其の二       恥

 桐生月那の家は、彼女と珠洲丸が初めて出会った閑静な住宅街にあった。珠洲丸はまだ現代の町の様式に馴染んでいるとは言えないが、各家の間隔も狭く、圧迫感のある住宅街の中で桐生の家だけが常識はずれであるということははっきり分かった。
 「ここですわ。」
 桐生邸の門構えへ辿り着くまでに一町半は同じ垣根を見ていた。そして垣根が途切れたときにはもう門構えの前だった。あまりにも莫大な敷地を占拠しているのが彼女の自宅、いや邸宅だったのだ。
 「どうぞ、お構いなく。」
 小さな瓦屋根のある門構えを抜けると今度は玉砂利の庭園が広がる。そしてその先に見えるのはまるで昔の貴族の屋敷だ。
 「気にせずお上がりなさい。ここには私しかいないのですから。」
 霊社を思い出すほど、桐生が戻る前の屋敷は冷たく暗い。人の気配など更々なく、彼女がここに一人住まいであることは明白だった。
 「お邪魔します。」
 寺社よりもよっぽど神聖な感じだ___
 「時代錯誤なところでしょう。」
 「いえ、こういう雰囲気の方が落ち着きます。」
 今日初めてであった人物の家に上がり、その古風な景色に心が躍る。今までのぶっきらぼうが嘘のように、珠洲丸は簡単に本音を語った。
 「今お茶を入れてきます、ここで待っていてください。」
 居間の座布団に珠洲丸を落ち着かせ、桐生は立ち上がった。
 「お構いなく、一晩休ませていただけるだけで十分です。」
 彼女は少し渋い顔をしてからまた微笑んで言った。
 「何か事情があるにしても、人が生きるためには衣食住は欠くことのできないもの。あなたはそのうち一つしか満たしていないようにお見受けしますわ。」
 「___」
 「人の好意を無駄にしては幸が逃れます。」
 「私への好意はあなたを不幸にする。」
 桐生は少し真顔になり、珠洲丸と視線を交わし続けた。珠洲丸の瞳の奥をのぞき見るような、長い対峙だった。
 「その心配はいりません。」
 その一言が酷く珠洲丸の脳裏に焼き付く。居間から縁側に出て、桐生は振り返った。
 「もし宜しければお名前を伺えます?」
 「___」
 珠洲丸は答えなかった。
 「___左様ですか。無理強いは致しませんわ。」
 桐生が消える。広い居間で珠洲丸はたった一人になった。いろいろな憶測を浮かべる前に一度居間の景色を見渡してみる。その時初めて、この部屋を明るくしているのが行燈だということを知った。電灯に比べて遙かに暗いが、霊社で同じ光源を用いていた珠洲丸にとってはこの方が自然なのだ。
 「桐生月那___ただの変わり者か___?」
 まるで飾り気のない和室、外を見れば玉砂利の庭が広がる。車の音も遠くてはっきりしない、まさにこの屋敷は別空間だった。
 「妙な人だ___」
 珠洲丸は今日のこと、特に桐生とのことを思い出す。そのどれもが唐突だが、偶然とは思えないほど自分と桐生は接近している。元はといえば近づいてきたのは桐生だ。自分はなるだけ人との接触を避けていたのに、どういう訳か今こうして彼女の家の居間にいる。
 これはどういうことだ?
 片方が人を求めていないのだから、もう片方の力に自分が引き寄せられたに違いない。
 「桐生が私を呼んだんだ。」
 なぜ?自分には大蛇を倒す使命がある。それに何か関わっているのだろうか?
 勿論そう考えてしまうのは自分が特殊な立場にあるからで、普通ならば桐生に何かやましい心があるか、ただの親切な女かと考えるだろう。
 尤も、彼女が自分についてどんな思いを、どれほどのことを知っているかは別として、私は桐生月那について全くの無知だ。答えは彼女という存在を知れば見えてくるだろう。
 「それには会話をしなければならないか___」
 ___苦手だ。
 珠洲丸は少し滅入った。
 コトッ___
 暫くして桐生は盆に湯飲みとちょっとした茶菓子を乗せて戻ってきた。珠洲丸の前にそれが置かれる。未だに戸惑いはあったが、結局多少の警戒を持って口にした。
 次に彼女の前に持ってこられたのはちょっとした食事。炊事が得意でないと言う前置きをつけ、桐生は米と味噌汁、焼き魚の膳を珠洲丸に与えてくれた。
 「桐生さん。」
 温かい食事を前にし、珠洲丸が自分から桐生に話しかけた。
 「はい?」
 「私の名は石川珠洲丸です。」
 「___?」
 名乗ることを渋っていた珠洲丸の変貌に桐生は小首を傾げた。
 「これだけのもてなしをしていただいて、名乗らないのはあまりにも不躾でしょう。」
 「義理堅いのですね。それにその若さとは思えないほど落ち着いてらっしゃる。」
 「性分です。」
 珠洲丸が食事をしている間、桐生はなにをするでもなく座っていた。その姿に時折目を移し、珠洲丸は彼女の真意を模索していた。
 ___なぜ彼女はこうも自分に優しくしてくれるのか?
 警官との応対を見ると、彼女が優しい人物として通っているのが良く分かる。私と彼女が親戚なんて、馬鹿げた嘘だ。警官は桐生が言うならとそれを黙殺したように見えた。
 ___どうして私と彼女は引き合うのか?
 それは錯覚だろう。私が今の時代にそぐわない格好でうろついていたから、彼女が気にかけただけだ。私は別に彼女のことなど気にかけてはいなかった。
 ___それにしても親切すぎるのでは?
 分からないでもない。これだけの広い屋敷にどうやら彼女は一人住まいだ。人恋しいところもあるのだろう。
 ___彼女に興味を持っている?
 持ち始めてはいる。ただの親切で世話好きな令嬢なのだろうが、彼女と初めてあったとき何か感じるものがあったのも事実だ。
 「ごちそうさまでした。」
 「いいえ、こんなものでよければ___」
 時間がたてばたつほど、珠洲丸は桐生の馬鹿げた無警戒に呆れるようになった。先ほどもそうだが、これほど広い屋敷に見ず知らずの人を呼び込んで、部屋で一人になる機会を与えたりしている。食事を終えてからの発言には特に呆れた。
 「お一人のほうが宜しければ、私は別の部屋に移りますわ。三つ向こうの私室におりますから、何かあればいらっしゃってください。」
 桐生はこの古びた学生服を着た変な女が、この屋敷にある金品を盗み出すとは思わないのだろうか?
 「お湯を炊きましたから、お躰を暖めてくださいな。」
 風呂まで勧めた上に、珠洲丸がその申し出を無視していると「先にいただいても宜しいかしら?」という始末。
 確かに自分は恩を仇で返すようなまねはしない。しかし桐生の無神経さはあまりにも行きすぎだ。子供っぽい発想ではあるが、遠い昔におとぎ話で聞いた鬼婆の話と今の自分がダブって見えた。
 道に迷っていた旅人を一晩泊めてくれた優しい老婆。山奥の一人暮らしで寂しかったという老婆は、旅人に最高のもてなしをしてくれる。美味しい食事、温かい風呂、柔らかい布団___至福の時を過ごして眠りについた旅人は夜中に奇妙な音で目が覚める。その音は老婆が包丁を研ぐ音。躰が動かない。老婆は見る見るうちに鬼の形相へと代わり___
 ___馬鹿らしい。
 珠洲丸は徐に立ち上がった。くだらない妄想をするくらいなら、桐生の親切と無警戒を問いただせばすむことだ。
 「桐生さん。」
 珠洲丸が開け放たれた障子の向こうをのぞき見ると、ゆったりとした座椅子に腰掛けて桐生は本を読んでいた。しかし声をかけられた途端嬉しそうな笑顔を見せ、しおりも挟まず本を閉じる。
 「なにか?」
 濡れた長髪を背で束ねる桐生の姿。白い肌を覆う白装束。水気を帯びた黒髪との対比はあらゆる男を魅了するだけの艶、いやそれを通り越して妖し。
 「聞きたいことがあります。」
 「はい。」
 「あなたには張りつめたものがないのですか?」
 遠回しなものの言い方ではあるが、桐生の才知を知るには良い。
 「___緊張という事かしら?」
 その答えは理想だ。
 「あなたは常軌を逸したほど無警戒だ。初対面の者を家に上げ、これほど広い屋敷の一室に一人にするなんて___私も世間の常識には疎いが、あなたが度の過ぎた非常識であることは分かる。」
 「あらあら___」
 失礼を承知の言葉にも桐生は苦笑するだけ。
 「御免なさい石川さん。」
 「珠洲丸で構いません。」
 初対面の相手に名で呼ばせる人も珍しいのでは?___と桐生が思った事を珠洲丸は知らない。
 「珠洲丸さん、私は自分でも人を見る目にはそれなりの自信があるのです。誰彼とて同じようなもてなしをするわけではないのですよ。あなただからこうしているまで。」
 「なにを根拠にそんなことを___」
 「全てのことに根拠があるわけではありませんわ。」
 「ならば私を見てあなたはなにを知ったと言うんだ!?」
 桐生の微笑みは相変わらず冷静。
 「なにも。」
 この女は___!
 表面の優しさとは裏腹に、人を食ったような言動ばかり目が付く。珠洲丸はここ数年感じた事のない苛立ちを覚えた。
 「なにも知りはしませんわ。感じはしましたけど。」
 「感じた?なにを?」
 「そうですね___」
 次の言葉は珠洲丸の癇に障るものだった。
 「あなたは母を求めて旅する真白の心を持った少女のようでしたわ。」
 自分がどんな顔をしたかは分からない。どちらにせよ嫌悪の滲んだ顔つきをしていたに違いない。理由は簡単。求めるものが大蛇だから。
 母ではなく、宿敵。いとおしく、優しいであろう虚像の母から最も遠い存在。
 「___ふざけるな!」
 だから怒鳴ってしまった。
 「母だと!?私の求めるものが母だと!?」
 その時の自分はどれほど動揺していたのだろう。大したことでもあるまいし。
 「その言葉は我が母への侮蔑に等しい!そんな軽口___!」
 桐生の白装束。その胸ぐらを掴んで睨み付けていた。まっすぐ、間近で互いの視線が交錯する。微笑みのない桐生に見据えられると、瞬時に珠洲丸の興奮は収まった。
 黒い瞳の奥に青みがかった波を見る。その冷たい色が珠洲丸をも冷やしたようだった。
 「申し訳ありません___」
 珠洲丸の強気は挫けなかった。その潔さで彼女は自分が取り乱したことを平に謝り、畳にその額をつけた。
 「いいえ、謝るのはこちらです。なにも知らずにあなたを傷つけることを言ってしまったようですし___」
 珠洲丸はまだ頭を上げない。桐生の溜息が聞こえた。
 「珠洲丸さん、私はこれでもちょっとした家の出なのです。資財とかそう言うことではなく、もっと霊的なもの___あなたに霊的な強さを、意志を感じたから近づきたかったのですわ。」
 「___」
 「この八尾町には確かに霊的に強いものがいるようです。あなたもそれに惹かれてきたのではないかと思った___」
 「あなたは___」
 珠洲丸は不意に顔を上げた。何かを問いかけて、途中で言葉を濁す。
 「なにか?」
 「いえ、なにも___」
 珠洲丸はゆっくりと立ち上がる。
 「今晩はお休みになって。また明日にでもゆっくりお話しいたしましょう。」
 「いいえ、ご迷惑はかけられません。」
 敷居の手前で跪き、珠洲丸は再び礼をした。霊社で修行したわけでもないのに、自分より遙かに優れた感を持つ桐生に敬意を表して。
 現実的な問題から、床には就かせてもらった。だが暫く間は柔らかな布団の中で縮こまり、桐生月那のことばかり考えていた。
 その人格を見改めもした。
 自分と比べもした。
 詫びもした。
 いろいろな事柄を整理して、明日は日が昇らないうちに発とうと決める。
 大蛇を感じているのは自分だけだという慢心。その代償が恥で済んだだけましだった。
 桐生が自分を捕って喰う存在ではなかっただけ___




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