3 旅立ち再び
ダ・ギュール。その男はアヌビスの側近中の側近。アヌビスの全てを知り、アヌビスが全てを委ねることを許す存在。表舞台にほとんど姿を現すことなく、陰となりアヌビスを支え、彼のために身を尽くす魔性。それがライの知るダ・ギュールの全てである。だが実のところ彼は、ジェイローグとレイノラを引き裂いた張本人であり、天界の生まれという因果の持ち主でもある。この長い戦い、その起源の一石を投じた一人といってもよい男である。
それがなぜ、中庸界に現れたのか?
「なんで___何でおまえが中庸界に!」
ライの体は痛々しく血で濡れている。それでも彼は、ダ・ギュールに臆することなく言い放った。紫紺の神官帽がゆっくりと傾くと、フィラは生唾を飲み、ミロルグもフローラを治療する手を止めざるをえなかった。
「答えが必要か?」
気配が、言葉そのものが殺気である。低音が腹に響くと、頸椎を鷲づかみにされるような悪寒が走った。唯一、アヌビスに触れたライだけが、問いただす気迫を宿していた。
「この世界は僕たちの故郷だ!」
怒声が響いた。あれほど騒ぎ立てていたアレックスが沈黙している。ダ・ギュールの影ではっきりとは見えないが、おそらく彼もこの殺気に言葉を失っているのだろう。
「冥府の住人たちのペットが消えた。アヌビス様から探せとの命を受け、見に来た。そして答えを知った。」
ダ・ギュールの足もとには、焼け残ったザキエルの手が転がっていた。しかしダ・ギュールが視線を落とすと、それは簡単に破裂して消えた。
「用は済み、私は帰る。貴様に問題はあるか?」
ない___いや、大ありだ。超龍神が倒れ、アヌビスを一度は退け、ソアラが天界に旅立ったとしても、中庸界は敵の手の及ぶところではない。そう考えていた。なのに敵の腹心が何食わぬ顔でそこにいる。
その気になればこの世界を滅ぼすことなど造作もないという顔で。
「問題ない___」
だが今は恫喝を受け入れるしかない。自分も仲間たちも傷ついている。挑んで勝てる見込みは万に一つもない。今はただ、言葉通り立ち去ってくれることを願うしかない。
「___」
長い対峙。敵意と苦渋の入り交じった弱者の顔で、ライはダ・ギュールを見続ける。少しでも目を反らせば首を刎ねられるのではないかという切迫感があった。
「では帰ろう。」
ダ・ギュールが自ら目を反らし背を向けるまで、ライの体は微動だにしなかった。解放とともに彼は深い息をつき、目を閉じて胸を撫で下ろす。ソアラならば敵が後ろを向けたときこそ警戒の目をとぎすますだろうに、素直な彼はすでに弛緩していた。
「だが、アヌビス様に土産を持たねばな。」
その言葉は地獄の宣告にさもにたり。
「なっ?」
驚いて顔を上げたライは、ダ・ギュールが背を向けた理由を知り、蒼白になった。奴は二極の狭間に立ったのだ。ということは、その見る先には___
「アレックス!」
ライが絶叫する。
「来るか?少年。」
ダ・ギュールが呟く。見下ろすのは黒髪の少年。
「うあああ!」
踏みとどまれと言っても無理だったろう、ライは剣を振りかぶって飛び出した。ダ・ギュールは背を向けている。しかしローブの内側の右手だけは、捻れて後ろを向いていた。それに気づいたのは、一人だけだった。
バシュッ!
肉を食らう音は鈍く、光線は皮膚を裂くように走る。血は、横っ飛びでライをかっさらったデイルの大腿で弾け飛んでいた。しかし先輩の呻き声も、力ずくで押さえつけられた体も関係ない。ライの思いはその先にある。
「来い。」
ダ・ギュールの声に誘われるように、少年は紫紺のローブに包まれた。彼は、父を拒んだアレックスは、ダ・ギュールを拒まなかった。まだ冷気の残る床に押さえつけられて、ライはその瞬間を見ていた。
もう自分でも何を叫んでいるのかわからない。実際に言葉になっていなかった。しかし、ダ・ギュールとともにアレックスが消えた。それだけは何よりも明白に、彼の脳裏に刻みつけられたのである。
ダッ___
ダ・ギュールが消え、デイルが力を緩めるとライは彼を弾き飛ばして立ち上がり、アレックスのいた場所へと駆け寄った。しかしそこには何も残っていない。彼を思い起こさせる証となるような、布の切れ端一枚落ちていなかった。
「___アレックス___!」
ライはその場に崩れ落ち、正座のような形になって膝に爪を立て、こらえきれずに泣いた。声を殺しながら、唇をかみながら、それでも溢れ出る涙を止めることができなかった。一度ならず二度までも、我が子を目の前でさらわれた屈辱。己の無力さに打ち震える背中に、フィラも、傷ついたデイルも、言葉をかけることはできなかった。
しかし、敵は悲哀を嘆く時間も与えてくれない。
「何もせずに帰ることが、私らしいとは思わない。」
クーザーの空に漂い、傍らにアレックスを抱いて、ダ・ギュールが指を鳴らした。異変はすぐに始まる。
ゴゴゴゴゴ___
地鳴りの音。大気の振動。それがほんの一瞬ピタリと制止した直後、クーザーは輝きに包まれた。破壊の光には所々黒が差し、町の各所に暗黒の火柱を吹き上げる。世界最古の国、法王堂に守られた不可侵の国、女性元首が統べる美しい国。クーザーの長き伝統は光と闇の中で滅びゆく。
「ああ___あああ___」
そのとき彼らは空にいた。ダ・ギュールが消え去った空で、ミロルグの魔力に守られながらクーザーの最期を見下ろしていた。
「うあああ___!」
激しい爆音。それさえも掻き消すようなフィラの号泣が、虚空に響き渡っていた。
戦い終えて、彼らはクーザーに近い都市、カーウェンの宿にいた。代わって滅びの都市クーザーに向かったのは白竜自警団の面々。最近は体調を崩すことも増え、名誉団長へと職を転じたギュッター・マイア老師のつてを頼りに、ライが事の次第を伝えた。そして自警団の面々はアモンとニーサと共に、生存者を捜しにクーザーへと発ったのである。もっとも、クーザーの生き残りはすでに百人ほど救出されている。ダ・ギュールの気配にいち早く気づいたニーサの機転で、彼らは救われたのだ。
「___」
しかし重苦しい雰囲気に変わりはない。フローラはまだ意識朦朧としてベッドに横たわり、傍らにはライが座って互いの手を取り合う。フィラはベッドに俯せに倒れ込み、デイルは窓辺に椅子を引いて煙草をふかし、ミロルグでさえ休息を求めてソファに寝転がっている。ひたすらの沈黙が続く。決して大きくない部屋に五人で、ただ押し黙り続けた。
夜になって、長い沈黙を断ち切ったのは窓から差し込んだ一筋の光だった。
「ん?」
窓辺にいたデイルが空を見上げる。夜空にひときわ大きな光。流れ星か?それが瞬く間にどんどん大きくなって___
「うおわっ!?」
たまらずにデイルは椅子ごと倒れた。大きな光が開いた窓から部屋の中に飛び込んできたのだ。疲労と微睡みの中にあった四人も、驚いて顔を上げた。
「魔力___」
ミロルグが目を細めて呟いた次の瞬間、光がはじけた。
「!?」
現れたのは誰しもが目を疑った三人組。
「久しぶり!」
溌剌と手を挙げたのはソアラだった。さらには百鬼、ミキャックまでいる。
「ソアラ___!?」
突然の来訪にフローラが上ずった声で叫ぶ。しかし疲弊からか皆の顔はそれほど晴れやかでなかった。
「どうしたの___天界に行ったって___それに百鬼、ミキャックまで___!」
いつもの元気なら飛び起きて握手くらいするであろうフローラも、今日ばかりは体が重い。まして次のソアラの言葉は、傷ついた体に一層堪えるものだった。
「会いに来たのよ___これが今生の別れになるかもしれないから。」
フローラは言葉を失った。我が子を失ったこの時に、久しぶりにあった親友からそんな言葉は聞きたくなかった。
「話せば長くなるんだけどな、俺たちはまた旅に出る。しかも今度ばかりは生きて帰ってこれるかもわからない。だからせめておまえたちには伝えておこうと思ってさ。」
百鬼はいつもながらの強い意志を滲ませて、力強い笑みを見せた。しかし皆にはそれに答える愛想笑いさえない。
「?___どうしたの?」
沈鬱なライとフローラを代わる代わるみて、ソアラは笑みを消した。
「敵は___アヌビス?」
ライが絞り出すような声で尋ねる。彼らしくないいじけた問いかけにソアラは首を傾げながらも微笑んだ。
「そうよ。ただ今度は___っ!?」
簡潔に答えた瞬間、ライはソアラの肩に掴みかかって彼女を驚かせる。息を飲むソアラと、息を荒らげるライ。二人の視線が交錯し、ライは顔を真っ赤にして叫んだ。
「僕も連れて行って!」
___
「それで、戻ってみればこの大所帯か。」
舞台転じてドラゴンズヘブンの庭園へ。ようやく目映い青さを取り戻した空を背に、黒髪を靡かせるレイノラは怪訝な顔で言った。眉間に力の籠もった目で、ソアラの後ろに居並ぶ面々を眺めた。
「放っておけなくて___でもライとフローラは一緒に旅をしてきた仲間だし、ゼルナスだって___!」
ライ、フローラ、ゼルナス。天界にやってきたのはこの三人。デイルは始めからそんな意志はないし、ミロルグも中庸界に留まることを望んだ。
修羅の道を選んだ三人の前で、ソアラは必死に弁明する。しかしレイノラの左目にはますます怒気が籠もるばかりだった。
「友人に別れを告げに行くことは許した。でも、連れてくることまで許した覚えはない。これからの戦い、戦力として目処が立つのはおまえだけ。弱者の群れは死人を増やすわ。」
「っ___」
手厳しい。辛らつな言葉にソアラは押し黙った。
ライとフローラの悲劇にソアラは突き動かされた。ダ・ギュールへの怒りがこみ上げ、アレックス救出への思いが燃え盛った。百鬼とミキャックも彼らの同行に賛成したし、話を聞けばレイノラだって納得してくれると思っていた。
「彼らの命を思うなら、すぐに中庸界に帰しなさい。」
だが甘かった。この先にある敵、Gに挑むことの恐ろしさを知る彼女の言葉はことのほか重い。しかし我が子を失った夫婦、祖国を失った王族の思いもまた計り知れず重かった。
「僕は絶対に帰らない。」
闇の女神を睨み付け、敢然と言ったのはライだった。レイノラが漆黒の左眼で凍り付くような視線を浴びせても彼は一向に怯まない。
「アレックスを取り戻すまではソアラに付いていく。」
「命を落とすことになるわ。断言してもいい。」
「生き残ってみせる。いや___例え死んだとしてもこのままじっとしてなんていられない!」
ライからそんな言葉を聞くとは___彼はアヌビスに挑み続けたメンバーの中で、誰よりも命を尊んできた。誰かが犠牲になるのではなく皆が生き残ることを望んできた男の変貌。ソアラは彼に父の強さを感じた。
「わからない?」
だがレイノラは情熱だけで動かせる人物ではない。ジェイローグとの激情を乗り越え、彼女は黒麒麟の冷酷な顔を取り戻しつつあった。
「足手まといだと言っているのよ。おまえが生き延びても、その傍らで誰かが死んでいる。おまえが弱いために。」
「なら僕は強くなる!」
ライの思いはレイノラの壁に真っ向から挑む。彼女を閉口させるほど、ライの問答は子供じみていた。しかしそれが彼なのだ。
「戦いに足手まといだといっても、ソアラの力になることはできます。それに___」
そして彼を一番理解しているのがフローラ。実直な夫を支えるように、彼女は熱を込めて続けた。
「私たちはあなたよりもソアラのことを知っています。」
その言葉にレイノラは一瞬目を白黒とさせ、すぐに失笑した。
「なら聞こう。おまえたちの前にアレックスが現れた、しかし彼を追うと我々の目的が達成されない。おまえたちはどうする。」
「アレックスを追う。」
ライが即答する。利己的な答えにソアラは気まずい顔をするが、思いがけず闇の女神は笑い出した。
「フフ、大した性根だ。それでソアラを助けられるだと?」
ライはハッとして口に手を当てるがもう遅い。慌てたところでレイノラの顔を見れば次の答えは明らかだ。いつの時代も女神の微笑は喜びをもたらす。
「命の保証はない。それでも良ければ同行を許そう。」
「本当に!?」
「私に二言はない。」
ライはフローラの手を取って喜びを分かちあう。二人が持つ独特の微笑ましさ、暖かみはレイノラにとっても心地よいものだった。だからこそ、ソアラの力になれるという言葉を信じることもできたのだ。
「さて、もう一人。」
先程よりも穏やかな目で、レイノラはゼルナスを見た。
「あたしは二人みたいに深刻な理由じゃない。でも深く傷ついたときは好きな男の側にいたいんだ。あんただって女だったら分かるだろ?」
「それで黄泉に?」
「あいつはソアラと一緒に黄泉に行った。お互い納得しての別れだったけど、あたしはあいつのことを思わなかった日はない。」
そう言うなり、ゼルナスは首にかけたロケットの蓋をずらしてレイノラに見せつける。そこに写った男の調子の良さそうな風体は、ジェイローグとはほど遠い。しかし彼女の境遇に自分と近いものを感じたレイノラは、望みを簡単に受け入れた。
「そういう情熱は嫌いじゃない。改めて言うが、死んでも良ければ付いてこい。」
その答えにもゼルナスは笑み一つ見せず、ただ強い決意を胸に頷いた。ソアラはホッと胸をなで下ろし、レイノラは戦力としての評価は別として、気持ちのいい人間が増えたことを喜んでもいた。
「___」
一方、そのやりとりを城のテラスから見ていた長身の人影が一つ。
「ようミキャック。」
「!」
不意に背後から声を掛けられ、ミキャックは思わず羽を膨らませた。慌てて後ろを振り返ると、そこでは百鬼が首を傾げていた。
「どした?」
「な、なんでもない。ああ!ライたちも一緒に行けるみたいよ!」
「そりゃ良かった。これでサザビーがいればメンバー勢揃いだな。」
「!」
サザビーの名を聞いただけでまた羽が膨らんだ。テラスから眼下の皆に呼びかける百鬼の横で、ミキャックはただ平静を装って視線を送る。ささやかな愁いを含んで見る先にはゼルナスがいた。
それから数日が過ぎ、ドラゴンズヘブンの謁見の間には戦士たちが並んでいた。ついに旅立ちの時が来たのである。
「いよいよだな。」
洗濯して白さを取り戻したバンダナを巻き、百鬼が言う。彼の腰にはこちらで調達した剣と、刀身半ばの龍風があった。好奇心旺盛なソアラが刀のことを問わないはずもないが、彼は色々とはぐらかしていた。なにしろ敵のために一刀拵えたと知れたら大問題である。
「またあの世界に行くと思うと___少し気が滅入るところもあるけどね。」
旅立ち前に身を清めるのも女の嗜みか、ミキャックの長髪は石鹸の甘い香りを漂わせていた。しかし色香にも似た芳しさとは裏腹に、龍の鱗を模した胸当て、身の丈以上もある三つ又槍は勇ましさに溢れている。
「そんなに凄いところなの?」
フローラが不安と期待の入り交じった声で尋ねる。久方ぶりの旅装束も違和感なく、数日のうちに魔力も全快して体調は万全。ここ暫くはドラゴンズヘブンの武器庫で見つけた弓矢が手に馴染むよう、訓練の日々だった。
「まあ凄いっていえば凄いよね。」
「ねえ。」
ソアラが振り返ってつかみ所のないことを言うと、ミキャックも頷く。レイノラを除けば二人だけが知る黄泉のこと、フローラたちにもそれなりの説明はしたが、あの殺伐とした感覚を伝えるには言葉では足りない。
「とにかく肌で感じたらわかるよ。ここは危ないところだって思うから。」
そう言うと、ソアラの手には図らずとも力が籠もった。右にリュカ、左にルディー。彼女の両手は塞がっていた。旅立ちの日にまさかこうして子供たちの手を取ろうとは、ソアラは夢にも思わなかった。
「そんなところに行ってアレックス大丈夫かなぁ。」
若い父親にありがちな心配性だが、それがライを突き動かすパワーにもなる。しかしこの心配は少々的はずれだ。
「黄泉にいるかどうか分からないよ。冥府ってのがアヌビスの故郷なんだろ?」
「あーっそうか!」
今頃気づいたか。相変わらず痛いところを突くゼルナスの言葉におたおたするライ。
ゴチッ。
特効薬には百鬼の拳骨が丁度良い。
「落ち着けっ。どちらにしたってアヌビスを倒せばすむことだろ。」
「あ、そうか。それもそうだね。」
変わり身の速さは昔から。悲しみを乗り越え、ライもようやく調子が出てきたようだ。
「本当はあんたたちも連れていきたくないんだけどなぁ。」
ソアラは腰をかがめ、冗談半分の笑みで子供たちを見やった。するとすぐさま手を痛いくらいに強く握られて___
「絶対行く!」
この一点張りだ。
「ハイハイ、分かってる。しっかりお母さんを助けてね。」
「まっかせてよ!」
「浮気者のお父さんよりはずっと役に立つよ。」
「なんだとルディー!?」
明るい笑いが謁見の間に広がった。
「なんだか緊張感ないね。サーカスのキャラバンみたい。」
「だから厳しい旅でもへこたれないんじゃない?」
見送り役のトーザスとロザリオも、これから地獄の旅路に臨むとは思えない明るさに拍子抜けの様子である。
「ピクニックのつもりか?」
しかし旅一座でも、座長の一言で場の空気がピリリと締まるもの。それは彼らにしても同じだった。何しろ相手は竜神帝と双璧を成す神様である。リュカとルディーでさえレイノラが現れると自発的に手を放した。それは彼らの成長の証でもあった。
「まあ良い、それがおまえたちの武器だというのはこの数日で分かったつもりだ。」
これまでのドレス姿とはひと味違う。黒い生地に所々宝石など散りばめ、高貴な印象を残しながらも身軽さを得たレイノラの姿に、皆は襟を正した。
「いよいよ今日、黄泉に立つ。目的は今更言うまでもないが、アヌビスをGに近づけないこと。だが___我々は大きく後れを取った。」
実に冥府の脅威が去ってから一月以上の時が過ぎていた。しかしそれは天界の復興と、体力の回復のために必要な時間だった。
「冥府の侵攻の時間も含めれば、アヌビスに与えた自由は大きい。黄泉に行き、まずやるべき事は情報を集めることだ。我々がこちらにいる間、奴は何らかのアクションを起こしているに違いない。」
楽観視できる要素は何もない。アヌビスはすでに限りなくGに近づいているだろう。あわよくばGを封じる十二神の世界、黄泉の裏側に辿り着いている可能性さえある。
「そこでまずはあたしが親しくなった妖魔、榊っていうんだけど、彼女のところで今の黄泉の状況を把握して、アヌビスの動きを追いたいと思うわ。」
「棕櫚じゃないの?黄泉って棕櫚の故郷だよね。」
「バルバロッサも。」
「棕櫚には会えたわ。その___彼と榊は恋人みたいなもんなんだけど、色々あってちょっと今はどこにいるのか___バルバロッサにはミキャックが会ってる。彼は黄泉の権力者に命を握られてて、サザビーも成り行きで同僚になっちゃったみたい。」
ゼルナスはすでにソアラから聞いていたのだろう。ちょっと眉をひそめただけで、大きな驚きはなかった。
「榊は黄泉の中でもそれなりの地位にある人だから、頼りにするには申し分ないわ。嫌がられるだろうけど、きっと協力してくれる。」
実際にこれだけの大人数で押しかけて煙たがられないわけがない。しかし彼女も白廟泉を知る人物。もはや因縁浅からぬ関係である。
「そういうことだ。ともかく、おまえたちにはなるべく早く黄泉に慣れてもらいたい。そして時間の許す限り、強くなるための努力をしなさい。でなければ死ぬ。」
もとよりそのつもりだ。威勢の良い子供たちだけでなく、ライと百鬼も声を大にして「はい!」と答えた。
「よろしい。では最後に一言、この戦いは生き残ることが勝利ではない。万が一にGの力がアヌビスの手に渡るようなことがあれば、それは世界の滅亡を意味する。自らの命を賭してでも、Gの復活を阻止し、アヌビスの野望を打ち砕く。それが私たちの使命だ!」
「はいっ!」
全員の声が揃う。個々の力は決して強くない。しかし可能性を感じさせる結束に、レイノラは心地よさと同時に苦心を抱いた。
(彼らには中庸界を牽引するだけの意志の力がある___これほどの者たちをGへの捨て石にする___それはあまりにも惜しい___)
しかし致し方ないことだ。口では厳しいことを言う。だが全員が無事でいてくれれば良い、そう思っているのはレイノラも同じだった。
「では、先に竜の尾で待ちなさい。私はソアラと後から行く。」
「え?あたし?」
ソアラはキョトンとして問い返した。
旅立ちを前にして、レイノラはソアラをドラゴンズヘブンのとある部屋へと連れてきた。そこは本城からは少し離れた一角で、倉庫のようだった。
「なんですか?ここ。」
明かりのない部屋は真っ暗で、近くの木箱に手を触れれば指が埃まみれになる。煙たそうなソアラを気にもとめず、レイノラは不橙火虫のランプを片手に奥へと進んだ。そして一つの荘重な木箱の前へ。
「衣装ケース___ですか?」
「最強の竜の使いを知っているか?」
「はい?」
レイノラはソアラの問いかけもかまわずに、木箱の蓋に手をかける。
「竜の使いにも戦闘力に秀でた者と、特殊能力に秀でた者がいる。その中で、最強と呼べる竜の使いが誰かわかるかしら?」
「あたしは竜の使いの系譜をほとんど知らないんですよ。分かるわけないじゃないですか。」
一方的な問答に、ソアラは少しだけ語気を強めて答えた。
「我が子、セティ・ウィル・クラッセンよ。」
木箱が開く。その瞬間、ソアラの目に映ったのは竜の瞳の輝きか。
「彼女は強く、まだ年端もいかない若さで神々に勝るとも劣らない力を発揮した。己を磨けばもっと強くなることもできた、そう思う。でもあの子はGとの戦いで深く傷つき、戦うことをやめた。ともにGとの戦いを生き残った天族と恋に落ち、多くの子を残した。」
「へぇ___」
彼女と言った言葉が途中で「あの子」に変わった。そこにレイノラの愛を感じたソアラは、自然と優しい笑みを浮かべた。そしてふと気が付く。
「あっ、ということはレイノラさんはあたしの遠い遠いおばあ___」
闇の奥で彼女の右目がキラリと光ったように見えた。
「___じゃなくて、お母さんってことですね。」
慌てて言い直すと闇の女神は小さく微笑んだ。一瞬冷や汗を掻いたソアラだが、そう思うとこうして彼女の背中を見るのはなんだか感慨深い。血縁は遙か遠くとも、今自分の目の前に血の繋がった人物がいる。考えただけでたちまち切なさが溢れてきた。
「その___たまにお母さんって呼んでいいですか?」
甘えを許さない人だから、怒られるかもしれない。でもソアラは何度か躊躇いつつ、思い切って問いかけてみた。
「これをご覧。」
あぁ、胸を高ぶらせて言ったのにレイノラの素っ気ないこと。しかし彼女の取り出した逸品に、ソアラの目はキラキラと輝いた。
「これって___服?」
服___なのだろう、しかしまるで生き物のようだ。青い布地で作られた服には、空を駆けるような竜の姿が刺繍されている。深い緑の鱗が鮮やかな竜はあまりにも生物的。それを目にしたとき、ソアラは一瞬服であることを疑った。
「竜装束、ドラグニエル。セティのために作られた戦闘服よ。」
「戦闘服___」
レイノラは徐にドレスを広げる。胸元で力強い眼光を宿す竜に、ソアラは背筋の張りつめるほどの力強さを感じた。これは竜の描かれたドレスではない。ドレスの中に竜が棲んでいるのだ、そう思いたくなるほどに。
「生き物みたいですね。」
「着てごらんなさい。」
レイノラから渡された竜装束をソアラはそのまま体に宛ってみる。セティが小柄だったと良く分かるサイズだ。
「これはあたしが着るには小さいですよ。」
「いいから着てごらん。」
「でも___はみ出しますよ。ほら、あたしこう見えて結構___」
「着なさい。」
「っ___」
そう高圧的に言われると逆らえない何かがこの人にはある。いや、神とか何とか抜きにして、そういう気質の持ち主なのだ。
「あの〜、やっぱりきついんですけど。」
体を通すことはできたが、胸の辺りの結い紐はどうにもならない。丈も明らかに短いのだが、そんなソアラの姿を見てレイノラは満足げに頷いている。
「いいじゃない。」
「変態趣味ですか?」
「違うわよ。そのまま光ってごらん。」
ソアラは不服そうに口を尖らせてから、上下を隠していた腕を広げて気を静める。そして一気に黄金に光り輝いた。強い波動が内側から噴き上がり、服は今にもはち切れんばかりに膨らんだ。
「え!?」
と、その時である。青地の布がソアラの黄金と同調するように光を纏い、猛々しい輝きの炎を吹き上げた。それだけではない、光の中で刺繍の竜に生命の輝きが宿り、その眼が動き、吐息を漏らし、蠢いたのである。
「これは___!」
錯覚ではない。ドレスの竜は生きている。強い熱を帯びた大蛇が体を取り巻くような感覚、それは本来なら恐怖すべきものである。しかし竜が放つ生命の力は、ソアラの持つ光の輝きを一層高めている。それが分かったから、彼女はドレスの竜を受け入れた。
「さすが。」
レイノラがそう呟いたとき、ソアラの輝きは落ち着きを取り戻していた。そして小さすぎたドレスはいつの間にか彼女の体をしなやかに包み込んでいた。
「___」
やがて紫の髪が流れる。ソアラのドレスは空のような青から紫紺に変わり、滑るような深緑の竜は目映いばかりの黄金竜へと変貌を遂げていた。
「ドラグニエルは生きている。古代の竜族の魂が装束の中で生きているのよ。そして、古代の竜はおまえの力に触れ、竜族の末裔であると認めた。だからおまえに合った形に変わったのよ。」
ソアラはレイノラの言葉を一つ一つ噛みしめ、ゆっくりと胸の刺繍に手を当てる。自分の鼓動の中に、黄金の竜の力強い息遣いが聞こえてくるようだった。
「おまえが成長すればドラグニエルも成長する。これからは共に戦いなさい。必ず助けとなるはずよ。」
「はいっ!」
快活に答えたソアラの姿。その活き活きとした表情がセティによく似ていたものだから、レイノラは血縁を感ぜずにはいられなかった。
「さあ、出発よ。私も支度をしてくるから、先に竜の尾へ行きなさい。」
「わかりました!ドラグニエル、ありがとうございます!」
「娘に可愛い服を着せるのも親の楽しみ。そうでしょう?」
その言葉に込められた意味に胸の空く思いだったソアラは、たちまち満面の笑みになって声を上擦らせながら言った。
「はい!お母様!」
そして彼女は小躍りしながら去っていく。薄暗い倉庫に目映いばかりの紫の息吹。その余韻を感じながらレイノラは自重の笑みを覗かせた。
(ま、これくらいはハッパを掛けてやらないと。)
黒いドレスに付いた埃を払い落とし、彼女もまた倉庫を後にした。
旅立ちの時は来た。だが、レイノラにはまだやるべき事があった。
「___」
光り目映い竜神帝の寝室。石の胎児からは些細な念を感じることもできない。しかし竜神帝の生命が完全に潰えたのではない。彼は今、己の持てるすべてを命の継続に費やさなければならないだけ___レイノラはそう信じていた。
「さよなら、ジェイローグ。後は私に任せて。」
横たわる胎児の前に、レイノラは花を捧げた。それは強い光の中でのみ育つという天界の花。ソアラの母であるネメシスが、水虎の鋼城で育てようとしたあの花と同じ物だった。
花の名はヴェラ・ルフィス。花言葉は永遠の愛。
「愛してる___ジェイローグ。」
眠れる胎児にそっと唇を重ねる。その時、石のように硬直していた未熟な指先が、少しだけ動いたように見えた。
「___」
いや、そんな気がしただけだ。何も変わらない帝の身体をしばらく見つめ、もう一度柔らかな唇を重ねてレイノラは立ち上がった。思いを断ち切るようにそのまま背を向ける。
(さよなら___)
背に掛かる言葉はない。そのまま一気に部屋を出ると、レイノラはもの悲しさを断ち切るように走った。頬を伝う一筋の涙と共に、彼女は決意を新たにする。
竜の尾へ。再び黒麒麟へと舞い戻り、目指すは黄泉、そしてアヌビスを倒すべくその先へ。
「あっ!来た来た!」
「レイノラさ〜ん!」
明るい声が呼んでいる。ジェイローグの息吹その身に宿し、アヌビスと戦ってきた戦士たちの声が。
彼らの笑顔を見て、レイノラは愛する人に誓うのだ。
(必ず、またあなたの元に帰ります___もちろん、全員で。)
さあ!いざ黄泉へ!
いざ新たなる戦いへ!
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