1 アレックス

 暗がりの中、水晶を睨む一人の老翁。蒼い炎に囲まれ、青白い顔に死相のような凄みを滲ませて、彼は水晶の奥を覗き込んだ。
 「誉れ高き魔道の才を持つ者___」
 老翁は念じるように呟く。すると水晶は朧に輝きだし、彼の顔に刻まれた皺を一層際だたせた。
 「む___」
 水晶は答える。老翁がつかず離れずしていた掌を輝ける水晶に押し当てると、問いかけへの答えが流れ込んできた。
 北の聖地の巫女、ニーサ。
 海洋都市の長、フィラ。
 類い希なる魔力と慈愛の心を持つ聖女、フローラ。
 そして___
 それから老翁は手を離す。立ち上がり、水晶を懐にしまい込んで、蒼い蝋燭を手に歩き出した。そこは洞窟か。黒々とした岩盤を踏みしめて進んだ先は広い空洞になっていた。
 「待たせたな、仕事が決まったぞ。」
 空洞を蒼い炎が照らすと、なにやら空間に白いものがいくつも煌めいた。天井から滴る水滴が触れると、その煌めきははっきりとした形を浮かび上がらせる。
 それは蜘蛛の糸。
 「何度も言うようじゃが、おまえはわしの言う通りに動け。そうすればわしらはこの世界で王になれる。おまえだけでは無理じゃ。おまえの力とわしの知恵があるからできる。分かるな?」
 「___おうよぉ。」
 蜘蛛の巣の中央に居座る黒い塊が顔を上げ、冷たい目つきで答えた。
 その頃、北の雪深い森の中では___
 (探られた___)
 ミロルグが編み物の手を止め、美しい顔に怪訝な色を滲ませていた。
 そして日差し暖かな絶海の孤島では___
 (うさんくさい奴が出てきたな___)
 稀代の魔道師アモンが小さく舌打ちをしていた。

 「キャッキャッ!」
 「可愛いなぁ!」
 愛息の前で顔を隠し、とびっきりのへんてこな顔を飛び出させる。愛息は満面の笑みになってライを喜ばせた。
 「あ、あれ?」
 ところが、さっきまで笑顔だった愛息はたちまち泣き顔に。そして声を上げてぐずり始めた。
 「どうしたのかな___お〜い。」
 「赤ん坊に聞いてどうするのよ。」
 悪戦苦闘している亭主を助けに、フローラが苦笑いしてやってきた。
 二人は大いなる幸せを謳歌している。フローラが出産のために医学の仕事を休んだことで二人の関係はより密なものになり、アレックスの誕生で決して崩れることのない絆となった。
 ソアラと百鬼、サザビーとゼルナスの関係が乱れたことは確かに二人を怖がらせたが、それも過ぎたことである。
 「可愛いねぇ。」
 「もちろん!だって私たちの子だもの。」
 「そうだよね!」
 夜。ようやく寝付いてくれたアレックスを見つめ、ライはニッコリ笑ってフローラの肩を抱いた。するとフローラも優しく微笑み返す。
 「なんだか嘘みたい。」
 「なにが?」
 「あたしたちがこうしていること。」
 「そうかな?」
 「だって、あたしたちはアヌビスと戦っていたのよ。こんなに幸せな未来があるとは思わなかった。」
 「僕がいたのに?」
 「ふふっ。」
 笑顔のまま二人は見つめ合い、フローラは目を閉じる。いまだにこういう場面では体が固くなるライは、ギクシャクしながらフローラの額にキスをした。キョトンとして目を開けたフローラに、ライは頬を赤くして笑った。
 「へへっ、子供の前だから駄目。」
 「偉い偉い、さすがはお父さん。」
 「うっ___お父さん?」
 初めての響きにライは口籠もった。フローラはその反応を楽しむように、ライの鼻先を指でつつく。
 「そうよ、お父さん。」
 「じゃあフローラはお母さん?」
 フローラは優しく微笑んで頷く。それから二人は意味もなくお父さんお母さんと呼び合って楽しんでいた。些細なこと、それでも今の二人には最高に幸せなときだった。
 一寸の先に悲劇が待っているなんて、微塵にも思わなかった。

 アレックスから目を離してはいた。しかし側を離れたわけではない。それなのにアレックスが泣き出すまで、二人は魔の手の侵入に全く気が付かなかった。
 「えっ!?」
 二人は我が目を疑った。アレックスの体が宙に浮いているのだ。
 「こ、これは___!」
 アレックスの体はスルスルと、家の天井に縛り付けられるようにピタリと張り付いた。あまりのことに絶句しているのも束の間、豪快な音と共に愛息のすぐ隣の天井を拳が突き破った。間髪入れずに、開いた穴から大量の糸が舞い込む。
 「危ない!」
 それはライとフローラにも襲いかかり、本能的に危険を察知したライは彼女の肩を抱いて飛び退った。
 「アレックス!」
 しかし愛しき我が子は大量の糸の中。フローラは悲痛な叫びを上げた。
 「外に出よう!糸は屋根から来ている!」
 こと戦闘になればライの頭は円滑さを増す。次から次へと入り込んでくる糸を始末するのではなく、扉を蹴破る勢いで外へと飛び出す。腕の主を捕らえるのが先決という素早い判断だった。
 「アレックス!?」
 助けを求めているだろう赤ん坊の声が辺りに響き渡る。二人は鬼気として屋根を見上げた。
 「ぐふっ。」
 そこに仁王立ちしていた巨体は、懐に幼い命を抱いて不敵に笑った。太めの体、丸顔、はげ頭、ひげ面、ただそんな顔かたちよりも二人の驚きを誘ったのは奴の腕が四本だったこと。
 ライとフローラはこの男を知らない。しかしこれは紛れもなくアヌビスに招聘された妖魔、頭知坊である。
 「おまえは誰だ!アレックスを離せ!」
 ライは烈火のごとく怒鳴ったが、頭知坊は聞く耳持たず、屋根を蹴るとすさまじい大跳躍で一気に二人を飛び越えた。
 「待て!」
 巨体に似合わぬ速さで駆け出した頭知坊。その行く先にはカルラーン位置の大通りが広がっている。ライは一つ舌打ちし、フローラと共に四本腕の影を追いかけた。
 「な、なんだ!?」
 「うわっ!」
 「きゃあああっ!」
 カルラーンの大通りには夜といってもまだ多くの往来がある。そこに現れたのが化け物じみた四本腕の男。しかもそれが斧を振るい邪魔する者を粉砕したとあっては、大混乱は必至だった。この混乱に乗じてより一層遠くへ逃げることもできただろう。しかし頭知坊は人々の叫声を楽しむようにそこで足を止めた。
 「待て!」
 一瞬遅れてライとフローラが追いついてきた。立ちつくす頭知坊の背中に好機と感じたライは、剣を振りかざして突貫する。彼の能力を知らないのだから無理はない。しかし、その行動は頭知坊の思う壺である。
 「!?」
 唐突だった。ライの足は地面にピタリと張り付いてそれ以上動かない。勢い余って前のめりに倒れ、地面に手をつくと今度はその手が離れない。一帯に接着剤でも塗されたかのようだった。
 「こ、これは___!」
 自らも罠に落ち、フローラは狼狽した。よく見れば通りいっぱいに不気味な煌めきが走っている。
 「糸!?蜘蛛の巣___!」
 そこには巨大な蜘蛛の巣が張られていた。逃げようとして巣の餌食になった人々が、苦悶の叫びを上げる。
 「!」
 口惜しげに糸を睨み付けていたフローラはゾッとした。己の影がさらに大きな影に塗りつぶされたのだ。
 「グフフ。」
 ハッとして顔を上げ、目前の頭知坊を見るとフローラは身震いした。しかしすぐに傍らのアレックスに目を奪われ、恐怖は吹っ飛んだ。
 「せっかくだからなぁ、おまえも貰っていく。」
 「フローラ!?」
 敵がフローラを狙っている。ライは何とか糸から手足を離そうとするがままならない。とくに手は無理に引きはがせば皮が破れそうだった。
 「___あなたはいったい何者なの!?」
 頭知坊の無骨な手がフローラの腕をつかんだ。加減を知らない握力に顔をしかめたフローラは、それでも強いまなざしのまま問いかける。
 「なぜアレックスを奪うの!?」
 なんたる余裕。片手にフローラ、片手にアレックスを捕まえて、頭知坊は残された二本の細腕で禿頭を掻いた。そして悠長な口調で答える。
 「___魔力だったかなあ、それが強い奴を浚うんだ。そうすれば俺たちは王様になれるんだとよぉ。」
 俺たち___つまり敵が一人でないことは分かった。しかし魔力が強い奴を浚うといって、なぜアレックスなのか?いや、私を浚うための人質か。混沌としながらも、フローラは我が子の奪還へ動き出した。聞くことはもう聞いたのだ。
 「そう___でもそうはさせない!」
 フローラの掌が目映く輝くと、切れ味を伴った風の刃が球体となり、頭知坊を襲った。風の呪文、シザースボールである。面食らった頭知坊の腕に風の刃が食らいつき、フローラを掴む手が開いた。逃れた彼女はすぐさまその手を天に翳す。
 「ディヴァインライト!」
 通りに真っ白な光が広がる。それは浄化の輝きを以て、不浄の蜘蛛糸を威力を弱めた。消し去るには至らない、しかしライが力任せに体を引き剥がすには十分だった。
 「はああ!」
 気合い一閃!ライは手にした剣を抜き放つと、頭知坊の背中に斬りかかった。
 グニャァッ!
 しかし剣は大男の背中を捕らえるには至らない。四本腕のうち細い二本が柔軟に反り返り、その狭間に幾重もの糸が張りつめると、ライの剣を受け止めたのである。
 「くっ!?」
 そればかりではない。剣は若干糸を切り進んだことで粘着質の中に埋もれ、ピクリとも動かなくなってしまったのだ。
 「この!」
 頭知坊の背中を蹴飛ばして剣を引き剥がそうとするライ。だが危機はすぐそこにある。しばらく戦いから離れていたせいか、彼は頭知坊の四本腕のうちの一本が空いていることを忘れていた。
 「ライ!」
 気付いたのはフローラが悲痛な叫びを上げたその時である。頭知坊の太い腕が背中まで柔軟に撓り、その手には無骨な斧が鈍い光を発していた。
 「っ!」
 ライは咄嗟に体を捻ると、糸に捕らえられた剣を盾にするように回り込んだ。しかし斧は剣をへし折って彼を襲う。ライの体を守るものは、もう己の肉体しか無くなっていた。
 ライが飛んだ。惨たらしい血しぶきを上げ、歯を食いしばったまま通りの端まで吹っ飛んだ。
 「ライ!」
 建物の壁に激突して喘ぐライの右腕から血が溢れている。剣の盾が功を奏したか、威力の半減した斧を彼は腕一本で食い止めた。しかし骨が露出するほどに食い進められた腕では、失血だけで命に関わる。フローラは慌てて彼に駆け寄ろうとするが、頭知坊の細腕から伸びた糸が彼女の体に巻き付いた。
 「うむぐっ___!?」
 そればかりか彼女の口、鼻、目を塞ぐように、糸は恐るべき速さで巻き付いていった。顔がすっかり糸で覆われた頃には、フローラも膝からその場へと崩れ落ちてしまった。
 「でかした!戻るぞ!」
 揺らぐ意識の中で、ライは魔獣に乗って舞い降りた老翁の姿を見た。老翁はフローラを担ぎ上げた頭知坊に手を触れて、あっという間に消えてしまった。
 「く___」
 彼はその老翁を知らない。それが天界で百鬼たちを苦しめた老将ザキエルだということなど、知る由もない。敵の正体も分からず、ただ口惜しさにまみれ、ライの意識は途絶えた。
 頭知坊とザキエル。二つの邪悪によって、若い夫婦の幸せは踏みにじられた。しかし忌々しきこの二つの邪悪は、なぜ中庸界にいるのか。それはあまりにも不幸な偶然の結果であった。
 頭知坊とザキエルは、冬美の手で天界の無限の空に葬り去られた。しかし天界の空の中には、いずこへかと続く魔導口のような空間がある。現にソアラも、その空間を使って黄泉へと飛んだ。つまり、頭知坊とザキエルが落ちた空の果てにもその空間があったのだ。
 そして彼らは驚くべき幸運で、中庸界へ落ちたのである!

 薄暗い洞窟の奥底では、滴が岩を打つ音ばかりが良く響く。そこは広く、滑りを帯びた鍾乳石の狭間では、水の珠がキラキラと光っていた。その煌めきは、巨大な蜘蛛の巣を浮き立たせ、またその中央に、力無く貼り付けられた女の凄艶さを際だたせた。彼女の服が多少なりとも裂け、朧に光る白肌が露出していることで、それは一層際だつ。
 バシャッ!
 気を失うフローラの体に冷たい水が浴びせかけられたのは、それから暫くしてのことだった。
 「う___」
 身の毛のよだつような冷気にフローラは震え、目を覚ました。息を詰まらされたせいか、目覚めてすぐは視界がぐらつき、意識もすぐにははっきりしなかった。
 「起きろ〜。」
 「!」
 だがうなじの辺りに吹きかけられた生ぬるい吐息が、彼女を一気に覚醒させる。振り返ろうと身をよじったが、蜘蛛の巣に貼り付けられた体は全く動かなかった。しかし自分の背中の辺りでは、大きな存在感を持った何かが軽やかに動いている。その衝撃が伝わるたびに、フローラは言葉にできないほどの恐怖に襲われた。しかし母は強しか、アレックスのことを思い出すと彼女の態度は一変した。
 「アレックスは___赤ん坊はどうしたの!?」
 「俺はしらねぇ。ザキエルが持っていった。」
 太い声は先ほどの喧噪で聞いたもの。もとよりこの蜘蛛の糸だ。彼女の背中にいるのはあの大男に間違いないだろう。
 「あなたは何者なの?何故私たちを___!」
 言うな!とでも念を押されているのだろう。頭知坊は急に黙りこくってフローラの背中の辺りを何度か動き回った。
 「答えなさい!」
 相手は言葉の問答が得意でないと悟り、フローラは強く問いかけた。すると頭知坊は糸の狭間を抜け、裏から表へと移動してきた。フローラの目にも蜘蛛の巣を四つん這いで動き回るの大男の姿がはっきりと見えた。少し離れたところで彼女を見る目は、女ならば背筋に冷や汗を感ぜずにはいられないものだった。それでもフローラは恐怖を押し殺して、彼を睨み付けた。と、緊迫した対峙に似つかわしくない言葉を頭知坊が口にする。
 「おまえすごく可愛い___」
 「え___?」
 蜘蛛の跳躍は速い。八つの足で一気に地を蹴って飛ぶ蜘蛛は、一飛びで身の丈の何十倍もの距離を進む跳躍の名人でもある。頭知坊もそれは全く同じ。突然、巣の上をひとっ飛びにフローラへと覆い被さってみせた。
 「おまえの匂いはとても気持ちがいい___」
 醜い顔を恍惚に歪めて言うと、頭知坊は構わずにフローラの服を引き破った。身動きの取れない彼女に許される抵抗は声だけ。甲高い悲鳴が洞窟を劈いた。
 「おまえの匂い___母親の匂い___」
 頭知坊は露わになったフローラの乳房を鼻先が触れるほどの距離で凝視する。母であるが故に豊かになった流線の醸す甘い香りは、彼を惹きつけてやまなかった。フローラは羞恥のあまりに言葉を失いながらも、怒りを込めてその両手を輝かせた。
 「!?」
 しかし高ぶる魔力は呪文にならない。そればかりか壮絶な脱力感と共に魔力が掌から引きずり出され、白い輝きとなって___今更その存在に気づいたが、洞窟の中に掲げられた巨大な黒い水晶へと流れ込んでいった。
 「頭知坊!」
 その時、激昂の声が轟いた。頭知坊は肩を竦めて、フローラの胸から顔を離す。
 「何をやっておる!貴様は知能も獣以下か!?すぐにその女から離れい!」
 老翁ザキエルが額に血管を浮き上がらせてやってきた。頭知坊は叱責の言葉に平伏する様子ではなく、渋々フローラから離れた。
 「貴様はわしの邪魔をするつもりか?事が済めばその後で好きにさせてやるから、今は我慢しろ。」
 「へいへい。」
 頭知坊は生返事でザキエルと入れ違いに歩み、それでも時折振り返っては物欲しそうにフローラの肢体を見ていた。
 「あなたたちは何者なの___」
 羞恥はかなぐり捨てるしかない。フローラは白肌を露わにしたままで、頬を赤らめもせずにザキエルに問いかけた。
 「おまえはもう日常には帰れぬ。そんな女に話して何になる。」
 「私はかつてアヌビスと戦った女よ。」
 その言葉はザキエルを驚かせた。それほどの実力者がいたとは予想外だが、彼にとっては嬉しい誤算。自然と沸き上がる笑みに、口元をつり上げる。
 「それは何よりじゃ。それ程の魔導の才を持つ者とは、いや実に結構。」
 「アレックスはどうしたの?」
 「おまえの子じゃな。案ずるな、殺しはせぬ。だが良いように使わせてはもらう。」
 「良いようにって___」
 「あの赤子はたぐいまれな魔力を秘めている。」
 「!?」
 フローラの気丈に翳りが走る。驚愕の後、アレックスの全てがこの老翁に握られているかと思うと顔は蒼白になり、眼差しは抵抗から哀願へと変わっていった。
 「アレックスには手を出さないで___私はどうなってもいいから___」
 その願いをザキエルは鼻で笑う。
 「私は___ではないのう。わしはおまえもあの赤子も好きなように使う、そういう事じゃ。」
 ザキエルの笑い声にフローラは唇を噛みしめる。こみ上げる怒りが無意識のうちに彼女の魔力を高めた。
 ズオオッ!
 まただ。フローラの掌から白い輝きが引きずり出され、黒水晶へと流れ込んでいく。それとともに彼女の体は壮絶な脱力感に襲われた。
 「かはっ___!」
 光が途絶えたその時、フローラは顎を突き上げて呻く。黒髪を振り乱し、白い肌に汗の滴を滲ませて項垂れた。
 「かなりの魔力じゃな。これならば上級の魔が召還できる。」
 「___召還___?」
 フローラはゆっくりと顔を上げて問うた。ほんの少し前とは別人のように、顔つきには疲労感が滲んでいた。
 「わしは古来の魔獣を召還し、従僕として使う。しかし強力な魔獣を召還するにはより強大な魔力が必要じゃ。わし一人ではたかが知れている。だからこそ、優れた魔力を持つ者が欲しかった。それがおまえじゃ。」
 フローラは察した。あの水晶が魔力の吸収器。おそらくあれを用いて集めた魔力で、ザキエルは強力な魔獣を呼び出すのだろう。
 「___もう一度聞くわ___」
 ようやく息も落ち着いてきた。身動きを封じられ、魔力まで支配されては抗う手段などない。だがそれでも希望を捨てるつもりはない。ライはきっと無事だ。それにこの世界には、まだ強い心を秘めた仲間がいる。だからフローラはここから逃れるための努力は怠らないし、それが適ったときのために、敵の正体だけは掴んでやろうと心に決めた。
 「あなたたちは何者?そして何をしようとしているの?」
 熱の籠もった問いかけに、ザキエルは鼻を高くして口元を歪める。汗に濡れた半裸の女が、吊されながらもなおも気丈に問いかけてくるのだ。その殊勝な心がけに老翁の心も擽られた。
 「わしはザキエル。おまえを浚ったのは頭知坊。わしらは別の世界で戦っていたが、全くの偶然でこちらの世界に降り立った。」
 覚悟に免じてやるというところか、先ほどは一蹴した問いかけに対し、ザキエルは蕩々と答えた。
 「しかし驚いたわい。なにしろ飛ばされた先があまりにも脆い世界じゃったからのう。力のある者を探ってみたところで、魔導士とおぼしき者さえ片手で足りる程でしかない。いや、実に軟弱じゃ。アヌビス様のために身を尽くしてきたわしじゃが、これには野心を擽られた。この世界なら___わしでも王になれる___とな。」
 フローラの瞳にギラギラとした視線を浴びせ、ザキエルは踵を返した。邪悪な息吹と、嗄れた哄笑を蜘蛛の巣にはべらせて、彼は立ち去っていく。フローラはただただ、その姿が見えなくなるまで、覇邪の意志を消すことなくザキエルを睨み続けた。
 「___くっ___」
 しかしザキエルの影も消え、洞窟が深い静寂に落ちると彼女の覇気も潰える。疲れ切った顔で深く俯いたその頬を、一筋の涙が滴っていた。それは恐怖か?絶望か?
 「___」
 いやこの程度、アヌビスとの対峙に比べれば恐怖の内に入らない。ただ、乳房が熱くなるのがあまりにも切なくて、泣かずにはいられなかったのだ。
 「アレックス___」
 今はただ祈ることしかできない___掛け替えのない我が子の無事を。




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