2 情熱
朱幻城の評定の間。榊が言葉を止めて茶をすすると、静寂が広がる。
「暗転した___って。」
沈黙を断つのはいつもソアラの仕事である。
「姫が無事なのは分かってるから、あんまりピンと来ないですね。」
「相変わらず一言多い奴じゃな。」
「あいたっ。」
ソアラの頭上に小さな闇が開き、飛び出した扇子が彼女を叩いた。それでいて妙に楽しそうな二人の姿は微笑ましく映る。
「でもそんな状態でどうやって助かったんだ?」
百鬼の問いに榊は頷き、笑みを消して話の続きを語り出した。
「砂座にはまだ味方がおった。赤甲鬼の風間がな。」
___
気が付くと、私の周りには四人の男がいた。
「姫!」
「仙山___」
覚醒と共に見えたのは仙山の笑顔。だが短い頭痛の後に、私は気を失う前の出来事を思い出した。
「棕櫚!?棕櫚は無事か!?」
「無事ですよ。」
私が身を起こすよりも早く、棕櫚はそう答えた。奴は笑顔だったが、酷く痛々しい姿を見ると私は激しい衝動に駆られた。
「良かった___!」
私の身体は自然と棕櫚へと動いた。血で汚れた身体に縋り付き、奴の乏しい温もりを肌に焼き付けた。
「ありがとう。あなたのおかげで助かりましたね。」
「黙れ___!」
棕櫚に優しく髪を撫でられ、私は涙を止めることができなかった。そんなことをしている場合ではないのじゃが、恥ずかしながら私は冷静でなかった。
「残念だったな。」
「黙れ。」
「___」
砂座と仙山のやりとりや、後ろに立つ風間、さらにその向こうで茄子のように真っ二つに切り裂かれた皇蚕の姿、何も目に入らなかった___
そしてこれから、事態は風雲急を告げる。もはや榊の目線では語り尽くせない出来事が、起ころうとしていた。
「ねえ、どこに行くのよ!」
「黙って付いてくるんだ。」
「だって___足だって!何で歩けるの!?」
鵺の手を引き、鴉烙は一目散に進んだ。背後を警戒しながら追走するのは甲賀一人。たった三人で、彼らはすでに白廟泉のある森へ入り込もうとしていた。
「私の言うことを聞け、鵺。」
「いやよ!」
だが鵺は鴉烙の手を振り払おうとしていた。拒絶の訳は、彼女が皇蚕から逃げ出した理由と同じだ。
「私をどうしたいの!?」
渾身の一振りで手が放れ、父と娘は険しい顔で向き直った。
「お父様にとって私ってなんなの!?」
鵺はいつもの通り、感情に正直だった。多少子供っぽさが残っていても、その容姿はほとんど成熟した女性と同じ。だが彼女の精神は子供そのものであり、自分に素直だからこそ、悪い予感めいたものを鋭敏に察知する。
「おまえは私の娘だ。」
「違う!そうじゃなくて___あたしがいなくなるとお父様にとって良くないことがあるんでしょ!?」
甲賀はただ沈黙して、二人の口論を傍観していた。ただ、彼が鵺を見る目と鴉烙を見る目には、些かの温度差がある。感慨深げに小さく頷いて語り出す鴉烙、その姿を見る甲賀の眼差しやいかに。
「そういう言葉を言えるようになったのだな。それだけおまえも成長した。ならば___私も話そう。」
鵺は訝しげな顔を崩さなかった。しかし瞳だけは、父の牙城を崩したことに浮かれてキラキラと輝いていた。彼女が一番知りたいのは父の本音だ。言葉ではうまく表現できなくても、目は如実に語っていた。
「鵺、私は自分の力ゆえに追いつめられている。契約の能力は絶大であり、同時に私の意志とは無関係に多くの人々を恐怖させる。この能力を手にしたときから、私はもはや凡人として生きることを許されなくなった。黄泉に君臨する存在となるしか道はない。そうでなければ、このような恐ろしい能力を持った男を誰も生かしておいてはくれないだろう。」
その言葉は一見正論であるが実際は違う。鴉烙は契約の能力を先代から継承するために、千人の妖魔を殺している。その時点で彼は、周囲からの恨みや妬みの目を全て圧殺する心構えを持っていた。
「私は常に死の恐怖を抱きながら生きてきた。だからこそ、生きた要塞である皇蚕に住み、契約の縛りで部下に服従を請い、我が命を狙おうとする輩、私にとって不都合な存在を消すことに腐心した。そして私はこの黄泉にあって、ほぼ絶対の存在となった。しかし、唯一の弱点があるとすればそれは鵺、おまえだ。」
鵺が小さく息を飲んだ。彼女は自己中心的なように見えて、人の言葉はしっかりと聞き、影響されやすい一面も持つ。それは主体性を持つことを許されずに育ってきた子供の姿でもあった。
「私の敵は、私を倒すためにおまえを狙う。おまえは私以上の危機にさらされている。私はおまえを守らなければ、大切な娘だけでなく、自分の命を失うことになる。そのために私はおまえから自由を奪った。それは実に不幸なことだ。だからこそ私は、おまえにも幸福を与えたい。」
「___どうやって___?」
「私がより絶対な存在となるのだ。死の恐怖と無縁になれば、私にもおまえにも自由がもたらされる。」
「本当に?」
鴉烙は鵺の目を見つめ、しっかりと頷いた。
「私が目指しているのは白廟泉という泉だ。そこは、人に大いなる活力をもたらしてくれる。そこに辿り着いたとき、私は真に黄泉の王となり、おまえはこの広い黄泉を自分の箱庭にできる。もうあんな虫の中で暮らす必要もなくなるのだ。」
鵺は反論しなかった。鴉烙の言葉は決して研ぎ澄まされても、巧みでもない。しかし彼女を納得させるには十分だった。
「私と共に白廟泉に行こう。」
「___うん。」
鵺は小さな笑みまで見せて、鴉烙の手を取った。それが彼女の答えである。彼女はもとより父を信じていたし、それまでの反発も漠然とした不安に父が答えてくれなかったからに過ぎない。答えさえ得れば、娘は父に靡くのである。
「本当に___」
そこに第三者の介入が無い限り。
「本当にそれで良いのか?」
甲賀は鉄仮面のように表情を変えないことができる男だ。できる、と言ったのはそれが彼の本質ではないから。彼は感情を徹底して押し殺せる一方で、強い正義感と情熱を持つ。鴉烙に忠誠を誓う一方で、彼への憤りを全て飲み込むこともできる。そんな甲賀の仮面を崩すものは感情の最たるもの___愛情に他ならない。
「君は利用されていると分かっていながら、なおも鴉烙を信じるのか!?」
その時、甲賀は鵺を見つめ、鵺は視線を逸らした。鴉烙をも驚嘆させたこのやりとりはとても短かった。
「なら私が君を奪う!そして自由の野に解き放つ!」
「甲賀!」
鴉烙の一喝が、深い森に響き渡る。甲賀は漸く鴉烙に視線を向けた。覚悟を決めた男の顔はなんと勇ましいものか!引きつった笑みに汗まで浮かべる鴉烙とは、雲泥の差であった。
「甲賀___貴様、どういうつもりだ?」
「私が鵺様のことを思うようになったのは、彼女があなたに反発するようになってからだ。私は鵺様の身の上を思い、不幸を知り、彼女のために力になりたいと考えた。だから皇蚕からの脱出にも力を貸した。」
「貴様が___!」
鴉烙の頬が強ばり、笑みは怒りへと変わる。
「目を覚ませ!鴉烙は君の幸せなんて考えていない___絶対的な力を手に入れるために、君という鍵が必要なだけだ!」
「甲賀!!」
その瞬間、息を飲んだのは鵺だけだった。甲賀は鴉烙がその手に紙切れを現そうと、身震い一つしなかった。
「全く、貴様はとんだ食わせものよ。」
契約。それを取り付けている相手に鴉烙が負けることはあり得ない。どんな強大な敵であっても、判の一突きで全てが決まるのだから、相手に勝ち目はない。しかし甲賀の契約の条件は、彼の忠誠の甲斐あって命から能力の消失へと変えられている。
「忘れたか!私の命はもはやおまえの手にない!」
だからこそ彼は雄々しく叫んだ。しかし、鴉烙はそれほど甘くない。それは彼が一番分かっていることだろうに。
「本当にそう思うか?」
一陣の風が森の狭間を吹き抜ける。草木のざわめきと共に、鴉烙の手の契約書が靡いた。
「!」
一枚では無かった。契約書が捲れ上がったその下から、新たな契約書。
「私は自分しか信じない。古い契約書を破棄したとなぜ言える?」
鴉烙の嘲笑に殺意が走った。甲賀にできること、それはせめて判を押すまでに一矢を報いること。だが時を止められるわけでもない彼に、一瞬で何ができようか。
「やめて!」
しかし鵺が鴉烙の腕に掴みかかったことで、一瞬は一瞬でなくなった。
「鵺___!」
「甲賀は私のためを思って___!」
その手に刃を煌めかせ、甲賀が迫る。しかし鴉烙の冷静さは際だっていた。
「!」
何をしたのか目を疑っている間に、鵺の身体から一切の力が抜けた。そればかりか、鴉烙は恐るべき力で鵺の身体を自らの前へと引きずり出したのだ。
「どこまで卑劣な___!」
甲賀の刃、鴉烙の身体、その間に鵺の盾。
「ぐっ___!」
そして彼の命運は決する。判が押された瞬間、甲賀の首には筋が立ち、死相が走り、喘ぐように舌が飛び出る。だが鴉烙の目は甲賀の死に様よりも、彼の右腕に引きつけられた。
「ちっ!」
そして鵺を抱えたまま後方へと飛ぶ。直後、鴉烙が立っていた場所に甲賀の刃が突き刺さった。
「___くそ___」
切り飛ばされた右手に握られた刀。甲賀は最後の瞬間に、身体を分断する能力で刀ごと自らの右手を切り飛ばした。しかし願いを込めた放物線も、老獪な鴉烙は簡単に見抜いてしまった。
「ふっ。」
命を賭した一撃を鼻で笑い、死と共に消えるであろうもう一つの契約書を投げ捨て、鴉烙は森の奥へと消える。口惜しさを晴らすこともできず、視界に走った澱みに甲賀は死を覚悟した。
___
「___えるか?おい甲賀!聞こえたら返事しろ!」
しかし男の呼び声が彼を死の淵から呼び戻した。視界は霞が掛かったようではあるが、それでも見るものの輪郭には徐々に鮮明さが戻っていった。
「おまえ___」
「よし、持ちこたえたな。」
甲賀の目前で精悍な顔を見せるのは、この騒動の仕掛け人。
「砂座___」
「軽はずみだぜ、あんたらしくもない。」
サザビーの物言いは全てを悟っているかのようだった。
「なぜ私は生きている___」
「命を繋いでいるだけだ。鴉烙の能力を破った訳じゃない。」
「俺の力でな。」
甲賀の体は彼の意志に反して動かなかった。だから後ろからの声に振り向くことさえできない。彼の周りには榊や棕櫚もいるが、視野は正面のサザビーを捉える程度でしかなかった。
「でも___あんまりもたねえぞ___」
甲賀の命を繋いでいるのは耶雲だった。相手の能力を抑止するのが彼の能力。白廟泉の守護者、北斗と命の共有を果たしてからもその力は健在だった。しかし彼を以てしても、すでに履行された契約を掻き消すことはできない。彼にできるのは、甲賀の死を遅らせることだけだ。
「砂座___鵺様を___」
甲賀はサザビーを見つめ、呟く。そこには深い思いが込められていた。
___
鵺と甲賀の関係、それは決して良いものではなかった。成長するほどに父の言葉を聞かなくなっていた彼女の頬を、甲賀は叩きもした。だが結果として、その痛みが鵺に新しい気持ちを芽生えさせ、甲賀もまた彼女の心情を考えるきっかけとなった。
二人の距離は急速に近づいた。
しかし甲賀は生来不器用な性格だし、鵺は鵺で気持ちの変化を抱きながら、頬を張られたことを許せない意固地さも持つ。そんな二人のもどかしさを感じ取り、仲介役となったのはサザビーだった。彼に窘められ、鵺は甲賀が側にいることを許すようになる。やがて彼女は甲賀に己の不安をうち明けるようになった。
___愛は感じないのに、父は自分に酷く執着する。父は自分を何かに利用しようとしているのではないか?だから自分がいなくなると困るのでは?
甲賀はその答えを知っていたから胸の痛む思いだった。鴉烙が榊を捕らえ、己の目的達成のためになりふり構わなくなると、余計に彼への忠誠心が揺らいだ。そうとも___今でこそ彼の従僕だが、元は自分も鴉烙に深い憎しみを抱いていたではないか___と。
鵺は棕櫚と榊への拷問を嘆き、鴉烙を惑わせるために脱出を目論んだ。力を貸して欲しい___彼女の言葉に、甲賀は突き動かされた。何しろそれまでの彼は、逃げ出した鵺を捕まえる役目だった。そんな自分に脱出の相談をしてくれたという事実、甲賀の心は激しく揺さぶられた。
甲賀は棕櫚の救出を企むサザビーに、鵺の脱出を伝えた。サザビーは隠れ場所として東楼城を勧め、甲賀も従う。これをきっかけに、サザビーは鴉烙打倒の策を巡らせた。
この時、彼はすでに皇蚕の様子を見に来た仙山と接触し、白廟泉の話しを聞き、巻物も手に入れていた。こいつをダシに棕櫚と榊を取り返し、自分たちの契約を解かせよう。サザビーは早速動き、あのやり取りへと続く。首を切られて死ぬ芝居を演出するために、甲賀も手を貸した。
彼の策は実り、契約解除は成功した。鴉烙が残した皇蚕の罠も、風間ことバルバロッサの力業で乗り越えた。しかしここからが肝心。甲賀は鵺が幸せを願っているわけで、鴉烙の打倒までは考えていない。だからサザビーの策を聞いたときも、「契約を解くところまでは協力する。しかしその後でおまえたちが鴉烙に挑むというのなら、私はそれを阻もうとするだろう」と答えていた。
だからこそサザビーは、彼が鴉烙に刃向かったのが意外だった。だが甲賀にしてみれば、この期に及んで鵺が鴉烙に執着していることの方が遙かに意外だったのだろう。
その頃、森の奥___
「くっ!」
少し前まで車椅子に座っていたとは思えない俊敏さで、鵺を抱えた鴉烙が大木の間を駆け抜ける。
ザンッ!
その直後、大木は稲妻が炸裂したかのように真っ二つに裂けた。
「っ!」
凄まじい衝撃波が鴉烙の背にも降りかかった。それは背を切り裂く鋭さではなかったが、痛烈な打撃となって彼の身体を弾き飛ばした。
「鵺がいては___」
裂けた木々の狭間を抜け、鴉烙を追走するのはバルバロッサ。彼の役目は鴉烙を倒すことであり、最低限、白廟泉に近づかせないこと。だが彼の心情として、鵺は傷つけたくない。腕から頬にかけてルビーのような甲を纏った赤甲鬼は、苦々しく舌打ちした。
「駄目か___」
そう呟いて唇を噛んだのはサザビーだった。耶雲が契約を押さえ込んでいる間に、バルバロッサが鴉烙を倒せれば、甲賀の命は救われるかも知れない。しかし希望は今にもうち砕かれようとしていた。
「私に構うな___風間と共に鴉烙を倒せ___!」
甲賀の声は焼け付くように掠れている。限界か___サザビーは目を閉じ、小さく首を横に振ってから、甲賀の耳元に口を寄せる。
「鴉烙はなんで白廟泉に鵺を連れて行こうとしているんだ?」
もうどこまで正確に聞こえているかも分からない。サザビーはゆっくりとした口調と大きな声で、甲賀に問いかけた。
「扉だ___彼女の扉___」
石壁を爪で擦るような、声とも取れない奇音を絞り出して甲賀は答える。同時に口から血が溢れた。
「___ええい、惨すぎる!耶雲、もうこれまでにしてやれ!」
声帯か滅び、甲賀から声が消えた。しかしまだかろうじて目の光は保っている。ほんのか細い糸一本で、彼は命を繋いでいた。じんわりと死に近づいていく光景はあまりにも惨たらしく、直視できなくなった榊は溜まらずに声を上擦らせた。
「いえ。甲賀にはもう少し生きてもらいます。」
「棕櫚!?」
愛する人の冷酷な言葉に榊は苛立った。しかし一目見て、彼の思い詰めた横顔に言葉を失う。
棕櫚も甲賀の残酷な死に様に怒りを覚えている。それはそうだ、彼は同じようにして自分の姉を失った。ただそれでもなお甲賀を生かそうとするのには、重大な理由がある。
「彼なら鴉烙を倒せます___これを使って。」
悲壮な決意を胸に秘め、棕櫚は紙切れを手にしていた。
森の奥の奥。そこでは時に白い霧が流れ、そして消える。霧は風と共に森の最奥から流れ込み、温もりを抱き、枝葉を濡らす。鴉烙の目指すところ、白廟泉はもう目前である。
「忌々しい奴め___!」
しかし鴉烙は苛立っていた。それは執拗についてくる黒マントのためだ。
「!」
どこまで迫っているのか?そう思って振り返れば、闇の奥底から赤い光線が迸る。
「くっ!」
熱を帯びた赤は鴉烙の右足に裂傷を刻んだ。老翁は足をもつれさせ、抱えた娘を腐葉土に放り出すようにして倒れこんだ。
「おのれ!」
森の奥が白い。あそこまで鵺を運べば全てがうまくいく。逃げるのはあと少しだけで十分なのだ。だから鴉烙は背後から迫るバルバロッサに目もくれず、這いずるように鵺へと向かう。しかし___
「!」
鵺の体はもはや彼の手の届かないところにあった。気を失ったままの彼女は、大地から噴き出した赤い光の柱の中で、宙を漂っている。足元の腐葉土は一気に跳ね除けられ、ルビーのような鉱石の輝きを見せつけていた。
それは赤甲鬼の力。バルバロッサの体に蔓延る赤い甲羅は、さまざまな威力を秘める。時に武具を鍛える練鉱石の役割をし、時に内外を遮断する結界の役割を果たす。
「鵺は捕らえた。あの光の中にある限り、彼女は身動きが取れない。」
重く暗く低い声は、仲間たちの前でも敵の前でも変化がないように聞こえる。しかしそれは違う。敵を前にしたとき、バルバロッサの声には冷徹な凄みが走る。
「お前が目指す場所に、彼女は行かせない。」
赤い柱を前に、四つん這いになって慄然とする老翁。黒光りする長剣を手に、冷酷な眼で見下ろす黒衣の男。戦いの優劣ははっきりと決まっているように見えた。
「気のないうちに殺してやる。それが彼女のためだ。」
鴉烙は振り向かない。いや、振り向けないのか?彼は四つん這いのまま項垂れて、肩を小刻みに震わせていた。死の恐怖に身震いするとは、これまで云千の命を奪ってきた男にしてはあまりに酷い醜態である。
だが___この男がそんな玉か?そんな男に命を握られるほど、俺は愚かか?
「風間よ。」
疑念はバルバロッサの動きを鈍らせた。まったく泰然自若としたままの鴉烙の声を聞いた時には、既に遅しである。
「!?」
バルバロッサは我が身を疑った。鴉烙はいまだに四つん這いのままだ。にもかかわらず、不適な声にハッとした時には、剣を握る右腕が肩から削ぎ取られていた。
「馬鹿な___!」
それだけではない。鴉烙はまったく姿勢を変えていないのに、バルバロッサの胸が大きく切り裂かれた。さしもの彼も、血反吐を吐いて大きく仰け反る。
「鵺を捕まえていてくれるなら、何もお前らから逃げる必要はない。」
逆転劇の快感など鴉烙にはない。人を殺すことは彼の人生そのもの。それは必然であり、珍しいことではないのだ。
「忘れたか?私は契約の能力を得るために千人の妖魔を殺した。それまでの私は能力を持っていない。しかし、身につけた技はある。そうでなければ、千もの妖魔を殺せるわけがなかろう。もちろん、それは技というより妖魔の能力に近い、奇々怪々なものだがな。」
「!」
バルバロッサが揺らぐ。もはや言うことを聞かない体で彼は鴉烙の声を聞き、その目にカラクリの正体を見た。
「影___!」
赤い柱を背にした鴉烙の影が、彼自身とはまったく違う動きをしている。バルバロッサはそれに気がついた。だが今更だ。光の屈折を無視して伸びる鴉烙の影は、バルバロッサの影に手を触れようとしている。それが何を意味するか、鴉烙の残酷な嘲笑が物語っていた。
影が影の首に重なると、バルバロッサの首筋に赤い亀裂が走った。影の影に対する攻撃がそのまま本体へのダメージとなる。一妖魔の能力以上に驚異的な技能だった。
「む___!」
だがバルバロッサもただでは終わらない。鴉烙は敏感に、首を落とす快楽に酔いしれることなく、異変を感じ取った。二つの影の接点で漆黒が広がる。鴉烙は影を通じて、自らの体に引き込まれる力を感じた。
「ちっ。」
やむ終えず、鴉烙は影を引いた。彼自身の動きとは無関係に動いていた影は、身の丈にあった姿へと戻る。そしてバルバロッサの首は、幾らかの血で濡れるに留まった。
グォォォ___
妨げたのは、影を飲むように広がった黒い円。
「よう食い止めてくれた、風間。」
現れた榊はバルバロッサを気に掛けつつも、冷然とした面持ちで鴉烙を睨み付ける。
「しぶといな、小娘。」
鴉烙は嘲笑で彼女を迎えた。その余裕、それこそ彼が榊の闇に恐怖を感じていない証だ。
___鴉烙が恐れを見せなかったら、手は一つだ。
榊には筋書きがある。それを思い出して、彼女は生唾を飲んだ。
「鴉烙___」
闇への扉を開き、体半分沈めたまま、榊は言った。
「私は貴様を倒す!」
上擦った叫声が引き金となった。その瞬間、鴉烙は己の右腕を真横に向かって鋭く突き出す。そして影を走らせた。
「ぐぁっ___!」
霧に煙る森に、血の赤色だけが飛び散った。鴉烙の生身の右腕は景色を、いや景色に紛れて襲いかかってきた仙山を、いとも簡単に捉えていた。
「影だ___!」
同時に、榊はバルバロッサに向かって目一杯に左腕を伸ばし、彼を闇に引きずり込もうとしていた。影が走り、バルバロッサが怒鳴ろうと、彼女は腕を放さなかった。
スッ___
鈍い音も無く、実に鮮やかな切り口で榊の左腕が落とされる。手はバルバロッサのマントを捕まえたまま、宙を泳いだ。得意の闇を使って彼を助けるつもりだったのだろうがそうはいかない。鴉烙はそのまま二人の首を切り落としてやろうと考えた。
ググッ!
しかし二人を繋ぐ架け橋は一つだけではなかった。バルバロッサの左腕から榊の右腕へ、赤い鱗が数珠繋ぎになって榊の腕に絡みついていた。
「おのれ!」
その光景に鴉烙は目を見張った。ルビーのような赤い鱗は激しく輝き、鴉烙の影から自由を奪う。影の向きは光源に準ずる。鵺を包む光を背後に置いていたからこそ成り立った術は、バルバロッサ自身の輝きに破られた。
「逃がすか!」
バルバロッサの左腕が榊の闇に引き込まれると、赤い輝きも闇の中に消える。影の向きは瞬時に変わった。
ドサッ。
影が影を断つのに時間はいらない。榊はまんまとバルバロッサを回収したが、彼の全てを救うことはできなかった。転げ落ちたバルバロッサの両脚を見下ろし、鴉烙は勝者の笑みを浮かべる。
「まあ良い___片腕両脚を失ってはどうにも___」
しかし、すぐさま顔色が変わった。榊がなぜ自分の左腕を犠牲にしてまで、バルバロッサの両脚を捨ててまで、「命」だけは守ろうとしたのか。それが分かったのだ。
バシャンッ___!
反り返るように森の奥を振り返ったその時、水音が響いた。彼の推察は確信に変わる。
「しまった___!」
鴉烙は砂座の言葉を信じていた。榊自身は白廟泉に行ったことがないものと思いこんでいた。だから彼女がバルバロッサを闇に引っ張り込もうとしても、それはただ彼を逃がすためでしかないと考えた。
白廟泉に連れて行くためとは考えなかった。
「命の泉の加護を受け、二人は失った身体を取り戻した。」
それだけではない。聞けるはずもない声に、鴉烙は些かの狼狽と共に振り向いた。目を見開き、そしてすぐに眉間に皺を寄せ、嫌悪感を剥き出しにしてそいつを睨み付けた。
「しかし、貴様は命の泉に辿り着くことなく、ここで尽きる。」
そこにいたのはつい先ほど、命の契約を使ってこの世から消したはずの男。
「俺に殺される。」
甲賀だ。
前へ / 次へ