2 クーザー陥落

 「おい。」
 寂しさを増した民家の寝室。そこでは無精髭の男が憮然とした顔でテーブルに頬杖を突いていた。その男、デイル・ゲルナはかつて白竜軍のスパイとして活躍し、ソアラたちにも少なからず影響を与えた人物である。彼は昔から変わらない薄汚れた姿だった。
 「辛いのは分かるけど食べろよ。血が足りなけりゃ何もできないぞ。」
 デイルはベッドの上で沈鬱な面持ちを湛える男に言った。そこには上半身を起こしたライがいる。彼はシチューが入った皿を手にしたまま、微動だにせず虚空を見ていた。呼びかけても反応のない姿に、デイルは露骨な溜息をつく。
 ここはライとフローラの愛の巣。しかし破壊された屋根から吹き込む冷たい風が、全ての幸せを奪ってしまった。
 「おい、聞いてるのか?」
 ライの右腕には血の滲む包帯が巻かれていた。その血染みはまだゆっくりとだが広がっている。白竜自警団の力を借りて、荒療治ながら治療は施した。しかし腕の半分ほどまで斧に食い進められたのだ。傷はそう簡単に塞がらない。
 そしてその塞がらない傷こそが、フローラの居ない現実を際だたせるのである。
 「しかし驚いたな、お祝いに来てみたらこれだぜ。いやはやまったく___」
 致命傷を負ったライを救ったのはデイルである。彼は二人に子供が生まれたとの知らせを受け、遠くゴルガからやってきたところだった。それでこの惨劇なのだからいたたまれない。
 「ったく、そのままだと料理が冷えきっちまうぞ。」
 全く答えないライに、デイルも匙を投げかけたその時___
 「猫舌なんです___」
 やっとだ。沈んだ声だが、ライはそう答えた。
 「もう食えるだろ。」
 それから暫くとしないうちに、ライはシチューを口へと運んだ。愛情の詰まった、とても美味しいシチュー。それは今夜、アレックスが寝付いてからフローラと二人で食べるつもりでいたものだった。
 「___」
 フローラの笑顔、アレックスの笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。しかしそれもさえも腕の痛みにかき消され、あの惨劇に塗りつぶされていく。
 口惜しさで胸がいっぱいになったライの双眼から、いつしか涙が零れ落ちていた。

 数日が過ぎた。
 浚ったからには何か目的があるはずだ。もとよりこの傷では積極的に動くこともできないが、ライは相手の出方を待った方が良いというデイルの助言を受け入れた。しかし一向に音沙汰がない。苛立ちばかりが募り、焦燥に駆られる日々が続いた。
 「本当にこんな化け物だったのか?」
 利き腕の左が無事だったから、ライは記憶を頼りに襲撃者の絵を描いた。細部までとはいかないが、小太りの巨体、はげ頭、四本腕、特徴は正確に捉えていた。
 「化け物だよ。蜘蛛の化け物。」
 「あの道いっぱいの蜘蛛の巣もこいつがやったってのか。」
 「そう。」
 ライの答えにデイルは閉口し、頭を掻いた。そしてしばらく絵を睨み付けて考え込むと、徐に口を開く。
 「しゃあねえ、アモンの爺様に力を貸してもらうおう。どうやら自警団で手に負える相手じゃなさそうだ。」
 「アモンさんに?でも連絡つくかな?」
 ライも今回の一件を尋ねるなら大魔道師アモンしかいないと思っていた。しかし彼は地図にも載らないような辺境の小島に住んでいる。そこに辿り着くまでに何十日かかることか。
 「ヴェルディ岬の向こうだよな。まあ何とかして見せようじゃないの、これでも俺は自警団じゃお偉方だからよ。」
 そう言って笑うデイルだが、ライは心苦しくて冴えない顔をしていた。
 「ごめんなさい___なんだか巻き込んじゃって。」
 「ほぅ、大人になったじゃねえの。おまえもそんな遠慮深いこと言えるようになったんだ。」
 去り際にライの頭を一叩きし、デイルはカルラーンを出た。入れ替わるようにしてやってきたのが自警団付きの看護員と警備官。ライは危険だからと二人を拒んだが、「危うくなれば逃げるように仰せつかっています」との答えに、デイルの心遣いを感ぜずにはいられなかった。

 さらに数日が過ぎた。ライの周りに動きはない、しかし魔は密やかに暗躍する。
 「やれやれ___」
 年老いてはいるが未だその活力に衰えを見せない、絶倫とは彼のためにあるのではないかと思わせる大魔道師アモン・ダグは、いつも以上の仏頂面で雪の降る土地へとやってきていた。
 「何でまぁ、またここにきちまったか。」
 自分に愚痴をこぼしながら、彼は雪深い森へと足を進める。以前は魔道口を開くためというやむを得ない目的があったが、今日は自分の意志でこの極寒の島へときてしまった。
 「肌にあわねえんだよな___聖域は。」
 そこは聖域セルセリア。アレックスの妻であり、ライの母であるニーサ・フレイザーの居場所だ。
 なぜ彼がここへ来たのか。それは彼自身にもよく分からなかったが、ただとにかく悪い予感がしたのである。もとよりそれはこのところ立て続けで、ザキエルが水晶で魔力に長けたものを探していたときも、フローラが浚われたときも、ちょっとした不快感を覚えていた。ただそのときは動かなかった体が、ニーサの住むセルセリアに悪しき気配を感じた途端こうだ。
 しかしそれは恋ではない。もとより親子かそれ以上に年の離れた間柄である。いや、そんな彼女があまりにもできた人間だから、アモンは彼女を失いたくないのである。アレックスを一途に愛し、悲劇的運命に飲まれ、盲目になりながらも絶望せずに生き続けた彼女への尊敬の気持ち。それが彼を動かしていた。
 「むっ___!?」
 突如として膨れあがった悪しき気配に対するアモンは敏感に反応する。小さな島の森の奥から阿鼻叫喚の声が響くと、アモンは舌打ちをしてその体に魔力を滾らせた。
 「___」
 白雪に散る牡丹の花。いや、血飛沫。純白と深紅の対比は、絵画のように鮮やか。しかしそこに人の骸が幾重にも転がれば、一転して修羅の凄惨さとなる。
 (愚かな___)
 盲目のニーサ・フレイザーにその情景は見えない。しかし彼女は肌に感じる。己の正面に立つ巨体の狂気、朽ち果てた魂の苦悶の叫び、そして___迫り来る勇敢な血潮。
 「グフフッ。」
 雪の上で巨体を返り血まみれにし、薄笑いを浮かべたのは頭知坊だ。その周りには数人の骸が転がっていた。彼らの命を守れなかったことを悔いながら、ニーサは巫女たちに隠れるように命じて一人で神殿の外へと出ていた。
 雪深い村の中央。神殿を背に、ニーサと頭知坊は向かい合っている。ほかの住民は偉大なる天依巫女の意志に従い、必死に身を隠して縮み上がっていた。
 「おとなしくしていれば痛くはしないぞぅ。」
 「私は目が見えません。抵抗などできましょうか。」
 その言葉に機嫌を良くした頭知坊は、さしたる警戒もなくニーサに近づこうとした。そのときである___
 ジュブゥゥッ!
 酷く水っぽい音を立て、頭知坊の背に巨大な氷柱が突き刺さった。
 「年寄りを急かすんじゃねえよ。さすがに息が切れたじゃねえか。」
 駆けつけたアモンの突き出した右手には、まだ氷の粒が煌めいていた。炎のドラギレアにしろ、氷のヘイルストリームにしろ、ニーサとの距離が近くては彼女にも危害が及ぶ。地味ながら、使い手次第では必殺の破壊力をしめる氷柱の一撃、アイスシックルを選んだのは老翁ならではの経験といえた。
 だがそんな彼でも読み切れなかったことがある。それは頭知坊が魔族にも増して強烈な妖魔という存在であり、アヌビスに選ばれたほどの強さの持ち主だということだ。
 「危ない!」
 「!?」
 ニーサの悲鳴とともに頭知坊の背中を刺した氷柱が弾け、その内側から噴き出した大量の糸がアモンに襲いかかった。老体に鞭打っての横っ飛びに一瞬遅れて、糸は槍のような鋭さで空を貫く。ニーサの声がなければ串刺しにされていたかもしれない。だが、危機はまだ終わっていなかった。
 「なっ、これは!?」
 横に飛んだアモンは雪の上を転がって立ち上がるつもりでいた。しかし雪に寝転がったその時から体が動かなくなったのである。いくら注意深かろうと、雪に張られた蜘蛛の巣を見抜けるものか!
 「くっ!うおおぉぉぉ!」
 頭知坊の背から溢れた糸が、四方八方からアモンを襲う。衝撃の激しさは大量の雪を舞いあげ、一帯を白い霞に煙らせた。その霞の向こうに横たわる人影と、槍のように鋭い糸のムシロ。
 「グフッ、逆らうからだ。」
 勝ち誇った笑みの頭知坊。氷柱に刺されたはずの背中の傷は、大量の糸に埋め尽くされ、塞がっていた。アモンを襲った大量の糸はすでに切り離され、彼は悠然とニーサの前に立った。
 「おまえは偉い。逆らうとどうなるか、よくわかっている。」
 「___」
 頭知坊はニーサの腕を取ると、彼女の体を軽々と担ぎ上げた。そして懐から黒い宝石を取り出す。それはザキエルから渡されたものだった。
 「帰るぞぉ!」
 声高に叫び、宝石を握りつぶすと二人の体は黒い波動に包まれた。
 そのとき、頭知坊の背に投げ出されたニーサの両手は朧気に光っていた。白い雪の中では定かでないほどの淡い光に、頭知坊は全く気づいていなかった。
 それはささやかな彼女の抵抗である。
 「___」
 頭知坊が消えたセルセリア。聖域に再び静けさが戻ると、隠れていた人々も窓や戸板の隙間から顔を覗かせた。
 「畜生が!」
 しかし、神殿の前の針山が怒鳴ると、彼らはまた身を隠す。
 「___」
 アモンは大量の糸に体を刺し貫かれたかに見えた。しかし、白い霞の中で、多くの糸は彼の皮膚の手前で食い止められていたのである。彼の体を覆う淡い光、それはニーサの手に宿っていた朧気な光と同じだった。
 (善人め___せっかくため込んだ魔力を俺を守るために使いやがって___)
 助けにきて逆に助けられた。そんなもの、かつてのソアラやフローラのようなひよっこの役目だ。幾星霜の経験を重ねた大魔道師にとっては醜態そのものである。
 「彼らは私を殺すつもりはないようです。だからどうかそのまま、動かないでください。」
 防護の光とともに、アモンの脳裏に流れ込んできた彼女の意志がそれだった。
 「ちっ___」
 埋め合わせはする。ニーサの抵抗を無駄にしないために、死んだふりまでしてやったのだ。眼力だけの火炎で糸を消し飛ばし、アモンはゆっくりと立ち上がった。その眼差しは、若かりし頃を思わせるほど情熱的に燃えていた。
 「絶対に助け出してやる___待ってろよ、ニーサ。」
 心中で思えばすむだけの言葉を声に出してしまうほど、彼の怒りは燃え上がっていた。

 時を同じくして、一層の喧噪に包まれていた場所がある。海洋都市クーザーだ。
 「グァルルル!」
 「た、助け___!うあああっ!」
 潮の香り豊かな水の街クーザーは、燃え盛っていた。突如として街に現れたのは、全身を夥しい炎で包み込んだ犬。それはフレイムハウンドと呼ばれる冥府の魔獣だが、そんなことは誰にも分からない。駆け回るだけで火の粉を散らし、口から地獄の火柱を吹く獣に、都市はパニックに陥った。
 混乱の極致に達していたのは城内も同じだった。都市長フィラ・ミゲルは危機的報告の連続に耳を痛めながら、悶々とした思いで必死のタクトを振るっていた。
 「くそっ___!」
 女傑ゼルナスの血潮と、海賊の気質は彼女を前線へと駆り立てる。しかし部下の説得もあって何とか都市長席に踏みとどまっていた。ただ苛立ちは抑えきれず、時に舌打ちをしては銀のロケットを強く握る。そこに隠されたあの男に思いを込めて。
 (サザビー___クーザーを___あたしを助けてくれ!)
 身のこなしには自信がある。だが、兵士たちの手に負えない相手に挑んだところで、結果は火を見るよりも明らかだ。でも彼がいれば、クーザーに巣くう魔獣を倒した彼がいれば、きっと___
 気丈の裏に隠された乙女の願いは、愛する男の劇的な登場を願っていた。その時である。
 バンッ!
 都市長室の扉が勢いよく開け放たれた。まさか!と思ったフィラの顔は一瞬晴れ、すぐに険しいものへと変わった。そこでは傷ついた兵士が、血を滴らせながら鬼気迫る形相で立っていた。
 「フィラ様、どうかお逃げ下さい!ここはもう持ちません___!」
 それが彼の断末魔だった。そのまま事切れてまっすぐに倒れた彼の背中には、使い古された剣が三本も刺さっていた。これほどの傷を負いながら、ただ最後の言葉を伝えたい執念だけで、彼はここまでやってきたのだ。
 「!」
 壮絶な死に絶句しているのも束の間、重厚な金属音を鳴らす大きな足が、兵士の骸をお構いなしに踏みつけた。
 「出やがったな___」
 都市長室の入り口を塞ぐのは鎧の騎士。全身を覆う重層の鎧、古びた大剣はいずれも血まみれ。一見すると人のようでもあるが、モンスターとの戦闘経験を持つフィラの目はごまかせない。兜の奥、鎧の継ぎ目、どこを見ても肉肌らしきものがない。敵は武器と防具だけのモンスターだ。
 「クーザーはあたしの故郷だ___」
 フィラは至極冷静に、中身の無い鎧の化け物を睨み付けたまま、壁に掛けられた剣を取った。細身の刀身は、斬りつけたところで鎧に阻まれて折れてしまうだろう。ただそれでも、彼女は玉砕覚悟で最後まで抵抗するつもりでいた。
 「おまえらみたいな奴の好きにさせてたまるか!」
 フィラの絶叫に呼応するように、鎧の騎士が動き出した。大剣を振りかぶって突進し、小柄な彼女を間合いに捕らえるとお構いなしに振り下ろす。しかしフィラはそれを見切って一歩後方へ飛んだ。剣は都市長のデスクを切るというよりも叩き壊し、弾け飛ぶ木片の中でフィラが軽やかに舞った。
 「うらあっ!」
 砕かれたデスクに飛び乗ったフィラは、ものの見事に細剣を騎士の兜の隙間へとねじ込む!生身ならば一撃必殺。敵は目の周辺から脳まで一突きにされていただろう。しかし、やはり相手は実体がない。
 (やっぱり駄目か!)
 兜に剣を刺したまま、鎧の騎士はフィラに掴みかかる。しかし彼女はすぐさま剣を離し、机を蹴って後ろへと飛んだ。
 「なっ!?」
 だが運がない。降り立ったそこには大きな木片が転がっていた。踏みつけるとそれはグルリと回転し、足を取られたフィラはその場に尻餅を付いて倒れた。
 「!」
 目前では、鎧の騎士が大剣を振り上げていた。
 もうどうにもならない。ついにフィラは覚悟を決めて堅く目を瞑った。
 バンッ!
 しかし、この状況では考えられないような乾いた爆音がフィラを驚かせる。肩を竦めて目を開くと、そこには腹の真ん中に大穴をあけ、糸が切れた人形のように崩れていく鎧の騎士の姿があった。何が起こったのか?状況を理解するよりも先に、彼女は鎧の向こうにいた人物に一層の驚愕を覚える。
 「お、おまえは!」
 「久方ぶりだな。」
 そこに立っていたのは黒い魔女。滑るような黒髪と、黒いマントに白い肌が映える美女。名前はすぐに思い出せなくても、その姿は忘れない。何しろ彼女は、サザビーとの思い出に割って入る顔だ。
 「魔族の___!」
 「ミロルグ。」
 思いがけない救世主である。ソードルセイド近辺の森の奥でひっそりと暮らしていたミロルグが、クーザーの危機に現れた。しかしフィラは彼女とほとんど面識もなく、でも魔族ということは知っているものだから、敵意を消せずにいた。
 「まさか___このモンスターはおまえが!」
 「だったら助けたりはしないよ、サザビーの恋人さん。」
 「うっ。」
 魔女の冷笑にフィラは怯んだ。素早く立ち上がって、転がっていた細剣を広い上げる。
 「気になることがあったんだ。少し前に世界に良からぬ気配が現れた、そしておそらくは強い魔力を持った存在を探していた。」
 「魔力___?」
 「実感がないのかもしれないが、君は強い魔力を秘めている。」
 「あたしが___」
 呪文は未だによく分からない。でも、セルセリアでの修行で自分の魔力を実感することはできた。
 「おそらく、今この街を荒らしているモンスターの狙いは君だ。」
 「あたし!?」
 「確証はない。だがフローラ・ハイラルドは何者かの襲撃を受け、そして敗れたように思う。」
 逐一驚かされる。先程までの笑みを消し、真剣さを増したミロルグの言葉にフィラは絶句した。
 「敵が何者なのか、そして何が目的なのかは私にも分からない。それを探っているうちに、クーザーに強い気配を感じた。私も___サザビーとは浅からぬ関係だから、彼の恋人である君を放っておく気にはなれなかった。」
 語りながら、ミロルグは部屋の入り口に向かって爆発呪文を放った。それは突如として現れたモンスターの顔を、計ったように砕いていた。
 「___分かった、あんたの言うことは信じる。」
 彼女の言葉に偽りはない。そう感じたフィラはミロルグの漆黒の瞳を見つめ、深く頷いた。
 「一緒に戦ってくれ!」
 フィラの差し出した手。ミロルグは彼女の潔さに心地良いものを覚えながら、しっかりと握り返した。気のせいだろうか、ミロルグの手はとても細くてしなやかなのに、フィラの全身には力が漲るようだった。

 一騎当千。ミロルグの力はそれほどに凄まじい。最初は困惑していたクーザーの兵士たちも、彼女がフィラと連れ立って現れ、強力な呪文でモンスターを蹴散らすと「救世主だ!」と歓喜した。
 「なんたることじゃ___これほどの強力な魔力の持ち主がいたとは___」
 ミロルグの登場で形勢逆転。大量のモンスターを召還して街を混沌の坩堝に陥れたザキエルは、大胆にもクーザー市街地のアパートから戦況を見ていた。部屋の中には彼と、なにやら床で羽をばたつかせているオウムが一羽。
 「奴をなんとかせねば、城の乗っ取りもままならぬな。」
 彼は数日前からクーザーに潜入し、フィラの調査と、魔獣召還の用意を進めていた。ただこれほど大がかりな襲撃に打って出たのには訳がある。
 ザキエルの野望はこの世界の王となること。そのために頭知坊を使ってすでに一人目の魔導士フローラを手に入れ、つい先程二人目のニーサが手に入ったことも知った。残す一人が城の主であることを知った彼は、三人目の魔導師フィラを手に入れると同時に、城も奪おうと考えたのである。
 そこに彼の想像を遙かに超えた魔女が現れた。これは誤算である。
 「それにしても___自分から出てくるとはの。」
 ザキエルは一つ指を鳴らした。すると部屋の隅で蠢いていたオウムが、身を翻して飛んでくる。彼のいた場所には鼠の死体が食い散らかされ、色鮮やかな嘴は不気味に血で塗れていた。
 「嬉しい誤算じゃわい。」
 オウムは老翁の肩へと留まる。ザキエルは皺を一層深くして、口元を歪めた。

 一つ念じれば火炎が巻き起こり、二つ念じれば吹雪が吹き荒れる。自然の全てを味方にしたようなミロルグの攻撃は、城に押し寄せたモンスターを次から次へと駆逐する。それでいて彼女の魔力はまだまだ満ち足りていた。
 「よし、もう城は大丈夫だ!次は街をなんとかしよう!」
 自らも細剣を振るって兵団の先頭に立つフィラ。勇ましい彼女の声に兵士たちも意気上がる。ミロルグもまた、フィラと一瞥を交わして頷いた。
 街に繰り出しても彼女たちの勢いは止まらない。大半はミロルグが片づけているとはいえ、彼女の姿に発憤した兵団は、モンスター相手にも挑む勇気と力強さを増していた。
 「危ない!」
 ミロルグの背中に向かって投げつけられた鎌を、割って入ったフィラが巧みに細剣で叩き落とす。すぐさま彼女の肩越しに飛び出した手から白熱球が飛んだ。
 「ブギヒィッ!」
 鎌を武器とする豚顔の化け物が、爆炎に飲まれて消えていく。
 「ありがとう。」
 「お互い様。」
 礼の言葉にフィラは親指を立てて答え、ミロルグもささやかな笑みを見せる。もとはといえば敵同士。それがこうも噛み合うのは、サザビーに好まれる二人だからこそなのか。
 「さあ次!」
 「フィラ様!」
 闘志に燃えるフィラの元へ、自警団の兵士が血相を変えて駆けてきた。
 「きょ、教会が狙われています!あそこには子供たちが___!」
 女子供の逃げ場は教会と相場が決まっているもの。それは神に救いを請うためであり、また略奪者の罪悪感を誘うためだ。だがモンスターたちは神も敬虔な僧侶も恐れはしない。美味しそうな肉がこぞって逃げ込む場所ならば、我先にと襲いかかるものである。
 「ミロルグ!私たちもすぐに追うから、先に教会を!」
 「分かった。」
 ミロルグの体が淡い輝きに包まれると、彼女の体は苦もなく舞い上がり、凄まじい勢いで宙を滑り出した。
 「凄い___って、感心してる場合か!私たちも行くぞ!」
 その様にあっけにとられながらも、フィラはすぐに我に返ってミロルグを追った。

 (あたしもお人好しになったものだ___まあ、敵の正体が気になるというのもあるが___)
 滑空しながらも行く手を阻むモンスターをことごとく呪文で仕留め、ミロルグは自嘲の念を抱く。それでも決して悪い心地がしなかったのは、自分もすっかり人の世に慣れてしまったということか。
 (見えた、あそこか___)
 時計塔の角を曲がると、正面に荘重な教会が現れた。分厚そうな木の大扉が閉じられ、そこにモンスターが殺到している。頑丈そうな扉ではあるが、あの様子では破綻は時間の問題か。
 「くっ___」
 ミロルグは加速する。しかし彼女が駆けつけるよりも早く、扉は破られた。甲高い悲鳴が耳を劈く。我が子を失う痛みを知るミロルグは、一つ唇を噛んでから怒りを込めてその手を輝かせた。
 「コンドルサイス!」
 だが怒りの中でもミロルグは冷静さを失わない。コンドルサイスは鋭利な風が宙を飛び回り、狙った獲物を切り裂く呪文。広範に威力を発揮する呪文を避けたのは、教会に隠れる人々を巻き込まないためだ。
 「邪魔だ!」
 血飛沫を上げて倒れるモンスターたちを蹴散らし、突破口を作ったミロルグは一気に教会の中へと進入した。すぐさまそれを追って乱入してくるモンスターの前に立ちはだかると、今度は加減もせずにその手を輝かせる。
 「ドラギレア!」
 周囲まで灼熱に変える究極の火炎呪文ドラギレア。それを稀代の魔女は凝縮された火柱に変えて放った。彼女の背後ではまだ何が起こったのか理解できないシスターと子供たちが震えていたが、熱風が彼らを痛めつけることは決して無かった。
 「私が敵を引きつける!すぐに兵団が来るはずだから、ここを出て彼らに救いを求めろ!」
 突然の出来事に茫然自失としていたシスターは、彼女の怒声に我に返る。
 「あなた様は___」
 「私?どうでもいいことだ___さあ、早く去れ!」
 「___分かりました。あなたに神のご加護がありますことを!」
 それからすぐに、シスターは泣いたり喪心したりしている子供たちをまとめ上げ、教会の奥へと導いていく。最初は混乱していた子供たちも、神の使いの母性に導かれるように動き出した。
 「神のご加護?このあたしに?」
 ドラギレアの炎を止め、ミロルグは苦笑する。だが周囲にいくつかの骸が転がっているのを見ると、自然に笑みは消えた。骸は一人の老神父と、数人の子供たち。雪崩込んできたモンスターの前に、神父が盾になったことは明らかだった。
 「勿体ない。神の加護は、彼らのためにあるべきだった。」
 ミロルグの視線が再び険しいものへと変わる。炎が止まったと見るや押し寄せてきたモンスターに向かい、またもその手が輝いた。
 ディオプラドの爆破が教会の入り口からモンスターを吹き飛ばす。その一瞬、爆炎の狭間に駆けてくるフィラの姿を見たミロルグは、長い瞬きをして一念を込めた。
 「えっ!?」
 教会の入り口の激闘に目を奪われていたフィラは、突然のことに足を止めた。
 「どわぁぁっ!止まれぇぇいっ!」
 彼女の後に続いてきた兵団も慌てて足を止め、先頭の兵士の踏ん張りで何とかフィラを押し倒すには至らなかった。
 「みんな!子供たちは教会の裏口から逃げ出している!私たちで保護するんだ!」
 そう言い放つとフィラは再び駆けだし、兵団も慌ててその後に続いた。
 (今の、ミロルグの声だよな?)
 フィラは知らない。先程、都市長室で握手を交わしたとき、ミロルグにちょっとしたきっかけを与えられていたことを。あの時ミロルグは彼女の秘められた魔力を知り、それに感応する方法を知った。だからこそフィラに対して、テレパシーのように念を飛ばすこともできたのだ。
 子供たちは教会の裏口から外へ出る。保護してくれ___と。

 教会の入り口。ミロルグは時折背後を振り返るが、それはまだ聖堂の隅で何人かの子供たちが動けずにいるからだ。子供たちはシスターに宥められているが、恐怖のあまりしゃがみ込んだきりだった。
 「まだか!?」
 ここで壁になり続けることに体力的な問題はない。だが彼女の力が必要なのはおそらくここだけではないだろう。もとより敵の狙いがフィラ・ミゲルであることを思えば、いち早く彼女の側へと飛びたいところだ。
 「どうかもうしばらく!」
 しかし彼女の怒声が子供たちを一層怖がらせたか、シスターは哀願するような目でミロルグに訴えた。だが眼差しは交錯しない。ミロルグの視線が、聖堂の壁に釘付けになったからだ。
 (まずい!)
 身を翻したときには轟音とともに壁が打ち破られ、彼女の手が輝くよりも早く、シスターが瓦礫ごと熊のようなモンスターの腕に打ち拉がれていた。
 氷の刃が飛ぶ。しかしその時にはすでに、三人の子供が無惨にも犠牲となっていた。
 「ガァァッ!」
 氷の刃が熊の目を、口内を捉える。重低音の悲鳴とともに熊は倒れるが、壁の穴から、そして妨げがなくなった入り口から、モンスターは一気に押し寄せた。
 「くっ!」
 熊の傍らを染めるシスターと子供たちの亡骸。血の池に茫然自失となりながらもただ一人、黒髪の少年が生き残っていた。せめて彼を救い出し、この教会は諦めよう。そう決意したミロルグは構わずに少年を抱き起こした。
 「さあ気をしっかり持って。私と一緒にここを逃げ出すの。」
 怖がらせないように。モンスターの足音と殺気を肌に感じながら、ミロルグは少年の体をその胸に抱いて、言った。
 「助けてくれるの?」
 少年が消え入りそうな声で呟く。弱々しい、だが意識はしっかりしている。それがミロルグを安心させた。
 「そう、助けてあげるから。」
 警戒を奪い去った。
 「ありがとう。」
 そして、少年のべたついた笑みに愕然とするのだ。純朴とはほど遠い、知恵者の顔を目の当たりにして。
 「!」
 鈍い音とともに、ミロルグの口から血が溢れた。彼女の右胸には煌めく氷の刃が食い込んでいた。その出所は、彼女が抱き留めた少年の左手。母を求めるように乳房に押し当てられた小さな左手だった。
 「ふふっ。」
 無邪気な微笑み。それが残虐の色を帯びると、ミロルグは激痛に目を見開いた。鋭い氷柱が彼女の背へとその切っ先を覗かせる。水色の氷に、血の彩りを交えて。
 「っ___」
 再び鮮血を吐き出し、少年の顔を濡らす。しかし少年は、むしろ心地よさそうに暖かな血を浴びていた。
 「!」
 その時、ミロルグがカッと目を見開いた。傷は深い、それでも魔族たる彼女はまだ朽ち果てない!
 その抵抗は少年を驚かせた。しかしそこまでだった。
 「キァァァァァァッ!」
 彼女が見たのは、魔力を放とうとする己の前に現れた色鮮やかなオウムだった。耳を劈くような甲高い声が全身を駆けめぐると、なぜかしら、彼女でもどうにもならない苦悶の嵐が身中を駆けめぐった。
 「あぁぁあああっ!うあぁあ!ぐぅぅああああっ!」
 弾けるように少年から離れ、右胸に開いた穴から血を溢れ出しながら、ミロルグは陸に上げられた魚のようにのたうち回る。彼女の体からは血煙のような赤い霧が吹き上がり、それが大気に紛れて消えた頃には、ただ血の海の中で微かに痙攣する魔女の姿が残るだけとなった。
 「クハハハ。魔力の高ぶった状態でカルコーダの声を浴びては立ち上がれまい。」
 高笑いしながらやってきて、老翁はその様を見やる。彼が現れるとあれほど荒れ狂っていたモンスターたちはまるで石像のように沈黙し、カルコーダと呼ばれたオウムも整然とその肩に舞い降りた。従順である。それはこのモンスターたちがザキエルに召還されたことを意味している。
 「闇の怪鳥カルコーダ。その声を聞いた魔導士の魔力は己の体に逆流し、自らを内から滅ぼす。いやそれにしてもこれほど傷つくとはたいした魔力じゃ。」
 「右胸に穴を開けました。しぶとい女ですけどこのままなら死にます。」
 従順な下僕たちの沈黙を断ち切って、言葉を発したのはあの少年だった。
 「うむ、こやつこそこれまでで最高の獲物じゃ。殺すのは惜しい。」
 「僕の手柄ですよ。」
 「おおそうじゃな。」
 少年はザキエルの前では無邪気だった。鼻を高くして胸を張り、老翁の骨が浮いた手で頭を撫でられるとニッコリと笑った。
 「フィラという奴も捕まえてきます!」
 少年は小躍りするようにして教会から駆け出していく。
 「おお、しっかり頼むぞ。」
 ザキエルはそれを老人らしい板に付いた笑顔で見送った。しかし彼が消えると、それはすぐに策士の冷笑に変わる。
 そして呟くのだ。
 「いや、前言撤回じゃ。もう一人最高の獲物がおったわい。」
 と。

 「なんてこった___ミロルグが___あのミロルグが___!」
 その時、フィラ・ミゲルは動揺しきっていた。ただ事実を受け入れられずに、臭いのきつい排水路の奥で身を縮めていた。
 なぜそんな状態になったのか。それは彼女の脳裏に響いた、魔女の叫びがそうさせた。
 「___私は敗れた。少年に気をつけろ___おまえは生きて___反抗の獅子となれ___!」
 そのテレパシーを受け入れ、理解するのには時間がかかった。だがそれがミロルグの声であり、「私は敗れた」という一言に込められた意味を受け入れると、フィラは慄然とするしかなかった。
 兵と子供たちは、おそらくもうクーザーの外まで逃げ仰せただろう。だが自分は、都市長として最後までここを離れることはできない。だから踵を返した。そしてミロルグの声を聞き愕然としながら、それでも彼女は野性的な感覚で「身を隠す」という手段に打って出た。助けにいくのではない。逃げたのは、彼女の直感が危険を察知したからだった。
 誰よりも勝手知ったるクーザーの町。絶対に見つからないと自信を持って言える場所にフィラ・ミゲルは潜んだ。モンスターたちはミロルグが言っていたように、それからも彼女を捜しているようだった。しかし日も落ちたころには、その足音も聞こえなくなる。
 代わりに轟いたのは老翁の声。
 「私は魔王ザキエル!世界を制する者なり!」
 この日、女帝国家として栄華を極め、国家が排斥されてから今もなおその系譜を次ぐ海洋都市クーザーは、魔の手に陥落したのである。




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