其の三 怪
翌朝、珠洲丸の部屋へとやってきた桐生は彼女がいないことを知る。布団は几帳面に畳まれ、机の上には礼状が添えてあった。文面も至って几帳面で、桐生への詫びと礼が簡潔に述べられていた。
「急くものね___」
桐生は手紙を畳み、元あったように机へと戻した。
「意志と血潮だけは認められる___だが身には乏しいわね。」
屋敷にたった一人の桐生。その美しい顔立ちに暖かみはない。昨日の珠洲丸に見せていた穏やかな笑顔が嘘のように、彼女の唇は嘲りで歪んだ。
そのころ珠洲丸は町を歩いていた。ただその足取りは重い。
「自信が揺らいでいる___」
今日は樹海へと向かうはずだった。しかし桐生の屋敷を出る前から珠洲丸は悩んでいる。
「大蛇がどんなものかも知らず、この町にいるのかさえ不確定、しかも私は桐生に及ばないほど未熟___」
退魔師という職、古代の怪奇の存在、父の傷、妖力、云々___それらについて疑う余地はない。現に父と怪奇との戦いをこの目で見たことがあった。幼い頃とはいえ、黒い血飛沫を振りまいてのたうち回る歪んだ体躯を忘れることはない。
だが。
「私が退魔の力を持ち、古代の怪奇と戦える存在かどうか___」
ということには疑念を覚える。自分が普通の、どこにでもいる女とどれだけ違うのかが分からないのだ。
「桐生はただの女だ。だが霊感に優れているという。」
珠洲丸にとって桐生月那はこの町でただ一人、名前で呼ぶことのできる人物だ。その人物は「感」と言うことで自分より優れ、視線に高貴なものを持つ。この町に数いる人物の中で、たった一人接触した人がそれだったのだ。つまり今の珠洲丸にとって、桐生がどこにでもいる女なのである。
「自信を取り戻すには___自分が普通でないことを、自分の力で実感する。」
珠洲丸は桐生に振り回される思いだった。結局彼女は、警鈴を取り出して樹海へと向かった。そこで何か起こってくれれば、この町に自分がいて、自分の力を使う場があることが確かめられる。桐生には関わらないことも。
八岐大蛇とはどんなものだろう___
珠洲丸は樹海へ向かう道すがら、ふとそんなことを考えた。思い起こされるのは伝承の中にある八岐大蛇。誰に聞いたわけでもない。父が語らってくれたかも分からない。ただ彼女はその神話のあらましを知っていた。
それは遠い昔に書き綴られたお伽話___
彼女にとってもかつてはそうだった。
八岐大蛇。
神話に現る大ヘビの名。
八つの頭に猛る劫火を___
八つの尾に劈く雷を___
紅の瞳には血の狂気を___
背には堅固なる大地の意志を___
言うなればあらゆる力と災いの象徴を持つ化け物。
尺は谷八つを渡るというその大蛇は、年に一度、越の国より出雲に現れアシナヅチ、テナヅチ夫妻の娘を喰らっていた。だが最後の娘である櫛名田姫(くしなだひめ)を喰らおうと出雲に現れたとき、天より落とされた若獅子、素戔嗚尊(すさのおのみこと)によりヒの川の上流で退治された。この時、骸の尾より現れたのが天叢雲剣、すなわち草薙の剣である。
これが神話の顛末。大量の酒で大蛇を酔わせただの、大蛇の血で川が赤く染まっただの、様々な脚色と思える事象もある。だがこれが俗に言うお伽話ヤマタノオロチの粗筋だ。
神話自体は素戔嗚尊を描いたもので、八岐大蛇は脇役。大きな話の終盤に尊の引き立て役としてチラッと現れたにすぎない。だがしかし、世間的には神話のこの部分だけが抜粋され、ヤマタノオロチのお話として知られている。
当の珠洲丸も大蛇の話は知っているが、素戔嗚尊の話は良く分からない。しかし彼女はそんなお伽話の化け物と戦えといわれた。尊はどんな気分で大蛇に立ち向かったのだろうか。今更ながら尊のことをもっと知っていれば良かったと思う。
「ま___神話はあながち誇張し過ぎだからな。」
なぜそんなことを呟くか?
だって谷を八つ渡るほどの躰があっては手に負えないじゃないか___
「そう言えば、大蛇は未だに娘を喰らうのだろうか___?」
あ、警官が言っていたな___若い女性の失踪が多いって。
珠洲丸は自分の矛盾を感じた。大蛇を倒すことが自分の使命と認識していながら、大蛇の存在には疑心暗鬼なのだ。だから少しでも大蛇がこの八尾町にいると思える現象を快く感じてしまっていた。変な話だ。
昔話を思い出し、いろいろ考えているうちに樹海の端へとやってきた。
「このあたりから踏みいるとしよう。」
樹海の周囲には整備された公道もない。樹海を挟んで八尾町と隣り合う町へは、大きく迂回した道を行くことになる。そもそもこのあたりには家も見あたらず、農地や荒れ地がほとんどだ。
「人目に付かないのはむしろ好都合だ。」
珠洲丸は背で自らの髪を束ねる結い紐に重ねるようにして、警鈴を結びつけた。そして手には道具袋から取り出した一本の短刀を握る。
「よし。」
樫の霊木で作られた鞘には浄化の経文が記され、常にしっとりと濡れたような感触を肌に与える。それは霊社の宝殿で見つけたものだった。
「大蛇よ、その姿を我に示せ。」
口の中に声を閉じこめ、珠洲丸は樹海に踏み込んだ。その瞬間。
リーン。
「!?」
突然のことに珠洲丸は目を見開いた。思わず後ろを振り返るが、自分の背中で警鈴はカシャカシャとくすんだ音を発する。だが踏み込んだ瞬間だけは違ったはずだ。
「今確かに済んだ音色を___」
それは古代の怪奇が近いことの証。
「___」
珠洲丸は口を真一文字に結び、一つ拳に気合いを込めるともう一度樹海へと歩き出した。
「大蛇がいる___やはりこの森に大蛇が___」
足取りが早まる。だが軽くはない。慎重に、かつ俊敏に、獲物を追う狼のように進む。大蛇は既に自分のことに気づいているのだろうか?もし気づいているならば、奴は自分の巣に獲物が舞い込んだことをほくそ笑んでいるのだろう。
「?」
ためらうことなく進んでいた珠洲丸の足が止まる。彼女の足下には黒ずんだものが転がっていた。
「骸か___?」
骨も浸食されていて、形態を掴むのは容易でないが、それは腐敗した山犬の骸のようだった。解け落ちた蛋白が半分土と同化して、一見茶色い塊にしか見えない。だが首らしき場所に小さな金具が落ちていた。
「この樹海には人がよく迷い込むと聞いたが___」
自殺者も多いという。
「白骨がないな。」
とはいえまだ踏み込んで間もない。珠洲丸は犬の骸に一瞥をくれ、再び歩き出した。
「骨まで食い尽くされればなにも残らない___か。」
そんな憶測を浮かべて。
二時間ほどたった___
時間を知るものを持たないので確かなことは言えないが、光の射し込む角度の変化でその程度は推察できる。木々の密度は変わらないが、奥へ進むほど気温が低下しているようだった。心なしか葉をすり抜けてくる太陽光も少ない気がする。だが不気味なのはそんなことではない。帰路についても問題はない。
「なんて静かなところだ___」
それだ。あまりにも静かすぎるのだ。
これだけの植物があって、命の循環を得るには最高の場所なのに、その灯火が感じられない。無風かと疑うほど植物達は微動だにせず、虫の羽音、鳥の鳴き声、獣の足音、獲物たちの警鐘。
一切ない。
木の幹や石の裏側の小さな虫たち。大きな止まり木に群を成す小鳥たち。獣たちのなわばりの証。あらゆる生物の糞。
見ていない。
あったものといえば先ほどの野犬の骸。だがあれもこの樹海に迷い込んだ「外」の犬だ。首輪についていたであろう金具、あれが証拠。
「ここには一切の生き物の気配がない。」
植物達は生きているはず。しかしそれさえも抜け殻に見える。今ここで生きているのは自分だけ___そう思えた。
自ずと緊張が高まる。彼女は生唾を飲み込んで、足を進めた。
そして大いなる変化はその一時間後に訪れたのだ___
リーン___リーン___リーン___
警鈴が済んだ音色をうるさいと思えるほど鳴らし始めた。小さな鈴からは本来聞こえない、鐘のような音色。
「来た。」
警鈴は持ち主に怪奇の接近を教える代わりに、怪奇にも自分の存在を知らしめてしまう。だが珠洲丸は動じなかった。相手が八岐大蛇ならば、肉の臭いだけでこちらの位置など手に取るように分かると踏んでいたから。
「___」
落ち着いた顔つき、しかし俊敏な動作で珠洲丸は警鈴を外し、一念を込めてから胸のポケットにしまった。鈴の音色が止まる。余韻の中で彼女は短刀を握り、近くにいるであろう怪奇の気配を探る。こういうときだけ操られるように風が吹き、木々が騒ぐ。
サアアアアア___
何かが大地を這う音。
ザアアアアア___
時に横に揺れながら、どんどん大きくなる。
ザザザザザザ___!
引きずられるように珠洲丸の瞳孔も大きくなっていく。
彼女が白銀の短刀を鞘から抜いたとき、そいつも姿を現した。
「シャァァッ!」
木々の間を怒濤の勢いで白いうねりが突き抜けてきた。珠洲丸は類い希な反射神経で横へと飛ぶ。珠洲丸の目前をうねりの長い躰が猛スピードで過ぎていく。
「白蛇(はくじゃ)!?」
一瞬だったがその姿はしっかりと目に焼き付けた。突進をしてきたその先頭には確かに蛇の顔があった。
「また来る!」
うねりの先頭が20メートルも離れたところで大きな弧を描いて反転する。その先端には確かに顔がある。だが首は一つだった。
「八岐大蛇ではないのか___!」
だが怪奇であるには違いない。丸太よりも太く、全長50メートルはあろうかという白蛇だ。
「フシュウゥ___」
白蛇が速度を落とした。威嚇するように首を持ち上げその真紅の瞳で珠洲丸を睨む。
「丁度良い___」
初めて戦う怪奇が八岐大蛇でなかったことを今は素直に喜ぶとしよう。自分の力を試すには良い相手だ。そう珠洲丸は割り切った。
距離を取っての決して短くはない対峙。美しいほどに純白な蛇は土の汚れすら受け付けていない。
「シャアアッ!」
突如白蛇がその口を開いた。真っ赤な口内に一際輝く白銀の牙。その先端から何かが飛沫となって吹き出された。
「くっ!」
不意を付いた攻撃に多少反応が遅れた。すぐ左手の木に身を隠しはしたものの飛沫の一部を右肩に受けた。液は服の繊維を食い破り、右肩に焼け付くような痛みを与える。
「毒液か___!」
ゴオオオ!
敵は待ってはくれない。痛みに集中を乱しているうちに、うねりの轟音はすぐ後ろまで迫っていた。
「!」
木を突き破ることなど一瞬だ。珠洲丸の躰が隠れるほどの樹木を白蛇は体当たりでなぎ倒し、その牙を煌めかせた。だが珠洲丸の感覚も並ではない。高く跳躍することで大蛇の牙だけは免れた。
「ぐあっ!」
しかしその躰全てが彼女の下を通過するまでには時間がかかる。珠洲丸は壮絶な速さで駆け抜ける白蛇の胴に躰を弾かれ、近くの木に激突する。
「ちっ___」
大蛇はまた離れた場所で大きく旋回する。珠洲丸は背中の痛みを振り切るように木から離れた。
「なぶり殺しにするつもりか___」
動き回らねば、奴の思うつぼ___
逃げる珠洲丸、追う白蛇。だが彼女とて単に奴の牙から逃れるために駆けるわけではない。
「どこかで隙は生じる___その一瞬で奴に致命傷を与えればいい___」
白蛇は珠洲丸の動きに確実についてくる。よって彼女が複雑に動けばそれだけ、白蛇は木々に躰を編み込むような形となっていく。牙で食らいつかれれば命はないだろう。だが躰にぶつかるだけでもあの速度では致命傷になりかねない。しかし無数の木に挟みつければ躰の軌道は固定され、脅威となることはない。
「強大なものに力で及ばねば、賢しさで勝つのみだ!」
珠洲丸が急に足を止めた。ここぞとばかりに白蛇は牙を剥き、彼女に食らいつこうとする。
「今!」
大きく開いた口がそのまま彼女を飲み込もうかと言うときに、珠洲丸は横へと飛んだ。その背後にはこの樹海の中でも大きい方に入るであろう木があった。
「ガッ!」
頭から突進したなら先ほどのようにうち倒すこともできたろう。しかし今は大口を開けている。鋭さがかえって災いし、白蛇は木の幹にその牙を深々と突き立てた。
好機!
白銀の短刀が風を切る。
「ギュアアアァァゥ!!」
白蛇が叫んだ。短刀は真紅の左目に深々と突き刺さり、赤い涙を生む。怪奇の血も赤。そんな悠長なことを一瞬でも思えるほど、珠洲丸の動作には余裕があった。だが言い換えるならばそれは油断だ。
「シャァァァッ!!」
「なっ!?」
白蛇は怒りの声を上げ、左目の瞼を堅く閉ざす。そして猛然と首を振り上げた。
「これだけでは逝かないか___!」
白蛇の牙は木から軽々と抜けた。しかし珠洲丸の短刀は白蛇の瞼に締め付けられてびくともしない。
短刀を放してしまえば、彼女が奴を傷つける手段は消える。これだけはどうしても放せない。
「ま、まずい、うああっ!」
白蛇もそれを察しているのだろう。懸命に短刀の柄を握りしめる珠洲丸をいたぶろうと、怒濤のように樹海を滑り始めた。
「っ___!」
石が、木々が、大地そのものが彼女を傷つける武器となる。大蛇が速度を速めれば速めるほど、引きずられる珠洲丸の躰は傷つけられていく。特に剥き出しの足はすぐに無数の擦り傷で赤く染まっていった。
「ああっ!」
悲鳴の混ざった声。自分でもこんな危機に立つ淑女のような声が出るのを知る。
白蛇が突然左の瞼を開き、首を勢いよく右へと振った。短刀は簡単に眼球より抜け、彼女の躰は勢いで飛ぶ。
ダン!
そして彼女は木の幹に強く躰を打ち付けた。息が詰まって喘ぎも出なかった。こういうときだけは木の頑丈さが恨めしい。
「___」
白蛇は木にもたれて動けないでいる珠洲丸の前で勝ち誇っていた。無駄に動きもせず、悠然と鎌首で珠洲丸を見下ろしていた。
「私は___貴様なんかにやられはしない___」
だが珠洲丸の瞳も死んではいない。躰は血に染まろうと、黒い瞳は獣のように輝く。
「___」
白蛇は無言で数度舌をちらつかせ、徐にその口を開いた。
「___」
虎視眈々。珠洲丸の右手は白蛇の見えない角度で短刀を握りしめている。
鎌首からの下降。
白い姿で黒い影を落とし、白蛇は珠洲丸に食らいつく。
珠洲丸は渾身の力を込めて刃を突き出す。
白銀の輝きに肉が抉られる。
照準を違えたのは___白蛇。
短刀は白蛇の上顎に突き刺さっていた。
だが白蛇もただではすまさない、牙の先端が今にも飛沫を吹き出そうとしているのが珠洲丸にも間近で見えた。
「え?」
飛沫は吹き出されたのだろうか。その一瞬は曖昧で、なぜか牙ではない別のものに目を向けていた。
ほんの一瞬。珠洲丸は樹海の奥へと目を移していた。そしてあり得るはずのないものを見る。一瞬だけ見たものの方が、鮮明ではないにしろ印象には残るもの。
それは恐らく男だ。
黒装束を身にまとった男が木々の狭間の奥にいた。
ただそのあり方が普通じゃない。
折れた樹木に躰を突き刺した、串刺しの姿でそこにいた。
多分。
___
白蛇が飛沫を吹き出したらしい。そこで彼女の意識は途絶えた。
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