4 二人を結ぶもの

 無駄な興奮はない。無駄な劣情も、憤りもない。ソアラはルディーをアヌビスに握られてなお、一縷の乱れもなく落ち着いていた。アヌビスの知る今までの彼女とは明らかに違う。変化した姿は圧倒的な力を醸しながらも、ソアラ自身は悲愴に見えるほど落ち着き払っていた。
 それはルディーを取り返すことも難しくはないと確信しているからだろう。慌てる必要などないのだ。その隙の無さは、まさしく王者の風格であった。
 (残念だ。からかい甲斐が無くなったな。)
 ソアラの限界を見れるのは楽しい。だが達観しすぎた彼女にはつまらなさも感じる。ソアラを前にしてそう思えるのだから、この戦いもそろそろ潮時なのだろう。アヌビスは改めてそう感じた。
 「え?」
 ルディーはアヌビスが自分を放したことに驚いた。胸の首飾りはそのままだったが、アヌビスはあまりにあっけなく彼女を放りだした。しかしソアラの方へではなく、二人から遠ざけるようにして。
 「おまえを抱いたままじゃ不利だし、あいつも加減する。抑止力は首飾りだけで十分だ。」
 体は自由でなく、ルディーの意思に反して遠ざけられていく。ルディーはアヌビスの真意が分からずに、彼の横顔を見つめた。アヌビスはもともと世界を支配するため、ジェイローグを倒すために戦っていたのではないのか?
 「よぅし、いっちょやるか!」
 漆黒のオーラを身に纏い、アヌビスが夥しい力を露出する。邪輝は確かに恐ろしい力だが、バルカンの虚無ほどの絶望感はない。それが同じ敵でもアヌビスとバルカンの違いなのだろうか?
 「___」
 母を応援するつもりでいたが、声は出なかった。首飾りのせいもあるが、この戦いをどちらからともなく見てみたいとも思えた。
 激突はすぐに巻き起こった。ソアラの黄金と、アヌビスの黒が真っ向からぶつかり合った。ソアラの爪をアヌビスは突如として現した長刀で受け止める。一瞬拮抗したかに見えた力は、次の瞬間長刀の刃が砕かれてすぐにソアラの攻撃へ。
 振り下ろされた爪は瞬時にアヌビスの闇を五度切り裂いたが、背に強烈な打撃を受けたのはソアラの方だった。時を止めた状態での攻撃は防ぎようがないはず。しかしソアラは背に防御を集中しており全く揺らがなかった。そればかりか、時が動き出すと同時に振り向いて、アヌビスに竜波動を放っていた。
 ゴォォ!
 アヌビスはそれを邪輝で受け止める。絶対無比の邪輝であったが、ソアラの竜波動を制御するのに手間取った。ようやく弾け飛ばさせたときには、アヌビスは大きく後方へ押し込まれ、二人の距離は開いていた。
 「持続性も十分か___」
 アヌビスはソアラの息に乱れがないことに舌を巻いた。彼自身も全く乱れはないが、放出している力の量が違う。ソアラは常にフルスロットルに見えて、全く消耗を感じさせなかった。
 「しょうがねえ___」
 アヌビスは一つ舌打ちして、おもむろに長刀を消した。
 「___?」
 ソアラが警戒の目をする。アヌビスが突如として装束を脱ぎはじめたからだった。きらびやかな装飾が施された前掛けもなにもかも捨てて、漆黒の体を晒す。
 「俺はお上品に戦うのが趣味だが、今のおまえにはそれじゃ戦いにならなそうだ。だから___下品になってやる。」
 「だから裸?だいたい、もともと下品じゃない。」
 返事がソアラらしかったことにアヌビスは笑みを隠さなかった。
 「いいね、そうなってもやっぱりおまえはおまえだ。」
 ソアラは憮然として口を閉ざす。
 「時を止めるのはもうおまえには通用しない。心を読むのとは少し違うかも知れないが、それに近い力を手に入れたな?だから俺が時を止めるタイミングも、限られた停止時間の中で何をするかも分かったし、時が動いたときの出現場所や行動も完璧に予測できた。」
 「否定はしないわ。」
 「大したもんだ。俺はジェイローグに勝つことを目標としていたが、もうおまえのほうが強い。そしてジェイローグにはこれをやらずに勝つつもりでいたが___おまえなら、むしろ俺の全てを見せてやりたい。」
 「勿体ぶってないで早くして。時間がないって言ってるでしょ。」
 「分かってるよ。でも喋れるのはこれで最後だからさ。」
 「え?」
 ソアラが耳を疑って問い返そうとしたときには、アヌビスは変わり始めていた。
 「!?」
 人の肉体に犬の頭を持つ、古代の墓場を司るシンボルだと言われる邪神アヌビス。邪神は肉体を持たずに生まれ、自らの意志で宿る体を決めるという。アヌビスの選んだ体は、他のどんな体よりも小さく、シンプルだったと言われる。
 それが一層シンプルになった。身の丈もかつての彼より小さくなったかも知れない。いずれにせよ、四つ足では比べるのも容易ではなかった。
 「黒い犬___」
 アヌビスは漆黒の犬そのものだった。飾り気など何もない。ただ純粋に黒い被毛に覆われた大型の猟犬のようだった。しなやかな体躯から人の要素は失われている。
 「ルルル___」
 低く体を沈めて、深く下げた首を上げるとき、アヌビスは喉を鳴らして唇を揺さぶる。牙が見えてもおかしくなかったが黒しか見あたらない。ようやく違う色を見たのは、アヌビスがゆっくりとその目を開けたときだった。
 「うっ!?」
 竜戦士と化したソアラが初めて呻いた。アヌビスの黄金の瞳が露わになった瞬間、おぞましい殺気が竜巻となって彼女を包み込んだかのようだった。そして彼女は理解した。目の前にいる黒い犬は今までのアヌビスとは違う。
 「こ、これは___これが本当の邪神___!?」
 ソアラの黄金が僅かに揺らいだ。好奇心からアヌビスの魂に触れようとして、猛烈な吐き気に襲われたからだった。アヌビスの心の内に触れられるものは何もない。あるのはただひたすらの破壊、殺戮、滅亡___目の前にあるもの全てを食らいつくす意思のみ。理性、計算、策謀すらない。
 あの黒犬の後には、手向かう者たちの屍が並ぶ。唯一後に続けるのは彼を崇め奉るものだけ。その点でバルカンの虚無とは違う。しかしこれは、破滅と侵略の最たる存在だ。
 「アヌビス___あんた___!」
 聞く耳など持つはずがない。ソアラは何かを言いかけて言葉を止めた。次の瞬間、アヌビスが吠える。
 「ゴォォァアアッ!!」
 その口から漆黒の光線が迸る。それは一瞬にしてファルシオーネを過ぎ、先にあったロゼオンの世界との境界まで届いた。
 ゴッ!!
 黒い炎が立ちのぼり、着弾点では巨大な黒い輝きが炸裂していた。
 「こ、これが___アヌビスの真の力なの!?」
 ソアラは宙に逃れていた。ただ呆気にとられ、眼下の惨状を眺めてしまった。
 「ゴガァァッ!!」
 「!」
 黒い弾丸が背後からソアラを襲う。殺意を剥き出しにした猟犬が狙うのはソアラの首。しかしソアラは尾を振るってアヌビスの顔に打ち付けながら向き直る。
 「アヌビスッ!!」
 戦わねばならない。狂気でしかない黒犬を目前にして、ソアラの戦意は突如として燃え上がった。アヌビスは遊びも何も無しにソアラの命だけを狙っている。そんな相手にいつまでも戸惑っていては、力量にかかわらず勝敗は目に見えてしまう。それを悟った訳でもないだろうが、ソアラは急に落ち着きを取り戻した。
 「はああっ!!」
 アヌビスの口とソアラの拳が交錯する。ソアラの拳は剣竜のごとき刃を纏っているが、アヌビスは構わずにそれに食らいついた。
 「竜波動!!」
 脆い口内目がけて竜波動を放つソアラ。しかしアヌビスも同時に喉奥から邪輝を放っていた。
 カッ!!
 二つの力は真っ向からぶつかり合う。それは鬩ぎ合いではなく、触れ合った瞬間に大爆発を巻き起こした。
 「くっ!」
 二人の体が離れると、拳を放ったソアラの右腕には罅入ったような裂傷が走り、血が溢れ出していた。
 「ゴガァ!!」
 「!?」
 爆煙を突き破り、アヌビスが飛び出す。黒犬は片目を潰し、口も左半分が殺げ落ちていたが、殺意は微塵にも衰えていない。涎を垂れ流してソアラの喉笛に食らいつこうとする。
 「っ!」
 ソアラは左手でアヌビスを打ち払おうとするが、アヌビスは野性的なサイドステップで簡単にやり過ごすと、急に首から照準を変えて伸ばされたソアラの左手首に食らいついた。
 「あああっ!!?」
 ソアラが叫ぶ。攻撃に意識を向けた左腕に、守りの意識はなく、牙は易々と竜の鱗を食い破った。ソアラの手は竜の頭のシルエットだから、まるで一頭の竜が急所に食いつかれたかのようだった。
 「ぐぅぅ!フレアドラゴン!!」
 ソアラの全身を包む黄金が突如として灼熱の炎へと変わる。だがアヌビスの邪輝は魔力に由来する攻撃はほぼ受け付けないはずだ。
 「グルルッ!?」
 しかしアヌビスは怯んだ。炎はソアラの血液を煮えたぎらせ、光の力でアヌビスの牙に焼き付けた。いわば刀に血の錆を焼き付けるかのように。
 「だあああ!」
 ソアラは右の拳をアヌビスの懐に打ち付ける。右腕は傷だらけだったが、そんなことは全く気にならなかった。アヌビスの体はソアラの左腕から引きはがされ___
 「ああああ!!」
 ソアラはアヌビスの体を右腕に乗せたまま、先程まで食らいついていた牙に、食らわれていた左腕を叩きつけた。
 ギンッ!!
 牙が折れる。血錆の染みた刃は脆いものである。
 「ガウルルッ!!」
 衝撃で吹っ飛ばされたアヌビス。地に叩きつけられても彼はすぐに跳ね上がる。
 「はあああっ!」
 動脈を食い破られ、ソアラの左腕からは異常なまでに血が噴き出す。それを気にもとめずに、ソアラは黄金の輝きを強めた。
 『傷が___塞がらない!?』
 ドラグニエルのエレクとゼレンガは、己の力でソアラの傷口を塞ぎ止めようとしていた。しかしままならない。開いた傷に鱗を伸ばそうとしても、何かに阻まれてしまうのだ。
 「あの牙は邪輝を流し込む。傷口に邪輝で封をされてるのよ___」
 『なんだと___!?』
 「でもあたしも似たやり方で牙を折ったからお互い様。さぁ!分かったら大人しくしてて!あいつに集中したい!!」
 『馬鹿な___これは戦いではなく殺し合いだぞ!』
 「そうよ!!!」
 そんなことは分かっている。アヌビスが己の理性を捨てて、ありのままの邪悪の神の姿を曝したときから、この戦いは戦いでなく命の奪い合いになったのだ。
 彼はおそらく分かっているのだ。どんな結果になろうと、もうこの先ソアラと戦えるチャンスはないと。Gとソアラとの戦いの結果が、ソアラの敗北になればもちろん、勝利になったとしても、もう彼女と戦うことは無くなるだろうと考えたのだ。
 『力はバルカン打倒のために使え!』
 「うるさい!」
 ソアラの輝きが頂点に達すると、エレクとゼレンガに口を挟む余地はなくなる。二人の声を消し去り、ソアラは黄金の彗星となって大地から飛翔するアヌビスへと降り注いだ。そして再び激突する。折れた牙と血みどろの拳だけでなく、鋭い爪や唸りを上げる尾、全身の武器を使って戦った。 
 「神竜掌!!」
 黄金の拳がアヌビスの腹を捉える。しかしアヌビスの体は風に靡く柳のように、背を丸めてソアラの拳を包むようにすると、そのまま錐もみに彼女の腕を駆け上った。虚を突かれたソアラの喉笛にアヌビスが食らいつく。しかし折れた牙では、光のオーラと共に現れた黄金の鱗を貫けない。
 「ガゥッ!?」
 そればかりか、ソアラの両手は夥しいエネルギーを宿したまま、アヌビスの尾を掴んでいた。しかも手から広がった輝く紐がアヌビスの全身に絡みつく。
 「はああぁぁ___!!」
 ソアラは猛然とアヌビスを振りかぶった。尻尾を柄にして、まるで長剣を振りかざすように。
 「やあああああっ!!!」
 そして一気に振り下ろすと同時に手を放す。黄金の紐に縛られたアヌビスは、成す術なくほんの少し前までファルシオンが眠っていた世界の中心へ。
 「竜波動!!」
 しかも着地と同時に黄金の波動が降り注ぐ。混ざり合ったエネルギーは膨大な破壊力を伴い、世界の中心に大爆発を巻き起こした。それは世界を破壊したバルカンのあくびよりも遙かに凄まじいエネルギー。しかしここはオル・ヴァンビディスの中心、すなわちこの世界で最も丈夫な場所だ。ファルシオンの洞窟は跡形もなく消し飛ばされたが、虚無化には至らなかった。
 「はぁっ___はぁっ___」
 ソアラは肩で息をして、粉塵渦巻く大地を睨む。消耗の色を見せたとき、彼女には確かに隙があった。
 ズッ!!
 「!!?」
 ソアラの顔が歪む。この姿になってから初めて感じた激痛の源は、彼女の腰、翼の付け根より少し下の当たりにあった。そこに漆黒の刃が突き刺さり、切っ先は腹へと覗いていた。
 「ぐっ___!?」
 ソアラは顎を突き出す。口からは赤と黒の斑の血が弾け飛んだ。
 「うぅぅ___ああああ!!」
 ソアラは片手で背の刃を握ると、一気に引き抜いた。その時ようやく、それが切り離されたアヌビスの尾であることに気が付いた。腹と背の傷口からはやはり黒が混ざった血が溢れ出た。
 「くっ___!」
 邪輝だ。アヌビスの体毛の全てが邪輝であるといっても良いのだろう。投げ飛ばされた瞬間、奴は自ら尻尾を切り飛ばしてその場に残した。ソアラはまんまと隙を突かれた。そればかりか、尾を通じて体内に大量の邪輝を流し込まれたのだ。
 「ぅぅう___!」
 ソアラは苦悶する。肌に、眼球に、オーラに、黒い絵の具が染みるように邪輝が走る。しかし___
 「うあああああああああ!!」
 体内での戦いの決着はすぐに付いた。ソアラが絶叫と共に黄金の炎に身を包むと、広がろうとしていた黒は動きを止め、輝かしい光に押し込められていく。
 ボジュァァアッ!!
 やがて背から腹へと開いた傷穴から、ヘドロのような黒い塊が吹き出すと、それは凄まじい光の炎に触れて、全て消し飛んだ。
 「___」
 体から黒が消えるとソアラは輝きを弱め、平静を取り戻して前を向いた。大地に渦巻く粉塵はすでに消え失せ、すり鉢状に深く削られた地肌があるだけ。そして正面には、全身から黒い血を滴らせる犬が浮遊している。尻尾を失い、みすぼらしくなったように見えても、瞳はギラギラと輝いていた。
 「___」
 ソアラは無言で身構えた。彼女は凛としていたが、おそらく緊張が解けた瞬間に気を絶つだろう。それほど深いダメージを負っていた。
 お互いに分かっていた。このダメージでは、最大限の力を発揮できるのはあと一撃。つまり次で決着が付く。そしてこの戦いの決着は、どちらかの死、あるいは両方の死でしかあり得ない。
 「いくよ___」
 エレクたちの言うとおり、何も生み出さない不毛な戦いかもしれない。だがソアラはこの戦いに命を、人生を懸ける価値を見出していた。彼女にとってこれは、光を脅かす邪神と、光の戦士である竜の使いの戦いではなく、個人の感情にけじめをつけるための戦いであった。
 アヌビスは彼女にとって仇であり、最大の敵であり、理解者でもあった。人生を狂わされ、また一方で導かれ、奪われもすれば、それ以上のものを与えられもした。特別な存在だった。その二人を結ぶものは、色々ありそうで何をさしおいても戦いなのだ。

 黄金の炎が燃え上がる。
 黒い波動が迸る。
 二人は全身全霊の力を込めて真っ向から挑む。
 その瞬間、ソアラは嬉しくなった。
 理性を失ってなお、アヌビスが同じ気持ちでいてくれたことに喜びを感じていた。
 その時に思ったのだ。
 もしかしたらアヌビスは、この感覚を共有できる相手を探していたのかもしれないと。

 そして、オル・ヴァンビディスの中心で二つの彗星が激突した。

 衝撃は世界の果てまで一気に駆け抜ける。
 「くっ___!?」
 「ぬおぁぁ!?な、なんでぇこれは!?」
 「こ、これ___お母さん!!?」
 ファルシオーネへと急いでいたフュミレイは闇を劈いてきた波動に隻眼を見開き、リュカは総毛立ち、空雪は悶絶し、竜樹は気絶しながらも体を硬くした。
 そして___
 『ゥゥゥゥオオオオ___』
 果てで行く先を見失っていたバルカンもまた、その顔をファルシオーネの方角へと傾けた。

 決着は付いた。
 だがそれは、ソアラとアヌビスが考えていたものとは違う形での決着だった。
 最後の攻撃は相手へと届いていた。しかし互いに浅かったのだ。
 ソアラとアヌビス、宙で浅く交錯したまま止まっている二人の間には、ソアラに身を預けるようにしてルディーが、アヌビスにしがみつくようにしてカレン、ディメード、ガッザス、クレーヌが割り込んでいた。
 「もうやめて___お母さん___!」
 ルディーは顔を上げず、ソアラに身を委ねたまま息苦しそうに懇願した。肌に触れる生暖かい血を感じ、ソアラは青ざめる思いだった。
 「ルディーあなた___!」
 竜の戦士から一人の母へ。ソアラの全身に漲っていた戦意が一気に失せていく。そうさせたのはルディーの胸、ちょうど胸骨の位置に毒々しく開いた傷だった。露出した板状の骨に穴が四つ。ルディーはアヌビスの首飾りを力ずくで引きはがしたのだ。
 「どうしてこんな___!」
 「グルァァァ!!」
 「!?」
 紫に戻って狼狽するソアラにアヌビスが身もだえして食らいつこうとする。
 「アヌビス様!!」
 「怒りをお鎮め下さい!!ぐぁあ!?」
 「うぁあっ!?」
 ヘルハウンドの悲鳴が響く。黒犬を背から羽交い締めにしていたガッザスの腕や胸に、強靱な針となった被毛が突き刺さる。アヌビスはクレーヌとディメードの体にも針を立て、さらにその体を爪で切り裂き振りほどく。
 「アヌビス様___!!」
 真正面から君主を抱くカレンは針に顔や首を刺されても怯まなかったが、アヌビスは首を押さえていた彼女の手甲をかみ砕いた。
 ゴォォオオッ!!
 炎爆の手甲から猛烈な炎が噴き上がる。その衝撃でカレンを振りほどくと、狂犬と化したアヌビスは一直線にソアラへ。
 「くっ!」
 紫に戻っていたソアラは、ルディーの姿に戦意を喪失していた。彼女がここまでしてアヌビスとの間に割り込んだ理由を図りかねていたのだ。迷いのあったソアラは、瞬時に竜の力を呼び起こせなかった。
 (駄目だ___!)
 痛打を覚悟し、ソアラはせめてルディーをその胸に抱き締めて隠すようにする。その首筋をアヌビスの牙は正確に捉えようとしていた。しかし___
 「___っ!?」
 ソアラは首に弾いた飛沫に驚き、硬く瞑っていた目を開けた。そこではアヌビスが首ではなく手首を咬んでいた。
 「我が血に宿る邪輝の一端を啜り、どうか怒りをお鎮め下さい。」
 ソアラの首を捉えようとした犬の口に、振りほどかれたと思ったカレンが左手をねじ込んでいた。彼女は義手を砕かれてなお、アヌビスの体にしがみついていたのだ。アヌビスはカレンの手首から蕩々と流れる血を喉奥に注ぎ、動きを止めていた。
 ガシュッ!!
 「!!」
 しかし休止は一瞬だった。カレンの左手をかみ砕き、両手を失った彼女の体を強力な闇の波動で吹っ飛ばすと、アヌビスは唖然としていたソアラへ牙を剥く!
 「邪輝。」
 「!」
 しかし、落ち着いた声が狂犬の暴走を止めた。ソアラとの間を遮るように走った黒い壁は、それ以上アヌビスを前へと進ませなかった。黒犬は闇の中に絵画のように溶け込むと、突如として動くのをやめたのだ。
 「え___?」
 唖然とするソアラの横にアヌビスの仮面が現れる。ふと感じた懐かしさは、狂犬となる前の顔を見たからか、それとも物腰に覚えがあったからか。いずれにせよ彼はオープンだから、魂に触れれば正体を知るのはとても簡単だった。
 「もしかすると俺の役目ってこれだったのかもな。」
 隣でソアラが目を潤ませはじめたのに気付いたサザビーは、仮面の下で苦笑しながら、掠れ声で言った。その時、アヌビスは黒い壁の中でゆっくりと黄金の目を閉じた。あれほど壮絶だった殺気は、もうどこかへと消え失せていた。




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