3 執念

 絶対無比の契約。それで命を奪ったはずの男がここにいる。だが鴉烙の狼狽は一瞬でしかなく、彼はただ苦々しい顔で甲賀を睨み付けていた。
 「なぜ生きているのか___そう言いたそうな顔だな。」
 立ちはだかるのは甲賀一人ではない。彼の横にはサザビーが立ち、胸元に傷を負いながらケロリとしている仙山も並ぶ。しかし、これしきの威圧で揺らぐ鴉烙ではなかった。
 「なぜだと?クク___クハハハッ!」
 勿体付けるような甲賀の言葉を、鴉烙は一笑に付した。
 「戯けが。おまえのような輩が今までになかったと思ったか?」
 一念を込めると、鴉烙の掌に無数の紙切れが現れる。その契約書には、全て甲賀の名が記されていた。
 「契約は私の意志無しで破棄することはできない。しかし作成することはできる。私の知らない間に多くの契約書を作ることで私の間違いを誘う___稚拙な手だが馬鹿にしたものではないぞ。現に私は確認を怠り、おまえを消し損ねた。」
 流暢に言葉を並べながら、鴉烙は全ての契約書を重ね、いつの間にか手にした判を軽々しく突いていく。しかし甲賀の体には何も起こらない。ダミーの契約書の内容は、髪の毛が一本抜けるとかいった他愛もないものだった。
 「まあ、いずれにせよこうして全てに判を突いていけばすむことだ。」
 そうすれば奴らは肉弾戦を挑んでくるだろう。そう踏んで、鴉烙は影に意識を向けていた。彼の影は赤い光の柱に照らされて、あまりにもさりげなく、身体の前へと伸びている。誰であれ突っかけてきたが最後、待ちかまえる影に首を落とされるだけだ。
 「最初はただ死にたくないだけなのだと思っていた。」
 しかし甲賀は動かなかった。
 「絶対的な能力を持っていても、老いには勝てない。それを克服するために、力の涌く泉を捜していると思っていた。」
 サザビーも仙山も動かない。
 「だが実際は違った。おまえの目はもっと遠いところを見ていた。それは世界を変えるほどの力だ。」
 鴉烙は怪訝な目をした。しかし構うことなく、緩慢な動作で一枚ずつ契約書に判を突いていく。例えあからさまな隙を見せようと、甲賀たちは誰一人として動じなかった。
 「力の源の泉は、大きな力の漏出口でしかない。そして、その力の加護を受けた者の中には、大きな力へと道を開く能力に目覚める者がいるという___どこで知ったのかは私には分からない。しかし、おまえはその情報をつかみ、そして信じた。我が娘、鵺の扉の能力こそ、大いなる力への扉だと。」
 無論、鴉烙にも動揺はない。何しろこの話の大部分は、彼が甲賀に教えたことだ。甲賀は信頼を見せるほど忠実に尽くす、そう感じたから秘密を明かした。実際に彼は鵺の信頼に傾くまで、鴉烙に忠実だった。
 「だが、これには二つの嘘がある。」
 しかし、今の甲賀は違う。鴉烙を倒すという決意に溢れている。
 「まず、おまえの車椅子姿は飾りでしかない。おまえの足は全く健常であり、あの姿はおまえの身を守るためだ。つまり、そういう弱さを見せれば自ずと敵は油断する。契約の能力が驚異的だからこそ、おまえ自身に直接挑もうと考える。おまえ自らの手で返り討ちにできる環境を作ることで、鵺に手が及ぶのを避ける効果もあった___が、これは私も知っていること。」
 手を止めて甲賀を冷視したかと思うと、鴉烙はまた契約書に視線を戻し、判をついた。もう枚数も残り僅かだ。
 「もう一つの嘘。それは鵺だ___」
 甲賀は赤い柱の中で気を失う少女に哀れみの視線を送る。そして続けた。
 「鵺はおまえの娘だが、あの子はおまえの娘じゃない。」
 その告白を鵺本人が聞かないで済むこと、それはある意味では幸運なのかもしれない。
 「おまえには確かに鵺という名の娘がいた。妖魔の子は妖魔、秀才でなくとも能力を示すことができる。しかしおまえの娘鵺は、やはりおまえと同じで能力を持たずに生まれた。つまり、千人殺しを達成すれば契約の能力を引き継げる資格を持っていた。だが___おまえはその子を殺した。なぜか?」
 芝居掛かった甲賀の物言いにも、鴉烙はただ手を動かすだけ。
 「一つは、自分がそうしたように、いずれ我が子に殺されるのを恐れたから。もう一つは___今の鵺を見つけたから。」
 甲賀は小さく息を付く。間をとって鴉烙の動きを注視したが、それでも奴は淡々としていた。
 「それまでのおまえは、力の泉の情報を得てはいたが、信じてはいなかった。しかしその後、偶然にも何が起こるかわからない扉の能力を持った少女と出会い、全てが変わった。少女の扉と、力の源への扉、おまえはそれを等号で結んだ。そして元来の野心は壮絶に燃え上がった。黄泉の実質の支配者たるおまえなら、記憶を操る妖魔を探すくらい造作もない。おまえは自らの子を殺し、新しい鵺を子とした。これで用意は整った。おまえは力の泉探しを始めた___」
 トン___
 甲賀の言葉尻と鴉烙の判をつく音が重なる。最後の契約書に印を刻み、彼はゆっくりと、肉感も血の気も失せたかのような冷酷な顔を上げた。そして甲賀もまた、ゆっくりと懐から一枚の紙切れを取り出した。
 「さっき___おまえは一枚契約書を捨てただろう。」
 その言葉が死出への扉を開いた。
 スッ!
 派手な音もなく、契約書を握った甲賀の右腕が飛ぶ。影はいつの間にか、彼らの足下までその身を伸ばしていた。そしてしなやかな黒い手は、すぐさま甲賀の影の首に迫る。
 ザンッ!
 今度は派手な音がした。そして甲賀の影は、胴と首が切り離されていた。しかしそれは鴉烙の手によるものではない。甲賀自身が左腕で自らの首を刎ねたのだ。
 「___!」
 鴉烙は目を見張った。何しろ甲賀の首からは出血一つない。そう、彼の能力は自らの体を分断すること。見れば切られた右腕だって、地に転がってはいるものの、断面は精気を宿して朧気に輝いている。
 だが奴は、契約で能力を失ったのではないのか!?
 「みんな散れ!」
 刎ね上げられた甲賀の首が叫ぶ。その瞬間、サザビーと仙山は一気に飛び退き、甲賀もまた自らの首をバスケットボールのように掴み取って、後方に飛んだ。もはや影の及ぶ距離ではない。これだけ時間を稼げばバルバロッサと榊も戻ってくる。あとは、分断した腕を契約書ごと自らの元に引き戻すだけ!
 「戻れ!」
 甲賀は叫ぶ。しかし腕は、地面に転がったままピクリとも動かない。
 「楽しんだか?甲賀。」
 答えは簡単だった。何しろ腕は鴉烙の影の上にある。腕の影は鴉烙の影に、完全に押さえ込まれていた。
 「私に一杯食わせ、酔いしれた気分はどうだ?」
 鴉烙は非情な笑みを浮かべ、影を走らせた。
 ズババッ!
 ピラニアの水槽に放り込まれた獲物のように、手が粉砕された。これ見よがしに、影は甲賀の右腕を細切れにした。
 「くっ___!」
 先が潰えれば元も痛む。右手が完全に破壊されると、甲賀の右腕の断面も一気に赤く染まり、鮮血が溢れ出た。
 しかしそれが如何ほどのものか。
 「よく覚えておけ甲賀。その気分こそ、慢心と呼ぶものだ。」
 サザビーが「あっ」と声を漏らすよりも早く、血で濡れた契約書は影により鴉烙の手元へと舞い戻ったのである。
 「慢心とはおまえ程度の者がして良いことではない。私のように、完璧な能力を持つ者にのみ許される特権だ。」
 そして鴉烙は一切の躊躇いなく、契約書に判を___
 「なんだ___?」
 突かなかった。
 「なんだこれは___!?」
 判は書面ギリギリのところで食い止められていた。驚愕のあまり判を持つ手が震え、書面に触れるのではないかというほど際どい位置だった。
 「ちっ___」
 サザビーが舌打ちする。彼が先程声を上げたのは、甲賀の契約書が奪われたからではない。契約書が血で濡れてしまったからだった。
 仙山の能力で鴉烙の名を甲賀に変えた。後一歩のところで奴の慢心を砕くことができたのに、血の潤いが色を滲ませ、からくりは露見してしまった。
 「これは___私の命の契約___!」
 今まさに、完璧と自負する己の能力が打ち拉がれようとしていた。甲賀をはじめとする奴らの周到さ、落ち着き、慢心などとはほど遠い緻密な殺戮計画は、鴉烙をゾッとさせるに充分だった。
 「貴様ら___」
 鴉烙にとってこれほどの屈辱はなかった。ここまでのやりとり、それも全て奴らの計算の内だった。命を手玉に取れるはずの自分が手玉に取られていた。耐えがたい恥辱だ!
 「許さ___んぐぉぉ!?」
 怒りに紅潮した顔を上げ、鴉烙は喉が焼き付かんばかりの声で叫ぼうとしていた。しかし本当に喉の奥が熱くなり、呻き声にしかならなかった。
 なぜだ?
 鴉烙は今自分の身に起こっている現実を理解するのに苦しんだ。だがそれは、彼を罠に嵌めようとしていた面々も同じである。策が敗れ、もはや肉弾戦で決着を付けるしかないと思い立った矢先の出来事だったから。
 「ば___馬鹿な___そんなはずは!!」
 止めていたはずの手が、止まっていなかった。まさか、自分はそんなに耄碌したというのだろうか?しかし事実、鴉烙は自らの命の契約書に判を押していた。自分の意志とは無関係に、ただ判か紙か、どちらか一方が勝手に動いて___いや動かされて、判を押していた。
 これも罠だ!自分の死は受け入れ難くとも、今起こっている出来事を鴉烙はそう考えるだろう。しかし甲賀もサザビーも仙山も、何もしていない。バルバロッサと榊もおそらくまだ白廟泉にいる。棕櫚は___
 「一体何が___?」
 棕櫚はここにいる。鴉烙の断末魔を目の当たりにし、彼は作られた甲賀の面の皮を剥ぎ取り、素顔を晒した。彼はこの計略の主役だったが、だめ押しの一手を用意したつもりはなかった。
 「どういう事だ!?」
 景色が不可思議に動き、耶雲の声で困惑を叫ぶ。彼は力を抑止する能力で甲賀の骸が灰になることを防ぎ、北斗の能力でその遺体を操った。甲賀の「声」を使うために。

 つまり彼らの罠はこうだ。まず肝心なのは、棕櫚がアヌビスから貰った鴉烙の命の契約書、これに判を押させることである。そのためには、仙山の能力で鴉烙の名を他の誰かに書き換えればいい。
 では誰に書き換えるのか?サザビーの計略で皆の契約が破棄された今、書き換えられる名前は甲賀しかない。しかしそれには甲賀が生きている必要がある。が、彼の命は風前の灯火であった。ならば___誰かが甲賀になればいい。誰がなるのか?
 それは棕櫚以外になかった。絵師の仙山がいれば見た目は幾らでもごまかせる。しかし能力は、他人の能力を盗む能力を持つ棕櫚でなければ真似できない。
 策がまとまると彼らは迅速に動いた。棕櫚が伸縮性に富んだ薄い樹皮を作り出し、それに仙山が甲賀の顔を描く。甲賀の命があるうちに、棕櫚は彼と能力を交換。声は耶雲が担当する。
 残酷ではあったが、砂時計の砂を見るように、耶雲の抑制を受けて甲賀はゆっくりと命を絶った。彼が死した時点で契約は完了し、甲賀の遺体は灰と消えることなく残った。あとは耶雲がそれを北斗の能力で操るだけ。
 つまりあの場面、甲賀に化けた棕櫚は口を動かしていただけでしかなく、実際に声を発していたのは彼の近くに仙山の彩りで身を隠していた、耶雲操る甲賀の骸であった。彼が語った甲賀のエピソードも、遺体の脳を支配して引き出したもの。甲賀がダミーの契約書をいくつも作っていたのは意外だったが、あれはあれで良い時間稼ぎに利用することができた。
 ___

 理解しようにもしがたい罠だが、彼らはこれで鴉烙を後一歩の所まで追い込んだ。ただ彼らが用意していたのはそこまでだ。「鴉烙の気づかない間に、彼自身に判を押させる」、そんな罠はない。
 「いや。できる___」
 しかしサザビーは気付いた。ソアラの古い仲間である彼だから気付けた。
 「もし誰かが俺たちのやりとりを傍観していて、そいつが時を止めることができれば。」
 「!」
 その言葉の意味するところを察し、棕櫚は息を飲んだ。
 「___ここにアヌビスが!?」
 「ぐああああっ!」
 しかし思案を巡らせる猶予はない。大気を劈くような悲鳴を上げて、鴉烙は狂乱の様相で身を捩らせる。しかしここまで幾千の命を弄んできた老翁の執念は、簡単には潰えなかった。
 「あっ!」
 鴉烙は鵺が漂う赤い柱の中へとその身を投じる。赤甲鬼の持つエネルギーは彼の肌を痛めつけたが、命尽きようとしている今では関係のないことだった。
 「野郎!」
 反応良く飛び出したサザビーだが、そこには鴉烙の影がある。
 「!?」
 影を踏んだ瞬間、彼の爪先は削り取られた。踏み止まれず、サザビーは前のめりに倒れた。だが影の追撃はない。
 「ぐおおお!」
 絶叫と共に、鴉烙は鵺の体を抱いて光の柱の向こう側、つまり白廟泉の方向へと飛び出していた。力に対する抵抗は衝撃に変わり、鵺の体にも傷が刻まれる。全身の痛みと、己を濡らす赤、そして鬼気迫る形相の父に抱かれ、彼女は目を覚ました。
 「___お父様?」
 まるで夢でも見ているようだった。喘ぐように舌を尽きだし、片方の眼球を反転させ、頭髪が束となって抜け落ち、抱きしめる腕の肉を腐敗させながら、鴉烙は走っていた。とてもおぞましい姿なのに、鵺はなぜだか安らいでいた。
 父が必死になって、自分を求めてくれている。
 微睡みの中だからそんな風に思えたのかも知れない。だが、一瞬でも彼女は幸せを感じていた。
 「さっちゃん!止めてくれ!」
 鴉烙の背後からそう叫んだのは耶雲だった。もはや鴉烙の視力は無くなろうとしていた。しかし彼はまさしく命がけで走り、正面にはあの泉が広がっていた。ただ、その前には影が立ちはだかっている。
 「闇よ___!」
 白い霧の中で、空間に描かれた赤い文字が鮮やかに煌めくと、鴉烙の行く手に闇が口を開いた。榊の闇で葬り去る___最も堅実な手段だった。
 しかし___
 「駄目ぇっ!」
 鵺が阻んだ。甲高い悲鳴と共に闇の前に扉が現れると、それは誰の手を借りることもなく開き、壮絶な輝きを放った。
 「こ、これは!?」
 闇の出入り口は為す術もなく破綻し、狼狽した榊の掌で血が弾け飛んだ。光は全てを無力化するかのような強烈な力を秘めていた。
 「うおおおおおおおお!」
 断末魔の声か、鴉烙は血反吐を吐きながら突貫した。榊を簡単に弾き飛ばし、白廟泉へ!
 ザンッ!
 だが執念を燃やす男はここにもいた。なんとしても自らの手で鴉烙を断罪しなければ気が済まなかったであろうバルバロッサは、白廟泉に飛び込みむ鴉烙の体を、赤い鱗を連ねた剣で真っ二つに切り裂いていた。
 バシャッ!
 縦に両断された父と、いまだ夢見心地の娘は泉の中へ。漲る生命力はすぐさま鵺の覚醒を促した。
 「お父様!」
 頭まで沈み込んだ鵺は勢いよく伸び上がり、父を振り返った。そこでは真っ二つにされた体同士で、粘液のような糸を引き合う鴉烙の姿があった。人の体がとろけながら破滅と再生を繰り返す姿は、生き地獄以外の何者でもない。鵺はあまりのおぞましさに息を飲む。
 「ぬ___ぇえ______」
 しかし二つに裂けた体のまま、金属を擦りあわせたような声で父がその名を口にすると、彼女はすぐに我に返った。
 「___父様___お父様!しっかりして!」
 例えそれが嘘だったとしても、鵺にとって鴉烙はただ一人の父親。彼女は必死の形相で、人外に成り果てた鴉烙の体を抱き上げ、繋ぎ合わせようとした。
 鵺の気持ちは純粋だ。彼女はとにかく、父を失いたくない一心で動いている。そこには計略も策謀もない。榊がただ呆然として見入ってしまうほど、彼女の行動は鮮烈に正直だった。
 「ぬ___ぇえ______とぉ___び___」
 しかし、父はこの期に及んでも自らの野心のためだけに動いていた。
 「扉?扉を出せばいいのね!」
 父の要求はきっと事態を好転させるに違いない。冷静に考えれば妙な要求だが、この状況で鵺に迷う理由はなにもなかった。
 「ちっ!」
 バルバロッサが鵺を止めようとするよりも早く、彼女は扉を呼び出していた!

 それは不思議な光景だった。
 「なに___これ___?」
 扉を呼び出した本人が一番唖然としていた。彼女の体は泉から脱した状態、正確に言えば泉の上にあった。自分がへたり込んでいるのは大きな扉の上。巨大な扉が、白廟泉に蓋をするように、泉の水面一杯に現れたのだ。
 「___ぁ___ぁぁ___」
 そして鴉烙は___ナメクジのような体で、それでも辛うじて命を繋いでいた。
 「鴉烙が!」
 榊が気付いたとき、彼はすでに扉の縁に貪りついていた。這いずることしかできない体でなおも突き進むその執念!
 榊も、バルバロッサも、追いついてきた耶雲も、その瞬間を見送ることしかできなかった。鴉烙が最期の力で扉を開いた瞬間を___

 「扉の縁が上がったところまでは見えた。しかしそこからは___正直私にも良く分からぬ。白廟泉から巨大な光の柱が立ち上り、それは黄泉の闇まで真っ直ぐに届いた。そして___いやそう見えただけじゃが、あるいは闇を消し飛ばしたかと思ったほどじゃった。」
 榊はそれ以上の説明を加えなかったが、百鬼やライには容易に想像ができた。闇の中に差し込んだ光が、目映い円となって黒を押し広げていく感覚、それは静寂の池に石を投じた波紋のようでもある。彼らは、栄光の城の光が地界の闇を退けたとき、ヘルジャッカルの戦いでソアラがアヌビスの邪輝に打ち克ったとき、そんな情景を見ていた。 
 「それで___鴉烙はどうなったの?」
 眉間を力ませて、ソアラが神妙に問いかける。口数の多い彼女の声を久しぶりに聞いたとのだから、それだけ皆は榊の告白に夢中だったのだろう。
 「死んだ___最初にそう言ったじゃろう。あの光の柱はある意味で破壊の力じゃ。過ぎた生命力は肉体をも滅ぼす。健常だったらどうか分からぬが、鴉烙の身体はかろうじて生きていたに過ぎない状態じゃったからのう、奴が光の中で塵に消えるのを___鵺がよく見ておった。」
 「そう___え?鵺が?」
 納得しかけてソアラは首を捻った。
 「鵺は光の中でそれを見ていたの?」
 「いや違う。何がどうなったのかは知らぬが、気付くと鵺は白廟泉から出ていた。」
 「!」
 また出てきた___あいつの能力の正体を知らないと、いつの間にとか、気づかなかったで済まされてしまう。
 「アヌビスめ___自分のために鵺を助けたな___」
 「どういうことだ?」
 辛酸を嘗めたような顔のソアラに、百鬼が問いかけた。
 「はっきりしたって事よ。白廟泉は黄泉の裏側への入り口で、その扉は鵺が開く。白廟泉の上では鵺の扉の能力に変化があった、それが証拠でしょ?空まで突き抜けた光の柱は白廟泉が持つエネルギーであり、裏側から噴き出したGの力。つまり、鵺に扉を出させ、それを開いて扉の向こうに行けば、そこに裏の世界がある。アヌビスはそれが分かったから鵺を助けたのよ、自分のためにね。」
 だがその理屈には妙な点もある。
 「でも、おかしくないかしら?私はこっちのことは良く分からないけど、鵺さんはなぜそんな力を持っていたの?」
 「う___そう言われるとそうね。」
 フローラの疑問にソアラは腕組みして首を捻った。言われてみれば、彼女が裏の世界への鍵を持つ意味が分からない。そんな能力が何で必要なのか?彼女にとって何の意味を成すのか?
 「その答えは私が知っている。」
 解き明かしてくれたのは、ここまで沈黙を守ってきたレイノラだった。
 「問題の種をばらまいたのは白童子と名乗る男だ。」
 「白童子___それって!」
 「我らが白廟泉を知るきっかけとなったのも、白童子の名が記された巻物じゃったな。」
 「何者なんですか、白童子って?」
 ミキャックの問いにレイノラはしばし目を閉じる。懐かしくもあり、どこかもの悲しくもある表情に、皆は沈黙した。
 「___白童子は裏からこちらに来た男。しかも十二神の一人、戦の女神セラの子だ。」
 「!?」
 「北斗はそんなこと一言も___」
 「彼は知らないことだ。その時はたまたま私が白廟泉を訪れていて、北斗は使いに出していた。そこへ、泉の中から突然一人の男が飛び出した。移動の衝撃か、彼は多くの記憶を失っていて、それでも母親の名を覚えていたから、私は彼が十二神の世界から来たと確信することができた。」
 記憶を失っていた___ということは、彼は黄泉の裏側がどんな場所かも覚えていなかったのだろう。レイノラはきっと彼から向こうの話を聞き出そうと腐心したに違いない。そして恐らくは___
 (黄泉には昔を懐かしめる相手もいないし、少しでも天界の思い出を感じられる人を蔑ろにはできなかった___のかも知れない。そうでなきゃ北斗に嘘を付く意味がない。森で傷ついていた彼を見捨てることができずに、白廟泉まで導いたなんて___)
 ソアラは北斗から聞いた白童子の話を思い出し、当時のレイノラの心情を思う。しかし今は本人の言葉に耳を傾けるべきだ。
 「私は彼に白童子という名を与え、迂闊にも生きることを許した。その後、彼は時折傷を負って白廟泉に戻るようになる。北斗も私が許した彼を咎めることはしなかった。でも彼はその時に、自分の治療だけでなく、多くの小瓶に泉の水を詰めて持ち帰っていた。そして、不治の病に冒された人々を助けて回っていた。手持ちの瓶が無ければ、巻物に泉の位置を認めて残したこともあった。」
 朱幻城の巻物もその一つであり、鴉烙もきっと白童子のまいた種から、何らかの形で力の涌く泉のことを知ったのだろう。
 しかし白童子を責めることなどできるだろうか。記憶のない彼はGのことも忘れ、ただ純真無垢な気持ちで、万能の泉の力を多くの苦しむ人々に分け与えたいと思っただけに違いない。
 「私は彼を探し、見つけ、殺した。Gの恐怖を思うと、そうするしか道はなかった___いや違う、他にも道はあったのかもしれないが、私は殺す道を選んだ。そして北斗にも、白廟泉に近付くものは追い返すのではなく、命を絶つように告げた。」
 その時のレイノラの苦しみは筆舌にし難いものだったろう。北斗の言葉を思う限り、彼女は白童子に対してかなりの愛着を持っていた。命を絶ったのは、白童子の行動に対する制裁でもあり、同時に彼女自身への戒めだったのかも知れない。
 「しかしすでに多くの人々が白廟泉の恩恵を受けた。つまりGの力に多少なりとも触れ、それを身につけた者も中にはいるはずだ。例えば、白廟泉の力で病から快復した両親より生まれた子、彼らは生まれながらにしてGの力の断片を身につけている可能性がある。」
 「その一人が鵺だと___?」
 ソアラの問いかけに、レイノラは頷いた。
 「もしかしたらその手の鍵を持つのは鵺だけではないかも知れない。白廟泉は確かに黄泉の裏側へと続いている。だがそこは十二神の力で守られており、異質な力を受け入れようとはしないだろう。その壁を、Gの断片を持つ者はすり抜けたり、押し開いたりすることができる___私はそう考えている。」
 「きっとアヌビスも似たようなことを考えているんだと思うわ。だから白廟泉の戦いを影から見ていた。」
 「そして鵺って子を生かしたってわけか。やっと分かってきたぜ。」
 遅ればせながらも、百鬼は難しい顔で言った。隣ではライが腕組みをして頷いているが、理解できているのかは微妙である。
 「お主たちの世界の話となると私にはピンと来ぬが、どうやら私も深く立ち入りすぎた。由羅、今度じっくりと話して聞かせよ。」
 「もちろん。私たちも事情を知らないまま姫に協力してもらってばかりじゃ悪いですし。良いですよね?」
 レイノラが頷くのを確認してから、ソアラは榊にニコリと微笑みかける。だが榊にしてみれば、そのやり取りには少々違和感がある。そもそもこの気品ある黒髪の淑女は何者なのか?
 「由羅、そのお方は何者じゃ?」
 「え?ああ、姫は知らなかったんですね。」
 「こちらでは、黒麒麟と名乗っている。」
 「なっ!?」
 レイノラ自身からの言葉で、急に榊の全身が強ばった。小柄で童顔ながら、あれだけの風格を漂わせていた朱幻城の主が、こうも縮み上がるのだ。皆はレイノラが黄泉でも一目置かれる存在なのだと実感した。
 「く、黒麒麟とはあの黒麒麟か!?」
 「そうですよ。」
 大きすぎる囁き声でソアラに耳打ちする狼狽ぶりは、見ていて可愛らしくもある。彼女は慌ててレイノラの前にひれ伏し、恭しく挨拶を始めた。レイノラの偉大さ故と言えばそれまでだが、ソアラは榊がそれほど小心者で無いことを知っている。
 「どうしたんですか?神様でも見つけたみたいにありがたがって。」
 いや、実際に神様だって。と、皆が突っ込みたくなったのはさておき、確かに榊の様子はちょっとおかしい。しかしそれには訳があったのだ。
 「餓門の真意を正してほしいのです。奴が何を思ってあのような行動に出たのか___あなた様ほどのお方であれば、餓門とて聞く耳を持つに違いありませぬ!」
 「餓門?餓門が何をしているの?」
 暫く聞かなかった名だ。あの金城での戦い以来、餓門の名は黄泉の表舞台から姿を消していた。それが今何をしているというのか?
 「餓門は___白廟泉の上に城を建てている。」
 「!?」
 想像もしなかった言葉に、皆の驚きを隠せなかった。しかしそれだけではない、衝撃の告白にはまだ続きがあった。
 「だが、奴が泉の恩恵を得ることはできない。それだけに余計に不可思議なのじゃ___」
 「恩恵を得られないって___どうして?」
 「白廟泉は枯れ果てたのじゃ。鵺の扉が放った光の柱と共に。」
 「!?」
 驚いたのはソアラだけではない。レイノラもまた、前髪から覗く右目を見開いていた。




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