1 黒い男
エコリオットの神殿に異変が起こったのは少し前のことだった。アポリオから出てきたオコンの指示でルディーが神殿を離れ、そのオコンがリュカの元に馳せ参じてからのことである。
腕なり翼なり切り落とされて増殖したバルカンは、密かに機会を窺っていたのだ。
「簡単に言えば、密林の精霊の力を呼び覚まして、バルカンに乗り移らせるの。木は長生きで多くのものを見てきたから、精霊の力も強いからね。数が寄ればバルカンの動きを止めたり、場合によっては意識を押さえつけることができるかもしれない。」
その場にいないエコリオットに代わって、キュルイラが罠を説明する。穴蔵のような神殿の一室に、キュルイラとライ、フローラ、棕櫚、竜樹がいる。
「あたしもエコリオットもちょっとした術は使えるけど、バルカンを倒すだけの力はない。意気込んだ割にしょぼい罠だけど、もう一つルディーに作ってもらったこれもあるからね。」
そう言ってキュルイラは矢筒を取りだした。一本抜き出してみれば、先端は鋭い鏃ではなく、アポリオに似た水晶がくっついていた。それは内に黄金の揺らぎを宿している。
「これは___えっと、本当に大丈夫?これを持ったら自分の子を守るだけじゃ駄目よ。」
そしてフローラに問いかける。フローラはしっかりと頷いた。
「大丈夫です。戦いの目的を忘れたわけではありませんし、バルカンを止められなければ何もかもが終わってしまいますから。それにアレックスはミキャックとエコリオットさんが見ていてくれますし。」
「うん、頼むわね。」
事の次第をアポリオの中に伝えに言ったミキャックは、オコンと一緒に戻ってきた。だが驚きの変化を伴って。
「それにしてもビックリしたよね、ミキャックに子どもができてたなんて!」
ライが感慨深げに言う。そう、ミキャックは妊娠していた。父は当然あの男だ。
「自覚していたんでしょう。だからアポリオに入って確かめたかったんだと思います。それにしてもこういう抜け目無さがサザビーさんらしいですよね。」
棕櫚の冗談にフローラが微笑む。サザビーの名を聞くのは悲しいが、新しい命が育まれていることは本当に嬉しかった。
「生まれるまでアポリオにいれば良かったのに。その方が安全だよ。」
「そういう問題じゃないでしょ。」
ライの意見にキュルイラが失笑する。フローラだけでなく竜樹もキュルイラに同調して頷いていた。
「考えてもご覧なさいよ、アポリオの中で生まれた子にここが故郷だ!とでも言う訳?時間の流れだって全然違うのに。それに明日には世界が滅びてるかもしれないのよ?」
「あ、そうか。」
「で、今どこにいるんだっけ?」
「どこって、アポリオのある最下層よ。そこが一番安全だって___」
「ちょっとまった!今の俺じゃないぞ!」
竜樹が上擦った声で叫んだ。どこにいるか?と尋ねたのは竜樹の声で、キュルイラは簡単に答えたが、当の竜樹から待ったが入った。
刹那の緊張、そして___
「竜樹!後ろです!」
棕櫚が叫んだ。声を聞くよりも早く、竜樹は振り返りしなに刀を取り、居合い抜きのごとく背後の木の扉を切り裂いた。
『なるほど、キュルイラはここにいて、エコリオットは最下層か。』
「!?」
バラバラと崩れる扉の向こうに立っていたのは、バルカンだった。誰もが言葉を失い、立ちつくした。鳥神がここにいるのはもちろん、さらに愕然としたのは___
『ならば私は最下層に向かおう。』
「!!??」
バルカンの後ろをもう一人のバルカンが横切ったからだった。
「二人___!?」
棕櫚が呻く。彼らしくもなく、若干落ち着きを欠いた声で。
「偽物か___!」
『いや、どちらもバルカンだ。そして二人とは限らないよ。』
「うるせえ!」
竜樹が意気盛んに花陽炎で斬りつける。しかしバルカンは刃を片手で簡単に受け止めた。
『百鬼の見立てに比べて、随分弱いな。』
「て、てめえ!!」
みぞおちに浮かぶ無限の紋様に、竜樹は冷静さを失った。
「花陽炎!拒断の霞!!」
花陽炎が白い水気の粒を纏うと、それが刀身の周りを激しく回転する。チェーンソーのように、バルカンの腕を食い進む!
「ずああ!!」
そして一刀に切り落とした。弾かれた腕は宙を舞い、天井にぶつかって部屋の奥手へと転がった。
「だあああ!」
花陽炎はそのままバルカンの首を狙う。しかし鳥神は全く慌てていない。それどころか笑みを浮かべ、嘴の隙からは橙の光が漏れた。
「駄目です!!」
棕櫚が叫ぶ。その瞬間、バルカンの口から目映い閃光と共に、壮絶な波動が放たれた。
ゴォォッ!!
それは神殿を揺さぶり、狭い部屋の床も天井も砕いていく。だが___
『何___?』
砕かれたのは立ちはだかった白い壁の手前までだった。体の正面で剣を縦に構えたライが、練闘気の盾で全員を守っていた。幾らか波動を浴びた竜樹が両腕を痛めはしたが、程度は軽い。それよりも見るべきは、水晶の矢を引き絞るフローラの弓だった。
ビュッ!
矢が放たれた。丸い水晶玉の鏃は、明らかに軽蔑の目をしていたバルカンのみぞおち、それこそ無限の紋様の上に的確に命中した。
水晶の鏃は肉を食わない。それどころか脆弱な球体はあっけなく砕けた。そして___
ドゴォォォォッ!!
「くっ!」
バルカンの波動とは比べものにならない黄金の輝きが部屋一帯に広がった。水晶の中に込められていたのはルディーの竜波動。アポリオとは違うこの水晶玉は、魔力やエネルギーを充填し、砕くことで発現する精霊の道具だった。
黄金の輝きが散り、皆に視界が戻ったその時、目の前には醜い肉片と何とか原形を保っている膝から下の足だけが残っていた。
「やった!」
ライが練闘気を消す。直後、フクロウの目でじっと肉片を見つめていた棕櫚が叫んだ。
「いえ!まだです!」
「炎舞陽炎!!」
弾けるように動いたのは竜樹だった。優れた戦いの感覚が、次の一手の用意を怠らせなかった。
「灰になって消えやがれ!!」
僅かに蠢く両足と肉片が、地獄の炎に包まれる。花陽炎の中でも最大級の奥義は、無駄に炎を広げることもなく、残された肉を徹底的に焼き尽くし、見る見るうちに黒ずんだ灰へと変えていく。
「よし!もう一人を___!」
追うぞ!___まで言えなかった。見事にバルカンを倒したのに、意気盛んに振り向いた竜樹は我が目を疑った。ほぼ同時に気が付いたのは棕櫚だった。フクロウの目と犬の鼻は両立できない。嗅覚に優れた動物の力に切り替えた瞬間、彼はすぐ後ろで匂い立つ「血」を感じた。
「!!!?」
ライとフローラも、何が起こったのか理解するのに苦しんだ。
『肉片が再生するのだ。切り飛ばされた腕から生まれて何が悪い。』
バルカンは部屋の奥にいた。皆の背後を取っていた。ターゲットを守るために当然の選択として、部屋の奥まった場所にあの人はいた。
腕から生まれた新たなバルカンの爪は、キュルイラを無惨な姿へと変えていた。いや、もはや原型はない。首から上はすでに砕かれ、絶句する皆の前で残された体もキラキラとした七色の輝きに変わってバルカンの体へ流れようとしていた。
「うわああああ!」
ライが叫んだ。剣を振りかざしていた。竜樹は花陽炎の力を再び解き放ち、フローラは新たな矢を抜き、棕櫚は獣の力を呼び起こす。
しかし、バルカンの右腕が輝く方が遙かに早かった。彼はすでに、ここにいる顔ぶれを一掃できるだけの強烈な波動を右手に集めていたのだ。
神殿が七色の輝きに貫かれる。巨木の真ん中当たりで内から外に伸びた破壊の力は、偉大なる大樹を真っ二つにへし折るだけの威力だった。
リュカが見た光景はこれだった。
「凄い揺れ___それにこの力___」
ミキャックは真上で巻き起こった力を感じていた。おそらくバルカンの攻撃だろう。しかし今の彼女に戦いはできない。服の上からではまだそれほど目立たないが、彼女は確かに新たな命を授かっていた。サザビーが自らの命に換えて託してくれた愛の結晶だ。だが彼女は自らの体を抱くのではなく、ただひたすら呆然としているアレックスの手を握り、少しでも安心させようと努めた。
「みんな___」
アポリオが無くなって広々とした神殿の最下層。これより下には神殿を支える根が張り巡らされているだけ。上の様子も分からず、袋小路にひたすら身を隠す心地は、戦場に立つ以上に不安だった。
「不思議だネ。」
アポリオがあった台座にはエコリオットが座っていた。彼は自らの神殿がへし折られたことも、キュルイラが殺されたことも気付いていたが、いつものように顔色の分からない達観した面もちだった。
「君たちはどうしてそんなにまでしてバルカンと戦うんだイ?」
「___」
少年の顔をしたエコリオットの問いに、ミキャックはしばし押し黙った。頭に浮かんだのは、自分たちの歩んできた道のりのことだった。
「アポリオの中に半年もいたからね、色々考えたし、ソアラと色々話しもしたわ。でね、私たちの戦いの最初の一歩ってなにか?って考えたんだ。そしたらね、あたしたちで始まったわけじゃないって結論に辿り着いた。」
「?」
「だってそうでしょ。ソアラの旅は彼女が黄泉からポポトル島に落とされた時にはもう始まっている。戦いはソアラから始まったわけじゃなくて、ソアラの両親、もっといえば帝様やレイノラ様の時にはもう始まっていたのよ。ほんとの一歩目がどこかなんて分からない。あたしたちはバルディスから続く、Gと人々、神々の長い長い戦いの中に生まれているんだ。」
ミキャックはさらに続けた。
「あなたたち十二神はオル・ヴァンビディスでGを抑えていたけれど、それは戦いの終わりにはならなかった。長い時の流れの間も戦いは静かに続いていた。しかもソアラみたいな戦士の血をしっかりと紡いできた。それってきっと先人たちの、古き神々の遺志が、まだ戦いは終わっていないって教えてくれていたんだと思う。ソアラと笑ったのよ、もしかしたらあたしたちって、みんなバルディスでGと戦った人たちの末裔かもしれないってね。」
「酔狂だヨ。」
「そうかもね。ま、どっちにしてもこの長い戦いはもう最終章。絶対に私たちで終わらせる。これから生まれてくる命は、戦いじゃない新しい物語の主役になってほしいから。」
ミキャックは穏やかに微笑んだ。美しい翼の戦士は、母の暖かみを加えて一層の魅力に溢れていた。
『物語は確かに終わる。』
しかし美しき微笑は、重い声に掻き消された。
『なぜなら全てが私の元に生まれ変わるからだ。』
上へと続く狭い螺旋階段を降りきって、バルカンはゆっくりとその姿を現す。
「バルカン___!」
ミキャックは身重の体でアレックスとエコリオットの前に立ちはだかる。神殿はまだ揺れている。外で力が迸るのも感じる。しかしバルカンはここにいる。不可思議な状況だったが考えても仕方のないこと。ミキャックは戦意を露わにして、手に魔力を灯す。
『なぜ抵抗する?万に一つの勝機もないのに。』
「少しでも生きるためよ。悪い?」
『愚直なのだな。』
バルカンは笑みを浮かべる。嘴の奥から波動の輝きが零れる。それだけで全身がビリビリと震え、木肌の床が捲れ上がっていく。
鳥の視線は前だけを向いていた。おもむろに嘴を開き、三人を波動の輝きに消し去るだけ。まさか、天からギロチンが降ろうとは思っても見なかった。
ズンッ!!
長剣がバルカンの脳天に突き刺さる。刀身はそのまま鳥神の体を食い進み、ついには突き破る。焼け付く酸のような血液も、黒衣の戦士が纏う赤いオーラに溶けるように消える。ロゼオンの遺作ゼダンの切れ味と共に現れたバルバロッサは、バルカンを一刀両断にして見せた。
「バ、バルバロッサ!?出てきてたの!?」
ミキャックも気付いていなかった。見れば部屋の天井、調度バルカンの真上に穴が開き、その中は瑞々しい木の繊維で満たされている。
「ルディーがアポリオを持っていく前に出てきたヨ。でも剣から何からだいぶ傷んでいたから、木の中に押し込めて精霊の力を注いでやったんだヨ。」
「お___教えてよね!」
「君が聞かなかったからだヨ。」
赤光鬼と呼ばれるバルバロッサの力は、一段と凄みを増している。真っ二つに割れたバルカンの体が左右に倒れていく様は、まさに圧巻だった。
「えっ!?」
が、それで終わるバルカンではない。二つに割れた体のそれぞれは、倒れるよりも早く蠢き、次の瞬間には一気に再生して二人のバルカンになった。そのままバルバロッサに___
襲いかかれなかった。
『なんだ!?』
二人のバルカンの声が揃う。再生した体は、倒れかけの斜めになった姿勢のまま動かなくなっていた。
「七年は長い。俺には四年で十分だった。もっとも、それが俺の限界だとしたら腹立たしくもあるが。」
バルカンの動きを止めていたのは赤い糸。バルバロッサの体を包む赤いオーラは、糸のようになってバルカンの体へと結びついていた。
「おまえの血は赤光に結ばれた。これ以上離れることはできない。どちらかが消えるまではな。」
そして古代の戦士パルーゼ族の末裔は、神の剣を煌めかせた。
「くそ!どうなってやがる!」
真っ二つにへし折られ、緑の絨毯に横たわったエコリオットの神殿を見下ろし、竜樹は口惜しげに言った。巨大な鳥に化けた棕櫚の背中には彼女だけでなく、ライとフローラもいる。そして神殿の成れの果ての上では、バルカンがこちらを見て笑っていた。キュルイラの力を馴染ませるように、七色の光を揺らめかせながら。
「切られた腕から再生した___いえ、誕生した。そうとしか思えない___」
「僕たちはキュルイラを守れなかった___!」
フローラとライが口々に重苦しい声で呟く。
「それにあれだ!あれって虚無って奴じゃないのか!?」
竜樹はいきり立って彼方の空を指さす。夜明けの空を巨大な黒い柱が貫いているのがはっきりと見えた。
「あ、あれ!」
落ち着かずに視線を泳がせていたライが、密林から浮上する別のバルカンを見つけた。しかも二人。うち一人は醜い解剖標本のような体ではなく、金属のように煌めく皮膚があった。
「くそったれ___」
神殿の上で笑うバルカンも含めて三人。それがゆっくりとこちらに浮上してくる。見下ろす竜樹の花陽炎の切っ先は、小刻みに震えていた。
「みなさん、すみません___」
そのとき、唐突に棕櫚が言った。
「この期に及んであまりに初歩的なミスをしてしまいました。」
棕櫚の声は酷く聞き取りづらかった。
「棕櫚!?どうしたの!?」
身を案じたフローラが問いかけ、背に触れた手から回復呪文を流し込む。
「相手は鳥の神様ですよ___鳥に化けたのは浅はかすぎた___!」
突然だった。広げていた翼が大きく反り返り、棕櫚の背中で交差すると一気にねじ曲げられていく。
「ぐぅあぁっ!」
らしくない悲鳴と共に、棕櫚の翼から背まで鈍い音が駆けめぐり、巨鳥は飛ぶ力を失った。
「うわぁっ!」
「きゃっ!」
「ちくしょうが!」
コントロールを失った鳥は真っ逆様に落ちるだけ。ライ、フローラ、竜樹が宙に投げ出され、棕櫚の変身が解けたのを見ると、三人のバルカンは一気に地を蹴った。自由を失った獲物をそれぞれ食らうつもりなのだ。
「なめるなよ!花陽炎、天雷の霞!!」
危機は類い希な集中を呼び、竜樹は苦手な空中浮遊であっさりと宙に留まる。そして花陽炎を振りかざすと、空に走った輝きとともに凄まじい稲妻が戦場に降り注いだ。
ドドンッ!!
稲妻は三つのバルカンを捉える。しかし皮膚を持つ、より進化したバルカンは稲妻にびくともせず、ライとフローラに迫る!
「守れ!!」
竜樹が叫ぶ。ライは自由落下しながらもフローラと手を取り合い、左手に握る剣を白いオーラに満たしていた。
「練闘気!!」
下から迫るバルカンに対し、ライは練闘気の盾を自分の足下に展開する。バルカンをそのまま練闘気で押し込もうというのだ。
ガンッ!!
オーラに激突したとは思えないほど硬質な音がした。バルカンは真っ向から手を翳して練闘気の盾を受け止めた。フローラの魔力に頼るまでもなく、バルカンと練闘気に支えられるようにして、二人の体は宙に留まった。
「!?」
しかしそれも一瞬のこと。練闘気がバルカンの手に溶けるように消えると、二人の体もガクンと沈む。バルカンの触れた場所から、堅固に結びつけられた生命の波動がほぐされていると感じた。
「す、吸われている___!?」
ライが愕然としたその時には___
『ご名答。』
バルカンは盾の内側に顔を覗かせていた。そして、嘴の奥が輝く。
「野郎___!」
助けに入らなければならない。しかし稲妻の傷を瞬時に癒やした残りのバルカンが、彼女の行く手を阻んだ。
ライとフローラは覚悟を決めるしかなかった。その瞬間、二人はただ互いの手を握る力を強めただけだった。
ゴッ___!
しかしバルカンの波動砲は僅かに逸れた。ライの剣先に掠めて刀身を溶かし、そのまま夜明けの空へと突き抜けていった。ライの体には触れていない。しかし鋭気だけで彼の服を半分消し飛ばし、左腕を真っ赤に爛れさせた。
照準が外れた理由は、バルカンの右頬で燻る煙にあった。発射の瞬間、頬で起こった爆発が嘴を動かしたのだ。
『む?』
それだけではない。気が付けばバルカンの首から体にかけて、いくつもの結び目が付いたロープが掛けれていた。
カッ___!
次の瞬間、ロープは目映い閃光と共に弾け、結び目の数だけの爆発を巻き起こす。
「ど、どうして!?」
ライは困惑していた。彼はフローラともども大男に抱えられていた。地に向かいながら黒衣のガッザスの肩越しに、爆炎につつまれたバルカンを見ていた。バルカンの近くで鋭い視線を湛えるカレン、竜樹の側に寄り二人のバルカンと対峙するディメードも視界に捉えながら。
「おまえたちは僕らの敵のはずだ!」
密林に降りていくガッザスに、ライが問いかける。
「アヌビス様が説明しただろう!今はそれ以上の共通の敵がいるとな!」
「でもそれは私たちを助ける理由にはならないわ。あなたたちだって、バルカンに勝てるほど強くはないでしょ___?」
「俺たちは一度は人生を捨てた連中ばかりだ。アヌビス様に希望を与えられた仲間だ。その仲間の一人がバルカンに殺された。それだけじゃない、俺たちの仲間におまえたちを放って置けない奴がいた。カレンは義理堅いから、前に命を救われたそいつに借りを返すことにした。」
「放っておけないって___誰が!?」
「手を貸してやるんだ!大人しく納得しろい!」
しつこいライの尻を大きな手でバチンと叩き、ガッザスは密林に飛び込んだ。
「___う。」
「よう、気が付いたか。」
戦場から隔離されたような緑の空間。しかし爆音や何かが焼ける匂いで、生い茂った草葉の向こうではバルカンとの戦いが繰り広げられていると分かった。密林の中で横たわる棕櫚に声を掛けたのは仮面のブラック、治療を施しているのはクレーヌだった。
「じきにガッザスがフローラを連れてくる。それまではこいつの回復呪文で我慢してくれ。」
ブラックは嗄れた声と落ち着いた口調で言った。
「何よその言い方。あんたがどうしてもって言うからやってるのに。」
「そういう気構えだから駄目なんだよ。おまえの治療には愛が無い、愛が。」
「はぁ?ディメードみたいなこと言わないで、馬鹿馬鹿しい。」
文句を口にしながらも、クレーヌは懸命に治療を施していた。呪文の威力は決してフローラに劣るものでもなかった。
棕櫚は二人のやり取りを眺め、フッと笑う。
「変わりませんね。ほんと、どこにいってもうまくやる人だ。」
そしておもむろに言った。視線はアヌビスの仮面に向けられていた。ブラックは棕櫚にアヌビスの顔を向けたまま沈黙する。
「___やっぱり気付いてたか。他の連中はどうにかなっても、おまえは無理だろうと思ってたよ。」
しかしやがて根負けしたように答えた。
「動物の能力が無ければ難しかったですよ。ミキャックさんが無事だと聞いた後にカレンと交わした言葉、それから俺たちにとってはなじみ深い煙草の臭い___これに気づけなければ騙されたままだったかもしれません。」
ミキャック、煙草、それだけのヒントがあれば、仮面で顔を隠していても十分だった。
「でも、どうしてヘルハウンドに?なぜ俺たちのところに帰ってきてくれなかったのですか?サザビーさん。」
「___簡単だ。」
ブラックは仮面に手を掛けた。
「あ、あんた、ちょっと!」
それを見て、クレーヌが明らかに慌てる。しかし構わずにブラックは仮面を持ち上げた。下から現れたのは確かにサザビーだったが、棕櫚は息を飲まざるを得なかった。
顔は真っ黒だった。ところどころ人肌ではあったが、その大半が墨を塗ったように真っ黒で、片目は白目まで完全に黒く染まっていた。尋常ではなかった。
「こういうことさ。戻れる状態じゃないんだよ。」
「ブラック!」
「大丈夫だ、瀬戸際は俺自身が分かってる。」
サザビーはクレーヌの叱責にもマイペースのまま仮面を下ろす。そして数度、深く息を付いた。まるで動悸を抑えるかのように。
「俺は確かに死んだんだ。だがあのとき、俺の体はもう半分以上アヌビスのものになっていた。オルローヌ神殿でアヌビスと取引して顔の半分を邪輝に食わせたわけだが、死の直前、本家の体力が弱まったことで邪輝が一気に幅を利かせていたんだ。俺を殺したのはフェリルの命の束縛だが、邪輝のものになっていた部分は束縛を受け付けなかった。ま、そのままならどっちにしろ朽ち果てていただろうが、俺はアヌビスに拾われた。バルカンのことを明かした功績のおかげで、こいつ使えるぞって思われたのかもな。」
語り口もサザビーそのまま。大それた事を、コーヒー片手の世間話のように話すこの男と、棕櫚は以前から調子が合うと感じていた。久しぶりに味わった感覚を、彼は素直に嬉しく思った。
「いまの俺は邪輝で生きてる。だが一度死んだ体はまだ不安定、半分以上は死体みたいなもんだ。アヌビスに与えられたこの仮面がなけりゃ、まともに動くこともできない。」
「動く?冗談じゃない、そいつがなければあんたは黒ずんだ塊になるだけよ。」
「___ま、本当はそういうこった。だから仮面無しでおまえたちに会うことはできないし、気付かれたくもなかった。また悲しませるだけだからな。」
棕櫚はもう笑みを消していた。彼の命は彼の手の及ぶ場所にない。それでも彼はいつもどおり、なるようになる精神で前に進んでいる。だが徹底はしていない。彼は自らの命は諦めても、仲間たちの命までは諦めきれていない。それでは完全にブラックになったとは言えない。
「サザビーさん、俺たちのために戦ってくれるなら、神殿の最下層に向かってください。」
「最下層?」
「そこにミキャックさんがいます。彼女は今戦えません。そして、彼女を守ることは、もう一つの新しい命を守ることにもなるんです。」
仮面に隠れて表情は分からない。しかしその時、確かにサザビーは驚いていたようだった。
「エコリオットもそこにいます。キュルイラは倒れましたが、エコリオットにはまだ秘策があるはずです。できれば彼も守ってあげてください。」
「分かった。」
驚きは一瞬だった。サザビーはアヌビスの仮面で頷き、一度棕櫚と握手を交わしてから、神殿へ向かおうとする。その腕をクレーヌが掴んだ。
「ちょっと!勝手なことしない!」
「アヌビスから与えられた任務は時間稼ぎだ。できればあいつかソアラがここに戻るまで。」
「ちょ!?な、なに言っちゃってんのよ!」
クレーヌがいきり立った隙に、サザビーは彼女の手からすり抜ける。そのまま神殿の方向へと飛んだ。
「エコリオットを守るのは大事なお勤めだ。棕櫚を頼むぜ、愛しのクレーヌ!」
「ブラック!!」
バルカンが出てきたら彼一人でどうなるものでもないのだ。クレーヌは悲痛な声を上げ、木々の狭間に消えるブラックの背中を睨み付けていた。
「優しい方ですね、あなたも。」
「___ふんっ。」
棕櫚の言葉に苛立ちを覗かせながら、クレーヌは再び彼に向き直った。だが治療の集中は些か乱れていた。
「優しいついでに一つ聞かせてください。普通、魔族でもない人間が邪輝を源に生き続けられるものですか?」
「___無理よ。あいつは変わってるの。だからアヌビス様が面白がって引き入れた。」
「そうですか___で、アヌビスかソアラさんが戻るまでの時間稼ぎとは?」
「___眠らすわよ。」
「殺す、じゃないところが優しいですよね、本当。」
「だから八柱神のなり損ないなのさ。」
「ああ、なるほど。」
言葉を交わしているうちに、クレーヌの魔力が安定を取り戻していく。しかしそれも長くは続かなかった。
「クレーヌ!」
森の奥からガッザスがやってきた。
「こいつらを頼むぞ!!」
「うわわっ!」
そして有無言わさず、ライとフローラをその場に投げ落とし、すぐさま踵を返した。
「ちょ、ちょっと!」
「俺は隊長を援護する!」
クレーヌの言葉には聞く耳持たず、彼はすぐさま飛び上がって密林を脱していった。
「ったく、あの単細胞。」
密林に穴が開いた。ガッザスの巨体でへし折られた枝葉に隙ができ、空の戦場が覗いた。
「出所を狙われるわ。すぐにここから動きなさい。」
そしてクレーヌも魔力を消して腰に結んだ鞭を握る。
「はじめからそのつもりですよ。」
あらかたの治療は済んだ。棕櫚は誰の手を借りるでもなく立ち上がり、エコリオット神殿の方角を一瞥した。
「ありがとう。そしてご武運を。」
「そっちこそ、ブラックを頼むわよ。」
最後の最後に妖艶な唇で笑みを見せ、クレーヌは空へと急いだ。
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