1 女神の屈辱
「大掛かりだな。」
「そうですね。」
レイノラは急ピッチで建設される城の外壁を見上げた。彼女の横にはミキャックがいる。二人は餓門を直々に問いただすために、或いはアヌビスの影を掴むために、かつて白廟泉があったこの場所にやってきていた。
「これはただの城ではない。まるで朱幻城のような大集落を作っているかのようだ。」
「餓門はかつての同志にそっぽを向かれているみたいですし、それならまず妖魔でも妖人でも、とにかく多くの人が集まれる箱を作ろうとしているのかもしれません。」
「___箱を作っているのは確かだろう。でもそれはきっと集落とは別の目的さ。」
アヌビスが絡んでいるのなら尚更___
そんな思案を巡らせていると、作りかけの城門に下げられた布が揺らぎ、内側から浅黒い肌をした青年が姿を現した。細身で、背丈も小さく、貧弱な体をしている。
「餓門様はお会いになりません、用件だけ私が伺いましょう。」
にこやかな表情とは裏腹に、青年はつっけんどんに言った。
「餓門で無ければ話にならない。それとも黒麒麟相手では不服か?普段は動かない私が、珍しく興味を示してここまでやってきたというのに。」
そんなレイノラの言葉を聞いて、青年は失笑した。虚仮にするというわけでもなく、ただ堪えきれずに吹き出してしまったような素振りだった。
「餓門でなければ?良く言う。本当は俺に会いたかったんじゃないのか?」
「!」
青年の口調、表情、物腰、全てが一変した。お互いに猫かぶりしていたのがおかしくって堪えきれなかったのか、彼はすぐに正体を露見させた。
「思ったよりも遅かったな。それだけ天界のダメージは大きかったってことか?お〜、おまえも久しぶりだな。元気にしてたか?」
アヌビスだ。一瞬驚いただけで微動だにしないレイノラと、思わず一歩後退って鋭敏な気配を纏うミキャック。対照的な二人を青年顔のアヌビスはにこやかに見ていた。
「さて、感動の再会はここまでだ。俺は回りくどいことが嫌いでね、餓門におまえの話相手が務まるとも思えないし、おまえだって収穫がないまま帰りたくはないだろ?」
どんなに姿を変えようと性格までは変わらない。貧弱な牙丸の姿でも、彼は神出鬼没な邪神アヌビスである。
そして___
「凛様___」
男たちの声や騒がしい作業の音を聴きながら、ミキャックは城門前の切り株に腰を下ろしていた。レイノラは誘われるがまま一人で城壁の向こうへと入っていったが、アヌビスがいる以上そこは敵陣の中心である。ミキャックが残されたのは、いざというときの伝令役という意味もあった。
「___」
ただそれだけに不安も募る。切り株の上でじっとしているようで、翼だけは閉じたり広げたりと落ち着きがなかった。
そんな彼女の気も知らず、レイノラは牙丸ことアヌビスと臆面無く言葉を交わしながら、建築現場を見て回っていた。
「随分広々としているが、これはただ城を造っているわけでもなさそうだな。」
「城?あぁ、違うよ。正面に見えるでかいのは城じゃない。」
作業員たちはレイノラの姿に目を奪われることはあっても、牙丸には全く無関心。挨拶もなければ、畏怖することなどありゃしない。それは彼がいかに表に出ず、餓門の影として振る舞っているかを象徴しているかのようだった。
「まあ何があるかは行ってからのお楽しみ。ちなみに例の泉もあの下だ。」
「そう。」
感情に乏しいレイノラの返答に少し残念そうな顔をして、アヌビスは説明を続けた。
「あの建物の周りには町が広がる。一時的にせよ、ここには大勢の妖魔が集まるはずさ。」
「自信があるようね。」
「あるよ。頭の固い連中には分からないだろうが、この方法ならいろんな妖魔が黄泉の方々から集まってくる。あと商売上手な妖人たちも集めるつもりだ。」
「その鍵があの建物___ということかしら?」
「そういうこと。」
相変わらず緊張感のない男だ。これからその方法を明かそうとしているのが見え見えだったから、レイノラは辟易とする思いだった。
レイノラが少し歩みを速めたこともあって、二人が工事現場のど真ん中に居座る巨大建築物に辿り着くまで、それほど時間は掛からなかった。
「さあ、こっちだ。」
まだ荒削りな大階段を上り、門を抜けて光が乏しい通路へと進む。建物の外周には似たような門がいくつも口を開けており、大勢の往来を考えた作りが窺える。
「___」
通路はすぐに十字路に当たる。どうやら横の廊下は建物をグルリと一周しているようだ。
「もうすぐだぜ。」
しかしそちらは無視してまっすぐ前へ。やがて視界が開けた。
「___これは___!」
そこは実に開放感に溢れた場所だった。通路の両側から建物全体に広がるのは長い石段。いや、中心にあるものを思えば石段ではなく観客席というべきか。すり鉢型の広大な会場の中心には、大きな円形の舞台があった。
「闘技場___!」
さしものレイノラも息を飲んだ。瞬時にアヌビスの意図が分かったからこそ、彼女は呆気にとられて立ち竦んでいた。アヌビスが餓門に作らせたのは威厳を示すための城ではなく、力を示すための決闘の場だったのだ。
「餓門は自慢の力で敵対する連中を倒したのに、誰にも支持してもらえず苛立っていた。だから助言してやったのさ、闘技場を作って黄泉中の妖魔に戦いを挑めばいい。そこで自分の強さをみんなに思い知らせてやれば、みんなあんたに従うはずだ___ってな。」
しかし餓門の欲求不満を晴らすことがアヌビスの目的ではないはずだ。彼の狙いは他にある。
「白廟泉はどこに?」
だからレイノラは説明を遮ってまで、そう尋ねた。
「来な。」
ニヤリと笑い、アヌビスは黒犬でいる時のように顎をしゃくった。
闘技場は二階層の位置にある。万の人が入るだろう建物に高度をつけるには、緻密な設計と莫大な資材が必要だったろう。
「その点はラッキーだった。何しろ偶然に銀城で眠っていた餓門を起こして、それ以来奴の家来にされた千鳥って妖魔が腕利きの建築家だったもんでね。女房の鴻もその手の知識に長けているし、文句なしだったぜ。」
外周廊の一角に小さな隠し扉が作られていた。それをぐくると、下へと続く緩やかで長い階段。レイノラの靴音を聞きながら、アヌビスは相変わらず意気揚々とした素振りで語り続けていた。レイノラが不気味に思うほど、彼は余裕だった。黄泉で初めて会ったときの多少恭しかった態度はどこへ行ったのやら。
「___」
ただ、何となくその理由も分かっている。余り認めたくないことだが___
「付いたぞ。」
辿り着いた白廟泉は、かつての面影もなく変わり果てていた。白く光るものは何も見られず、レイノラが指先に灯した炎に照らされて、無骨な地肌を晒しているだけだった。冷たい岩壁に囲まれたそこが、かつて生命力に満ちあふれていた場所などと誰が想像できようものか。
「私の推測を聞いてくれるか?」
一通り泉を眺めると、レイノラはアヌビスを振り返らずに言った。
「どうぞ。」
アヌビスは細工も何も施されていない石壁に寄りかかって腕組みしていた。
「おまえは鵺に代わる扉の持ち主を捜している。しかし広大な黄泉で、どこにいるかも分からないそいつを探すのは大変だ。そこで効率良く妖魔を集める術を考えた。それが闘技場だ。違うか?」
「その通り、さすがだな。」
「そんな妖魔がいると思うの?」
「思うね。俺もあれから色々調べて利口になったからなぁ。白童子という名前も知ったし、実を言えばこの泉も再生できるんじゃないかと思っている。」
「!」
「多分、あんたの推測と同じ方法でな。」
ゴゴ___
その時だった。極短い間だったが、地面が鈍く揺れた。いや揺れたのは天井の方だろうか?しかしレイノラの目を奪ったのはそんなことではない。
「!?」
冷たい石壁に包まれた部屋に白い光が灯り、そしてすぐに消えた。光源は白廟泉の底に。それは明らかに、底から僅かに垣間見えた命の水だった。
「事故だ。大きな石を高いところへ運んでいるときに事故が起きた。石は落下して、下にいた奴が死んだ。」
レイノラの視線が厳しくなる。余裕を消さないアヌビスとは裏腹に。
「行き場を失ったそいつの生命力は、すぐ近くにあった落ち着ける場所___白廟泉に引き寄せられた。でも一度涸れた泉を満たすにはかなりの量が必要だ。それも、強力な生命力がな。」
微笑みを交えて語るアヌビスに、レイノラは小さく舌打ちした。今の言葉に闘技場を作ったもう一つの理由がある。
「貴様___妖魔に殺し合いをさせるつもりか。」
アヌビスがここに闘技場を作り、闘技大会を計画している理由。その一つは、黄泉の裏側への道を開くことができる妖魔を探すこと。もう一つは、凄惨な戦いで散った妖魔の命を白廟泉に捧げること___或いはその手で散らすこと。妖魔探しに鵺という保険があることを思えば、むしろ後者が本当の狙いか。
「どのみち奴らは殺し合う。俺はその時期を早めてやるだけだ。それに、ごたごたしている黄泉を纏める良い機会だと思うぜ。何しろ優勝した奴にはこの集落丸ごとと、黄泉の覇権が手に入るんだからな。」
青年の声だからこそ、普段以上に軽々しく聞こえるアヌビスの言葉。彼はケラケラと笑っていたが___
「うぉっ!?」
その胸で服が弾け、薄い胸板が抉られたように窪むとアヌビスの哄笑は止まった。寄りかかっていた壁に亀裂が走り、肋骨があからさまに拉げ、口から血が弾け飛ぶ。力を浴びせているのは、レイノラの白黒逆転した右目だった。
「回りくどいことは嫌いだと言ったな___私もだ。だからここで貴様を倒す、それが最も単純明快な答えだ!」
「ぐおおおっ!?」
アヌビスの体が変形していく。レイノラの放つ壮絶な圧力に、青年の脆弱な肉体は為す術がない。足も腕も、首さえも異様にねじ曲げられていく。だがレイノラの胸中には不愉快さが渦巻いていた。それは___奴が時を止めようとしないからだった。
「なんてな。」
逆転はすぐに起こった。青年の茶色い眼に漆黒が走り、彼に宿るアヌビスの、邪神の力が溢れ出た。そして___
「っ!?」
アヌビスにまだ余裕があることは分かっていた。だがそれにしても、闇の女神の力をこうも簡単に打ち払えるとまでは思っていなかった。レイノラが驚愕に震えたその時、アヌビスはすでに彼女の目の前に立っていた。時を止めたわけでもない。ただ真っ直ぐに、彼女が放つ圧力の激流を駆け上ってきた。
「外で待っている奴もいることだし、顔はやめてやる。」
邪神の嘲笑に狂気が走った。
「___」
アヌビスは少年の体のまま涸れた白廟泉の縁に腰掛け、憮然とした顔で膝に頬杖を付いていた。見下ろしているのは、池の底に倒れているレイノラの姿だった。
「レイノラ様よ、向こうでの出来事はダ・ギュールから聞いたが、今のあんたが俺に挑もうなんて無茶な話だ。」
アヌビスはこれまでとは比べ者にならないほど冷淡な口調で言った。
「今のあんたじゃ、俺の足下にも及ばない。」
レイノラはピクリとも動かない。乱れた黒髪に隠れた顔は定かでないが、白廟泉の岩肌は大量の血で濡れていた。
「冥府を押し返したのは見事だったが、その代償も大きかった。力を失ったのは竜神帝だけじゃない。あんたも雑兵に成り下がるほど弱くなった。ソアラたちは気づいていないし、あんたも気づかせまいとしているのだろうが、今のあんたに俺を倒す力なんて到底ありゃしない。それに俺は、あいにく闇の女神というシンボルを畏怖して、普段の力が発揮できなくなるようなお茶目さんじゃないんでね。」
アヌビスは手元に転がっていた小さな石粒を拾い上げ、レイノラに向かって放った。痛みを与えるほどでもなかったが、石は弧を描いて彼女の頭に当たった。
「そろそろ起きろ。あんまり待たせるとミキャックが心配するぞ。」
その声を聞いて数秒。レイノラは漸く、ゆっくりと体を起こし始めた。アヌビスの指先から放たれた小さな炎が、彼女の側まで浮遊して顔を照らす。美しい女神の面立ちには傷一つ無かったが、唇は真っ赤に塗れ、目も虚ろに見えた。だがその姿もまた凄艶である。
「なんなら治療してやろうか?」
そう言って自らの手に魔力をちらつかせるアヌビス。そんな彼の態度に腹立たしさを感じたか、レイノラは歯を食いしばって立ち上がった。膝を突っ張るようにして、ふらつきながらそれでも何とか身を保った。
「服が破れないようにしてやったんだ。感謝しろよ。」
アヌビスの減らず口に、レイノラは反応一つ示すことができなかった。全身を激しく殴打され、とくに腹の内側はいまだ燃えるように痛む。だがそれ以上に辛いのは、アヌビスに対して抵抗らしい抵抗が何一つ出来なかった自分の弱さか。
確かに、冥府を押し返すために使った力の代償は大きかった。再び黄泉へ向かうまで、天界の再建も含めて肉体の回復期間を取ったが、云千年かけて培われた神の力がたかだか数ヶ月でどうなるものでもなかった。
「そうやって図に乗るのも良いだろう___だがおまえのやっていることは___必ず自らの身をも滅ぼす。おまえはGを知らないから___」
そこまで言って、レイノラは口に溜まった血を吐き捨てた。そのまましばらく俯いて長い息をつき___
ボォォッ___
その身を黒い息吹で包み込んだ。
「ほうっ。」
それを見たアヌビスは、感心した様子で小さく手を叩いた。黒い息吹は彼女の全身を駆けめぐり、やがてその肉体に吸い込まれるように消える。そしてレイノラは折り曲げていた体を正し、真っ直ぐに立った。口に染みついた血の跡もドレスの汚れも消え失せ、乱れた髪さえ見事に整えられていた。
「アヌビス、悔しいが今の私におまえを止める力はない。それは認めざるを得ない。だが一つだけ忠告する。おまえはGの力を我がものに出来ると思っているようだが、それは幻想だ。今のおまえと私の力の差以上に、おまえとGではレベルが違う。それだけは肝に銘じておけ。」
レイノラは凛とした口調で言った。それは闇の女神の意地か、彼女は先程までの衰弱が嘘のように、いつもの颯爽とした足取りで歩き出す。
「あんたには悪いが、俺は自分の目で見たものを信じる。見るためには、まず黄泉の裏側に行かないとな。」
レイノラは言葉を返さなかった。アヌビスが好奇の目で彼女を見ても、レイノラは決して視線を合わさずに横を通り過ぎていった。
「開催まではまだ時間が掛かる。日取りが決まったら朱幻城にも連絡が行くはずだ。俺の部下も出場する予定だから、ソアラにも出るように勧めておいてくれ。」
アヌビスの声を背中に聞いて、レイノラは無表情に階段を上った。ほんの一度、唇を噛んだ以外は。
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