其の四       古

 意識の途絶えは眠りと同じで、いつのまにやら全てが途絶える感覚である。床に入った時間を覚えているものはいても、眠りに落ちた時間を覚えているものはいない。
 ただ眠りに落ちたその時、自分がどこでどんな姿であるかは覚えていられる。だから目覚めたときにそれと異なる状態にあれば驚くのは当然だった。
 「ん___」
 見覚えのある景色だが馴染みのあるところではない。樹海で意識を失った自分が天井を見ている。それも不思議だが、自分が生きていることも不思議だ。
 「ここは___!」
 漸く頭も覚めたか、珠洲丸はこの天井、この布団の感触を思い出した。
 「気が付きました?」
 貞淑な女が床に伏す珠洲丸を見て微笑んでいる。そうとも。ここはあの桐生月那の屋敷に他ならない。
 「なぜ私がここに___うっ!」
 強引に身を起こそうとして背中に激痛が走る。
 「安静になさってくださいな。」
 だがこの腑に落ちない状況で大人しくしているわけにもいかない。珠洲丸は肘を立て、ゆっくりと無理に上半身を起こす。
 「どういうことだ!?私は樹海で意識を失ったはず___!」
 「樹海の縁で倒れていましたわ。」
 「なに___」
 「気になりましたの。あなたがこの町の何かを探っているとすれば、樹海へと向かうのではないかと。」
 「あなたが関与することではないだろう___」
 「私は既にこうしてあなたに関わっています。なにがあったかまで聞くつもりは御座いませんけど、御無理はなさらないことですわ。」
 桐生は言い聞かせるように口調を強め、立ち上がった。色白の右手に白い布地が見える。
 「その手は___?」
 桐生は「ああ」と自分の右手を眺めた。人差し指に包帯を巻いている。
 「炊事で火傷しましたの。軽いものですわ。」
 そして軽く一礼し、部屋を出ていった。
 「はぁっ。」
 独特の緊張が解け、急な疲れに襲われた珠洲丸。躰の支えを解いて仰向けに寝ころんだ。
 まずは事の整理をつけなければ___

 樹海で白蛇と出会い、そして奴と戦ったのは事実だ。それはこの痛みが証明してくれている。だがなににせよ私は桐生に惑わされている気がしてならない。
 あの土まみれの樹海で、黒い汚れにさらに血まで上塗りして戦った。そこで意識を失ったのにこうして桐生宅の清潔で、穏やかな部屋で目を覚ます。まるで夢を見ていたかと錯覚してしまうところだ。
 初めからそうだ。桐生の優秀な感性を見せつけられたことで自らの意義に疑いを感じ、今は自らが本当に白蛇と戦ったのかを疑ってしまう。幾度となく救ってくれている者に疑念を持つのも心苦しいが、一概に信用できない雰囲気があの女にはある。
 確かに彼女の言うとおり、桐生月那は私に関与する存在なのではないだろうか?
 率直に大蛇のことを問うてみる___のも面白いかもしれない。
 そういえば___  
 白蛇を退治することはできたのだろうか?奴は息絶えたのであろうか?そもそもなぜ白蛇だったのか?樹海にいたのは八岐大蛇ではなく、純白の大蛇だ。大蛇の僕と踏むのが一番簡単な答だが、だとしたら白蛇は何の勅命を持って樹海を彷徨いていたのだろう。
 八岐大蛇に人が近づくことを遮るため___?
 ありがちすぎて面白みはないが、そう考えるのが最も自然だ。とにかく、傷が完治したならまた樹海に行ってみる必要があるだろう。
 あ。
 私は確かあそこで何か見たはずだ___何だったか、その時は確かに強い印象があったのに___何だろう?犬の骸?違う、もっと後だ。意識を失う直前に何かあり得るはずのないものを見た___

 「駄目だ、思い出せない。」
 よほど疲れがたまっているのだろう。珠洲丸は急激な眠気に襲われた。
 「そうだ___まだ桐生に礼を言っていなかった___」
 そんなことを呟いて、彼女は眠りに落ちた。
 ___
 「さっきはお礼も言わないで、本当にすみませんでした。」
 「いえいえ、気になさらないでください。」
 床から身を起こし、食膳の前に腰を下ろす。
 「あなたがこれだけ私の力になってくださるのに、私はあなたに危険ばかりを感じていて___無礼をお許しください。」
 珠洲丸は桐生に対し無駄に警戒することをやめた。こちらが壁を作り続けては、桐生のことを知ることもできないと考えたから。
 「そんなに畏まらないでくださいな。私はあなたが少しでも心を開いてくださればそれだけで嬉しいんですから。さ、召し上がってください。」
 「いただきます。」
 食事をしながらも他愛のない話をしたりもする。そうすることで互いに隙を生ませる。
 「厚かましいこととは思いますが、もし宜しければ暫くこちらに滞在させてはいただけないでしょうか。」
 「ええ、勿論。私も一人暮らしでは退屈ですし、歓迎いたしますわ。」
 やや険悪な間柄が急激に解消される。互いの信頼は希薄どころか、あり得ないかもしれないが、取り繕ったような仲でも二人は二人だ。桐生の真意がつかめずとも、珠洲丸はできるだけこの「食住」を利用し、彼女を探る。

 自らの治癒力を高める術も霊社で学んだ。翌日にもなれば珠洲丸は立ち歩くことを始める。桐生が休むことを勧めようとも彼女は構わずに外出した。
 「さて。」
 白蛇との戦いが自分にとって自信となったのは間違いない。初めてこの町を訪れたときよりも、半ば自分を見失って樹海へ向かうときよりも、遙かに気楽に、落ち着いて歩くことができた。その姿も桐生が与えてくれた洋服で、これといった道具も持ってはいない。髪を結うのもやめて、すらりとのばしていた。
 「この躰で戦いはまだ無理___桐生と大蛇について知識を増やすか。」
 外貌に自信があるわけではないが、こういうときは女で、それなりに顔が整っていることが有り難い。男は女に問われると弱いらしいから。
 「ああ桐生さん?たまにここに来ますね。」
 初めに訪れたのは八尾神社。桐生の家からそう遠くない位置にあるこの社は決して大きくはない。だが歴史を随所に感じさせるものだった。
 「参拝して、たまに資料館を見たりして帰りますよ。」
 玉砂利の参道を掃除していた青年と、珠洲丸は自然に会話をしていた。彼も少し照れながら快く答えてくれる。
 「別に神主と知り合いとか言う訳じゃないですけど、あの人信心深いのかもしれませんね。」
 「資料館と言うのはどこに?」
 「ああ、向こうです。本堂の横手になります。」
 「中にはどんなものがあるんです?」
 「えっと___」
 青年は少し苦笑いしてから思いだしたように言った。
 「この町の歴史とか、言い伝えとか、宝物とかが展示してありますよ。結構古い神社なんですよ、ここ。」
 珠洲丸は数度頷いてから___
 「ありがとう、私も少し見てきますね。」
 「はい、辛気くさいところですけど楽しんでいってくださいね。」
 軽く手を振りながら青年と別れ、珠洲丸は資料館へと向かった。
 「女の子のふりも疲れるな___」
 そんな愚痴も出る。
 資料館。
 本堂の陰に隠れて目立たない、本当に辛気くさい場所にその建物はあった。
 「桐生はここでなにを見るのか___?」
 地元の者が、地元の社にある資料館に何度も訪れて楽しいのか?内容がたびたび変わるわけでもなかろうに。
 「興味あるな。」
 珠洲丸は小走りで建物へと入っていった。
 「___」
 珠洲丸を出迎えたのは、ちょっとしたパンフレットと電話機のある受付とそこにいる年を取った男性だけ。中はひっそりとして少し暗く、他に誰か訪れている様子はなかった。
 「靴脱いで。」
 土足で入りかけた珠洲丸が老人に注意される。
 「___」
 内装はタイル床であまり裸足で歩くには向いていないが、下駄箱はあってもスリッパはない。老人は珠洲丸が靴を脱ぐのを見届けてからは、ただムスッとしているだけで声一つ出さなかった。珠洲丸も質問は後にしてとりあえず見学に集中する。
 資料館の内容は馬鹿にするほど時化たものではなかった。八尾町の歴史、さらにはその産物、それぞれに細かい説明文が掲載され、知識を得るには十分な空間だった。
 「八尾町、その名の由来___」
 明確なことは分かってないらしいが、町の前身である八尾村が八村と尾村の合併したものであるという説が有力。他には、伝説上の怪獣である八岐大蛇がこの町で尾を休めていたとか、退治されたときに丁度尾の部分がこの地域に広がったとか、そんな説もあるらしい。
 「どちらにせよ、この八尾町には古くから大蛇にまつわる伝説があるというわけだ。」
 でなければ樹海に白蛇などいるはずもない。
 「なになに___町の西方に見られる牙山、あの樹海の山か、牙山はかつて大蛇塚と呼ばれ、八岐大蛇の怒りに触れぬようにと人々が生け贄を捧げる場所でもあった。」
 どうやらこの地にまつわる大蛇の話とは、あのよく聞く素戔嗚尊の話とは異なるらしい。
 歴史的な文化財についてはあまり珠洲丸の目を引くものはなかった。大蛇にまつわるようなものがなかったからだ。ただその中で、資料館の奥手に特に厳重に、ガラス張りの棚で守られているもの、それには大いに興味が沸いた。
 「草薙の弓___?」
 それは古びた弓矢だった。弓は木で作られた和弓、矢は破魔矢のようであったが一見には腐った木の枝だ。
 「大蛇を退治した勇士、草薙が用いたとされる弓と矢。」
 どうやらこの地の伝説では、大蛇の中から草薙の剣が出たのではなく、草薙という名の者が大蛇を倒したようだ。
 「これがな___」
 正直信じていない顔で珠洲丸は弓矢を眺めた。その時。
 「!?」
 不意に珠洲丸の脳裏に淡い光が射し込む。頭が何かのイメージを一瞬だけ浮かび上がらせるが、それは珠洲丸の意識に止まる前に消えた。
 「何だ、今何か見えたような___」
 頭の中に何かの映像が浮かんだのは確かだ。だが何か分からない。珠洲丸はどうも調子のおかしい自分に首を傾げた。
 「こいつを見ていて何か思うところがあったのか?」
 もう一度草薙の弓を眺めては見る。が、期待したような変化はなかった。
 「わ〜!」
 「こらっ!靴を脱げこのがきんちょ!」
 遠くの方で声がする。
 「おじさんおじさん、学校の宿題で使うからパンフレット頂戴よ。」
 「やらん!おまえらのような悪ガキにはやらんぞ。」
 「なんだよこのくそじじい!」
 「なにを!おまえらのような悪ガキは八岐大蛇に喰わせてしまうぞ!」
 「へ〜んだ、大蛇は女しか喰わないんだもんね。俺たちは平気だも〜ん。」
 入り口の方がやけに騒がしい。戻るのが億劫なので珠洲丸はもう一度弓を眺めた。
 「やはりこの町の伝説は少し他と違うらしいな。」
 と呟いて。
 ___
 「ったくあの悪ガキども___」
 老人がテーブルの前から出て、なにやら入り口で腰を屈めている。どうやら先ほどの子供達が積んであったパンフレットを落としてばらまいたらしい。
 「大変ですね。」
 「んあ?ああ、まあな。」
 老人は訝しげに珠洲丸を眺め、荒っぽい口調で言った。落っこちたパンフレットを集めるのを珠洲丸も手伝う。
 「ちょっとお伺いしたいんですが、桐生さんはよくこちらに来られます?」
 「桐生?誰?」
 「細身で長髪の女性です。」
 それだけで老人はハッとする。
 「ああ、あのべっぴんさんね。よく来るよ。なにをそんなに見に来るのか知らないけど、いつもよく見ていくね。ああ、あの人が桐生ってのか。あのお屋敷の___」
 「この土地に住んで長いのでしょう?なのに彼女があの屋敷に住んでいることを知らなかったの?」
 「あんまり印象なかったな。ここによく来るから顔を知ってただけさ。」
 あの大邸宅はとても目立つが、桐生本人はあまり目立つ人物ではないようだ。
 「全く、その桐生さんやあんたみたいな客は歓迎するけど、ああいう悪ガキはごめんだよ。おう、あんがとさん。」
 パンフレットを整えて老人は定位置に戻った。珠洲丸も会釈で答え、建物を後にした。
 「大蛇のこと、桐生に聞いてみるか。」
 いつもよりゆっくりとした足取りで珠洲丸は桐生の屋敷へと戻っていった。

 「ただいま。」
 「お帰りなさい。帰ってこなかったらどうしようって心配しましたわ。」
 「日暮れまでには戻るって言ったじゃないですか。」
 二人の会話も随分自然になってきた。まだこの屋敷に入って三日目だというのに、珠洲丸自身、随分馴染んでいると感じていた。
 「お茶でも入れましょうか?」
 「お構いなく、それより後で少し話を聞きたいのですけど。」
 「ええ、喜んでお伺いしますわ。」
 とはいえ改まった会話をしている間は他人という意識が強い。暫くして、珠洲丸が間借りしている部屋へと桐生もやってきた。
 「包帯変えましょうか?」
 珠洲丸の洋服の下にはまだ痛々しい包帯が晒しのように巻かれている。
 「後で少し手を貸していただければ構いませんから。それより話を___」
 「ええ。」
 桐生が大蛇に関わっているかもと心の中で思っていたので、それを聞くには多少の覚悟が必要だった。これから聞くことは桐生を試すことでもあるのだ。
 「月那さんは___」
 珠洲丸は桐生にこう呼ぶように勧められている。
 「八岐大蛇の話を知ってます?」
 桐生の答えは早くなかった。というか自然な間だ。
 「と、いいますと?」
 「実は今日、八尾神社の資料館を見てきたんです。あそこで八岐大蛇の話が所々出ていたんですけど、どうも私が昔聞いたものと違うから少し気になったんですよ。月那さんがよくあそこに行かれるって聞いたから、知らない人に聞くよりは月那さんに聞こうかと思って。」
 「左様でしたか。」
 桐生は笑顔で小さく頷いた。
 「そうですわね、確かにこの町に残る八岐大蛇の伝説は他とは違います。でも実際どうなのでしょう。私はこの町の伝説が真実ではないかと思うのですけれども。」
 「その伝説を聞かせてもらえます?」
 「宜しいですわ。」
 桐生はゆっくりと話し始めた。まるで昔話でも聞かせるように。彼女はその手に書を持ってはいない、しかし記憶に描かれた文面を朗読しているかのようだった。

 遠い昔___まだ人々が、広い世界を知らない頃の話。
 大地の壁に包まれた、辰巳(たつみ)の国に出し神知る怪奇。
 名を八岐大蛇という。
 大蛇___
 赤き眼で国を見据え、人の有様を笑うものなり。
 猛き声で雲を呼び、地に災いと恵みをもたらすものなり。
 徒に人を喰らい、娘を乞うものなり。
 人々は大蛇を恐れ、その怒りに触れることを嫌った。
 故に大蛇塚(おろちづか)に娘を、贄(にえ)を捧ぐ。
 娘失うも、大蛇が怒ることはない___
 ただ娘を知るものたちだけは、言いえぬ悲しみを知る。
 人々、大蛇の呪縛を断ち切ろうと、娘捧ぐのを絶つ。
 大蛇は怒り、地を割り、天を唸らせ、人々に大いなる災いをもたらした。
 人々は再び大蛇に震えた、叶わぬものと思った。
 ただ一人の男を除いて。
 その男の名は草薙。辰巳の名士の若君である。
 弓の名手であり、これまでも数多くの怪奇に挑みし勇気と、神懸かりを持つ男であった。
 草薙が立ったのは大蛇が新たな贄を得て間もなくのこと。
 その贄、櫛名田姫は草薙の思い人であった。
 最愛の人を大蛇に奪われ、草薙はその思いを大蛇へと向けた。
 大蛇塚に赴く草薙。呼応するように大蛇も現る。
 引き絞られる弓。煌めく牙。
 両者の戦は壮絶を極め、国を囲う大地の山壁を崩したという。
 一昼夜に及ぶ戦を制したのは草薙。
 八つの首全てを射抜き、矢に宿りし退魔の力で大蛇を滅した。
 ただ八岐大蛇もただ終わりはしない。
 敗れし恨みを力と交え、草薙をも道連れにしたという。
 草薙は人世より葬られ、大蛇の骸は塚へと横たわる。
 戦で荒れ果てた大地、しかし大蛇の骸が地に解けるとそこは一面の森へと変わった。
 贄となった娘達、そして草薙は戻らない。
 しかし人々は彼を讃え、そして大蛇が残した恵みに感謝した。

 「随分な話ですね。」
 桐生が語り終えたと感じ、珠洲丸は言った。
 「そうですわね。」
 「大蛇は大地の守り神だった___ということでしょうか?」
 「どうでしょう。どちらにせよ伝説は伝説。そこまで深みを読むことはかないませんわ。」
 桐生にとってはただの伝説でも、珠洲丸にとっては違う。だいたい、桐生だってそのただの伝説をやけに詳しく知っているではないか。
 「お話には満足いただけました?」
 「___ああ、ありがとう。とても面白かったです。」
 二人は笑顔を交わす。
 「風呂を炊いてまいりますわ。」
 そして桐生は部屋を後にした。長い縁側を音もなく歩む。
 「私のことを___」
 桐生の眼差しはいつなく強く、その瞳は若干赤みを帯びていた。
 「感づいてはいるようね___」
 不適な微笑み。軽く舌で唇を濡らす。
 「そろそろ教えて上げようかしら___私を。」
 その呟きを珠洲丸は知らない。




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