SEAN6  黒幕

 「それにしても良かったですね、自殺事件の元凶を退治して、これで事件は解決ですよ」
 やがて落ち着きを取り戻したシャルルとランディは、並んでソファに座り、話し出していた。二人ともまだ少し目尻が赤い。
 「いいえ、まだ解決じゃないわ。あれが夢魔の本体かどうかも分からないし、それにこの事件を影で操る『P.J』のことを暴かなければ本当の解決にはならない」
 シャルルは今まで隠し通してきた名前を、ランディにあっさり口にした。
 「P.J?誰です、それ」
 「あたしの両親の仇」
 シャルルは煙草に火をつけた。
 「あたしが追いかけている男であり、最も恐れている存在よ」
 それがシャルルの過去の話であると、ランディはすぐに分かった。今まで立ち入ることの出来なかったシャルルの秘密だ。
 「教えてあげるわ。私の昔話___そして、それとこの事件の関わり合いを」
 シャルルはゆっくりと煙を吐き出した。自分の心を落ち着けるための一服、そう考えるべきだろう。暫しの間をおいて、シャルルは語りだした。

 あたしは、ここリブロフより遙か北、ノトス王国の都市、ガルディンで生まれたわ。父はハーレクエスタ・カークマイル。母はイリア・カークマイル。二人とも魔法使いだった。ただ魔法の腕前は今ひとつだったから、研究活動に熱中していたみたいだけどね。
 あたしの名前、シャルルタティナっていうのも、かつて希代の魔導師と詠われた人物から取ったのよ。よく言われたわ___
 おまえは世界で一番優秀な魔法使いと同じ名前なんだぞ、ってね。
 私が三つになった頃、私たちの生活が急に向上した。豪邸に引っ越したから小さいなりにうちはお金持ちになったんだって分かったわ。でもおかしいのよ、父は「何故私の研究成果が認められないんだ」っていつも怒っていたのに、私たちは急に贅沢な暮らしが出来るようになった。
 今思えば、あれが父の過ちの始まりであり、P.Jの魔の手の始まりだったのよ。
 後で分かったことだけど、父は悪霊の研究をしていた。悪霊が人のエネルギーを邪気に転換するメカニズムに付いてね。研究内容についてそれ以上詳しいことは分からないけど、とにかくP.Jはそれに目を付けた。父の研究を買い、彼を組織の研究員に抜擢したのよ。おっと、こんな事話す前にP.Jのことを話さなきゃいけないね。
 P.J。
 本名は分からない、組織の内部の人間だって、P.Jというイニシャルしか知らない男よ。だからだいたいボスって呼んでる。
 この世界には表と裏があるのは分かるかしら?光の当たる、今あたしたちのいる世界が表。光の当たらない、影の部分に隠れ、それでも社会の一端を担っているのが裏。裏世界は堕ちた人間たちが、表ではできないことをやっている。密輸、人身売買、誘拐、殺し、薬。私たちが最近知り合った裏世界の住人がヒューゴ・マクブライドね。ただ彼のように、表の顔と裏の顔を持つ人間もたくさんいる。そう言う奴等によって裏世界は表に介入してくるのよ。
 そしてP.Jは、その裏世界に巨大な組織を持ち、全てを牛耳るボスと言われているわ。奴のことをプロパガンダだという人も中にはいるけど、奴は実在する。顔にはいつも影が差し、闇の中でしか動こうとしない男。人間離れした、まるで悪魔のような男よ。
 P.Jには逆らうな、これが裏世界で最も守らなくてはならない掟とも言われているわ。
 そしてP.Jは父と出会ったことでさらに驚異的存在へと変わっていく。奴は父にとある研究をさせ、それを実行に移していた。内容は父の研究をさらに発展させたもの、悪霊によって人のエネルギーを邪気に変え、それをさらに人のエネルギーに戻す術よ。
 研究は完成しなかった。父がP.Jを恐れたから。ただ、P.Jは父の想像を遙かに超えたことをやってのけた。邪気をそのまま自らのエネルギーとしてみせたのよ。どうやったか?それは私にも分からない。ただ一つ、もし人が悪霊を支配できたら可能かもね。
 邪気を自在に操る術を手に入れたP.Jは、裏世界から逃げ出した父を、私たち家族を見逃しはしない。私が六歳の時___彼自身が父への礼を尽くすと言って、自らの手で抹殺しに来たわ。私たちを。
 両親は惨たらしく殺され、私は父の最期の抵抗でP.Jの牙から逃がした。それからの人生は酷いものだった。お嬢様だった私が、いきなり一人で街の中に放り出されたんだもの。夜になればいつまたあの悪魔がやってくるのではと不安に駆られ、両親のことが恋しくてずっと泣いていた。
 そんな私を拾ってくれたのが一人の浮浪者だった。でも彼はただ者じゃない、そのあまりに優れた能力のせいで世間から妬まれ、爪弾きにされた魔導師だった。彼は私に素質を感じると言って、魔法を教えたいと訴えてきた。小さい頃から魔法には興味があったし、とにかくあの憎くも恐ろしいP.Jに、か弱い自分が立ち向かうにはこれしかないと思った。もちろんその当時は人恋しさと空腹感が先に立っていたけどね。
 とにかく___
 あたしが魔法を憶えようと思った最初の理由はランディ、あんたと変わらないのよ
 それから私は魔法の修行に勤しみ、その間も何度も何度も名前を変えて、裏世界へ足を踏み入れた。P.Jのことを調べるためにね。十四の時、師匠から一人前と認められ、同時にP.Jが、部下たちに悪霊を操る能力を持たせ、世界中に派遣し、邪気を集めているという話を耳にしたわ。
 そして私は旅だった。八年ぶりにシャルルタティナ・カークマイルという名を掲げ、P.Jを倒すことだけを夢見て世界中の悪霊を退治してやろうと心に決めたのよ。そうすればいずれP.Jは私の存在に気づき、再びあの男と出会うことができると思ってね。

 「そして、ついこの前P.Jは私に接触してきた」
 灰皿の上には煙草の吸い殻が五つほど乗っかっていた。
 「本当なら闘志に燃えなきゃいけないんだろうけど___あたしは駄目だった。ポストにあったP.Jと書かれたカードを見ただけで、震えが走って、血の気が引いて、恐ろしくなって、叫んでいたわ」
 「それじゃああのとき___」
 ランディは未だに記憶の中で色褪せないシャルルの悲鳴を思い出す。
 「そう。P.Jからカードが来た。それから毎日ずっと。そしてついさっきポストに入っていたカードはあなたの死を予告するものだった」
 「それじゃあ、この自殺事件の真の黒幕はそのP.Jって男___!」
 「突き詰めればそうなるわね。ただ、今回はその部下の仕業よ。P.J本人がすぐ側にいたらこんな回りくどい真似はしない」
 そしてシャルルは既にその部下の存在を突き止めている。
 「ならそのカードって言うのも、そいつが書いていたんですね?」
 「そう、自らが操る悪霊を使ってね。私のことも逐一監視していた。たぶんフォッジさんの事件、第3の事件まではP.Jに邪気を送るために起こしていたもので、プロスペクター卿の事件からは私を狙っての犯行だと思うわ」
 「なるほど___」
 ランディにも事件の全容が見えてきた。
 「さあ、今日はもう疲れたね___早いけど、もう休もうか」
 シャルルは体重が倍加したかと思うほど重そうに身体を持ち上げ、立ち上がった。
 「ね、寝るんですか___僕ちょっと不安だなぁ」
 今の今ではランディに安眠を求めるのは無理な話だ。照明器具に垂れ下がったロープでさえ、まだ片づけてないというのに。
 「大丈夫よ。あたしを信じなさいな」
 だが、ようやく見せてくれたシャルルのリラックスした微笑みに、ランディは不安が無用だと信じることができた。

 夜。
 床に就くには早すぎたか、やはり不安が残るのか、ランディはなかなか眠れずにいた。
 「シャルルさん___?」
 壁を向いていた身体を反転させ、シャルルのベッドに顔を向けた。
 「なに___?」
 呼びかけに少し遅れて返ってきた彼女の声は、はっきりとしたものだった。
 「なんで僕にあんな大事な話をしてくれたんですか___?」
 答えが返るまでの逡巡は長かった。シャルルはランディに背を向けたままでいる。
 「___ごめんねランディ」
 「?」
 ようやく絞り出されたシャルルの言葉、ランディにはその意味が分からなかった。
 「もっと早く、私とあなたがこうして一年も一緒に過ごすと分かっていればもっと早く教えてあげるべきだった」
 「どういうことですか?」
 シャルルは仰向けになる。天井を見つめながら続けた。
 「あなたも既にP.Jのリストに載ってしまったのよ。だから夢魔に殺されそうになった。あたしが___真実を隠していたばっかりに、何も知らないあなたを私の因縁に巻き込んでしまった。本当に___ごめん」
 シャルルは神妙な面持ちで時折長い瞬きをしながら話した。罪の意識からか、ランディと目を合わせることが出来ないでいる。
 「気にしないで下さいよ」
 「いいのよ、気を遣ってくれなくて。だって___あなたは私のせいで一生を不意にすることになるのよ」
 「そんなことありません。シャルルさんと一蓮托生っていうなら僕は大歓迎ですよ。シャルルさんは何度も僕を助けてくれたし、優しくしてくれる。なにより僕はあなたと一緒にいられる時間が一番幸せなんですよ。だから僕はあなたについて行くんです」
 ランディに照れはなかった。本気でそう思っているから、いつも口の回らない男が、こんな歯の浮く台詞を流暢に語れる。
 「フフ___男前じゃない___」
 「似合いませんね」
 「本当だよ___」
 窓から差し込む僅かな月明かりに照らされ、シャルルの目尻に浮かんだ滴が煌めいていた。涙を見せたくないのだろう、シャルルは再びランディに背を向けた。
 「シャルルさん。僕も一緒に戦います。だから怖がらずに立ち向かって下さい。シャルルさんが怖がっちゃったら僕なんて気を失っちゃいますから」
 「それもそうだね___」
 冗談ではぐらかすことしかできない。面と向かって言うには気恥ずかしすぎて、自分もまだ子供だなとシャルルは思う。だから心の中で呟いた。
 「ありがとう、ランディ」

 一夜明け、シャルルは日の出と共に目覚めていた。
 ランディがグッスリと、そして静かに眠っていることを確かめ、洋服ダンスから漆黒のローブを取りだし居間へと移る。出来るかぎり音を殺しながら、彼女にとっての「勝負服」に袖を通していった。前閉じの、ローブにしてはタイトな作りで、銀色のボタンが目を引く。ボタンには顎を引き、雄壮な角を際立たせる牡山羊の姿が描かれている。これはカークマイル家の紋章であり、あの惨劇があった日、シャルルが着ていた服にもこの牡山羊のボタンがあった。
 パンを一囓りし、コップ一杯の牛乳を飲み干したシャルルは、ローブの胸ポケットに銀のシガレットケースを入れて出発の準備を完了した。
 外に出て、まず調べるのは郵便受け。案の定、そこにはカードが差し込んであった。
 『会って話がしたい。午前九時にこの住所まで一人で来たまえ___P.Jより。』
 シャルルはもう動揺しない。今までのものよりも、丁寧な、形の整った字で書かれた今日のカードは、シャルルが予想していた内容と同じだったから。
 「行くか」
 カードを郵便受けに戻し、シャルルは歩き出した。

 リブロフの中でも滅多に足を運ばないのは都市南端部の港。潮風の匂いはあまり好きではないし、髪がべたついていい気分がしない。
 「あっちか___」
 漁師たちの活気溢れる港に隣接して、もう使われていない廃れた港がある。まだ世界に争いが絶えなかったころ、リブロフにはこの港しかなかった。だが最大の埠頭に停泊していた船が襲撃を浮け、沈没して以来、ここはすっかり閉鎖されてしまった。あまりに巨大すぎた船を引き上げることが出来ず、埠頭が機能しなくなってしまったためである。忌まわしき過去を切り捨てるため、王はこの埠頭だけでなく、市場や倉庫に至るまで使用を禁止し、新しい港を作らせた。
 今日シャルルが用があるのはこの、忌まわしき港の方である。
 「外れの倉庫___あれか」
 埠頭沿いに続く道、その突き当たりに中程度の大きさの倉庫がある。シャルルはそこへ向かって歩いた。時刻は既に九時十分を回っているが、時間に厳しい彼女が慌てることさえなかった。
 少しだけ開いている入り口、重く錆び付いた扉をそれ以上開くことはせず、身体を横にして隙間を潜り抜けた。
 「いるな___」
 いつの荷物だろうか。倉庫の中にはもう二度と日の目を見ないであろう木箱がたくさん積まれている。天井に近い位置にある窓から陽光が射し込み、遠くのあたりで埃が舞っていることを教えていた。それはつまり、空気の動きがあった証だ。
 「あれ?シャルルさん」
 突如背後から投げかけられた声に、シャルルは肝を冷やした。ほんの一歩とはいえ、その場から動いて振り返ったのが驚きの現れだった。
 「オル___フェウス」
 オルフェウスはシャルルと同じように身体を横にして倉庫に入ってきた。眼鏡の向こうの瞳は優しく穏やかなままだ。
 「奇遇ですね、こんな所で会うなんて」
 重いと思われたドアは、オルフェウスの手でも簡単に閉まった。光の射し込み口は壁の高い位置に転々とある窓だけになった。
 「今日はいったいどんな御用で___」
 「よるな」
 親しげに近づいてこようとするオルフェウスを、シャルルは右手を付きだして制した。その人差し指に炎が灯り、倉庫の中は少し明るくなる。
 「どうしたんですか?シャルルさん」
 オルフェウスは小首を傾げて微笑む。だがシャルルの警戒した、引き締まった顔つきは変わらなかった。辛辣なまでに、彼女の瞳は敵意を放ちだしていた。
 「夢を操り、自殺に見せかけて人殺しをする。なかなか、うまいやり方だ」
 オルフェウスは特に何も答えず笑顔のままでいる。シャルルは一方的に話し始めた。
 「今日、時間に遅れてきたのは___あなたの家に寄ってきたから。これを手に入れるためにね」
 シャルルは右手の炎を消し去ると、懐から紙を五枚ほど取りだした。。
 「マウリッツィオ・ペドローニ。彼は死亡する二週間前に、風邪であなたの診察を受けている。適用した薬は解熱剤、鎮痛剤。ミカエラ・ストランスは死亡する一週間前、外出中に貧血を起こし、たまたま近くだったあなたの医院へと運ばれている。適用した薬は鉄剤、鎮痛剤。ピエトロ・フォッジは死亡する二週間前、手首に炎症を起こしてあなたの診察を受けている。適用した薬は軟膏と、鎮痛剤。ランドリュー・プロスペクター卿は、外出中に腹痛を訴え、近くにあったあなたの医院を訪れている。死亡する四日前のこと。適用した薬は整腸剤、鎮痛剤。最後にランディ・コースキー。彼は自殺未遂の一週間前にあなたのところで食あたりを起こし、診察を受けている。適用した薬は、解毒剤、整腸剤、鎮痛剤」
 シャルルは五枚の紙をオルフェウスに示し、左手で叩く。軽くて渇いた音が倉庫に響いた。
 「これ、あなたのカルテ」
 オルフェウスは何も言わない。
 「あなたは知っていたのよ、自殺事件で死んだ四人のことを。そして彼らがことごとくあなたに飲まされているのが___鎮痛剤」
 シャルルは五枚の紙を丁寧に折り、再び懐にしまった。
 「一番の疑問はどうやって夢魔を憑依させているのかだった。私の目を盗んで、いったいいつどこでランディの身体に潜んだのか?私がランディに悪霊の気配を感じることが出来なかったのは、完全に体内に、寄生するかのように取り憑いていたから。そこで考えた。ランディが自分から取り込んだとしたら___ってね」
 薬を飲むジェスチャーを交え、シャルルは言った。
 「あなたは鎮痛剤に夢魔の魂を封じ込め、患者たちに次から次へと飲ませていた。そして、P.Jに送る邪気を集めるため、或いは自分の夢魔を鍛えるために、タイミングをずらしながら人殺しをやっていたのよ。ただ私が自殺事件を追いかけはじめたので、矛先を私の身辺に変えた。プロスペクター卿、そしてランディ」
 そこまで語ったところで、突然オルフェウスが拍手をしはじめた。
 「お見事お見事___そこまで分かっていれば十分です。やはりあなたは素晴らしい方だ。まあ、ボスのことを知っているのには一番驚かされましたがね」
 あっさりと犯行を認めオルフェウスは徐に眼鏡に手を掛けた。ゆっくりとその素顔が曝される。あの優しい顔は見るかげもなく、細くつり上がった瞳は血と邪悪の息吹に染まっていた。
 「あのカードのことももう分かってらっしゃるんじゃないですか?」
 「あれはランディに書かせたものだ。夢魔に操らせて睡眠中に書かせ、ポストに投函させていた。ランディが自殺未遂をしたとき、あの日は急に雨が降り出していて、彼のズボンの裾には新しい泥がついていた。あれは自殺直前にランディが外に出た、しかも庭の土の部分へ足を踏み入れていた証拠だ。そしてそのときのカードの文、『夢鬼はあなたの側に』。あたしは夢魔のことを知っていたけど、あなたの医院を立ち寄ったときカマを掛けて『夢鬼』と言った。そしてカードには夢鬼と書かれていた」
 「すると私は見事に罠にはまっていたわけですね。魔法に興味があるふりをして、ランディに近づいたのは正解でしたが___あなたを少し侮っていましたね」
 オルフェウスはまるで懐かしむように語った。
 「ただ一つ教えて欲しい、最初のカードもランディが書いたのか?」
 「___」
 「答えろ。あれだけインクが違った。」
 オルフェウスは目を細めて、不適な笑顔を浮かべた。
 「シャルル。夢魔は誰だと思います?」
 「リヴレよ。彼女を私に会わせなかったのは、邪気を感じ取られるのを恐れてのこと。ランディが夢の中で見た女はリヴレと雰囲気が似ていると言っていたしね。ただ、殺人を起こしているのはリヴレの分身。本体は相当強力な邪気を宿している」
 「さすが、良く分かってる」
 シャルルの背後から女のよく澄んだ声がした。彼女が振り向くよりも早く、細く鞭のようにしなやかな腕がシャルルの首へと回り込み、口と鼻に布きれを押し当てた。
 「初めましてシャルル。あたしがリヴレ」
 シャルルは意識がもうろうとしてくるのを感じた。布には麻酔薬が染み込ませてあるのだろう。魔法で応戦しようにも集中力が維持できない。
 「シャルル。私はカルテには確かに鎮痛剤と記載したが、例の薬、解毒剤として渡したこともあるんですよ」
 「頭のいいあなたなら分かるわね。今日のカードを書いたのはあなたで、私はあなたの中に既に分身を送り込んでいることが___」
 「つまり、眠ることはすなわち死ぬこと」
 シャルルの指先で、線香花火ほどの火花が弾ける。そんな些細な抵抗の後、彼女の腕は力無く流れ、意識が途絶えた。
 「さあ、いい夢を見せてあげるわよ」
 シャルルの口に布を押し当てたまま、リブレはまるで沼に沈むように、彼女の身体に溶け込んでいく。やがてシャルルの身体は支えを失い、崩れ落ちるように倒れた。足下には麻酔の染みた布が落ちていた。

 気が付くとシャルルは街の中にいた。少し湿気ていて蒸し暑い、普通ならあまり心地よくない気候も彼女にはなんだか懐かしかった。
 雨の多いこの土地の匂いはいつもいつも変化する。各地から違った匂いを運んでくる雨は、いつも彼女に新鮮な景色を与えてくれた。
 懐かしい街の景色をシャルルは決して忘れることはないだろう。短かった幸せの日々を謳歌したこの土地を。
 それは彼女が生まれた土地、ガルディンの街並みだった。
 「あ___」
 自分のすぐ前をとある家族が歩いている。身なりにうるさく、凛々しくてプライドの高かった元魔法使いの父。優しくて、控えめなあまり魔法使いとして大成しなかった母。二人に愛され、六年の月日を謳歌している娘。彼女の側にはいつも可愛い飼い犬がいた。
 また雨が降りそうだな___
 嫌ですね、このところずっと雨ばかり___
 両親がそんな会話をしている。そのとき娘は言うのだ。
 「雨って大好き。だっていろんな匂いを運んでくれるもの」
 シャルルは思いだした。P.Jが現れるのはこの日の夜だ。
 「待って___行っては駄目!」
 シャルルはその家族を追いかけた。もう少しだ。あと少しで追いつく___何とか止めなければ!
 『無駄だ。』
 手が届こうかという目前でシャルルは踏みとどまらざるをえなかった。
 「P.J!」
 シャルルの目の前に、影の男P.Jが立ちはだかった。身長、体格以上に大きく、まるで壁のように大きく立ちはだかるP.J。影で隠された彼の瞳があるだろう位置にぼんやりとした光が見えた。
 『あの家族はこれから我が手によって醜い姿をさらすことになる。』
 全身に震えが走るほど重く響くP.Jの声。シャルルはあっという間に彼の意志に飲み込まれていく。
 「やめろ!い、いや___やめてくれ!やめてください!」
 その存在感に気圧され、威圧に屈し、シャルルは哀願した。もうあの景色だけは、何を代償にしても見たくない!
 『だが我はあの家族の幸せを欲している。おまえの頼みは聞けぬな。』
 「なんでもする!だからあの家族から幸せを奪うことだけはしないで!」
 シャルルに背を向けかけたP.Jは、その言葉を聞いてもう一度彼女に向き直った。
 『では___』
 P.Jが手を振り上げた。空間に闇が広がり、その中から研ぎ澄まされた剣が現れた。剣は柄を下に、刃を空に向けて大地に立った。
 『この刃に己の首を捧げよ。それができればあの家族は見逃そう。』
 シャルルは刃の輝きに恐怖を感じ、荒ぶる息を落ち着けようと唾を飲み込んだ。
 しかし逡巡は短いもの。彼女の決断は実に早かった。
 剣との間合いを計り、まっすぐ立ってその胸元で手を合わせ、シャルルは目を閉じる。
 そして意を決したように剣に向けて身体を倒していった___
 P.Jの笑み。
 剣先が今にもシャルルの首を捕らえようかというその時。

 「シャルルさん!!」

 倉庫に響いた絶叫が彼女の眠りを断ち切った。勢いよく開かれた扉の向こうには、必死の呼びかけをしたランディがいた。
 その時シャルルは、立て膝の姿勢だった。両手で握りしめたメスを力一杯、自らの首に突き立てようとしているところだった。
 「くっ!」
 自らの身体とはいえ勢いを殺すのは無理だった。しかし矛先を逸らし、シャルルはメスを胸へと突き刺した。
 「捕まえろ!」
 遅れてやってきたアルフレッドが第五部隊隊員に指示を出した。
 「ちっ!」
 オルフェウスが何かを念じると、シャルルの身体からリヴレが飛び出した。彼はすぐさまリヴレの手を取ると、彼女の身体はオルフェウスごと宙へと舞い上がった。向かうは壁の窓だ。
 逃がした。アルフレッドも隊員たちも、ランディもそう思っていた。だが胸にメスを突き立てたはずの魔女は、まったく苦しそうな顔一つ見せずに立ち上がり、二人に向けた両手を真っ赤に燃え上がらせていた。
 「逃げられると思ってるのかよ___あたしにあんな嫌なもの見せて!人の心を、思い出を好き放題弄んで!」
 シャルルの魔力が倉庫全体に広がる。
 「ふん!届くものか___!」
 既に窓に手の掛かる位置にいたオルフェウスとリヴレ、しかし___
 「きゃっ!」
 リヴレが窓に触れると、何かが激しくスパークし、彼女の手に火傷を負わせた。
 「どうした!?」
 「だ、駄目、ここまで魔力の網が___」
 シャルルの魔力が最高潮に高まった。リヴレとオルフェウスは死の恐ろしさをはじめて知った。
 「ヘル・フレイム!!」
 シャルルの掌から、まるで火炎の竜が舞い上がったかと見紛うような巨大な炎が吹き出した。倉庫全体の温度が一挙に上昇したほどその火力は圧倒的だった。飲み込まれたオルフェウスとリヴレが、灰となって消えるのは一瞬のことだった___

 「シャルルさん!」
 ランディがシャルルに駆け寄ってきた。
 「ランディ__助かったわ。でも、よくここが分かったわね」
 「シャルルさんがいないから、まさかと思って。そしたらポストにカードがあったから、それで___」
 興奮してしまってランディは言葉にならない。
 「以前頼まれた調査、被害者がオルフェウスの診察を受けていたか、変な夢を見ていたという話がないか、その結果を伝えに向かったら彼が一緒にここまで来てくれと縋り付いてきたんだ」
 と、アルフレッド。
 「しかしおまえ、そのメス___」
 シャルルの胸に、深くはないが確かにメスが突き刺さっている。だが彼女は平気な顔をしていた。
 「ああ、これ?」
 シャルルはメスを抜き取って、胸ポケットに手を入れた。出てきたのはシガレットケース。
 「やっぱり働いた後の一服はかかせないでしょ?」
 そう言って、シャルルは煙草を取りだした。
 「あらま」
 しかし煙草は途中で切断され、すっかり短くなってしまっていた。それを見たランディ、アルフレッドらが笑い、シャルルも笑顔になって短い煙草に火をつけた。




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