1 さらば寡黙なる戦士
オル・ヴァンビディス。主を失ったエコリオットの世界。リュカとオコンを閉じこめた虚無の柱を背にして、巨大かつおぞましくも美しい鳥神となったバルカンは、たった一人の戦士と向かい合っていた。
『まさかな、君がそういう行動に出るとは。私が今まで得てきた知識にはなかった。』
「___」
無口な戦士の名はバルバロッサ。ここにいたはずの他の戦士たち、ライ、フローラ、棕櫚、ミキャック、竜樹、アレックス、ブラック___皆いなくなっていた。彼らはバルバロッサの意志により、世界の中心へと飛ばされていた。
『あの程度の連中を泳がせることは大事ではない。なぜなら、奴らでは私に触れることもままならないからだ。砂粒ほどの命をほんの僅か伸ばすために犠牲になるとは、馬鹿げている。』
バルカンとバルバロッサは赤い光で結ばれていた。それは血の鎖。己と敵の血を光で結び、光の許す距離より離れることを禁ずる術、いわばチェーンデスマッチ。そしてバルバロッサは左腕の赤い鱗を上半身全体にまで広げ、今までにない夥しい力を放っていた。
「棕櫚、ブラック、中心へ飛べ。」
エコリオットを殺し、成熟した精神を得て進化したバルカンは、皆の全身を竦ませるほど圧倒的だった。臆さなかったのは、七年のアポリオでレッシイやソアラ、そしてオコンの力を感じてきたバルバロッサだけだった。
「おまえたちの力では戦うレベルにない。ここは俺が引き受ける。」
「なに言ってやがる!俺も戦うぜ!」
唐突なバルバロッサの申し出に竜樹は全力では反発する。しかし、その体が赤い光に包まれると、彼女の声はあっけなく遮断された。
「貴様が一番駄目だ。」
バルバロッサはそう呟いて、さらに左腕から赤い鱗を剥ぎ取ると、ライ、フローラ、アレックスを背に乗せた獅子の姿の棕櫚、ミキャックに肩を貸すブラックに投げつけた。
「ソアラの所へ行け。あいつならやれる。が、一人では無理だ。必ず生きて辿り着け。」
ブラックと棕櫚が宝石を掴んだ瞬間だった。竜樹と同様、彼らも赤い光に包まれる。
ギャウンッ!!
そして一気に空の彼方へと飛び出した。
『小賢しい。』
バルカンは振り返りもせずに指から破壊の砲弾を放つ。しかしそれは全くあさっての方向に飛んで、リュカたちを捉えた虚無の檻に飲み込まれた。
「小賢しいのは貴様だ。」
頬の辺りまで赤い鱗に包まれたバルバロッサが、バルカンの指に斬りつけたからだった。小さな傷ではあったが、進化したバルカンの肌をバルバロッサの剣は切り裂いた。そしてその一撃が、血と血を結んだのだ。
バルバロッサは力の限り戦った。
だが彼らしくもなく、無心にはほど遠かった___
「俺がソアラより後に潰えることはないだろう。」
「は?なに言ってんのあんた。」
アポリオの中でのことだった。ソアラに壁を問われ、彼女がレッシイに完膚無きまでに叩き伏せられるのを見て数日後。レッシイと二人だけになったときのやり取りだった。
「俺は戦いに求められ、戦いの中でのみ生きられる。戦いで価値を示せねば、俺に戻る場所などない。」
「だから何言ってんだってば。急に喋ったかと思えばとんちんかんなこと言って。」
「おまえだから言うのだ、レッシイ。俺たちの思考にさしたる違いはない。」
「はい?」
「おまえがソアラより後に死ぬつもりがないのと同じだ。俺は俺より強い奴の後に死ぬことはない。それは勝利のための正しい道程だからだ。」
「___」
「俺は戦うことしかできない。奇跡を望むこともしない。生き延びる努力ではない、打ち伏す努力だけだ。勝利は継続を、敗北は終わりを意味する。俺の道を超えられるのは俺より強い者だけ。強者が倒れた道を、弱い者が切り開くことはできない。」
「敗北を予感しているの?」
「Gと対峙すれば敗れるだろう。だが、無意味な終焉にするつもりはない。それもまたおまえと同じだ。」
「___」
「おまえのやろうとしていることを全て聞かせろ。おまえの描く勝利への道が断たれそうになれば、俺はそこに倒れて新たな道となる。」
レッシイは口ごもった。しかし、全ての思惑を明かすまでそれほど時間は掛からなかった___
いま、その時が来たのだ。レッシイの思惑を実現するためには、可能な限りの人材をファルシオーネに送り届ける必要があった。ソアラがGと対峙するとき、支えとなれる人材を。
「ちくしょう!どうなってやがる!」
赤い光に閉じこめられて空を駆ける竜樹は、身動きの取れない体を軋ませて、光の中核を担う赤い宝石を掴もうとする。必死に藻掻いている間もエコリオットの神殿跡地はどんどん遠ざかっていく。
「ジタバタするな。あいつにも考えがあってのことだろ。」
ブラックが声を掛けても彼女は態度を変えない。
「でも___どうしてバルバロッサがこんな事___」
戦いの光が虚無の柱の陰から飛び散る。フローラは寡黙な友の思わぬ行動に困惑を隠せずにいた。
「彼はそういう男です。鵺と再会してから、彼は敵を倒すだけでなく誰かを守ることを思い出しました。自分の同族を誰一人守れなかった無念を取り戻すかのように。」
有翼の獅子の姿で棕櫚が言う。同じ妖魔であり最も付き合いの長い彼は、いつも通り冷静だが横顔は寂しげだった。
「んなこたどうでもいい!あそこにはまだリュカもオコンもいる!放っておけるかってんだ!!」
まるで助太刀を諦めているかのような皆に竜樹は苛立った。しかし戻ったところでできることがあるのか?ましてバルバロッサが命を張ってまで「ソアラの元へ行け」と言ったのにだ。
「あいつは俺たちでもソアラの所に行けば力になれることがあると見込んだ、俺はそう思ってる。あいつと七年を共にしたソアラが、いまレッシイと世界の中心にいるんだぜ?そこに行けって言葉に意味がないとは思えないな。」
「俺もそう思います。リュカ君とオコンさんは自力で打開してくれることを祈りましょう。あの虚無さえ何とかできれば、彼らなら今のバルカンでも凌げます。」
「冗談じゃねえ!!」
竜樹がなけなしの力を振り絞り、羅刹で赤い光を振りほどこうとする。
「そんなにリュカを好きなのか?」
彼女の気を削ごうと、ブラックは冷めた口調で問いかけた。苛立っている竜樹にこの手の言葉は蜂の巣を突くようなもの。ミキャックやライ、フローラがギョッとしたのも無理はなかった。しかし___
「ああ!悪いかよ!!」
竜樹は否定しなかった。あまりにもサッパリした返答に、当のブラックが口笛を吹いたほどだった。
「おらあああっ!!」
苛立ちを力に変えて、竜樹は宙で輝く宝石に牙を剥いて噛みついた。
ビギッ!!
勝ったのは牙だ。宝石が罅入ると赤い光は一気に消し飛んだ。
「うおおお!」
竜樹はすぐさま羅刹の力を剥き出しにして、元来た空へと逆行した。赤い光に抵抗できないブラックたちとの距離はあっという間に離れてしまった。
「本当は僕だってああしたい。それはみんなだってそうだろ?」
棕櫚の背でライが言う。剣も失って、彼が握れるのは棕櫚の毛皮くらいだった。
「当然ですよ。」
「皆まで言わすな。」
棕櫚とブラックが口々に答えた。
「あれ?」
その何気ないやり取りに違和感を覚えたライは、ブラックを振り返って首を傾げた。
「なんで君も?」
「さあ?」
ブラックはライの仕草に合わせるように少しだけ首を傾げる。
「ねえ___もしかして___」
息のあった二人の動きに見覚えがあったフローラは、棕櫚の耳元に口を寄せる。棕櫚は何も言わずニヤリと笑って頷いた。フローラは驚きと共に顔を上げ、アヌビス面が赤い光の中でこちらにぎこちなく手を振り、その横でミキャックが頷くのを見ると、満面の笑みになった。
「なに?」
相変わらず首を傾げているのは、眠れるアレックスを除けばライだけである。
「空牙裂砕!!」
赤い光を纏ったバルバロッサの剣が振り下ろされる。迸った赤い衝撃波はバルカンの胸に激突したが___
『おおおお!』
バルカンは怒声とともに衝撃波を抱き締める。すると赤い波動は彼の腕の隙間から千々乱れて散った。
『私に傷を付けられること自体、見事だ。かつてのバルカンであれば、君に敗れていたかもしれない。』
バルカンの胸が縦に裂け、血を流した。しかし傷としては浅い。バルバロッサ渾身の一撃は、バルカンの胸板を破ることもできなかった。
『だがそんな推察は無意味だ。私は君の記憶を新たなる創造に持ち込むつもりはない。』
胸の傷はあっという間に塞がっていく。Gの再生力はより脅威を増していた。一方バルバロッサも一見すれば大した傷はない。しかしそれは彼の赤い光と黒い装束が隠しているだけで、少なくとも背中には爪で裂かれた傷が生々しく開いていた。
空牙裂砕は彼が磨いてきた奥義。多くの敵をなぎ倒してきた無双の斬撃。それがバルカンには通用しない。その時点でバルバロッサは万策尽きた。
『終焉だ。』
バルカンが言う。バルバロッサは最期の力を振り絞ってゼダンを振るう。例え一秒であろうとも、バルカンを釘付けにするために。
ガギギッ!!
バルカンの拳がゼダンに埋め込まれた宝石を打つ。紅玉は一撃で砕け、同時に力を喪失したゼダンに亀裂が走る。
バンッ!
圧力に耐えかねて、剣は弾け飛んだ。飛び散った刃がバルバロッサの体に無数の弾丸となって食い込む。欠片の一つは、彼の右目を血に染めていた。
「___」
それでも彼は無言で無表情だった。嘴を歪める巨大な鳥の化け物を前に、最期まで戦意を消さない。恐怖の表情を期待していたバルカンを徹底的に裏切り続けた。
ザンッ!!
だがもはやその程度の抵抗しかできない。振り下ろされた爪に左腕を落とされると、赤い光も消し飛んだ。体に残された赤光鬼の鱗もボロボロと剥がれ落ちはじめた。
『さらば。』
飛空の力さえも失ったバルバロッサに、バルカンは裁きの鉄槌を下すが如く、高々と上げた手を振り下ろした。
「!」
誰もが息を飲んだ。世界の中心へと導いてくれた宝石の色が、見る見るうちに赤から黒へと変わったからだった。
「こ、これって!」
フローラが震えた声を上げたのと同時に宝石は粉々に砕け散り、皆の体を包んでいた赤い光も消し飛んだ。
「バルバロッサが___!」
それが何を意味するか、説明するまでもなく分かることだ。ライは先程よりも強く棕櫚の毛皮を握りしめ、唇を噛んだ。サザビーの無事を知った直後に一転し、フローラは愕然として虚空を見た。
「格好つけやがって___」
多くを語らない男だ。馴れ合いも好まない。しかし彼の存在はなくてはならなかった。
「二人ともこちらへ。ファルシオーネに急ぎます。」
棕櫚は務めて平静だった。だがその背に移れば彼の怒りは痛いほどに分かる。しかしバルバロッサのためを思えば、今は前に進むしかない。
「嘆くのはやめましょう。そんなことしても彼はこう言うだけです。」
一つ息を付いて続ける。
「迷惑だ。」
仮面のサザビーも、ライもフローラもミキャックも、呟いた言葉は同じだった。それぞれが心の中で、黒衣の剣士に別れを告げ、感謝した。そして空飛ぶ黄泉の獅子は、さっきよりもがむしゃらになって、ファルシオーネへと急いだ。
『妙だな。』
バルカンは己の手を見た。バルバロッサはもはや跡形もない。しかしバルカンはとどめを刺した手を訝しげに見ていた。
『手応えがなかったが、気配も全くない。』
赤い宝石の欠片も見あたらない。黒い砂粒となって大地へ落ちていったのを見届けただけだ。しかし彼はバルバロッサを殺した感覚がなかった。
『逃げた?まさか、どうやって?黒犬でもあるまいし。』
粉々に砕いて消滅させた感じではない。目の前から消えたような気がした。それは彼が消えたのか、自分が何らかの能力に目覚めて消したのか、バルカン自身にも良く分からなかったのだ。
とにかく不思議な現象だった。
『良い戒めだ。真の獲物の狩りには、より慎重に臨む必要がある。』
だがバルカンはすぐにバルバロッサについて考えるのをやめた。それほど価値のあることとは思えなかったからだ。視線はすぐに、リュカとオコンのいる虚無の檻へと向けられた。
ゆっくりとバルカンは動いた。目指すは虚無に囲まれた場所で、バルカンが戻るのを待っているだろう二人のところ。
『___』
手を差し入れても、虚無はバルカンを受け入れる。無の中に唯一の有を創造しうる男を、虚無は拒まない。むしろ以前にも増して歓迎されているようで、体の微々たる損傷も見られなくなっている。
『フフフ___』
まるで日陰を通り過ぎるかのような簡単さで、バルカンは漆黒の中へと踏み入り、そしてすぐに内側の空間へと顔を出した。
『む?』
そこは塩気ある水で満たされていた。上から下まで、黒い円柱の瓶の中に海水が並々と蓄えられているかのようだった。
水の中に黄金に煌めくリュカがいた。彼はオコンが持っていたはずの矛を、槍投げの投擲手のようにして振りかぶっていた。
「やれっ!!」
どこからともなくオコンの叫びが響く。バルカンの体表面が、満たされた海水に触れたのを確認しての叫びだった。
「うあああああああっ!!!」
海水の中で、リュカが絶叫と共に腕を振るった。オコンの加護により、彼の動き、矛の動き、全てが地上にいるのと変わらない軽やかさだった。そしてリュカは己の身を包む黄金の全てを、投擲の瞬間に矛へと乗り移らせていた。
瞬間、虚無の檻の中は黄金の輝きで満たされた。
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