3 騙しあい

 クーザーが魔物に占領された。その報せはあっという間に世界中を駆け巡った。都市から千々乱れて逃げ出した人々の多くは、近隣の大都市カーウェンへと雪崩込んだ。そして事の顛末を語る。商人が多く集まるカーウェンから、情報は世界に発信された。
 「たああっ!」
 カルラーンの自宅の庭で、新調した剣を振るうのはライ。来るべき戦いの日に向けて、腕の痛みも忘れて鈍った体を叩き直していた。
 「すぐにでもフローラとアレックスを助けに行きたい___でも敵がどこにいるかも分からない!」
 一人で声を張り上げながら剣を振る姿は異様でもあったが、ライの身に降りかかった悲劇は町中の皆が知っているから、咎める者はなかった。
 「お〜お〜、威勢がいいな。」
 だがこの家を訪れようとする客人にとっては、少々煙たいものでもある。声を聞いて振り返ると、不機嫌そうな顔のアモンと苦笑するデイルがいた。
 「アモンさん!」
 ライは剣を収め、汗の滲んだ顔で駆け寄ってきた。そんな状態で握手をしようとするものだから、アモンがますます煙たい顔になる。
 「ありがとうございます!フローラとアレックスの救出を手伝ってくれるんですね!」
 「アレックス?」
 アモンの眉が器用に捻れた。そして彼はデイルを一瞥して舌打ちする。
 「驚かせてやろうと思っておまえの子供の名前は黙っておいたんだ。」
 「ったく、縁起の悪い名前付けやがって。あいつに絡むといつも俺は面倒な目に巻き込まれる。」
 ライは笑みを讃えたままでいるが内心は笑えない。ただそれでも、腰の重いアモンが力を貸してくれたという事実が彼を喜ばせた。しかし文句の後で急に真顔になって語ったアモンの言葉は、ライの笑顔さえ掻き消すものだった。
 「今回、俺はおまえがどうあろうと敵さんに挑むつもりでいた。その点、手伝うというのは違う。俺の意思で敵と戦うんだ。」
 「どういうこと___?」
 「おまえにとっては一層の災難だがな、ニーサも浚われた。」
 「!」
 ライは凍り付き、全身を強ばらせた。
 「気配を感じてセルセリアに行ったまでは良かったが、俺はニーサを守ることができなかった。」
 逆に守られた___とは、中庸界一の魔導士として口が裂けても言えない。
 「敵の狙いは___」
 「そうだ、気になるのはそこだぜライ。」
 デイルは背に隠し持っていた新聞を広げ、ライに見せつける。
 「剣の稽古もいいが、世界の動きにも目を向けておけよ。」
 何事か?ライは滴る汗を拭って紙面を覗き込む。そこに書かれた内容を知ると、火照った顔が蒼白になる思いだった。
 「クーザーが乗っ取られた___!?」
 「そういうことだ。」
 「察するに敵さんは、強い魔力を持った奴を探しては捕らえにかかっている。実をいえば、暫く前に俺は何者かに魔力を探られた感触があった。ま、遮ってやったが___今思えばあれは敵さんが、中庸界にいる魔力の強い奴を洗い出していたんだろう。」
 アモンの見解は正解である。しかしライには腑に落ちない点があった。
 「それでフローラが___待ってよ、なら何でアレックスまで浚うのさ?」
 人質のつもりか?ただそれにしても敵は強く、力ずくでもフローラを浚うことは容易だったろう。
 「フローラを従わせるためかもしれないぜ。子供を盾にすれば、彼女は言うことを聞くしかない。」
 デイルの意見はもっともらしく、ライを納得させる。しかしアモンの胸中には、別の思案が渦巻いていた。
 (魔導の才能のある母親と、力馬鹿な父親。ソアラと百鬼の組合せで生まれたガキどもは強烈な魔力を持っていた。或いは___)
 彼はその考察に自信を持っていた。しかし、ライには語らずにおこう。今語っても一層混乱させるだけだから。
 「ゼルナスは___ゼルナスは無事なのかな?」
 「敵がクーザーを選んだ理由はそこだ。」
 「?」
 アモンの言葉にライは首を傾げる。
 「思い出して見ろ、あいつはニーサが認めた巫女だ。未だにまともな呪文の一つもできないようだが、秘められた魔力は相当のものがある。」
 「それじゃあフローラ、ニーサさん、クーザーの元女王さん、この三人で敵の狙いは終了なのか?」
 「あと一人、この世界には俺以上の魔力を持った奴がいるが、あいつのこと、俺と同じように敵の目を遮ったんだろう。」
 「あ〜っ!ミロルグだ!」
 ライは目を見開いて手を叩き、喜び一杯の顔になる。頼りになる味方がいたことを忘れていたのだ。
 「ミロルグにも力を貸してもらおうよ!彼女、ソアラとは良く会っていたみたいだし、きっと手伝ってくれるよ!」
 「___」
 今にも小躍りしそうなライを後目に、アモンは目を閉じて沈黙する。
 「それは多分無理だな。」
 そして呟いた。
 「クーザーでかなり激しい戦いがあった。どういう因果か知らないが、あの魔女は元女王に力を貸したみたいだ。」
 「え?」
 「そして負けた___と、俺は見ている。」
 アモンの真剣な眼差しに、ライは息を飲んだ。もう汗もだいぶ引いてきたが、それを差し引いても寒気のしそうな言葉だ。
 「あのミロルグが負けたとすれば敵はただ者じゃない。俺たちだけで勝てる相手かどうかも分からない。現におまえも俺も、一度は敵に負けている。」
 確かにその通りだ。稽古をしていても、このいかにも新しい剣を見ると、自分の敗北を痛いほど思い知らされる。
 「鍵は奴らがフローラやニーサを浚ったってことだ。世界征服の邪魔になると考えただけならその場で始末する。浚っていったのは、魔力の高い人間をなにかに利用するためだ。」
 「なんのため?」
 「それは分からん。」
 ガックリ。期待に目を輝かせていたライは首を折れる。
 「ただ、報道によればクーザーを占拠したのは大量のモンスターらしい。そんなのが今までどこに潜んでいたのか。まして狙われたのは海洋都市クーザーだ。あそこは海にしろ陸にしろ見通しが利く。大量の化け物の接近を何故そんなに易々と許したのか。その辺、何か関係あるのかもしれねえな。」
 例えばヘヴンズドア。あの移動呪文で大量のモンスターを運ぶとなれば、かなりの魔力が必要だろう。
 「クルァァッ!」
 と、その時である。聞き慣れない鳴き声に三人は振り返った。見れば庭の囲いに薄汚れたカモメが一羽留まっていた。
 「ゼルナス!」
 それを見たライが絶叫し、驚いたカモメは跳ね上がるように舞い上がった。その足に、小さな筒が光っていた。
 「馬鹿、驚かすからだ。」
 「あ〜___」
 「大丈夫、任せとけ。」
 警戒してしまったのか、空を旋回して降りてこないカモメ。しかしデイルが抑揚を着けて指笛を吹くと、翻って舞い降りてきた。相変わらず何でもできる男である。
 「で、あれとサザビーの女と何の関係があるんだ?」
 「あれはゼルナスのカモメなんだ。前にクーザーに行ってから、あのカモメで文通していて___」
 「て、ことは___」
 デイルはゆっくりとカモメに近づき、相手が警戒を解くのを見ると素早く筒から手紙を取り出した。
 掌ほどの大きさのすり切れた紙に、小さな字で簡潔に書かれていたのは、クーザーでの出来事と彼女の思いの丈だった。
 ___クーザーはザキエルというジジイの手に落ちた。町の中はモンスターだらけで、残された住民が虐げられている。私は地下に潜伏して、同様に敵の手から逃れた連中とチャンスを窺っている。あたしを助けようとしたミロルグは敗れた。その後彼女を見ていないが、あたしは何となくだけど生きている気がする。フローラはいるか?ミロルグがフローラは敗れたと思うと言っていた。返事が欲しい。あいつらが何者なのか、どこから来たのか、フローラやミロルグはどこにいるのか。知っていることを何でも良いから教えてくれ___
 その答えは三人の心を動かすには充分だった。
 「クーザーに行こう!ゼルナスと合流するんだ!」
 「そうだな。モタモタしていてもしょうがねえか。」
 ライの言葉にデイルも同調する。
 「だが問題はフローラ、ニーサ、ミロルグがどこにいるかだ。あいつらをただ牢屋に入れておくだけじゃないだろう。下手に手を出して、女たちを失ったら本末転倒だぞ。」
 「アレックスもだよ。」
 「ただどちらにせよ、ここでじっとしているのは得策じゃない。クーザーへ行って、敵が何者か知ることから始めた方がいいんじゃないか?」
 結局アモンもデイルの意見に同意した。なにより今ここでカモメを帰しては、次にいつゼルナスことフィラ・ミゲルと合流できるか分からない。それが今でなければならない一番の理由だった。

 「ぅっ___くぅっ___」
 蜘蛛糸からの脱出を試みたミロルグの体から魔力が吹き上がり、そのまま黒い水晶へと流れ込んでいく。輝きが全て水晶の中に消えると、酷い虚脱感で彼女は長い息を付いた。
 「なるほど___よく分かった。」
 そして呟く。蜘蛛糸に貼り付けられているのは彼女だけではない。フローラもニーサも、同じ蜘蛛の巣に捕らえられている。
 「脱出は無理___?」
 フローラは憂い気に問いかける。彼女は窶れ、血色も悪くなっていた。それでも瞳の輝きだけは失わずにいた。
 「難しい___あの水晶は魔力を吸収しているだけじゃない。モンスター召還のための力に変えているんだ。とすると、過剰に魔力を送り込んで破壊するという手はおそらく通用しない。」
 ミロルグは呼吸を乱しながらも冷静に言った。しかしまだ胸の傷が痛むのか、唐突に身を強ばらせて顔を顰めた。
 「逃げ出すには四つの関門があります。」
 ミロルグに代わり、閉ざされた瞼の奥に確かな意思力を持つニーサが続けた。
 「一つは蜘蛛の巣。魔力さえ使えればこれを断つことはそう難しくないでしょう。しかしそれを阻むのが水晶、これは物理的な方法で破壊しなければならない。さらに、番を任されている魔獣をどうするか。そして___アレックスをどう救うのか。」
 「ここしばらくは離れているけど、ザキエルと頭知坊がいると関門が増えますね。」
 髪をも絡め取られている蜘蛛の巣では満足に頷くこともできないが、ニーサは小さく頷いた。
 「頭知坊?」
 「四本腕の男よ。私とお義母様を浚った男で、彼がこの蜘蛛の巣を作るの。あなたは気を失っていたけど、あなたをこの蜘蛛の巣に貼り付けたのもそう。」
 「その胸は___」
 ミロルグは宛っただけの薄布一枚で隠されたフローラの胸を一瞥する。
 「頭知坊よ。」
 「なるほど___」
 「彼は私に好意を持っているわ。その___体を求めるわけだけど___それは利用できるかもしれない。」
 フローラは恥ずかしげに、多少の苦渋を織り交ぜて語る。ザキエルの枷があるから、頭知坊はあれ以来フローラに手を出してはいない。しかしここにいる限り、その視線が始終彼女に向けられていることは、盲目のニーサでさえ感じていた。
 「___」
 ミロルグはしばし押し黙り、やがて失笑する。
 「そんな手段はあまりに愚かだ。が、その短絡的であろう頭知坊とやらに活路を見出すのは間違いではない。なに、この私を捕らえたことが運の尽きだったと思わせてやろう。おまえはただ張り付けられていればそれで良い。」
 かつて刃を交え、一度は彼女に殺されかけたのが嘘のようだ。ただ、そのミロルグとこういう接し方ができることをフローラは素直に喜んだ。
 「ありがとう。実はお義母様にも猛反対されて___」
 「当然です。」
 ほんのささやかな談笑が生まれる。状況は楽観できるものではないが、一人で捕らわれていたときよりは、フローラも気持ちを強く持てた。

 夜のクーザー城。そこに常人の姿はなく、ザキエルの手で召還されたモンスターと、彼らの前に反抗の意思さえ失った人々が奴隷のようにしているだけ。その様は町に出ても変わらない。人々はただモンスターの横暴に震えながら、命を繋ぐために彼らの過ぎた要望に答える。若者、とくに美しい女ほど悲劇を見るのはあまりに残酷な光景であった。
 「愚かな口を叩くものじゃな。貴様は王の器ではないとというのがわからぬか。」
 「俺だって王様くらいなれるぞ!」
 地獄の情景の中にあって妙に現実的な言葉、それは城の謁見の間で響いていた。
 「おまえには無理じゃ。」
 「できる!」
 謁見の間で悠然とするザキエルの前で、頭知坊は脂ぎった顔に血気を滾らせて怒鳴りつけていた。しかしそれを見るザキエルの視線はあまりにも冷然としていた。
 「ではこの世界にいくつの大都市があり、そこにどれほどの人が住み、どれほどの力を持って征服できるか分かるか?おまえは人殺しはできても、人を支配し、使いこなすことはできぬ。おまえは誰かに使われることはできても、誰かを使うことはできぬ。人の上に立つなど以ての外じゃ。」
 そう理路整然と語られると、それを細かく理解するのにも苦労するのが頭知坊だ。理屈で押し込められると、彼はすぐに閉口してしまう。
 「焦るな頭知坊。おまえにもそれ相応の地位を与えることは厭わぬわい。じゃが、それは世界の全てを支配してからじゃろうなぁ。それまでは精を出して働け。」
 「むぅぅ___」
 頭知坊は口惜しそうに呻き、ファッションとしては全く似合っていない首飾りの宝石を握る。すると彼の体は黒い光に包まれ、たちまち城の天井を突き破って空の彼方へと消えてしまった。
 「馬鹿な奴め。」
 天井に空いた穴から落ちる石の欠片を睨み付け、ザキエルは呟いた。
 「ギィアッ!ギィアッ!」
 玉座の背後には海を臨むテラスがある。そのガラス戸の側でオウムが鳴いた。
 「ん?どうした。」
 ザキエルは重たげに玉座から立ち上がり、外を見てなにやら喚く怪鳥カルコーダに問いかけた。
 何か見つけたか?そう思ったザキエルは、ガラス戸越しに暗く沈んだ海を見る。しかし奇妙な影はなく、また彼自身それらしい気配を感じなかった。
 いや、実際のところは無警戒だったと言うべきだろう。気を張りつめていれば、カルコーダのようにヘヴンズドアの魔力を感じ取ることができたはずだ。しかし城はおろか街までもモンスターで埋め尽くした今となっては、気が緩むのも致し方ないことである。
 「くっ___いや、危なかった。まさか誘魔術の使い手がいるとは___」
 アモンは苦しそうに顔を歪めながら、ライの手を借りて海中から岩の上へと這い上がる。
 「何がどうなったんだ?」
 デイルはすでに岩に立ち、周囲に目を光らせている。彼の手にはカモメの入った鳥かごが握られていた。
 「誘魔術ってな、他人の魔力を爆発させる術だ。咄嗟にヘヴンズドアを解いたから何とかなったが、そのまま魔力を体に留めていたらこんなもんじゃ済まなかっただろうよ。いや___これならミロルグが負けたとしても納得がいく。」
 誘魔術の使い手は魔導士にとって天敵。しかし術自体が伝説のような古めかしさで、アモンも実際にその使い手がいるとは思っていなかった。
 「いけるのかよ?」
 「当たり前だ。」
 ダメージは思いのほか大きい。しかしアモンはデイルの気遣いを煩そうに突っぱね、さらにライからも離れて鼻息を荒らげた。
 「気づかれたわけではないのかな?」
 「追ってくる様子もないからな。仕留めたと思ったのかもしれない。」
 周囲から何一つ迫る影がないのを知り、デイルは鳥かごを抱え上げる。ニヤリと笑って、眠たそうにしているカモメの顔を覗き込んだ。

 「帰ってきました。」
 蝋燭一つの冷えた洞窟の中で、吊されて眠ることにも慣れてきたフローラだが、その日はニーサの声が眠りを許さなかった。
 「頭知坊ですか?」
 「ええ。」
 「驚いた、確かに来たようだが___素晴らしい感覚だ。」
 ミロルグはニーサの優れた感知能力に驚きを隠さない。そんな彼女にニーサは穏やかに微笑む。
 「盲目の強みです。」
 それを強みにできてしまうあなたが強いのだ___ミロルグはその言葉を飲み込み、彼女のような人がソアラたちを育ててきたのだろうと感じた。
 「あのジジイめ!俺のほうが強いのに偉そうにしやがってぇ!」
 戻ってきた頭知坊の荒れようはフローラを驚かせた。彼はあまり頭の冴えるタイプではないが、その割には感情的でもない。何度か他愛もない言葉を交わしてみて、そう感じたものだ。
 「ギャヒェェ!」
 断末魔の叫びを上げたのは、見張り番として残されていたモンスター。ザキエルが召還したモンスターを、頭知坊は苛立ちに任せて始末したのだ。糸で捕らえて斧で叩き割る、得意の戦法にモンスターは為す術なく、その力強さは彼をはじめて見るミロルグに固唾を飲ませるほどだった。
 「頭知坊さん。」
 唐突だった。ピクリとも動かなくなったモンスターを見下ろす頭知坊に、フローラが呼びかけたのだ。思いがけないことにミロルグとニーサは小さく呻く。
 「頭知坊さん、どうしたんですか?」
 だがフローラの声に迷いがないことで、二人も状況を理解した。思いつきとはいえ、彼女は今を絶好機と考えたから勝負に出たのだ。
 ここから逃げ出すには水晶を破壊しなければならない。しかし洞窟の天井に逆さづりにされた水晶を、魔力無しで破壊するのは難しい。いや、むしろ頭知坊に壊させたい。そのためには彼を利用する必要がある。そして今日の頭知坊は、理性が効かなくなるほど気が高ぶっている。そればかりか、やっかいな見張りのモンスターを片付けてくれた。
 「そんなに怖い顔をしないでください。何かあったんですか?お話を聞くくらいなら私にもできますから___」
 憮然としていた頭知坊は急に思い立ったように向き直ると、その巨体を揺らしてフローラの元へ。蜘蛛の巣に貼り付けられた彼女の前で仁王立ちすると、真正面から睨み付けた。フローラは少し怯んだが、それでも彼を見つめて小さく微笑む___と、強ばっていた頭知坊の面持ちが、急にダラリと弛緩した。
 「おまえは優しいなぁ。」
 先ほどの怒りはどこへやら。締まりのない笑顔ではにかむと、蜘蛛の巣ごとフローラの体を抱きしめる。身を強ばらせないように、本能的な相手に恐怖を悟られないように、フローラは目を閉じて野太い腕の抱擁を受け入れた。
 「グフゥ___」
 やがて頭知坊は、フローラの胸を隠す薄衣に顔を埋めた。豊かになった乳房に熱い鼻息が押しかけられるのは恥辱的。だが頭知坊はそれ以上のことをするでもなく、まるで幼子が母を求めるかのように胸に縋り付くだけ。フローラの心も、アレックスを失ってなお高ぶる母性の波で満たされていった。

 「あのモンスターはザキエルさんのでしょう?」
 やがて頭知坊は離れ、洞窟の一角に悠々と腰を下ろした。しかしそこに大きな異変が起こっていた。彼の膝の上に、フローラが座っているのである。
 この愛くるしい女を側に置いていたい___フローラの母性が彼にそう思わせ、彼女を糸から逃れさせたのである。
 「俺はあのジジイは嫌いだ。」
 「どうして?」
 「俺を王様にしてくれない。」 
 「どうして王様になりたいの?」
 「んぅ?それはなぁ___」
 頭知坊は洞窟の天井を見上げて言葉に詰まる。今になって答えを考えている風だった。
 「王様になれば何もかもが俺のものだ。食い物も、宝物も、おまえみたいな可愛い女も、すべて俺のものだ。」
 「そうかしら___」
 「それにザキエルは王様にしてやるから言う通りにしろといったんだ。だからおまえやあっちの女を浚った。」
 結局のところ、うまく口車に乗せられたわけだ。
 「ねえ、教えてほしいことがあるの。」
 媚びを売るのはソアラの得意技だが、親友として多少学んだ部分もある。フローラは自分が持つ清廉さ、愛くるしさを消さないように、彼の首に腕を回したりすることなく、ただ顔を近づけて問いかけた。効果覿面、頭知坊は頬を赤くして鼻息を荒らげた。
 「な、なんだ?」
 「あなたとザキエルはいったいどこから来たの?」
 「___空の上だ。」
 しばし首を捻り、頭知坊は思い出したように答えた。
 「天界___」
 その言葉の意味を察したニーサが呟く。それは隣に貼り付けられたミロルグにしか聞こえないような声だった。
 「天界___そうか、ソアラとサザビーが旅立っていった世界___」
 「そうなのですか?」
 「私は見送っただけですが___察するに、アヌビスとの戦いのためかと。」
 ミロルグがニーサに対して敬語を使うのは、彼女への敬意の表れか。出会って間もないというのに、ミロルグはニーサが持つ気高さを肌に感じ、心動かされるものを得ていた。孤高の魔族にすらそう思わせるのが、ニーサ・フレイザーなのである。
 「アヌビス___すると今回の敵は___」
 グンッ!
 唐突に蜘蛛糸が躍り上がると、ニーサとミロルグの首に巻き付いて強く締め上げた。
 「何をこそこそ喋ってる!」
 「やめて!彼女たちは私の大事な人よ!」
 「うっ___」
 頭知坊はフローラに一喝されるとすぐに糸を緩めてしまう。だが「命令をされた」という行為が、彼にザキエルの嫌悪感を思い出させた。
 「___おまえも俺に命令する!」
 「え___?」
 「俺が王様だ!」
 「!」
 唐突だった。頭知坊がその太い腕でフローラに掴みかかったのだ。ほんの一掴みで服が引き破られ、薄暗い洞窟に半裸の白肌をさらすと、彼女の体はすぐさま冷たい岩に押し倒された。
 「おまえは俺の女だ!俺に指図するな!」
 抵抗の暇もない。何しろあいては四本腕だ。太い腕に両の足を抱えられ、細腕に両手を捉えられ、その大きな体を被せられるとフローラにはどうすることもできない。ミロルグがなにか叫んでいる声さえ耳に入らないほど、彼女は狼狽し、絶望した。
 だが、ふとアレックスの姿が思い浮かぶと、たとえこの男に犯されても生きて我が子を救い出すためなら致し方なしとさえ思えた。不思議だった。この妙に達観した心地は何か?それが母の強さなのか?
 「うっ___」
 その眼差しは頭知坊を躊躇させた。恐怖を抱きながらも屈っすることなく、むしろ悟りの境地に達したかのような聖母の眼差し。それは野性的な大男を戒める迫力を秘めていた。
 「頭知坊!貴様何をしておるか!」
 その時である。頭知坊とフローラに生じた間を引き裂いて、老翁の怒声が響き渡った。
 「頭の悪い奴だとは思っていたが、そこまで馬鹿か!」
 ザキエルだ。怒りを露わにして駆け込んできた老翁の肩に、遅れてきたカルコーダが舞い降りる。そのオウムを見て、ミロルグは顔を顰めていた。
 「早くその女から離れろ!」
 「俺に___俺に命令するな!」
 頭知坊は跳ね上がるように身を起こすと、その両手からザキエルに向かって大量の糸を放った。それはアモンを襲ったときと同じ、針のように鋭い糸だった。
 しかし___
 「ギィィィァッ!」
 カルコーダが舞い上がって羽ばたくと、その翼から真っ赤な羽が飛び散った。それは糸に触れた瞬間、強烈な火炎に変化する!
 「!」
 大量の糸は火炎の前に成すすべなく溶けて消える。彼の糸が炎に弱いことを、ザキエルは十二分に承知していた。
 「落ち着け頭知坊。わしと袂を分かてば、貴様はこの世界を手にできぬどころか、黄泉に帰ることもできぬぞ。」
 「うぐぐ___」
 黄泉に帰ることができないという言葉が頭知坊を呻かせた。確かに彼はこの世界で王になって、享楽的な生活を送ることを望んでいる。しかし、それでも故郷の黄泉を離れ続ける気はなかった。なにしろこちらの世界は明るすぎて居心地が悪いのだ。楽しむだけ楽しんだら、気に入ったものを抱えて黄泉に帰りたい。だが彼は帰る方法を知らなかった。
 (黄泉___棕櫚とバルバロッサの故郷___)
 引き破られた裾を翻して腰を覆い、胸を手で隠して、フローラは身を起こした。そんな状況でも、敵のやり取りから情報をつかむ冷静さは残っていた。
 「そこから離れろ。わしはその女たちに用がある。」
 頭知坊は未練がましくフローラを振り返りながら、彼女の元を離れる。しかしザキエルの側には寄らず、どちらからも離れた洞窟の一角に腰を下ろした。ザキエルの目にはすでに彼の姿などなく、ニヤリと笑って半裸のフローラを眺めていた。
 「この年になってもはや枯れたかと思うていたが、いやはやどうして、おまえのような女の恥じらう姿とは何ともいいものじゃな。盲目の麗人、凍り付くような鋭気を秘めた魔女、どれも魅力的じゃのう。」
 「___」
 フローラは何も答えず、ただザキエルを睨みつけた。肉弾戦で彼に挑むという手もあるが、肩のオウムに漲る悪気が彼女を萎縮させた。カルコーダはそれほど優れた魔獣である。
 「とはいえ、貴重な魔力の源であるおまえたちをそんな無粋な手段には使わぬし、使わせもせぬ。わしの野望を実現するために、まだまだ魔力を提供してもらうぞ。」
 「解せないな。」
 老翁の言葉に引っかかるものを感じ、ミロルグが言った。
 「おまえは今、わしの野望と言った。おまえたちはアヌビスの手先ではないのか?」
 その言葉にザキエルは答えない。ただカルコーダが丸い目をミロルグに向けただけ。
 「おまえの振る舞いは自分の意志だというのか?」
 ザキエルが顎をしゃくるとカルコーダの翼から銀色の羽が飛ぶ。それは刃の鋭さでミロルグの胸元に迫ると一気に弾けた。
 「ぐっ!?」
 羽毛の一つ一つが極細の針となってミロルグの体を襲う。まだ完治にはほど遠い右胸に降りかかった無数の針は、彼女を喘がせた。
 「無駄な口は慎め。」
 「無駄?そうでしょうか。無駄というのなら、あなたの行為そのものでは?」
 「なにを___?」
 ミロルグの思いを継ぐように、次に話し出したのはニーサだった。
 「アヌビスの意志でもないのに中庸界を手にしてどうするのです?私たちを屈服させたところで、それが邪神の前で何になるのです。」
 今度はニーサ。たちまちその首から頬にかけてが針山に変わる。
 「この世界に落ちたこと、それはわしの落ち度じゃ。わしはこの失態を取り戻し、アヌビス様に認めて頂かねばならぬ。それにはこの世界ほど良い手土産もあるまい。わしはこの世界と共にアヌビス様に忠義を示すのじゃ!」
 忠義とは老兵の好みそうな言葉だ。だがそのために嘆きを見たものにとって、忠義がどれほどの意味を持つというのか。
 「そんな___そんなことのために私はアレックスを奪われたというの!?あなた一人のメンツのために!」
 フローラの言葉には深い憤りが滲んでいた。だが忠義に生涯を注いできた老翁にとって、それを軽蔑されるに勝る怒りはない。
 「そんなことじゃと___」
 ザキエルは早足でフローラに近づくとその懐から短い筒を取り出す。それは一振りすると太刀ほどの長さの杖となった。
 「わしは全てをアヌビス様に捧げた。その忠義を___わしの一生を侮蔑するか!」
 ザキエルは突如として激昂し、杖でフローラに殴りかかった。長らく戦いから離れていたといっても歴戦の勇士。フローラは反射的に後方へと飛び退き、杖は空を切る。
 「カルコーダ!」
 すると今度は怪鳥が舞い上がってその翼を勢いよく広げた。七色の翼から降り注ぐのは銀色に輝く無数の羽。だがフローラは頭知坊に破られて一枚布になったスカートを引き剥がすと、勢いよく羽に投げつけた。羽毛の針はことごとく布に巻き取られ、丸腰になりながらもフローラはさらに飛び退く。それを追ってカルコーダはまたも羽を飛ばした。
 今度は___赤い羽根を。
 「!___ま、まて!」
 フローラが笑みを浮かべた。突如として取り乱したザキエルの声も空しく、炎は彼女を襲う。その後ろにはあの蜘蛛の巣が広がっていた。
 炎は洞窟一杯に広がる。後はギリギリまで引き付けて飛び退くだけで良い。
 「良くやってくれた。後は私に任せて、おまえは母を守ってやれ。」
 焼き尽くされた蜘蛛の巣は消え、黒いマントで体を隠したフローラの前にはミロルグが凛と立っていた。マントの下から現れたのは、いつぞやゴルガで披露した装束。袖が無く、体に密着した戦闘的な服は、彼女のイメージを武闘派に変える。
 「さて___世界を狙う老将の力、見せて貰おうか?手負いの身だがその鳥を括り殺すくらいはわけないぞ。」
 「ぬぅぅ___」
 ミロルグの鋭気にザキエルは気圧された。そしてこの時まで傍観者に徹していた男に目を向ける。
 「頭知坊!手を貸せ!」
 「___」
 だが頭知坊は動かない。ゆっくりと迫るミロルグに、ザキエルはやにあっさりと一人勝ちを諦めた。
 「頭知坊!王の座は貴様にやる!おまえの好きなようにやって良い!だから___わしを助けろ!」
 その言葉を待っていたのだろう。頭知坊は無能らしくない狡猾な笑みを見せ、顎髭を擦った。
 「言ったな?その言葉に嘘はねえな?」
 「約束する!だからあの女を殺せ!」
 「よし。聞いたぞぉ。」
 頭知坊が立ち上がる。ザキエルは最後の言葉を首のすぐ後ろで聞いた気がした。しかし振り返ったところで何もなく、彼の疑問もそこで終わった。あとは己の前に立ちはだかった頭知坊の背中を、憎らしい目で睨み付けるだけ。そして思い立つだけ。
 口約束がいかほどのものだろうか?
 詰まるところ、勝ち残った者が王だ!___と。
 「カアアアッ!」
 ミロルグと頭知坊が今まさに激突しようというその時、ザキエルは猛然と洞窟の出口の付近まで駆け出すと、皺だらけの顔に狂気を滲ませて絶叫した。
 「砕けろぉぉぉ!」
 極些細な一念。しかし敵を一網打尽にできる興奮は、老翁の気を必要以上に高ぶらせた。そして巻き起こった火山のような猛烈な爆風は、彼にとっては頬を撫でる薫風の如き爽快感だった。
 「ククク___ハハハッ!」
 宙に舞い、ザキエルは眼下に広がる粉塵を見下ろす。そして高らかに笑った。
 「大したものじゃ!エクスブラディール級の破壊力ではないか!よくぞこれほどの魔力を捧げた!」
 ザキエルは自らの意志で水晶を砕いたのだ。彼はカルコーダを最後に新たな魔獣を召還していない。しかしそれからもフローラたちから魔力を奪い続けていた。水晶に蓄えられたエネルギーは、最高級の爆発呪文に匹敵する破壊力となり、砕かれたことでその力が一気に溢れ出したのである。
 「やはり王はわしじゃ。頭知坊、おまえは器ではないという事じゃな!」
 ザキエルは哄笑し、崩れ落ちた洞窟と、土煙にまみれた森に背を向ける。ミロルグを前にして流した冷や汗も、今思えば心地良い。それほど爽快な気分だった。
 「か___」
 そして爽快な気分のまま、ザキエルは糸の切れた凧のように宙を泳ぎ、落下した。
 快楽に我を忘れながら、彼は意識をも消した。
 眼下には剥き出しの岩がある。意識のない老翁の末路はすでに決していた。
 「クァッ?」
 異変を知ったカルコーダが空中でザキエルから離れる。
 「クエ?」
 空を漂う糸を見つけ、怪鳥はその先端に揺らめく何かをくわえる。それは嘴で簡単に押し潰されると、白い粘りを噴き出して拉げた。その姿は黄色い蜘蛛。
 「グハァッ___!」
 瓦礫の山を跳ね除けるようにして現れた頭知坊、その体には糸の束がまとわりついていた。柔軟かつ強健な糸で繭を作れば、洞窟の崩壊から身を守ることなど造作もなかった。
 「ムハハッ!やっぱり俺が王様だった!」
 宙を迷走するカルコーダの姿にザキエルの死を察すると、頭知坊は高らかに笑った。
 頭知坊はザキエルの約束を疑っていた。だから洞窟内でのやり取りの間に、老翁の襟首にそっと毒蜘蛛を取り付かせたのだ。それは一噛みで昏睡に陥れるほどの強力な蜘蛛。約束を破ったら、噛ませるつもりでいた。
 「裏切るからだぞジジイ!俺を馬鹿にした罰だ!」
 そして結果は彼の疑念通りになった。空の高みから岩場に放り出されたザキエルは、もはや醜い肉片と化しているだろう。
 「お?」
 主人を失ったカルコーダが彼の肩へと舞い降りてきた。頭知坊は怪鳥の心変わりに素直な笑みを見せると、満足げに首飾りの宝玉を握り締めた。
 「さあ!俺様の城に帰るぞぉ!」
 いざ、王の椅子がある城へ。黒い輝きが広がると、頭知坊とカルコーダの姿は跡形もなく消え去った。




前へ / 次へ