第31章 竜と妖魔と

 『フゥゥゥゥルルルル___』
 谷間を抜ける風の唸りのような吐息。バルカンは宙に留まり、皆を眺めながら、ただゆっくりと吐息を吸ったり吐いたりしていた。
 『ゥルルルル___』
 その音が徐々に小さくなる。竜樹が「くるぞ!」と叫んでから、すでに十分はこうしている。しかし皆は立ち向かうどころか、逃げることも、動くことさえ許されずにいた。なぜだろう、いまはその場から動く気配のないバルカンなのに、この不動を破った瞬間、己が絶命する姿しか想像できなかった。
 それは理屈を超えた、本能が感じる危機感である。
 いや、危機どころか、死の予感だろう。
 『フゥゥルルルル___!』
 吐息が大きくなると、ライとフローラは獅子に化けた棕櫚の背を強く掴み、棕櫚は動物らしく耳を寝かせた姿勢になり、竜樹は体から汗を溢れさせ、ブラックはミキャックを守ろうとする。
 そして___
 『フォォォアアアアアア!!』
 バルカンが動いた。大口を開け、大気を震わせる声で嘶いた。両手をグンッと空へ付きだしたその姿は欠伸のようでもあった。
 ポゥッ___
 大口の喉の奥から、七色の光が覗く。それは陽炎のように揺らいだかに見えた。そのまま一分。そして___
 『アアアァァウゥ!』
 バルカンが伸びた腕と背を一気に曲げ戻し、口を閉じた。
 キュンッ___!
 「!!?」
 その時吐き出された呼気に乗って、何かが放たれた。それが七色の玉であることは、ライとフローラの目では捉えられなかった。それほどの速さだったのだ。
 竜樹が動いた。彼女は自分たちの横を駆け抜けて、遙か後ろの彼方へと飛んでいった七色の玉に、背中の皮をそぎ取られるようなおぞましさを感じた。
 そして見たのだ。遙か彼方に火の壁が立ちのぼるのを。
 「う、嘘だろ___」
 壁というよりは、津波のようでもある。それはおそらく巨大な火柱なのだろうが、あまりにも巨大すぎて水平線から迫る炎の津波のようだった。それが空の高みまで立ちのぼっているのだ。
 「熱波が来るぞ!防御しろ!!」
 ブラックが叫ぶ。すぐに耳を劈くような爆音が、遅れて一帯の密林に炎を散らすほどの熱波が戦場を駆け抜けた。
 「リヴェルサ!!」
 熱波を何とか凌ぐと、すぐさまフローラが回復呪文を放つ。それはその場にいた全員に光の雨となって降り注ぎ、たちどころに傷を癒していく。だがそれも気休めにしかならないかもしれない。
 「虚無___」
 炎の壁はもう消えていた。代わりに、遙か遠くに立ったのは黒い壁だった。バルカンの欠伸は世界を壊し、虚無へと変えてしまったのだ。
 「こいつが今までと力に大差ないだって___?」
 竜樹が頬を引きつらせて言った。バルカンのほうへと向き直るのにはかなりの勇気が必要だった。
 「見込み違いだったかもな___」
 それはブラックも似たようなもの。二人は互いに息を合わせるようにして振り返った。同時にミキャックと棕櫚、遅れてライとフローラが振り返る。バルバロッサは後ろに目もくれずバルカンを見続けていた。
 『待たせたな。』
 バルカンは覚醒していた。どこか虚ろで、自我が定かでなさそうに見えた先程までの姿ではない。言葉も、表情も、力の塊でなくバルカンへと戻っていた。
 『エコリオットはやはり恐ろしかった。私一人ではあの精神攻撃に耐えるのは難しかったろうが___私には強い味方がいた。』
 「味方だと___?」
 竜樹が眉をひそめて問い返す。望ましい反応を示してくれる彼女を面白がるように一笑して、バルカンは自らの胸に手を当てた。無限の上に。
 『思いがけない収穫だったよ。たった一人の人間の力が、エコリオットの意識を受け止める助けとなった。私が手に入れた脆い肉体の男は、実は神に劣らぬ魂の持ち主だったのだ。』
 さしもの竜樹も今度は言葉が出なかった。どういう事かよく分からないなりに、何か酷くショックなことを思い知らされそうで、彼女は平静を保つことに努めるしかなかった。
 『名前を思い出すことにした。ニック・ホープ、百鬼と呼ばれる男の魂はすばらしい。まさにこの紋様の如く、無限の器を持っている。彼のおかげで私はエコリオットに勝てたのだ。』
 混乱は極致へと達していた。背の虚無を待つまでもなく、戦場を絶望感が包もうとしていた。




前へ / 次へ