2 七十夜
黄泉の中でも特に往来の少ない森の奥、そこに黒麒麟の館はある。元から人がいないのか、この館のおかげで誰も寄りつかなくなったのかは正直なところ定かでないが、世を捨ててひっそりと暮らすにはもってこいの場所だ。
「あちちっ!」
ガシャンッ!
「あーんっ!折角作ったのに!」
だが今は妙にやかましい。少々大げさにも思える少女の甲高い声は、静かな森に響き渡るかのようだった。
「___」
館の入り口に鎮座する黒ずくめの男は、マントの首もとを深くして目を閉じる。
「やれやれ、またなんかやったな。」
食卓で待ちぼうけを食らっている無精髭の男は、退屈そうに頬杖を突いていた。
「お〜い、鵺。大丈夫か〜?」
「大丈夫!もう少し待ってて!」
鵺がサザビーとバルバロッサを引き連れてこの館にやってきてから数夜が過ぎている。当初の彼女は精神的な落ち込みが酷く、食事も喉を通らない、部屋から出ようともしない状態だった。しかしここに来て急激に明るさを取り戻し、毎日のように料理を作ったり、洗濯をしたりと甲斐甲斐しく働いている。しかしどうしても空元気は隠しきれず、強引なまでの明るさがかえって痛々しかった。
「おいし?」
「前より良くなった。」
「う〜ん、そう。ならさっ、何をどうしたらもっとおいしくなるの?」
だが彼女の努力を否定してはいけない。そこには前向きな姿勢で自分を奮い立たせるだけでなく、束縛しているサザビーたちへの心遣いもあるのだ。彼女は必至に立ち直ろうとしている。ただの無邪気から、理知的な明朗さへ成長しようとしている。
それは自立のために。
「鵺。」
「なぁに?」
ちょっとだけ香辛料を入れて味を調節した料理を食べながら、サザビーはニコニコ顔の鵺に呼びかけた。
「おまえ鵺だよな?」
「はい?」
トンチンカンなことを聞くサザビーとしっかり目を合わせ、鵺は首を傾げた。
「もう鵺じゃなくてもいいんだぜ。」
「えっ___?」
「変わってもいいってことだよ。名前とかもな。」
漸くサザビーの言いたいことを理解したか、鵺は急に目を泳がせ、何かを言いかけたかと思うとすぐに口を閉ざした。
(まだ早かったか___)
彼女の明らかな動揺ぶりにサザビーは頭を掻いた。より安全な環境を与えるために、彼女が元気を取り戻すに連れて鴉烙の名残を捨てさせよう。サザビーはそう考えていたが、鵺はまだこまで立ち直ったわけでもなかったらしい。
コンコン。
気まずい状況に思わぬ助け船。サザビーが振り向くと、館のガラス戸の向こうになにやら黒いものが蠢いていた。
「ん?あっ、ありゃ榊のとこの!」
黒いといってもバルバロッサではない。窓を器用に嘴で叩いているのは朱幻城の守護者、黒塚だった。
「クァッ!」
駆け寄ってガラス窓を上げると、黒塚は一声鳴いて足踏みをする。右足には手紙が結びつけられていた。
「お〜偉い偉い、長旅ご苦労だったな。お礼にしっかり火の通った鶏肉を___いででで!」
利口な黒塚はジョークも理解するのか、鼻っ面をしこたま突かれながらサザビーは手紙を外した。
「クァッ!」
足が軽くなったらお役ご免の合図。手紙を取られるや否や、黒塚は窓枠を蹴って空へと飛び立った。
「お〜いてぇ。」
見送りもせずに鼻を撫でながら、サザビーはその場で手紙を開く。そして顔をしかめた。手紙は黄泉の文字で書かれていたが、もう読解に関してそれほど苦労はない。煙たかったのは内容の方だ。
「相変わらず回りくどい真似をするもんだな、あの黒犬。」
内容を知ればそれで十分。サザビーは手際よく紙を折り畳み、紙飛行機を作った。
「おいバルバロッサ!おまえ向けの手紙だ!」
窓から放たれた紙飛行機はゆっくりと旋回し、玄関前で番をするバルバロッサの元へ。
「___」
揺らぎながら手元へ飛んできた飛行機を掴み、彼は手紙を開いた。
『白廟泉跡に餓門が築城。裏で手を引くは黒き犬。七十夜の後に、当地で黄泉の覇者を問う大会を開く。出場の意志あらば、朱幻城へ参られたし候。由羅は貴公らと共に戦うことを望む。』
その内容に、無表情なバルバロッサの眉が少しだけ動いた。
「やれやれ、鴉烙の次は餓門か。」
薄暗い空だが今日はいつもより暖かい。窓を開けたまま、サザビーは風を受けて小さなため息をついた。しかしふと異変に気づく。そういえばあの好奇心旺盛な鵺が、愛らしい黒塚に寄ってこなかった。
まさか___と思って振り返ると、鵺はテーブルに頬杖を突いて一際深刻な顔で一点を見つめている。
(まださっきの質問で悩んでるのか?)
明るく見せていても今の彼女はとびきり繊細で傷つきやすい。寂しさを紛らわすために、サザビーは極力鵺の身体に触れるようにしていた。それは何気ないとき、手を繋いだり、背中に触れたり、髪や頬を撫でることで、彼女に孤独を感じさせないようにしていた。
「何考えてるんだ?」
鵺の肩に手を掛けて、サザビーは優しく問いかけた。意識させない程度の触れあいだが、こうすると彼女はいつも大人びた顔でニコリと微笑む。それこそ少しドキリとするくらい愛らしく。ただ、この時は違った。
「砂座!」
仰ぎ見るように振り返って、肩から離れたサザビーの手を強く握り、叫んだ。
「私___鵺をやめたらどうなるの?」
難しい問いかけだったが、サザビーは迷いを見せなかった。
「おまえの心が軽くなる。」
「あたしの心___?」
「そう。でも、そのためには思い出を捨てなきゃならない。鵺じゃなくなるってことは、おまえは鴉烙の娘でもないし、皇蚕にいたこともない、俺や風間との関係も変わってくる。もしそれができれば、おまえは今よりずっと自由になれるはずだ。」
「ふぅん___」
何となく理解したのかどうなのか、鵺の質問はそれきり何もなかった。先ほどまでの深刻な顔をコロッと変えて、表情や口調に一切の翳りもなく話題は料理へと戻っていた。
夜が深くなると、ただでさえ薄暗い黄泉はそれこそ真っ暗になる。その中で見る集落はあまりに目映く、その華やかさこそ統治者の力の象徴とも言える。黒麒麟の館も、かつては闇の中で不気味な赤い炎を窓から漏らしていた。しかし今はそれもなく、玄関口に立つサザビーの煙草の光の方が目立つほど。
「おまえ、あの手紙のどうするんだ?」
闇夜の一服。彼の隣には、暗黒に同化するようにしてバルバロッサが座っていた。
「黄泉で一番強い奴を決める大会だ、興味がないとは言わせないぜ。」
「貴様は?」
「否定しないってのは興味があるって事か。」
「貴様はどうかと聞いている。」
「戦いはどうだっていいがアヌビスのことは気になる。鴉烙の縛りが解けたからソアラと合流してもいいんだが___鵺もアヌビスに目を付けられてるからな。」
「貴様がいたところでアヌビスから鵺を守ることはできない。」
「そりゃそうだ。」
サザビーは白い煙を吐き出しながら苦笑した。
「でも、俺一人で朱幻城まで辿り着くのも無理だ。」
「___」
その言葉に、バルバロッサはマントの襟を立てた。それが彼流の答えか。
「おまえだって一人でいるよりはソアラたちと合流した方がいいんじゃないか?なにせ相手はアヌビスだ。」
「抜かせ___」
笑止と言わんばかりにバルバロッサは鼻で笑う。そういった小さな仕草一つ取っても、今の彼は中庸界にいたときよりも鷹揚に思えた。
「俺は鵺と共にいる。」
「そう言うと思ったよ。」
バルバロッサは冷徹に見えて義理を重んじる男。鴉烙が死んだ今だからこそ、彼は鵺に命を救って貰った恩義に報いたいのだ。
「これで俺の進路も決まりだな。」
短くなった煙草を踏み消して、サザビーは踵を返した。
「鵺の話相手は引き受けてやるから、そのうち俺にも恩返しを頼むぜ。」
玄関の大扉を開けて、サザビーはにやつきながら火のない屋敷へと戻っていく。
「ふん___」
バルバロッサは顔色を変えず、襟に顔を埋めるようにして首を竦めた。
黄泉の七十夜というと、時の流れで言えば一年にもなろうかという長い時間である。あくまで大会の主催者は餓門ということになっているが、城の完成を待つにしても短気な彼がこれほど長い猶予を取るはずがない。計画の全てを握っているのはアヌビスである。
この七十夜は何を意味するのか。アヌビスは何を思ってこれほどの「暇」を設けたのか。
一つは会場となる白廟泉上の城の完成。しかしこれは今のピッチで仕事を続ければ、よほどのアクシデントでもない限り三十夜で事足りるだろう。
二つは広大な黄泉に埋もれる数多の強力な妖魔たちに、大会のことを十分知らしめる必要性。目的を達成するために、アヌビスはできるだけ多くの妖魔の参加を望んでいる。
三つは長期に及ぶであろう大会の間、多くの人々が集落に集えるだけの経済基盤を作ること。そのためには妖人の力も求められる。
そして___
「はああ!」
風が吹くだけで寒気が走る黄泉。しかし橙の松明が掲げられた渓流沿いは、熱気で満ちあふれている。
「つああっ!」
汗を迸らせたソアラの拳はレイノラを捕らえるかに見えた。
「!」
だが手応えがない。ソアラの拳は重たげで、いつもの軽快さを欠いていた。
「これで、一度死んだ。」
「___っ!」
しなやかな指先が首の後ろを付いた瞬間、ソアラの両手足に凄まじい電撃が走る。彼女は悶絶して渓流に身を投じた。電流は水の流れに拡散し、自由を取り戻したソアラはすぐに激しい川の流れから飛び出した。
「もう一度___!」
ずぶ濡れの身体。その両手首、足首、さらに胴にまで、たすき掛けのようにして黒い霧がまとわりついていた。それはレイノラが作り出したギブスのようなものだった。
「がむしゃらなだけでは駄目。どうして私に後ろを取られたのか、それを考えて動きなさい。」
「はいっ!」
血気盛んなソアラにレイノラも微笑で応える。河原にはまたすぐに熱気が充満していった。
この猛特訓は、レイノラが白廟泉から帰ったその夜のうちに始まった___
「アヌビスの野望を打ち砕くためには、ここにいる全員が今よりも遙かに強くならなければならない。例えばソアラ、おまえはまだ戦いの勘を取り戻していない。まず以前の強さを取り戻し、そしてより上へ力を伸ばし、また弱点を補わなければならない。新しい技能も必要となるわ。」
「___はい。それは実感しています。」
己の身体に刻みつけられた痛みがレイノラを突き動かした。そして天界の一件で神の力を痛感したソアラもまた、アヌビスに勝つためにより強くなることを望んでいた。
「黄泉の裏へと続く道を永遠に閉ざす方法を考えるのも一つの手だて。しかしそれではアヌビスの脅威を消し去ることはできない。与えられた時間の中で、私たちはアヌビスを脅かすだけの力を手に入れる必要がある。またそれができなければ、道を閉ざすことも適わない。」
口にはしなかった、しかしレイノラの言葉には「アヌビスが猶予を与えてくれたことをむしろ喜ぶべき」との意味が込められていた。屈辱であろうと甘んじて受けねばならない。何しろ、今の自分たちはアヌビスに比べて弱すぎるから___
「よく見てろ。母さんの動きの一つ一つに、戦いのヒントがある。」
「うん。」
熱意を燃やすのはソアラだけではない。彼女の力になり世界の助けとなるために、黄泉へとやってきた覇邪の魂たちも、より高いステージを目指していた。ライは剣技に精を出し、フローラは瞑想に明け暮れ、リュカとルディーまでもが父と共に鍛錬に励んでいた。
今より強くならなければ、この先の戦いに生き残ることはできない。そしてアヌビスも、それを臨んでいるから「暇」を与えた。
それが、七十夜の四つ目の理由___
四つ___花々が、より目映く咲き、俺を楽しませてくれるように。
こうしている間も、黒犬はほくそ笑んでいることだろう。
「それを思えば七十夜なんて短いもんだ」___と。
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