2 血の匂い
頭知坊の登場は戦況を一変させる。
「うおおおお!」
頭知坊が動き出すよりも早く、ライは剣を振りかぶって跳躍していた。鋭い太刀筋。地下水路で蛙を一刀両断した刃が唸る!
「っ!?」
しかし頭知坊には届かない。床に広がった糸が一気に跳ね上がるとたちまちライの体にからみつき、腕ごとグルグル巻きに締め付けたのだ。
「うぐあっ!」
そのまま床に叩きつけられるとライは酷く喘いだ。それほど痛烈な打撃には見えないが、彼の苦悶は顕著だった。
「はっ!」
一連の動きを唖然として見ていたフィラは、赤く染まっていく糸に気づいて息を飲んだ。
「ガラス!割れたガラス戸の破片か___!」
頭知坊がガラス戸を破っても無傷だったのは、粘着性の糸が破片をあらかた掃除していったからだ。そしてライはガラスの破片を纏った糸に縛り付けられている!
「ありがとう頭知坊、助かったよ。」
「おお、坊主か。こいつらに襲われたのか?」
いつのまに!少年が頭知坊の太い足に縋り付いた。頭知坊も知った顔で彼の頭に手を乗せる。その光景にフィラは苦虫を噛む思いだった。
「そうさ!あ〜憎ったらしい!僕をあんなに怖がらせて___!」
少年はライが動けないと分かると彼に近寄り、思い切りその頭を蹴飛ばした。一回、二回、蹴って、踏みつけて、ひたすら鬱憤を晴らす。悪魔的な光景を前に慄然としたフィラだったが、怒りはすぐに彼女を奮い立たせた。
「___ふざけんな___胸くそ悪いんだよ!」
ガキを引きはがして糸を焼き切ってやる!___この場で火炎呪文を選んだ判断は的確だったが、第三の敵に気づくほど彼女の視野は広くなかった。
「!」
魔力を高ぶらせたその時、突如として目の前に現れたのは色鮮やかなオウム。カルコーダの嘴はすでに全開だった。
「クァァァァッ!」
絶叫がフィラの全身を駆けめぐった。
「ひっ___うぅぐああっ!?」
フィラの体から赤い蒸気が滲み出る。それは体内で暴走する彼女自身の魔力か。ミロルグをも一撃でノックアウトした誘魔術に、彼女の体も力無く崩れかけた。
「ぐっ___!」
しかし彼女は倒れない。立て膝で踏みとどまると、目前で悠々と羽ばたいていたカルコーダに掴みかかったのである。なぜ耐えられたのか?誘魔術の威力は使い手が蓄えた魔力に比例する。魔導師として未熟だからこそ、フィラは誘魔術に耐えることができたのだ。
「クィッ!?」
自分の攻撃に自信がありすぎたのだろう、カルコーダはやすやすと片翼を捕らえられた。
「いってえなこの野郎!」
およそ元女王とは思えない罵声を吐いて、ゼルナスはその手に渾身の力を込めた。そしてカルコーダもまた、必死の形相で赤い羽根を舞い散らす。
「!?」
一人と一羽の狭間に壮絶な火柱が立ち上る。火炎はすぐにゼルナスの全身に燃え移った。
「やった!」
薄暗い謁見の間に煌めく人の火柱。華やかな見せ物に少年が歓喜の声を上げる。ライは糸に捕らえられ、フィラは火炎の中に___カルコーダが片翼をへし折られたが、戦いの勝敗は決した。そう思われた。
ビュッ!
頭知坊が破壊したガラス戸の向こうには小さなテラスがある。彼らにミスがあったとすれば、そのテラスに全く目を向けなかったこと。そして魔力に敏感なカルコーダがフィラの対応に追われていたことだろう。
「あっ!?」
戦場を一筋の輝きが駆け抜けたとき、少年は思わず声を上げた。彼の視線の先で、よちよちと跳躍していたカルコーダの首が飛んだのである。ガラス戸とカルコーダを結ぶ線の先には、鋭い矢が突き刺さっていた。
パアアッ!
驚きはそれだけでない、あれほど燃えさかっていたフィラの火柱が突如として強烈な冷気にかき消されたのである。中から現れた彼女は軽い火傷を負っていたものの、まだ自分の両足で立ち、少年を睨み付けていた。
「む!?」
同時に頭知坊もライの糸が焼き切られていることを知る。
「ライ!」
視線が二転三転する。破れたガラス戸から駆け込んできたのは、弓を抱え、着替えも済ませたあの女。彼女の姿に頭知坊は目を丸くした。
「フローラ___!」
血まみれの体でも満面の笑みになったライ。二人はかまわずに短い抱擁を交わすと、すぐにフローラが手を輝かせる。カルコーダはもういない。つまり呪文を使うことにためらいはない。
「形勢逆転だな。」
それはフィラを炎から守り、老翁を威圧しながらやってきたミロルグにとっても、なによりの自由だった。
「ザキエル!」
「ザキエル!?」
少年が狼狽した。しかしもっと慌てたのは頭知坊だ。思わず万歳した細腕から糸を吹き上げたほどである。
「頭知坊___おまえが勝手なことをしなければ全てがうまくいったのじゃ___」
ザキエルはこの期に及んで彼を罵り、不敵に笑っていた。その態度はミロルグにとって不可解であり、頭知坊にとって不愉快だった。
「本当に馬鹿な奴じゃな、おまえは。」
「な、なんだと___!」
「聞こえなかったか?馬鹿だと言ったのじゃ。」
頭知坊の額に青筋が立つ。
「やめろ、それ以上言うな。」
ザキエルの意図を察したミロルグが、炎を宿した手を近づける。しかし、彼は止まらなかった。
「だから言ったのじゃ、貴様は王の器ではない___!」
「うおお!」
怒り心頭。頭知坊の細腕から大量の糸が吹き出し、ミロルグもろともザキエルを襲う。しかしミロルグの漆黒の瞳が煌めくと、彼女の前に炎の壁が立ち上った。糸は炎の中で溶けて消える。
「逃げるなよ。」
「分かっとるわ。」
喧騒のうちに逃げ出すつもりだったろうザキエルを睨み付け、ミロルグは語気を強める。しかし彼の足下から小さなネズミが駆け出していったことには気づかなかった。いや、直後の思いも寄らぬ攻撃で、些細なことに目を向ける猶予を失ったのである。
「!?」
唐突だった。糸でないものが炎の壁を突き破ってきたのである。
「くっ!?」
それは巨大な斧。糸が溶けて消えるなら、それを手の代わりにして物を投げつければ良い。炎の中で解き放たれた武器は、そのまま向こうにいる二人を襲う。
「逃げるでない。」
「っ___貴様!」
飛び退こうとしたミロルグの腕をザキエルが掴んだ。もはや舌打ちする時間も残されていなかった。
鈍い音と共に血飛沫が舞う。それを号砲に、様々なことが一挙に動いた。
ミロルグは右腕を斧に切りとばされた。肘から先は、彼女の動きを止めたザキエルが握っていた。
しかしそのザキエルも、ミロルグの負傷で炎の壁が消えると、たちまち頭知坊の糸に捕らえられた。
駆け寄ったフィラは一歩遅かった。しかし傷ついたミロルグの姿は彼女の眠れる魔力に火を付けた。
溢れ出す膨大な魔力。無我夢中の末に放たれたのは夥しい冷気の波動だった。その威力はヘイルストリームにも劣らないのではないか?壮絶な冷気はザキエルもろとも糸を氷に包みこみ、一気に頭知坊の細腕まで凍てつかせる。
そして飛び出したのはライ。糸を駆け上る氷に頭知坊が取り乱しているうちに、彼は大きく跳躍していた。
ザンッ!
頭知坊の細腕が一つ切りとばされた。四本腕は三本腕に。さらに追い打ちをかけようとしたライだが、切りとばされた細腕の断面からは血でないもの___糸が溢れ出していた。思いがけない事態。ライはまたも敵の糸に捕らえられるのか?
しかしまだフローラがいる。彼女は手負いのミロルグとともに、フィラの背に思いを託していた。魔族の頑丈さは知っているから、フローラはミロルグの治療よりも敵を倒すために魔力を使う。それはミロルグの意志でもあった。
「力を貸すわ、ゼルナス。だからこの戦いに決着をつけて!」
「私の言った通りだろう。君は素晴らしい魔導の才能を秘めている。」
フィラは背に滾る魔力を感じていた。フローラとミロルグの、魔導の先輩たちの夥しい魔力を体に通しても、意識が吹っ飛ぶようなことはなかった。あとはそれを冷気に変えて放てばいいだけ。それでクーザーは救われる!
「凍り付けえぇぇっ!」
絶叫とともに彼女は魔力を放出した。すさまじい冷気は糸を駆け上り、頭知坊の体を芯から凍てつかせていく。
「ぐ!?ぐぎがっ!?」
頭知坊が喘いだ。氷付けの糸に通ずる一本の細腕から、彼の体が氷結していく。
頭知坊の糸、それは蜘蛛の糸であるが、その主な成分は水である。人の体の大部分が水分であるように、彼の体の大部分は糸である。それは彼の武器であると同時に、体を守る鎧であり、なによりも水分の貯蔵庫である。
糸を通じて走る氷は彼の全身に広がる。それは体が内側から凍り付くことを意味していた。
「___」
自分に向かって伸びてきた糸が、雪中の松葉のように凍り付いて動かなくなるとライは足を止めた。目の前に立ち往生する頭知坊の顔には霜が降り、雪像のようであった。糸にからみつかれたまま凍り付くザキエルにもまた、言葉はなかった。
戦いは決着した。天から降った驚異は途絶えたのである。しかし、その遺物がまだここに___
「あ___ああ____」
少年は巨大な氷像の後ろで、へたり込んで震えていた。縋る者を失った彼は迷子のような弱々しさだった。
「あとはあのガキだ___」
憎らしげに呟いたフィラだが、魔力の消耗の激しさでよろめいてしまう。
「だからやめようってば。あの子は悪い子じゃない。」
倒れかけたフィラを支え、ライが戒めるように言う。例えそれがどんな人物であれ、恐怖に震える幼児の命を奪うなんて事はできない。それはフィラにも分かっている。ただ分かっていても憎らしいから、彼女は大きな舌打ちをしてライに身を預けた。
「確かに、もう戦意はないようだ。」
切り飛ばされた片腕を何食わぬ顔で凍り付けのザキエルから引きはがし、ミロルグは言った。夥しい血が溢れ出ているが、それでも平然としていられるのが魔族の強さか。
「フローラ、頼めるか。」
「ええ、もちろん。」
とはいえ傷の治療をフローラに頼むあたり、彼女の魔力もそろそろ限界のようである。
「まずはアレックスだ。そうだろう?」
「ええ。この城のどこかにいるはずよ。」
「それなら先にアモンの爺さんと町のモンスターを一掃しよう。その方が城も安全だよ___あんがと、だいぶ楽になった。」
フィラは疲れた顔の空元気でライから離れて向き直る。後ろにはザキエルの氷像。
「アレックス___」
「!?」
首筋を撫でるような冷気を帯びた声に、フィラは首を竦めて振り返った。
「てめえ___!」
野性的な反応で後方に飛び、身構える。だが他の皆は老翁がすでに虫の息であることを感じ取っていた。いや、生きていたことを喜ぶべきなのだ。
「アレックスか___」
「アレックスはどこにいるの?もう隠す必要はないでしょう?」
フローラは強い口調で問いかける。ザキエルは霜で埋め尽くされた顔を強ばらせ、氷粒を散らしながら笑みを覗かせる。それは紛れもない冷笑だった。
「隠すか___くく、はじめから隠してなどおらぬ___アレックスはここにおるわい___」
その言葉の意味するところをライもフローラも分からなかった。そして、小さなネズミが玉座から氷に向かって走っていることにも気づかなかった。
「そこの魔族なら知っておろう___魔獣ベグマを___」
「ベグマ___まさか___!」
ミロルグが息を飲んだ。失血を抜きにしても青ざめた彼女の驚きように、皆の心が掻き乱される。
「禁呪ベグマか___!?」
「どうしたの?」
戦くように仰け反ったミロルグの背に触れて、フローラは尋ねた。ミロルグの眼差しは少し揺らいだかと思うと、繋がったばかりの右腕でフローラの肩を掴み、まっすぐに見つめる。その瞳に込められた悲哀の意味するものは何か。
「落ち着いて聞いてほしい___いや、話そうとしているあたしが落ち着いていられないのだから、それは無理かもしれないけど___」
「教えて。」
「ベグマという秘術がある。それは伝説の魔獣ベグマだけが使える術で、簡単に言えば人生の早送りだ。」
それだけでは何のことだか分からない。いや、認めたくないという気持ちがあったのかもしれない。しかしミロルグは伝えなければならなかった。誰かが誤ってあの少年を傷つけないために。
「ベグマは人に齢を託して命を保つ。それはつまり、自分の老いを人に押しつけるということだ。おまえの愛息は___ザキエルが召還したベグマに老いを押しつけられた___おそらく、もう赤子の姿ではない!」
その言葉に、フローラは何の声も返せなかった。ただ呆然として、哀れむようなミロルグの眼を見ているだけ。
「それじゃあ___!」
ライは青ざめた顔で振り返り、氷像の向こうの少年を見据えた。彼はあの少年に嫌いだと言われ、足蹴にされ、頭を踏みつけられた。
「あれが___」
フィラもただ少年を見つめて絶句するしかなかった。彼女は友人の子を胸くそ悪いと罵っていた。
勝利の後の絶望。ザキエルの仕組んだ最後の罠は、彼らを敗者に変えるほどの威力を秘めていた。
「クカカ___」
だが老翁の秘策はこれだけではない。彼は勝利を掴むためにクーザーに戻ってきたのだ。玉座の裏から戻ってきたネズミは、氷付けの手に小さな宝玉を運んでいた。
「ザキエルが___!」
彼の動きに気が付いたのはフィラだった。振り返り、ミロルグが息を飲んだその時にはザキエルの手が輝き始めていた。
「まずい!」
宝玉には魔獣が、おそらくはベグマが封じられている___そう察したミロルグは伝説の魔獣の召還を阻もうと魔力を振り絞った。しかし右腕のダメージが彼女のスピードを奪っていた。
「死なば諸共じゃ!」
間に合わない。我を取り戻せずにいたフローラとライは、ザキエルの魔力が宝玉に注がれるのを見送るしかなかった。ベグマが蘇り力を示せばここにいる全員が年を取り、朽ち果てる。それを止める手だてもないと思われた。
ゴトッ。
「出でよベグマ___!」
しかし宝玉は彼の手から転げ落ちた。冷気のために痛みもないのだろう。すでに宝玉は手首ごと切り落とされていたのに、ザキエルは声高に叫んでいた。
「状況ははっきりとつかめちゃいない。けどこれで良かったんだよな?」
ザキエルの手を切り落としたのは、天井から舞い降りたデイルだった。神出鬼没の男は、今日も天井から駆けつけたのである。
「やった!」
「いや、まだだ!」
デイルの一太刀が驚異を封じたかに見えた。しかし転げ落ちた宝玉に、部屋の隅から走った魔力が取り付いたのだ。その出所は部屋の隅で震えていたはずの少年!
「うああ!」
フィラとミロルグの間で生まれた魔力の感応、それに似たものがザキエルと彼の間にもあったのだろう。アレックスは何かに取り憑かれたかのような、子供らしくない切迫した顔で魔力を飛ばしていた。
「やめろアレックス!」
ライが絶叫する。しかしアレックスは怯まない。だが___
「!?」
その小さな体をフローラが抱きしめた。いつの間に近づいたのか、耐え難い思いを込めて、母は息子を抱きしめていた。
「もうやめてアレックス___」
「離せ!」
魔力の矛先が変わった。
ズバッ!
風が血を纏って乱れ飛んだ。密接した状態で放たれた風の刃はフローラの体に裂傷を刻む。それでも彼女はアレックスを抱きしめる手を緩めなかった。腕に、足に、背に、頬に、首筋にさえ傷口を開きながら、フローラは抱擁を続けた。
「ごめんなさいアレックス___私はあなたを守ることができなかった___」
アレックスの敵意は燃えさかっていたはずだった。しかし新しい衣服を血に染めて、そればかりか涙まで流す女の姿に心が揺らいだ。そしてなにより彼を戸惑わせたのが、彼女の匂い。
子は父と母の命を受けて生まれる。しかし、実際に血液を共有するのは母だけである。人の匂いは血の匂い。汗は血であり、老廃物は血に乗り、体臭は血を源とする。本能が知る母と子の血の匂い。フローラの胸に顔を埋めるほど、血に濡れる彼女の肌に触れるほど、アレックスの心には安らぎが広がっていった。
「フローラ___」
愛の覚醒は、虚しさに包まれていた戦場に暖かな風を呼ぶ。ライはアレックスの暴走を止めたフローラの姿に涙を浮かべ、フィラの顔からも険しさが消えた。
「小僧___!」
豹変したアレックスに奥歯を噛みしめたザキエルは、まだ氷に捕らえられている逆の手から宝玉に魔力を送ろうとした。
「もう遅い。」
しかし宝玉はミロルグの手に握られていた。彼女はザキエルの目前にそれを翳すと、強い念を込める。
「やめろ!」
願い空しく、宝玉は砕かれた。噴き出した黒い霧はおどろおどろしい音を立てて天井に昇り、弾けるように消え去る。それは封じられた伝説の魔獣の死を意味していた。
もはや手はなくなった。偶然舞い降りた異界で燃え上がった野望は、完全に打ち砕かれたのだ___ならば、せめて一矢を報いるまで!
「アレックス___」
抵抗が消えていく。フローラは一層の愛しさを込めて彼の名を呼び、アレックスもまた無意識に抱擁を受け入れようとしていた。しかし___
(___殺せ!)
老翁の一念が全てを壊した。
「うああああ!」
アレックスが絶叫し、白い輝きが迸る。壮絶な爆発はフローラの体を大きく弾き飛ばした。抱擁は脆くも解かれ、宙を舞う彼女は血の帯を描いて氷の糸に激突した。頭知坊とザキエルを結ぶ氷が砕け、倒れたザキエルもまた氷もろとも体に深い亀裂を走らせた。
「フローラ!」
床に散らばった氷は糸を含み、剣山のように鋭く尖っている。気を失ったフローラの体はゆっくりと、そこに叩き付けられようとしていた。ライは慌てて駆け出したが、暴走したアレックスのディオプラドが行く手を阻む。
「フローラァッ!」
ライの絶叫が響く。それはある男を覚醒に導いた。
「___!」
ライは我が目を疑った。氷の切片からフローラを追い越して伸びた糸が、彼女を優しく受け止めたのだ。捕らえたのではない。張り巡らされた蜘蛛の巣がネットとなって、氷の剣から彼女を守っていた。
「フローラ、しっかり!」
漸くフローラの側に寄ったライは、蜘蛛の巣から傷だらけの彼女を抱え上げた。その間も頭知坊の糸は彼を襲いはしなかった。
「あいつが___なんで?」
フィラは当惑顔で凍り付けの頭知坊を見た。霜の降った丸顔が笑ったように見えたのは不思議だった。だがもっと不思議だったのは___
「なんだ___この気配は!?」
ミロルグの戦きぶりである。
時を同じくして、アモンに力を貸していた彼女も背筋の凍るような気配を感じ取っていた。
「これは___この深い憎悪の蠢きは___!?」
ニーサは肘を抱え、身震いした。彼女の視線の先にあるのはクーザー城。
「どうした!?」
異変を知ったアモンが駆け寄り、盲目の淑女の腕を取る。するとニーサはすぐさま振り返り、息を荒らげていった。
「アモン___命ある人々を逃がしましょう!できるだけ早く!」
「どうした?っ___この不愉快さか!?」
城に壮絶な邪悪が渦巻いている。それは暗黒の気配であると同時に強力な魔力だった。アモンでさえ感じたことのないほど膨大な破壊の力___
「城に何かがいます___今まではいなかった何かが!」
ニーサの額に冷や汗が浮かぶ。冷静沈着な母をここまで恐れさせた気配とは何か。それは今まさに、姿を現そうとしていた。
「ミロルグ!フローラの傷を!」
ライがフローラを抱えて舞い戻り、謁見の間は再び二極化する。一方にはライたち五人、一方には未だに狂乱して呪文を放つアレックス、その狭間に氷。
「来る!」
ミロルグが言った。そして黒い渦が二つの極を遮るように、氷の上に広がっていく。渦はやがて黒い火柱へと変わり、その内側から二筋の黒い炎が走ると氷付けの頭知坊とザキエルを飲み込んだ。
「あっ!?」
ライが呻いたのも束の間、黒炎の中で頭知坊の体が崩れていく。あの丸顔も禿頭も三本になった腕も、焼けた土のように崩壊していく。
「何かと思えば___落ちぶれた魔族と妖魔の馬鹿騒ぎか。」
腹の奥底に響く低い声とともに、ゆっくりと火柱が裂けていく。その中から現れたのは、紫紺の神官帽とローブ、浅黒い肌、畳まれた深い皺、凄絶たる殺気___
フローラが眠れる今、その男の名を知るのはライただ一人である。いや彼にしても、面と向かってその姿を目の当たりにするのは初めてなのだ。だが少しでも奴を知るものとして、皆にその恐ろしさを伝えるために、ライには叫ぶ必要があった。
「ダ・ギュール___!」
と。
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