。同棲なんていうつもりもない。だって僕らはまだ今日であったばかりだし。」
 パレットの上でいくつかの絵の具を混ぜ合わせ、微妙な色を作り出す。
 「ただ、もっとお互いを知ることができれば、きっと僕らは素晴らしい関係になれるんじゃないかって、そんな気がするんだ。」
 空想的な、芸術家らしい言い方だ。彼の言葉は女性を口説くにはあまりに稚拙で、正直すぎる。
 「どう?ああ、僕は昼から今日帰ってきたくらいの時間まで、学校とアルバイトでここにはいないんだけどさ。」
 珠洲丸も彼のけれんみのない姿勢が嫌いではなかった。彼と話していると時折、自分が女性であることを感じるような仕草をしてしまっていた。
 「私は___」
 ただ私は___
 人と一線を画した世界にいる___でも___
 「すぐには答えられないよ___少し考えさせて。」
 「そう___」
 蒼次郎は少しがっかりしたような顔になるが、すぐまた笑顔を見せる。
 「君にもいろいろと事情があるんだよね。ごめんね、無理言って。同じ境遇だし、君と一緒にいるのが楽しいからちょっと期待しちゃっただけなんだ。」
 楽しいとも。私だって蒼次郎、あなたと話しているのが楽しい。ただそこには現実の厳しさとはあまりに大きすぎるギャップがあるんだ。
 恐ろしい相手に挑み、その命を捧ぐのか___
 一人の男との幸福を求め、現実から逃げるのか___
 「明日まで考えさせて、私もあなたと一緒にいたい___でも逃げ切れない現実もあるんだ。」
 「珠洲丸さん___」
 蒼次郎は思った。彼女はいったいどれほどのものを背負い、一人小川のほとりで佇んでいたのだろうと。
 「僕で良ければいつでも力になるよ。」
 「___蒼次郎さん。」
 珠洲丸は揺れていた。
 桐生月那と都筑蒼次郎の狭間で。




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