1 壁
ファルシオンの洞窟、鏡の間。
「馬鹿な___この俺が___!」
ソアラはジャルコを一蹴していた。憎らしい小男は自慢の剣術も、呪文も、なにもかも紫のソアラに打ち伏せられていた。それは屈辱以上の何ものでもなかっただろう。
「少し反則だったかもね、あたしは二人だったから。」
ソアラは紫でこそあったが、ドラグニエルの黄金の鱗は見事なまでに輝いていた。濃紺の装束の胸から腰の辺りまでを凌駕する刺繍の龍は、その黄金の煌めきでジャルコの攻撃を全く受け付けなかった。攻撃に転じれば、ソアラの右手の剣だ。それは腕の外側に沿って伸びる爪のような武具だが、刃の大きさは長剣に匹敵していた。
「おのれ___!」
これがソアラの意志に従い、自在に形を変える。鍔迫り合いから刃が枝分かれして伸びるという奇策に、ジャルコはあえなく散ったのだ。
鏡が割れた。
「またおまえと戦うことができて嬉しい。」
振り向くと、そこに黄金の獅子がいた。後ろからソアラを襲うこともできたろうに、それをしないのが八柱神の中でも真の戦士と誉れ高かった男の気性だ。
「あたしもよ。あんたはジャルコと違って、魂を鍛えていそうだから。」
「光栄だ。」
次の相手は八柱神最速の戦士、メリウステス。生身の格闘術を身上とする彼に倣い、ソアラもまた黄金の刃を消した。直後、二人の姿が消え、鏡の間では激しい音と火花が散るだけになった。さらに直後、今度はメリウステスの尾がソアラの頬を張った状態で、二人の姿が現れた。そこからメリウステスは光り輝く雷となってソアラに突貫する。
ガッ___!
しかしソアラは頭から突っ込んできたメリウステスのこめかみを両手で挟みつけた。メリウステスは構わずに押し込もうとするが、床に踏みとどまったソアラは動かない。
「!?」
その時、メリウステスはソアラの脚を見ていた。竜装束が変化したのだろう、ソアラの靴には力強い爪が伸び、蹴爪が床に食い込んでそれ以上の後退を許さなかった。
(ドラゴン___!)
剣と同じ要領でドラグニエルの竜鱗が変化しただけだが、メリウステスには陸竜の足そのものに見えた。刹那、彼の視界は飛んできたソアラの膝に潰された。
「エナジースパーク!!」
しかし追撃は許さない。こめかみを掴むソアラの手首を握ると、メリウステスは全身から激しい電撃を迸らせた。
ソアラの手が弛んだ僅かな隙に、メリウステスは至近距離から光の砲弾となってソアラに襲いかかる。
ガッ!
しかし砲弾は、それ以上の速さで振り上げられたソアラの蹴りに阻まれた。後ろに宙返りしながらの蹴りはメリウステスの顎をかち上げ、打ち砕く威力だった。
「!?」
だがメリウステスはそれでも止まらない。顔を血みどろにしながらも、跳ね上がった体で天井を蹴って後ろ向きのソアラに襲いかかる。
そして!
「さすが、百年後には最強の八柱神になったはずって言われるだけのことはあるわ。」
二人の動きが止まった。メリウステスの爪は、振り向いたソアラの鼻先に触れる寸前で止められていた。いや、実際は届いていたのだが、ソアラの黄金の波動に爪は切っ先を削り取られてしまった。そしてソアラの手は、彼の額にしっかりと触れていた。
勝負あり。
「まだ三人目なのに、あたしを黄金に光らせた。あなたこれで二度目よ。」
「もう一度竜の使いを見ることができて良かった。だが、願わくば完全な姿を見たかったものだ。」
「___」
「ありがとうソアラ。最後に竜波動を見せてくれ。」
「ええ。」
額の手が光る。直後、鏡が割れた。
「小竜の舞踏!!」
しかしソアラは光を絶やさず、それどころかより小さく糸のように細い黄金の波動を、四方八方へと散らした。光は宙を泳ぎながら部屋一杯に広がり___
「掴まえた。」
部屋の一角で闇と同化していたコウモリを掴まえた。
「ソアラ___!」
「ごめんね、あんたとは話す気にもならないから。」
コウモリがグルーの姿に戻ったのはほんの一瞬だけ。彼が引きつった顔を見せたときには、部屋中に散った黄金の糸が針のようにピンと伸びてグルーを襲っていた。炸裂する光の中で、闇にしか生きられない元八柱神はあえなく消えた。
鏡が割れる。途端、部屋の温度が跳ね上がった。
「再び対峙できるとは。」
前方から、炎の目映い輝きと猛烈な熱気。
「しかも二人でね。」
後ろからは、銀色の美しい煌めきと強烈な鋭気。
「ラング___ライディア___!」
ソアラの表情が変わった。その場から素早く飛び退き、二人に挟まれるのを避けるように動いた。八柱神最強のラングと、紅一点ライディア。かつての恋人同士が、並んでソアラの前に現れた。
「!」
部屋を囲む鏡の上に、炎が走る。鏡をすぐ後ろにしていたソアラはやむなく前へと飛んだ。ラングの炎は部屋の壁という壁を埋め尽くしてしまった。
「ラングの炎は地獄の灼熱。輝くのをやめたらあんたでも大ダメージは避けられないよ。ま、あたしもだけどね。」
その炎を寄せ付けない輝きが、ソアラの黄金とライディアの白銀。かつて激闘を繰り広げた竜の使い同志だが、ライディアはより闇に傾倒した輝きを持つ。
「さあ、覚悟なさいソアラ。今度は前のようには行かないから。」
鏡の間はまだ五、六人目だ。まだ鏡は山ほどあるというのに、ソアラは早くも厳しい戦いを予感せざるを得なかった。
『大丈夫だ。私が付いている。』
そんな気負いを察してか、深く染みいるような声が彼女の脳裏に流れ込んできた。
「わかってる。頼りにしてるよ、エレク。」
そしてソアラは、胸の龍に手を触れて小さく頷いた___
___
遙か昔のこと、唯一無二の世界バルディスが、Gによって危機に瀕していた頃。
娘のセティに加え、レッシイまでもが戦いの意志を示し、ジェイローグは複雑な思いに駆られていた。しかし彼女たちの決意は無駄にしてはならないし、これは誰一人として逃れることのできない戦いと感じたから、彼は受け入れた。
「何をしに来た?」
「連れない物言いだな。」
幽閉状態にあったレイノラとの再会をレッシイに求められ、それを果たして拠点へと戻る道すがら、空を駆けるジェイローグの前に二つの影が躍り出て行く手を阻んだ。現れたのは知った顔、しかし好ましい関係とは言えない男たちの顔だった。
「急いでいる。長老たちの説教ならまた後にしてくれないか?」
ジェイローグは憮然としていた。そんな彼の態度にも、現れた二人の男たちは納得の面もちだった。
「おまえだって多少の郷愁を抱いたから、里の近くを飛んだんだろ?」
「気を悪くしないでくれ。俺たちは頭の固い老人たちとは違うのだ。」
二人の口元から牙が覗く。人の姿はしていても、彼らの真の姿は人にあらず。二人はジェイローグと同じ竜族の戦士だった。ジェイローグよりも少し年上で、双子。しかし似ているのは外見だけで、謙虚で誠実な兄と、我が儘で豪快な弟だった。
「おまえの力になりたい、そう思っている竜族は少なくない。しかし年寄りたちはおまえに力を貸すことを良しとしない。世界が滅びようとしているのにだ。」
「聞いたぞ、おまえの子どもたちまで戦っているらしいじゃないか。双子の、しかも女の子だ。それでいておまえの同族、誇り高いはずの竜族が、異端児だからって手を貸さないのは馬鹿げてる。」
竜族とジェイローグの関係は決して思わしくなかった。多くの竜族は、将来の長となるべきジェイローグが光の神の元に走り、しかも闇の女神と恋に落ちたことを忌々しく思っていた。一族の至宝と目を掛けてきたのに逃げられたのだから無理もない。以来ジェイローグと竜族の関係は冷え切り、彼が罪に問われたときも一切擁護しようとはしなかった。ジェイローグも関わることを避けていた。
だが今、世界を危機に陥れる存在に真っ向から挑む元同族に、若い竜族たちは心動かされていた。二人もそうだ。
「力を貸したい。」
「あなたたちには無理だ。里を出ることができない。」
「見抜いてるか、さすがだな。」
そう言って、荒々しい弟は自分の首に掛かる輪っかを指で弾いた。
「この首輪が我々の思いを決定的にした。おまえに力を貸したいと長老たちに直談判した結果がこれだ。」
「里を離れるほどにどんどん締まっていく。しかも自分では外すことができない。はっきり言って呪具だな。」
「気持ちだけで十分だ。私には心の通う同族がいると分かっただけでもありがたい。」
そう言ってジェイローグは先を急ごうとする。しかし兄弟は彼の前に立ちはだかって、道を開けようとはしなかった。
「これをかけられた時点で思いが決まったと言っただろう。」
「おまえの力になるなんてのは烏滸がましいが、竜族として不完全なおまえの娘たちの力にはなれる。」
「なに___?」
「俺たちはドラグニエルになる。それをおまえの娘たちに与えてくれ。」
「!」
生命の宿った武具、装束はかつては珍しくなかった。纏った者を呪い殺す衣服などには、悪魔の命が宿っているといわれる。竜族の間にもそれを作る方法は伝えられていた。年老いた竜が、自慢の牙を後世に残すため、自らの命を剣に変えるという類のもので、竜の命を源とする武具を総じて「ドラグニエル」と呼んだ。
だが若い命がそれを行うことは、禁忌とされていた。
「何を馬鹿なことを___!」
「それが我々の意志であり、おまえへのせめてもの罪滅ぼしであり、頭の固い長老たちへの抗議だ。」
「これでも変われないようなら、竜族には滅びの道しかない。それなら物としてでも、おまえの系譜に携われるほうが嬉しいってもんだ。」
「しかし___!」
受け入れられるものではない。ジェイローグは頑なに拒否しようとする。しかしその反応は双子の竜は百も承知だった。だから手にした布を見せつけたのだ。
「止めても無駄だ。」
その手には真っ赤に染め上げられた服があった。それが血であることをジェイローグは知っていた。
「すでに術は施している。」
「あなたたちまで消えては竜族の里は___!」
「馬鹿言え!俺たちがいたってGに狙われりゃお終いだ!」
冷静な兄、剛毅な弟、言葉遣いも声の大きさも正反対だが、秘めた思いは同じ。なんとしてもジェイローグの力になりたい。それだけだ。
「時が来た。」
「待て!エレク!」
兄の名を呼ぶ。
「いらなくても捨てるなよ!」
「ゼレンガ!やめろ!」
弟の名を呼ぶ。
手を伸ばしたその時には、二人の姿は消え、刺繍の刻まれた装束が二つ宙を泳いでいた。どちらも女性用のドレス。一つは胸にエレクが、一つは背にゼレンガが宿る。
若き命を宿したドラグニエルの誕生だった。
___
「苦労してるわね。二人いっぺんはきつかったかしら。」
薄暗い部屋の中で、レッシイは一人呟いた。
『なに言ってやがる。セティなら片手で捻るぜ。』
その背中から答えが返った。
「だよね、でも相手も相当やるわ。生きてれば貴重な戦力だったろうに。あとソアラも力を出し惜しみすぎなのよ。ま、この先のことを思えば当然なんだけどさ。」
『出し惜しんでも片手で捻るってんだよ。ったく、相変わらず焦れったいぜ兄貴は。さっさと本気を出させりゃいいのに。』
「ゼレンガが出しゃばり過ぎなんだよ。」
『うるせえ!』
レッシイの背中で銀色の竜が吠えた。ドラグニエルのゼレンガは今ここにいる。
「ほらほら!」
ライディアの猛烈なラッシュがソアラを押し込む。速さ、切れ味、力強さ、どれをとってもかつてのライディアとは比べ者にならない。竜の使いの力を我がものにした戦士がそこにいた。
「ドラギレア!」
拳のラッシュを避けたところに追撃の火炎。
「ストームブリザード!」
ソアラは氷結呪文で返すが___
「!!」
炎はびくともせずに氷を飲み込んだ。
「くっ!」
ソアラは消える。炎は彼女がいた場所の大気を煮えたぎらせて向こうの壁へ消え、ソアラは瞬時に部屋の中央付近へ。その動きをライディアが見切っていた。
「竜波動!!」
銀色の波動が部屋を目映い輝きで一杯にする。
「竜波動!」
そこに黄金が加わった。二つの輝きはぶつかり合い、次の瞬間にはどちらも散り散りになって消え去った。
「そ、相殺した!?」
ライディアの波動と同等の力で撃ったソアラの竜波動。二つの同じ力が均等にぶつかり合うと、力はそこで弾けて消える。それは魔道に精通する者が得意とする、しかし極めて高度なテクニックだった。
「抜かったな。」
「!?」
だが攻撃は前方からだけではなかった。ソアラの足下に炎の糸が蜘蛛の巣のように蔓延っていた。
ゴオオオオ!
あまりにも強烈な火柱が立ちのぼる。それはたちまち部屋一杯に広がって埋め尽くそうとしていた。
「ちょっと!あたしもいる!」
ライディアまでも飲み込む勢いだったが、彼女はすぐに黒いマントに包まれた。壁の炎から現れたラングが守ったのだ。
『相手への敬意はこの程度にしておくべきだ。我々には時間がない。』
火柱の中から声がしたのはその直後だった。誠実で、物静かに思えて強い意志の滲む声だった。
「分かってる。二人が本当に強いのよ。でも___確かに時間はないよね。」
そしてソアラの声。直後、炎の内から黄金の風が吹き荒れると、それは竜巻のように凄まじい渦を巻いて火柱を消し飛ばし、さらに広がって壁に蔓延る炎まで飲み込んでいく。
「なんと___」
ラングは感嘆していた。この心地はかつてソアラの竜波動に敗れたときと同じだった。
「あ、あの手は___?」
ライディアの輝きも消えていた。戦いよりも、現れたソアラの変化に釘付けとなっていた。
ソアラの手は人のそれとは違っていた。基本構造は同じなのだろうが、それ自体が竜の上顎のようだった。手の甲からは鋭い刃が二本、腕の方向へすらりと伸びている。手を鳥の嘴のようにして、親指を下に、他四本の指を上にと重ねた状態で横から見れば、口を閉じた竜がいるよう。実際、骨の隆起が竜の眼を象っているかのようだった。
黄金の風は、その手から溢れ出ていた。
「ごめんね、ライディア、ラング。」
手を二人に向ける。
「ううん、今度は二人一緒だもの。むしろ嬉しい。」
「めざましい進歩だ。恐れ入ったよ。」
「頑張ってね、ソアラ。あんたならできる。」
最後の瞬間、ライディアはソアラに手を振ってから、ラングと唇を合わせた。口付けしながら波動の中に消える二人の影に、ソアラは目を閉じて祈りを捧げた。
「___さあ、次!」
それからしばらくはソアラの心を抉るような試練が続いた。ポポトルや白竜軍で関係のあった顔ぶれは、力では到底彼女に及ぶはずもない。しかしどんなに割り切ってみようと、苦しいのは変わりなかった。フェリルに見せられた彼女の過去にも重なるところがあったから余計に___
「ラド___!」
そこにはかつての恋人の姿もあった。彼を救えなかったのは悔恨以外の何ものでもない。だがこうして、因縁浅からぬ人々が登場するに連れ、ソアラには別の発想が芽生えはじめていた。
『どうかしたか?』
刺繍の龍、エレクがソアラの胸で問う。鏡はもう残り三枚になっていた。
「ん?あぁ、ちょっとね。」
『辛かろうが、喜びも悲しみも贖罪すらも受け入れられねばGは倒せぬ。』
「ううん、そういうこと考えてたんじゃないの。あたしにとって大切な、でも死んじゃった人が出てくるなら、どうしてあいつとあいつが出てこないんだろうって考えてたの。」
『まだ三枚ある。』
「フフ、そだね。」
ソアラが思い浮かべた顔は、古くから知る男たち。彼らはこの世界で死んだはずだ。もし彼らが出てくるとしたら、きっと辛いだけでこれっぽっちの喜びもないだろう。
ザッ___
床を踏む音がした。後ろの鏡からだった。ソアラは振り返った。そこには見たこともない女性が立っていた。記憶にある人しか出てこないはずなのに、ソアラは彼女のことを知らない。しかし他人にも思えなかった。
黄金の髪と空色の瞳を見せつけられてはそれも致し方ないだろう。
(竜の使い___)
なんと凛々しい女性だろうか。纏っているのはシンプルな布製のローブで、武器も何も持っていないのに、ソアラは彼女が戦士であることに何の疑いも持たなかった。戦場の女神がいるとすればそれはまさしく彼女のことだ。それほどに気高く、美しく、理知的で、力強く、それでいて暖かな母性をも感じさせる。
(あれ?)
無言の彼女と対峙するうちに、ソアラは彼女が誰かに似ていると気付いた。
『セティ___』
その答えを呟いたのはエレクだった。
「セティ?___セティって!レッシイの!?」
「双子の姉よ。」
セティが喋った。しかしその風格は微動だにせず。
「そして、あなたの遠い母に当たる。」
レッシイのファッションが奇抜だから一目でとは行かなかったが、よくよく見れば顔は確かにレッシイとよく似ている。背丈はセティのほうが少し大きいようだが、それでも二人して小柄なのは変わりなかった。
「どうして?私はあなたと会ったこともないのに___どうしてここにいるの?」
「あなたの中に脈々と流れる血の記憶、そしてそこにいる私のかつての相棒の記憶___それでは納得できないかしら?」
「エレクの___」
ソアラの着ている竜装束は確かにセティのお下がりだ。天界のドラゴンズヘヴンでレイノラから受け取ったときにそう聞いていた。
「これはあなたがファルシオンを手にするに値するかどうかを確かめるための試練。でも私たちにとってはまた別の意味を持つ。それはあたしたちが同じ服を着ていたことに繋がるわ。」
「___」
「エレクはあなたを認めている。でも私は違う。あなたがまだ未熟だからよ。」
そう言ってセティはソアラの手を指さした。
「それ以上変われないの?」
「___」
ソアラは答えない。
「あなたは血が混ざりすぎているものね。確かに輝けるけれど、あたしとは違う。でもエレクはあなたを認めた。それは本当にあなたが完璧な戦士になれるから?それともやけくそかしら?」
『潜在能力はある。それは間違いない。』
「眠らせたままでは駄目よ。私のようにエレクの力無しで変わるのは無理だとしてもね。」
シンッ___
その瞬間、礼拝堂ほどの広さでしかない鏡の間の空気が凍てついた。かと思うと、部屋の片隅から煮えたぎる波濤が広がり、ソアラの全身を焼け付くほどに熱くして後ろに駆け抜ける。その後、気流の一切が消え、些細な震動すら無くなる。
真の静寂。それはセティの存在を際だたせる。
彼女は人の領域を超えた存在になっていた。全身のバランスは人間そのもの。すらりとした手足も、女らしく丸み帯びつつ引き締まった胸や腰や尻も、その凛々しくも美しい顔も、全て人間セティのままである。だが、黄金の髪の両耳の上あたりからは角が伸び、耳そのものも幾らか形を変え、口元には牙が覗き、肩には左右それぞれに竜の上顎が吠え、胸や腰には急所を守るように甲殻が張り、腰からはしなやかな尾が伸び、肘や膝の関節からは剣のような針が飛び出し、背中には大きな翼、足は陸竜の力強さそのもので、手は今のソアラと同じだった。
「ぅう___!」
ソアラは気圧された。彼女はこれが竜の使いの完成型、セティの言う「完璧な戦士」の姿だと知っていた。
「私を超えられなければ、あなたにGに挑む資格は無し。」
だがそうだとしても、セティはソアラの知る完璧のさらに上を行っていた。双子でありながら最強と称されたのは彼女だけなのだ。
アポリオの中でのこと___
「うああああ!」
ソアラが叫ぶ。黄金の輝きを爆発させて、さらなる高みへ昇ろうとする。ドラグニエルもまた、光を浴びてキラキラと輝く。しかしそれ以上の変化はない。ソアラの口元に覗いていた牙も、彼女の力の収縮と共に消え失せていく。一端弱まると、輝きはあっという間に消し飛んで、紫色の髪が流れた。
ソアラは膝に手を付いて、荒い息を整え始める。
『すまない。』
刺繍の竜から声がした。
「ううん、あたしの問題だから。」
ソアラも当然の様子で答えた。
『いや、そうとは限らない。』
「ちょっと汗流してくる。一端脱ぐけどいい?」
『好きにするが良い。私も熟考する時間が欲しい。』
「ありがとう、エレク。」
ソアラの言葉に不自然さはなかった。彼女はすでに自分が纏う竜の事を理解していた。彼がエレクという名であり、レッシイが纏うドラグニエルのゼレンガとは双子であることも聞いている。疎通は図れているのだが、そこから先が思うようにいかなかった。
風通しの良い枯れ木の枝に揺れるソアラのドラグニエル。
「苦戦してるね。」
そこにレッシイがやってきた。
「一日であんたと話せるようになって、数日のうちにお互いのこともだいぶ分かったってのに、そこから随分と手こずって。」
声を掛けてもドラグニエルは反応しない。しかしレッシイがその裾を取って掌に黄金を灯すと、ドラグニエルは一気に艶めいた。
「あの子の素質には疑いないはずでしょ?」
『無論だ。』
そして竜のエレクが答える。風が吹いた訳でもないのに、ドラグニエルは捻れて胸のエレクがレッシイを見た。
『磨くほどに強くなっていた。これまでは。』
「順調だったのにね、でも今はブレーキが掛かっている。どうしてかしら?」
『私とゼレンガは不完全なあなたたちの竜を補うためにドラグニエルとなった。』
「そうね。あたしと姉さんの半分は闇の女神の血だから。」
『つまりよ、エレク。あいつはそれ以上に竜の血が薄いってことだろ?』
レッシイの背中にいた竜が、ドラグニエルの中を蠢いて肩から顔を覗かせた。
「でもあたしと同じ力を出せる。あたしの力もあいつの力も、黄金に輝くときは父さんに由来する力よ。それに変わりはないわ。」
レッシイ、ゼレンガ、エレク、竜の使いを知り、過去も現在も知る三人がソアラのことを思案する。順調な成長を続けていたソアラが唐突に壁に当たったため、コーチ陣が頭を悩ませているのだ。
「どうしたらいいのかな___」
壁はソアラの変化だった。彼女は竜の使いとして力を高めたとき、僅かに覗く牙や鈎爪、紋様のことを理解していなかった。レッシイはそれが竜族の力を最大限に発揮するための変化だと伝え、ソアラは驚いていたが納得もしていた。竜の使いの力を高め続けることで、意識せずとも体は対応すべく変化する。そして最大限の力を発揮するためには、最大限の変化が必要だ。
「強くなるために変身って、Gみたいね。」
ソアラはそう言って笑った。しかしレッシイには笑えない冗談だった。
それからがソアラの壁の始まり。彼女はごく僅かな変化から先に進めなかった。どんなに力を高めても、今以上の変化ができないのだ。力量の伸びしろは十二分にある。それはエレクもソアラ自身も分かっているのに、体が付いていかないために進歩が止まってしまった。
『血が薄いというゼレンガの意見には私も同感だ。』
「そうなの?」
腑に落ちないらしいレッシイは首を傾げた。エレクは構わずに続ける。
『光と闇の融合は優れた才能を生み出した。それがあなたとセティだ。我々はその光の部分、厳密に言えば光を司っていた竜の神の血を際だたせる。よりジェイローグに近づけるための補助をしている。』
「そうね。」
『レッシイ、あなたの血の半分がジェイローグのものならば、ソアラのジェイローグはどれほどになろうか。』
「さぁ?でも世代なんて関係ある?あの子の代になって、急に過去の竜が目覚めたかもしれないじゃない。そういうのってあるはずよ。」
『実感として、ソアラの中の竜たる部分は、セティの半分以下だ。』
「!」
レッシイは呻いた。ソアラの全てを肌身に感じているだろうエレクの言葉は、それだけの重みがある。
『エレクが言うなら間違いない。俺たちはおまえたちの体を流れる竜の部分と呼応するんだ。その大小くらいははっきり分かるぜ。』
「あんたはあたしにしか着られたこと無いだろ!」
ゼレンガを一蹴し、レッシイはエレクを見つめる。
「エレク、はっきりと言いなさい。あいつは竜族としてもう限界なの?もし限界なら強化は終わりよ。」
『勘違いしてはいけない。』
しかしエレクはドラグニエルの胸で口元を歪めた。レッシイの心配を笑い飛ばすかのように。
『ソアラはまだまだ強くなれるが、他の要素が阻害している。竜でない部分が。』
「竜でない部分___?」
『それが何かは私に分からない。しかしとても偉大なる力。素養。それは光と闇の融合にも劣らぬ奇跡を生むかもしれない。』
「あたしたちはどうすればいい?」
『あいつが自分で気付くように追い込むんだ。それが一番手っ取り早い。』
エレクが熟考している隙を突いて、ゼレンガが言った。エレクは呆れた様子で、刺繍の口から溜息らしきものを漏らしていた。
『相変わらず粗暴だなゼレンガ。私はレッシイ、あなたが見本を示すのが良いと思う。』
冷静な兄と豪快な弟。二人の竜の言葉を飲み込むうちに、レッシイは一つの結論に達した。
「ううん、そのどっちもよ。」
そして彼女は木からエレクを掠め取り、地を蹴った。
そのころソアラは湯に浸かっていた。アポリオの一角には、戦いの疲れを癒す温泉もある。白濁した湯は強烈な治癒効果を持ち、黄泉の白廟泉を思い出させる。
「ふ〜。」
ソアラは長い息を付く。アポリオに入ってからというもの、湯に浸かる時が彼女にとって最高の安らぎであり、自己を見つめ直す時間でもあった。
(冗談のつもりだったけど___)
彼女は悩んでいた。しかし自分で解決すべき事と感じていたから、口には出さなかった。今更、フェリルに見せられた夢の一節が蘇ってしまっただなんて、恥ずかしくて言えやしない。
フェリルに見せられた夢の中で、ジェイローグにこう諭されるものがあった。
「___おまえがGとなれ。おまえにはそれができる。周りの命を奪い、さらなる高みへ達することができる。」
その言葉、情景が、くしくも自分の言ったくだらない冗談と、それを聞いたレッシイの怒ったような顔で、蘇ってしまった。「Gみたいね」と口走って以来、少し本気になりきれていない自分がいる。もちろん前進が止まってしまった理由はそれだけではないと思うが。
「変に悩むから余計なことを考えるんだ。」
そう言って頬を叩いたソアラは、思い切って頭まで湯の中に沈み込んだ。ただがむしゃらに戦い、自分を高めれば良いだけ。そう言い聞かせながら、湯の中を漂う。
「プハッ!」
息が切れたところで顔を上げる。空気がひんやりとして、頭が冷やされる感じがした。気休めだが、それでも少しは気が晴れた。
「む。」
水の飛沫を弾き飛ばすと、すぐ近くで呻くような声がした。
「ん?ああごめん___」
振り向いたそこに大きな人影を見たソアラ。今がどういう状況か気付くまでには少し間があった。
「うわわわっ!」
あまりに開けっぴろげだった自分の裸を隠して、慌てて湯に沈み込むソアラ。視線の先には腰まで湯に浸かったバルバロッサがいた。
「案ずるな。俺は気にしない。」
「あたしが気にするの!っていうか、もうちょっと沈んで!見えてるから!!」
___
「はぁ〜、ビックリしたわ。色んな意味で。」
「どういう意味だ?」
「聞かないでくれる!?」
お湯以外の要素でのぼせてしまったソアラは、平手で何度も湯面を叩いた。さして離れることもなく背を向け合うこともなく、白濁の湯にバルバロッサと二人で肩まで沈んでいた。
(あれ?)
ソアラの手が止まる。弾いた湯で顔を濡らしたバルバロッサの姿に、新鮮な違和感を覚えたからだった。普段ならば早々に去るだろう彼が、なぜだかその場を離れようとしない。いや、そもそも彼と二人で湯に浸かっていること自体が違和感タップリだった。
「なんだかこういうのも珍しいね。」
「そうだな。」
いつも通りの小さな声だ。しかしバルバロッサは答えてくれた。寡黙だが誠実な男。かつては恐怖の種だった漆黒の剛剣使いと、こうして膝を付け合わせて話す機会はこれまで無かった。出会ってから十年は過ぎているというのに、まともに会話もしないまま、それでも仲間として戦ってきたのが彼だ。
「バルバロッサって強いよね。」
「___」
「しかもずっと一人で強さを追求してきた。」
「___」
沈黙は是だ。ソアラは構わずに続けた。
「聞きたいことがあるの。もし壁に当たったらどうする?」
しかし答えも返ってこない。ただこちらを見るだけのバルバロッサに、最初は見つめ返していたソアラも照れくささを感じたか、視線を逸らしてしまった。
「壁がないことなどあるのか?」
その時、おもむろに彼が答えた。
「え?」
「壁は常にそこにある。壁無しに得られる強さなどあるのか?」
「!」
その言葉はソアラの視界を切り開くきっかけとなった。解釈の違いでしかないのだが、それでも今の彼女には胸に響く言葉だった。
「高かろうがよじ登り続ければ、強くなる。人の助けが必要ならそうすればいい。求めることをやめなければ、上には登り続けられる。」
「そっか、そうだね。」
確かに、今の自分には少し前までの急激な成長はない。しかしだからといって歩みを止めた訳ではないはずだ。蟻のように少しずつでも、壁を登り続ける努力を怠らないことが重要。まして自ら引き返そうとか、飛び降りようなんて思考は全く無意味だ。
「ありがとう。確かにその通りだわ。なんていうか、あたし壁を登らずに突き破るとか、はしごを掛けるとか、そういうことばかり考えてたみたい。当たり前のことなんだけど、真っ直ぐ登り続ければいいだけよね。」
根本的な解決ではない。しかし気持ちの持ちようが変わるだけでも十分だった。
「ソアラ。」
バルバロッサに名前で呼ばれるのは凄く新鮮だった。それでいて心地よくもある。
「おまえの能力は何だ?」
少しだけ恍惚になっていたソアラは、その言葉で我に返った。
「能力?」
「妖魔の能力だ。」
「!!」
それは照った体に冷や水を浴びせられるかのように刺激的な言葉だった。ソアラは息を飲み、肩を竦め、目を見開いた。
「あるはずだ、おまえは妖魔の血を持っている。」
「妖魔___父さんの血___」
譫言のように呟く。放心していた瞳に、ギラギラとした輝きが宿る。
「おまえは竜を追っている。しかしおまえの半分は妖魔だ。そして妖魔もまた、竜に劣らず強靱な生き物だ。その血を無視すべきとは、俺は思わない。」
「バルバロッサ!!」
勢い良く、ソアラは立ち上がった。見えようが見えまいがどうでも良かった。とにかくこの感動を彼に伝えたかった。
「それ___最高の助言よ!!」
裸上等!ソアラは最高の感謝を込めて、彼に抱きついた。寡黙な男は質で語る。そしてこの状況に舌打ちをしながらも、ソアラの気持ちを受け止めるのが彼らしくもあった。
(なんか良いな___)
ソアラは彼の筋骨隆々とした大きな体、ぶつかったところでビクともしない雄々しさに安らぎを覚えた。あいつに似ている感触がそうさせただけだが、もし彼がこのまま背を抱いてくれたりしたら、その気になっていたかもしれなかった。
「は〜い、お取り込み中のところ失礼!」
ま、可能性の話だ。少なくとも、引きつった笑みのレッシイがいる限りあり得ないことだし、ここを出てからは一層あるはずもなかった。
「ち、違うよ!全然違う!ほら、バルバロッサも!」
「___」
黙して語らず。こういうときは喋ってよ!と思いつつ、ソアラ一人で慌てふためいてしまった。
「へへん、ますます殺る気が出てきたわ。あたしのバルバルに手を出そうなんて百年早いのよ。」
「何か違うやる気が出てるみたいなんだけど___」
「がたがた言わずにさっさと出る!これからあたしが徹底的にあんたを痛めつけてやるって決めたんだから!」
(う、うわ〜。)
レッシイがドラグニエルを手にしていたので、はじめからそのつもりだったとは思う。しかし必要以上に火を付けてしまったのは間違いないようだ。
それから___
「で___なにをするの?」
まだ濡れたままの髪で、ドラグニエルを纏ったソアラはレッシイに問いかける。いつもの荒れ野に距離を置いて向かい合って立つ。
「あたしはあんたに変化を求めていた。そうよね?」
「ええ。」
「でもあんたはなかなか変われない。力は十分、伸びしろもある、なのに変われないってのは何か問題があるからさ。」
「分かってる。」
「その原因を、エレクはあんたの中の竜以外の部分が邪魔をしているからだと言ってる。」
「___」
「ゼレンガはあんたを徹底的に追いつめれば変わるはずだと言ってる。確かに、生命の危機は覚醒を促すわ。どっちも一理あるよね。で!」
レッシイはポンッと一つ手を叩く。
「あたしはその両方を追求することにしたの。まずはあんたをより完全な竜に___」
「待ってレッシイ。」
「まずは黙って聞く。」
「お願い、先に言わせて。エレクの疑問には答えを返せるの。あたしの父さんは妖魔、黄泉の覇王にまでなった偉大な人よ。私が紫色なのも父さんの影響。竜の力を邪魔しているものがあるとしたら多分それだけど、あたしは父さんの力を捨てたくない。」
ソアラははっきりと言いきった。遠巻きに見るバルバロッサはただ沈黙したまま。しかし小さく頷いていた。
「それで変われるわけ?甘いんじゃない?」
レッシイは懐疑的だった。しかしソアラの気持ちは固まっている。温泉でのひとこまがなければレッシイに従っていたかもしれないが、今は自分の中の妖魔を意識することで変われる予感がした。
「やってみせるよ。」
だから自信を持っていう。根拠はないが。
「___」
レッシイは腕を組み、訝しげにソアラを眺める。新たなる可能性を見出したのは分かった。しかし確信できるものは何もないはずだ。
「生ぬるい憧憬はいらない。」
「違う。あたしは母さんから受け継いだ竜の血に誇りを持ってる。でも同時に、妖魔水虎の血にも誇りを持ってるの。」
ソアラは頑なだった。レッシイはあからさまに舌打ちし、巧みに編み込まれた右半分の赤い髪を描き上げる。
「なら___!」
「!?」
そして唐突に輝いた。黄金の波動が燃え上がり、火柱となって立ちのぼる。金色の火炎は今までソアラが手合わせしてきたレッシイには無い凄まじさだった。
「こ、これは___!」
ソアラが呻く。バルバロッサも視線を厳しくする。炎の奥で直立するレッシイの体から沸き立つ力は、一層激しさを増している。
「こんな力が!?」
ここまでの一年半の修行で、ソアラはレッシイを超えたはずだった。だがそれは言うならば、レッシイの第一段階を凌駕したに過ぎないらしい。
「ソアラ。」
名前を呼ばれ、ソアラは息の詰まる心地だった。温泉で言った「殺る気」が嘘でないことを示すように、レッシイの視線は破壊の意志に満ちあふれていた。
「しっかりと目に焼き付けな。竜の神の血を引く戦士、その真の姿がどんなものか。」
「!___真の姿!?」
黄金の火柱、その背後から黄金と入り交じるようにして、銀の光が灯る。黄金の中で蠢く銀は、明らかに竜を象っている。レッシイの背中のゼレンガと同じ竜。
「あんたに到達してほしいステージを思い知らせてやる。せいぜいぬるま湯に浸りながら、必死に抵抗しろ。バルバルに手伝ってもらってもいい。」
そして変化が始まった。
顔は牙の露出や頬の紋様など微弱な変化に留まらない。丁寧に結われていた髪は炎と共に天を突かんばかりに揺らめき、そこに突き刺さる剣の如く雄々しき角が伸びていく。顔はレッシイのまま、しかし視線は獣の獰猛さを剥き出しにする。
体ではドラグニエルが蠢き、女を竜に変えていく。装束は甲殻の鎧となり、胸、肩、腰を鱗に包み込む。肘、手首、指の付け根、いずれの関節にも牙のような剣骨が現れる。足は人のそれというよりは竜に近く、靴をも巻き込んで鋭い蹴爪を露わにする。そしてなによりも尾底から伸びた尾。
人と竜の合いの子。いや、顔と体型こそ人だが、それ以外の全てはより竜に近い。
(これが本当の竜の使い!)
ソアラはただ言葉を失っていた。
「死ぬなよ。」
ユラリとレッシイが手を上げる。それが引き金となった。ソアラは見る見るうちに呆然から引き戻される。
「バルバロッサ!手を出さないで!!あたしは一対一でやる!!」
全身の血が沸騰したかのような高揚感とともに、彼女もまた黄金へと輝く。しかしレッシイとは輝きの大きさ、力強さ、全てが雲泥の差だった。蝋燭と松明、それくらいに。
「!」
炎が動いた。時を止めたかと疑うほどの速さで、ソアラの眼前まで迫っていた。音もなく放たれる鋭い爪を、ソアラはドラグニエルの盾で受け止めると見せ、瞬時に後方へ飛び退く。
「その気になれば今ので殺している。」
レッシイはそう言い放った。それは嘘でも何でもない。ソアラが後方へ逃れたのは、レッシイの爪が易々とドラグニエルの盾を切り裂いてきたからだった。触れた瞬間、盾が意味をなさないと分かったからソアラは後ろへ逃れた。レッシイは追わず、しかも攻撃は利き腕でない左手、その人差し指と中指の爪だけだ。右手も、脚も、使っていない。
「理解したか?次は全て使うぞ。」
圧倒的だ。その存在感、破壊力、禍々しさ。バルカンにも劣らないどころか、上回っている。かつてのGに挑み、抵抗できた戦士の力は伊達ではない。
(レッシイは本気だ___気を抜けば殺される___!)
ソアラの黄金が勢いを増した。口元から牙が覗き、視線が獰猛さを強くする。その爪も鋭さを増し、さらに呼応したドラグニエルが彼女の手を鱗に包み、強固な武器にしていく。
だがソアラにできる変化はこれまで。レッシイと比べれば、成熟した竜と、赤子の竜の差であった。
『竜に心血を注ぐのだ、ソアラ。』
エレクの声がする。胸元で輝く竜は、殻を破れない主にもどかしさをぶつけた。
「御免、そのつもりはないわ。」
『勝ちたくはないのか?』
「勝ちたいわ。でも、あたしの力は母さんだけのものじゃない。あたしが紫だってこと、紫なのに竜の使いに輝けるってこと、それが全てよ!」
妖魔の意識とは何か?どうすれば妖魔としての力を発揮し、高めることができるのか?その方法は全く分からない。しかし紫が妖魔・水虎の特徴ならば、それを持ち合わせたまま黄金に輝ける自分こそが、妖魔と竜の使いの力の共存の証明である。
「エレク、あたしの竜に力を貸して。ネメシス・ヴァン・ラウティから貰った力に。」
『無論。』
ソアラはエレクの刺繍を優しく撫でた。そしてレッシイを睨み付ける。彼女はソアラの葛藤を見定めるように、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
(父さん。あたしに紫竜という名前をくれた父さん。)
迫る脅威。その切迫は、ソアラを追いつめると同時に、冷静にさせる。鋼城の謁見の間で見た父と母の思い出、愛らしい小さな花、無限の紋様___
「行くぞ。」
レッシイが動いた。左の拳を突き出して、彼女は突貫してきた。ソアラもまたレッシイに向かって真っ向から挑んだ。
交錯は一瞬だった。しかしいくつもの動きがあった。レッシイの攻撃はどれも触れるだけで破壊的。しかしソアラの攻撃は、当てたソアラの肉体の方が砕ける始末。ただそれでもソアラは攻めた。レッシイもあえて彼女の攻撃を受けた。そして現状を把握すると、猛然と逆襲した。
ソアラの意識が絶えたとき、彼女は辛うじて人の形を保っているだけの肉塊に成り果てていた。腕、脚、いずれも切り裂かれ、へし折られ、腹にも爪に刺された穴が開いた。放っておけば命が絶える状況。レッシイはそこまで彼女を追いつめて、変化を待った。
「バルバル!急いでソアラを温泉へ連れて行ってくれ!ドラグニエルを着せたまま沈めるんだ!」
レッシイが叫ぶ。戦いを見ていたバルバロッサは何も言わずにソアラの側へと寄り、抱え上げて飛び去っていった___
___
今ソアラの目の前に、かつてレッシイにたった一度だけ見せつけられた本物の竜の使いがいる。しかし、その力。レッシイが皓々と燃え上がる炎なら、セティはその炎をも身の内に押し込める静寂の輝石。
どちらが上か、言うまでもない。
「やるよ、エレク。あたしは___やってやる!」
『望むところだ。おまえの力をセティに見せつけろ!』
だがソアラは怯まなかった。これを超えずしてGに勝つことなどあり得ない。いや本音を言うならば、Gだのなんだの抜きにして、竜の使いでありなおかつ妖魔の子である自分というものを示すために、これは超えねばならない壁なのだ!
前へ / 次へ