1 知謀
朱幻城の美しさに翳りはなかった。餓門派の襲撃の跡も今ではすっかり修繕され、街並みはソアラが初めて訪れたときと変わらない、均一性の美を取り戻していた。しかし決定的に足りないものがある。
「こんなところじゃないのに___」
ソアラにそう呟かせるほど、朱幻城は閑散としていた。朱色の屋根も、黄金の夜雀像もどこか煤けて見える。人の温かみは皆無に等しく、榊が持つ弱者への労りの心も今の街並みからは感じられない。
「人が居ないんだ___」
ソアラがそう気づいたのは、城の門戸に辿り着いた頃だった。往来で行き違う人はおろか、門番すらいない。それでも人が全くいないわけではなかった。
どういう事か?大人数で押し掛けた事への叱責を覚悟しつつ、ソアラは榊の元へと急いだ。そして二人は再会する。
「由羅か___!?」
「お久しぶりです。また戻ってきました。」
「よく___!」
思いがけなかった。榊は怒るどころか泥濘の中に仏を見たような、熱の籠もった笑みでソアラを迎え入れたのだ。
「よくぞ帰ってきた___!」
「何かあったんですか?」
再会の握手をしつつも、ソアラは表情を崩せなかった。そんな彼女の怪訝を感じ取り、榊も落ち着きを取り戻す。手を放し、丹前を翻してゆっくりと話し出した。
「___大きな動きがあった。おまえにも積もる話はあるじゃろうが、まずは私の話を聞け。よいな。」
「はい。」
天界が激動に包まれていたそのとき、黄泉も激動の渦中にあったようだ。だが何にせよ、その発端はアヌビスに違いない。百鬼たちが朱幻城の荘厳な細工に目を奪われる中、ソアラはほくそ笑む黒犬の姿を思い浮かべて唇を噛んでいた。
「改めてみると、また随分大勢で帰ってきたものじゃな。」
いつもの庵では狭すぎるから、榊は普段ほとんど使わない評定の間に皆を通した。上座に腰を下ろし、一通りの面々を見眺めて小さなため息をつく。大きな目を細めた不貞不貞しい顔は、再会の場面でソアラが想像していた彼女の表情だった。
「ま、黄泉見物でもあるまいて、なにやら重大な使命があるのは分かる。」
「お察しの通りです。」
小さな背丈に変わりはないようだが、榊の醸す雰囲気は以前に比べて随分と大人びていた。長い黒髪を背で一括りしているからだろうか?いや、それだけでなくこの短い間に彼女を成長させた何かがあったようだ。
「しかしそれは後じゃ。まずは私の話を心して聞け。」
彼女が扇子の先で畳を一つ叩くと、新鮮な光景に色めきだっていた子供たちも背筋を正した。
「鴉烙が死んだ。」
「鴉烙___あの、命の契約の鴉烙ですか?」
「そうじゃ。私、仙山、棕櫚、風間、耶雲、砂座、そして奴の娘の鵺、配下の甲賀、これだけの妖魔が複雑に絡み合い、結果として鴉烙は死んだ。死んだ場所は白廟泉。」
「!!」
その答えに慄然としたのはソアラとレイノラだけでない。砂座の名前に反応したミキャックは息を飲み、きっとアヌビスに関わる自体だと察した皆の胸中も掻き乱された。
「その話、できるだけ詳しく聞かせてください。」
「無論じゃ。」
榊はしばし目を閉じ、やがて明朗な口調で語り出した。
___
朱幻城に鴉烙の一団がやってきたのは、由羅が城を去ってまもなくのことじゃ___
「紫の髪の女と黒い翼の女にお目通り願いたい。」
「なんじゃと?」
鴉烙の側近、甲賀の顔は知っていた。以前から変わっていたのは、右の耳が削げ落ちていたことじゃ。包帯で隠されてはいたが形がなかった。
「奴らは故意に我々の任務を阻んだ。その後、黒麒麟の館に向かい、ここへと戻ったはずだ。」
「___」
「闇の番人。おまえは全てに公平でなければならない。その沈黙の意味するところは何だ?」
私は満足な答えを返すことができなかった。真実を語れば良かった?いやそれは容易ではない。私は黄泉で唯一異世界への扉を開くことができる。しかし異界との交流は許されることではない。それは大いなる罪じゃ。
「同行願おう。拒否できないことは分かっているであろう?」
「く___」
鴉烙には命の契約を握られている。私にはどうすることもできなかったが、多少の罰を覚悟すればそれで済むと思っていた。それに頼りになる補佐もおるからのう。
「姫___」
そう。仙山は見事に色に紛れ、甲賀の目を逃れたのじゃ。しかし皇蚕で待っていたのは、私の予想を超えた悪夢じゃった。
___
「ふむ、すると貴様は異世界からやってきたというその女を子飼いにし、なにやら企てを進めていたということか。」
「企てなど___」
老翁は執拗に私を詰った。しかし私も多少の痛みを受けることは覚悟していた。
「闇の番人はいつもこうだ。前の番人、梓と言ったか、あの女も私に対して不穏な動きを見せた。」
「私は鴉烙様の身を脅かすことなどありませぬ。」
「おまえがなくても棕櫚はどうだ。」
「___私には関係のないこと。」
奴が妙に棕櫚のことを口にするのは不愉快極まりなかった。車椅子を軋ませる華奢な老翁の何を恐れるのかとも思った。しかし陰湿な言葉責めに腹を立てては奴の思うつぼ。私は堪え続け、やがて鴉烙は罪の清算に、私にある役目を与えようとした。それが地獄の始まりじゃ。
「私のために捜し物をして欲しい。」
「なにを___」
「私はかねてから己が永遠の存在になればよいと思っている。そして、黄泉には永遠の命の源があることを知った。」
「___」
「探すのは、永遠なる力の涌く泉だ。」
「!」
迂闊じゃった。白廟泉を知っていたばかりに、鴉烙がそれを追っていると知らされて私は平静を保てなかった。実際は些細な変化じゃったろう。しかし奴は私の瞳孔の動きでさえ目に止めていた。
「貴様___何か知っているな?」
何を取り繕おうと無駄じゃった。しかし白廟泉のことは決して口外してはならない。鴉烙があれを知れば、奴はより絶大になるだけでなく、耶雲の思いを踏みにじることになる。それは絶対に許されない。
私は沈黙に徹した。この身にどんな傷を刻もうと、私を死の淵から救ってくれた耶雲を裏切りたくはなかった。しかし鴉烙は卑劣な男じゃ___
「榊___まだ話す気にはならないか?」
命の契約は握られている。しかし鴉烙は私の知識を求めている。だから殺されることはない。痛めつけるか辱めるか、いずれにせよ私は全てを受け入れるつもりでいた。
「良かろう、ならば私にも考えがある。」
それが私に課せられる辛苦ならば。
「!___」
鴉烙に連れられてやってきたのは皇蚕の一室。暗くジメジメとし、血の臭いが充満した場所。そこに、白い影が浮かび上がっていた。私は酷く狼狽した。
「棕櫚___!」
そこには棕櫚が吊られていた。行方知れずになったあやつがまさか皇蚕にいるとは思わなんだ。それも驚きではあったが、棕櫚の有様に私は愕然とした。
棕櫚は裸で、目隠しをされ、口に轡を填められ、手足の自由を奪われていた。
「沈黙を続けるとどうなるか。」
鴉烙が顎をしゃくると、屈強な男が抵抗できない棕櫚を激しく殴打した。
私は苦悶した。肉の鈍い音を聞きながら、沈黙を続けた。そんな状況にあっても棕櫚は苦しい素振りを見せようとしない。そればかりか___
「む!」
鴉烙の目が一際鋭くなると、奴は恐るべき速さで腕を振るった。何をしたのか、一瞬のうちに棕櫚の掌が裂け、血が流れ出た。しかしその早業以上に私の目を奪ったのは、棕櫚が痛みを覚悟で生み出した一輪の花じゃった。
(石香の花___)
花には言葉が込められている。その花の意味を、私はかつて棕櫚から聞いていた。
(貞操の誓い___転じて、秘密を守り通すこと。)
私が生きていたことで棕櫚は全てを察したのじゃ。白廟泉は実在し、榊はそこに辿り着いて、寄生草に打ち克った___とな。あやつも鴉烙が白廟泉を追っていることは知っていた。だから、私に沈黙を守るよう花言葉で訴えたのじゃ。私はあやつの願いに勇気づけられた。しかし呻きを聞き、血の匂いを嗅ぎながら沈黙を続けるのは、本当に地獄じゃった。
鴉烙は棕櫚を殺せなかった?そう、それは確かにそうじゃろう。棕櫚を殺してしまえば、私の口を割らせる手だてはいよいよ無くなる。しかしな___いや、もう構うこともないから言うが___愛しい人が目の前で肉体を、誇りさえも傷つけられる姿を見せつけられて、平静を保ち続けられる者などいるか?それがそやつの願いだとしても、耐えられる者がいるか?
私はまだ堪えたほうじゃ。何か、例えば仙山が、何か救いの手を差し伸べてくれることを期待していた。この状況を変える何かが起こることを。
「お父様!」
そしてそれは起こった。連日繰り返される棕櫚を使った拷問の最中、血相を変えて怒鳴り込んできたのは鴉烙の娘、鵺じゃ。
「もうこんな酷いことはやめて!」
この鵺という娘は鴉烙には似ても似つかない、純真無垢で可憐な少女じゃった。彼女の存在は、狂乱の手前に追い込まれていた私の心に、少なからず希望を与えてくれた。
「鵺、これは私の務めであり、私たちの未来のためだ。」
「だからって、棕櫚が苦しむのはおかしいよ!」
「おまえが口を挟むことではない。さあ鵺、もう見てはいけない。部屋に帰りなさい。」
「いつも___いつもそうやって!」
口論の末に鵺は去った。また棕櫚の苦悶を見せつけられる時間が始まる。私の希望は潰えたかに見えた。しかし___
「なんだと___鵺が消えた!?」
鵺は大胆な行動に出た。非道なる父に愛想を尽かし、皇蚕から逃亡したのじゃ。その時の鴉烙の激昂ぶりは凄まじかった。だがそれは鵺に対する愛のためではない。それは奴ら親子のことを良く知らぬ私が見てもそう思えた。
「あの娘は___なぜいつも邪魔をするのか!」
この言葉だけで明白じゃった。鴉烙は愛のためではなく、何か別の目的のために鵺が必要なのじゃ。そして鵺もきっと、父が放つこの微妙な距離感を感じ取っていたのじゃろう。あの娘の不信感の根底はそこにあったと思う。
「鵺が自分の力だけで、誰にも気づかれず皇蚕を脱出できるものか___」
鴉烙はそう考えた。鵺は以前にも何度か皇蚕から抜け出している。その時は単純な外界への興味によるものだったようじゃが、この時彼女の願いを聞き入れていたのが風間。鴉烙は今回も風間が手引きしたものと疑った。
風間の気性は私よりも由羅の方が詳しかろう。奴はああいう男じゃから、鴉烙が何をしようと自らを貫く。
「知らん。」
無駄な言葉はない。ただ一言で全てを片づける。疑念を払拭することはなくとも、その毅然とした物言いに、鴉烙も別の可能性を考えざるを得なかった。
その日から、私への拷問と鵺の捜索が並行して行われた。じゃが、私は鴉烙の明らかな変化を感じ取っていた。鵺のことに気が向くあまり、それまではなかった隙を見せるようになっていたのじゃ。鴉烙は集中力を欠いている。そして私は野心を抱いた。
(闇に飲み込むのは一瞬___飲み込んでしまえば奴も無事ではいられまい___)
つまり、鴉烙の殺害である。例え相討ちになろうとも、奴を闇に放り込んでしまえば後は黄泉の闇が裁いてくれる。
「お〜お〜、くだらねえこと考えてる顔しやがって。」
しかしそんな私を止める声があった。
「貴様___!」
「久しぶり。」
砂座じゃ。
「その節は色々と世話になったな。」
私は牢に、向こうは外に。皇蚕の肉の格子を挟み、私たちは再会した。
「フッ___晴れ晴れしい気分じゃろう。お主を苦しめた私がこのような姿で。」
私は、奴が私を笑いに来たものと思った。そんなことないじゃと?ほほ、やに必死になりおって。じゃが翼の女、お主の言う通り奴はそんな男ではなかった。
「まあ多少いい気味がしない訳じゃない。でもな、女の子を虐めるってのは俺の趣味じゃないんでね。それに棕櫚は俺にとっちゃ大切な仲間だからな。」
「ならば邪魔をするでない。私は鴉烙を倒す。」
「そいつは駄目だ。鴉烙が予想しないと思うか?」
確かに奴の言う通りじゃった。鴉烙が私の能力への対策を取っていないはずがない。現に奴は先代の闇の番人、棕櫚の姉である梓と対峙し、死に追いやっている。結局のところ、私は鴉烙の術中に飲まれようとしていたのじゃ。それを砂座が止めた。
「やめとけやめとけ。」
それだけではない、奴は奴なりの策を秘めていたからこそ、私に会いに来た。何気ない素振りをしつつ、奴は格子の隙間から紙を覗かせたのじゃ。所々違ってはいたが、黄泉の文字で書かれた言葉は十分に読みとれるものだった。
『仙山に会って全て聞いた。とにかくおまえは沈黙を守れ。』
奴がそうしたのは甲賀の能力を警戒してじゃ。甲賀は身体の各部を自在に切り離せる。例えば耳や目だけ切り離して、我らが会うところを見聞きしているかもしれぬ。私は表情を変えないように腐心し、そして奴の冷静さに感服したものじゃ。
「何も知らないんだったら黙ってな。命を粗末にするもんじゃない。」
そう言い残し、奴は勝手知ったる様子で肉の格子を押し広げた。
「さ、鴉烙の所に行くぞ。」
奴の建前は、鴉烙の言いつけで私を連れに来た。これで私の鴉烙を倒そうという決意は薄らいだが、また我慢の時が始まると思うと辟易とする思いだったのも確かじゃ。しかし私はどうやらこの砂座という男を見くびっていた。よもやあのような事態になろうとは想像もしなかった___
「待ちわびたぞ。」
その日も鴉烙は棕櫚の吊された部屋で私を待っていた。棕櫚はもはや精悍さなど見る影もなく、傷つき、生気を奪われていた。その様は___いや、思い出したくもない。今もあやつの体が癒えていないと言えば、お主らにも想像はつくじゃろう。
打ちひしがれたあやつの姿を見るたびに、私の喉元まで白廟泉の名が這い上がってくる。しかしそれは石香の花を託した棕櫚への裏切りじゃ。わしは砂座にも言われた通り、断固として黙り続けようと決めた。
「挨拶も無しか。その調子では今日も棕櫚が傷つくだけだな。」
そう言いしなに、鴉烙は棕櫚の太股に鉄釘を突き刺した。一日一つ、釘は日を追うごとに増えていく。血に染まった轡を噛み、声を殺す棕櫚の姿に、私の胸も鞭打たれる思いじゃった。
「砂座、ご苦労。早々に去れ。」
榊の顔つきが強ばったのを眺めてから、鴉烙は冷笑を称えて言った。しかし砂座は動かない。そればかりか懐から煙草を取り出して火を付けたのじゃ。鴉烙はすぐに笑みを消した。
「なにをしている。早く出ていけ。」
「いや、ちょいと一服ぐらいさせてくれ。」
「貴様___」
「大事なことを思い出すかも知れないだろ?」
その言葉に鴉烙は口元を歪め、私は言葉を失った。
「力の湧く泉のこととかさ。」
「!」
今度ばかりは驚愕を隠すことができなかった。鴉烙は砂座を睨み付けながらも、私の異変をつぶさに感じ取っていた。視線は鋭さを増し、殺気にも似た威圧感が部屋中に広がった。
「なんだと___?」
「力の湧く泉を捜してるんだろ?教えてやろうか。」
それは隣近所の家でも知らせるような軽い物言いじゃった。それからのことは正直良く覚えていない。それほど怒り心頭で、何を言ったか判然としないほど私は砂座に怒鳴り散らした。鴉烙の一念で胸が締め付けられ、呼気がままならなくなるまで、私は我を忘れていた。しかしそうじゃろう?なんのために私は沈黙を守り、棕櫚は苦しみに耐え続けたのか。
「貴様が知っているというのか?」
「知ってるよ。でもただで教えるって訳にはいかねえな。」
私の意識は多少朦朧としていた。しかし奴への怒りと、それを一変させる自信に満ちあふれた言葉に叩き起こされた。
「俺、榊、棕櫚、風間、この四人の契約を解け。それが条件だ。」
そうじゃ。奴は鴉烙相手に駆け引きに出た。命を握られている相手にじゃ。強者と弱者がはっきりとしている関係での駆け引きは無謀。むしろ相手に多大な隙を晒す。私は怒りと口惜しさで唇を噛んだ。
「そんな詭弁を信じられると思うか?冗談も程々にしろ。」
「冗談で済ますならそれもいい。でも実際に俺は知っている。あんたは力の湧く泉に辿り着きたいし、俺はあんたの契約から逃れたい。棕櫚と風間は俺の古くからの仲間だし、あんたも知っての通りこのお嬢ちゃんは棕櫚にぞっこんだ。俺だけ助かるってのはちょっと寂しいだろ。それに、俺が持っている情報の対価としては安いと思うぜ。」
しかし奴には鴉烙よりも先に私が惑わされた。とにかく、奴の言動、立ち居振る舞い、全てに自信が漲っているのじゃ。鴉烙を前にして、あげく命まで握られて、やもすれば胸を締め付けられる痛みが走っているかも知れぬのに、これほど堂々としていられた男を私は知らない。
「ふん___何を言い出すかと思えば。労せずともこの女からじき全て聞き出せる。貴様の戯言に付き合う必要はない。」
「そうか?でも鵺の居場所はこのお嬢ちゃんじゃ分からないだろうなぁ。」
「なに___?」
「それに、力の湧く泉のことも俺の方が詳しくないってなぜ言える?」
鴉烙は横にいる棕櫚の顔を見ていない。俯いた棕櫚の顔は、鼻先まで乱れた髪に隠されているが、血みどろの口でほんの小さく笑ったように見えた。それを見て、私もこの男に全てを任せる気になった。
「どうだい。手始めに鵺の居場所を教える対価で、俺の契約を解かないか?信じないならそれはそれでも結構。俺を殺せば真実は闇の中。棕櫚、榊、風間、このうちの誰かを殺せば俺は___」
と、奴は一刀を抜きさらし、自分の首筋に添えた。
「自分で命を絶つ。」
本気___なわけがなかろう。しかし猿芝居と分かっていても、鴉烙には奴に死なれてはいけない理由ができた。娘への優しさが偽りだとさらけ出しておきながら、鴉烙は白廟泉を求めるのと同じくらい、鵺を欲している。
「貴様___仕組んだか。」
「さあ。俺がそんなに鵺に頼られてるように見えるか?」
このとき鴉烙にはまだ選択の余地があった。だが砂座の自信はさらなる奥の手を想像させるに充分じゃった。実際奴は奥の手を考えていたという。例えば、自分が死んだらその瞬間、同志が鵺の命を絶つ___とか。
「契約を解くのがそんなに怖いか?車椅子の爺さんは、契約がなければ俺みたいな口先だけの男にも勝てないのか?この薄気味悪い虫の中で、小さな天秤を動かして笑ってるだけか?」
鴉烙が動いたのは、その挑発の直後じゃった。
「貴様の話を聞こう。鵺はどこだ?」
「まず。」
憤りを押し殺した低い声で、砂座に問いかける。しかし砂座は己の胸を指さして沈黙した。
「よかろう。」
鴉烙が一枚の紙切れを取り出したのは、長い逡巡の後だった。一念と共に契約書は青い炎に包まれ灰と化し、砂座の体から赤い霧が立ち上ると宙にまみれて消え失せた。と、砂座は胸に手を当て幾度か深呼吸してみせた。
「なるほど、爽快だ。」
「契約は解いた。しかし、貴様の命は必ず絶つ!」
「お〜怖い怖い。」
剛には柔。鴉烙がどんなに怒気を滲ませようと、砂座は全く怯まない。棕櫚が薄笑いした気分が私にも少し分かった。
それから、砂座は鵺の居場所を鴉烙に教えた。すぐに使者が走り、その間この血の臭いが充満した部屋でひたすらの沈黙が続いた。砂座は煙草を吹かし続け、鴉烙はただ彼を睨み、私は棕櫚の身を案じていた。砂座には言葉一つ掛けなかった。
やがて使者が戻った。鵺を連れ戻ったわけではないが、彼女は確かにいた。監禁されているわけでもなく、煉の東楼城で妖人たちに紛れて過ごしていたというのじゃ。
つまり、砂座の言葉が真実だと証明された。
「次はお嬢ちゃんの契約だ。対価は力の湧く泉のこと。なぜ俺やこのお嬢ちゃんが泉のことを知っているかだ。」
次の取引が始まった。鴉烙は舌打ちしながらも、新たな契約書を灰に変えた。砂座の言葉が真実ならば、確かに契約解除は対価として安い。こうして私の胸に蔓延っていた痛みの源は消え失せた。それは体に合わない小さな服を脱ぎ捨てたような開放感じゃった。そして砂座は、鴉烙に急かされるまでもなく語り出す。
「この嬢ちゃん、榊は棕櫚のことが好きだ。でもひょんな事から棕櫚の植物の中でも厄介者の寄生草に体を蝕まれた。それこそ半死半生を彷徨い、もう生きる手だてはないってところまで追い込まれた。彼女のために必死になって治療法を探した棕櫚は、古い巻物から力の湧く泉の存在を知った。だがそんなものが本当にあるのか?そもそもその巻物には場所を示す印か汚れか、そんなものがいくつもあってはっきりしない。棕櫚は榊の仲間と共に、手分けして白廟泉を探した。でもこいつはご覧の通り、不運にも皇蚕に出くわしてあんたに捕まった。だから、棕櫚は泉のことは知っていてもその場所までは知らない。なら泉を見つけたのは誰か?」
鴉烙は押し黙って砂座の言葉に耳を傾けている。ただ、殺気だけは消えることがなかった。
「あんたも甲賀から聞いただろう?紫色の髪をした女のことを。泉を見つけたのはあいつさ。あいつは泉の水を持ち帰り、榊に飲ませ、このお嬢ちゃんはたちどころに快復した。でもあいつは榊に泉の場所は教えなかった。なんでか?泉に番人が居るからさ。そしてこの場所を絶対に口外するなときつく口止めされた。だからあいつ、ああ由羅って名乗ってるんだが、あいつは榊に泉の場所までは話していない。だから榊も泉のことは知っているし、その恩恵も受けたが、どこにあるかは知らない。でき過ぎてるか?」
挑発的な問いかけにも、鴉烙は沈黙を守っていた。ただ車いすの肘掛けで頬杖を突き、時折髭をしごいていた。読めない顔じゃった。
「んじゃ、なぜそれを俺が知っているか。それは俺と由羅が同郷だからだ。あいつは俺と一緒に異世界からきた女で、向こうじゃソアラと名乗っている。榊の力で向こうに帰る前、あいつは俺に泉のことを教えてくれた。いざというときの命綱としてな。」
そこで砂座は話をやめた。鴉烙が呻きもせずに彼を睨み付けている間も、砂座は平然と沈黙し続けた。やがて、先に口を開いたのは鴉烙じゃった。
「望みは?」
「次が核心だからな、棕櫚と風間の契約解除。」
そう砂座が言い終わるよりも早く、鴉烙は二つの契約書を灰に変えた。その迷いの無さは、彼が砂座の情報を信用し、重大と判断した証だった。そして砂座も勝負に出た。
「これを見な。」
奴が懐から取り出したのはあの巻物じゃ。後で知った話じゃが、奴はこの取引を考えて仙山から巻物を譲り受けていたという。
「これがさっき話した巻物だ。ここには泉の名前も白廟泉と記されている。そしてこの地図、無数に見える点の中でこいつ、この点が白廟泉のある場所だ。」
そう言った瞬間だった。砂座の意思とは関係なく、奴が首元に寄せていた刀が揺らめき、閃光のごとく走った。血飛沫が舞い、砂座は目を見開いたまま仰向けに倒れた。一瞬の出来事に私はただ呆然とするばかりじゃった。奴の手を別の手が握り、刀を走らせたことに気づいたのは、その手が巻物を奪い取って、いつの間にか現れた男の右腕に舞い戻ったときじゃった。
「良くやった、甲賀。」
冷徹な側近は笑み一つ浮かべず、右手にまとわりつく血を振るい落としていた。
「これであらかたの用意は整ったな。」
驚きは続く。立ち尽くす私の肩に触れた手___鴉烙じゃ。
「口を割らなかった褒美だ。おまえと棕櫚は生かしておいてやる。」
鴉烙は何食わぬ顔で立ち、歩いていた。奴の車椅子は敵に隙を見せるための道具でしかない。もっと言うならば、野心を抱いた家臣を炙り出すための飾りじゃ。その芝居を捨てたのは、完璧になる目処がついたからじゃろう。
「行くぞ。」
甲賀と共に去る鴉烙。皇蚕の肉の蠢きと共に、奴の哄笑が響き渡った。私はただ口惜しさと虚しさで言葉も出なかった。その虚脱感は、もう一度あの男に驚かされてもさして変わらなかった。
「ふう、やれやれ。」
「!?」
何食わぬ顔で、砂座が起きあがった。
「き、貴様___その傷は!?」
「仙山の能力は便利だな。冴えない木刀でも、真っ赤な水が詰まった水袋を破るくらいできる。そういうことさ。」
木刀を名刀に化けさせ、服の襟元には布地に似せた水袋、水の中には赤く染めただけの水。全て仙山の彩りの罠じゃった。砂座はしたたかに、鴉烙の契約から逃れるための仕掛けを張り巡らせておった。
「ま、何とか契約からは逃れられたんだ。良かった良かった。」
「良かったじゃと___ふざけるな!これで鴉烙はより驚異的な存在になる!それに白廟泉には私の命を救ってくれた友がおる___これで奴との約束は踏みにじられた___!」
怒りを露わにしながら、私は砂座の胸ぐらを掴んでいた。耶雲のことを思うと、奴の行動は軽率にしか思えなかった。しかし棕櫚は違った。
「いいえ、榊。彼の選択に間違いはありませんよ。」
棕櫚は自らの力で拘束を解き、傷ついた身体を引きずるようにして私たちの元へと歩み寄ってきた。
「棕櫚!」
「今、俺たちに必要なのは契約を解くことです。自由を得れば、後は鴉烙と生身で戦うことができます。白廟泉に辿り着く前に止めれば良いんですよ。」
そこまで言って、棕櫚は身体を支えていられなくなった。血にまみれた身体を抱き留め、私はそのまま尻餅をついた。
「ごめんなさい。辛い思いをさせましたね。」
「___何を言うか!」
それからどんな言葉を話したかは良く覚えていない。とにかく棕櫚に慰められるまで噎び泣いていた気がする___
「やれやれ、お熱いこと___ん?」
しかし、感傷に浸っていられる時間は短かった。
ブムオオオォォォ___
「なんだ?」
皇蚕の肉壁が蠢き、飛沫を放つと、鼻につく匂いが広がった。それは察するに皇蚕の尿じゃ。生命は身に巣くう毒素を、尿に変えて出すと言われる。皇蚕の尿は我らを昏倒させるほど強い毒を秘めていた。この虫の全てを知る鴉烙が、皇蚕の排泄口を塞ぎ、尿を体内に逆流させたのじゃ。
「これが___鴉烙のやり方か___!」
そして、景色が暗転した___
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