2 活路
「姫!」
まだ平穏とは言えないが、ひとまず黄泉から脅威の元凶は去った。しかしここで暮らしている全ての生命が、空の異常に恐れおののいていることだろう。事実、破滅の神はじきに舞い戻る。しかもだ、ソアラたちにとってはとても落ち着いていられる状況ではなかった。
「空は!?闇は___!?」
ソアラは小さな榊の肩を掴んで問いかけた。榊はあまりの出来事に言葉を失っていた。明らかに青ざめて見えた。
「何もない___」
「!!」
「全ての闇が消し飛ばされおった___」
愕然が広がる。ソアラは溜まらずに、榊の肩を掴んだまま紫に戻り、膝から崩れ落ちた。
「お母さん!」
リュカとルディーが心配して駆け寄る。しかし放した手を母が大地に叩きつけたことで、足を止めた。
「やられた!___あたしたちの記憶で、闇から異世界に行けるって知ったんだ!」
「あいつはどこに行ったの?」
「天界と言ったか、そこへの道が開くのを感じた___だが、その道はもう絶たれた。」
「倒しきれなかった!チャンスはあったのに!」
悔やんでも悔やみきれない。こうしている間にも天界が破壊の限りを尽くされているかもしれない。でもどうすることもできない。ソアラは今にも泣き出しそうだった。
「可能性はありますよ。あなたの弟の力を借りればね。」
しかし涙がこぼれるのを止めたのは棕櫚だった。さらにフュミレイも続ける。
「バランは戻ってくるつもりでいた。つまり世界の結び目は完全に絶たれたわけではない。悔いている暇など無いはずだぞ。」
その言葉でソアラは跳ねるように立ち上がった。
「なるほど。そういうことですか。」
所変わって覇王城。血相を変えて飛び込んできたソアラだったが、見違えるような玄道の風格に自然と落ち着かされていた。少し頼りなかった顔つきは威厳を宿し、新たな城の荘重さ、従者たちに滲む信頼も相まって、玄道をより力強く見せていた。
「できる?闇を戻せれば榊が道を作るわ。」
ソアラは深刻な顔で問う。彼女の回りには治癒能力を持った妖魔五人が取り囲み、賢明の治療を行っている。他の面々も別の場所で治療を受けている。
「できないとは言わせないでしょう?」
「さっすが、よく分かってる。」
覇王の自信漲る笑みに、ソアラも溌剌と微笑み返した。ソアラの異母姉弟にあたる玄道は、物体を一日前の状態に戻す能力の持ち主。黄泉の闇を前日の姿に戻すことも不可能ではない。
「ただ問題はあります。私ができるだけでは不可能です。」
「そうじゃ。」
やってきたのは榊だった。
「じゃが、あいにく私には自信がない。」
「姫なら___」
「できますよ!___とは言うな。奴に穴を開けられただけで私は闇の中での制動に手を焼いた。覇王がいかに偉大であろうと、あの闇の全てを一度きに蘇らせることはできぬ。その不安定な闇の中で、ただでさえ困難な異界への扉を開く。はっきり言うが不可能だ。」
そこまで言うのはただ自信がないからではない。失敗する確信があると言っても良いのかもしれない。
「でも___!」
「そこでじゃ。確かお主、元の世界へ帰るための道具を託されてこちらへと来たはずじゃったな。」
辛辣に語っていた榊だったが、突如として声色が変わった。彼女とて無策ではなかったのだ。
「え?ぁあっ!あれ!帝から貰った青い指輪!あったあった!」
「それが黒麒麟の館にあった絵画のように、天界への道を開く道具ならばできる。」
「___けどあれって、棕櫚の家の回りで落として分かんなくなったのよねぇ。玄武っていう妖魔に探してもらっても見つからなかったし___」
「それでは世界中の妖魔に探してもらいましょう。」
「え?」
玄道が動く。立ち上がると、その姿にはまた新味があった。
「___あれ?背伸びた?」
「それだけの時が経っていますからね。広大な黄泉の各地との通信網を整備するのにも、十分な時間がありました。」
玄道は覇王の初期の仕事として、通信能力を持つ妖魔「薫族」を覇王直轄とすることで統制し、黄泉の各地に通信基地を作った。それはこの緊急時でも威力を発揮し、多くの命がバランの攻撃を免れることができた。その通信網を使い、今度は青い宝石の指輪を探そうというのだ。
返答はすぐにあった。だが指輪を特定できるだけの情報が欲しいというのが大半だった。玄武のときもそれで躓いたようなものだ。
「せめてもう少し条件を絞り込めませんか?」
「う〜ん、条件ってもあたしも最後にあれを見てから随分たつし___」
「ふぅむ___難しいかのう。」
「お力になりましょう。」
と、その時、悩むソアラの元に騒ぎを聞きつけたらしい細身の男が現れる。切れ長な目をした彼は___
「えっと___仙山!」
「えっと?」
「ま、まあまあまあまあ___久しぶりねぇっ!」
若干の間が必要だったことを取り繕いながら、ソアラは笑った。
「仙山、策があるのか?」
榊の問いに仙山はしっかりと頷く。
「私は指輪を見ておりますから。」
「!!ぉお!まことか!」
その言葉だけで榊は喜色満面になった。ソアラにはもう一つピンとこなかったようだが、仙山はすぐさま一枚の紙を取りだした。
「こやつの能力は彩り。じゃがそれを可能とするのは、一目見たものをたちまち描写できる瞬間の記憶あってのものじゃ。」
紙に描き出された指輪。それは色合いも造形も、かつての姿をソアラにハッキリと思い出させる正確さだった。
「___す、凄い!間違いないわ!帰巣の指輪!!」
ソアラは感嘆のあまり暫く言葉を失っていたが、仙山から絵を託されると飛び上がらんばかりに喜んだ。
「ありがと!あんたって本当、ここぞってとこで頼りになるわ!」
そして頬にキス、そのまま唇にもキス連発!
「や、やめぬか!」
敬愛する姫君の前で醜態を曝すのは御免だったが、とうの榊は二人のじゃれ合いを見て苛立つどころかケラケラと笑っていた。ああ仙山、いつまでたっても報われない男。
指輪の造形が明らかになったことで、玄道の元には次から次へと情報が舞い込むようになった。だが、その内容が少し妙なのだ。
『___はい。私の見立てでは、覇王様のお近くにあると出ております。非常に近くです。しかしそれ以上踏み込めません。普段はこんな事はないのですが___』
「分かりました。ありがとう。」
薫族の手にした水晶に丁寧に答え、玄道は振り返った。
「これで五人目じゃ。」
榊が腕組みをして言う。そして訝しげにソアラを見やった。
「さ、さっきも探したでしょ!あたしは持ってないの!」
水晶から聞こえてくるのは、「すぐ近くにある」という答えばかりだった。まさか!とソアラも全身くまなく探したのだが見つからなかった。いまだ疑心暗鬼なソアラではあったが、とりあえず棕櫚の家の近辺で落とした指輪が、なぜかこの城にあるのは間違いなさそうだ。
『あぁ〜覇王様、覇王様。』
再び水晶に呼びかけが。そこには年老いた四人の妖魔が写っていた。
「どうぞ。」
『あぁ、こりゃどうも覇王様。手前どもは物好きな老妖魔の集まりでして、狭い範疇での探し物は得意中の得意でございます。もし場所が特定できているなら、必ずや探し物を炙り出してご覧に入れましょうぞ。』
「では、この城の中を探してください。すぐに使いの者を___」
『あぁ、いえいえ。場所さえ聞けばそれで大丈夫。あとは探し物に手前共の同士が寄っていきますので。』
と、老妖魔はその高い鼻を扱きはじめた。すると___
「うぉおおおぉ!?」
どこからか男の叫び声がする。ソアラたちは互いの顔を見合わせて、廊下へと掛けだしていった。
「な、なんなんだこりゃあ!?」
騒ぎの元凶はすぐに長い廊下の向こうから駆けてきた。
「や、耶雲!?」
それは榊と棕櫚の悪友、耶雲だった。なぜだか彼は大量の鼠や昆虫に追われていた。
「由羅、はっ倒せ。」
「はい!って、なんかこの感じ、久々で新鮮!」
ニコニコしながらソアラがその場で拳を振るうと、見えない衝撃弾が飛び、耶雲の顔面に炸裂した。
「へごばっ!」
耶雲がもんどり打って倒れると、追いついた鼠や昆虫、しかも主に汚らわしい部類の昆虫が一斉に彼に集った。
「のわぁぁぁぁ!!」
耶雲悶絶。と、その服の裾がボンヤリと光っているのがソアラと榊の目に止まる。二人はまた顔を見合わせ、すぐに笑顔になると互いの手を叩き合った。
それから___
「布地の内側に入り込んで気付かなかったじゃと!?今の今まで!??由羅がこれを無くしてからどれほどの時が過ぎたと思っておるのじゃ!?まったく貴様にはほとほとあきれ果てるわ!」
怒り心頭の様子で耶雲を説教する榊。とはいえ、鼠に囓られて服はボロボロ、体中で虫を潰して腐臭まみれの彼は、すでに可哀想なほどみすぼらしかった。
帰巣の指輪はずっと耶雲が持っていたのだ。蝿男の潮にやられたソアラを棕櫚の家に運んだときか、それとも彼が家の周辺で拾ったのか、ともかく何かの拍子に服の折り目の中に入り込んだ指輪は、そのまま耶雲の裾の中で転がり続けていた。
ではなぜ探し物を得意とする妖魔に見つけられなかったのか?それは耶雲が「相手の能力を阻害する、弱める」能力の持ち主だからだ。微弱ではあるが、彼の周囲には無意識のうちにこの力が作用し続けているのである。これを不運とするか幸運とするかは難しいところだが、結果的にここまで指輪が守られたのだから幸運だったのだろう。
「ともかく用意は調いました。すぐに動きますか?」
「もちろん、一刻でも早いほうがいいわ。」
ソアラの顔つきは変わっていた。先程までは榊とのやり取りを楽しむように隙だらけの笑顔でいたが、今玄道に見せたのは戦士としての決意漲る、凛々しい面立ちだった。遊んでいる暇などないのは彼女が一番良く分かっている。
「では、これが最後の別れですね。」
「そうね。あたしもバランも、二度とここには戻らない、戻させないわ。」
と言うと、ソアラは彼に手を差し出した。
「能力の発動中は別れの挨拶もできないでしょ?」
「___そうですね。」
玄道ははにかみながら握り返す。するとソアラはそのまま彼を引き寄せ、優しく抱き締めた。
「ありがとう。あたしの三つ目のふるさと、黄泉はあんたに任せた。」
「承知しました。姉さん。」
温もりを惜しみながら短い抱擁を終えると、耶雲への説教を終えた榊がソアラを待っていた。
「さあ、行くぞ、ぉわっ!?」
「ありがとうっ!姫!」
ソアラは小柄な榊を抱きかかえ、鯖折りにするかのように目一杯抱き締めた。
「あたし___他の誰かのことは忘れても姫の事は絶対忘れないから!!」
「いたいいたい!は、放せ!放さぬか!うひぃっ!く、擽るのもよせ!」
「だって、姫は笑顔が一番可愛いもの〜!」
女同士の別れにしては妙に陽気な二人。思えば榊を明るくしたのは他でもないソアラだった。そしてソアラは榊の力に何度となく助けられた。二人は確かな絆で結ばれている。その絆は今の黄泉の空のように、とても明るく目映いものなのだ。
「ありがとう、由羅。」
敬愛する榊を変えてくれたソアラ。二人のじゃれ合いを遠巻きに見て、仙山はそう呟く。
「よっ、他の誰か代表。」
「黙れ!指輪泥棒!」
が、耶雲の残酷なかけ声で感動も台無しである。
「案ずるな。刃は折れどもファルシオンは死んではいない。まだ力となるはずだ。」
「はい。」
覇王城の一室。治療を終えたリュカは、バルバロッサにファルシオンを託されて力強く頷いていた。すでに集合の礼は掛かっている。それはつまり、彼の剣術の師との別れを意味していた。だからリュカは、人目を避けてバルバロッサに最後の指導を求めていた。
「だが一つだけ忘れるな。この剣ならば俺でも敵は切れる。つまりこれを握るのは必ずしもおまえである必要はない。勝利のため、あるいはおまえでなければできない何かがあるのなら、おまえは必ずしもファルシオンにこだわる必要はない。」
その言葉はリュカにとって新鮮だった。ファルシオンを握ることにこだわって、先ほどの戦いでは他面での貢献が乏しかった。バランも守りやすかったはずだ。それを見ていた訳ではないだろうが、バルバロッサは的確に言い当てた。剣を折ってしまったショックの払拭も含めて、彼の言葉にリュカは大きな勇気を貰った。
「もういいだろ。行け。」
「はい!一杯喋ってくれてありがとうございます!」
包み隠さない真っ直ぐな礼にバルバロッサは大きな舌打ちをする。しかし最後に弟子から伸ばされた手は、隻腕でがっしりと握り返していた。
「よしっ。」
意気揚々。母たちが集まっているだろう覇王城の中庭を目指そうと飛び出したリュカだったが___
「リュカ!」
止める声があった。切実な思いを込めた声が。振り向くとそこには竜樹がいた。彼女らしからぬ、酷く思い詰めた顔で。
「竜樹。」
「リュカ。」
互いに呼び合い、立ち止まったまま見つめ合う。竜樹は駆け寄ろうとはしなかった。
「俺、黄泉に残るよ。」
それは別れの決意の現れだった。
「色々考えた。この戦いの終わりも見たいし、おまえたちの力にもなりたい。でも多分、足は引っ張っても力になるのは難しい。そんなの御免だ。」
竜樹は気丈に言った。真剣に徹すればいいのか、取り繕うような笑みでも見せればいいのか、言ったり来たりの不安定な表情で、それでも言うべき事はしっかり言おうという意志は貫いていた。
「なんて言っていいか、俺馬鹿だから良く分からないけどさ。でも本当に楽しかった。本当に幸せだったよ、俺。おまえに会えて良かった。百鬼にも、ソアラにも、本当に会えて良かった。」
「僕もだよ。竜樹に会えて良かった。僕の初恋の人に。」
「初恋か___俺、初恋は別の人だけど、本当の恋は初めてだったかもな。」
「へぇ、女の子みたいなこと言うね!」
「う、うるせえ!」
そう言って笑いあう二人。笑顔の終わりと共に、あちらこちらで人の声や物音の響く廊下が、一瞬だけ静かになった。二人は見つめ合い、ただ沈黙する。これが別れという思いからか、頬を赤らめる初々しさとは違った緊張があった。
「ぁぁぁぁああああ!じれったい!!」
と、その静寂を破る声が。
「え!!??」
驚く二人をよそに、廊下に掛けられた緞帳の影から現れたのはソアラとルディーだった。
「ルディー、そっちから押す!」
「はい!」
戸惑う二人をよそに、両サイドから二人の背中を押してくっつけさせる。
「空き部屋よぉし!」
「よぉし!」
そしてすぐ近くの部屋のドアを開け、有無言わさず二人を押し込む。
「三十分あげる!煮るなり焼くなり好きにしてやんなさい!」
「はぁ!?」
「竜樹!あたしが公認してやってんだからね!感謝しなさいよ!」
リュカが裏返った声で叫んでも知ったことではない。ソアラはそのまま扉を閉じてしまった。
「ちょっ___!」
慌てて廊下に飛び出そうとしたリュカだったが、竜樹がその腕を掴んで放さなかった。肌の触れる距離で見つめ合えば、唇が重なるまでには一分と掛からなかった。
覇王城の中庭。
「ええ、俺は黄泉に残ります。」
「そう、寂しくなるけど元気でね。」
出発を前にして、皆は広大かつ美しい庭園に集まっていた。棕櫚の別れ話は彼らしく淡々としていて、ソアラの返事も実に朗らかだった。
「なんだかあっさりしてるね、ソアラ。」
そう問いかけたライにしても、あまり悲しそうではない。もっとも彼との別れはこれが初めてではないということもあるだろう。
「うん、なんでだろうね、棕櫚とは何度別れても結局また会えちゃいそうな気がするのよね。」
「あ〜、分かるなぁそれ。」
ミキャックが同調してうんうんと頷きながら言った。フローラも微笑んではいるが、他の面々よりも寂しさが滲む。それは彼女が胸に抱く年老いたアレックスのせいもあるかもしれないが。
「ま、あたしたちが負けちゃったら絶対に会えないけどね。」
「縁起でもないこと言わないの。」
「なんかさ、それでも棕櫚って平気そうよね。人類滅亡の日にもどこかでひっそり難を逃れてそうで。」
「俺はゴキブリですか?」
「もうちょっと綺麗な虫よね?」
「ね?とかあたしにいわれても。」
「虫は虫なんですね___」
と、ソアラのせいで話が脱線した頃___
「お待たせしました!」
案の定というか、中庭に最後に現れたのはリュカだった。
「ん、許容範囲よ。」
「竜樹は?」
「辛くなるからいいって。」
「ああ、股が痛くて辛いのな。」
バキッ!
殴られたのがサザビーであることは言うまでもない。ちなみに殴ったのは側にいたソアラ、ミキャック、ルディーであった。
「ルディーまで殴るか!?」
「前々から参加したかったの!」
「あ、それ花陽炎だ。」
サザビーの猥談には聞く耳持たず、ライがリュカの持つ刀を指さして言った。
「え?貰ったの?セラの形見でしょ?」
ソアラも驚いた様子だったが、リュカは清々しい笑顔で頷いた。
「僕と彼女の絆の証だよ。」
気障な台詞も彼が言うとそう聞こえない。今のリュカはそれほどに美しく、惚れ惚れするほど逞しかった。その純愛ぶりはソアラやルディーも舌を巻くほどである。
「かーっ、いいわねぇあんた。色んな意味でだらしなかったお父さんに見せてやりたかったわ。ねえ?」
「よりによってあたしを見るな___」
だらしなさの片棒を担いでいた張本人、フュミレイ困惑。
「___さて、そろそろ良いか?」
いい加減緊張感に欠ける面々に、溜息混じりで榊が言った。広大な中庭、その中央にある祭壇にはソアラたちの他、玄道、榊、棕櫚がいる。祭壇から少し離れて、仙山や餓門、吏皇など、見送りの妖魔たちも大勢駆けつけていた。竜樹とバルバロッサはここにはいない。
「覇王様の用意が調った。由羅、指輪は?」
「ここに。」
ようやく笑みを消して、ソアラは青い指輪を榊に示す。
「使い方は分かったか?」
「心配ないわ。あたしが望めばこの子は力を示してくれる。」
「心得た。では、これより天界への道を開く。失敗は許されぬぞ。」
その程度の脅し文句で怯む顔ぶれでないことは分かっていたが、彼らに漲る決意の雄々しさに、榊は改めて感服する思いだった。
それから、流れるように施術は進んだ。
まずは榊とソアラのやり取りの間も一人集中を乱さずにいた玄道が、空に手を翳して念を込める。すると覇王城の上空一角だけに、黒に近い濃紺が真円を描いて舞い戻った。
「行くぞ!!」
しかし戻った瞬間から、黒い円は小さくなり始めていく。時間は僅かしかない。榊の号令で、巨大な鳥に化けた棕櫚が、一気に空へと舞い上がった。皆はその背に乗っていた。
「リュカ!あれ!」
覇王城を下に見るようになったとき、ソアラがリュカに下を振り返らせた。そこには覇王城の屋根の上に立つ竜樹、バルバロッサ、鵺がいた。広々とした石屋根に、竜樹の字だろうか、朱の具で大きく勝利を意味する文字が書かれていた。
「必ず___必ず勝てよぉぉぉっ!!」
竜樹の全力の声は、空の高みまで届いた。叫ぶことに力を注ぎすぎて酷い顔をしていたが、そんな別れも竜樹らしくて良かった。そしてしきりに手を振る鵺と、隣り合って立つバルバロッサの微動だにしない別れの姿も、彼らしかった。
「約束する!!僕たちは絶対に___バランに勝つ!!!」
声が届いたかは分からない。でもリュカは必死にそう叫んだ。直後、辺りが黒に変わる。時折銀色の閃光が走るそこは、間違いなく黄泉の闇だった。
「由羅!」
「はいっ!!」
ソアラは指輪とともに右手を黄金に輝かせる。すると光は指輪に吸い込まれ、青く鋭い光線を闇の一角へと迸らせた。その光線の着地点、そこに出口がある。
「開くぞ!!」
榊はすでに汗にまみれていた。棕櫚の翼も歪んでいた。不安定な闇の中で、二人はソアラたちを天界へと導くために全力を賭していた。
扉はすぐに開いた。榊は明らかに腕を上げている。妖魔として完全に独り立ちした姿は、ソアラにとって感動すら覚えるものだった。
そして別れの時が来る。
「ここまでじゃ。この距離ならばお主らの魔力とやらで一気に行ける。」
「ありがとう棕櫚。ありがとう榊。本当に___本当に今までありがとう!!」
泣きたくはなかったが、涙を押し留めきるのも難しかった。でもソアラは悲しい顔で別れる気は毛頭無く、涙目ながらも最高の笑顔でいた。
「死ぬでないぞ由羅。お主なら必ずできる。」
「俺たちの、いや覇王城に集まったみんなの思いを、あなたに託します。」
「行くぞ!!」
フュミレイの魔力が全員を包み込む。棕櫚の背中から離れ、一気に、闇に開いた青空の出口へ。そして棕櫚は、最後に本来の姿でいようと変身を解く。
「さよなら!!二人とも幸せに!!さよなら___!!」
ソアラだけではない。皆が別れを惜しみ、必勝を誓った。
天界。竜神帝ことジェイローグの居城であるドラゴンズヘブンは、かつてアヌビスの冥府侵攻と同じかそれ以上の喧噪に包まれていた。少なくとも絶望感は過去に類を見ず、誰もが策を失っていた。
「状況は!?」
それでも指揮官は気丈に立ち回る。伝令の天族が姿を現すなり、彼が叫ぶよりも早くロザリオは怒鳴りつけた。
「すでに全世界の三分の一が滅んでいます___あらゆる反撃、通用しません!」
伝令役は震えながら答えた。ジェイローグ、ミキャック不在のドラゴンズヘブンで、あまりにも荷の重い役目に、ロザリオは閉口する思いだった。しかし本音がそうであろうと、信頼を裏切りたくないという思いが彼女を気丈にさせた。
「___分かったわ。ありがとう。」
「ご指示は!?」
「___無いわ。引き続き前線からの報告を。」
「___はっ。」
敗軍の将とは違うのだ。逃げる場所などどこにもない。突如現れた謎の敵が、天界の島を軽々と消滅させ、さらに恐るべき攻撃で空そのものを消して見せた。破壊の力は一気に世界を浸食し、あらゆるものを飲み込んで、ただひたすらの黒に変えてしまう。それがドラゴンズヘブンの西方より、かつての冥府の侵攻を上回る速度で広がっている。
すでに人口の四割は絶命したと思われる。天界は存亡の危機に瀕していた。冥府の侵攻と違うのは、世界の統治者であるジェイローグが休眠状態にあること。それが絶望感に輪を掛けていた。
(どうしたらいいの___)
勝ち気を地でいくロザリオも、困惑の坩堝にあった。逃げ出したい気持ちもどこかにはあった。緊急の司令室には彼女しかおらず、何をして良いか分からず、ただ右往左往するばかりだった。
(トーザス___トーザスはどこに行ったの?)
頼りない男でも側にいてほしい。せめて心の拠り所であってほしかったが、肝心のトーザスも先程から姿を消していた。彼のこと、どこかに逃げてしまったのかもしれない。悪いと思っても、そう疑いたくなってしまう自分がいた。
「ローザ___」
「トーザス!」
その時、トーザスが戻ってきた。いつも間の悪い彼にしては良いタイミングだったが、青ざめた顔を見ると素直に喜ぶ気にはなれなかった。
「どこ行ってたの?」
「庭園だよ___」
「庭園?帝様のところ!?」
ロザリオの声が気色を帯びる。しかしトーザスはすぐに首を横に振った。
「神頼みだったけど、駄目だった。今までと同じだったよ。」
「___そう。」
化石のようになってピクリとも動かなくなったジェイローグの状態に変わりはなかった。藁をも縋る思いだったろうトーザスを、責めることなど到底できるはずがない。ロザリオもジェイローグの力無しにこの危機を乗り越えられるとは思っていなかった。
「ソアラも負けたんだよね___きっと。」
「___」
「はぁ、僕の人生もこれまでかぁ。なんだか盛り上がりに欠けたけど、ローザと出会えたのは良かったなぁ。」
「___」
「ローザ?」
俯いてしまったロザリオの顔を覗き込むトーザス。なに情けないこと言ってんの!といつもみたいに引っぱたいてほしかったのだが、彼女はポロポロと涙をこぼしていた。
「あたし___死にたくない。」
「ローザ___」
「せっかく楽しくなってきたんだもの___好きになってきたのに___」
強さの裏の弱さ。トーザスの背筋には電気のような痺れが走り、あきらめ顔に熱を呼び戻す。
「大丈夫。僕はここにいるよ。」
ロザリオの肩を抱く。いつもより華奢に思えた彼女は、トーザスの胸に顔を埋めて泣きじゃくる。その時、轟音と衝撃がドラゴンズヘブンを揺さぶった。
「緊急事態!ド、ドラゴンズヘブン西方諸島が突如消滅!て、敵が!ここ、こちらへ向かっております!ぅわぁぁああ!」
廊下でそう叫ぶなり、伝令役は奇声を発して意味もなく走り回った。それがレクイエムの始まりだった。
『ふむ___』
七色の光を発する幼児が、青空の下に漂っていた。彼の体には、どこからともなく七色の光が帯のようになって立ちのぼり、吸い寄せられていった。光の出所には多少の粉塵が舞っている。そこには、いままで巨大な空飛ぶ島と、息づく人々、生命があった。バランはそれを全て滅ぼし、力を一身に受けている。エネルギーの充足と共に、乳児だった体も幼児へと成長した。残された青空は、後ろから迫る虚無に飲ませるだけ。
『あれが王城か。』
と、ここまで突き進んでバランの前に現れたのがドラゴンズヘブンだった。彼は初めて立ち止まり、ドラゴンズヘブンに得体の知れぬ力を感じ取った。
『ジェイローグか___』
その名を呟くと、幼児だからと言う訳でもないが、バランの顔には正直に煙たさが滲んだ。敵が休眠状態にあるのはソアラたちの記憶から知っているが、一度は辛酸を嘗めさせられた相手だ。彼が考えたのは、素直に殺すべきかどうかの選択だった。
『いや、何を恐れるものがあろうか。』
しかしすぐに躊躇いを消す。世界の創造者になろうというものが、大地の一欠片ほどのものに何を恐れることがあるというのか。愚かしき惑いを消し去り、バランはドラゴンズヘブンに手を向ける。その視界に、無数の光の球が飛び込んできた。
ギュギュギュアアアア!
それはドラゴンズヘブンから放たれた大量の爆発呪文だった。ディオプラドもエクスプラディールも、ドラゴンズヘブンにいたあらゆる呪文の使い手が放った、せめてもの抵抗だった。しかし白熱球はバランの目の前に来ると、妙な摩擦音を響かせて軌道をねじ曲げ、あさっての方向へ飛んではぶつかり合って、無数の花火を上げるだけだった。
『かつての新しき神も、もはや過去の遺物と消える。全ては再び私の掌に。』
七色の波動がドラゴンズヘブンに向けられた掌で渦を巻く。全身から沸き上がった波動が、そこに吸い付けられるように流れていく。
『我が内で藻掻き苦しめ。』
七色の光弾が放たれた。それはオル・ヴァンビディスを消し飛ばしたのと同じか、それ以上の破滅の光だった。
シュッ___!
『!?』
しかし、光弾はドラゴンズヘブンには届かなかった。空中に突如開いた黒い口の中にスッポリと消えてしまったのだ。口はすぐに閉じ、次の瞬間!
ザンッ!
折れたファルシオンでリュカが斬りかかった。
「宵闇の___」
「竜波動!!」
フュミレイとルディーの波動が白黒入り乱れてバランに抉り込む。
「神竜脚!!!」
押し流されるバランの狭い胸板に、波動と入り乱れながら襲いかかったソアラの両足キックが炸裂する。竜の爪を剥き出しにした蹴りは、バランの胸を切り裂きながら、遙か後方まで吹っ飛ばした。
「む、無茶苦茶じゃ!あやつめ我らを殺す気か!」
黄泉。たった今、玄道が蘇らせた闇が吹き飛んだ。天界へと開いた口から飛び込んできたバランの光線のせいだ。もし運悪く覇王城に飛んでいたらどうするつもりだったのか。そもそも闇から離脱中だった榊は大いに肝を冷やした。
「いいじゃないですか。ソアラさんたちがまだ戦えるって分かっただけでも、希望が繋がったんですから。」
その榊を抱きかかえて棕櫚はゆっくりと下降する。先ほどまで吹き荒れていた爆風もようやく静かになってきた。
「お〜い!」
屋根の上で竜樹が手を振ってる。
「こっち来いよ!何でもいいからあいつらのこと考えて、とにかく祈ってやろうぜ!勝たなきゃぶっ殺すってよ!」
いつからそんな信心深くなったのかは知らないが、棕櫚にも竜樹を無視する理由はない。
「負けたら俺たちもみんなぶっ殺されますよ。」
「そりゃそうだ!」
気休めでもいい。勝っても負けてももうソアラがここに戻ってくることはないだろうから。ただそれでも、彼女が黄泉に残した足跡の一つ一つをかみしめながら、ただひたすら勝利を祈ろう。あの竜樹がそんなことを思うのだから、やはりソアラのしてきたことは大きかった。それは彼と共にいる榊を見ても、かつては敵として振る舞っていたバルバロッサを見ても、そう思う。
「いや、何よりも俺自身を変えてくれましたね。」
「は?何か言った?」
「いえ、なにも。」
ここにいる誰もが素直な気持ちで祈るだろう。ソアラへの感謝を込めて。
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