2 動揺

 ソアラたちが七年のアポリオに入ってから、ほぼ半日が過ぎた。空はすっかりと闇に落ち、夜更けとともにエコリオットの神殿も静けさに包まれていった。
 「___」
 眠らないことに慣れている竜樹は、疲れた体に鞭打って神殿を象る大樹の枝に立ち、バルカンの世界の方角を睨み付けていた。監視役は彼女が買って出たことだった。
 「お疲れ。」
 思わぬ声がした。振り向くとかつて竜樹を嫌っていたはずのルディーだった。成長した彼女の容姿はソアラに良く似ていて、竜樹もすこし戸惑うほどだった。
 「話いい?」
 遠慮のない態度も良く似ているが、竜樹はそれくらいの方が好みだった。
 「いいぜ。でも珍しいな。俺のこと嫌いだろ?」
 「嫌いよ。でも父さんが命がけで守った人だから、妥協してあげる。」
 「言うねぇ。」
 気の強さはむしろソアラ以上だ。竜樹は苦笑して枝に腰を下ろし、ルディーもその隣に座った。
 「竜樹さんってさぁ___」
 「今更なんだよ、呼び捨てにしろ。」
 「なら竜樹ってさぁ、父さんのこと愛してた?」
 「あ、愛!?いやぁ、愛っていうかなんというか、大好きではあったけどよ___」
 「あ〜もういいよ、分かった。がさつなあなたがドギマギしちゃうんだからホントに愛してたんだね。」
 「___いちいち一言多いな。」
 「父さんもあなたのことは好きだったみたいだし、愛してくれる人を守るなんて父さんらしいから、納得。」
 竜樹は首を傾げた。
 「どうかな、百鬼は俺を気に掛けてはくれたけど___」
 「お、がさつ見えて意外に敏感。」
 「てめえ___」
 「確かに父さんが本気で愛していたのは、母さんとあたしとリュカとあたしの心の師匠だけだと思う。でも誰かが愛してくれたことには全力で答えるのが父さんだから、あたしはあなたのことを恨みはしないし、後悔もしない。それが父さんの正しいと思った道だもの。あたしは父さんの正しいと思った道は正しいって信じてるから。」
 ルディーはにこやかとは言わないまでも、晴れ晴れとした顔だった。もしかしたらずっと心の内に秘めていた葛藤だったのかもしれない。それが七年の時を経て、心身共に成長したことで、竜樹に抱いていた憎悪をかき消せるまでに至り、それを伝えることで自分に踏ん切りを付けたかった___のかもしれない。いずれにせよ、彼女はすっきりとしていたし、竜樹も今のやり取りを嬉しく思っていた。
 「握手してよ。」
 そう言って手を差しだしたのはルディーだった。
 「どんとこい!」
 竜樹は力強く握り返す。そして二人は見つめ合い、ニタニタと笑った。
 「でもなんで急に?」
 「う〜ん、なんか心の師匠がいないと竜樹って居場所なさそうだなぁと思って。今だってみんなといるよか一人でいたいんでしょ。」
 「___へいへい、そうですよ___ったく小憎ったらしいガキだな。」
 「もうガキじゃないよ〜。あ、ところでさ、リュカのこと好き?」
 「はぁっ!?」
 竜樹が素っ頓狂な叫びを上げる。しかし顔は耳から見る見る赤く染まっていった。
 「あぁわかったわかった。全力で好き、と。」
 「待て待て!」
 「隠さないでいいよ、リュカは竜樹のことが好きだから。」
 「!___」
 「って、お互い分かってるくせにウブなのよねぇ。そういうとこもそっくり。」
 「てめえ大概にしろよ!」
 「怒らないの。何かあったら言ってよ、それなりに手は貸すからさ!」
 「おい!」
 そう言ってルディーは別の枝に飛び移った。竜樹は苛立ちつつも面白がりながら彼女を掴まえようとしたが___
 「どした?」
 ルディーの顔つきが一変していた。そして見るのはバルカンの世界。
 「!」
 竜樹もそちらに目を移す。しかし夜空を接近する輝きは無い。
 「バルカンか?」
 「違う___たぶんレイノラさんか、心の師匠の魔力。」
 「冬美か?様子見から帰ってきたのか?」
 日差しがないので無意味だが、竜樹は額に手を翳してよく見てみる。暗闇に慣れている妖魔の瞳にも映るものはなかった。
 「どうかな___ちょっと違うような___敵ではないと思うけど___」
 「なんだそりゃ。あ、そうだ。」
 何かを思いだして、竜樹はルディーを振り向いた。
 「あによ。」
 いかにも邪険な顔をするルディーに軽く苛立ちながらも、竜樹は気になっていた質問を投げかけた。
 「さっきからなんで心のってつけるんだ?師匠でいいじゃん。」
 「だいぶ前に弟子にしてもらったけど、直接は何も教わってないからよ。あたしが勝手に手本にしてるだけだから、心の師匠。悪い?」
 いちいち一言多いのが玉に瑕だが、口を尖らせて照れ隠しに必死な姿を見ると、口の悪さも愛嬌に思えるから不思議だ。
 「あ〜、そういうの俺も百鬼に思ってた。でも俺は教わってるから言えるぜ!俺の刀の師匠は百___!」
 「来た!」
 「ぃぎっ!」
 ルディーが飛び出すと、衝撃で折れた枝が竜樹の頭を直撃した。豪快に舌を噛んだ彼女を後目に、ルディーは空を睨む視線を一層険しくした。
 「闇!ならレイノラさん___!?」
 夜空に溶ける黒は目で見ようとしても定かでない。しかし力は確かに存在していた。その輪郭は見る見るうちに大きくなって迫ってくる。
 「違う!」
 闇に包まれた力の質を感じたルディーはおもむろに両手に魔力を灯す。
 「てめぇルディー!」
 「ごめんね、わざと。それよりほら、あたしが闇を止めるから竜ちゃんは中の人を受け止めて。」
 「りゅ、竜ちゃん?」
 「いずれは義理の姉妹だもん。仲良くしないとね〜。」
 そう言うなりルディーは魔力を高ぶらせる。
 「ホーリーブライト!」
 唱えたのは輝かしい光の呪文。ジェイローグの血を引く一族らしく、浄化呪文の輝き一つでもフローラやミキャックのそれとはレベルが違った。
 パァァァ!
 光は迫り来る闇の波動と溶け合い、ものの見事に打ち消していく。エコリオットの神殿に突っ込んできた闇の塊が弾け、中から飛び出したのは___
 「___誰だっけ?」
 「キュルイラよ!」
 酒の女神は竜樹に抱き留められながら、彼女の脳天に拳骨を落としていた。
 「あぁもうっ!ふざけてる場合じゃないの!何があったか話すから、とにかく全員集めて!ほら早く!」
 キュルイラの凄みに圧倒されたか、竜樹とルディーはそれまでの弛緩が嘘のように頬を強張らせた。

 「レイノラは死んだわ。」
 キュルイラの報告は衝撃的だった。彼女は死の瞬間を見た訳ではないが、レイノラの覚悟を思えば生きて戻ることはないというのは確信できた。そしておそらく、バルカンに勝てる可能性も乏しいだろうと思っていた。
 さっきまでは信じていた。しかし「信じるしかない」と思わせぶりなことを言ったせいで、フュミレイを焚きつけてしまった。彼女の魔力とレイノラの闇で宙を飛びながら、キュルイラは厳格な態度を取るべきと感じた。導き出した答えが「レイノラの死」だったのだ。
 「世界の果てでバルカンに挑んだ。そして彼女はもう帰ってこない。」
 「バルカンは___?」
 沈黙を破り、ライが問うた。互いの動揺を和らげるべくフローラに触れているのはいつものこと。いつもと違うのは、フローラの両手がアレックスに触れていること。
 「あたしが言えるのは、レイノラは帰ってこないということ。そしてここにやってくる誰かがいるとすれば、それはレイノラじゃなくてバルカンだってこと。」
 「フュミレイは___?」
 その問いも想定していた。キュルイラは心の決断に従い、目を閉じて首を横に振った。
 「そんな___」
 ライまでもが言葉を失う。立て続けの不幸に、戦意はへし折られようとしていた。
 「嘘よ。」
 ルディーを除いて。
 「死んでなんかいない。死んでいたら、きっとその宝石だって朽ちるもの。」
 彼女は淡泊に言った。しかし論拠としては甘い。
 「これに込められた力はもうレイノラから離れてるわ。魔法の道具ってそういうものでしょ。」
 「でも闇を感じるもの。レイノラさんだけじゃなくて___フュミレイさんのも。」
 「そりゃそうよ。レイノラの道具に魔力を込めて無理矢理発動させたのはあの子なんだから。あなたはその名残を感じているの。」
 「違う___!」
 ルディーは頑なだった。しかしその双眼が少し虚ろで、みるみる涙が堪っていくのを見れば、キュルイラでなくとも彼女が意地になっているだけと分かった。
 「辛いのは分かるわ。でも今は、これから来る最後の戦いに備えないといけないの。」
 「違う!死んでない___死んでないもん!」
 ついにルディーの目から涙が溢れた。しかし彼女はその場でへたり込むことはなく、慰めようと差し出されたキュルイラの手を払いのけ、その場から走り去った。
 「ルディー!」
 「待ちな!」
 追いかけようとしたリュカの腕を掴んだのは竜樹だった。
 「リュカはこいつの話を聞いたほうがいい。ルディーは俺が。」
 彼女の真剣な眼差しはリュカをドキリとさせる力を秘めている。一瞬の躊躇から、我に返って反論しようとしたリュカの口を、竜樹は彼女にしては優しく押さえた。
 「レイノラが死んじまったなら、今のリーダーはおまえだ。少なくとも俺はそのつもりでいる。」
 それだけ言い残し、竜樹はルディーを追って消えた。
 「なかなかやるじゃない、あの子。口と態度が悪いのは残念だけど、男を強くするタイプよ。」
 キュルイラはそう言ってケタケタと笑った。先程死を伝えたとは思えない変わり身だったが、半ば気勢である。彼女自身が酒の力でも借りたような空元気でいることを、痛々しさと共に理解できる面々がここには揃っていた。
 「死者のために祈るのはあと。明日にでもあたしたちが祈られる側になるかもしれないんだからね。いまあたしたちにできるのは、最大限の力でバルカンを倒すことよ。そのために、知恵も力も全て使い切る。」
 「籠城作戦ですか?」
 棕櫚がキュルイラに応じる。
 「そうなるわね。戦場はここでいいと思う。主が生きている世界なら、虚無に飲まれることもないだろうから。」
 「虚無?」
 「そう、厄介なのはそれよ。」
 「詳しく教えてください。あたしレイノラ様のことをソアラに伝えにいきます。」
 ミキャックが名乗りを上げる。彼女はソアラたちへの伝令役を買って出た。
 「そうね、それがいいと思う。悲しませるだろうけど___とくにレッシイには。」
 「大丈夫、私も悲しみを分かち合えますから。」
 大きな存在を失っても、彼女はもう取り乱したりしなかった。
 「キュルイラさん!」
 そしてリュカも。
 「バルカンが来たら、僕が先頭に立って戦います。それを前提に作戦を立てましょう。」
 キュルイラは勇敢な青年の言葉に胸躍る心地だった。こんな勇敢で誠実で力強い顔は、バルディスで見た頃のジェイローグ以来かもしれない。
 「ありがとう。頼りにしてるわ、勇者君。」
 勇者とは勇気ある者。そして周囲の人々をも勇気づけるもの。キュルイラが何気なく言った呼び名は、彼女なりの感謝の言葉だった。

 (キュルイラが飛んできた方角は___)
 夜空は先程よりも肌寒かった。しかしそれは体よりも、心の悪寒となってルディーを震えさせた。冷静な素振りでキュルイラのやってきた方角を思い出し、高めた魔力にいつもほどの安定性はなかった。
 ガッ!
 光に身を包んで飛び出した瞬間、進行方向に割って入った何かがルディーを食い止めた。
 「よせ!」
 竜樹だ。彼女はいつも通りの荒っぽさで、ルディーに体当たりしてきた。ルディーはそれを無視して再び魔力を爆発させる。
 「花陽炎!」
 しかし竜樹も周到だった。そうなることを読み切って、彼女は空に愛刀を放り投げていたのだ。
 「霞雨!」
 宙に留まっていた刀が激しく回転すると、そこから白い粒が霰となって降り注ぐ。竜樹は本気でルディーを攻撃した。
 「うるさい!」
 だがそれで戦くルディーではない。彼女は黄金に輝くと、全身から沸き上がる金色の炎で鋭利な霰を消し飛ばしていく。
 「おらぁぁ!」
 しかし動きは止まった。竜樹は隙ありとばかりに刀を握り、ルディーの上から斬りかかる。彼女もまた頬に紋様を浮かべ、変化していた。
 「邪魔しないで!!」
 しかしルディーは羅刹を遙かに凌駕していた。黄金の中に白銀が入り交じったような不思議な輝き。花陽炎はルディーが盾代わりに差しだした右腕にしっかりと斬りつけたが、傷つけるどころか跳ね上げられてしまった。両腕が上がってがら空きになった竜樹の腹。ルディーにはまだ左腕があった。
 ゴォォッ!!
 迸ったのは竜波動。黄泉で対峙したソアラが放ったものよりも、遙かに強力な光のドラゴン。波動そのものが龍を象り、竜樹を飲み込んだ。
 全身から煮えたぎった血を弾けさせ、竜樹が放物線を描いて地に落ちていく。ルディーはいきり立った顔でそれを見ていたが___
 「あ、あたし___なにやってんのよ___!」
 竜樹の血に我を取り戻した。

 「ごめん!ごめんなさい!あたし___何がなんだか分からなくなって___こんな酷いことして!」
 ルディーは地に落ちる寸前で竜樹を受け止め、涙ながらに謝罪した。竜樹は息苦しげに何度か顎を突き出して血玉を吐き捨てたが、すぐに頬を緩めた。
 「っ___ぁあ、やっと声が出た___ったく___強烈すぎ___」
 「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい___!あた___あだしっ___中にいるときも___夢中になると前しか見なくなるっでっ___レイノラさんにっ___レイノラさんにぃ___!」
 大人びて落ち着いて見えても、取り乱したルディーの姿はあまりにも脆かった。大人びていたがゆえに、幼い頃から自分の脆さを必死で隠し続けてきたのだろう。唯一正直な気持ちで甘えられるソアラと百鬼がいない日々は、とても辛かったに違いない。双子でもどこかお姉さんだったから、リュカよりもずっと辛かったに違いない。
 「いいっていいって___」
 竜樹は泣き叫ぶ彼女を落ち着かせようと、軋む身体で肩を叩いた。
 「ごめんなさぁぃ___!」
 「わかったからさ___早く___治療してくれっかな?」
 そうでもして落ち着かせないと、彼女自身危なかったわけだが。

 熱帯植物を上に見て、竜樹は草のベッドに横たわっていた。すぐ側にルディーが跪き、回復呪文を注いでいた。ルディーが竜樹に負わせた傷の深さは、そう簡単に治療が済むほど軽いものではなかった。
 「何であんなにムキになったんだ?」
 砕かれた胸の骨がある程度もとに戻ると、竜樹はルディーに問いかけた。
 「___」
 「理由があるんだろ?一人でレイノラを探しに行こうとしたのはよ。」
 「___死んでないから。」
 「分かるのか?」
 「感じるの。レイノラさんの闇も、心の師匠の魔力も、まだこの世界にある気がするの。それなのに___死んだって決めつけて、助けに行こうともしないのが許せなくて___」
 「俺は魔法使いってのはわからねえ。でも冬美もそんな感じだったし、あいつがピンと来たことに外れはなかった。だからおまえの勘も信じていいと思うぜ。」
 「___」
 「でもこのやり方は感心しねえ。って、俺の言う事じゃねえか。」
 そう言って笑いながら、竜樹は肘を張って体を起こそうとする。
 「まだ起きちゃ駄目だよ___」
 「起きないとまずいんだよ。魔力消しな。」
 「え?」
 ルディーの手を取り竜樹が囁いた直後のこと。
 「ルディー!あ、竜樹さんも!」
 生い茂った葉を掻き分けて、リュカがやってきた。
 「ルディー、竜波動使っただろ!」
 リュカは明らかに怒っていた。兄弟だから見せる珍しい顔だった。
 「使ったけど外したもんな。」
 「使ったけどって___何やってんだよルディー!」
 「ごめん___」
 いつもの強気はどこに行ったのか、すっかり気落ちした様子のルディーは得意の理屈で反論することもなく、素直に言った。
 「今は話を聞いてたんだ。ルディーはレイノラもフュミレイも生きてるのを感じるんだってさ。で、俺は生きてるならうまくやってのけるから、今はキュルイラとエコリオットと___えっと___オコンだ!その三人を守るために戦力はまとまった方がいいって言ってたとこ。な!」
 ルディーはコクリと頷く。そんな話は一言もなかったのに、戸惑わずに竜樹の機転に会わせられるのは大したものだった。
 「そう!その通りなんだ。いま中でみんなと話をして、今はとにかくここにまとまって、バルカンを倒すための罠を張ることにしたんだ。」
 「罠?」
 「決定打になるような罠はないけど、隙を作ることくらいはできるはずだよ!それで僕がバルカンと戦う!」
 リュカは力強く言い放った。狼狽の末に泣きじゃくっていたルディーとは違って、彼は決意に満ち満ちていた。
 「ルディーにも手伝ってほしいんだ。」
 「___」
 答えまでは間があったが、リュカは急かすことなく待ち、やがてルディーは頷いた。
 「当たり前じゃん。バルカンはお父さんの仇だよ。言われなくたって戦う。」
 鋭気が戻ってきた。ここに敵がやってくるかもしれない。しかもとびきり憎い敵が。戦いの動機としては褒められたものではないかもしれないが、沈んだ闘志に火を付けるにはそれくらいの理由が必要だった。
 「良かった!断られたらどうしようかってちょっと心配しちゃったよ!ルディーすぐ僕の言うのと逆のことしようとするんだもの。」
 「あたしはそんなに可愛くない女じゃないって。さ、ほら、分かったから先に戻ってよ。あたしはもうちょっとだけリュカの好きな人を口説いていくから。」
 「なな!なに言ってんだよ!」
 リュカの声が急に裏返ったその時。
 「ほう、そりゃ意外な取り合わせ。」
 聞き覚えのある声が割って入った。気配どころか完璧に存在感を消していたらしい男の登場に、竜樹は身を強ばらせた。
 「ア、アヌビス!」
 アヌビスはねじ曲がった木に寄りかかり、悠然と笑みを浮かべている。竜樹が驚きのあまり彼の名を呼んだとき、リュカはすでに剣を手に黒犬に斬りかかり、ルディーは魔力をその手に灯していた。
 「!」
 リュカの剣はアヌビスがいた左隣の木を裂き、ルディーの呪文はそのさらに二つ向こうの木を焼く。アヌビスは顔に散った火花に長い耳を寝かせ、その左手でリュカの、右手でルディーの腕を掴んでいた。二人はすでにそこまで接近していたのだ。
 「今は戦うつもりはない。」
 「おまえになくてもこっちにある!」
 二人が黄金に燃え上がると、アヌビスは手を放し、再び消えた。
 「!」
 リュカとルディーは彼の行く先をすぐさま察知し、呻いた。
 「付いてくるか。凄いね。」
 時を止めれば難は無い。しかし二人は時を止める直前のアヌビスの意識をつぶさに感じ取り、彼の進む方向を予測していた。アヌビスが時を止められる時間は短い。それを見抜いた上での、レイノラ仕込みの攻略法だった。
 しかしそれも、彼が竜樹の真後ろに立ってしまってはどうにもならない。
 「相当嫌われてるなぁ。俺もおまえたちのことが好きじゃないからしょうがないけど。」
 「花陽炎___!」
 アヌビスの大きな手は撫でるように竜樹の頭に乗っていた。竜樹はすぐさま刀を抜いて抵抗を試みるが___
 「ぐぅがぁぁっ!?」
 肌に黒い紋様が浮かび、ささやかな抵抗を遮断する。邪輝は未だに竜樹を支配しているのだ。
 「お姉ちゃん!」
 何となくそう呼ばないようにしていたリュカだったが、咄嗟に出てしまった。それを聞いてアヌビスが口笛を吹く。
 「なるほど、大事な人ってのは本当みたいだ。でもそれはちょっと残念な呼び方だと思うぜ。なぁ?」
 「ざけん___な!」
 竜樹は腕を軋ませながらそれでも花陽炎を放さない。
 「竜樹___!」
 リュカが黄金の輝きを強くすると、その手をアヌビスに向かって突き出した。
 「リュカ!?」
 竜波動だと察したルディーが声を上擦らせる。しかしリュカは構わずに黄金と白銀の入り交じった輝きを放った。
 「なぬっ!?」
 アヌビスが初めて驚きの顔を見せた。竜波動に見えたそれはアヌビスではなく竜樹に向かって伸び、彼女の体に白い息吹を散りばめるとアヌビスの邪輝を掻き消していく!
 「!」
 竜樹の体が驚くほど軽くなった。暖かみ、勇気、力強さが体に漲るような、百鬼の抱擁にも似た心地だった。
 「うおお!」
 刀が動いた。それは時を止める暇すら与えず、アヌビスの肩に突き刺さった。アヌビスの動きが止まる。そして、リュカとルディーはすでに黄金の剣と拳をアヌビスに向けていた。
 「竜牙斬!!」
 「神竜掌!!」
 二つの力が一点を目がけて交錯する。そして夜の密林に巨大な光の柱を立ちのぼらせた。
 「!」
 しかし、光の交点に肝心の敵はいなかった。アヌビスは竜樹ごとそこから消えていたのだ。
 「どこ___えっ!?」
 「うそ!?」
 アヌビスは存在を隠していなかった。二人は邪神のこれ見よがしな気配をエコリオットの神殿から感じ、思わず顔を見合わせた。

 「アヌビス!」
 リュカとルディーが勇んで神殿に飛び込んできたとき、皆は突然の来訪者に戸惑いを隠せないまま、それでも呉越同舟を甘んじて受け入れていた。
 「よ。」
 アヌビスが振り返って手を挙げる。彼の周りには黒服の五人組、ヘルハウンドの面々もいた。ライとフローラは嫌悪と口惜しさを滲ませていたが、棕櫚はいつも通りの冷静さで、エコリオットとキュルイラはそもそもアヌビスに敵意を抱いていない様子だった。
 「今日は戦いに来たんじゃない。頼み事があって来たんだ。」
 そう言ってアヌビスはリュカを差した指を横にずらす。視線でなぞった先には、竜樹が立っていた。
 「本気らしいぜ。俺は何もされなかった。」
 彼女は顔色こそあまり良くなかったが、傷らしい傷はなかった。痛みと疲労感はむしろルディーに負わされた部分が大きいし、それが分かっているからルディーがすぐに側によって回復呪文を施しはじめた。
 「用件はなんだ___?」
 リュカが問う。他の誰でもなく彼が言葉を発していることに成長を感じたのか、アヌビスはニヤリと笑った。そして本題を口にする。
 「バルカンを倒すまで、共闘しないか?」
 「!!?」
 驚きはリュカとルディーだけに降りかかった。他の面々は、先に侵入していたヘルハウンドのカレンに聞かされたからだ。
 「確かに俺たちは敵同士だ。だがお互いの思惑も全て消し飛ばしかねない共通の敵が現れた。今となっては思うところは一緒じゃないか、ってわけだ。」
 どこまで本音か分からない飄々とした態度はいつも通り。最初は面食らっていたリュカだったが、次第にわなわなと震えだした拳を見れば、答えは明らかだった。
 「ふざけるな!!僕たちのことを散々滅茶苦茶にして___いまさら一緒に戦う!?絶対に嫌だ!!」
 地界、天界、黄泉、それぞれでの戦いと、オル・ヴァンビディスへと至る経緯とその後の戦い、それぞれで失ったものの大きさ、奪われたものの大きさ、それを思えば到底受けいれられる話ではない。当然のことだ。
 「答えが出たわね。これがあたしたちの決断。」
 キュルイラが場を諫めるように手を叩いて続けた。
 「そうか、残念だ。今のバルカンなら叩けると思ったんだが___まぁしょうがない。」
 「当たり前だろ!!」
 「アヌビス、あなたから見てもバルカンは脅威ですか?」
 いきり立つリュカとは対照的に、棕櫚が落ち着いた口調で問いかける。
 「今なら何とかなる。だがあいつが残り三人の神を殺せば、おそらく俺でも手に負えないだろう。ずっと観察してきて、そういう推論に辿り着いたってとこさ。」
 「俺たちを殺して力を増せばいいのでは?」
 棕櫚の大胆さにアヌビスは失笑する。
 「俺はバルカンとやるよりも、おまえたちとやり合う方が張り合いがある。」
 「っ!!」
 その答えには、リュカだけでなくルディーも、アレックスの人生を奪われたライとフローラも閉口した。そして___
 ゴウッ!!
 リュカが黄金に輝いた。波動だけで神殿を揺さぶるほどの力を溢れさせて。
 「今すぐにここから出ていけ___!!」
 「冗談だよ。本音はここでお互いに消耗してバルカンの思うつぼにしたくないのさ。まぁ、交渉は決裂したから出ていくとしよう。」
 アヌビスは何もせずに、意外なほどあっけなく踵を返した。
 「そうそうもう一つ、おまえたちがバルカンにあっけなくやられたら勿体ない、ってのもある。俺にも愛着ってもんはあってな。ただ、おまえよりはおまえの母親にだぞ。なにせあいつ、今は独り身だもんなぁ。」
 「帰れっ!!!」
 アヌビスはリュカの怒りを一笑に付し、高笑いと共に立ち去る。ガッザス、クレーヌ、ディメードと続き、仮面の男とカレンだけがすぐには去らなかった。
 「なんだよ___!」
 アヌビスの面を着けたブラックは、そこにいた面々の顔を一通り見渡して、リュカから怒鳴られると手を挙げて答え、ようやく踵を返す。
 「翼の女は?」
 最後まで残ったカレンが問いかける。気の高ぶっているリュカを無視して、側にいたフローラに尋ねたが、彼女は沈黙して目を逸らすだけだった。
 「言いたくなければいい。生きているかどうか気になっただけだ。」
 そして彼女も歩き出す。
 「生きてますよ。いまここにいないだけです。」
 自分の前を通り過ぎるとき、棕櫚がそう告げるとカレンは立ち止まって一瞥する。
 「そうか、ありがとう。」
 無表情に礼を告げ、カレンも立ち去る。ゆっくりと前を歩くブラックにすぐに追いつくと、一言言葉を交わして神殿の外へと脱していった。
 「___」
 後ろ姿を見送っていた棕櫚は、髪の中に隠していた獣の耳を露わにした。
 (良かったな___ありがとよ______ってまさか?)
 彼の耳には、二人の囁き声が確かにそう聞こえていた。そして犬と同等の鼻は、仮面の奥から漂う刺激的な匂いも感じ取っていた。
 「一緒に戦うのもアリだと思ったんだけどなぁ。」
 怒りに言葉を失っていたリュカたち。その沈黙をキュルイラが破った。
 「あり得ない!アヌビスとだけは!」
 「確かに悪い男よ。でもバルカンをなんとかしたいってのは一緒だからね。」
 「あんなことがあった後ですよ!?」
 リュカのいうあんなこととはアレックスの事だ。
 「感情が許さないのは分かる。でもね、あたしとエコリと彼はそれもいいかと思ってたの。」
 「棕櫚さんも___!?」
 キュルイラが棕櫚を指さし、リュカは驚いて彼を仰ぎ見た。
 「アヌビスはああいう態度でしたが、彼もバルカンが手に負えない存在になるのを恐れている、それは確かですよ。それに___万が一彼がバルカンに敗れでもしたら、時を止める能力がどうなってしまうのか、それも気になったんです。」
 「どうなるって___」
 「バルカンが能力を奪う___?」
 ルディーの呟きに棕櫚は頷く。
 「かもしれないということです。共闘が危険なのは確かですからね、否定も肯定も決断するつもりはありませんでした。ただ我々にとって、いま最大の脅威はバルカンです。それは間違いありません。」
 「___それでも僕は嫌だ。理由はなんであっても、こうなったのはアヌビスのせいだもの。」
 「ええ、それでいいですよ。リュカの決断に従います。」
 「そういうこと!あんなのあてにしたってろくな事になんないわよ。さあ、バルカンが来たときのために罠の用意に取りかかりましょう!」
 キュルイラがリュカの肩に手を掛けて励ます。棕櫚の言葉で落ち着くと同時に僅かな迷いを見せた青年は、すぐにいつもの精悍さを取り戻して頷いた。

 「なんか悪かったな。」
 夜の闇に黒い円盤を描き、その上にアヌビスとヘルハウンドたちが立っていた。円盤はエコリオットの神殿から世界の中心、ファルシオーネの方角へと飛んでいる。その最中、ブラックがアヌビスの隣に立ってそう言った。
 ボゴッ!
 そして仮面がずれる勢いでクレーヌに頭を叩かれる。
 「口の利き方!」
 「いいってことよ。」
 アヌビスは苦笑で彼女を諫めた。
 「しかし残念だったな!目当ての女がいなかったんだろう?」
 今度はガッザスの大きな手がブラックの背を力任せに叩く。
 「ってぇな___その方が良かったんだ。いてくれないほうがな。」
 「寂しくなるから?あの子の胸に帰りたくなっちゃうから?」
 「あいつを悲しませるだろう?なにせ俺は___ヘルハウンドのブラックだ。」
 ベタついてきたクレーヌへと軽やかに向き直り、ブラックは彼女の手首を取り、もう片方は首筋へと宛い、深いところから染みるような低い声で言った。
 「___」
 弛緩と緊張のギャップがクレーヌの心を揺さぶる。首筋の手に心地よさを覚えてしまった彼女は、ブラックが「フッ」と息を付くとようやく我を取り戻した。
 「あは、あははは!き、気障だね〜!」
 「やるな___」
 「んあ?なにがだ?」
 「なんでもない。」
 円盤の上は世界の危機とは裏腹に緊張感を欠いていた。ただ、グレインを失って以来の殺伐としたヘルハウンドよりはましかもしれない。
 「アヌビス様。」
 後ろの騒がしさに惑わされず、カレンはいつもの静けさで問うた。
 「ん?」
 「共闘を受け入れられたらどうなさるおつもりでしたか?」
 「そのままバルカンと戦っていただろうな。」
 「本気で?」
 「ああ。だが交渉役がソアラでもレイノラでも、結果は同じだったろう。」
 アヌビスは前を向いたまま、にやけて答えた。その仕草にカレンは小さな違和感を覚えた。
 「鋭いな。」
 「っ___失礼しました。」
 疑念を見抜かれ、カレンは頭を下げる。
 「褒めてるんだよ。俺がおまえの目を見ようとしなかったことが気になったんだろ?いつもと違うもんな。そういう細かいところまで気付いてくれるのは愛だよなぁ。」
 「無論です。」
 カレンは頭を上げ、自信を持って答えた。しかしアヌビスはやはりこちらを見ていない。目だけでなく、耳までも、遠くの空から動かなかった。こちらを振り向いて、顔を見合わせながら話そうとはしないのは、彼らしくなかった。
 「どうかされましたか___?」
 「ああ、ちょっと面白いことがおこりそうだ。」
 「え?」
 アヌビスは遠くの空の果てを見つめている。その横顔をカレンは知っている。新しい刺激に好奇心を擽られ、子どものように楽しげな顔。ソアラと出会う前などに、良く見せる顔。
 「そっち___」
 ブラックがアヌビスの見つめる先を指さして言った。ガッザス、クレーヌ、ディメードもそちらに目を移した。
 「バルカンの世界だな。レイノラたちが向かって、キュルイラだけが帰ってきた方角だ。」
 「正解。」
 敵情を熟知しているのは驚くべき事ではない。だが敵の思いがけない動きには、時に驚かされることもある。裏をかく者がいるから、戦いは面白くなるのだ。
 「アヌビス様。」
 闇の円盤にさらなる黒い影が立ち、音もなくダ・ギュールが現れる。
 「よう、どうだ?」
 「レイノラは虚無の中で死にました。」
 「で、あれはこっちに来てるのか?」
 「そのようです。」
 淡泊なやり取りだった。しかし事態を察するには十分すぎる。ヘルハウンドたちは息を飲み、カレンでさえ目を丸くしていた。
 「あれ、とは___まさか!?」
 「そのまさか。次の狙いはどうやら俺らしい。」
 アヌビスは牙を見せて笑う。黄金の瞳の眼光は、いつになくギラギラと輝いていた。
 ___
 ォォォ___
 ズォォォォ___
 大気を裂くことはない。体に良く馴染んだ風の女神ジェネリの力で、風そのものになって舞うだけ。鳥の神である己の資質に従い、目指す場所へ翼を傾けるだけ。
 『フッ、犬め___さすがに良く鼻がきく___』
 バルカンもまた、グロテスクな嘴を歪めて笑っていた。




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