SEAN 4 P.J
「死亡したのはランドリュー・プロスペクター、六十五歳、死亡推定時刻は昨夜午前二時から四時、死因は___」
「もういい。見れば分かる」
隊員の報告を途中で止め、アルフレッドは深い溜息を付いた。
「また自殺だ___遺書もない___」
彼は思った。どうせ今回も動機不明なのだろうと。ただ、死亡した人物の格は、これまでとは比べ物にならない。格が全てではないが___これほど名の知れ渡った人物の自殺は、リブロフを揺るがせる。
「事件関係者は談話室か?」
「はい、集合させてあります___ですが___」
「ん?」
隊員たちも不仲を知っているから、言い出しづらかったのだろう。
「まさかこんな所で会えるとは思っていなかったなぁ、旧市街の魔女」
「本当、あんたって私にとってはつくづくタイミングの悪い男だわ」
「今度こそおまえの化けの皮を剥いでやる」
談話室で対面するなり始まった二人の口論だったが、今は牙を見せあうだけ。アルフレッドは、話のできる状態ではないメアリーを諦め、ローズの所へと寄っていった。
「なんで___なんでプロスペクター卿が___」
ランディも状況が飲み込めずに混乱している。談話室ではローズをはじめ、使用人たちの事情聴取が行われているところだ。シャルルとランディはその様子を横目に、談話室の隅で思いを巡らせていた。
「気に入らない___気に入らないわ___」
シャルルの顔つきはいつもと違っていた。緊迫し、張りつめた気配をまとい、眉は先程から一度とも緩むことがない。
「あたしの目の前で人が死ぬなんて___」
「シャルルさん___」
苛々を癒すためか、シャルルは煙草を取りだして火をつけた。白い煙はいつもよりも荒っぽく、千々乱れて広がった。
「ほ、本当に自殺なんでしょうか___?」
怯えたような声でランディが尋ねた。唇が震えて自然に言葉が詰まってしまう。
「馬鹿言ってんじゃないわよ___晩餐に客を招いて自殺だなんて、聞いたことないわ。それに卿はメアリーのことを溺愛していたのよ」
「そうですね___一人残されてしまうメアリーさんのことを思えば自殺なんて出来るはずがない」
卿が自殺する理由はまったく見あたらない。むしろ娘の花嫁姿を見るまでは殺しても死なないような人だった。
「この事件はあたしが捜査しなきゃいけないものなのかも___いや、これに限らず、一連の自殺騒動全部___」
「悪霊の仕業ですか___?」
「そうね___半端じゃないやつ___」
夕べ庭で感じた嫌な感触。あれを放っていた主がプロスペクター卿を自殺に追いやったのだろう。だとすれば___殺害の瞬間にシャルルに気づかれないほど、憎悪の気配を抑え、卿に自殺をさせたことになる。そんな芸当は、B級の悪霊には出来ない。
「カークマイル!」
使用人の聴取が一通り終わったのだろう、アルフレッドはシャルルを呼び捨てにし、彼女が気怠そうに振り向くと手招きした。
「ちっ___」
舌打ちと共に、シャルルは立ち上がった。
膝丈ほどのテーブルを挟んで向かい合うシャルルとアルフレッド。
「今更おまえに事情を聞いても返ってくる答えは分かっている」
「あら、少しは知恵が働くようになったわね」
シャルルはアルフレッドの顔に煙草の煙を吹きかけた。
「慎め」
「___」
挑発を不意にされ、シャルルは灰皿に煙草を押しつけた。
「現実的な話をしようカークマイル。今回の事件は自殺だと思うか?」
「勿論。自殺という形で卿が死を迎えたのは間違いない」
「入り口は施錠され、自らが纏っていたローブの紐をほどき、それを照明器具に引っかけて首を吊った。照明器具の埃が卿のローブの袖に付着していたし、足台にもしっかり彼の足跡が残っていた」
そこでアルフレッドは言葉を止め、シャルルの顔を覗き込んだ。
「では彼が自殺しなければならなかった理由はなんだ?」
「それが分かれば苦労はしないし、あたしだっておまえに変に疑われることもないんだろう。ただ、あたしが確信を持って言えるのは、卿は娘のメアリーを愛していたし、夕べはあたしを晩餐に誘ってくれた。そんな人が自殺するとは思えない」
「そうだな、俺もそう思う」
もったい付けるように会話を進めるアルフレッドにシャルルは苛々を募らせていた。
「だからこれは他殺だ」
シャルルは否定はしない。彼女もただの自殺ではないと思っているし、悪霊のような何かに殺された可能性を強く考えている。
「そして犯人はおまえだ」
「は!?」
どこからそんな発想が出てくるのか、シャルルにはまったくもって理解できない。
「魔法を使えば出来るだろ?自殺に見せかけ、遠隔的に殺すことだって」
ダンッ!!
談話室に一際大きな衝撃音が響いた。シャルルが足を振り上げ、テーブルに踵を炸裂させた音だった。
「馬鹿」
一言だけの捨て台詞を吐き、シャルルは立ち上がった。
「帰るよ、ランディ」
「あ、は、はい___」
すっかりシャルルの暴挙に圧倒されていたランディがようやく我に返る。
「ローズさん、あのテーブル、後で弁償しに来ます」
「___は、はぁ」
出入り口を塞ぐために隊員が動こうとしたが、アルフレッドはそれを制した。
「待て」
今日はやけに落ち着き払っているアルフレッド。その態度が気に入らなかったか、シャルルは彼の声を無視しようとはしなかった。
「俺だって本気でおまえを犯人だと思っているわけじゃない。だがな、プロスペクター卿ほどの人物が理由もなく自殺した___では、誰も納得しないんだ」
アルフレッドの態度は明らかに示威的だった。
「魔法は神秘性ばかり知られていて、俺をはじめ、だいたいの人が詳しいことを知らない。おまえに関しては、真っ黒い服を着てる凄腕の魔法使いという印象がほとんどだろう。黒の魔女なんて通り名もあるらしいからな、おまえはちょっと不気味な、近寄りがたい魔女だとリブロフの大半が思っている」
「何が言いたい___」
「早い話、国家は事件の沈静化のために国民一人犠牲にすることだってあるんだぜ」
恐らくは王宮警備隊の総司令、さらに突き詰めて、王の思惑がこのアルフレッドの言葉に込められているのだろう。これは脅迫に等しい。
「王は、あたしが髭を燃やしたことをまだ恨んでいるのね」
「さあ、それは俺の知るところじゃない。ただ、もしこの事件を解決できたなら、その時は誠意を以て応えるだろうな」
シャルルの顔に笑顔が戻った。だが微笑みではない、勝ち気で攻撃的な笑顔だ。
「面白い、するとあたしにこの事件を調べろというわけね?」
「まあそういう意味にもとれるな」
本当に素直じゃない男だな、とシャルルは思った。
「あたしが事件の謎を解き明かしたら___その時は分かってるね」
「王に直談判するんだな」
パチンッ!シャルルは指をスナップした。
「乗ったわ」
「そう来ると思ったぜ」
ここに一つの取引が成立。険悪な仲が解消されたわけではないが、少しは二人の啀み合いも減るだろう。
「パパ___パパぁ!!」
ようやく落ち着きを取り戻したかに見えた談話室に、少女の悲痛な叫び声が轟いた。
「うあああぁぁぁ___!!」
シャルルとランディはロビーの方へと飛び出した。そこには、搬送されていく父の遺体に縋り付き、号泣するメアリーの姿があった。
悲しみに暮れ、言葉も言葉にならず、メアリーはただただ、涙と涎の入り交じった顔で嗚咽し続けていた。かけられる慰めの言葉などあるものか___言葉では語り尽くせない悲しみに彼女は襲われているのだ。時間が平静を取り戻させるまで、回りの人々は彼女を支えなくてはなるまい。そしていずれ、事件の解決を以て哀悼の意を示さねばなるまい。
「父の___死か___」
シャルルは唇の先だけ微かに動かし、口内に留めた呟きを飲み込んだ。
思い起こされる過去___
父の骸に縋り泣くメアリーに、ふと自分の姿が重なって見えた。
「メアリー様は私たちが責任をもって面倒みます。丁度私の実家は子供もいないし、彼女さえよければ一緒にと思っているんです」
「そうですね、いずれそうなれば、卿も安心します」
邸宅での捜査を終え、シャルルたちは市街へと戻ることになった。
「何か分かりましたら連絡を下さい。メアリー様も安心すると思いますから」
「必ず。ローズさんもどうかお元気で」
ローズに別れを告げ、二人は第五部隊の馬車に乗り込んだ。アルフレッドの合図と共に馬車は動きだし、やがて邸宅から離れていった。
狭い馬車の中で横一列に、アルフレッド、ランディ、シャルルと座る。会話が始まるのにはかなりの時間を要した。
「カークマイル」
シャルルは肘掛けに立て肘付いて外の景色を眺めていた。
「おい聞いてるのか?」
「聞いてるわよ」
ようやくアルフレッドの方を振り向く。
「おまえの率直な意見として、一連の自殺事件、どう思う?」
「あたしは卿の事件のことしか詳しいことは知らないわ」
「新聞か何かで読んだだろう?」
シャルルは暫く沈黙してから、また外の景色を眺めだした。
「まあ、人間業じゃないでしょうね。当人が自殺したんじゃないんなら、他の誰かが完璧に自殺に見せかけたということだもの」
「おまえの魔法も人間業じゃないよな」
シャルルは勢い良く馬車の窓を開いた。風が吹き込み、彼女の長髪を激しく靡かせた。
「うわっ、ぷっ」
アルフレッドの顔を髪がしこたま擽ると、シャルルは窓を閉じた。
「す、すまん、冗談だ」
口の回りを拭いながらアルフレッドは言った。一番被害を被ったのは、シャルルとアルフレッドに挟まれているランディなのだが。
「強い悪霊でも、ここまで完璧に人を操れるのは珍しいわ。それも、紐を照明に引っかけさせ、輪をしっかりと作り、首を掛ける。意識を支配してこれだけ細かい動作をさせることが出来る悪霊なんて、あたしの経験上は聞いたことないもの」
「なるほどな___」
アルフレッドもシャルルの意見をまともに聞き入れるようになっていた。彼にとってもシャルルは頼みの綱なのだ。
「ただ___」
もし人が悪霊を操れば、不可能ではないだろう。
一方そのころ___シャルルも知らない暗闇に彩られた世界でのこと。
自然光は一切無く、昼間でもその場所にあるのは小さな蝋燭の光だけ。その程度の光があれば、男は生きることになんの不自由も感じない。
「___」
影に覆われ、顔は伺い知ることが出来ない。体格のいいその男は、血のような赤いワインが入ったグラスを片手に握っていた。
「ボス」
影の男の影の部屋、影に隠れて定かでない出入り口から、執事のような出で立ちの男が現れた。深い皺が畳まれた中年の男は、影の男をボスと呼び、徹底して敬意を表する。
「リブロフに腕の立つ魔法使いを発見したとのことです」
執事の報告に、影の男の片手が動く。
「名は?」
影の男の声は、太く、しっとりと響いた。
「シャルルタティナ・カークマイル。まだ若い女です」
影の男がグラスを傾けた。
「カークマイル___か」
「我々の障害になりうる存在のようです。詳細が分かり次第ご報告いたしましょう」
「そうだな___」
影の男の掌が、蝋燭の光で照らされる。大きく、力強いが、女のように美しい肌を呈するその奇妙な手には、一枚のカードが握られていた。
「カードを送るように。我が名を記して」
影の男がカードを弾くと、それは執事の服、その左胸の部分に鋭く刺さった。
「畏まりました」
身体の手前で止まっているカードの表面には、ほんの二文字しか記されていなかった。
王宮警備隊第五部隊詰所にてこれまでの三つの自殺事件、その調書の写しを受け取ったシャルルとランディは、ようやくアルフレッドの目から解放され自由を許された。今後は情報交換をしながら、独自に捜査を進めていくこととなる。
「これからどうします?」
「とりあえず落ち着ける場所でこいつをじっくり読みたいわ。いったん家に帰りましょう」
調書をランディにちらつかせ、自宅へ戻ろうと歩き出したシャルルだったが___
「シャルルさん!」
凛々しい声が背後から彼女を呼んだ。
「あ、オルフェウスさんだ」
オルフェウスは買い物袋を抱え、バランスに気をつけながらこちらに駆け寄ってきた。
「こんにちわ」
「うっす」
オルフェウスの丁寧な挨拶に対し、今まさに煙草をくわえたシャルルは女らしくない返事だった。
「今日は医院の方は?」
「午前中だけなんです。丁度これからお昼ご飯にしようと思って___もし良かったらうちで一緒に食べていきませんか?」
「いいですね、そうしましょうよシャルルさん。朝から何も食べていないんだし___」
「そね。空きっ腹に煙草はきくわ」
オルフェウスの医院は、叔父夫婦のパン屋がある通りの一つ向こうにある。白く塗られた清潔感溢れる壁の小さな二階建てアパート。彼は一階部分の内装を変更し、一階を医院、二階を自宅として使っている。他の住宅に溶け込んでいて目立たない存在だが、これだけの暮らしを維持できるのだから暇で困るということはないのだろう。
「さあ、ここですよ」
ドクター・オルフェウスと刻印された看板を横目に、三段ばかりの石段を登ってシャルルたちは医院のドアを潜った。
「どうぞ」
医院の中も清潔感に溢れている。待合室には窓があって、日の光が射し込むようになっているし、床も綺麗に磨かれていて汚れのこびりつきなど見られない。これだけ綺麗だと、シャルルも玄関にあったマットで、靴の裏の汚れを落とさずにいられなかった。
「普段も一人で切り盛りしているの?」
シャルルの問いにオルフェウスは首を横に振った。
「リヴレという看護婦が手伝ってくれていますよ。普段はここの二階にいるんですけど、今日は用があって出かけています」
「あら、それって同棲じゃない。やるわねえ、大病院からの派遣看護婦なんでしょう?」
シャルルはからかい半分にオルフェウスをこづいた。
「リヴレとは学生時代からの知り合いなんですよ」
「はぁん、結婚を前提にって奴か」
「そんなんじゃないですよぉ」
オルフェウスは苦笑いを浮かべるが、明らかに照れていた。自分だってシャルルと同棲しているくせに、ランディは「羨ましいなぁ」と思っていた。
「へえ、そんなことが___それはお気の毒でしたね」
オルフェウスの手料理を、昨日とは裏腹にマナーなど気にせず食べながら、シャルルたちは彼に事件のことを話していた。
「でもおかしな話ですね。動機が見あたらないなんて___」
「見落としているだけかもしれないけどね、何か突発的なことだったのかもしれない。例えば一通の手紙に衝撃を受けて絶望し、自殺してしまう場合だってあるでしょ」
ただそれも一件だけなら納得のいくケースだ。四件も連続して、そんな衝動的な自殺が起こるとは考えづらい。
「でも納得のいく事件ではありませんね。ただ他殺の可能性はないんでしょう?」
「無理ね」
調書を眺めながら会話していたシャルルが、きっぱりと言い切った。
「どの事件も密室だし、何より、指紋も足跡も、全て死亡した、いや被害者でいいわね、被害者のものしか残っていない」
「自殺の準備も決行も、被害者一人で行ったということですか?」
「調書から見る状況はそれで間違いないわ。それに、一番決定的なのはミカエラ・ストランス、二番目の事件ね。彼女はバーの二階でなくなっている。死亡推定時刻の間、一階にはずっとマスターがいて、店も準備中。その間、誰も二階に上がっていないわ」
「なるほど___」
オルフェウスはフォーク片手に腕組みをして頭を捻っていた。
「それ、見せていただけますか?」
「ん」
オルフェウスのことを信用しているからこそ、シャルルはあっさり調書を手渡した。彼はざっとそれに目を通していく。
「亡くなったのは___皆さん幸せな人ばかりのようですね___」
「就職の決まっていた男、結婚の決まっていた女、自分の店を持つ予定だった男、愛する娘が元気を取り戻してくれた父。確かにその通りね。でも、事件を起こしているのが悪霊だとしたらそう驚くことではないわ」
「そうなんですか?」
「悪霊の中には幸せを食って邪気を増幅させる奴もいるからね。幸せな人物を殺して自らの邪気に変え、一層強靱な力を得ている___のかも」
シャルルはフォークをくわえて口元で揺れ動かしていた。行儀は悪いが、考えているときと言うのは変な行動をとるものである。
「となると___事態は急を要しますね」
「ただねぇ」
オルフェウスの作ってくれた貝料理、その残骸である貝殻にくわえていたフォークを移し、シャルルは続けた。
「悪霊の活動には周期と規則性があるのよ。週にいっぺんしか動かない奴もいれば、毎日はしゃぎ回っているのもいる。ただ、それぞれの活動周期はだいたい決まっているわ。そしてどの悪霊も、それぞれ決まった時間帯でしか活動しないのよ」
「だとすると___おかしいですね」
調書を眺めて、オルフェウスは言った。
「でしょ?四つの事件の間隔はまちまちで、周期性なんて見い出せない。ただ、周期は乱れることもあるから、これくらいなら納得がいく。でも活動時間はそうころころ変わるもんじゃないし、悪霊はみんな闇の属性だから普通は夜動くものなのよ」
「死亡推定時刻は___午前六時から八時、午後二時、午後三時、午前二時から四時。まったくもってバラバラですね、それに明るいうちに起こっている事件が三度も」
「これが鍵だと思うんだ。こんな特異的な悪霊___私の知っている限りではない。ただ、これの意味が分かれば、悪霊の正体は一気に絞られると思う」
シャルルはふと、さっきからまったく会話に入れないでいるランディを見た。すると彼は異様に青ざめて、額に脂汗を浮かべている。唇も紫色だ。
「あ、あんたどうしたの?」
ただごとではないと感じたか、シャルルは慌てて彼の背に手を当てた。
「お、お腹が___」
ランディは腹部に手を当てて、身を縮こまらせ、小さく震えている。ただでさえ弱々しいランディだ、今にも死んでしまいそうなほど弱って見える。
「大変だ!しっかり熱が通っていると思ったのに___きっと貝にあたったんですよ!」
オルフェウスは慌てて一階の診療所へと下りていった。
「大丈夫?あんたってつくづく冴えないわね___」
呆れながらも、シャルルは優しく彼の背中をさすってやる。ランディは苦しかったが、少し幸せだった。すぐに慌ただしい足音で、オルフェイスが二階に駆け上がってきた。
「解毒剤と整腸剤、痛み止めです、さ、これを飲んで」
オルフェウスはランディに薬を含ませ、水の入ったコップを手渡した。水を飲むのにも勢いがいるくらい、今のランディは苦しそうだ。だがどうにか薬を飲むことは出来た。
「暫く横になったほうがいいですね、下に行きましょう」
オルフェウスに肩を借り、ランディは一階へ。シャルルも後に付いていった。
五分もすると震えはなくなり、顔色も随分良くなってきた。三十分後には問題ないほどに快復していた。あの薬の効き目はなかなか素晴らしいようだ。
「ありがとうございます、だいぶ良くなりました」
ランディはベッドから身を起こし、オルフェウスに礼を言った。
「あんたは胃腸も弱いのかしら。あたしたちは何ともなかったわよ」
「疲れもあったのでしょう。抵抗力が弱まっていたのかもしれません。とにかく暫くは安静にしていたほうが良いでしょうね」
オルフェウスはまだ医者の顔で、ランディの身を案じていた。
「悪かったわね、急に仕事させちゃって」
「いえ、もとはといえば私の料理が原因ですし___そうだ、シャルルさんも解毒剤を飲んでおいて下さい、時間をおいて痛みが来ることもありますから」
オルフェウスはシャルルに薬を渡し、自分も同じものを一錠飲んだ。シャルルもその場で薬を飲む。
「また何か体調がおかしくなったらきてください、それと、事件のことで医学者の知識が必要になったらお手伝いしますよ」
「ええ、何か分かったら連絡するわ」
シャルルはオルフェウスに別れを告げ、家路についた。
帰りの道すがら、シャルルはランディの手を取って歩いていた。玄関前の石段を下りるとき、彼を気遣って手を繋いだところ、まだ手が冷え切っていた。放してしまうのも可哀想に感じたシャルルは、ずっと手を繋いでいる。
「まだ少し顔色が悪いわね」
自分より背の低いランディの横顔を眺め、シャルルは言った。
「いえ、そんなことないですよ___」
優しくしてくれるシャルルに、ランディは少し照れていた。だが頬が赤くなるほど血色は良くない。
「あたしの前であんまり苦しい顔するんじゃないわよ。心配しちゃうから」
「シャルルさん___ありがとうございます」
ランディは少し強く、か細いけれど暖かいシャルルの手を握り返した。
「痛い」
「あ、ごめんなさい」
そしてすぐに弱めた。
「ふう、なんだか疲れたわね」
ようやく自宅へ戻ってきたシャルルは一つ大きな溜息を付いてソファにもたれかかった。
「なんだか散らかっちゃってますね。すぐに掃除します」
「ああ、いいのいいの、あんたは寝てなさい。今日はあたしがやるから」
シャルルはすぐにソファから立ち上がり、とりあえず邪魔なネックレスやらピアスやらを外した。
「え?シャルルさんが?」
「病人は安静にする。オルちゃんも言ってたでしょう、疲れがあるのかもって」
シャルルはランディの背中を押して無理矢理寝室に追いやった。
「その服も洗濯するからさっさと着替えちゃいなさいね」
「はぁ」
シャルルは自分の着替えを持って居間の方へ。一人になったランディはなんだか嬉しくなって笑顔を浮かべた。
小さい頃、風邪を引くと両親はとても優しくて、まるで王様になった気分だったことを思い出す。風邪が治ってからもその気分でいるとしっぺ返しを喰らうが、ほんのひとときでもシャルルがこんなに優しくしてくれると、ランディはとても幸せだった。
「うわぁ、シャルルさんの料理って美味しいんですねぇ!驚きましたぁ!」
「そりゃ、あんたが来る前は全部一人でやってたのよ。当然じゃない」
なんだかいつもよりも穏やかで和やかで、今日はまだ一度も頭を叩かれていない。それはそれで少し寂しかったが、シャルルがまるで家族のように優しく介抱してくれたことにランディは感激し、勝手に涙腺が緩んできた。
「?泣いてるの?」
シャルルはランディの目が酷く潤んでいるのに気づき、不思議そうに尋ねた。
「自然に泣けてきちゃいました___こんなに優しくされたのって本当に久しぶりで___シャルルさんが僕のことを心配してくれるのが嬉しくって___」
ランディはこぼれはじめた涙を拭おうと必死だ。シャルルは困ったような笑顔になりランディの頭を軽く小突いた。
「たまにはこういう日があってもいいだろ?まあ一年に一回だけどね」
「それでも十分ですよぉ!」
ランディはそれから暫く泣きじゃくりながらシャルルの手料理を食べていた。あまりにも純朴なランディの姿に心癒されながらも「本当に幸の薄いやつだなぁ」と思うシャルルであった。
品の良いお屋敷。少女は飼い犬とじゃれ合っていた。
家柄は決して良いとはいえなかったが、少女の両親はとある研究で一代の富を築き、上流階級の仲間入りを果たした。
「パパもママもいつもお勉強しているの。でもね、シャルルとだってちゃんと遊んでくれるのよ」
少女は笑顔でそう話していたという。シャルルタティナ・カークマイルの幼少期は、幸せだった。
だが、破局は突然訪れた。
少女にとって最も残酷な形、両親の死を以て。
「ママ___?ママぁ!」
少女は叫んでいた。自宅の入り口近くに転がっていた母の身体を必死に揺さぶり、双眼から途切れることのない涙を流して叫び続けた。
母親はただ床に仰向けに転がっている。既に光のない瞳は無意味に天井を見つめ、僅かに開いた口の回りには、乾きかけた赤い染みが付いていた。何よりも恐ろしかったのは、母の首が捲れ上がっていたこと。少女にはそれがなんなのかさえ分からなかったが、ただごとでないことだけは本能が感じた。辺りにたちこめる血の匂いは凄惨さを増長していたが、残酷な情景にも少女は屈せず、自らの身体を血塗れにしながら母を呼び続けていた。
「うわっ!」
二階から父の声がしたと思うと、彼は階段を転げ落ちてきた。額から出血している父はまだ精悍で逞しい父のままだった。
「パパ!」
「シャルル!」
父はすぐさま娘を自分の胸に抱きしめた。二階の廊下で足音がする。父は足音の主を厳しい視線で睨み付け、シャルルもその姿を目の当たりにすることが出来た。
「逃げても無駄だ___カークマイル」
腹の奥底から身体をなで回すような、太く重い声。それでいて艶っぽく妙にまとわりついて耳に残る。
「P.J___」
父は男を睨み付けて口走った。
今が夜だから?廊下の洋燈は灯っているのに。男の顔には影が差していて、どんな顔つきで、どんな表情をするのかまったく分からなかった。ただ身の丈は父よりも大きく、がっしりとした体つきだということは分かった。髪は短く、毛先は天を向いているように見えた。
「くそっ!」
父はシャルルを抱えて走り出した。それと同時に、父がP.Jと呼んだ男も揺らめくように、尋常でない速さで動き出す。父が体当たりで扉をぶち破ったときすでに、P.Jは階段を一気に滑り降りていた。抱えられていたシャルルは、父の背後を見ており、P.Jの接近を逐一目に焼き付けていた。
ニヤリ。
射程距離に捕らえたのだろう。父が家の外に飛び出したとき、壊れたドアの所まで迫っていたP.J。影の差すその顔に白い歯が浮かび上がって見えた。
パパが危ない!そう直感したシャルルの小さな掌は、迫り来るP.Jに向けられていた。
カッ!
何が起こったのかは自分でも分からない。ただ、来るな!という強い思いがシャルルの掌を輝かせた。目映い光が放たれただけだったが、P.Jは明らかに怯み、食い止められた。
「はぁはぁ___」
自宅から随分離れた位置にある路地裏。夕べまで降り続いていた雨のせいで回りは湿っぽく、すぐ側には増水した用水路が激しい水の音を立てていた。父は肩で息をして、シャルルを丁寧に地面に下ろし、自分は壁に半身を擡げて一通り辺りを見回した。
「パパぁ___」
まだ涙の跡を残し、何度もしゃっくりをしながらシャルルは父の顔を見上げた。
「もう大丈夫だシャルル___ここなら見つからないよ」
父は少しでもシャルルを安心させようと、穏やかな笑みを見せ、彼女の頭を撫でてやった。
「あの___あのひとだぁれ___?」
「あいつは___悪い奴だよ___幸せを奪う悪い鬼___」
父の言葉はそこで止まった。笑顔は消え、赤い飛沫はシャルルの顔にまで弾け飛んだ。
「あ__ああ___」
父の胸から太い腕が飛び出してきた。シャルルにはそう見えた。だが実際は、影の差す男の腕が、父の身体を背中から突き破っていた。
「______P.J______」
父が再び口にしたその男の名前は、シャルルの脳裏にしっかりと刻み込まれた。
「逃げろ___!」
もはや息絶えてもおかしくない父は、最後の力でシャルルを突き飛ばした。彼女の小さな身体は、用水路の柵の間をすり抜け、激しい流れへと投げ出された。
冷たく、叩きつけるような水に飲み込まれ、やがてシャルルの意識は消えた___
___
バサッ!!
シャルルは毛布を払いのけ、跳ね上がるように目覚めた。いつも朝までほとんど乱れないシーツが今日は滅茶苦茶になり、酷く息づかいが荒く、体中が寝汗でべっとりと濡れている。
「夢___」
黒髪を束ねていたはずの紐も解け、乱れた髪が汗で濡れた身体に張り付いている。真夜中、妙に騒がしいのは自分の身体だけで、回りは静かなもの。
「はっ___!」
シャルルは焦った顔でランディを見やる。しかし彼が寝息を立ててグッスリ眠っていると知り、胸を撫で下ろした。
「嫌な夢___なんで今更あんな夢を___あ___そうか」
シャルルは自分の臆病を鼻で笑い、髪を掻き上げた。
「メアリーを見て思い出したんだっけ___」
両親の死の場面を。
ランディに悟られたくなかったシャルルは、シャツだけ交換してもう一度眠ることにした。彼がしっかり眠っているのは分かっていたので、ベッドの上で濡れたシャツを脱ぎ捨て裸になり、新しいシャツを手に取った。
「ん___?あれ?シャルルさん何やってるんですかこんな夜中にぃ___?」
物音で目を覚ましたランディは、半身を起こして目を擦りながら彼女の方を振り向いた。
「寝てろ馬鹿!」
シャルルは顔を真っ赤にして彼の顔めがけて枕を投げつけた。枕は見事に命中。ランディは再び眠りに落ちた。
「まったく___」
素早くシャツを着て、枕を取り戻すと、シャルルは頬を膨らませながらベッドに潜り込んだ。恥ずかしさと怒りで暫く眠れなかったシャルルだが、おかげで夢の恐怖は少し薄らいでいた。
翌朝。
「おっはよーございまーす」
すっかり元気になったランディは、一段と早起きしてせっせと家事に取り組んでいた。
「おはよ。もう体はいいの___?」
重い瞼を半分だけ開いて、シャルルも目を覚ました。夕べは夢のせいで、まったくと言っていいほど眠った心地がしない。
「はい、もうすっかり元気になりました。オルフェウスさんの薬が効いたみたいです」
「あ、そうだあんた___夕べ夜中目を覚まさなかった?」
「いいえ?」
嘘を付いている顔ではない。そもそも嘘を付くとこの男はどもる。
「そ、ならいいのよ」
まあ何はともあれシャルル安心。
「あ、そんなことよりもシャルルさん、昨日は本当にお世話になりました。僕、もう感激でしたよ!」
「どーいたしまして。あ、そういえば昨日ポスト開けるの忘れたわね。ちょっと行って来るわ」
シャルルは家の外へと出ていった。
「ふっふっふっ、昨日シャルルさんの裸見ちゃいましたなんて口が裂けても言えないもんねぇ」
ランディは料理を作りながらほくそ笑む。スープを小皿にとって味見しようと口を付けた___そのとき。
「きゃあああああっ!!」
ランディは思わずスープを吹き出し、小皿を落として割ってしまった。だがそれよりも何よりも今の悲鳴はまさか!?慌ててエプロン姿のままキッチンを飛び出し、外へ。
「どうしたんですか、シャルルさん!」
ランディは心底驚いた。あんな顔のシャルルを見たのは初めてだったのだ。庭にへたり込み、うっすらと汗を浮かべて何かに怯えるような弱々しい目をしていた。遠目にも、投げ出された彼女の足先が震えているのがよく見えた。その回りには郵便受け一杯に貯まっていたであろう手紙が散らばっている。
「シャルルさん___!」
ただごとでないと感じたランディは、すぐさま彼女に駆け寄ってその肩に手を触れた。
「ひっ!」
シャルルは肩をビクッと大きく震わせて、息の詰まるような声を上げた。明らかに何かに怯えていた証だ。その手がランディのものであるとわかると彼女の顔は急に緩み、すぐに深刻なものへと変わった。
「ああ、ごめん、心配させたね___」
ゆっくりと、足下を確かめるように、シャルルは立ち上がった。
「何があったんですかシャルルさん___」
明らかに異常な彼女に、ランディは心配そうに問うた。
「なんでもない___なんでもないのよ、ポストにムカデが這っていてびっくりしただけよ」
ランディの肩を何度も叩きながら、シャルルは自分に言い聞かせるように呟き、先に家の中へと戻っていった。
「ムカデなんて___どこにもいないけど___」
散らばっている手紙を拾い、郵便受けを丁寧に調べ、ランディは呟いた。そのときシャルルは___
「___」
まだ玄関の扉の内側に寄りかかっていた。ギュッと握りしめたため、彼女の右手の中でくしゃくしゃになってしまっているカード。そこに記されていた文字を確認するために、シャルルはゆっくりと皺くちゃのカードを広げた。
「___間違いない___あいつだ___」
カードには、普通に見ればなんの意味もないと思われる言葉だけがあった。
『P.J』
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