5 無限の絆

 「___」
 虚無の柱を前にして、ソアラは辛うじて踏みとどまった。いや、踏み留められた。無理矢理押し返されて、流れた長髪の先を虚無に食われたが、彼女自身は無事だった。助けられたソアラの姿を、フュミレイは伸ばした手をそのままに後ろで見ていた。助けたのは彼女ではない。
 「大丈夫?お母さん。」
 リュカだった。死んだと思っていた我が子は、ソアラの胸に抱きつくようにして、彼女を虚無の柱の外へと押し出したのだ。
 「___ええ___」
 驚きとか喜びとか単純な感情ではなく、違和感だったり、疑念だったり、我が子に助けられたにしては複雑な感情がソアラの中に入り乱れていた。それはソアラが理解はしていなくても、直感的にリュカの変化を感じたからだった。
 「___」
 フュミレイは口を結び、ソアラの背から目を逸らした。そのままドラゴンズヘブンを見やると、神の竜の島は光の波動に守られて、先ほどのバランの攻撃を凌ぎきっていた。
 「リュカ___リュカよね___?」
 ソアラの声が聞こえた。フュミレイは静かに目を閉じ、小さく首を横に振ってドラゴンズヘブンへと飛んだ。
 「うん、僕はリュカだよ。でも、今までのリュカじゃない。」
 「?」
 「お母さん。産んでくれてありがとう。」
 「え?」
 「ルディーに出し抜けだって怒られちゃうかもしれないけど、僕たちはお母さんの子供で本当に良かったって思ってるよ。」
 「ちょっと___何を言って___」
 リュカは精一杯の笑顔で、でも目を潤ませて話す。しかしソアラには全く意味が分からなかった。
 「僕はもう今までのリュカじゃない。今までのリュカは、もう死んじゃったから___」
 「どうしたの?___おかしな事を言わないで___」
 「分かるでしょ?僕が今までの僕じゃないこと。僕の力が、いまお母さんも一緒に包んでいるこの黄金の光が、誰かかに似てるって___」
 そう言われるまで分からなかった。多少の違和感はあったのだろうが、もともと似ているから分からなかったのだ。だがそう言われて、意識をしてみると、ソアラは青ざめる思いだった。何度か空気を咬むようにして、目を泳がせ、やがてリュカの寂しい微笑みに恐る恐る問いかけた。
 「______帝?」
 リュカは頷いた。
 「僕、この世界の王様になるよ。竜神帝が光の神から力を受け継いだみたいに、帝さんの力を僕が継承することにしたんだ。」
 「______」
 「僕とルディーは死んだんだ。気が付いたら辺りには何もなくて、でも遠くの方に七色の光があって、それが安らぎの場所に見えて僕らを呼び寄せていた。でもなんだか違う気がしたんだ。引き留めてくれたのが黄金の光だった。」
 「______」
 「竜神帝が僕に言った。君は死んでしまった___って。そっかぁ、って思ったよ。そしたら帝が蘇る手段があるって言って、でもそれをすると今までと同じ人としての道は歩めなくなるって教えてくれた。このまま死ぬか、神になるか。凄い選択だよね。」
 「______」
 「それで、帝さんは自分の命を僕にくれたんだ。目が覚めて気付いたけど、ルディーにも同じ事があって、僕と同じ道を選んだ。」
 「______」
 リュカはソアラの重みを全身に感じていた。ソアラは脱力し、本来の紫色の髪と瞳の美しい母に戻っていた。そしてリュカに身を預けて必死に嗚咽を堪えていた。息子を直視できず、彼の胸に顔を埋めて体を震わせていた。
 「ごめんね、お母さん。でも泣かないで、誰のことも恨まないで。これは僕が選んだ道なんだ。それに僕___なんだかすごくスッキリしてるんだよ。だって竜の使いって女の人の力なんでしょ?言わなかったけど、僕ちょっとそれで悩んでて___でも今思うと、僕はこのために生まれたのかもってさ。」
 「ぅぅん___ぅうん___違う___あなたはあたしと百鬼の子だもの___そんなつもりで産んでないもの___!」
 リュカは縋るような母の髪をそっと撫でた。
 「そだね。ごめんね。」
 リュカは涙を流さない。ただ少し寂しげに微笑んで、ドラゴンズヘブンへと飛んだ。

 気が動転している。でも涙を見せないリュカとルディーの気丈な姿は、ソアラを少なからず冷静にさせた。そして何より、竜神帝ことジェイローグの亡骸を前にすると、涙に暮れる天族たちの姿を見ると、バランの嘲笑が聞こえるようで彼女に闘志を呼び戻した。
 「同じだ。レイノラ様、レッシイ、帝、十二神たち___皆同じだ。」
 フュミレイがソアラに語りかける。ソアラは砕けた幼竜の石像を見つめたまま、一度だけ頷いた。
 「みんなの遺志はただ一つ、Gを倒すこと。」
 そして明朗な口調で言った。
 「バランを追いましょう。」
 「行き先は?」
 「中庸界。あたしたちの故郷よ。あ!でもその前に天界の虚無を何とかしないと!」
 「それなら大丈夫。」
 ルディーがにこやかに躍り出た。
 「師匠の手を煩わせないでも、あたしができるから。」
 「本当?」
 「うん、できるようになったってとこかな?だから天界のことは心配しないで。」
 作り笑顔だろう。でもルディーは精一杯の笑顔で二人の不安を取り除こうと努めていた。
 「母さん。これは帝さんの勧めなんだけど、僕は母さんたちが中庸界に戻ったら、三元世界の結びつきを切ろうと思うんだ。バランにこれ以上逃げ回られるのも癪だし、きっとこれ以上の被害が出たらバランスを保てなくなる。そうなる前にバラバラにした方がいいって___」
 「賢明だと思うわ。」
 「でもそれはバランを倒すのを母さんと中庸界に任せることになっちゃう___」
 「どんと来なさいな。あたしを誰だと思ってるわけ?あんたの母親よ!」
 リュカの提案は少し遠慮がちにも見えたが、ソアラが二つ返事で了承すると、彼は安堵を隠さなかった。
 「そう言ってくれて良かった。」
 「頑張ってね、新しい神様の最初の大仕事。」
 「うん。母さんも、絶対にバランを倒して。」
 ソアラは頷き、魂のリングを見せつけるようにして拳を突き出した。リュカとルディーは笑顔で拳を会わせた。そこに涙はなかった。

 別れを惜しめる時間は限られていた。それが残念であると同時に、決心を鈍らせないためには良かった。
 「あたしはこっちに残るわ。」
 ミキャックは申し訳なさそうに言った。
 「そうして。お腹のこともあるし___」
 「二人のこともね。」
 「こんなこと頼んで良いのか分からないけど___お願いね。」
 ミキャックとソアラは優しく抱き会う。二人とも笑顔だったが、立場は違えど竜神帝の決断に心を痛めているのは同じだ。ミキャックの目の回りには隠しきれない涙の後があった。
 「サザビーとは?」
 「もうお別れしてきた。」
 「名前は?」
 「フフ___風の赴くままに。後は彼に聞いて。」
 「ンフフ、そうする。元気な赤ちゃんを!」
 フュミレイの姿を見つけたソアラは、彼女を呼び寄せてミキャックと引き合わせると、自分は皆が待っているだろう場所へと急いだ。
 多くの天族たちに見守られ、リュカとルディーを前に、ライ、フローラ、未だに眠り続けるアレックス、サザビーが待っていた。
 「いよいよね。フュミレイが来たら出発しましょう。」
 ソアラは努めて明るく見えた。そうでもしないとまともに子供たちのことも見られないのだろう、笑いながらもまずライたちに話しかけ、肩を叩いたりする姿は痛々しくすらあった。

 出発の時はすぐに訪れた。
 「それでは、中庸界への扉を開きます。」
 リュカが事も無げにそう言ってのけることこそ、竜神帝の力を継承した証であり、彼が少し遠い存在になったと感じる瞬間でもあった。
 ゴォォォ___!
 だがそんな感傷を、遠方の轟きが吹き飛ばした。
 「!?」
 「この感覚!」
 ソアラが音の方向を仰ぎ見た。少し遠い場所に、空を縦断する黒い柱が見えた。
 「虚無!!」
 動揺が走る。
 「でもどうして!?」
 「バランが四人に分かれてたってことだろ。」
 戦くライにサザビーが平然と答えた。
 「くっ___!」
 騒然としている場合ではない。ソアラはすぐさま黄金に輝くが___
 「待って!!」
 リュカの一喝に止められた。
 「心配ないよ、あれは僕が倒すから。いまはそれよりも、中庸界へ。」
 「でも___」
 フローラが心配顔で呟く。しかしリュカはソアラとだけ見つめ合う。彼の自信に満ちあふれた顔に、ソアラも黄金を消した。
 「分かったわ。」
 「ありがとう___」
 リュカの口は「お」の形へと動いていたが、思いとどまって言葉を飲み込む。ソアラはそんな彼の姿に諦めの混じった笑みを浮かべる。
 「いいじゃない、お母さんって呼んだって。それくらいであたしたちの決意は鈍るわけ?それにね、離れてたってあたしたちは家族よ。ほら、お父さんもここにいるんだから。」
 「______」
 「最後にもう一度だけ抱かせて。」
 「___」
 リュカはコクリと頷いた。暖かな抱擁。今ここで涙を堪えるのは、天界に残っていた四分の一のバランを倒すよりよほど難しかった。
 「ほら、ルディーも。」
 「___いいよ、我慢できなくなる。」
 「我慢しなくていいじゃない。それとも、あたしに後悔させたいの?」
 ルディーがソアラの腕に飛び込むまで時間は掛からなかった。声を上げて泣きはしない。しかし見守る人々の目に触れないように、リュカとルディーは母に顔を埋め、何度も何度もお母さんと呟きながら、ドラグニエルを涙で濡らした。

 「ねえ、本当にこれで良かったのかな。」
 ライの問いかけにソアラはすぐには答えなかった。憮然として目を閉じていた。
 「ライ___」
 彼女の気持ちを察したフローラがライの手を引く。しかしソアラはやがて目を開け、答えた。
 「是も非もないわ。いつかこんな日が来るかもしれないって思ってたから。でもその時にさよならを言うのはあたしだと思ってたのに。」
 「そのつもりで天界に行ったんだものな。」
 「そう、そうよね。」
 旅立ちを共にしたサザビーの言葉に、ソアラは小さな笑みを覗かせた。ドラゴンズヘブンを発ってから、彼女が初めて見せた笑みだった。
 周囲の景色はめまぐるしく動く。天界の空を、眼下に開いた光の窓に向けて、魔力に守られながら落下していく間の出来事。
 「みんなには今言っておくわ。」
 先頭を進んでいたソアラがクルリと向き直った。
 「今までありがとう。」
 「ソアラ___?」
 戸惑いを隠さずにライが彼女を呼ぶ。
 「勝っても負けてもこの戦いはこれで終わり。それで、勝っても負けても、もうあたしはみんなの前にはいないはずよ。」
 「どうして___?」
 「負けたらみんないなくなる。勝ったら勝ったで、あたしはあたしの中のGをどうにかしなきゃいけない。そういうことよ。だからね、あたし___リュカとルディーと別れられたのも少しだけホッとしている所もあるのよ。」
 そしてソアラは手を差し出した。
 「でも、お互いに約束しましょう。あたしたちの旅は、百鬼も含めてこのメンバーで始まって、このメンバーで終わる。この先何があっても、あたしたちは大切な仲間で、掛け替えのない親友で、お互いを絶対に忘れないって。」
 「___当たり前だろそんなの!!」
 「ソアラ!」
 ライとフローラは手を通り越してソアラに抱きついていた。子供たちとの別れと変わらない暖かさ。二人がいなければ今のソアラはなかった。それは二人にとっても同じで、ソアラがいなければフローラはポポトルを出れなかったろうし、ライは母と再会することも無かったかもしれない。
 「?」
 悲しみを分かち合う三人を後目に、サザビーはフュミレイの肩を抱いた。フュミレイが不思議な顔で彼を見やる。
 「相変わらず狡いぜ。おまえだってソアラと同じなんだろ?」
 「___あたしは元々死んだ人間さ。」
 「奇遇だな、俺もさ。」
 「フフ、そうだな。」
 と、二人が落ち着いた笑みを交わし会っているその横で___
 「う___」
 嗄れた声がした。
 「ぅうんぅ___」
 見ると、死んだように眠っていた老人が、俄に蠢き始めていた。
 「ライ!フローラ!」
 「アレックスが!」
 「え?」
 二人が振り向いた瞬間___
 ギュォォン!!
 彼らは異界の窓へと辿り着いた。

 中庸界。
 大地と海と空と多くの生命に彩られた鮮やかな世界。三元世界の中でも元のバルディスに最も近いだろう世界。多くの人々が魔力すら忘れてしまっている世界。かつてのソアラですら、この世界にあっては非現実的な存在。
 そんな中庸界の空に、破壊と創造の神が降臨した。空に鎮座するだけで、七色の光を垂れ流すだけで、大地は震え上がり、空は赤く染まり、海は黒くうねる。
 だが神は、かつてクーザーマウンテンがあった場所の空から動かなかった。北西の方向を向こうとして、それきり動きが止まっていた。いや、見る者が見れば分かったかも知れないが、七色のオーラの回りに蒸気のような白い波動がまとわりついて、神の所作を阻んでいた。その額には、小さいながらもはっきりと無限の紋様が浮かんでいた。
 しかしながらゆっくりと、神は北西の空へと体を傾けていく。クーザーマウンテン跡には神殿が建てられているが、屋根はすでに吹き飛び、大地を焦土に変えていく。神の力は徐々に高まりを見せていた。
 「な、なんという力___」
 ミロルグは溢れ出る汗を止めることができなかった。新生クーザーで一番高い見晴台に登り、空に漂う偉大なる生命を見た瞬間、一度は腰が砕けてしまった。何とか立ち上がったものの、先程から全身を酸で焼かれるような、痛みともとれない痺れに襲われていた。
 「まさか___あれがG___?」
 そうなのだろう。そうとしか考えられない。だがそうだったとして、どうすればいいのか。どう振る舞えばいいのか。ただとにかく、あれが破壊と殺戮を望んでいることだけは分かる。だから彼女は震えが止まらなかった。フィラはミロルグがここに昇る前に気絶してしまった。妊婦の彼女を気遣い、デイルが側についている。魔道の才を持たない彼は落ち着いていたが、神の存在は誰しもに耐え難い恐怖をもたらしていることだろう。
 この日のクーザーは陽気も良く、朝から快晴だった。ただそれにしては、静かすぎる午後だった。
 「ミロルグ___」
 「!?フィラ!」
 先程まで気を絶っていた女が、身重の体で見晴台のはしごを登ってきた。ミロルグは慌てて駆け寄り、彼女の体を引き上げる。
 「大丈夫か?」
 「ああ、ありがとう。」
 フィラを下から押し上げて、デイルも顔を覗かせた。二人に笑顔はなかった。
 「フィラ、どうしてここへ?」
 「あれってGなの?」
 「___多分。あたしもGのことはよく知らないが、あれが世界を破滅させる存在だと言うことは分かる。」
 「そっか___」
 フィラは大きなお腹で見晴台の柵に乗り出すと、必死に目を凝らしておぞましき巨人を睨み付けた。
 人型だと言うことは分かる。だが一層巨大になったその体は、おそらくかつてのクーザー城と変わらないほど。そしてなにやら朧気に光っている。
 「フィラ___」
 ミロルグには彼女の行動が理解できなかった。「あれ」は見ているだけでも精気を奪われるようで、心身共に薄弱するのが分かるのだ。だがフィラは何かを探すように、バランを見つめた。そして___
 「なんでだ?」
 そう呟いた。
 「分かったのか?」
 デイルが問う。
 「なにが?」
 「あれがおっかないものだってのはフィラも分かってる。だが、別の何か懐かしい力も感じたらしいんだ。」
 「なんだって?」
 ミロルグが訝しげに眉をひそめたが、すぐにフィラは答えを出した。
 「あいつ___ちょっとだけソアラの旦那に似た気配がある。」
 衝撃的な答えだった。

 ___
 ______
 _________
 ___十二神は全て消えた。なぜ貴様は、それでもなお私を阻むのか?
 守るものがあるからだ。
 ___守る?死した貴様に守れるものなどない。
 肉体は死んだが魂は死んじゃいない。おまえがアイアンリッチにやったのと同じことだろ?
 ___私を操ろうというのか?
 違うな、倒すのさ。
 ___なぜ倒す?
 さっきも言ったぜ、守るためさ。
 ___何を守る?
 おまえが消そうとするもの全て。望まずに消されそうとしている希望全て。
 ___力及ぶと思うのか?
 さあな。だが全力は尽くす。
 ___我の元で新たなる世界を見届けぬか?
 わりいな、興味ねえや。俺が好きなのはこの世界なんでね。
 ___それほどの力を持ちながら、現実の鎖に捕らわれるとは愚かしいことだ。
 そうか?普通だと思うぜ。俺たちは無から生まれるわけじゃない。おまえだってそうだろ?
 ___それが愚かだというのだ。人の領域を超える資質を持ちながら、進化を望まぬのは愚鈍の極みだ。
 違うな。おまえは自分が唯一無比だと確信してるからそう思えるんだ。俺は違う。いや、俺だけじゃない。無の中に一人で生きていけないことは誰だって分かってる。何かを守るってのは綺麗事じゃない、自分自身が生きるために必要だから守るのさ。それに俺たちは子を残す。その子孫が繁栄できるように、俺たちが世界を守るのは当然のことだぜ。
 ___陳腐な。所詮は鎖に繋がれた生き物か。
 悪いな、俺はただのデリカシーがない男なもんで。
 ___残念だ。ならば君が守りたいと思うもの全てを消そう。そして君の心に絶望の虚無を落とそう。その無限の如く深き魂を、我のものとしてみせよう。
 させねえよ。ソアラがおまえを倒すまで、俺は抵抗し続ける。それが俺にできる唯一のことだ。
 ___適うと思うな。
 _________
 ______
 ___

 ゴゴゴゴゴゴ___!
 轟音を響かせ、巨人と化したバランがゆっくりと北西の空へ体を向ける。彼の体表では七色と白の波動が軋みながら拮抗する。音はこの二つの波動が擦れ合う音であり、その衝撃は世界に灼熱の熱風をまき散らしていく。
 雲が凄まじい速さで、巨人の中心から外に向かって逃げるように流れる。気圧の狂いが海を乱れさせ、沖に巨大な渦雲を立ちのぼらせる。世界の色が変わっていく。晴れやかな午後だったはずなのに、薄暮のように赤み帯びていく。
 やがて、バランは力強く北西を向いた。そのとき、彼の体表では白い霧が散り散りとなり、七色が激しく輝いていた。巨人の視線の遙か先にあるのは、ソードルセイド。

 光が迸る。
 北西が輝く。
 額の無限に裂け目が走り、消え失せていく。
 『さらば、忌まわしき魂よ。』
 再び、今度はバランの全身から七色の波動が放たれた。それは瞬く間に北西の大地に突き刺さり、そこにあるもの全てを吹き飛ばす。
 命も。
 誇りも。
 思い出も。
 直後、バランの額に刻まれた無限が、跡形もなく消え失せた。
 『勝った。』
 バランはそう呟いた。意固地になっていた自分に気付き、自嘲の笑みを浮かべたほどだった。
 『私の手をここまで煩わせただけでも、貴様は立派だった。だがその戦績すら、何一つ残らんがな。』
 そしてバランはおもむろに右手を振り上げる。体は北を向いていた。
 『決めた。まずはこの世界を消す。』
 そして手刀を打つように、横凪ぎに大気を切った。その軌道に沿って七色の波動が広角に放たれる。それは北方のケルベロスを東から西へと撫切りにするかのようだった。
 その時___
 ギャウン!!
 大気を劈いて、黄金の輝きが波動の前へと躍り出た。すぐさま両者は激突し___
 「ぐっ___ぐぅぅ!」
 ソアラは広角へと注ぐ帯状の波動の真ん中を抑えて食い止めようとする。彼女の左腕に鎮座する無限と、指輪から迸る白いオーラを見たバランは、冷酷な苛立ちを覚えた。そして今度は左手を振るった。
 「!!っぅああっ!」
 追撃の波動がソアラを弾き飛ばした。光が駆け抜け、北の大陸が火を噴く。
 「___!」
 ソアラは愕然とした。北の空は白、朱、橙、赤黒とめまぐるしく色を変えていく。それは遙かクーザーからも、不気味、あるいは幻想的な風景としてはっきりと見えるほどの空の変化だった。あれは地獄の色。ソアラには多くの命が一瞬にして塵と消えたのが、はっきりと分かっていた。虚無の柱こそ立っていない、しかしケルベロスは___
 「ま、守れなかった___」
 バランの攻撃を抑えられなかったのは、悔いても悔やみきれない。だが今ここで動きを止めてしまったのは迂闊だった。
 「!___やめろ!!」
 バランはソアラとの会話など求めていない。ソアラが気付いたときには、彼はすぐ近くに見えた都市、クーザーに向けて神の鉄槌を振るっていた。
 「だめ___!」
 ソアラはあそこに知った気配がいくつもいるのを感じ取っていた。しかし願いが届くはずもない。巨大な光の柱は、再興を果たそうとしていた港湾都市を、女傑の家系を、大地ごと飲み込んで火柱に変えてしまった。
 『次。』
 別の都市が東方にある。生命の気配を察知したバランは東へ手を振りかざす。しかし振り向いたその顔を、黄金に輝く拳が撃ち抜いた。黄金の波動は今までにないほど激しく燃え上がる。その輝きは獰猛だったが、ソアラ自身は怒りに満ち満ちながらも、顔つきは冷静だった。彼女に理性を留めているのは他でもない、左手に輝く魂のリングだ。彼女の背を抱くように広がる白い気配。バランにはそれが百鬼に見えた。
 『また貴様か!』
 その言葉はソアラではなく、百鬼に向けられていた。

 おぞましい巨人と、黄金の戦士の戦いは壮絶を窮めた。
 拳がぶつかるだけで、雲もないのに稲妻が走り、海からは水柱が立ちのぼり、大気は灼熱する。ソアラは必死に戦った。百鬼の魂を信じ、心の拠り所とすることで、彼女の力は全開となり、これまでとは比べ者にならないほど強くなっていた。
 だがそれでもバランが優勢だった。全身の魔鉱石から迸る光線は、ソアラがやり過ごしたとしても世界を焼く。胸に開いた口の周囲で蠢く赤い触手は、攻めては力を奪う武器となり、守ってはあらゆる攻撃を吸い尽くす鎧となる。
 しかしソアラは懸命に戦った。
 (昔を思い出せ___攻守ともに隙のない大男、あたしはポポトル時代にたくさん倒してきたはずだ!)
 懐かしい場所に帰ってきたからか、それとも魂のリングが勇気づけてくれるのか、ソアラはバランを恐れすぎることはなかった。
 (攻めろ!守り続けていては勝てない!)
 命を尽くせる理由はこの世界を守るという使命感___と言い切れれば格好良いのだろうが、本音は少し違った。本音は紫色の自分が歩いてきた道、それが消えて無くなるのが嫌なのだ。
 生まれてこのかた、自分が何者なのかという疑問と戦ってきたソアラにとって、自分の歩んできた道、足跡を刻んだ世界、理解してくれる仲間は、どれも絶対に失いたくないものだった。
 自分自身を探し続け、今こうして強大な敵と戦っていること。それは捜し求めていた終着点、紫であった理由だと考える。
 (怯むな!私は___バランを倒すために生まれた!)
 昔は嫌いだった運命という言葉も、今なら受け入れられる。リュカとルディーもきっとこんな気持ちだったのだろう。これこそが自分が生まれてきた理由なのだと無条件に承服できる答えに出会ったとき、人は何よりの幸福と無類の強さを得る。なぜなら、そこには一縷の迷いもないから。
 (そうさ___だから百鬼も魂だけで戦い続ける!)
 だがその運命を成し遂げられるかどうかは、個々の努力、素養にかかっている。それが命の分かれ目。
 チュンッ___!
 素早い動きで触手をかわしながら、ガードの薄い頭部に向かって攻撃を放っていたソアラ。しかし決定打のないまま、バランの反撃を許した。辺り構わず放っていた光線を、触手の一つに集結して放つ。それは針のように細かったが、世界を貫くだけの破壊のエネルギーが凝縮されていた。
 (!!)
 バランが撃ち抜いたのは、ソアラの左手。しかも魂のリングを通した薬指だった。白いオーラが弾け飛ぶと、ソアラの黄金も呼応するように乱れた。
 一瞬の隙にバランは四方八方へと破壊光線を放つ。それは海を切り裂き、大地を砕き、空を焦がし、ソアラを守る竜の鱗をことごとく破壊する。それでも耐えきったソアラは見事だったが、バランスを崩したところにおぞましい触手が襲いかかった。
 あれに捕らえられたら力を吸い取られて終わり、そう思っていたのだが、逃れられるタイミングではなかった。しかし___
 『!』
 触手はソアラを捕らえるどころか、ことごとく切断されていた。力を好物とする触手には、生命力を具現化したような攻撃は通用しない。しかし大気そのものを超振動させて刃とする攻撃ならば、その限りではない。
 『貴様か。』
 フェリルの得意技だったデュランダルを本家以上の大きさで放つ、そんなことができるのはあらゆる世界を探してもフュミレイしかいないだろう。彼女はすぐさま闇のオーラにソアラを取り込んで、バランとの距離を取った。有無言わさず、指を失ったソアラの左手に触れる。
 「みんなは___?」
 「クーザーの人々もまとめて旅立ちの地に置いてきた。いまはアモンとミロルグが各地へ飛んで人々を避難させている。」
 「!___さっすが、完璧な仕事ぶりね!」
 「どこが。あたしは故郷を失った。」
 「___あ___ごめん、力不足で。」
 「おまえが謝る事じゃない。」
 纏っていた闇が収束し、別の輝きとなってソアラの左手に広がると、失われた指がたちまち再生していく。そればかりか、魂のリングまで。
 「あたしのリングを二つに分けた。無いよりは良いだろ?」
 「ありがとう。」
 何をさせても事も無げ。もうそれが当たり前になってしまっているからソアラは微笑んだだけだったが、バランは瞬き一つせずに再生の様子を見ていた。
 彼女が虚無を克服する術を身に着けたのは昨日今日のことだ。それがどうしたことか、今では再生どころか創造すら不可能に思えないほど、自らの手の内に入れている。その習熟の速さはバランの理解を超えていた。天性の技能として持って生まれたのならいざ知らず、昨日職人に弟子入りしたズブの素人が、たった一日で師の技能に迫ろうかという飛躍ぶりである。
 「ソアラ、世界が傷つくことを恐れるな。あたしたちは力を付けたと言っても、この中庸界という母に育まれた幼子でしかない。母は耐えて、許してくれる。」
 「___」
 「やるぞ、これで終わりにする。」
 「___ええ、やるわ!」
 不思議な現象だった。ソアラは光、フュミレイは闇の加護を受けている。二人のオーラは白と黒の両極であり、まともであれば絡み合うことはない。しかし愛し合っていたジェイローグとレイノラの共鳴以上に、二人の波動は混ざり合い、同調して見えた。

 二人は、対極の境遇に生まれた。ソアラは辺境の孤児、フュミレイは名家の娘。ソアラは自らの価値を示すために戦いを選び、フュミレイは苛烈なる父の教育のもと約束された将来へと邁進した。絡み合うことなど無いかと思われた道だった。
 しかし戦いが互いを引きつけた。ライの父であり調和の力を持った勇者、アレックス・フレイザーもまた、因縁を深める鍵となった。同じ人物を愛した頃には、二人の道はもう一緒くたになっていた。しかしその道は、ソアラの立志とフュミレイの失脚で一度は断ち切られたはずだった。だが二人は離れてなお、互いを忘れることなく、互いに求め合い、引かれあい、いまこうして最後の戦いに挑んでいる。
 なぜ二人の波動がこれほど絡み合うのだろうか。答えは彼女たちにも分からない。ただ、はっきりしているのは、互いを誰よりも尊敬し、憧れを抱いていたということ。そして互いのことを他の誰よりも理解していること。
 境遇は違えど、奇異な色に生まれ、奇異な力を持ったことは、二人だけに許される共感だった。全てを受け止める包容力を持った男に惚れたのも、偶然では無かっただろう。表面とは違う、深い根のところで、二人は絡みあい続けていた。二人の絆は、互いを互いの道標とすることで築かれてきたのだ。

 敵は二人。だがバランは一人を相手にしているかのように錯覚した。しかもその一人はあまりにも強大で、偉大なる神である彼をも威圧するほどであった。
 ソアラは相手の心を誘導する能力を持つ。彼女はそれを最近まで知らなかったが、過去の戦いでもこの力が敵に隙を作り、味方との連携をスムーズにしていたのは間違いない。だがフュミレイとの共闘は、そんな能力に関わらず、あまりに美しかった。
 光と闇。もしかすると二人は、一人の人間の光と影なのかもしれない。
 それが重なり合ったとき___
 (創造神は生まれる___)
 それはバルディスの創造の伝承の一節だった。
 深く暗い闇の中に、一片の光が生まれる。闇に彷徨う命の粒が光に集い、そこに新たな世界の種が生まれる。種は闇という影に抱かれて、形となる。それはまるで、絵画に奥行を生むように、影は光に命を吹き込む。
 その伝承があったからこそ、バルディスの主であったバランは、ジェイローグとレイノラの愛を嫌悪した。しかしかつてと同じように、バランの野望を阻むようにして、光と闇の申し子は生まれる。同じ時代に、同じ世界で、同じ世代を生きる者として。
 それが摂理だというのなら、バランが破壊したいのは摂理そのものとも言えるだろう。
 『我こそが___唯一の創造神だ!』
 バランはさらなる変化を遂げる。赤い触手が再生し、互いに絡み合いながらどんどん大きくなり、一つは海へ、一つは大地へ、一つは空へ、それぞれの先端を伸ばす。体は赤み帯びた光を纏い、三方に伸びた触手を囲むようにして三角形に広がっていく。その中で赤は渦を巻き、中心、すなわちバランの体の中心である胸の口へと吸い込まれるように動き出す。陸が、海が、空が、枯れていく。なりふり構わずあらゆるエネルギーを奪っていく。禍々しきバラン、その顔は老人に戻り、まるで石膏像のように固まっていた。もはや人型であることは、神にとって必要条件ではなくなっていた。
 『ここで決着を付ける!』
 ソアラとフュミレイだけではない。バランもそう確信していた。
 今までにない力の激突は、海を押しのけ、一帯の大地を吹き飛ばすほどだった。

 世界が乱れている。荒れ狂っている。それは遙か南方の辺境の島にも、異変として現れていた。まだ日差しの強い時間でなければいけないのに、水平線の果ては夕焼けのように赤く染まっていた。海はまるで誰かに飲まれているかのように海面を下げ、大地は先程からずっと震えている。
 「世界の終末か。こんなものを見るくらいなら、おまえみたいに盲目のほうが良かったかもな。」
 古老アモン・ダグはやけっぱちの様子で言った。死を恐れている風はないが、世界の異変には少なからず動揺していた。
 「良いものですか___私の耳にどれほどの悲鳴が聞こえることか___」
 彼の側ではニーサ・フレイザーがいつになく険しい面もちでいた。視力を失った彼女は、世界の阿鼻叫喚をいやと言うほどに感じ取っていた。先ほど愛息との再会を果たした喜びも、この脅威の前には慰めにしかならなかった。
 「でも___戦っている___」
 近くには身重のフィラ・ミゲルがいた。かつてニーサの元で修行した彼女の感知能力は、もはや師を超えている。大きなお腹で顔に脂汗を浮かべ、少し息づかいを速めながら、彼女は遠方の力の激突をつぶさに感じ取っていた。
 「劣勢だがな。」
 彼女の後ろにはサザビーがいた。恋人との再会は彼女の立場、彼の半分黒い顔など、色々あって喜々としたものではなかったが、フィラの心中は喜びに満たされていた。ただここにはクーザーの人々もいる。夫を差し置いて、公然と元恋人との再会にうつつを抜かすことなどできなかった。
 「戦っているのはソアラなのか?」
 「それとフュミレイだ。もう戦場にたどり着いている。」
 フィラに胸を貸すのは夫のデイル。彼はサザビーの帰還を喜ぶとともに、素早く彼に事情を伝えた。煙たい顔は一つもせず、サザビーも感心した様子でいた。二人の接触を少なからず心配していたフィラは、毒気のない親友たちのやり取りにホッとしたのと同時に、あまりの淡泊さに少々ガッカリもしていた。
 「この老人が___」
 ミロルグは目の前の現実から目を背けるかのように天を仰いだ。彼女の前には、腰を下ろしてアレックスを膝に抱くフローラと、それを見守るライがいた。アレックスは先ほど僅かに目を覚ました。しかし直後肉体に一層の老いが刻まれ、また目を閉じてしまった。
 「私___ここで死ぬのは嫌だな___」
 フローラは気落ちしていた。世界の最後だけでなく、目覚めたと思ったアレックスがただ一層死に近づいただけだったことも暗い影を落とした。
 「何言ってるんだ!ソアラとフュミレイがまだ戦ってるんだよ!?」
 ライが彼らしくもなく、フローラに声を荒らげた。
 「僕たちが信じないで誰が信じるのさ!」
 「___」
 しかしフローラは答えを返せなかった。彼女もまた、バランの力がソアラとフュミレイを上回っていることを感じてしまったのだ。
 「フローラ!」
 「___」
 元気づけようとするライの顔を見るのも辛い。フローラは島の中央に鎮座するかつての火山跡を悲しげに見つめ、一筋の涙をこぼす。そんな横顔を見せられては、ライも言葉に詰まらざるを得なかった。
 孤島ポポトル。彼女にとっては始まりの地。いや、この戦いそのものの始まりの地。
 「___しっかり。」
 ライはフローラの涙の訳を瞬時に察知できるほど敏感な男ではない。でも、とにかく彼女に自分の存在を感じて、身を委ねて欲しかった。一人でないと教えるようにフローラの頭を抱き、彼女はライの肩を涙で濡らした。
 そのとき、空に流星が走った。七色に煌めく流星。それは空を駆け抜け、ポポトルよりもさらに辺境の海へと突き刺さる。水が空へと噴き上がり、弾け飛ぶ。遠くの海が山のように盛り上がると、それはどんどん広がっていく。
 「つ、津波になるぞ!」
 クーザーは海に親しき国。海面の上昇はすぐに島に届き、おそらく全てを飲み込むだろう。
 「呪文で止められないのか?」
 「あれは大きすぎる___逃げる道を考えた方が___」
 ササビーの問いかけにミロルグは呻いたが___
 「いや、狭い場所___例えばかつての超龍神の居場所であれば、広いうえに水の侵入口は限られる___だが地下だから、もし決壊を許せば死だ」
 「よし、それでいくぞ。どのみちこのままでも死ぬ。それにあの様子じゃ迷っている暇はねえ。」
 そう言ったのはアモンだった。常に冷静さを失わない老翁は、同時にミロルグの尻に触れるのも忘れていなかった。
 号令を掛けたのはデイル。ミロルグが人々を先導し、かつて超龍神が潜んでいたポポトルの地下へと急ぐ。デイルがまずクーザーの士官を統率したことで、人々は慣れない土地に苦しみながらも懸命に走った。
 「はぁはぁ___」
 フィラは最後尾で人々を励ましていた。しかし彼女の顔は必死に苦痛と戦っていた。
 「行け。しんがりがそんな姿じゃ、みんなが後ろ髪引かれるだけだ。」
 その肩に触れて、サザビーが諭すように言った。逆の手では彼女の額の脂汗を拭ってやっていた。
 「デイル!」
 視線の先で奮闘する親友を呼び、サザビーは彼女を託そうとする。
 「あたし___絶対に___この子を___」
 「愛してるぜ、ゼルナス。」
 今なら誰も見ていない。サザビーはフィラに唇を重ね、やってきたデイルに彼女を委ねる。
 「頼むぜ。必ず守ってくれ。」
 「そっちも、絶対に死ぬな。」
 デイルに抱きかかえられ、フィラもまたポポトル火山の地下へ。大粒の涙は苦痛のためではなかった。
 「避難は?」
 「順調。おっ、こっちもまた凄いことになってんな。」
 水の壁が迫ってくる。おそらくもう数分としないうちに島を飲み込むだろう。地下への侵入口となる場所は、大きなところではいま人々が入っていった洞窟の口と、ポッカリと空いた火口だ。ミロルグとアモンには火口を全力で塞いで貰う。一方で洞窟の入り口は___
 「僕たちも行こう。入り口を練闘気で塞ぐんだ。」
 ライ、サザビー、フローラで塞ぐ。彼らもまた洞窟の入り口へ急ごうとしたときのことだった___
 「!!」
 おぞましい寒気に足が止まった。迸った殺戮の意志は、山を飲み込む高さで迫る正面の津波ではない。真後ろからだった。
 振り返る。
 そこでは、七色の太陽が輝いていた。
 太陽は津波とは比べものにならない速さで、どんどん大きく、島を飲み込むべく迫る。
 「___バランめ___!」
 あまりにも的確な照準は、おそらく偶然ではない。フュミレイが記憶を読まれたのだろう。バランは彼女たちを追い込むために、ポポトル島を狙って破滅の光線を放った。そう悟ったサザビーには、舌打ちする時間しか残っていなかった。
 直後、世界の果ての小さな島は、破滅の炎と、深淵の水に飲まれた。

 「はぁっはぁっ!」
 ソアラは肩で息をしていた。体の至る頃に血染みを付け、幾らか力が翳ってきた目で、しかし闘志だけは萎えることなくバランに挑んだ。
 「はぁっ___くっ___!」
 フュミレイはなりふり構わなかった。先ほど叩き斬られた片腕は再生不十分な状態だったが、回復よりも攻撃に力を割き続けた。
 『ブォォォォオオオ!』
 だがバランは圧倒的だった。人こそが世界の支配者などと宣うのは傲慢だと言わんばかりに、彼の様態は胸に開いていた口を中心とした巨大な悪魔と化していたが、大神の意志は失われることはなかった。
 先ほどもポポトルを狙い撃ちにし、二人にこれ見よがしに告げたところだった。だが二人は意気消沈するどころか、さらに血気盛んにバランに刃向かった。仲間の命を奪えば戦意を喪失するとの見込みは全く外れだった。それはつまり、彼女たちが世界の守護者として揺るぎない自覚を身に着けているということ。
 フュミレイの虚無への対応しかり、彼女たちの短期間の革新ぶりはバランにとって脅威以外の何ものでもなかった。百年にも足りない革新が、数千年の蓄積に対抗しうる、それはバランにとって最も嫌悪すべき事象だった。
 『ゥオオオオ!』
 蠢く球体。その肉の塊から、様々なものが伸びる。力を吸う触手だけでなく、老人だったバランの頭、剣を握る腕、鳥の翼、巨木、火口、海___彼が力を高めれば高めるほど、新たな事象が生まれていく。
 『我が新たなる創造の糧となれ!』
 その攻撃は圧倒的だった。剣を振るえばデュランダルが世界を切り裂き、翼から切り離されて注ぐ羽は一つ一つが世界を砕き、巨木はその息吹でバランの体を蘇らせる。
 ソアラとフュミレイは諦めなかった。バランのおぞましさを認めつつも、自分たちも同じステージにいることは疑わなかった。懸命の戦いは、人々と世界を守ると同時に、自らの命の価値を証明するための戦いでもあった。
 勝てなければ、今までの全てが無になるのだ。それは死だけではなく、過去や未来をも抹殺されることになる。生きてきた証を失わないために、二人は戦った。だが力にははっきりとした差があった。中庸界の力を奴が奪うことによって差は決定的になった。
 『消えろ!!唯一の神の元に!!』
 バランが光った。蓄えられたエネルギーが一息に放散された。それは海を押しのけ、大気を消し飛ばし、世界の一角を巨大な灯火に照らした。一瞬の出来事だった。

 ゴゴゴゴゴゴゴゴ___

 海に底の見えない滝ができていた。世界に巨大な穴を開け、波濤が流れ込む。クーザーも、ライたちと歩いた蛇の道も、喧嘩中の百鬼と同船した港町シィットも、すべて削り取られたことだろう。中庸界のほぼ中心が、丸く削り取られたのだ。
 「はぁっはぁっ___」
 しかし虚無の柱はなかった。変わりに、宙高く漂うバランの下では、世界の盾となるかのように、ソアラとフュミレイが立ちはだかっていた。ソアラは両腕を黒こげにし、体を守る竜の甲殻もほぼ溶かし尽くされていた。
 「ぐっ___」
 フュミレイも全身を血に染めていた。体が耐えきれずにひび割れていくかのように、今も新たな傷が開いて血を弾かせた。崩れかけた彼女を、ソアラはほとんど感覚の無いだろう黒ずんだ右手で止めた。背を支えるようにしたその手は、触れた場所から外皮が崩れていった。
 それでも彼女たちはバランを睨み付けた。抵抗の意志を揺るがせることはなかった。本当は心折れそうだったけど、新たな希望を見つけたことが、二人を奮い立たせた。

 「あ___ぁあ___」
 ライはただただ唖然として言葉を失っていた。その手には、刃のない剣が握られていた。ファルシオンだった。
 「___」
 彼と背を会わせるようにして、夥しい光に身を包んだ青年が立っていた。顔はライに良く似ていたが、目元はフローラそのものだった。
 ポポトル島は七色の破壊光線と、巨大な津波を凌ぎきっていた。北の空に向くのはライとサザビー、フローラで、南の空に向くのは青年だった。
 「驚いた___な。」
 サザビーが呟く。島の形は随分と変わっていた。ライが両手で握るファルシオンの向きを垂直線として、正三角形のような形に変えられていた。剣と結ばれる頂点から伸びる二辺は、七色の波動で深い海溝が刻まれている。
 つまり、刃のないファルシオンが、七色の光線を真っ二つに割いたのだ。
 「やりましたね、父さん。」
 青年が当たり前のように言った。その言葉にあからさまに肩を竦めると、ライは勢い良く振り返った。
 「今、また父さんって___」
 「言いましたよ。事実ですからね。」
 「___アレックス!」
 「うっ___!」
 青年はあの老翁アレックスだった。ライは思わず彼を抱き締めるが、アレックスは触れられるだけで酷く苦しげな呻きを上げた。
 「ア、アレックス?」
 「___いいんです。でももう少し優しくしてください。ちょっとした衝撃でも体が崩れそうなんで___」
 そう言いながら恥ずかしげに微笑むアレックスの顔。肌が触れ合ったときの暖かみ。これこそがライが思い描いていた我が子の姿だった。
 ___事の次第はこうだ。
 七色の光線と津波の挟撃をうけたポポトルだったが、迫り来る強烈な破壊の意志と、彼を抱いていたフローラの救いを求める声が、アレックスを眠りから覚まさせた。目覚めるやいなや、アレックスの体は輝き出すと見る見ると若返り、フュミレイにも劣らないかと言うほどの膨大な魔力を噴きだして光線と津波の盾となった。それだけでなく、彼は懐から刃を失ったファルシオンを取り出すと___
 「これはまだ使えます。練闘気の要領で、刀身にオーラを纏わせるつもりで振るって下さい。力は消耗しますが、父さんならできます。あの破壊の力を切り裂いてください。」
 ライはあまりのことに放心してしまっていたが、彼に手を握られ剣を託されると、見る見るうちに意志を取り戻した。
 「母さんとサザビーさんも、父さんに力を。私は津波を食い止めます。」
 一瞬の出来事。ライとフローラだけでなく、サザビーもあまりのことにくわえていた煙草を落としたほどだったが、すぐに戦士の顔を取り戻し、七色に相対した。
 練闘気で剣を纏うようにすると、何もないはずの刀身の部分に白い波動が浮かび上がった。その状態を保つだけでもライたちは強烈な力の喪失に襲われたが、決死の思いで剣を振るった。ファルシオンは見事に七色の波動を切り裂き、破滅の力は綺麗に二分されて、島を撫でるように走って遙か彼方で弾け飛んだ。
 一方の津波は、反り返るような形で凍り付き、波自身による巨大な防波堤が作られていた___
 「アレックス___アレックス___」
 フローラは憚らずに涙を流し、立っていられずに、へたり込んだままわが子と抱き合っていた。
 「母さん、できの悪い息子でご免なさい。」
 「ううん___あなたが___そう呼んでくれたことが___」
 すすり泣きながら、フローラは我が子の頬を撫で、己の肌に彼の温もりを刻みつけるかのように愛撫した。
 「感動の腰を折って悪いが、どういうことなんだ?」
 彼女が落ち着きを取り戻すのも待たず、サザビーが冷静に尋ねた。
 「私は、酒の女神キュルイラに酒を飲まされて、眠っていました。」
 「酒?」
 「名前は忘れましたが___眠っている間、実に鮮明な夢を見せてくれる酒です。その夢の中で私は人生をやり直し、父さんと母さんの愛を受け、幸せな日々を歩みました。肉体相応の、よわい百に至るまでの長い眠りでした。その中でGの事を知り、夢に現れたキュルイラによって、実際の自分が歩んだ道と、父さんたちが直面している戦いの全てを知り、何とかして親孝行できる方法を探りました。」
 「___それが若返りか!」
 アレックスは頷く。
 「ただ、これは捨て身の魔術です。全てを犠牲にして、短い時間だけ全盛期の肉体と力を取り戻す。術が切れれば待つのは死だけです。」
 しかし喜びも束の間。ライとフローラは再び絶句するしかなかったが、アレックスは物憂げな香りを残しつつも、穏やかな笑みを浮かべていた。
 「嘆かないでください。どのみち老衰で死ぬ身です。これまで何一つ親孝行できなかったことは悔やんでも悔やみ切れませんが、私は死を悔やむことはしません。」
 「何一つなんて___生まれてきてくれたこと___それこそが何よりの親孝行よ___」
 フローラは涙ながらに言った。彼の決意を感じたのだろう、頬に触れることはあっても、もう縋り付こうとはしなかった。
 「それだけの覚悟があるってことは、何か考えがあるな。」
 「その通りです。せめてもの報いに、故郷を守る力となりたい。」
 「手ぇ貸すぜ。」
 そう言ってサザビーが手を差し伸べる。
 「ありがとうございます。」
 「アレックス、父親として僕も放ってはおけない。」
 「父さん。」
 凛とした立ち姿を取り戻し、ライもまた手を差し伸べる。父子はがっしりと握手を交わした。それもまた、両者にとって幸せな瞬間だった。
 「フローラ、君はここに残るんだ。」
 「でも___」
 「大丈夫、必ず戻るよ。」
 別れはあっという間だった。フローラはライと口付けを交わし、そのままアレックスともまた口付けと抱擁をして、口惜しさを隠せない顔で、それでも持ち前の意志の強さで彼から離れた。
 そして、アレックスの魔力が輝き、三人を空の彼方へと導いていく。それを見送っていたフローラだったが、やがてよろめくようにへたり込むと、ひたすら泣くばかりだった。

 世界は味方___のはずだったのに、今は人質も同然だった。バランは世界のエネルギーを吸いながら肥大化し続けている。あえて虚無に落とさず、骨の髄まで吸い尽くすかのように、世界を枯渇させていく。
 ソアラとフュミレイは必死に戦ったが、時間と共に二人は消耗し、バランは力を増していく。フュミレイも世界の力を吸う方法は身に着けてはいるが、やはりバランとはスケールが違う。先ほどそれを試みて、世界を媒体にしてバランとフュミレイのパイプが結ばれ、彼女は再生途中だった片腕を失うほど、力を吸われてしまった。思いあまってソアラに切断させなければ、すでに命まで吸い尽くされていただろう。
 抵抗はする。しかし策は尽きていた。あれほど巨大な敵を、再生も許さず一気に打ち砕く秘策は無い。破壊、吸収、再生、そのどれか一つだけでも欠けていればチャンスはあるだろうに。
 勝ち目は薄い。フュミレイがそう思い始めたとき___
 「惜しいんだけどな___」
 荒い息を付きながら、ソアラは舌打ちをしていった。
 「惜しい___だと?」
 激しい敵の攻撃から逃れながら、二人は言葉を交わす。ソアラの表情を見る限り強がりでないことは明白で、フュミレイを驚かせた。
 「色んなものを奪って服従させてるけど、その実、不安定なのよ___あの心に全力で働きかけられたら、バランを驚かせることができるのに___」
 ソアラの言葉には仮定がなかった。戦いの中で何か___おそらくはバランの中に混在する様々な遺志___を感じたのだろう。彼女はそこに突破口があると確信しているように思えた。
 ゴゥゥッ!!
 突如、フュミレイが闇の炎に包まれた。自らの命を削るほどの強力な波動に、ソアラは驚きを隠さずにいた。
 「一人で止めてみせる。だからおまえもバランを驚かせてみろ。」
 それだけ言い残すと、フュミレイはソアラの返事も聞かずにバランへと突貫した。
 「フュミ___!」
 ソアラは彼女を呼び止めかけ、途中で言葉を飲み込む。すぐさま意を決したように、宙に留まったまま目を閉じた。そして周囲の喧噪をよそに心を研ぎ澄まそうとする。

 時に放たれる殺意に満ちた力。しかしソアラは動じることなく、雄々しき闇に任せた。目は閉じていても、フュミレイがバランに必死に食い下がる様は手に取るように分かった。しかし彼女の身を案じるよりも、バランの意識の底へ深く飛び込むことに集中すべき。自らの命も、彼女への信頼に委ねて。
 キン___
 水の雫が鐘を打つかのような音がする。それがソアラのスイッチだった。あらゆる喧噪の中でも一瞬で意識を集中する術は、長き戦いの中で培ったもの。

 _
 __
 ___
 ___深く澱みのない青の中に、ソアラは一人で立っていた。
 雪の結晶が煌めいている。それは冷たそうに見えて、凛とした輝きを放ち、心に安らぎをもたらしてくれる。あれがフュミレイの心の形。
 その向こうに、不遜なまでに大きな輝き。渦を巻き、辺りの全てを食べ尽くそうとしているが、渦の中には別の光の粒が飲み込まれていた。光の粒は力無く、少しずつ削り取られている。時に線香花火のように火花を散らすが、尊大な渦が一つうねると容易に押さえ込まれてしまう。
 しかし、小さな粒は屈服してはいない。欲望に満ち満ちた渦に、なんとかして逆らおうと藻掻いている。
 「奮い立て!」
 ソアラは紫の竜になっていた。これが彼女の心の形。両親の血を誇りに思うからこその形。竜は覇王さながらに雄々しく叫ぶ。
 「オコン!!」
 海神の名を呼ぶ。渦の中で小さな粒が青く煌めく。
 「ビガロス!!」
 大地神の名を呼ぶ。渦の中で小さな粒が茶に煌めく。
 「キュルイラ!!」
 酒の女神の名を呼ぶ。渦の中で小さな粒が紫に煌めく。
 「ロゼオン!!」
 鋼の神の名を呼ぶ。渦の中で小さな粒が黒く煌めく。
 「リシス!!」
 森の女神の名を呼ぶ。渦の中で小さな粒が緑に煌めく。
 「リーゼ!!」
 収穫の女神の名を呼ぶ。渦の中で小さな粒が橙に煌めく。
 「セラ!!」
 戦の女神の名を呼ぶ。渦の中で小さな粒が赤く煌めく。
 「オルローヌ!!」
 探求神の名を呼ぶ。渦の中で小さな粒が藍に煌めく。
 「ジェネリ!!」
 風の女神の名を呼ぶ。しかし新たな光は起こらない。
 「ジェネリ!!あなたはまだ戦える!!」
 渦の中から光の粒よりも遙かに小さな砂粒が零れ出る。それは青い煌めきの回りを囲むように動き、やがて小さな小さな白い煌めきを放つ粒となる。
 「ありがとう___!」
 今にも消え入りそうな光。しかし青い煌めきがそれを消すまいと一層強く輝いていた。
 「エコリオット!!」
 妖精神の名を呼ぶ。渦の中でもったい付けるようにゆっくりと、小さな粒が桃色に煌めく。
 十の光が揃う。それは大いなる渦に逆らい、流れを止めようと動く。しかし渦は彼らを以てしてもなお、力で全てを支配しようとする。だから紫の竜は、あの男の名を呼んだ。
 「バルカン!!!」
 しかし煌めくものは何もない。光の粒も何もない。
 「バルカン!!お願い___力を貸して!!」
 何も起こらない。
 「バルカン___!」
 思いあまって、紫の竜は渦の中へ身を投じていた。
 「っ!!」
 直後、彼女の体は針の筵に押しつけられた。人の姿になったソアラは、四肢に枷を結ばれ、さらに体の至る所に杭を打ち付けられた姿でそこにいた。渦の中はなんの自由もない、束縛の空間。
 「バルカ___!」
 声すら許されない。目の前には、全身を鎖でグルグルに縛られた状態で、長い串に貫かれたバルカンがいる。彼に呼びかけようとしたソアラの口は、瞬時に縫いつけられ、塞がれてしまう。
 「理想だ。」
 そして彼女は声を聞いた。バルカンの前に立ったのは、見慣れない男。しかし彼女には、これが束縛の神ムンゾなのだとすぐに分かった。
 「大神バランの求む世界は私の理想だ。唯一の神として、世界のあらゆる事象を掌握するのは、究極の束縛だ。」
 「違うわ!それは束縛すらない無味の世界よ!」
 「ほざけ小娘!」
 枷が四方へ強く引かれる。ソアラの体は引き盛れんばかりに伸ばされる。抵抗しようにも、体に力が入らず、呪文一つも形にできない。なにせここはバランの心の中だから。
 ゾクゾクッ___!
 そればかりか、下腹部に妙なむず痒さが走り、彼女を驚かせた。
 「忘れたか?貴様はすでに私の束縛の元にある。フェリルに何をされたか忘れたか?」
 一瞬、全てが暗転する。下腹部の感覚だけが際だって掻き立てる。それはソアラにとって恐怖と屈辱でしかない。
 「これは奴の心を縛った私の望みに等しい。」
 服が消えたのが分かった。肌に触れられたのも分かった。触れて欲しくない男の手が、触れて欲しくない場所へと這うのも分かった。
 おぞましい過去の記憶が想起する。だがソアラの恐怖は一瞬の事だった。すぐに視界が戻ると、彼女は鼻面に触れようかという距離で、首を後ろから刀で一突きにされたムンゾの足掻きを見た。
 「人の嫁に手ぇ掛けたらどうなるか、思い知らせてやるよ。」
 刀を握っていたのは百鬼だった。彼はかつてと同じバンダナ姿で、かつての愛刀・百鬼丸をムンゾに突き立てていた。
 「き、貴様___またしても貴様か!___この心の世界で___我が最強の結界をなぜ破れる___!」
 「束縛できないものを持ってるからさ。」
 グンッと力を乗せて、百鬼がムンゾを押し倒す。縛られたままのソアラの前で、百鬼は俯せに倒されたムンゾの上にのし掛かっていた。
 「そんなものがあるはずは___っ!?」
 苦し紛れに首をねじ曲げたムンゾはハッとした。背に押し当てられた彼の左肩に刻まれた印を見たのだ。
 「俺だけなら負けただろう。でもな、あいにく俺とソアラを結ぶのは無限だ。幾ら縛ったって限りがねえ、俺たちを再び出会わせたことがおまえの失敗だったな。」
 「お、おのれぇぇ___あと___あと一歩のところで___!!」
 ムンゾが必死に藻掻く。死してなお欲望に捕らわれた男の末期は、魂の消失すら惨めであった。
 「ハァァァッ!!!」
 せめて清らかに、百鬼の目映いばかりの練闘気がムンゾを消し飛ばす。直後、ソアラを捕らえていた枷は消え、食いに打ち抜かれた傷も全て消え失せた。
 「良くここに来てくれたな、ソアラ。」
 「______」
 「辛かったろ?でもここまで来れたおまえなら大丈夫だ。絶対にバランに___」
 「___」
 ソアラは百鬼の胸に飛び込んだ。
 「どうして___」
 そして涙声で言う。
 「どうして死んだのよ___!」
 押さえつけてきた思いを叫ぶ。
 「さぁな。でもこうしておまえの力になり続けられる。この戦いを勝つためには、俺は死んだ方がよかったのかもしれないぜ。」
 「そんなこと___!」
 ソアラは激昂した。しかしそれを予想していたかのように、百鬼は彼女の唇を塞ぐ。忘れることはないけれど、彼女の記憶のキスとは、少しだけ感触が違っていた。それが彼がいなくなってからの時の流れをソアラに思い知らせる。
 「ごめんな。おまえには迷惑ばっかり掛ける。」
 「ぅぅう___ぅああっ!」
 泣かずにはいられなかった。
 「ソアラ、泣きながらでいいから聞け。おまえの考えているとおり、バランはGを手の内に入れていない。今までは奴の協力者とも言えるムンゾの力で、俺や十二神の魂を縛り付けていたから、奴は自我を持って振る舞えた。だが、もうそれもなくなった。」
 大きくて武骨な手。筋肉質な胸と腕。そしてなにより、包みこむような大きさ。彼に抱かれる感触。この至福の瞬間を懐かしく思ってしまった自分が憎かった。
 「見ろよ。」
 一頻り抱き締めてから、百鬼は片腕を放してソアラの顔を上げさせる。そこには、鳥の顔と翼に人の体を持つ男がいた。しかしソアラが知っている陰湿で凶悪な鳥人間ではなく、円らな瞳から正義感と誠意が滲み出ている好漢だった。
 「私には詫びの言葉が見つからぬ。ましてや感謝の言葉など、何を尽くしても足るものはない。」
 「バルカン___」
 神妙に、バルカンはソアラの前で頭を垂れる。ソアラは百鬼の腕の中で、まだ涙は止められなくとも笑みを見せた。
 「いいよ、もういい。ずっとバランを押さえつけてくれたんだもの。大変だったでしょ?まわりに十人もいて誰も気付いてくれなかったんだものね。」
 そう言ってソアラは百鬼から離れた。バルカンは頭を垂れたまま肩を震わせていた。涙を必死に堪えているかのようだった。
 「ありがとう百鬼。それにバルカン、十二神のみんな。」
 「戻るか?」
 「うん、バランを倒すよ。」
 ソアラの心が現実に傾くと、それだけで百鬼と十二神の姿が遠ざかっていく。
 「俺たちの魂が解放されたことで、きっとバランは自我を維持できなくなる。そうなったらもう力と力の勝負だ。俺たちも内側からできるだけ抵抗するよ。」
 「うん、ありがとう。」
 手を振りあう二人。そうしているうちに、ソアラには百鬼が十二神の真ん中に立つ姿が、とても板についてみえた。まるで魂の神とでも名乗っていたかのように___
 ___
 __
 _

 『グゴガァァァァアアアアアッ!!!』
 突然だった。バランの体で大量のエネルギーが膨れあがったかと思うと、見境無しに四方八方へと破壊光線を乱れ撃ちにする。
 「な、なんだ___急に!?」
 突然の変化はフュミレイを慌てさせた。一つ一つが大陸を火の海に包むほどの破壊の輝き。自分の前に飛んできたものだけは何とか弾き飛ばしたが、こう乱れ撃たれては手に負えない。
 「!」
 そればかりか、これまで弄ぶようにフュミレイを追いつめていたバランが、突如として本能の赴くまま、狂気を剥き出しにして彼女に襲いかかった。攻撃は繊細ではないが、挙動一つで世界を壊す男だ。力押しでも十分に隙がない。
 「がっ!」
 触手の一つがフュミレイの頭を掠める。それだけで彼女の体は大きく弾かれた。そこに、球体に開いた口から破滅の光線が迸る。

 カッ!!

 北の空に閃光が広がる。かつて栄華を誇ったケルベロスは、すでに大陸ごと崩壊へと追いやられていたが、その名残さえ消し飛ばすほどの破滅の輝きが、世界の北部を覆い尽くしていた。
 「良く粘ってくれたわ___」
 「___」
 フュミレイは生きていた。現実に舞い戻ったソアラが、すんでの所で彼女をかっさらったのだ。しかしフュミレイはソアラの腕に抱えられるようにして、愕然の面持ちで北の空を見ていた。
 「虚無が___」
 北の空が閃光の白から淀みない黒へと変わった。中庸界もついに虚無に蝕まれてしまった。虚無を埋める力を持っていても、世界が傷つくことを恐れるなとは言っても、虚無に落ちてしまえばそこにあった全てが戻るわけではない。彼女が懐古すべき故郷は、もう二度と戻ることはないのだ。
 「フュミレイ、気をしっかり持って。バランを倒さなければ全てが消えるわ。」
 「勝てるのか___力が違いすぎる___」
 「情けないこと言わないで。あんたらしくもない。」
 言葉を交わす間もバランの攻撃は続く。ソアラは巧みにやり過ごすが、刻一刻と世界は滅びに向かっている。海も空も大地も荒れ狂い、全ての景色が黒み帯びた橙に変わっていく。
 「あたしたちには味方がいる、でも敵はあの力だけよ。世界を滅ぼそうとする力だけ。そこには大義も、感情も、理想も何もないわ。ただ過ぎた力が行き場を無くしているだけ。あたしたちは、それを受け止めるの!」
 そう叫んだ直後、身の毛のよだつほどの強大な力を感じた。見ればバランの全身が七色の波動に包まれ、今までにない究極のエネルギーが巨大な口に結集していた。丸い肉塊のような体は激しく脈打ち、赤い触手や球体から伸びる様々な部位が嗄れていく。石膏像のようになったバランの顔にも罅が走り、あまりに強大すぎる力に口の回りに蔓延る牙が砕け始めていた。
 「あれを受け止めるのか___?」
 もはや笑うしかない。フュミレイはソアラの腕に抱えられたまま、引きつった笑みを浮かべてバランを指さした。
 「理性が消えて___バランの肉体が力を抑えきれなくなっている___!」
 「ただそれでもあたしたちを殺そうという意志はあるみたいだな。」
 「___止めるしかない!避けたって中庸界が消えるだけよ!」
 「フフフ___」
 この緊迫した状況下でフュミレイは笑っていた。気でも触れたかと思うが彼女に限ってそれはないと信じたい。
 「笑ってる場合じゃないでしょ___!」
 「いや、おまえは良い父親を持ったな。」
 「え?」
 「そうやって無理にでも仲間を奮い立たせられる。」
 そう言うと、フュミレイはソアラの後ろに立って彼女の背に触れた。
 「竜波動でも何でもいい。全力でぶちかませ。あたしは世界から力を借りておまえに注ぎ続ける。中庸界が消えるのが先か、バランが朽ちるのが先か、やってみようじゃないか!」
 「フュミレイ!」
 「さあ来るぞ!!」
 光が広がる。バランの口から、Gの全てが放たれた瞬間、海が干上がるほどの衝撃が世界に広がる。その衝撃の源は、あまりにも巨大なエネルギーの集合体。照準は、放たれたエネルギーと比べて砂粒以下の大きさにしかならない戦士を捕らえていた。
 「ぅぅぅああああああああああ!!!!」
 ここで全ての力を使い切っても構わない。血の一滴までこの一撃に込める!
 「竜波動!!!」
 ソアラは真っ向から挑んだ。

 ドゥオオオオオオオオオッ!!!!

 二つの力がぶつかる。それは世界を爆風の渦に飲み込み、海を押しのけ、大地を砕き、地の底に蠢くマグマをも押し返す激しさ。
 「ぐぐぐぐぐぅぅああっ!!!」
 しかし圧倒的にバランが優勢。突きだしたソアラの腕は、もともとダメージが残っていたこともあってかすぐに押し込まれ、肘ががくがくと震えている。あまりに巨大すぎるバランのエネルギーに、ソアラの波動は針の一刺しにもならない。あまりに細いつっかい棒だった。
 「中庸界よ!我が故郷よ!必ずやあなたを救い、奪った力を返上する!どうか___我らに力を!!」
 しかしフュミレイの体が淡い光に包まれると、彼女たちの下にもその姿を覗かせたマグマの表面から、蒸気のように白い霧が立ちのぼり、フュミレイの体へと吸い寄せられていく。この時代に彼女だけに許された能力で、マグマを分解し、組み替えて、自らの体を通じ、ソアラのエネルギーとする!
 「ぁぁぁああああああっ!!!」
 背から注がれる夥しいエネルギー。それは見事なまでにソアラの竜波動を強くする。マグマを自分の魔力ではなく、ソアラが有効に使える力に作り替える手技は、果たしてギギ・エスティナールにもできたかどうか。
 グンッ!!
 一方的に押されていたソアラの波動が力強さを増し、バランの波動を押し留める。ズタボロになったドラグニエルも懸命に輝き、ソアラの力を高めようとする。
 「もっと___もっと力を!!!」
 しかしまだ足りない。バランの体の一部が枯れると波動は一層力強さを増し。また押し込み始める。
 「ぬぅぅ___!」
 フュミレイは両手をソアラの背に押し当てた。そして髪を逆立てるほどのオーラを漲らせる。真下のマグマだけではなく、辺り一帯の形あるもの全てからフュミレイ目がけて白い光の帯が走る。それが彼女の体を包むと、腕を通じて一気にソアラに流れ込む。
 衝撃は彼女の全身の肌を引き裂いたが、構いはしない。
 「ああああああっ!!」
 ソアラの体も悲鳴を上げている。放出口である手では、すでにドラグニエルすら吹き飛んでいる。だが構いはしない。
 『ググゴガ!?』
 バランの肉のどこかが呻きとも取れない声を上げる。そしてここが勝負と察したのか、球体から伸びていた体の部位の全てが一気に消え去った。
 ドゥボォォォ!!
 「!!!」
 凄まじい圧力。二人の体は大きく後方に押しやられる。ソアラの腕はギシギシと異様な音を発し、呼吸もままならないほどの圧が真正面から注ぐ。
 「ぐっ___がぁぁぁあ!!」
 ソアラの気合いが苦悶に変わる。つっかい棒はどんどん浸食され、短くされていく。
 「二秒___二秒あれば___!」
 フュミレイもソアラの体が圧されているのは分かった。だが同時に、この危機を打開する術も見出していた。しかしそれにはどう足掻いても二秒必要。そしてそんな時間はもう無い。ソアラの肉体の限界を感じてしまったから。
 メシャッ___
 世界を揺るがす轟音の中でも、ソアラの腕が正面から拉げて押しつぶされる音が聞こえた。それでも彼女は波動を自らの腕の添え木として堪えようとしたが___
 「ごめん___!」
 それは最後の足掻きに過ぎなかった。

 バランの波動がつっかい棒を飲み込む。
 それでもソアラとフュミレイは最後まで自らにできる最大限の力を注ぎ続けた。
 「え?」
 それが功を奏した。
 「!」
 突然だった。バランの波動が弱まった。
 半減した。
 つっかい棒は見た目とは違う強靱さで、敵の波動を真っ二つに割いた。
 切り開かれた道の先には、肉塊の球体。
 その天辺には、刃のない剣を突き立てて吠えるライとサザビーと老翁アレックスがいた。
 彼らは全ての怒りと、全ての願いと、全ての希望を背負って、バランにファルシオンを突き立てていた。
 彼らをここまで導いたろうアレックスの体は、いままさに罅入って粉々に砕けた。

 ゴォォッ!!!

 ソアラの竜波動がバランの口に抉り込む。
 「あああああああ!!」
 バランの体が膨れあがる。しかし貫きはしない。
 竜波動を食おうとしているのだ!
 「みんな___みんな力を貸して!!!」
 ソアラが叫ぶ。心の底から叫ぶ。無防備なバランの精神に働きかけ___

 ドドドドドドドド!!

 球体の内から十一の光が迸った。それはソアラとフュミレイの体に均等に注ぎ込む。ムンゾを除く十一の神は、バランの呪縛を脱し、新たなる母の元へ。
 二人の回りに、オコンがバルカンがオルローヌが、十一の神々が支える像が浮かび上がる。
 「ライ!サザビー!離れろ!!!」
 フュミレイが叫ぶ。二人は決死の思いでファルシオンから手を放し、可能な限りの力で飛び退いた。
 そして___
 「いっけええええええええええええええ!!!!!!」
 完全にバランを凌駕したソアラとフュミレイ。二人の力が一つになって、バランを風船のように膨らませ___

 ゴォアアアアアアアアアアアア!!!!
 破裂させた。

 その瞬間である。
 『勝ったと思うか?』
 時の流れなど無い精神世界。突如として二人の精神にバランが働きかけた。まるでソアラの力のように、冷静なバランの声が、二人の心に注いだ。
 『砕け散らせただけだ。私は滅びない。肉片の一つでも、また再生する。密かに力を蓄える。』
 だが二人は恐れはしなかった。
 「二秒。今その時間があった。」
 冷酷な声でフュミレイが答える。彼女はソアラの父の能力を羨ましいと言ったが、ソアラにしてみれば冷酷無比な父の血を継いだ彼女の気質が羨ましかった。

 シン___

 轟音が消えた。そこは音すらない空間だからだ。
 肉片は黒一色、いや、色さえない場所に散らばった。
 世界から力を借りていたフュミレイは、広い範囲から力を削り取っていた。
 その力の供給源をである、もしバランの真下一箇所に集中したらどうなるか?
 答えは簡単。全てを奪い取り、虚無の柱が立つ。
 その所作に二秒必要だったのだ。
 「おまえの力は虚無への耐性ではない。虚無すら苦にしないほどの過ぎた力があったから、耐えられただけだ。」
 氷の篭手が煌めく。虚無の中で、肉片はなにやら藻掻き、その一つはバランの顔になって、何かを叫んでいた。
 しかしもう、二人に声は届かない。
 バラバラになった肉片は、七色の光を噴きだして消滅する。
 最後に、バランの顔も消えた。
 ___
 __
 _

 海。
 冷たい海。
 だが今は、熱せられた世界のせいで本来の冷たさはない。
 冷たいものがあるとすれば、それはこの先に広がる虚無の壁だろう。
 世界の危機に魚たちの姿がない。
 本能がこの場は危険だと感じているのだろう。
 荒れ狂う海の中に漂うのはゴミばかりだった。
 海草、瓦礫、死体、肉塊___
 だがこの中に、意思を持ったゴミがあった。
 肉塊が、漂う魚の死体にへばりついたかと思うと、突如として鳥モチのように広がり、魚体を包み込んだ。
 死体から死体へ、移ろう肉塊。やがて統制を失って逃げ惑う生きた魚の群に辿り着くと、肉塊は喜々として「力」を食い散らす。
 そして大きくなって海中から浮上すると、みるみるうちに人型を取り戻し___
 『ゥゥ___グゥァァアッ!___ハァッ!ハァッ___!』
 バランになった。老人のバランに。
 『___このようなことが___我が理想が___』
 バランは息も絶え絶えに、ただひたすら口惜しさを噛みしめる。十二神に逃げられ、彼の力は著しく衰えていた。だが幸いだったのは、偶然でしかないのだが理性を失った段階で、力の高まりでいくつかの肉片が千切れていたこと。その一部が先ほどの衝撃にも消し飛ばされずに残ったこと。
 そして___Gの仕組み、奪った生命力が我がものとなる仕組みが、未だ残っていること。
 『我が命は尽きぬ___今は力を蓄え___反撃の時を待つ___』
 バランはゆっくりと再び海に沈み込む。
 『___?』
 いや、沈み込めない。
 それどころか身動きが取れない。
 まるで何かに縛られたように、指先一つまで動かなくなっていた。
 『!!』
 原因はすぐに分かった。その存在を思い知らせるように、バランの胸に無限の紋様が浮かび上がったからだ。
 「百鬼が殺されてしまったこと___悲しかった。絶望的だった。」
 ソアラの声。バランの真後ろにいる。しかしバランは振り向けない。
 「でも___本当に皮肉だけど、あいつがGの一部となっていなければ___この戦いは勝てなかった。今も、きっとあんたに逃げられていた。」
 ソアラは落ち着いている。だが必死に落ち着きを保っているようだった。膨大すぎる力に今にも狂い出しそうなを自分を、押さえつけることに腐心しているようだった。
 可能性はある。
 彼女の体にある種の薬を打ち込むことができれば、精神の歯止めを外させ、暴走させることができる。十二神は離れたが、バランにはかつて奪った多くの神の能力がまだ残っているのだ。
 いまソアラには油断がある。敵の力が劇的に衰退したことを感じ取り、ましてや百鬼の存在に勝利を確信している。
 確信の瞬間こそが最も注意すべき危機であることを忘れている。それはやむを得ないだろう。おそらく彼女が生まれてきた意義とも言える戦いが終わりを迎えようとしているのだ。高ぶるなと言われても難しい。
 それはバランにとってチャンスだ。身動きは封じられているが、再生能力まで消えた訳ではない。拳が触れる瞬間に、その場にある種の毒を結集し、ソアラを罠に嵌めれば良いだけだ。
 絶対であるはずの大神が、このような姑息な手に打って出なければならないのは腹立たしい。しかしこれは好機なのだ。もう一人の厄介な魔女は、まだ遠くで藻掻いている。いまこの状況において、願ってもない一対一なのだ。
 刹那、彼は逆転を確信した。
 確信こそが本当の危機だというのに。
 『な___』
 分からなかった。何が起こったのか分からなかった。背中を取られていた彼は、ソアラを錯乱させる毒を背に集中させていた。にもかかわらず、彼は振り向いていた。
 ソアラは深く考えていなかった。彼女にしてみれば、土壇場でバランが百鬼の呪縛から逃れて振り向いたとしか感じなかっただろう。彼女にしてみれば、バランの耐性がどうだろうが構うこともなく、バランの罠も疑ってはいなかった。とにかく百鬼を信じて拳を振るうだけだったのだ。
 いま、バランの寝首を掻くような真似をしたのは、ソアラでも、ここにいないフュミレイでも、バラン自身でもない。
 それは、止まった時の中で行われた。
 バランの体の向きをクルリと変えるだけ。
 だがそんなことは、よほどの勘がなければできない芸当。
 おそらく、悪は悪を知るというか、悪知恵の働く者でなければ考えもつかない機転。
 そして時を止められなければできない所業。

 バランは思い知らされた。
 彼は、Gは確かに究極ではある。
 しかし無限ではない。
 そして時の流れまでは支配していない。
 虚無の中でも、そこに存在が生まれれば、時は流れるのだ。
 「うあああああああああ!!!」
 ソアラが叫ぶ。全身全霊を込める。一縷の肉片も残さぬよう、光の中でバランを砕く。バランを押さえつけていた百鬼の温もりが彼女の心に宿るまで、ソアラは力を緩めることはなかった。
 バランは考えた。アイアンリッチと同じように、死してなおそやつの精神を支配すれば復活はかなうと。しかしすぐに挫折せざるを得なかった。無限の絆に結ばれた魂があるかぎり、それは適わないと悟ったからだ。
 彼は敗北を認識した。
 諦めると、自我を保つものは無くなった。
 それはそれで、至福の時であった。
 その瞬間だけは。

 「やった___」
 ソアラは呟いた。ズタボロの体で、しかし精悍な面もちで、殺伐とした景色の中で呟いた。
 「やったよ百鬼___」
 涙がこぼれた。左腕では、無限の紋様が消えようとしていた。彼がようやく眠ることにしたのだと知った。
 「やったよリュカ___ルディー___」
 我が子のことを思う。今のバランの有り様を見れば、天界での戦いがどうなったかも容易に想像が付いた。
 「ありがとう___みんな___」
 家族に、仲間たちに、感謝する。勝利が別れの時と感じていたから。
 「うぅ___ぅぅう___」
 体が震え出す。悲しくて震えているのではない。内側から突き破らんばかりの夥しい力に、体が悲鳴を上げている。戦いで刻まれた傷は、先程からすでに兆候はあったが、超絶なスピードで再生していく。
 ソアラはGになったのだ。傷つけば再生し、おそらくバランのように、力に適した体に進化する。だがそうはなりたくなかった。
 「ぅぅうう!」
 抑えきれるだろうか?体の悲鳴はまだまだ序の口だろうに、精神的な疲労感が彼女を追いつめていく。

 「どうされます?」
 それを遠くから見やる影二つ。
 「今ならば容易に始末できましょう。こちらに向かっているもう一人も、同様に力を制御しきれておりません。」
 いつ何時でも低い声のトーンを崩さず、ダ・ギュールが問いかける。
 「ふむ。」
 アヌビスは長い耳を動かしながら、ソアラの様子を見ていた。彼はダ・ギュールの問いかけに少しだけ考えて___
 「いや、やめておこう。」
 と、答えた。
 「そうですか。」
 「不満か?」
 「いえ、そう言われるだろうと思いました。」
 「だよな。やっぱりあの力は好きになれないし、ソアラには楽しませてもらったが、少し飽きた。」
 「フッ___詭弁を。」
 アヌビスはダ・ギュールを振り返り、ニヤリと笑った。
 「冥府のテイシャールめから、異形の王ウリゴアが黒曜の谷にて決起したとの報せがありました。これで反旗を翻した勢力は五つ目です。」
 そして少なからず好奇心をそそられたか、目を光らせて舌なめずりした。
 「もっと出てくるだろ?ほったらかしだからな。少しは面白くなってきたじゃないか。」
 「眷王の子エダも腹心ズウァルの差し金で立つのではないかとのことてです。」
 「いいね、なかなか。次の趣味は庭いじりというのも悪くはない。そうこうしている間に、新しい竜の神様が一人前になるだろう。」
 「___まったく、不粋ですな。」
 「フフフ。」
 自由気ままに。アヌビスは最後まで彼らしく振る舞いながら、しかしダ・ギュールの知る限り最も難敵となるはずだったGを倒させることに成功した。その力を勝手知ったる人物に持たせ、さらに三元世界を崩すことでGは触れることのない場所で眠る。望ましい結果といえた。
 「さぁ、帰るぞダ・ギュール。」
 「冥府はどちらに。じきに三元世界が分断されます。」
 「天界の近くだ。俺はもう中庸界には手を着けない。」
 「御意に。」
 深々と頷いたダ・ギュールから視線を逸らし、アヌビスはソアラを振り返った。調度フュミレイが到着したところだった。
 「じゃあな、ソアラ。おまえといる時間は最高に楽しかったぜ。」
 それは正直な言葉だった。嘘偽りでいつもソアラを苛立たせてばかりだったが、少し寂しかったから、アヌビスは本音を口にした。
 そしてソアラの側から姿を消した。

 ゴオオオオ___

 世界が揺らぎ始めた。
 バランは消えたが、世界の北に聳えた虚無は静かに在りし者を食らい続けている。それだけでなく、傷つきすぎた世界が至るところで悲鳴を上げている。
 このままではいずれにせよ中庸界は滅ぶだろう。しかしソアラとフュミレイにはそれが阻める。はじめからそうなることを考えていた。だから世界の力を借りてまで戦ったのだ。
 「結局___甘えることになるね___」
 「そうだな。あたしたちでは受け止めきれないものを、母なる大地に託す訳だからな。」
 二人は落ち着きを取り戻していた。体は依然震えているし、溢れ出る力を抑えるのは難しい。だがゆっくりと、安定へと向かっている。
 それは二人が手を繋ぎ、足下からゆっくりと流れる光の帯が、少しずつ虚無を埋めているためだった。
 「後悔はないか?」
 「う〜ん、こういう人生になるとは思わなかったけど、あたしがやってきたことに後悔はないわ。フュミレイは?」
 「無いよ。あたしはここが好きだから。黄泉で過ごした時間が長かったから余計にね。」
 ソアラとフュミレイは、清々しい表情でいた。それは彼女たちが二人であり、胸の奥にいつも愛しい人の温もりを感じていられるからだった。

 あたしたちの体に宿ったGで、中庸界の崩壊を止め、再生に導く。
 元の豊かな中庸界に戻るには時間が掛かるだろう。それこそ途方もない時間が。
 あたしたちは眠り続ける。血の一滴、骨の一片が世界の糧となるまで。
 あたしたちが、世界の母となるまで。
 皆の幸せを祈りながら。
 ありがとう、と言いながら。

 「ぷはぁっ!はぁっはぁっ!」
 「はぁはぁ___げほっげほっ!」
 破壊のエネルギーに削り取られた岸辺は、ゴツゴツとした岩肌が剥き出しになっていた。そこに必死にしがみついて、海中から姿を現したのはライとサザビーだった。
 「バランは!ソ、ソアラは!?」
 ライはここがどこかも分からないまま辺りを見回す。異様な色の空をどれだけ見渡しても、巨大な肉塊も、黄金の光も見あたらない。二人は視界の広い場所に出ようと、無我夢中で崖をよじ登った。
 「!___見ろ!」
 崖の上に辿り着いたサザビーが北を指さす。遅れてきたライもその光景に目を奪われた。
 「虚無が___消えていく!」
 世界の半分が夜になってしまったかのように、北の果ては漆黒に染まっていた。水平線の上に黒い壁が立っていた。その黒が、少しずつ空の白や海の青に塗り潰されていく。
 「勝ったんだ___ソアラは___」
 「ああ。」
 「勝ったんだ___僕たちは!」
 「ああ___」
 「やったよ___アレックス___!」
 ライは前のめりに崩れ落ち、がけの縁で四つん這いになって泣いた。サザビーもまた、よろめくようにしてその場で座り込んだ。
 勝利は同時に別れを伴っていた。でも悲しんでどうなる。生きていることを喜び合い、美しいこの世界で実り多き人生を謳歌してこそ、全てが報われるのだ。
 「サザビー___」
 目を真っ赤にしたライが、晴れ晴れとした笑みで胡座を掻き、サザビーにむけて掌を翳す。死力を尽くした掌は真っ赤に腫れて、肩から上には上がらなかった。
 「やったな。」
 二人の手が重なる。心からの安堵と充実が、自然と笑いを誘う。
 空に青さが戻っていくと、日が射してきた。
 それは全ての形あるものを祝福するかのように、暖かだった。




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