2 愛の悲しみ、愛の悦び
「ごめんなさい!僕のせいで!」
ソアラたちの所に戻るなり、リュカはミキャックの治療を受けていたライに縋り付いた。
「リュカ君のせいじゃないよ。君たちを傷つけないようにすること、それが使命だと思って戦ってたんだから。僕はいい結果だったと思ってる。」
口元から血を滴らせながらも気丈に話すライに、リュカはますます顔をくしゃくしゃにして今にも泣き出しそうになる。
「リュカ、治療が先。分かるわね?」
「___うん。」
大蹄に食らいつかれた時も、ライは練闘気で身を守ることで致命傷だけは免れた。しかし内臓を広く傷つけられ、状況は決して穏やかではない。ソアラもそれを察して、リュカを宥めながら彼から遠ざけた。時間は掛かるだろうが治療できない傷じゃない。
「さあ、続いて予選第五組!」
しかし予想外のことが起こった。
「え!?」
ミキャックの番号が光ったのである。
「俺もか。」
さらにはサザビーも。ミキャックは彼を一瞥し、短い逡巡を経て再びライの治療に意識を集中する。
「ミキャック、治療はもういいよ。」
そんな彼女の些細な動きを感じられるほどライは敏感ではない。しかし自分の怪我のために彼女の戦いを邪魔したくないという気持ちは強かった。
「今やめたら命に関わるわ。私のことは気にしないでいいから。」
自らを犠牲にすることも厭わないミキャックのこと。その返事は彼女にとって極当然の選択だったが、ライには別の考えがあった。
「ソアラ、もう僕らの出番は終わったんだから宿に帰ろう。それでフローラを呼んできてくれる?」
「え?ああ!そういうこと!」
ソアラは手を叩いて笑顔を見せた。
結局、ソアラのヘブンズドアでライ、百鬼、リュカ、ルディーが宿へと帰った。それからすぐにソアラがフローラを呼びに走ったのは言うまでもない。一方、棕櫚は敵情視察を兼ねてここに残り___
「大丈夫かしら___」
「心配するな。傷の治療はフローラ___じゃないか、鳳香の専門だ。」
不安を消せないミキャックと、いつもと変わらないサザビーが戦場へ。
「手でも繋いでいくか?」
「なに言ってんのよ。」
「お、待ってくれ〜。」
サザビーの誘いを軽くあしらって、ミキャックは足早に石のステージを目指した。後ろに飄々とした声を聞きながら、彼女はあの人との別れの前夜を思い出す。
___
その夜、朱幻城の本殿はいつになく賑やかな空気に包まれていた。というのも、中庸界に帰る決意をしたフィラの送別会が行われていたからだ。発案者はソアラであり、榊の了解も得て飲めや歌えの馬鹿騒ぎ。いや、最初はそんなこともなかったのだが、ソアラに無理矢理酒を飲ませてから様子がおかしくなった。
「姫は可愛い!本当に可愛いなぁ!」
「よ、よさぬか馬鹿者!」
「も〜!照れちゃって!」
実のところ、ソアラが酒を飲んだらどうなるかを知っているのは百鬼とフローラだけである。ライにしろサザビーにしろ彼女とのつきあいは長いのだが、これまで彼女が頑なに酒を拒み続けていたためその変貌振りを見たことがない。フローラはポポトル時代に、百鬼は夫婦の暮らしの中で酒を口にしたソアラを見ている。それは酷く疲れた思い出として二人の記憶に焼き付いていた。
「姫を抱ける男は幸せ者よ〜、ねえ棕櫚!」
「お、俺ですか?」
「あ〜、あたしが男だったら絶対放っておかない。」
「おまえそれフローラにも言ってたよな。」
「あ〜熱いなぁ、よ〜し!脱いじゃおっかなーっ!」
「あ〜こら!やめろっての!」
「うっ___」
「あ!なんだよ急に!」
「フローラ!ソアラが吐いた〜!」
フィラの送別会のはずなのに、すっかりソアラの一人舞台である。
(行った方が良いかな?)
酒が入って体が熱かったこともあり、ミキャックは広間から少し離れた庭にある池の縁で涼んでいた。なにやら騒がしい広間の方を振り向いて、踵を返そうかと思案していた。
「よっ。」
その時、すっかり聞き慣れた女性の声が彼女を呼んだ。互いに顔は知っているし興味だってあるのに、今日のこの日まで面と向かって会話できなかったあの人。
「ゼルナスさん。」
「もう中は駄目だね。あたしのパーティーのはずなのに、ソアラったらやりたい放題でさ。」
「そうみたいね。」
「でもソアラがあんなになるなんて思わなかったな。はしゃいでたと思ったらいきなり脱ぎはじめるし___ま、とにかくリュカとルディーを先に寝かしておいて正解だったよ。親のあんな姿みたらトラウマになるもの。」
いや、フィラはミキャックと会話することに何一つ臆していない。思うところがあってうまく言葉が出てこないのはミキャックだけなのだ。ある男について、フィラよりも劣勢にあると感じてしまっている彼女だけ。
「あ〜ここは涼しいな。良いとこ見つけたじゃん。」
「___ええ。」
酒でほんのりと上気した頬、やや汗ばんだ肌、色香を漂わせる状況でありながら清々しい彼女の物腰は、胸をスッとさせる心地よさを醸し出している。そういう彼女の良さを知るほどに、自分が卑屈に見えてまた少し陰鬱な気分になるのだが、それもやむを得まい。
自分はサザビーに恋心以上の気持ちを抱いている。男を恐れていた自分が、彼なら大丈夫だと感じた。それはとても大きな事だった。でも彼にとって自分は特別な存在ではない。彼にとって特別な存在は、ゼルナスことフィラ・ミゲルその人だ。
私は___フィラに負けたんだ。
「あたしのこと嫌い?」
「っ!?」
うかつにも言葉に詰まってしまった。しかしこうも図星を突かれては致し方ないだろう。
「嫌いだなんてそんな___」
「フフ。」
酒で気が鷹揚になっているのだろうか、フィラはミキャックの気持ちを全て知ったような顔で、彼女の反応を楽しむように笑っていた。その仕草にショックを受けたミキャックは、取り繕う言葉も忘れて身じろぎする。
「ごめん、私もう行くから___」
「待って!」
その場から逃げ去ろうとしたミキャックだが、フィラの強い声に足を止める。しかし振り向きはしなかった。
「頼みを聞いて欲しいんだ。あなたにしか頼めないこと。」
「___」
ミキャックは動かない。フィラに背を向けたまま、彼女の言葉を待った。
「サザビーのことを愛してやってほしい。」
「___」
沈黙が流れる。
「あたし以上にあいつのことを愛してやってほしい。あなたにその気持ちがあるって感じたから言うんだ。」
「ふざけないで___!」
ミキャックはいつもよりも強く、しかし何かを押し殺すような震えた声で言った。
「ふざけなんていない。あたしは真面目に___」
「彼が!」
ミキャックが振り返った。溢れんばかりに溜めた涙と、激昂の一歩手前で踏み止まっている理性は、彼女の我慢強さを象徴していた。
「___彼が私に優しくしてくれたのは、黄泉で辛い目に遭わせてしまったことへの償いだけ___そんなことで___」
しかし顔色一つ変えないフィラの落ち着きを見るほどに、ミキャックは興奮を抑えきれなくなっていった。そして___
「そんなことでその気になってたあたしを笑いに来たの!?」
本音を吐露すると共に、彼女は涙をこぼす。体中から力が抜けて、ミキャックはその場にへたり込んでしまった。少しだけ声を上げて、それでもすぐに何とか嗚咽を止めようと腐心していた。
「しっかりしな。」
そんなミキャックの前にしゃがみ込み、フィラは彼女の手にハンカチ代わりの布を握らせてやる。
「もしあたしがあんたと古い付き合いだったら、引っぱたいてるかもしんないよ。だってそうでしょ?あたしはもう二度とあいつと会えないかも知れないんだから。本当に泣きたいのはどっちだと思ってんのさ。」
「___ごめん___」
いつものように凛々しいフィラの眼差しを前にして、ミキャックは彼女の顔も見ることができないまま謝っていた。だがその湿っぽい態度はフィラを少しだけいらつかせる。
「ったく、そんな弱気でどうするの?あたしが根性叩き直してやるからまずは涙を拭く!」
弱気という言葉を噛みしめて、ミキャックはフィラの手を借りながら大粒の涙を拭っていった。
「さっきのは確かに意地悪だった。それは謝るけど、もうちょっとしっかりししな。」
庭にあった竹の長椅子に腰掛けて、フィラはミキャックの肩に触れながら言った。
「ごめんなさい。そんなに意識してるつもりはなかったのに___なんだか変に感情的になっちゃって___」
「それだけあんたにとってサザビーが大きな存在になってるって事だよ。だからあたしのことが気に入らないのも当然さ。」
そうさらりと言ってのけるフィラの余裕がミキャックにとっての棘なのだが、もう取り乱すようなことはないだろう。
「でもさ、何でそれで弱腰になっちゃうのかはあたしには分からない。そりゃあたしたちは仲間同士だし、その中で恋愛のもつれが起こるのは良くないことかも知れないけど、べつにあんたがあいつを好きでいる気持ちまで殺す必要はないんじゃない?」
「でも___サザビーはあなただけを見ているわ。だったらあたしが身を引くのは___」
「何でそう思うの?あたしはもうここからいなくなるのに。その調子だとあたしがいなくなってからも、あたしの影を怖がってサザビーを避けようとするだろ。」
「___」
返す言葉もない。恋に臆病な自分は、多分そうしてしまうだろう。
「それにサザビーが一人の女だけ見ているような男だと思う?それだったら何であたしをほったらかしにして、あいつは黄泉なんてところまで行ったのさ。」
「___」
実際彼と触れあえばこそ、軽薄に思えて個に対する深い優しさを持った人物だと知るのだ。だからミキャックはその問いかけに何も答えたくなかった。だが次のフィラの言葉は、彼女にってあまりにも予想外のことだった。
「ならいい話を聞かせてやるよ。あたしはもう結婚してるんだ。」
「え___?」
「いや、正確にはしてた___」
「どういうこと___?」
その時のフィラの横顔は別人のようでもあった。サザビーを見るときとは違う、また別の思いの籠もった悲しげな目がミキャックを惹きつけた。
「あたしが中庸界でどういう立場かは知ってるだろ?あいつはああいう男だから、あたしも何度か裏切られたことがある。あたしはあいつがしっかり謝れば許してやれるけど、あたしはあたしだけのものではない。分かるかい?」
「何となくは___」
「将来は伝統あるクーザーの地を統べるかも知れない男が、そんな浮ついてる事じゃ困るってのさ。かといってあいつの性分が直るはずもない。だからあたしたちは距離を取りながら、それでも互いの心の糸だけは結びあって離ればなれの日々を過ごしてきた。それはそれで楽しかったけど、永遠に続くなんてのは悲劇的だ。でもあたしはクーザーを捨てるつもりはなかったし、あいつから自由を奪うのはもっと嫌だった。だから___あたしたちは別れた。」
ミキャックはその言葉に息を飲んだ。半分以上嘘を疑いながら、それでも自然と親身になって耳を傾け続けた。
「実際は一つのきっかけがあった。あたしがあいつに惹かれながらも、もう一人の男性を好きになったんだ。一緒にいて安心できる、素敵な人だった。それでもあたしにとってサザビーは特別な存在だ。あたしの母親のことも、そしてあたしのこともあいつ以上に知ってくれている人はこの世にいない。」
ミキャックにとってもサザビーは特別な存在。中身は違っても、二人がサザビーに好意を寄せる原点は自分の歴史、あるいは本質を理解してくれる人だからなのかもしれない。
「別れ話はあたしから切り出した。あいつは躊躇いもせずに受け入れてくれた。結婚の可能性についても平気な顔で祝福してくれた。なんか拍子抜けだったし、腹も立ったけど___今思うとそれもあいつなりの気遣いなのかもしれないし、強がりもあったんだと思う。」
サザビーならきっとそうするだろう。それが正しいかどうかは別として、彼はそういう人だ。
「でも、私の愛したもう一人の男は死んだ。そして私が何よりも愛してきた祖国は滅びた。もうあたしにはサザビーしかいなかったのに___あいつは私の手の届かないところに行ってしまっていた。」
これだけ強い人が我を忘れるようにしてサザビーのことを求めたのだろう。だから彼女は藁にも縋る思いで黄泉まできた。そう思うと、まるで自分の恋を邪魔するためだけに現れた人といった目で見ていた己の愚かさに、ミキャックは憤りを感じた。
「ミキャック。あんたさっきあいつはあたしのことを見ていると言ったけどそれは違う。あいつは不幸な女を放っておけないだけなんだ。だからあたしのことを気遣ってくれている。あんたは黄泉で辛い目にあって、それで優しくされたと言ったけど、今のあたしがまさにそれさ。でもそれは今だけ。あたしがいなくなれば、あいつはあんただけを見てくれる。」
「嘘___」
俄に信じられないといった様子で首を振るミキャック。しかしフィラは頑なだった。
「黄泉であいつと再会したとき、あたしは優しくしてくれることだけを望んだ。愛してほしくて仕方がなかった。でもあいつは私を突き放して、クーザーに帰れと言った。」
「___嘘よ___」
「嘘だったら帰ろうなんて思わない。もちろん愛してもらった。優しいから、あいつは求めれば愛してくれる、そういう奴よ。すぐに謝って、戦いが終われば中庸界に戻って、クーザーで一緒に暮らすって言ってくれた。でもね___あたしたちはやっぱりもう別れたのよ。私は故郷をとり、あいつは冒険を取った。もうそれは揺るがないこと___何でか分からないけどさ___もう私とあいつはこれで会えないんじゃないかって、そんな気がすごくして___」
フィラの言葉に涙声が混じるほど、ミキャックは何の言葉も返せなくなっていった。心の整理がつかず、ただ押し黙って彼女の言葉を反芻することしかできなかった。
「ごめんね、何も言わないで帰った方がよかったかもしれない。でもあいつには女が必要だって分かってるし、あんたが遠慮しているのも分かっていたから、どうしても放っておけなかった。」
だがフィラもこうして話をするのには大きな勇気が必要だったはずだ。そう思うと、自分も彼女のように気持ちを強く持たなければという意欲が沸いてきた。
「ううん、ありがとう。」
それが微笑みを生んだ。
「やっと笑ってくれた。」
そしてフィラも微笑む。心より安堵したようなその優しい笑顔は、ミキャックの心に深く刻みつくものだった。
「ねえ、姫さんにその辺の小さな部屋貸してもらってさ、二人だけで飲まない?あたしたちだからできる話ってのもあると思うんだ!」
そう言ってミキャックの手を取り、立ち上がるフィラ。
「うん___!」
ミキャックも未だに滲んでいた涙を拭い、立ち上がった。
___
ギュ。
「!?」
不意に手を握られ、ミキャックは驚いて振り返る。
「どうした?集中欠いてるぞ。」
彼女の顔を覗き込むようにするサザビーの笑み。不意をつかれたミキャックは思わず頬を赤くする。
「な、なんでもない!大丈夫よ。」
「まあいいけどな。そうだ、折角だからほかの妖魔連中に見せつけながら行こうじゃねえの。」
「ぇえ!?」
とまどっている暇もなく、なぜだか腰を抱かれて石のステージに向かうことになったミキャック。
「ちょっ___やめてよ!あたしがこういうの嫌いなの知ってるでしょ!?」
「いいのいいの。初めっからペアでいた方が敵さんに狙われづらいだろ?」
軽い調子で大胆なことをできてしまう男だから、こっちまで惑わされるのだが。仕方なく、ミキャックは頬を染めたむくれ顔で歩いた。だがそうしていると、少しずつ恥ずかしさに嬉しさが入り交じっていく。
(フィラ、やっぱりあたしはサザビーのことが好きだよ。それを気づかせてくれて、あたしに自信をくれて、本当にありがとう。)
互いに打ち解けたからこそ、ミキャックは心の中でそう呟いていた。
「きゃっ!」
が、そのちょっと幸せな時間は、腰にあったはずのサザビーの手が尻に回ったことであっという間に終わるのであった。
「いい加減にしなさいよ!」
でも、それはそれで楽しいけどね。
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