4 少女の決意

 「___」
 屋敷の居間には、妙に重苦しい空気が漂っていた。それもそのはず、二人を外に残してからもうずいぶんと時がたつのに、まだ戻ってこない。榊は落ち着いた様子で、勝手に入れた茶を楽しんでいる。鵺はふてくされた様子でテーブルに突っ伏して、たまに苛々したように足を動かす。ミキャックは姿勢良く座ったまま動かないが、その顔は何ともいえない困惑の面持ちであった。
 二人に何かあったのでは?と心配しないのは、部屋の隅にバルバロッサもいるからだ。ミキャックはもちろん榊のことも鴉烙の一件で知ったバルバロッサだが、実のところ彼は二人が鵺に何か吹き込むのではという疑心からここにいる。ただそれでも、外に危機があれば何らかの形で察知してくれるのは確かだ。
 ところで、そもそも榊がここにきた理由は、手紙に対して何の音沙汰もなかったサザビーの真意を確かめるためだった。なのに、帯同を願い出たフィラを連れてきてややこしくなってしまった。ミキャックは道案内のためにはじめから必要だったが、こちらもどうやら別の意図があった様子。
 (早う戻らぬか、あのたわけめ。)
 落ち着いているように見えて、実は榊もこの状況にかなりいらついているのである。
 と、その時。
 「___だからぁ、アヌビスと戦うんだったらレイノラさんのところに行った方がいいって。みんなすごく強くなってるんだから。」
 「そうは言っても今はここから離れられねえんだよ。」
 屋敷の入り口から居間の重い空気もどこ吹く風の話し声が聞こえてきた。その途端、ミキャックは立ち上がり、鵺もガバッとやや怒気の滲んだ顔を上げる。
 「やれやれ。」
 駆け足で居間から出て行く二人を見送ってから、榊もゆっくりと立ち上がった。
 「お帰りなさい。なかなか戻らないから心配しちゃった。」
 そんな妻のような言葉で出迎えたのはミキャック。二人が手を繋いでいなかったのを知ってか、振る舞いはそれなりに朗らかだった。
 「ごめんね。いろいろ話し込んじゃって___」
 「ああこの屋敷は靴のままでいいんだ。」
 「え、そうなの?おっと___」
 脱ぎかけた靴をはき直そうとしてフィラがバランスを崩す。その時サザビーは実に何気なく、彼女に手を差し伸べて支えていた。そうされた瞬間、ほんの短い間だが二人は目を合わせた。その時の彼女の艶やかな笑み、それがミキャックの心に響いた。
 「ありがと。」
 何気ないやりとりではある。でもそんな二人の触れあいは、特別な関係のものにしか醸し出せない何かを持っていた。まして今のフィラは、匂い立つかのような女を漂わせて見える。そんな彼女をミキャックは見たことはなかった。
 「あたしのことほったらかしでずいぶん遅かったじゃない!」
 気を強く持っていたつもりでも、ショックで言葉が出なくなった彼女を尻目に、遅れてやってきた鵺が二人の前に仁王立ちになった。
 「ごめんな、こいつは___」
 「鵺さん!」
 紹介しようとしたサザビーの前に出て、フィラは声高に言った。
 「お願いがある!サザビーを仲間たちのところへ返してやってくれないか?」
 「おい___」
 「こいつのためなんだ、頼む!」
 鵺は成長したといっても、感情的な性格までは変わっていない。彼女はずっと孤独を味わってきたからこそ、それまで自分につきっきりでいてくれたサザビーを一目で奪ってしまったフィラを憎らしく思っている。それは見る見るうちに紅潮した彼女の頬を見れば明らかだった。
 「___ふざけんじゃないわよ!」
 鵺は怒りにまかせるかのように飛び出し、フィラを突き飛ばした。サザビーがとっさに彼女を支えたときには、屋敷の扉を背にしていた。
 「どうせ___どうせあたしは邪魔者なのよ!鴉烙の娘のあたしなんて___死んじゃった方がよかったんだ!」
 両目一杯に涙をためて、鵺は外へと飛び出した。
 「鵺!」
 サザビーの呼び声もむなしく響くだけ。
 「あたし___そんな酷いことを言ったつもりは___」
 「あいつは生まれてこの方ずっと一人だった。たまに大切な人ができても、そいつはすべて親父の手で殺された。今のあいつにとっての俺は___想像以上に重い存在になっていたのかもしれない。」
 鵺の空恐ろしい境遇にフィラは息を飲んだ。今の鵺は、サザビーへの一心の愛を裏切られた気分なのだろう。それが分かったからゾッとした。
 「とにかく俺は鵺を探しに行く。」
 「あたしも!」
 「黄泉は危ねえんだ、おまえはここにいろ。バルバロッサ!おまえは屋敷の裏手を頼む!」
 まだ居間にいるかそれともすでに外へと出たか分からないが、サザビーは黒衣の男に届くよう声を張り上げると、颯爽と飛び出していった。
 「___」
 玄関に残ったフィラとミキャックはしばし呆然としていた。ほんの一瞬だけ互いの目を合わせたかと思うとすぐに反らし、そしてフィラが先に動いた。
 「やっぱり放っておけるか!あたしのせいだってのに!」
 「あ___」
 そして彼女も駆けだしていく。外は危険だ。ただでさえ鵺がいるこの屋敷の周りには、どんな刺客がいるかもわからないし、力で劣るフィラではなおのこと危ない。なのに___それがわかっているのに、ミキャックは一歩が出なかった。フィラが力任せに閉めていった扉にほんの手を伸ばしただけで、それ以上のことはしなかった。
 「恋心とはまさしく魔性の力よのう。」
 「!」
 背後から投げかけられた声に、ミキャックは翼を膨らませた。振り返るとそこでは榊が冷笑を浮かべていた。
 「そして残酷じゃ。」
 「姫___」
 榊はゆらりと彼女に歩み寄り、自分よりもかなり長身なミキャックの臍のあたりに、扇子の先を押し当てた。
 「おぬし、あの娘が傷つけばよいと思っておるな。」
 「!」
 骨の髄を剔られるような言葉に、ミキャックは強ばった。
 「瀬名にしろ、鵺にしろ、消えてしまえばよいと思っておるな。」
 「そ、そんな___!」
 瀬名とはフィラの黄泉での名。こちらにきている面々で定着しているゼルナスという名前の音に由来してのもの。
 「ならなぜ躊躇う。その躊躇いこそがおぬしの真意よ。」
 「うう___」
 反論できない自分がそこにいる。ミキャックは自分の悪意を思い知らされた気がして、どうすることもできなかった。臍に当てられた扇子が拳銃に思えるほど、威圧された。
 「男のことを思うのもよかろう。しかしそれを仲間への恨み妬みに変えるのは愚かなこと。」
 そういうと榊は扇子をミキャックから離した。彼女の緊張が少し緩んだのを見て、ニヤリと笑う。
 「おまえほどの女がなぜあんな男にご執心なのかは甚だ疑問じゃが、いずれにせよ周りに惑わされて己を見失っていては、奴も遠のいていくばかりじゃろうて。誠実かつ忠実なおまえはどこに行ったのじゃ?」
 「___」
 ミキャックはその言葉を噛みしめるように俯いた。そして榊が扇子を広げてゆっくりと五回扇いだとき、それまでとは一変した表情で顔を上げた。
 「探してきます!」
 「うむ。」
 このところどこか遠慮がちだった声に一本芯が入った。凛とした面立ちを取り戻し、ミキャックもまた外へ。
 「やれやれ。茶でも飲んで待つとするか。」
 あっというまに熱気の失せた玄関先で、榊は小さな溜息をついて扇子を閉じる。柄にもない恋の指南役で棕櫚の顔を思い出したか、それとも自分の台詞に嫌気がさしたのか、彼女は照れ隠しのようなばつの悪い笑みを浮かべて居間へと戻っていった。

 「ったく、黄泉ってのはなんでこう暗いんだ!」
 屋敷の周りは一面の森。もし自分が隠れるなら___と、森に入り込んだフィラだったが黄泉の暗さに大苦戦。だいぶ板についてきた呪文を駆使して手に炎など灯してみるが、調子に乗って少々奥へと入りすぎたようだ。
 (一度戻って誰かと合流するか。)
 そう思い始めたとき。
 ガサッ___
 横手の茂みから音がした。
 「何だ___?」
 怖いものなしの顔でそちらを振り向いた瞬間!
 「わあああ!」
 「!?」
 斜め後ろの茂みから、奇声とともに何かが飛び出した。抵抗の暇もなくつかみかかられたフィラは、ジットリとした枝葉の上へ仰向けに押し倒された。
 「鵺!?」
 暗闇の中で見たのは、怒りをむき出しにした鵺だった。片手をフィラの喉元に食い込ませ、逆の手にはなにやら握りしめていた。
 「うあああ!」
 「っ!」
 フィラは必死に頭を振ったが、振り下ろされた何かは彼女の頬を掠める。それは折れた木の枝。その切り口はフォークのように鋭くギザギザに尖っていた。
 「あああ!」
 鵺は我を忘れてフィラの顔に枝を振り下ろす。狙いが正確でなくとも、全てを避けるのはあまりにも難しい。
 「ぐっ!」
 ついには頬に枝が食い込む。そして肌を裂いた。フィラの顔はすぐさま血に染まり、その温もりが鵺の手をも濡らしたとき、彼女は少し怯んだ。
 「!」
 フィラはその隙を見逃さなかった。いやそればかりか、鵺の肩越しに木の上でちらつく何かを見つけ出してさえいた。
 「いけない!」
 「きゃっ!」
 フィラは膝をかがめて素早く鵺の懐に足を潜り込ませると、そのまま勢いに任せて巴投げのように彼女をはね除けた。
 「このっ!」
 投げ飛ばされて尻餅を付いた鵺は、それでも木の枝を放すことなくすぐさま身を翻した。もう一度これを突き刺してやる!そう息巻いて立ち上がったのに、彼女は驚くべき光景に我が目を疑った。
 「ぐっ___!」
 そこではフィラが白い鳥餅のようなものに包まれて呻いていた。餅は彼女のほとんど全身を包み隠し、飛び出した手が必死に土を掻く姿を見ると、どうやら柔らかそうに見えてビクともしないようだ。
 「逃げろ___逃げ___がぁぁっ___!」
 餅の奥底から響くフィラの呻き声、それはすぐに苦痛の叫びに変わる。くぐもった声はもはや言葉も聞き取れず、まるで白い餅の化け物が恨み節を込めて唸っているかのようだった。鵺はただただ恐怖して、その場に立ちつくしていた。
 「うひっ。次は外さねえひっ。」
 勝利の確信を得たか、木の上では逃げ隠れもせず、男がその手に白い餅を遊ばせて鵺を見下ろしていた。闇夜の中でも男の肌は異様な滑りを帯びている。頭も顔も、胸や腕や脛さえも、彼の全身には毛という毛がまるでなかった。
 「___」
 鵺も男には気づいた。しかし彼女は木の上から見下ろされる状況に言葉一つ発することができなかった。
 「ひひひのひっ!」
 奇妙な笑い声と共に、男が餅を放つ。彼の手の中で踊っていた餅は、放たれた途端大きく伸びて広がり、鵺を飲み込まんばかりに襲いかかった。その間も、鵺の足は全く動いてくれなかった。危機に直面したとき反射的に呼び出していたあの扉も、まったく出てくる気配がなかった。
 あの一件以来、鵺は扉を出していない。それは扉が父の死を招いた事への自戒として、「出さないようにしている」のだとサザビーたちは思っていた。だが実際のところ、出さないのではなく「出せない」のだ。危機に瀕した今、それは明らかになった。
 ズンッ!
 鈍い音を立て、餅は激突した。
 「!?」
 しかし鵺にではない。彼女の前で、白い餅が食らったのは対照的な黒衣の男。
 「___風間。」
 それでも鵺はまだ覚醒しない。呆然として、自分の前に立ちはだかった男の名を呟くだけ。
 「くっ___!」
 餅はバルバロッサの首から胸にかけてへばり付いた。引きはがそうとその縁を掴んだが、今度は手が放れない。力を込めれば皮膚が破けそうなほど餅の粘着力は凄まじく、もがけばもがくほど彼の体を締め付けていく。
 「ほひっ!赤甲鬼の風間!これは思わぬ賞金首!」
 苦しむバルバロッサを見下ろして、男は浮かれた声で叫んだ。彼の名は雲鶴(うんかく)。生来の賞金稼ぎであり、全身無毛の脂性で、自在に広がる餅を操る。巨大に伸びる餅に捉えられれば、引きはがそうにも肉をはぎ取られ、収縮する力に骨を砕かれ、顔を塞がれれば気道を失う。それはまさしく殺人餅!
 「では今度こそ鵺を___はひっ!?」
 再度新たな餅を練りながら、雲鶴は鵺に目を移した。その瞬間、いまだ呆然としていたはずの鵺が腰から担ぎ上げられたのである。
 「鵺!しっかりしろ!」
 サザビーだ。雲鶴の前から鵺を浚うと、彼の肩でいまだ放心している彼女に大声で呼びかける。鵺が我に返るのと、雲鶴が新たな餅を放つのはほぼ同時だった。
 「!___放してよ!砂座なんか大っ嫌いなんだから!」
 今そこで何が起こっていたのか、それさえも把握できていなかったのだろうか?鵺はサザビーの肩で暴れ出した。
 「ちっ!」
 やむなし。餅が迫るのを知り、サザビーは咄嗟に鵺を放り投げた。
 「いだっ!」
 背中から落ちて呻いた鵺は、憎らしげな顔ですぐにサザビーを振り返った。しかしそこでは、決死の横っ飛びもむなしく足を餅に捉えられたサザビーが苦悶していた。
 そして鵺は思い出す。衝動のままに襲いかかったフィラに守られ、風間も、サザビーも、自ら盾となって自分をあの不気味な白い餅から守ってくれたことを。そして、自分はとんでもない危機に直面していることを。
 「もう邪魔はさせねえぞぃひっ。」
 尻餅を付いたままの鵺を見下ろすように、雲鶴は餅を手に遊ばせて立っていた。この期に及んで彼女に何ができようものか、鵺にはただ怯えることしかできない。躙るようにそのまま後退っても、すぐに冷たく苔むした木の幹に行く手を阻まれた。
 「鵺!扉だ!扉を出せ!」
 まるで石膏で固められたかのように、サザビーの足は動かない。フィラは餅に飲み込まれ、バルバロッサさえもが自由を奪われている。もう守るものは自分しかない。それを教えるためにサザビーは叫んだが、鵺は頼りなく首を横に振るだけだった。
 「お命頂戴___!」
 両手を一杯に広げられた餅が迫るのを、ただ震えて見ていることしかできなかった。
 「!」
 しかし、餅は急に矛先を変えた。雲鶴は素早く後ろを振り返り、背後から迫る気配に餅を鞭のように撓らせて打ち付けたのである。
 グムッ___
 しかし彼の胸にもまた、鈍い感触と共に拳が食いこんでいた。
 「くっ___」
 拳を放ったのはミキャック。鋭い一撃は雲鶴の鳩尾付近を深々と捉えていた。一方で彼女の体には、ロープのように餅が巻き付いていた。
 「相打ちのつもりだろうが、それは違うひっ。」
 ミキャックを締め付ける餅の力強さは、彼女の翼の拉げかたを見れば一目瞭然。一方で痩せ型な雲鶴の胸には拳が食いこんでいるのに、彼にはまるで応えている様子がない。そればかりか、周囲の肉が蠢いてミキャックの拳を包み込もうとしているかのようだった。
 「餅は攻撃だけじゃない。防御にも使えるのひっ。」
 雲鶴の体には、至る所に餅が貼り付けられていた。色を付け、出来るだけ違和感がないような形に練り上げて、彼は餅の肉襦袢を纏っていたのである。つまりミキャックの拳も、ただ彼の胸を守る餅を打ったに過ぎない。
 「そう。」
 しかし彼女はそれを予想していた。むしろあの餅に捕まえられることで、敵との距離が詰まるならそれは好都合と思っていた。
 「ぐひっ!?」
 落ち着きのない性格ではあるものの、終始余裕を見せ続けていた雲鶴が初めて狼狽した。それもそのはず、彼の胸元から壮絶な熱気が溢れだしたのである。
 「呪拳!ドラゴフレイム!」
 その叫びと共に、炎が雲鶴の体を駆けめぐる。自らの内側から溢れ出る炎に、餅の鎧はむしろ災いを招いた。脂性の体も手伝い、断末魔の悲鳴を上げることもできず、雲鶴の体は炎に包まれていく。
 「くっ___」
 餅が強い熱を帯びたことで、ミキャックも火傷を負った。しかし、その手がやや堅くなった雲鶴の餅鎧から外れたときには、完全に勝負が付いていた。
 「大丈夫か?鵺。」
 火の粉を放って燻る骸を前に、鵺はまたも呆然としていた。しかしサザビーに声を掛けられると、彼女はすぐにそちらを振り向いた。サザビーは餅に土を塗すことで隙を作り、片足を脱して彼女の側まで歩み寄っていた。逆の足には土まみれの餅がぶら下がっているが、それもまたご愛敬。
 「心配するな。おまえが居なくなりゃいいなんて思っている奴は誰もいない。」
 「ぅう___」
 優しい声を掛けられると、鵺の顔はたちまちくしゃくしゃになった。鴉烙が死んで、あの屋敷に住むようになって以来、わがままは言ってきてもサザビーに素直な自分を見せたことはなかった。でも今なら___
 「うわああああ___!」
 鵺は泣いた。一帯に轟くほど大きな声を張り上げて、彼女は心の奥底から号泣した。あの日以来鬱積していたものを全て吐き出すように、慟哭はいつまでも響き渡っていた。

 「違う違う。これは気に引っかけて怪我しただけだよ。餅から逃げようとして、飛び出していた木の枝でザクッ!」
 そう言って、フィラは生々しい頬傷の治療を受けながら笑った。謝ろうと思っていた鵺はその言葉に声を失い、フィラがウインクして合図を送ってくれたものだから、また泣きそうになって涙を堪えるのに苦慮していた。
 「それにしてもあの攻撃は驚いたね。まだ体中が痛いや。」
 そんな彼女の心境を察したか、皆の視線を鵺に向けさせないように、フィラは明るい声で言った。
 「ああいうのばかりだから、黄泉ってのは怖いのさ。」
 サザビーは傷ついた足を投げ出すようにして、ソファに座っていた。ミキャックの呪文の順番待ちである。
 「まったく。咄嗟に土を掻いて空気穴を作ってなかったら、本当に危なかった。」
 「ジッとしていて。」
 「ああ、ゴメンゴメン。」
 治療中だというのにやけに元気がいいフィラをミキャックが諫める。
 「ところで砂座よ。もとより私は怪我人を出すためにここまで来たわけではない。先般お主によこした手紙の返答を聞きに来たのじゃ。」
 館の中がやっと落ち着きを取り戻したところで、榊が徐に尋ねた。
 「アヌビスの動きに興味はあるが、今の俺はここで鵺を守るのが第一だ。」
 「姫、仕方ないよ。ここにはこいつが必要なんだ。ねえ?」
 「え?ええ、そうね。」
 サザビーの答えには迷いが無く、フィラも流されるように言葉を被せた。突然問いかけられたミキャックは少し戸惑ったものの同調した。
 「まあそれならば致し方なしか。もとより私はこやつがおろうとおるまいと知ったことでは無かったからのう。」
 「ひでえなぁ。」
 「ああいう鼻っ柱の強い女の方が燃えるでしょ。」
 「そりゃあもう。」
 「なんじゃと?もう一度言うてみい。」
 榊の手元で、空間に赤い文字が浮かび上がる。
 「ああ!冗談です冗談!」
 慌てて取り繕う姿も息ピッタリ。揺らぐことのない何かを持った二人らしい冗談に、ミキャックは少々蚊帳の外か。
 「ねえ!」
 と、ただただ反省の面持ちでいた鵺が、唐突に声を張り上げた。
 「あたし___ここを出ていこうと思う!」
 自分の胸に手を当てて、彼女は決意を込めて言った。
 「出ていくって___」
 「違うよ!みんなが来る前から決めてたの___ほら、さっき外で言ったでしょ?あたしが鵺を捨てるっていう話のこと。」
 そういえばそうだ。その話の途中で、このでこぼこ三人娘がやってきたのである。
 「あたし、どうしようかずっと考えてたんだ___でも今決めた!あたしは東楼城で暮らすって!」
 「東楼城か___!」
 そこは鵺とサザビーが初めて出会った集落。そして鵺が甲賀の手引きで家出をしたときに、隠れさせた集落でもある。かつての頭首、煉は金城の戦いで散ったが、今はその旧友の吏皇(りおう)が治める妖人の都。
 「あたし、あそこにいるときにすごく楽しかったんだ。なんて言うかその___みんなあたしのことを知らないし、怖い人もいないし、それにあそこの街並みってとっても楽しくって。ほら砂座さぁ、覚えてる?あの猫の置物のこと。」
 その置物を巡る小さな事件が二人を引き合わせた。
 「忘れるわけないだろ?あれがあったから俺たちは今ここにいるんだ。」
 「家出してるときにね、ああいうの作っている工房を見つけて、そこの人に色々なことを教えてもらったんだ。それでね思ったの。私もあそこだったら自分の力で生きていけるんじゃないかって。」
 わがまま勝手な子供。鵺に触れた人の多くがそう思う。箱入りで育ち、世間を知らない彼女の振る舞いは、確かに子供のようだった。しかし最近の激動は確実に彼女を成長させた。いやもとより、もう体つきも大人同然だし思慮深さも身につけていた。ただ鴉烙が彼女の成長を望んでいなかっただけである。
 それでも鵺は鵺なりに色々と考えていた。そしていま、自ら大人になることを望んでいる。それは素晴らしい進歩だった。
 「しかしあそこは妖人の都。入り込む手段は持っているようじゃが、永住は簡単ではないぞ。」
 東楼城には手を触れることで妖魔を判別する水晶の検問がある。鵺はバルバロッサがどこからか調達してくれる手袋を使ってクリアしているが、だからといって潜入が全く気づかれていないと言うわけでもない。確かに住み続けるにはお墨付きが欲しいところだが、それを榊が言い出したのは幸か不幸か。
 「そこはそれ。力を貸してもらえるとありがたいなぁ。」
 「う。」
 サザビーは足の痛みもそこそこに、榊の側に寄ってニコリと笑った。
 「あのときは大変だったなぁ、右も左も分からないうちにすっ飛ばされて___」
 「ぇえい、わかった!手を貸せばよいのじゃろう。」
 「ありがとう。」
 知ったことではないなんて言っておきながら義理人情に厚い姫君に、サザビーはいつになく穏やかな顔で感謝の気持ちを伝えた。ふざけた男が見せたとびきりの微笑みは、鼻面が付くかというほど近く、榊は背筋に震えを感じる。
 (私は騙されぬぞ!)
 扇子で口元を隠し、榊はそそくさと立ち上がった。
 「ありがと〜可愛い姫様!」
 「黙れ!気色悪い!」
 「ほら、おまえも。」
 「うん!ありがと〜可愛い姫様!」
 「黙れと言うに!」
 あまり調子に乗るとまた消されるぞ、と思ったのは何を隠そうサザビー自身である。
 「あ〜あ、またフェロモン出してやがって。」
 「そ、そうね___」
 「___」
 好色家らしさを発揮するサザビーの姿を見て、ミキャックは困惑を隠せない。フィラはそんな彼女の不安げな顔をじっと見つめた。
 「えっ?な、なに?どうかした?」
 「ふ〜ん。」
 そしてニヤリ。
 「___なにそれ___」
 「別に〜。」
 明るさを取り戻した黒麒麟の館。悲喜交々な情景に、バルバロッサでなくとも「やれやれ」と呟きたくなるところだ。

 東楼城。妖人の園と呼ばれるその集落に、堂々と入城を願い出る妖魔は少ない。さらにそれを受け入れられる妖魔となると極めて希である。榊はその数少ない妖魔の内の一人。煉にその資質を惚れ込まれ、また出自が妖人であることもあって、煉の死後も彼女に関しては全幅の信頼を持って迎え入れられていた。
 しかしそれが鴉烙の娘を連れてきたというのだから、新党首の吏皇もさすがに訝しい顔をする。
 「___ということでして、無理を承知でお願い申し上げます。どうかこの鵺めを東楼城に置いては下さりませぬか。」
 榊の言葉が続く間、彼女の横で跪く鵺とサザビーは黙って平伏していた。吏皇は情に厚い熱血漢と言った印象の煉に比べ、切れ長な目や色白の肌もあって冷淡に映る。その鋭い眼光で見つめられると、鵺も身を強ばらせるばかりだった。
 「貴公の話は分かった。しかしそう簡単に了承はできぬ。なんといってもあの鴉烙の娘___」
 「しかし父とは袂を分かった身であります。もとより、この娘にはあのような残虐な気質はございませぬ。」
 「例えそうだったとしよう、しかしこの娘を狙う輩は数多い。だからこそ貴公はここに置くことを望んでいるのだろうが、東楼城とて昔ほどの堅牢さはない。できればあらぬ危険は引き入れたくないところなのだ。」
 それは榊も聞き及んでいた。煉の亡き後、彼の威光に支えられてきた東楼城は内政面で大きく混乱した。困り果てた家臣が、水虎の僚友だが一線から身を引いていた吏皇に助けを求め、何とか落ち着きを取り戻して今に至る。さらにこの東楼城には妖人ならではの類い希な文化、技術が根付いており、それを狙う妖魔の動きも少なくはない。
 「朱幻城で養えばよいのではないか?」
 「それは___」
 「それじゃ意味がない。」
 榊が迷いを見せた瞬間、サザビーが言葉を被せた。榊が黙らせようと手を伸ばしても、彼は構わずに続けた。
 「鵺は自分の力で生きることを目指している。そのためには、朱幻城で俺たちと一緒に居るんじゃ駄目なんだ。だから彼女は名前を捨てる決意までしている。それに彼女は以前もここでの生活に触れたことがある。そのときに、ここなら自分は鴉烙の娘であることを忘れて生きることができる、そう感じたんだ。」
 歯に衣着せぬ言葉は好感を与えるものだったが、吏皇は眉をひそめていた。
 「言いたいことは分かった。しかし以前にも___とは?」
 「あ。」
 「私にしろ煉にしろ鴉烙の娘を受け入れたなどという話は聞かぬ。貴様それはどういう事だ?」
 吏皇の視線に険しさが増し、サザビーはばつが悪そうに頭を掻いた。榊も頭を抱えたい心境か、時折こめかみがピクリと動いた。
 「そもそも貴様は何者だ?榊、そなたの家臣か?」
 サザビーへの嫌疑の眼差しはますます強くなる。榊が仕方なしに何らかの答えを返そうとしたとき___
 「吏皇様!」
 思わぬ爽やかな声が会話を遮った。サザビーが振り返ると、見たことのある面影が立っていた。
 「君は___!」
 彼女には名前も聞いていないが、一度言葉を交わした女性の顔を忘れるサザビーではない。そして向こうも、彼を見て小さく微笑んだ。
 「畏れながら申し上げます。」
 「瑠璃か、何事だ。」
 瑠璃と呼ばれた一見清楚なこの女性は、東楼城で花を育てている。見た目とは裏腹に活発な気性の持ち主で、実に明晰な妖人である。
 「私はこのお方とお会いしたことがございます。まずもとよりこのお方は妖魔ではなく、しかし私のように花を愛でるお心を持った方であります。そしてこのお方は街で私と話している最中、今思えば驚きますが、そちらにおられる鵺様が雑貨屋の店主に追われる場面に出会いました。このお方とはそれきりですし、私もそれ以上の素性を存じているわけではありません。しかし、決して悪意のあるお方ではないと信じております。」
 吏皇はしばし沈黙し、肘掛けに頬杖をついた。やがて小さく息を付き、自分を真っ直ぐ見つめる瑠璃を諫めるように手を差し伸べた。
 「そちの意見は心得た、しかし私も多くの妖人を抱える集落の主。安易な真似はできぬ。」
 そして一つ顎を扱いてから言った。
 「鵺、面を上げよ。」
 ずっと俯いていた鵺が顔を上げる。鴉烙が死んで以来、情緒不安定だった彼女のこと、吏皇の厳しい眼差しに取り乱しやしないかとサザビーは心配した。しかし鵺は思いの外毅然として、吏皇と視線を交わすことができていた。
 「___」
 沈黙したまま、鵺の深い緑色の眼と、吏皇の冷徹な青い眼が交錯する。そこには言い得ぬ緊張感があった。
 「___良く耐えた。」
 そして緊張の果てに、吏皇が発したのは意外な言葉だった。
 「我らが口で何を言おうとて、実際に鴉烙の娘であったおまえの苦悩を図り知ることなどできまい。」 
 「___」
 「我が能力は眼を読むこと。眼に映し出された心、記録された過去、一心に見つめる未来、それを読み解くこと。」
 サザビーは驚いて何度も瞬きした。彼と目を合わしていたときに何かふざけたことでも考えていやしなかったかと少し動揺する。今思えば、瑠璃は自分の過去を吏皇に見せつけるために彼を凝視していたのだろう。
 「その若さでありながら、おまえの瞳に宿る殺伐とした覚悟を見て、私にかけられる言葉があろうものか。」
 そして吏皇は今、長い視線の交錯を経て鵺の過去を知ったのである。
 「おまえが夜叉の坩堝から脱し、一人のか弱き妖魔として、妖人と変わらぬ存在になることを望むというのなら、私は力を貸そう。それは榊への義理でもなければ、その男への感謝でもない、何より一人の少女を蘇らせるためだ。」
 最初は冷淡に見えたからこそ、吏皇の暖かみに触れ、鵺は打ち震えた。
 「ここに住んだとて、おまえの行く道にはまだ多くの艱難辛苦があるだろう。しかしおまえにはそれを乗り越えるだけの覚悟がある。私はその覚悟に応えよう。おまえに遙花(ようか)との名を与え、東楼城で暮らすことを許す。」
 そして吏皇の姿が霞むほどに瞳を潤ませると、たまらずその場に崩れ落ちた。
 「ありがとうございます___ありがとうございます!___ありがとうございます!」
 今まで彼女がこれほど全霊を込めて感謝したことは無かっただろう。鵺は嗚咽混じりに吏皇へ礼を言い続けた。側にいたサザビーが優しく彼女を抱きしめると、それはもう言葉とも取れない号泣に変わって、東楼城に響き渡った。

 「じゃあな。」
 「うん___」
 かくして鵺は東楼城に住むことを許された。ただそこにはいくつかの約束事もある。まずは瑠璃と共に城の花工房を勤めとすること、時折来訪するであろう妖魔の目には決して触れないこと、姿を変えるために髪を短くして染め上げること。髪は過去を記録すると言われ、それを切ることは鴉烙との決別の意味もあった。
 そして鵺は約束を受け入れ、遙花となったのである。
 「大っ嫌いって言ったの嘘だからね。あたしは本当に___砂座のこと大好きだから。」
 「分かってるよ。」
 新たな門出には別れもある。榊を先に行かせ、鵺とサザビーは二人で別れを惜しんでいた。その別れ際、鵺は甘い告白と共に桃色の頬で目を閉じる。
 応えるように、サザビーはゆっくりと彼女の肩を抱いて___額にキスをした。
 「え?」
 「俺みたいなお調子者に引っかかるようじゃまだ甘い。子供だぜ、鵺。」
 「___も〜!なによそれ!」
 頬を膨らます鵺の頭を少し乱暴に撫でて、サザビーは彼女から離れた。
 「じゃあな、元気でいろよ!」
 「べ〜っ!」
 可愛らしいアッカンベエを目に焼き付けて、サザビーは駆けた。
 「ありがとう砂座!」
 少しして、吹っ切れたような声が響く。彼は振り返らずに手を挙げて応えた。
 「今度会ったときは、ちゃんとオッパイを大きくする方法教えてよ!」
 が、思わず足が滑って肩が外れそうになる。たまらず振り返ると鵺は腹を抱えて笑っていた。そんな彼女の姿を見れたことが、サザビーにとっては何よりも嬉しく、最高の手みやげだった。

 「サザビー!」
 久しぶりに帰ってきた無精髭を、ソアラたちは全開の笑顔で出迎えた。とくにもう何年も会っていなかったライやフローラの感激ぶりはひとしおだった。
 バルバロッサはしばらく東楼城の周辺警備に残ることにした。自身が納得行くまで見届けた上で、彼の鴉烙と鵺への精算は終わりを告げる。おそらく、新たな戦いの火ぶたが切って落とされるその時には、彼もきっと戦場に立っているに違いない。
 そしてサザビーという最後のピースを埋めた中庸界の勇者たちもまた、その戦いの場に立つべく自らを磨く。
 「役者が揃った、というところか。」
 賑やかな再会の声を聞きながら、レイノラは呟いた。
 その眼差しの向こうに、五十夜後の決戦を見据えて___




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