其の五 白
その日、珠洲丸は妙な時刻に目を覚ました。
「ん___」
まだ部屋の中は暗い。障子の向こうから射し込む光もなく、外は静まり返っている。時計がなければ正確な時間は分からないが、今が俗に言う草木も眠る丑三つ時なのだろうと感じた。
「珍しい___こんな時に目が覚めるなんて___」
朝まで熟眠することが日々の疲れを消す術であり、治癒力をも高める。彼女が不意に目を覚ますのはあまりに珍しいことだった。
「どうしたんだいったい___」
布団に深く身を埋め、目を閉じるが眠気そのものが薄れてしまったようだった。
「___」
何か落ち着かない。
リーン。
「!?」
音はこもっていた。しかしあの音色は___
リーン___リーン___
「そんなまさか!?」
枕元においてあった道具袋。珠洲丸は布団を蹴飛ばすように飛び起きて、袋を開く。澄んだ音色がしっかりと聞こえてきた。
「鳴っている___」
警鈴は道具袋の奥、小さな巾着の中で鳴っていた。横たわって、静止している状態でありながら、澄んだ音色を懸命に奏で続けていた。
「なぜ___側に怪奇がいるのか!?」
珠洲丸は警鈴を髪に結びつけ、白銀の短刀を手に取る。桐生に借りた浴衣のままで立ち上がった。
「桐生___」
パンッ!珠洲丸は一度自分の頬を強く叩き、躰に残った微睡みをかき消した。一際引き締まった表情で障子を開き縁側へ。
外は静まり返っている。玉砂利の敷き詰められた庭、広すぎる屋敷。月明かりだけでも視界には困らないが、夜の屋敷は樹海以上に不気味だ。
ギシ___ギシ___
縁側が軋む。普段は気にならない音もこういうときは別だ。住み慣れているものでなければこの音を消す術は知らないだろう。
「桐生の部屋に行くか___」
珠洲丸は三つ向こうの部屋の前へとやってくる。障子は___
「開いている___いない___!」
障子は僅かに開き、中を覗き見ることは容易だった。暗くてはっきりしないが布団が捲れあがっているのは確かだ。
「どこに行った___?まさか怪奇に___いやそれとも。」
珠洲丸は首を横に振る。
「今はそんなことを考えても仕方ない。桐生は怪奇に遭遇したんだ。まずは彼女を見つけだすのが先。」
人一人の命に関わること。いくらその人が神秘性に溢れようとも、よからぬ憶測をしている場合ではない___桐生そのものが怪奇だなどということは___
リーン___リーン___
警鈴に変化はなく、常に最大級の反応を示し続けている。怪奇がこの屋敷の中にいることは間違いない。珠洲丸は部屋を出て屋敷を奥手、つまり玄関から離れた方へと向かった。
「屋敷の構造を頭に入れておくべきだった___」
珠洲丸の部屋は玄関から近い位置にある。従って桐生の部屋もそう遠くはない。つまり彼女はこの屋敷の半分も知らないことになる。
「月那!月那いるのなら出てきてくれ!」
怪奇は匂いと気配でこちらを知っている。声を殺すことは無意味だ。珠洲丸は幾度となく桐生の名を呼ぶが返事どころか返る物音すらない。
一つ一つ、部屋の障子を開けながら進む珠洲丸。やがて縁側は、そのまま屋敷の外周を進む道と、内側へ入り込む廊下へと分かれた。
「どちらか___」
自分の感はそれなりにあてになる。そう珠洲丸は信じていた。よって決断も早い。
「___」
無言で内へと進む。樹海の時と同様、慎重ではあるが決してゆっくりではない。そしてあらゆる感覚器で彼女は警戒網を張っている。だから反応の早さは際立っていた。
「!!」
一瞬で短刀を抜き、背後の気配に向け振るう。赤い血が弾き、白い蛇の頭が飛んだ。
「白蛇___」
床に転がっていたのは首と胴に両断された白蛇だった。胴の方はまだのたうち回っている。
「小さいな___樹海にいた奴の子か?」
怪奇の怨恨は深いという。今珠洲丸を襲った白蛇は1メートルほどの長さしかなく、見ようによっては青大将と変わらない。
どちらにせよ、これでこの屋敷にいる怪奇も大蛇の息がかかったものには違いないことがはっきりした。小さな白蛇があと何匹いるかは分からないが、警戒を強めて桐生を探す。
「月那!」
声と警鈴の音色、それだけがやけに響いた。
「___」
幾度となく廊下が枝分かれする。しかし珠洲丸は選択に困らない。
「そこか!!」
角を曲がって少し進むたびに小さな白蛇が襲ってくる。それはまるで、彼女が正解の道を進んでいると教えているようだった。
「向こうも私を呼んでいるのか___?」
ついには珠洲丸もそう疑り始めた。この屋敷にいる怪奇が自分を呼んでいるのではと。そして自分より優れた感を持つ桐生は既に、怪奇の元に辿り着いているのではと。
「妙な___」
不思議と背中に汗を感じる。樹海で白蛇と退治したときも冷や汗一つかかなかったのに。まだ姿すら見ていないものの威圧感。近づくだけで気圧される存在感。
八岐大蛇か___?
かもしれない。
「___?」
恐らく屋敷の最深部が近い。そして変化が生じ始めた。
「な、なんだこれ___」
妙に大気がなま暖かい。足下に白い霧が流れる。霧は先の角を左手に曲がったところから流れてきている。不思議と足にまとわりつくその白、冷たければ不気味なだけだが、人肌になま暖かいのには恐怖を感じる。
だが臆してはいけない。短刀を握る手にも力が入る。足取りを重くしながら珠洲丸は角を左に見る。
「階段___」
床板が上がり、その下に階段が見える。白い霧はそこから姿を現していた。
「あの下か___」
一度だけ生唾を飲み、珠洲丸は階段へ。床板にぽっかりと空いた黒い口。暗くて底の見えない階段はそのまま地獄へと続くようだった。
「よし。」
一段ずつ、踏みしめるように下る。彼女の頭が完全に床下へと入った途端、景色が真っ暗になった。
「!」
床板が閉じたのだ。慌てて押してみるが板はびくともしない。
「ちっ___ったく、ここまで来て肝心なところで無警戒だ。」
罠にかかってしまった。この先にいるであろう怪奇の術中にはまったドジな自分。思わず舌打ちが出る。
だがおかげで吹っ切れた。例の白い霧が微妙に発光しているので階段を踏み外す心配もない。調子よく、軽い足取りで珠洲丸は前へ。やがて先に光が射し込み、一気に景色が広がる。
「___これは___」
唖然として声にならない。そこはとても広く、荘厳なところだった。一見道場のようにだだ広い板張りの部屋、しかし壁には煌々と燃えさかる篝火が並び、その背後に血で描いたかと思うほど生々しく命を感じる絵が飾られている。
「蛇___八岐大蛇!」
その絵は雄壮なる八岐大蛇、その怒濤のようにうごめく様が描かれている。決して赤一色ではないのに、火に照らされ赤く輝き、血で描かれたものと錯覚してしまった。
「はっ!」
その部屋にいるのが自分一人ではなかったこと。珠洲丸は今それに気が付いた。
その足下に霧湛え
白き乙女は立ちつくす
赤き光は彼女を照らし
女の瞳は赤光す
命を知らぬ退魔師の
額の滴がきらきら光る
「桐生___月那___」
部屋の中央で、桐生はこちらを向いて立っていた。
「退魔師、石川珠洲丸。」
桐生の声の重圧が、珠洲丸の指先を震えさせる。
「そんなに驚くことはなくてよ。あなたが感じているようだったから___私もこうして真実へ導いたのだもの。」
これまでの貞淑な桐生が嘘のようだった。霧に包まれ、炎を浴び、彼女の黒髪は揺らめいている。その外貌は人。だが今の桐生は___怪奇。
「貴様___貴様いったい!」
「何者だ?と聞くつもりかしら?」
桐生は笑った。
「馬鹿馬鹿しい。」
左手を突き出し、その白い指を珠洲丸に示す。
「ご覧。」
指先が白く光る。すると溶け出すように、彼女の指先から一匹の小さな白蛇が姿を現した。桐生は嘲笑を浮かべて珠洲丸を見据え、珠洲丸は口を開けた姿で白蛇を見ていた。だがすぐに歯を食いしばり、気丈な瞳で桐生を睨み付ける。
「___貴様が八岐大蛇なのか!」
「そう。」
即答だ。
あまりにも早すぎる答えにぐうの音も出ない。
「ただ私も幾百千、長い時代を生きたわ。そして戦い続けた。だから四つの首は死んでしまった。」
彼女が微笑んだ瞬間、牙が見えたようだった。
「近頃は私を滅しようとするものが少ないものでね、退屈していたの___あなたが来て久方ぶりに楽しめると思った。でもあなたは未熟すぎる。」
その瞳は陰に入ろうとも赤かった。
「でも驚かせてくれた。まさか樹海の白蛇と渡り合うとは___せっかくだから生かしておいたのよ、あのままでは相打ちだったでしょう?」
桐生は右手の人差し指を示した。その指先は肉の抉られたような傷があった。それはつまり、樹海にいた巨大な白蛇、あれは彼女の人差し指にすぎなかったという意味である。
「それに___」
桐生がゆっくり、こちらに近づいてくる。だが珠洲丸の躰は硬直し、まるで動かない。
負けてはならない!だが彼女の強い気持ちに躰は答えない。
「!」
肩が震える。桐生が珠洲丸の頬に触れた。
「あなたは女。そして美しい___」
しなやかな指先が珠洲丸の顎へと進む。だが珠洲丸にはそれが、蛇の這う感触にしか思えない。
「我が贄に相応しいわ。」
桐生の艶やかな唇が珠洲丸に近づく。口づけを交わすことは全ての終わりを意味する。珠洲丸はそう信じてやまなかった。
「うあああっ!!」
シュッ!!
「___っ。」
呪縛を断ったか。桐生は珠洲丸から遠のき、小さな舌打ちをする。
「はあっはあっ___!」
珠洲丸は短刀を握りしめ、肩で息をしていた。彼女の強い意志が、桐生のあやかしを断ち切らせたのだ。その足下には短刀に切り落とされた桐生の髪の毛が幾本か落ちていた。
「なかなか優れた精神力をお持ちのようね。」
「!?」
離れたところで桐生は傍らに若い女性を抱いていた。その女性は若く、そして美しい。
目は開けているが、意識に乏しく、どこか呆然として抜けているようだった。
「ここは私の園。悦楽の時を楽しみ、他の干渉を拒む空間。私の毒気に引き寄せられたものたちが、ここで生気と、至福を与えてくれる。良いでしょう?」
桐生が徐に女性と唇を重ねる。女性の躰に絡みつくようにしていた右手の人差し指。女性の方が呼応するように桐生の背に腕を絡め出すと、その指の傷が徐々に消失していった。珠洲丸はまるで目の前で恋人を奪われた男のような、歯がゆい顔をしていた。
「___若い女性の失踪も貴様が!」
「全てではなくてよ。私が求めるのは美しいものだけ。そう、あなたのように、純粋で、美しい魂を持つものが最高の獲物なのよ。」
「獣!」
珠洲丸は罵声を浴びせることはできても、駆けだして斬りかかることはできない。
「戻りなさい、裕美。」
「はい。」
「あ、待て!」
桐生から離れ、裕美と呼ばれた女性は霧にまみれて消えた。一瞬だけ彼女と目があったが、抜け殻ではあっても悲しい顔ではなかったのが妙だった。
「珠洲丸。私は望まぬものをここに引き込むほど野蛮ではなくてよ。園にいるものは、私に服し、私に生きる力を与える。まさに贄と呼ぶに相応しいものたち。」
桐生の背後でうごめく霧が、四つ叉の大蛇を想像させる。
「麻生裕美は、とても臆病な子。でも決して気の弱い子ではないわ。ただ肝心なところで振り絞る勇気を持っていなかった。彼女は私を慕い、私に様々なことを相談してくれた。そこで私は彼女にきっかけを与え、彼女は若干強くはなった。そして勇気を発揮することができたわ。ただ、そのために彼女の恋は果ててしまった。恋を相手に伝える勇気は得ても、かなわぬ恋と割り切る勇気は得られなかったのよ。悲しみに駆られた彼女は再び私と出会う。私は彼女に園の入り口を示し、彼女は自らを贄としたわ。」
桐生は淡々と語る。
「そんなもの、結局は貴様が自らの元に導いたにすぎない!」
「そうかもしれないわね。でもあなたはどう?」
桐生は治癒した右手で、満足げに手櫛を通す。
「あなたは私という存在に惹かれ、自らと私を対比していた。あなたは、私があなたを欲して近づいたと思いこんでいるようだけれども、本当にそうかしら?あなたが強く私に近づくことを望んだ。そうではなくて?」
「くっ___」
望んでなかったと言えば嘘になる。だが桐生が大蛇であるならば、珠洲丸にとって近づくのは当然のことのはずだ。
「現にあなたはこうして、私の導きに乗り、園へとやってきたのでしょう?」
「黙れ!」
心を強く持とう。この声そのものが、この女の、大蛇の毒なのだ。毒には徹底した措置を執らねば致命傷となる!
「貴様が大蛇である限り、私が近づくのは極当然のことだ!なぜなら、私は貴様をうち倒すために生きているのだからな!!」
「フフ___強い意志。それとも意地?」
「今の私の力では貴様に及ばぬ事など目に見えている___だが必ずやここに戻り!貴様の首を切り落としてみせる!!」
珠洲丸は精一杯の声を張り上げ、桐生に短刀の切っ先を向ける。その刃先が微塵の震えも見せないことに、桐生は感心した。
「良かろう___私も貴様をすぐに喰らいはせぬ。だがそこまで戦う姿勢を見せるのであればこちらも容赦はせぬぞ___我に牙を剥くことの愚かさを思い知らせてくれる。」
「桐生月那___いや、八岐大蛇!」
珠洲丸は短刀を鞘に収めた。
「我、石川珠洲丸は霊社に誓った!必ずや貴様を討たんと!」
最後まで桐生の姿を睨み付け、珠洲丸は走り出した。園を脱し、階段を駆け上る。閉じていたはずの床板が上がっているのを見て彼女は飛び出した。
「ちっ、あやかしか。」
屋敷の廊下に戻るはずが、既に彼女の躰は屋敷の外にあった。当然道路の下に穴など開いているはずもない。それどころか道の脇には自分の道具袋も置いてあった。しかも袋の上には昼間借りた洋服まで。結局この広大な屋敷の中では、全てが桐生の思うがままなのだ。
とりあえずここを離れなければ。
道具袋を握り、珠洲丸は駆けだした。日が昇り始めている。
彼女もまた、日の出の元にいた。
そして大蛇との真の戦いの幕開けを、昇り行く光に思うのであった。
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