3 上を向いて
「大丈夫、百鬼はあたしが治療するから、あなたは自分の戦いに集中して。」
「ありがとう、助かるよ。」
百鬼が担架で運び出されるよりも早く、ソアラはフローラの元へと急いだ。調度フローラも医務室に向かおうとしていたところで、二人は選手控え室へと続く廊下の角で鉢合わせていた。フローラは微笑みでソアラを勇気づけ、ソアラもまた餓門との戦いに向け、部屋へ戻ろうとしていた。
「あ!お母さん!」
その時、忙しない足音に乗ってリュカとルディーが駆けてきた。
「お父さんは!?」
彼らの気持ちもソアラと同じ。リュカはソアラの腰に縋り付くようにして問いかけた。
「大丈夫、これからフローラが治療してくれるから。それにお父さんは足をやられただけでまだまだ元気なはずよ。」
「良かった!」
母の明朗な笑みに不安をかき消されたか、リュカはホッとした様子で息をつく。
「ねえ、あたしたちもお父さんのところ行っていい?あの部屋つまんない。」
リュカよりも落ち着いた風を装って、ルディーが言う。大人びているとはいえ、内心の不安を隠しきれない姿にソアラは愛おしさを覚えた。
「そうねぇ、あなたたちはまだ次まで時間もあるし___よし、行ってお父さんを褒めてあげなさい。」
「はいっ!」
快活な返事が呼応する。
「あ、そうそう、あなたたちも一回戦突破お見事!次も精一杯頑張りなさいよ!」
「はいっっ!!」
二度目の返事はより一層溌剌として聞こえた。心配ばかり口にしていた母の激励の言葉は、何よりも二人を元気づけたようだ。
百鬼の治療をフローラに託し、控え室に戻ったソアラはひとまずの安息を得るはずだった。しかし新たなる戦慄、狂気がソアラの背に悪寒を走らせる。
「クカカカ___」
死神黒閃。狂気の夜叉は終始笑みを浮かべながら、淑やかで美しい女性妖魔、藍火を惨殺してみせた。彼の巨大な右手はそれそのものが凶器である。鋭い爪で抉られただけでも致命傷になりかねないが、この戦いで彼は右腕に宿した能力を披露した。
「あ___う___」
藍火は善戦していたようにも見えた。しかし実際は弄ばれていたに過ぎない。浅い当たりで体の端々を血に染めていき、時に服を剥ぎ、失血で朦朧とする彼女の唇まで奪う。やりたい放題やった末に、玉砕覚悟で攻撃に出た藍火の全身を剣山で貫いた。
剣山は彼の右手。巨大な手が突如として弾けるように裂けると、無数の柔軟な剣の山となって、藍火の腕、足、胴、首にまで、一斉に突き刺さる。
「くっ___」
嬲るだけ嬲っておいて、白旗を上げる一歩手前で命を絶つ。惨いやり方にソアラは息を飲んだ。憤りはある。しかしそれ以上に、百鬼の次の相手があの男であることに、言い得ぬ恐怖を感じた。
黒閃の狂気に畏怖したか、次の戦いは静かな展開となる。ソアラは舞台に目を向けつつも、百鬼にどんなアドバイスをしようかと考えを巡らせていた。そうしているうちに戦いは石湖の勝利で幕を閉じる。
そして次の試合。ソアラの目の色が変わった。
「続いて吹雪さんの登場です!」
確かに吹雪の名は彼女に相応しい。ブリザードのように煌めく銀髪、色白の肌と冷血なる美貌、氷のごとく頑なな心。
「フュミレイ___!」
現れた女に、ソアラは気の高ぶりを抑えることができなかった。ただ、それも一瞬のこと。天界で突き放された情景が頭をよぎると、一人で興奮している自分が馬鹿みたいに思えて、急に落ち着きを取り戻した。それでも胸の鼓動は病に悩んでいた頃を思い起こさせるかのように、激しく脈打つ。
今は狭い部屋の中。でも、彼女がここにいることは分かった。その戦いから自分は何を感じることができるだろうか?良き友として、ライバルとして、また彼女と共に過ごす時間は来るのだろうか?私の願いを聞いてくれるだろうか?
フュミレイが出てきた部屋の場所は見た。出口で待ち伏せることもできる。でもそれをするか否か、ソアラは考え倦ねていた。戦いを見つめることで自分の気持ちに整理をつけられれば___そう願っていた。
「悲しい目をするものだな。」
舞台上、やってきたフュミレイを出迎えた吏皇は開口一番そう言った。
「悲しい?私が?」
フュミレイの眉間に幾らかの力がこもる。
「なぜそうまでして心を閉ざす。貴公を求める視線に気付いていながら、頑なに逃げ続けている。卑怯だとは思わぬか?」
「知ったように言うな。」
「知ることが私の能力だ。」
「___」
フュミレイは閉口する。しかし吏皇の眼差しを遮るようなことはせず、ただ帰蝶に手で合図を送る。すぐさま開始の銅鑼の音が響き渡った。
「人の心に土足で踏み込むような真似は好きじゃない。」
「丁重にお邪魔したつもりだ。貴公もさして動揺はしていまい。」
深い経験と見識を携えた年長者だからこそのゆとりある物腰で、吏皇は細身の剣を抜いた。
「行くぞ!」
先に仕掛けたのは吏皇だった。二人の間に面識はない。フュミレイは彼がサザビーの頼みを聞いて鵺を引き取った人物であることを知らないし、吏皇もまた彼女が鵺を連れてきた男の仲間たちと因縁浅からぬ関係であることを知らない。
「なら、あたしを動揺させてくれないか?」
吹雪の名を体現するかのように、フュミレイは掌から氷柱を生み出し、吏皇の剣に応戦する。その最中、彼女はそう問いかけた。
「異な事を言う。」
細身の剣と氷柱が絡み合い、鍔迫り合いとなる。フュミレイは至近距離でも臆することなく、隻眼を吏皇の視線に晒し続けた。自分の奥底を覗き見て欲しい、そうとでも言わんばかりの眼差しに吏皇は閉口した。
「くっ___」
好奇心が隙を生んだか、吏皇の真っ直ぐな蹴りがフュミレイの腹部を捉える。突き飛ばされるようによろめいたフュミレイに、吏皇は刃を走らせた。
「なに___」
しかし、斬りつけた瞬間に彼女の姿は目の前から消えていた。
「あたしは___」
「!」
声は背中から聞こえた。振り返るとフュミレイは何事もなかったように、彼から距離を取って立っていた。
「あたしはなぜ死ななかったのか。それが惑いの元凶だ。死はあたしへの罰のはずだった、なのになぜあたしは生きていたのか。」
臆することを知らない隻眼を真っ直ぐに見つめ、吏皇は額に幾らかの脂汗を滲ませた。彼の能力は目を通じて相手の意志を知ること。それは心を知ることであり、戦いでは敵の動きを先読みする効果を持つ。多くの敵は彼の視線を拒もうとする。しかしこの女は、自らの全てを見せつけるようにさらけ出してくる。
愛しき者を裏切り、殺めた過去。
罪を償うために捧げた命。
それでもなお死を許されなかった己への虚無感。
形骸と化した我が身に差し伸べられた救いの手。
しかし___
その全てが笑止千万なり!
「私は人生相談のためにここに立ったわけではない!」
煩わしく思った吏皇は自らの能力を断った。知る力を抑圧し、見るための目とすることでフュミレイの思念を遮る。
「なら___一つだけ教えて欲しい。」
彼の意志を感じ、フュミレイもまた長い瞬きをする。
「あたしは今も悲しい目をしているのか?」
再び二人の視線が交錯した。
「心の奥底を写す水鏡まで歪曲できると思っているのならば、貴公はよほどの傲慢だ!」
吏皇が地を蹴ったことで会話が終わる。それは戦いの合図でもあった。
「飛天狼牙吼!」
駆け出すと共に、吏皇は細剣で空を幾重にも切り裂いた。切り裂かれた大気は刃の軌跡の形で白く色づき、駆け抜ける吏皇の体にそのままの形で付着する。一瞬にして彼は刃の鎧甲に包まれていた。
吏皇が元来持つのは心中を読む能力のみ。しかしそれだけで激しい戦乱の世を生き抜けるはずもない。水虎の、煉の気概を次ぐ者として、彼は気高き志でこの戦いに挑んでいる。そうとも、多くの妖魔は黄泉の覇王の座をその手につかむため、決死の思いで戦っているのだ。
では私は何のために?
そう問われたとして、今のフュミレイに答えは見いだせないだろう。彼女の心は黄泉へとやってきて以来、自分でもどうにもできないほど曖昧模糊としたままなのだから。
「つあああ!」
サーベルがフュミレイを襲う。しかしまたしても、一瞬にして彼女は消えた。だがそこはそれ、目を合わせていれば吏皇に隠し立てはできない。
「!」
距離をとって吏皇の背後に現れたフュミレイ。それを看破していた吏皇は、いくつかの大気の白刃を宙に残していた。刃は漫ろとなってフュミレイを襲う!
「くっ!」
予選も通じて、この大会で初めてフュミレイが顔を歪めた。白刃が彼女の腹、大腿、肩口を鮮やかに切り裂く。しかし追い打ちを狙う刃はフュミレイが隻眼を見開くと、弾けるように消滅してしまった。
「少しは___」
黒い服は血に染まっても目立つことはない。しかし切り裂かれた傷口から溢れる血は、指先を伝って彼女の足下に広がっていく。
「必死になったようだな?」
だが血はすぐに止まる。傷口を淡い光に包みながら、吏皇とフュミレイは再び目を合わせた。
「刃を退けた瞬間だけ、本気の目をした。それができるのになぜしようとしない。」
「___」
「無礼であろう。求めに答える力を持ちながら、まったく果たそうとしない。貴公にそのつもりがなかろうと、それは相手の誇りを踏みにじる行為だ。」
だがフュミレイは何も答えない。いや、答える必要がないと知っていたからだろう。目を合わせていれば、それだけで吏皇には全てが通じる。
「その程度の過去を晒すのはよせ。片腹痛い。」
「___その程度。」
「そうだ。貴公は生きているのだからな。命亡き者には過去しかない、しかし貴公には未来がある。未来ある者が過去を語ったところで、陳腐なだけだ。無駄に時を進めているだけの人物ならばなおさらな。」
フュミレイは再び押し黙る。その時、彼女はただ切実な一念だけを瞳に込めていた。自分でもどうして良いかわからないモヤモヤを掻き消すために。そして吏皇は___
「戦え!道を切り開きたくば!」
誠実だからこそ、求めに答えた。
「うおお!」
再び大気に幾重もの刃を作り出し、吏皇はフュミレイに襲いかかる。
「わかった___なら、逃げるのをやめてみる。」
そしてフュミレイもまた、その身に宿した膨大なる魔力の一端を露わにさせた。
ゾクリ___
それはフローラたちが去って一人となったレイノラの背筋を、少しだけ震わせた。
「!?」
フュミレイの両手から放たれたのは無色の魔力。だがそれはリュカが朱魅丸相手に放ったものとはあまりにもレベルが違う。
輝かしい魔力は二重の螺旋となって吏皇を襲う。螺旋は空間に歪みを作り、強烈な引圧で吏皇の風の刃を吸い付けていく。
逃れなければ!しかし身を翻そうとしても、螺旋に引き込まれるようにして、吏皇は体の自由を失っていた。
ドゴオオオオ!
爆破音とは違う。しかし光が吏皇の体を駆け抜けたその時、まるで大瀑布の前にでもいるかのような轟音が響いた。
光が消えると吏皇はまだその場に立っていた。しかし___
「ぐはぁっ___!」
次の瞬間、彼の全身の皮膚が裂け、花火のように鮮血が舞い踊った。その様は体内からの破裂とでも言うべきか。しかし、それでも吏皇は片膝をついてフュミレイの前に踏みとどまっていた。そして___
「参った。おまえの勝ちだ。」
ただ一言だけ告げるとゆっくりと倒れた。
「け、決着しました!勝者吹雪さん!」
最後の一撃があまりに凄まじすぎたか、帰蝶がフュミレイの勝利を宣言しても会場には唖然とした空気が広がっていた。それもそのはず、吏皇はこの大会の優勝候補の一人でもあったのだから。
「吏皇さん。」
だがそんな観衆の動揺など気にもとめず、フュミレイは吏皇に駆け寄った。その手には温かな光が宿っていた。
「く___」
彼女の手が触れると、吏皇の体の痛みが和らいでいく。しかし吏皇はそれを甘んじて受けようとはしない。不覚にも幾らかの傷は癒えたが、彼はすぐに肘を張って体を起こし、フュミレイの手を退けた。
「無用な情けは恥辱にも似たり。余計なことはするな。」
「礼が言いたかったのです。無礼を許してもらいたい。」
フュミレイもそれ以上彼に手を触れようとはしない。ただ、先ほどとは少し違った瞳を向けるだけ。
「目の色が変わった。それならば、貴公は自らの信じた道を進むことができるはずだ。」
「あなたのおかげです。今の私に足りなかったもの___前へと進む勇気を教えてくれた。しかしなぜ私のような者に___」
その言葉に、吏皇は笑みを浮かべる。そして傷ついた体とは思えない力強さで言った。
「貴公が強いからだ。力を持つ者は常に健全でなくてはならない。だから正したくなった。」
血に塗れてはいる。しかしその暖かく大きな手に触れて、フュミレイは深い感銘を覚えた。黄泉へと落ちて以来触れたことのない暖かみが彼女の心を震わせていた。
「恐れることはない。過ぎ去りし悪夢に縛られることなく、正しいと思った道を進め。」
「はい。ありがとうございます。」
一度だけ頭を下げて、フュミレイは吏皇に背を向けた。去りゆく彼女にようやく状況を飲み込んだ観衆が大きな拍手を送る。ちょっと前だったら疎ましく感じていただろう注目と賞賛。しかし今のフュミレイは何かこれまでにない晴れ晴れしさを感じていた。
中庸界で死んだはずなのに、黄泉で生きている。その意味に惑わされ、己を見失っていた自分。死の覚悟を不意にされて生命としての覇気を失い、ソアラがかつて言ったように「生かされている」だけの存在だった。
(どう進むか、それはこれから考えよう。)
今思えば、何をそんなに悩んでいたのかと思う。だが、吏皇に対して「自分に足りないものは何か?」と瞳で問いかけ、その答えが「勇気」であると気づかされたとき、これまで深く蔓延っていた胸の蟠りは消えていったのだ。
未来へと進むこと、それは未知な道を歩むこと。
その先に希望を見いだすのなら、勇気を持って前へと進め。
立ち止まり、迷う事なかれ。
後ろを振り返るばかりでは、捨ててきたはずの絶望しか見えぬのだから。
戦いを終え、控え室に戻ったフュミレイは早々と部屋の出口へと進んだ。正直なところ石造りの冷たく狭い部屋はあまり好きじゃない。過去の苦しみに囚われていたさっきまでは余計にそうだった。いくらか前向きになった彼女は、すぐに部屋を出た。
「___!」
そして、再会する。
「___ちわ。」
廊下の壁により掛かり、ソアラは少しだけ気まずそうに手を挙げた。迷っていた。会いに行くべきかどうか悩みに悩んで、結局衝動を抑えきれずにここまできた。部屋の前で待っている間も酷くソワソワしていた自分がいる。気まずそうな顔になってしまったのはそのためだった。
「___」
「___」
なぜだろうか、二人とも次の言葉が出なかった。
「あの___」
たまりかねたソアラが何かを絞りだそうとする。
「久しぶりだな、ソアラ。」
しかしフュミレイが思いのほか流暢に、そして優しくそう言ってくれたことで、ソアラの蟠りは瓦解する。
「久しぶりって___そう言ってくれるの?」
「おかしいか?」
懐かしい銀髪の微笑みに当てられたその時、ソアラの中で何かが弾けた。
「ぅ___うぅ___うああぁぁっ!」
急に、子供のように顔をクシャクシャにして、ソアラはフュミレイに縋り付いた。背格好の近い女の胸に、頬を埋めるようにして泣きじゃくった。
「ソアラ___」
戸惑いはした。しかしフュミレイは慟哭を胸に染み付けるように、たった今出てきた部屋の扉にもたれ掛かって、ソアラを優しく抱いた。
「ごめんね、いきなり泣いたりして。」
「驚いたよ。いつからそんなに女々しくなったんだ?」
「ふふ、変わらないねぇ、そういうこと言うのって。」
一頻り泣き終えて、二人は廊下の壁に寄り掛かって話し出していた。
「でも嬉しかった。」
ソアラはまるで恋人との逢瀬を楽しむかのように、少しだけ頬を赤らめて言った。
「こうしてまた出会えたこと?」
「それもそうだけど、あなたが受け入れてくれたこと。だって___今だから正直に言うけど、ここで待っているのも怖かったのよ。」
「どうして?」
「だって___」
これを言って彼女の顔が曇ったらイヤだな___とは思った。でも、言えなければそれまでの間柄でしかない。だからソアラは隠し立てせずに吐露した。
「天界であなたに会って、でもあなたは私を突き放した。あのとき___ううん、落ち着いてからはもっとだけど、本当にとてもショックで___なんだかね、またああされたらちょっと立ち直れないかもしれないなって思っていたから。」
「___」
フュミレイには返す言葉が見つからなかった。それほどに自分のことを思ってくれていたソアラに痛々しさまで感じていた。
「なぜそこまで思ってくれるんだ?あたしはもうおまえにとって過去の存在になっていると思っていた___」
「そんなことないよ。だって、あたしはあなたを生涯の仲間とかライバルとかって思ってるんだから。あっそうだ、人生を変えるきっかけになった人とか出会いって誰にでもあると思うのよ。そういうのって離ればなれになっても忘れるものじゃないでしょ?」
そう、フュミレイにとってアレックスが永遠であるように。
「あたしがその人だっていうのか?」
「フュミレイのそういう人の中にあたしはいないわけ?」
「ん___ないことはないかもね。」
「なによそれ。」
二人はまた笑い会う。こんな再会の日が訪れることをソアラはどんなに待ち望んでいたことか。大粒の涙は止まっても、笑いながらソアラの目は潤んだままだった。
「ふふっ、ねえ、おもしろいと思わない?もともと私とあなたは敵同士、まして立場だって全然違っていたのに。」
「色のせいだろう?」
抱き合ったとき、混じり合っていた紫と銀の髪。南国の孤児院育ちと雪深い国家の重鎮の娘が、特殊だからこそ引かれあってきた。
「それだけかな?同じ人に影響を受けて、同じ人を好きになって、それに同じように強くなった。」
「私は弱くなった。」
「吏皇に簡単に勝てる人が?」
「皮肉だな。」
劣等感と言いたくはない。自分が墜ちていっただけなのに、そんなやっかみを抱くのは下劣なことだ。だが、絶望から希望へと歩み続けてきた者と、希望から絶望へと転がり続けた者の差、それが二人の決定的な壁でもある。
フュミレイはアレックスを失い、ソアラはニックを得た。それこそが壁の証でもある。
「ねえフュミレイ。」
「ん?」
「目指すものがなければ上は向けないわ。」
壁は高い。しかし、ソアラはその上へとよじ登り、下でただ憮然とし続けるフュミレイに手を伸ばしている。
「何もないのに上を見ようとしたって、首が疲れて自然に俯いちゃうのよ。」
ソアラはフュミレイの手を握る。現実の温もり、暖かなソアラの手のひらとフュミレイの冷たい手の甲。
「あなたに目標がないなら、あたしたちと一緒にアヌビスと闘って。」
「___」
「上を見ていこうよ、ねっ。」
短い時を過ごしただけでしかない。しかしソアラは感じていた。虚空を見るような、何かを諦めている彼女の目。それはフィツマナックで再会したときに似ている。拭いきれない絶望感のようなものが、本来は清らかに美しい藍の瞳を濁らせ、闇を落とす。だからこそ、彼女の陥っている坩堝から救い出したいと感じていた。
「___」
「あたしの知っているフュミレイはそんなに弱い女じゃなかった。」
「___強かったのか?」
「強かったよ。あたしよりもずっと。なんたってあたしの目標なんだから。」
ソアラは少しだけ強く、フュミレイの手を握った。
「一人だけで悩まないで。あたしたちは支え合っていけるはずよ。」
でも冷たい手はなかなか暖まらない。
「心遣いは受け取っておくよ。ただ、一緒には動けない。」
「どうして?」
「パートナーがいるんだ。お互いに都合がいいから一緒にいるだけだけどね。」
「へえ、じゃあその人も大会に?」
「ああ。」
手が放れた。フュミレイが壁に寄りかかるのをやめたから。
「じきに戦いが始まる。そろそろ部屋に戻ったらどうだ?」
「___そうだね、そうするよ。」
「今日は楽しかった。」
些細な一言だったが、ソアラはその言葉に胸躍る気分だった。そして小さく手を振ってから去っていく後ろ姿に、たまらず叫んだ。
「ねえ!また会おう!一回戦が終わったら___!」
フュミレイは振り向くことなく、ただ手を挙げて答える。肯定にも否定にも見える仕草だったが、ソアラは信じて疑わなかった。
(あたしたちは引かれあう。それは色のせいかもしれないし、それだけでないかも知れない。でも___)
自分の生き様全てを一言で片づけられてしまう、だから運命って言葉は嫌いだった。でも彼女との間に離れられない何かがあるのなら、それは歓迎したい。都合のいいことかも知れないけど___
(フュミレイは私を黄泉に導いてくれた。彼女は否定するだろうけど、それでも、私は彼女に導かれてここまできたのよ。)
それは運命だと思いたかった。
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