其の一     名

 そこは酷く静かで、冷たく、清らかな空気が張りつめていた。切り立った山間に建つ寺は大きいが人気に乏しい。足を踏み入れれば床の冷たさに驚き、誰かの声や足音さえ聞こえないことに震えが走る。だが綺麗に磨かれた床は埃一つなく、広い堂に立てられた蝋燭の灯火は一様に自らの輝きを誇示している。寺はその景色全てに汚れを持たず、よもや人の寄る場所とは思えない神聖さで身を覆う。
 霊社(れいしゃ)とはそういうところだった。
 「この凍った日々ともお別れか___」
 霊社の巫女、石川 珠洲丸(いしかわすずまる)はここにたった独りで住んでいる。彼女はその血故、ここで生きることを強いられた。強い精神力で、彼女は孤独を克服し、気の狂いそうな静寂の中で、耐え、学び、鍛えた。そして彼女は戦う資格を得る。
 「世に紛れ、生きながらえる古代の怪奇を討て。」
 彼女は退魔師の一族に生まれ、幼い日のうちに霊社へと送られた。霊社の試練を克服し、晴れて十六の冬を迎えたとき、社神より戦う資格が授けられる。
 退魔師は元来男の職である。が、もはや退魔師の血族は珠洲丸を残して他にはなくなったというのが先代の、すなわち父の遺言だった。彼女の父は珠洲丸を霊社に託し、夜叉と相まみえそれきりだったのだ。
 「太古の怪奇、八岐大蛇(やまたのおろち)。」
 十六の冬、霊社を一人の虚無僧が訪れる。僧は時を迎えた退魔師に、その使命を与え消えていく。珠洲丸にとってはそれが夕べのことであった。
 虚無僧の声は酷くこもっていて、それでいて腹の奥に直接浸み入るような迫力があった。聞き取りやすい声ではないのにその一言一言がしっかりと珠洲丸の脳裏に焼き付いていた。
 「世に紛れ、生きながらえる古代の怪奇を討て。紛れし者は太古の怪奇、八岐大蛇なり。」
 彼女はこの言葉を自然に何度も呟いていた。広い堂の蝋燭を一つ一つ丁寧に吹き消し、一通り雨樋を下ろし、井戸に蓋をする。その都度言葉が漏れた。
 全てを終えて彼女は霊社の前に立った。霊社は棺桶のようなただの暗い箱に見え、この冷たい社にも多少なりの人の暖かみがあったのだと実感した。
 「退魔師、石川珠洲丸。社神に誓おう。必ずや大蛇を討たんと!」
 溌剌とした声が山間に響く。木霊が消えた頃、珠洲丸はゆっくりと荷物を背負い霊社をあとにした。
 山を下り、一路大蛇の巣喰う土地へ向かうため。

 僧服を身にまとった珠洲丸の姿は町にはあまりにも不釣り合いで、すれ違う人の目を自ずと引きつけた。しかしたとえ僧服でなくとも珠洲丸は人の、少なくとも男の目を引くだけの器量の持ち主でもある。
 「この姿ではあまりにも目立つな___」
 珠洲丸は女性にしては背丈が高い。はっきりと、引き締まった目元に、凛々しい眉。すらりと通った鼻筋に、桜色の唇。顔立ちこそ女性であるが、彼女の表情は繊細さや弱さよりも凛々しさ、逞しさに溢れていた。そしてなにより目を引くのは緑の黒髪。背で結われた髪の先は腰にも届くほどの長さであった。
 「そうだ。」
 珠洲丸は父が霊社に残してくれた衣服のことを思い出した。もし彼女が霊社の試練に耐えかねて山を下りたときのためにと、霊社には最低限の衣服が用意されていたのだ。それはどれも学生服で、かなり大雑把ながら大きさの違うものが数枚であった。今となっては、着れるのはたった一枚。高校生の珠洲丸を想定してこしらえたであろう、サイズの大きな黒いセーラー服だけだった。
 「数少ない形見の一つか___」
 人気のない場所で黒いセーラー服に着替えた珠洲丸。十年も前の学生服は今のものとは大きく異なるため、目立たないと言えば嘘になる。しかし珠洲丸の背格好、顔立ちに対する不自然さはなく、動き易さも十分だった。
 「まずは大蛇の居所を探さねば___」
 とはいえ居所を知ってすぐに大蛇に挑むのはあまりにも愚かしい。なにが起ころうとも後悔などしないよう、万全の準備を整えるべきだ。そう、父のように。
 ___大蛇に出会ったとき、私は臆せずにいられるだろうか?
 今はまだ冷静でいられる。しかし八岐大蛇といえば大妖、いや神妖とすら呼べる存在だ。大きすぎる敵に不安はつきない。確かに霊社の試練には耐えた。しかし未熟な自分で八岐大蛇に太刀打ちできるのだろうか?
 前向きな答えを出すには強烈な暗示が必要だろう。

 八尾町(やつおまち)は居住区に関しては小さく、そして閑静な町と言えた。町の半分を占めるのは、小さな山とその周辺に広がる広大な樹海。地域開発の波の中、全くありのままの樹海である。恐らく大蛇はこの樹海にいるのだろう。
 珠洲丸はまず、これから暫く生活するであろう町を歩き回ることにした。しかしその間も大蛇の気配を勘繰ることは忘れない。
 「向こうは私のような小さな存在など___気にもとめないだろうな。」
 そんなことを思ってみても気休めにしかならない。やはりあらゆる可能性を考え、珠洲丸は小さな鈴のついた紐を手に取った。紐は紅白の糸でまだらに結われ、その先端にくくりつけられた鈴はどんなに強く振っても澄んだ音を奏でない。もし「警鈴(けいれい)」が澄んだ音を発したならばれば、それは古代の怪奇が接近していることの証なのだから。
 「ねえ、なにあの制服___だっさくない?」
 「モデルかなんかじゃん?顔綺麗だし。」
 町行く人の多くは、古風な女学生の珠洲丸に視線を送る。しかし珠洲丸は彼らのことなど眼中にない。警鈴の音色を気にしながら町の様子を把握することにつとめた。
 「?」
 小高い丘にある閑静な住宅街を歩いていると、不意な寒気を感じ、珠洲丸はあたりを見渡した。警鈴は静かだ。
 「こんにちわ。」
 「っ!」
 背後から投げかけられた声に珠洲丸は少し慌てた。何か妙なものはないかと気を配っていたのに、背後にいた人物に気づかなかったのだから。
 「御免なさい、驚かせてしまったようですね。」
 そこにいたのは若い女性だった。落ち着いた物腰で、珠洲丸に微笑を送る。
 「___」
 突然だったこともある、勿論相手は初対面だ、だがなぜか珠洲丸の本能は彼女を警戒してやまなかった。
 「すみません、突然お声をかけては驚きますわね。このあたりでは見ない方でしたので、少々気になりましたの。」
 貞淑な言葉と、優しい微笑み。その女性の印象は単純ではない。
 とても若々しく、珠洲丸と大差のない年齢に見えるのに、あまりにも妖艶な雰囲気を持つ。一切の澱みのない黒髪は腰まで届き、向こうが透けて見えるのではと疑うほど白く美しい肌を引き立てる。女性にしては長身で、細身でありながら肉感的。黒々とした大きな瞳は日の光を受けると一瞬赤色が射し込む。薄紅色の唇は口紅の彩りもない清楚さとは裏腹に、独特の色香を醸す。
 数々の表裏を併せ持つ彼女に確かなことはただ一つ。彼女は非の打ち所もなく美しいと言うことだ。
 「不躾でしたわね。無礼をお許しください。」
 「いえ。」
 深々とお辞儀をする女性に珠洲丸も軽く会釈を返す。漸く無口な彼女の声が聞けて嬉しかったのか、女性は素敵な微笑みを見せ、ゆっくりとした足取りで立ち去っていった。
 「不思議な人だな___」
 一介の人らしからぬ物腰。存在そのものに妙な威圧感があった。彼女の雰囲気に完全に飲まれていた。
 「あ。」
 珠洲丸はハッとして警鈴を見やる。鈴は終始、静かなものだった。
 「私の考え過ぎか。」
 そもそも大蛇は雄性と聞く。彼女は自嘲の笑みを見せ、再び町を歩き回り始めた。

 西の空が赤く見えてきた頃。珠洲丸もさすがに歩き疲れたらしく、小さな川のほとりで躰を休めていた。
 「警鈴の有効範囲は二町径ほど___もう市街は歩き尽くしたことになるな。」
 役場で手に入れた八尾町の地図を広げ見て、彼女は呟いた。
 「とすると、やはりここか。」
 小さな山とそれを取り巻く広大な樹海。やはり最初の推察通り、ここが大蛇の住処のようだ。
 「夜は獣と怪奇の時間、様子見は明日にしても遅くはない。」
 珠洲丸は地図を閉じた。父は彼女に試練と戦いの道具は残しても、金は古びた紙幣一枚残しただけ。そして彼女もそれを戦いのために有効に使う。
 「どこかの寺社で休ませてくれればいいが___」
 珠洲丸は寝床探しに再び歩き出した。だが、事はそう簡単ではない。過去の時代なら兎も角、今の時代では寺社もそう寛容ではないのだ。彼女が学生服であったことも災いし、訪れる寺社では口々に自宅へ帰るようにと諭されてしまう。本堂にこっそり忍び込むこともできるが、道徳的ではない。それは最後の手段にしたかった。
 「ああ、君!」
 「?」
 夜更けになると珠洲丸は警官にまで呼び止められてしまう。事情を知った口振りで話しかけてくるところを見ると、どうやら寺社のものから連絡を受けたらしい。
 「最近若い女の子の失踪が多いんだが、君もその口じゃないだろうな?。早く家に帰らないと、ご両親も心配するぞ。」
 「自宅なんてありません。両親も当の昔に死にました。」
 「なっ、滅多なことを言うな!家出なんてしても周りに迷惑をかけるだけだぞ!本当に最近の女子高生は___」
 「___」
 無理問答もいいとこだ、珠洲丸の言葉は全て家出の口実にされてしまう。しかも珠洲丸が落ち着き払っていることが気に入らないのか、警官はだんだん苛立っているようだ。
 「身分証くらいは持っているんだろう!?」
 「いいえ。」
 「___ったく、話にならん。ならちょっと署まで来て、そこでゆっくり話を聞こう。」
 警察署に行くのは構わない。しかし持ち物を調べられ、没収されでもしたら困る。どうやってこのしつこい男から逃れようか?珠洲丸は思案を巡らせる。とその時、聞き覚えのある声が割り込んできた。
 「あの、もし。」
 二人の無理問答を遮った淑やかな声。珠洲丸はその声の主を見て思わず「あっ。」と声を上げた。
 「ああ、やっぱり。」
 同じように彼女も呟き、すぐに警官に目を移し会釈する。
 「こんばんわ、お巡りさん。」
 「これは桐生さん___」
 警官も少し改まった口調で帽子の鍔を掴んだ。桐生と呼ばれたのは先ほど珠洲丸に話しかけてきたあの女性だった。
 「彼女は私の姪ですの。」
 「姪子さん___ですか。」
 警官はまじまじと珠洲丸の全身像を眺め、時折桐生と見比べるような素振りをしていた。
 「夕方には家の方に来ると言っていたのに、遅いから私も探しに出ていたのです。」
 「初めて来る町だから___」
 せっかく協力してくれたのだからと、珠洲丸は桐生に口裏を合わせる。すると彼女は嬉しそうに微笑みかけてきた。
 「ありがとうございます。」
 自分に桐生の住所を問わなかったことをブツブツと言われたものの、何とか警官から逃れることができた珠洲丸。状況を察して助けてくれたであろう桐生に礼を言う。
 「先ほど八尾神社に行きましたらあなたのことを話してくれて、もしかしたらと思いましたの。」
 「そうですか___」
 なるだけ一般人との接触はとりたくない。彼女はそう思っていたから、礼のあとはいつもの素っ気なさだった。
 「独り身と伺ったのですけど___?」
 「___」
 警官と似たようなことを尋ねられ、珠洲丸は少し桐生に対する視線を強めた。
 「別に尋問のつもりではありませんわ。」
 だが桐生は睨むような珠洲丸の目つきにも動じる素振り一つ見せない。街灯の人工的な灯りの下で見る桐生の瞳。それはむしろ珠洲丸を圧迫する。
 この人はいったい何なんだ___?
 初めて桐生と会ったときにも感じた不思議さ。躰の緊張。大蛇への連想。
 今もまた、霊社で強靱な精神力と霊感を得た自分の眼力を微笑で押し返す。微笑みの中で瞳だけは一際沈着で先鋭的。珠洲丸はまたも桐生の表裏一体に惹かれた。
 「もしよろしければ___」
 だから次の一言への答えは決まっていたと言っても良い。
 「私の家にいらっしゃいます?」
 逡巡は長かっただろう。彼女の使命感がいろいろな思いを巡らせた時間だ。大蛇退治が目的だが、桐生との接触は大きな魅力。
 「宜しいのですか?」
 「歓迎いたしますわ。ああ、私は桐生、桐生月那(きりゅうつきな)と申します。」
 桐生月那。
 その名は珠洲丸が霊社を離れて初めて聞いた、生身の人間の名前。
 彼女の心に深く刻まれた名前。
 肉感への憧れか、珠洲丸の心は月へと揺れた。




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