1 さらばアヌビス

 少し肌寒い?いや、違うかな、少し暖かいのかも。時々冷たくて、時々暖かいのかな?居心地は悪くないけど___
 「?」
 ソアラは目覚めた。いや、目覚めた気がした。そこはオル・ヴァンビディスではなく、夢の中のような感覚だった。
 「闇___?」
 辺り一面真っ黒だった。
 「邪輝だ。」
 「!」
 良く知った声に振り返る。そこには凛とした黒い大型犬が座っていた。黄金の瞳からして紛れもなくアヌビスだった。しかしもはや戦意はない。先程までの狂犬ぶりとはまったく異なっていた。
 「アヌビス、正気に戻ったの?」
 「あれも正気といえば正気だ。邪神が本来持つ破壊の意志を露わにしただけだからな。」
 アヌビスはゆっくりとこちらに歩いてくる。ソアラは拒まなかった。
 「でもあんたらしくなかったわ。」
 「それで戸惑ったんだろ?お互いに手傷を負ったな。」
 ソアラの腹に穴が開き、片腕が罅入り、首に牙の跡が付く。一方のアヌビスも顎の半分が崩れ、尾を失い、全身に傷を走らせる。その時点でソアラはこれが現実ではなく、二人だけの意識世界のようなものだと知った。
 「だが、もう一度やればおまえの完勝だろう。俺にはさしたる上積みはないが、おまえは違う。」
 「どうかしら?あんな力を隠しているなんて知らなかったわ。普段のあんたがいかに自分を抑えてたかっていうのも分かったし。邪神はみんなああなの?」
 「本能に従えばああだ。あとは己の理性の問題でしかない。俺は___この姿を曝したのは二度しかない。両親を殺したときと、今だ。」
 「両親を殺した?」
 傷み無く、傷の存在を実感したまま、二人は肌を寄せた。ソアラはアヌビスの頭を撫で、アヌビスは彼女の手首に鼻を寄せる。犬そのものの姿にソアラが微笑むと、二人は隣り合って座った。
 「邪神は何人もいらない。邪神の子が真に邪神を名乗るとき、子は父を倒す。そして妻は夫と共に死する。」
 「厳格なのね。でも、あんたもそういうしきたりに従うんだ。」
 「俺も若かった。だが、いずれは失うものだ。今でも同じ選択をしただろう。」
 「それで邪神になった。」
 「俺は邪神らしくないって言ったよな?それは俺の両親もそうだ。」
 「そうなの?」
 「邪神は冥府の神。世界の頂点に立つ者だ。頂点から見下ろす者にとって、這い上がってくる輩ほど目障りなものはない。それが自分の子であってもだ。破壊と暴虐と強欲の意志に満ち満ちた邪神は、大概は我が子を疎み、我が子に寝首を掻かれて代を終える。」
 「作らなければいいのに。」
 「作らなきゃならないんだ。なんていうかな、膿を出さないと内側から腐っていく、みたいなもんだ。ある程度の時を生きたら、邪神は子を作らなければならない。」
 「そうなんだ。」
 「そして我が子と骨肉の争いとなり、生き残った方が残る。だが俺の父親は、俺を鍛え、時に突き放し、あげく俺の成長を知ると決闘を申し出た。」
 ソアラの腕に少しだけ力みが走った。アヌビスは改めて彼女の勘の良さを知るが、それには触れずに昔話を続けた。
 「おまえだから言う。俺は嫌だった。父は冥府にいる他の邪悪な神々に比べて、圧倒的に孤高の存在だった。俺は時に反抗しながらも本音では常に憧れてた。」
 「可愛いとこあるのね。」
 「決闘は壮絶だった。だが本気になれない俺に父の怒りは激しかった。不甲斐ない俺を戒めようと、父は母を殺した。そして俺は本能に身を任せた。」
 「___」
 「ま、そういうことだ。俺が理性を捨てて戦わなければならなかったのは二度だけ。」
 「それをあたしに見せてくれたのね?」
 「父の時とは違う。おまえの前で本能を曝したのは、そうでもしないと今のおまえとは戦えないと思ったからさ。おまえはそれだけの価値のある敵だった。」
 「光栄ね。」
 ソアラはアヌビスの毛皮に頬を寄せてみた。邪神と言われた男の真の姿。それは破壊と暴虐と強欲の狂犬だというのに、ことのほか暖かに感じた。
 「ねぇ、似てるのね、あたしたち。」
 「そうかもな。」
 「だからあたしに興味を持ったの?あたしを鍛えたの?で、時に突き放して、最後には決闘を申し込んだの?」
 「違うな。当初の俺の標的はあくまでジェイローグだ。おまえはその血統だったから使い道があると思った。それがきっかけだ。」
 「なぁんだ、ちょっと残念。でもどうして竜神帝に挑もうと思ったの?あなたは、きっと邪神の中でも特段に理性ある存在なんでしょ?」
 「頂点に立つのがつまらないからだ。」
 「え?」
 「俺は冥府の頂点に立った。俺に逆らうもの、逆らえるものはいなくなった。冥府の頂点に興味があったわけじゃないが、強くなることには興味があった。自分を高められる敵との戦い、それが俺の破壊と強欲の捌け口でもあった。まあ好奇心だ向上心だなんてのも、強欲や破壊と似たようなもんだからな。」
 アヌビスは肩を抱くソアラの胸に健在な右頬をすり寄せる。見た目が犬だからというわけでもなく、ソアラは拒まずに彼の首もとを撫でていた。そしてそのまま仰向けに寝転がる。アヌビスは彼女の胸から腹に掛けて凭れるように寄りかかった。語らいは続く。
 「なぁソアラ、頂点ってのはつまらないぜ。階段を上っているうちには、天辺には色んなものがありそうだって思っても、登ってみると案外何もない。やることと言えば下から上がってくる奴を蹴落とすことだけ、上を見ても何もないから下ばかり見るようになる。面白くも何ともない。だから俺は、自分が見上げられるもの、自分と同じ場所に立てるものを探していた。」
 「それが竜神帝だった。」
 「冥府が可動する世界であること、そしてなにより俺の側にはダ・ギュールがいた。これが大きかったよな。あいつは誰よりも俺の好奇心を擽る方法を心得てる。」
 「それって利用されてるんじゃないの?ダ・ギュールは天界の異教徒だったんでしょ?」
 「ククク、それは無いな。あいつは何がどうなろうと気にもしていない。私情を出したのは、この前天界を攻めたときくらいだろう。だからあの時はほとんどをダ・ギュールに任せた。」
 「その戦いで竜神帝が倒れた。」
 「だが同時に俺はレイノラを発掘し、Gへの道を見つけた。」
 「そしてオル・ヴァンビディスへ。」
 「そしたらいつのまにか、おまえが俺より上の場所にいた。」
 「あたしってそんなもん?いつのまにか程度?」
 アヌビスの頭を掌で軽く叩き、ソアラは問いかける。アヌビスは顔を上げて、首を横に振った。
 「まさか。俺は地界で戦ったときからおまえにぞっこんだ。」
 「あんたが言うと、ほんと嘘くさいわ。」
 「本当だぜ。ヘルジャッカルでの戦いで、おまえの素質に気付いたときは本当にゾクゾクしたものさ。」
 「ま、どっちでもいいよ。」
 ソアラは体を捻ってアヌビスの鼻っ面にキスをした。ちょっとじゃれ合って、今度は横臥したアヌビスを枕にするようにして、ソアラが寄りかかる。
 「地界を闇に染めたのは?人間たちを支配しようとか、滅亡させようとかっていうのは邪神の本分じゃないの?」
 「それはおまけだ。頂点に立てば従う者たちがいる。連中が過ごしやすい環境を整えてやるのもトップの仕事だ。」
 「それって王様と同じね。」
 「俺自身は人間がどうなろうと関係ない。ま、ちょっかいを出すとおまえみたいのが出てくる楽しみはある。」
 「帝へのアピールでもあった?」
 「そうだな。」
 「ならGはどうなの?Gを目指せばあたしが噛みついてくるから、ってわけでもないでしょ?あなたは確かにGを求めていた時期があったわ。」
 「興味はあったさ。だが、実際に見てみるとあれは違う。」
 「違う?」
 「そうだ。俺が求めるものじゃない。あれは終わらせるための力だ。俺たちも含めて、過ぎたる者を全部消し去ってやろうって力だ。それは強欲やら愛やら、光に闇、正義や悪って概念まで飲み込んで無に返すための力、全存在の自爆装置みたいなもんだぜ。俺は只でもいらないよ。」
 そう言うと、アヌビスは首を上げてソアラの顔を覗き込んだ。毛皮の枕の心地よさに目を閉じて聞いていたソアラが、ゆっくりと目を開ける。
 「ソアラ、あれはバルディスの時代でも同じなんだよな?レイノラはどう言ってた?」
 「どうかしら___今のGのことは分からないけど、彼女から聞いた昔話のGと状況は似ているわ。」
 「俺はそれが解せない。」
 「どうして?」
 「アイアンリッチとかいう男に、世界を無に返す発想はないだろう。嫉妬や劣情、虚栄心の塊だった男は、今形あるものに惹かれるのであって、無から新しく作り直そうという発想はない。そこに楽しさを見出せないからだ。」
 「どういうこと___?」
 「世界の再創造は神の発想だと俺は考えている。つまり、早い段階でGはアイアンリッチの手を放れていたんじゃないか?」
 「!?」
 「世界の構築は一朝一夕じゃない。作り直すのにどれだけの時間が掛かると思うんだ?自分の寿命が数千年以上あると知っている奴、世界の要素を知っている奴でもなければ、Gはここまでには至らないはずだ。」
 虚を突かれた顔で固まったソアラ。アヌビスは彼女の鼻面をひと嘗めして解してやると、にやつきながら立ち上がった。
 「アイアンリッチが本体だったわけじゃない___ってこと?」
 「Gを作ったのはアイアンリッチだ。だから最初はそうだったんだろう。だが途中からどうだったかは分からない。いまのGもそうだ。本当に最初から今の今まで、Gの核はバルカンなのか?ま、確かめようもないし、憶測に過ぎないがね。」
 アヌビスはソアラから少し離れて、向き直った。破壊された顎や、切れた尾が、黒い霧のようなもの纏って少しずつだが再生しはじめている。
 「どうやらお別れみたいだ。ダ・ギュールが迎えに来て、俺を治療しながらあの場から連れて行こうとしている。」
 「お別れって___これからどうするの?」
 「冥府に帰る。この体じゃしばらくGとの戦いは無理だ。もしおまえがGを止められなかったときのために、冥府を動けるようにしておかなけりゃならない。」
 「それじゃああたしたちは___」
 「これが最後の戦いだった。戦いの前に、お互いそう感じただろ?」
 「そりゃそうだけど___」
 「俺のせいじゃない、おまえのせいだ。おまえがGに勝てば、体に宿ったGを抑えるために、おまえはここに残るつもりだろ?だからおまえが勝っても負けても俺たちが会うことはもう無いだろう。」
 アヌビスの言うとおりだった。ソアラは七年の修行の間に、レッシイからGに勝つための覚悟を教えられた。つまりあれを倒したことで自分の体に起こるだろう変化に対し、どう振る舞うかである。もしソアラがGを倒したとしても、あの力そのものが消える訳ではない。オル・ヴァンビディスとGのルールそのままに、力はソアラに渡るのだ。彼女はそれに支配されることなく、押さえ込み、そして___何とかしなければいけない。
 この何とかが一番の問題だ。考えうる解決策は、オル・ヴァンビディスの唯一の母となることである。十二神の役割を一人で負うのだ。レッシイはソアラになら、正確にはセティと自分の力を継いでより完璧な竜の戦士となった彼女になら、それができると踏んでいた。
 「もしあたしが勝って、思い描く形になったとしても、あんたの侵略だったら歓迎するのに。」
 「考えておこう。だがおまえは随分空の高いところに行ってしまうから、そこまで階段を上るにはかなり時間が掛かるはずだ。」
 「待ってる。だって頂点はつまらないんでしょ?」
 「ククク、今まで俺を倒そうとしていた奴の言葉かね?」
 「フフフ。」
 そう言って二人は笑いあった。しかし不意に見つめ合い、アヌビスの体が僅かに後方に流れると、ソアラは弾けるように動いた。
 「アヌビス___」
 彼女は黒犬を愛おしげに抱き締めた。その瞬間、黒い大型犬は、犬の頭に人の体を持ついつものアヌビスに戻っていた。ソアラよりも遙かに身の丈の大きなアヌビスの胸に、彼女は顔を埋めるような形になった。
 「あたし、あんたのことは嫌いだよ。だってあんたのせいで大切なものをたくさん失った。でもね、あんたがいたから得られたものもたくさんあるの。あたしの人生は、あんた無しでは絶対に語れない。もしあんたがいなくなったら___きっと心に大きな穴が開くと思う。だからきっとね、あたしあんたのこと嫌いだけど、時々好きなんだと思う。」
 「光栄だな。光の神の後継者をものにした邪神なんぞ俺だけだろう。」
 「ものにはなってないって。」
 「これでもか?」
 アヌビスはソアラの背を抱き締める。大らかな抱擁を彼女は一切拒まなかった。今のアヌビスに恐怖することなど何もなかった。
 「うまくやるよね、本当。敵同士のはずなのに、時間掛けて懐柔してさ。」
 「お互いに甘いからだろ?」
 「そだね。」
 この接触は肉体ではない。しかしより深い、心の奥底で二人は混じり合った。長らく拮抗していた光と闇は、ジェイローグとレイノラのそれと変わらないほどの融合を見せた。
 静かに抱き締め合う。ソアラはアヌビスの胸に頬を埋め、彼の鼓動と共に、その魂の奥底へと触れた。そしてアヌビスの想いの一つを知る。
 「罪な能力に目覚めたな、ソアラ。」
 「あっ___ごめん、疑ってたわけじゃないの___」
 アヌビスほどの存在になれば、心を覗き見たことも看破する。ソアラは取り繕う様子ではなかったが、非礼を詫びた。その目は潤んでいた。
 「よく泣く。」
 「悪い?」
 「あんまり泣くと離れづらいだろ?」
 「じゃあもっと泣いちゃおっかな。」
 「時間だよ。いよいよお別れだ。」
 そしてアヌビスは手を放した。彼の体は彼の意志にかかわらず、ゆっくりと後ろへと引っ張られていった。
 「アヌビス___!」
 ソアラは呼びかける。しかし追いかけても無駄なのだ。これは精神世界。眠っている二人が同じ夢を見ているだけだから。

 そう、これは二人の夢だった。
 ソアラはアヌビスと敵対しつつ、心のどこかで常に彼を認めていた。アヌビスが言ったように、彼女は上にいる彼に追いつきたくて階段を上ってきたのだ。嫌な目にもたくさんあったけれど、ある種の憧れもあった。そしてアヌビスの掴み所の無さも、それが怖さだと分かっていても、彼を憎みきれない存在にしていた。
 最後の時に優しくされた。そして覗き見てしまった心で彼はこんなことを考えていた。
 「願わくばこのまま冥府に連れて帰りたい。だが駄目だ。冥府にいたらこいつが駄目になる。輝きのないソアラじゃ意味がないもんな。ま、存分に楽しませてもらったんだから、この抱擁で満足しよう。んで、いまさらときめかれてもこまるから、まず俺がしっかりと未練を断たないと。」
 無心とはほど遠い。しかし普段のアヌビスらしくない素朴な本音に触れるとともに、彼の愛を感じ、ソアラは嬉しくて泣いてしまった。
 夢だったのだ。アヌビスというアナーキーな存在に、彼女は惹かれ続けていた。いや、もしかしたら魂に干渉する力で彼との縁を結んでいたのは自分だったのかもしれない。
 「そうかもな。無意識のうちに、俺の行動はおまえの妖魔の能力、意志の関与を受けていたのかもしれない。それがあったから、俺はおまえにより一層引きつけられたのかもしれないし、こいつを育ててみようと思ったのかもしれない。なにせ、おまえは困難が人を強くすることを知っていた。しかも、俺はおまえの正体についてヒントを持っていた。おまえが知りたがるから、俺は黄泉へ、オル・ヴァンビディスへ、おまえを導いたのかもしれないな。」
 遠ざかりながらアヌビスはソアラの心を見透かして言った。ソアラが驚いた顔をするとアヌビスはケラケラと笑う。もう口の形は完全に元に戻っていた。
 「んなことあるか。最近目覚めたばかりの力だ。無意識に働いていたとしても、俺に通用すると思うか?」
 そして最後に、真っ直ぐ前を向いて、黄金の瞳でソアラを見た。離れていてもその美しい輝きはソアラを魅了した。
 「ありがとうソアラ。おまえは邪神に愛された正義の使者だ。」
 アヌビスの体がゆっくりと闇に溶けていく。
 「ありがとうアヌビス。あたしは必ずGを倒すから、そうしたらまたいつか___あたしを困らせに来て!」
 そして夢は終わりを迎えた。最後に見た彼の笑顔は、ソアラの心に深く焼き付いていた。

 ___
 「ふあぁぁ___!」
 「ぅわわわっ!」
 突然だった。黒犬の姿のまま、邪輝の中でぐっすりと眠っていたはずのアヌビスが、突然大あくびをして顔を出したものだから、側にいたクレーヌは肩を竦めて叫んだ。
 「下品な悲鳴だな。きゃっ、とかいえないのか?」
 「うるさいな!」
 「アヌビス様!」
 いつもの口げんかをしているクレーヌとディメードを無視して、カレンは目覚めたアヌビスの前に平伏した。
 「おう、カレン。」
 眠そうに目を擦るアヌビスは、言葉を忘れた狂犬ではなく、いつものアヌビスの姿に戻っていた。いつもの調子で名前を呼ばれ、カレンは心底ホッとしたような笑みを見せる。
 「ご無事で何よりです!!」
 「ん、ああ。悪かったな、色々迷惑を掛けた。」
 ガッザスの大きすぎる声に耳を伏せ、体を確認する。傷のほとんどはまだ外見上塞がっただけだが、ほぼ元通りになっていた。
 「カレン、その腕は後で治してやるから。」
 「いいえ、アヌビス様を腕一本のみの犠牲で止められたのです。誇りとしてこのままでいさせてください。」
 「そう?両手無しじゃ不便だぜ。」
 「魔道の義手を作ります。」
 いつもどこでも殊勝な女である。
 「そうか?まあおまえがそれで良いならいいよ。いやぁ、それにしても久しぶりにいい気分だ。ありがとな、カレン。」
 「っ___!」
 アヌビスの大きな手に頭を撫でられると、カレンの全身が硬直した。
 「ガッザス、クレーヌ、ディメード、おまえたちもだ。おまえたちがいなけりゃ、俺はもうここにはいなかったろう。」
 アヌビスの感謝は頭から頬へと移った手に込められていた。カレンにとってその温もりは何よりの褒美だった。
 「これからも頼むぜ。ここに来て俺はようやく、全幅の信頼を任せられる家臣を見つけたみたいだ。」
 「勿体ないお言葉___!」
 カレンはただひたすら平伏するだけ。隊長の思いを知るヘルハウンドの面々は、嗚咽を抑える彼女の背中を優しく見つめていた。
 「でもアヌビス様、あたしたちよりもブラックに感謝した方がいいですよ。あいつがいたから止められたんだから。」
 クレーヌの言葉にアヌビスは頷く。
 「そうだな、あいつはどうした?」
 「元の鞘に帰りましたよ。離れればいずれ仮面の力の終わりと共に死ぬとは伝えましたが___」
 「なんか言ってたか?」
 「気にすんな、俺は俺で何とかする。これで貸し借り無しだ___と。無礼ですが、頼りになる男でした。」
 カレンは涙を拭ってから顔を上げ、いつもの凛とした顔つきを取り戻して言った。
 「惚れた?」
 「まさか、私の心は全てアヌビス様のものです!」
 「うんうん、そうかそうか。」
 アヌビスの前では饒舌で人が変わったように可愛らしい隊長。隊員たちはいつも張りつめているカレンのそんな姿を見るのが、ことのほか好きだった。
 「ま、確かにあいつなら大丈夫だろう。死をも乗り越えちまった男だからな、自分で何とかするよ。そういう素養の持ち主、言うなれば切り開く者ってところかな?一時とはいえあいつを側に置けたのは俺にとってもプラスだった。」
 「やに謙虚ですな。」
 アヌビスの後ろから声がした。彼が今まで入っていた邪輝が散り散りになると、表れたのはダ・ギュールだった。
 「そういう気分なんだよ。ま、ほら、全裸だし。」
 「全然関係ないと思います!」
 クレーヌの突っ込みと、ハッとしてすぐさま視線を逸らすカレン。全身黒のアヌビスだから、ついつい全裸だと言うことを忘れていたらしい。
 「また一層強くなられた証ですかな?」
 「よせやい、照れるだろうが。」
 ダ・ギュールが指を揺り動かすと黒い糸が走り、アヌビスの体を包み込んでいく。すぐに彼の体はいつもの装束に包まれ、カレンも視線を元に戻す。そして___
 「さて、んじゃ帰るか!」
 いつものように軽々しく、アヌビスは言った。
 「仰せのままに。」
 ダ・ギュールとヘルハウンドたちも、いつものように恭しく従った。

 「ねえ、ソアラ泣いてるよ。」
 横たわって眠るソアラの顔を覗き込み、ライは回復呪文を施すフローラを見やった。
 「何か悲しい夢でも見てるかもね。」
 フローラは視線こそ向けたものの、ソアラの傷の治療に目一杯の力を注いでいたから一瞥程度で済ませた。
 「でもなんていうかさぁ、ちょっと嬉しそうにも見えるんだよね。」
 「夢の中で百鬼に抱き締めてもらったんじゃない?」
 「うーん、そうかなぁ?」
 ソアラの寝顔を観察しているくらいなら、妻の汗でも拭いてくれればいいのに、とフローラが思ったその時。
 「アヌビス!」
 ガンッ!!
 「くーっ!!」
 「いったぁぁぃっ!!」
 突然ソアラが跳ね起き、ライと頭同士で激突した。
 「あっちも気が付きましたね。」
 目覚めるなりの暴れっぷりを見て、人に戻った棕櫚がクスクスと笑う。
 「痛ったいわね!」
 「ソアラが急に起きるからだろ!」
 「はいはい、二人ともやめて。ソアラも傷が開くわよ。」
 フローラに窘められると途端に大人しくなる二人だが___
 「ルディーは!?」
 ソアラはハッとして辺りを見回す。
 「ここだよ。」
 ルディーは落ち着かない母の姿に少し恥ずかしそうにしながらも、小さく手を振った。側にはミキャックと棕櫚が付いている。胸の傷はすっかりと塞がったようだ。
 「良かった〜。」
 ソアラは長い息を吐き出して、その場にへたり込むとそのまま仰向けに寝ころんだ。安心で体の力が抜けたようだった。しかし___
 ガバッ!
 再び跳ね起きる。
 「アヌビスは!?」
 「帰ったよ。最後まで眠ったまま、ダギュールとヘルハウンドが連れて行った。もうこの戦いからは手を引くってよ。」
 答えたのは仮面のアヌビスだった。
 「サザビー___じゃあ、やっぱりさっきのは全部本当ね。」
 「なにが?」
 「ううん、こっちのこと。」
 ソアラは寂しそうな笑みを浮かべて首を横に振った。夢のようなアヌビスとの別れの時は、彼の温もりや思いも含めて全て事実だ。そう思うと、寂しくもあり嬉しくもあった。いや、愛おしくと言った方がいいかもしれない。
 「でも信じられる?手を引くと言っても___」
 「大丈夫。」
 フローラの疑念をソアラは笑顔で一蹴した。
 「もうあいつはこないわ。少なくともこの戦いの終わりは、全てあたしたちに託されている。」
 妙に確信に満ちているソアラの言動。それはきっと涙をこぼして見ていた夢の中身と関係あるのだろう。
 「ねえねえ、いまサザビーって言わなかった?」
 決意を新たにするソアラの気を削ぐように、ライが彼女の肩を突いて問いかけた。
 「え?えぇ、サザビー___あれ!?もしかして気付いてないの!?」
 状況を飲み込んだソアラはフローラや棕櫚、ミキャックらの顔を見渡す。他の面々に苦笑はあっても驚きはない。
 「ちょいちょい。」
 と、サザビーがライを手招きして自分の真ん前に近寄らせる。
 「ほれ。」
 そして一瞬だけ仮面を上げる。
 「___」
 短い沈黙。
 「えええええええええ!!??」
 やがてライの絶叫が轟いた。その時である___

 ォォォォォオオオオオ!!

 果てから風の唸りか地鳴りか、ともかくおぞましい響きと、強大な気配の波が押し寄せてきた。ライの叫びなどあっという間に吹き飛ばし、同時に皆の顔からも笑みが消えた。
 「バルカン___!」
 考えを巡らせるまでもない。おそらくバルカンが世界の一部を吹っ飛ばしたのだ。やがて強烈な熱風がファルシオーネにも吹き荒れる。
 「___こっちに向かってきている___」
 力の矛先がどちらに向いているか。緊張感を取り戻すとソアラはすぐさま鋭敏に、バルカンの殺意の向きを感じ取った。おそらく先程のアヌビスとの戦い、あの激しい力の激突がバルカンの気を引いたのだろう。
 最後の戦いは、いままさに目前へ迫ろうとしていた。




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