1 愛

 「冬美___?」
 「良かった!レイノラ様___!」
 闇の女神に名を呼ばれ、銀髪の魔女の頬が弛む。しかし彼女はそれ以上緊張を緩めることはしなかった。
 「冬美?___!___あ、あなた!?どうして!?」
 「動かないでください!」
 力の抜けきったレイノラの顔に、血潮が巡っていく。すぐに彼女は自分の置かれていた状況を思い出し、フュミレイがここにいることに混乱した。一喝されてようやく、銀髪の魔女の顔が蒼白で、脂汗に濡れていることに気が付いた。しかも周りがひたすらの漆黒であることにも。
 「___虚無?」
 自分は虚無の中にいた。それは今も変わっていないのだ。しかし、バルカン以外は立ち入れないはずの無に、フュミレイはいったいどうやって入り込んだというのか?
 「女神様。」
 肩には黒い小鳥、ザノゥもいた。死を受け入れたあの瞬間のまま、一人と一羽は生きていたのだ。
 「もし見えるなら、このお方の足下をご覧なさい。答えがあります。」
 レイノラは少しだけ首を傾け、足下を見やる。そして虚無の中に一筋の道ができていることに気が付いた。
 「こ、これは___?」
 道は七色に光り、動いている。蠢きながらフュミレイの足へと続き、淡い波動となって彼女の体を包んでいた。道の延びる先はオル・ヴァンビディスだ。道の幅の分だけ、レイノラにも外の景色を見ることができた。
 「魔力___?」
 その道に魔力を感じ、レイノラは呟いた。
 「魔力でオル・ヴァンビディスを切り崩しています___莫大な有で、無の中に道を作っているんです___」
 フュミレイは苦しげにそう言ったが、レイノラには彼女の言うことが良く分からなかった。ただ言葉だから通じないのだ。こうして肌を合わせば、語らずとも通じ合える。
 「___凄い。」
 レイノラの顔から動揺が消えた。残された右手に闇を灯し、フュミレイの背に触れるだけで、彼女がここに辿り着くまでに経験した全てを知ることができたからだ。
 「すぐにここを脱出します___!」
 フュミレイはレイノラを抱いたまま、七色の道を後ずさる。
 「ぐっ___!」
 しかし素早くとはいかなかった。虚無の中に身を留めるだけでも至難の業なのに、その中でレイノラを抱きながら来た道を戻る。僅かに後ずさるだけで、服の裾が消し飛び、髪型も変わってしまった。
 (魔力の消耗が凄まじい___一歩進むためにエクスプラディール十回分以上の魔力が一気に消えている。)
 フュミレイの精悍だが蒼白な顔を見れば一目瞭然だった。しかし彼女はここまで辿り着けた。自分の身を守るだけならおそらくこれほど苦しみはしないはずだ。
 「はぁああ___!」
 フュミレイの体から光と闇の入り乱れたオーラが溢れ、彼女は一気に虚無の道を背走した。しかし数歩で力のバランスが崩れかけ、止まらざるを得ない。そればかりか___
 「出口が遠ざかりました。」
 ザノゥが落ち着いて言った。後ろを向くフュミレイの目になって、黒い雀は虚無の出口を見つめていた。
 「分かっている___」
 フュミレイはそう答え、またゆっくりと後ずさりを始める。
 七色の道はオル・ヴァンビディスが形を変えたものだ。ギギ・エスティナールより教えられた新たな原理により、フュミレイはオル・ヴァンビディスの広い大地を作り替え、より密な構造にして無へと食い込ませた。虚無は「有」を食らうが、その速度を遙かに上回る速さで「有」を注ぎ続ければ、虚無の中に形を留めることができる。その「有の道」を駆け抜け、フュミレイはレイノラまで辿り着いた。しかしその間も道を維持するために魔力を浪費し続けている。しかも世界を崩して道に作り替えることで、世界が虚無に食われる速度が増し、出口が遠ざかっているのだ。
 「冬美、私を殺しなさい。」
 全ての状況を察すると、レイノラは言った。
 「何を馬鹿な___」
 闇の女神が穏やかな顔でこちらを見ているのは分かっていた。だからフュミレイはあえて彼女を見ようとせず、目を閉じ、歯を食いしばって後ろへと進んだ。
 「あなた一人なら脱出は難しくないはず。」
 「助け出せなければ意味がない___!」
 「いいえ、そんなことはないわ。私を無に飲ませなければ、十分に意味はある。」
 レイノラの思惑は肌を触れていれば分かるのだ。どんなに見ようとしなくとも、力を垂れ流しているこの状況では、心を隠す扉も全て開け放たれている。

 私を殺して、力を継いで欲しい。

 レイノラが心底からそう願っていることに、フュミレイはやるせない怒りを覚えた。
 「外へ出たら___あなたを叱ります!!」
 いつになく荒らげた声で言い放ち、彼女はまた全身のオーラを高ぶらせ、早足で後ずさりする。
 「きっと拒否すると思っていた。立場が逆だったら、私もそうするだろう。」
 「___」
 フュミレイは答えない。レイノラの願いに気を取られまいとすることで、彼女の集中は一層高まり、僅かだが外へ向かう足は速まっていた。
 「私たちは愛し合っている。」
 だがレイノラは確信していた。このままでは共に無に消えるだけだと。だからフュミレイがどんなに拒もうと、ここで思いを告げようを考えていた。
 「私たちの愛は恋人同士のそれではなく、母と子の愛に似ている。そんな感情を抱ける人と出会えたことを、私は素直に嬉しく思っていた。」
 「やめてください___」
 「あなたがいなければ、私は今も深く暗い暗黒の渦の中で、憎悪に歪みながら全てを呪っていた___そうね、もしかしたら絶望のあまりGを求めたかもしれない。」
 「やめて___」
 「私を変えてくれたのは、あなた。ソアラでもジェイローグでもない、あなたが私を光の当たる場所へと導いてくれた。」
 「___」
 「ありがとう、フュミレイ。」
 「黙れ!!!」
 フュミレイの体から力が溢れ出る。魔力の輝きに闇の揺らめきを塗した波動が大きく膨れあがり、七色の道はそれに呼応するように幅を増した。
 「どうか___黙って___!」
 「ええ、そうする。もう、私があなたに心から言いたかったことを言えたから。これで悔やむことは何もなくなったわ。」
 レイノラは穏やかに笑っていた。それはフュミレイが今まで見たレイノラの顔の中で、最も優しく、最も美しかった。見るものに幸福と安寧を与える笑顔。これが闇の女神と言われた女の本当の、素直な微笑みなのだろう。
 グッ___
 フュミレイはレイノラを胸に抱き、全身で振り向いた。虚無の中の道は安定し、体もこれまでが嘘のように軽くなった。真っ直ぐにフュミレイは進んだ。胸の中のレイノラを強く強く抱きしめながら、一歩一歩をしっかりと踏みしめ、ただ前を見据えて進んだ。
 ザッ___
 そして大地に足を踏み出す。顔をゆがめることも、服や髪を食われることもなく、数十メートルの道を彼女は真っ直ぐに歩ききり、虚無を脱した。
 「来ないのか?」
 在りし世界に舞い戻り、フュミレイはいつもの落ち着いた声で問うた。外へ出る瞬間、肩を蹴って七色の道に残ったザノゥへの問いかけだった。
 「私はそのお方の水先案内人を務めると約束しました。共に逝きます。」
 「そうか___」
 レイノラを抱く手に力が籠もった。
 「全力で抵抗なさい。あなたならできる気がする。」
 「___ありがとう。」
 ザノゥは七色の道を奥へ奥へと進む。フュミレイの体を包む波動が弱まると、道は細くなり、奥から崩れていく。そしてザノゥが自ら虚無に飛び込むのと同時に、道は完全に消え去った。
 「___」
 フュミレイは腕に残る温もりを抱いた。そこにあった闇の女神の姿はもう無くなっていた。残っていたのは、彼女が纏っていた服だけだった。

 七色の道が安定したあの時、フュミレイの力が増大した。それは怒りによる覚醒ではなく、胸に抱くレイノラが彼女に力を与えたからだった。
 『私たちは同じ。あなたの中でなら、私はきっと永遠に生き続けられる。私の全てをあなたに捧げられるのがその証拠___』
 心の声が聞こえた。二人の肌が触れる場所で、闇が解け合った。流れ込む力をフュミレイは拒めなかった。
 拒めば力の安定が失われ、七色の道を保てなかったから?それも確かだが、あの安らぎに満ちた微笑みを見てしまったら、拒めなくなってしまったのだ。レイノラから安らぎを奪うことが罪に思えてしまった。
 「あたしは___」
 それを今更ながら悔やむ。失われたものの大きさに、彼女はその場で崩れ落ちた。
 「うぁぁ___」
 オル・ヴァンビディスは悲しい世界だ。こちらに来てから大切なものを失ってばかりいる。また一人、今の彼女にとって何よりも大切な人を失ってしまった。
 一人で良かった。もう誰にも遠慮することはない。後ろに虚無のあるこの場所で、彼女は憚らずに泣いた。悲しみの全てを吐き出して、虚無に食わせてやりたかった。
 「ぁあああぁ___!」
 虚無はフュミレイの周りを避けて進む。決してフュミレイを飲み込もうとはしない。それは彼女がギギに教えられた魔力の原理を早くも手の内に入れたこと、レイノラの力を得たことでもはや「神」と呼ばれる存在の領域に達したこと、そして___
 絶望していないことを意味していた。

 時は少し遡る。
 「また面倒なのを持ち込むネ。君には良い印象がないヨ。」
 「はいはい、悪うござんした。」
 リュカとルディーの助けでムンゾの世界から生きて舞い戻ったライ、フローラ、ミキャック、棕櫚、竜樹の面々は、無事にエコリオットの神殿に辿り着くなり、妖精神の元を訪れていた。
 「あんたなら朝飯前だろ?この爺さんの服は絶対にアヌビスに関係ある。でも当人はすげえ呪文を使うくせに何にも覚えていない。んだから、こいつの服の精霊を呼び出して、こいつが何ものなのかを説明させてくれ。」
 エコリオットの前には虚ろな目をした老人がいる。白のズィワイスに襲われていたところを竜樹とミキャックで助け出したあの老人だ。
 結局彼の口からは何も聞き出せなかったが、彼が纏っている黒い服はどうやらアヌビスに関わりがあると分かった。裏地に黒犬の横顔をデフォルメしたアップリケが施されていたからである。しかもこの老人はかなりの呪文の使い手。さらにオル・ヴァンビディス、しかも日々滅びへと進むムンゾの世界を一人でほっつき歩いていたことなど、疑問は数多い。
 「大丈夫、怖くないから。」
 老人は妖精神を前にして、焦点の定まらない目を泳がせ、その場から逃げたそうに身を捩る。しかしフローラが側に寄り添い、手を取って宥めるとすぐに落ち着きを取り戻した。
 「う〜ん、どうしようかなァ。」
 エコリオットはなかなか煮え切らない。何度も首を傾げて老人のことをじっくりと観察しているようだった。
 「エコリ、お願い。」
 痺れをきらしたか、ルディーが妖精神の前に躍り出て、哀願する。
 「う〜ん。」
 「ね、お願いだから。」
 彼が拒まないのを良いことに、一層近づくと体に触れながら耳元で囁いた。
 「しょうがないネ。」
 「やった!ありがと!」
 ルディーはニッコリと微笑んでエコリオットの頬にキスをし、そのまま首に抱きついた。
 「あぁ、やっぱり娘だねぇ。そっくりだねぇ。」
 「どこで覚えたのかしら___」
 「多分日頃から母親の行動を見て覚えたんでしょう。」
 「ついこないだまで八歳だったのに?」
 気まぐれエコリオットを見事に懐柔したルディーだったが、十代半ばの少女の振る舞いに、ライ、フローラ、棕櫚、ミキャック、みな呆れ顔。その横ではリュカが気恥ずかしそうに俯いていた。
 「よし、早速やってくれ。」
 「もうやってるヨ。君は本当にがさつだネ。ルディーのように可愛らしく振る舞いたまえヨ。」
 せかす竜樹に覚めた視線を送るエコリオット。ギリギリと歯を食いしばる竜樹を、リュカが宥めた。彼に諭されると竜樹は掌を返したように照れた笑顔になったが、幸いその豹変振りは誰も見ていない。
 『よもやこのような時が来るとは___』
 呆然とする老人の前に、紳士が現れていたからだ。
 『どうぞみなさま、とくにそちらの若きご夫婦よ、この老翁の悲しき運命を呪わんで頂きたい。』
 貴族とでも呼べそうな高貴な服装の紳士は、ライとフローラに向かって恭しく頭を下げた。
 「え?僕たち?」
 ライはキョトンとして自分を指さす。老人を支えるようにしていたフローラは、間近で見る紳士の悲しげな目に不安を抱かずにいられなかった。
 『この老翁の名は___ジェト。』
 「えっ!!」
 ライが上擦った声を上げ、肩を竦めた。フローラもまた、声は上げなかったが体の震えを抑えることはできなかった。
 『ジェトゥカス・サヴェル。アヌビス様に仕えていた戦士であり、ほんの数日前までは青年だった男です。』
 言葉を失ったのは二人だけではない。事情もアレックスの新しい名前も知っていた面々は、皆驚きのあまり絶句していた。ミキャックはムンゾ神殿でなぜ彼がボーっとフローラを見ていたか理解し、鳥肌の立つ思いだった。
 「何だ?誰だそれ?」
 「ライさんとフローラさんの子どもだよ。」
 「えっ?子ども?あのじじいが?」
 リュカに聞かされて竜樹もようやく皆が何に驚いていたかを理解した。しかしあの老人が若夫婦の子どもというのはどうにもピンとこない。
 『私はお望みであれば全てを話しましょう。どのみち主人ともどもアヌビス様に見捨てられた身です。何も憚る理由はございません。』
 「___お願いします。」
 フローラはさっきより少しも強くジェトの手を握り、頷いた。チラリと後ろを一瞥すると、察したライが彼女に歩み寄ってジェトともども肩を抱いた。その手には汗が滲んでいた。
 『では、少し回りくどくなりますがご勘弁を___』
 紳士は髭のない顎を扱いてからおもむろに語り出した。
 『まず、ジェトの身柄はアヌビスではなくダ・ギュールの支配下にあり、こちらでもアヌビスとは無関係にダ・ギュールの指示に従って行動しておりました。あなた方とリシスの世界で交戦したのも、ダ・ギュールが十二神の一人を倒し、それにより得られる力がいかほどのものか計ろうとしたためです。しかしあの時のジェトの力でリシスを倒すのは不可能だったでしょう___』
 実際に彼はライとフローラを倒すこともできなかった。その時から捨て駒同然の扱いだったと言うことか。
 『ダ・ギュールはGの知識を得ているがゆえに、たとえアヌビスであっても完成されたGの前には太刀打ちできないと考えておりました。しかし彼は忠誠を誓った邪神の意向に背く気もありませんでした。そこで、興味に正直に動くアヌビスとは行動を別にし、Gに抵抗できる方法、予防策を探していたのです。十二神の一つを消すというのもその一つ、そしてもう一つの方法が___老化です。』
 話が読めてきた。ライとフローラはいつもより険しい目つきで紳士の精霊を見つめ続け、ミキャックはおぞましさに歯を食いしばり、棕櫚は目を閉じた。
 『Gは究極ですが、それを維持しているのはあくまで生命であり、不変ではない。ダ・ギュールは強制的な老化により、生命の機能を低下させるだけでなく、Gの強みである再生能力を破綻させられるのではないかと考えました。魔族の禁術の一つに生命活動の加速化というものがあります。ただGのような半永久的な寿命を持つものには、只の禁術では役不足。より加速度的な効果を生む改良が必要でした。そのとき、偶然にもザキエルによってその禁術を施され、数日のうちに赤ん坊から幼児になった男の子がダ・ギュールの手元にいたのです。彼はまさに格好のテスト材料でした。』
 その結果がこれだ。アレックスであることを忘れた、いやそもそもの記憶すら無い傍若無人なジェトはこうして生まれた。
 『ジェトはこれを自らの進化と聞かされていました。実際彼は幼年から青年へと変わり、飛躍的に強くなった。しかも肉体的な完成に反して、精神は未成熟。疑うことを知らないまま、大きくなったのです。そしてあの時、リシスの世界であなたたちに敗れ、また人の温かさに触れた彼は、その豊かな感受性ゆえに迷い、ダ・ギュールに相談しました。ダ・ギュールはさらなる力を得て迷いを断てと進言し、より改良された禁術を彼に施しました___その老化速度は凄まじく、彼は刻一刻と老いていき、やがて呆け同然と成り果ててしまいました。ダ・ギュールにとってこれは実験は成功でした。そして同時に、これ以上の働きが期待できなくなったジェトは、捨てられたのです。』
 「ひでぇ___」
 竜樹が呟く。他の誰もが言葉を失っていた。
 『老いは今も進行しています。そして生命活動を脅かす行為は老いを加速させます。』
 ミキャックは先程の戦いで、自分の胸の上で気絶した老人の変化を思い出した。確かに彼の顔は一層嗄れ、目も一層窪んでいった。
 『そして彼は___』
 そこまで言いかけて紳士は言葉に詰まった。何を言おうとしていたのか理解したフローラは、長い瞬きをしてから気丈に続けた。
 「言ってください。この子に残された時間を。」
 長くないことは分かっていた。しかしそれを聞くのは勇気のいることだ。まして腹を痛めて生んだ母にとってはこれほど苦しい問いもないだろう。
 『人の寿命を思えば___もってあと半日でしょう___』
 その時のやるせなさと言ったら無かった。フローラはついに紳士から目を逸らし、ジェトの頭を愛おしげに抱く。堪え続けてきた涙が頬を伝うが、それでも彼女は取り乱しはしなかった。
 ライは呆然と、青ざめた顔でいた。しかしフローラの健気な振る舞いに心を揺さぶられ、弾けるようにジェトとフローラ二人まとめて抱きしめた。二人の腕の中で、老人は呆然とするばかり。その姿があまりにも目に痛く、ミキャックは背を向けて噎び、側にいた棕櫚がその背に触れて慰める。
 エコリオットの隣で話を聞いていたルディーは悲しい親子の抱擁に涙し、リュカは竜樹の手を取ったままこの不幸を招いた元凶に怒りを燃やした。竜樹も通じ合っているかのように同じ心地だった。
 「ありがとう___もう充分です。」
 弱々しいフローラの声と共に、紳士風の精霊は消えた。消え去る瞬間、彼は懺悔の気持ちを込めて深く頭を下げていた。
 「なぁ。」
 「ん?」
 すすり泣く声を聞きながら、竜樹がリュカに問いかけた。
 「俺、余計なことしたかな?まさかこんな事になるなんて思わなかったから___」
 老人を助け、さらにエコリオットに精霊を呼び出して貰おうと提案したことで、結果としてライとフローラの希望を打ち砕いてしまった。竜樹はいかにも気まずい顔だった。
 「僕はそんなこと無いと思うよ。」
 「そうかな___」
 「そうよ。」
 二人の間に割って入るように、ルディーが後ろから顔を出した。もう涙は止まり、いつもの利発な姿を取り戻していた。
 「だって、二人を見て。」
 ルディーはそう囁いて悲しい親子に目を移す。そこにはもう先程の悲哀とは違う雰囲気が広がり始めていた。
 「あ___」
 竜樹も理解した。フローラとライが年老いたジェトを抱きしめる姿は暖かな愛に溢れていた。涙は零していても、憂いに満ちた慟哭はなく、優しい笑みさえ浮かべているように見えた。
 「残された時間でもいい、でもできる限りの愛をジェト___ううん、アレックスに注ごうとしてるんだよ。そういうのって、本当に好きな人にしか抱けない感情だと思う。」
 ルディーはそう言いながら笑みを浮かべて、繋がった二人の手をつついた。その効果は覿面で、リュカと竜樹は風船を針で刺したようにパッと手を放し、二人揃って頬を赤くしていた。
 (残された時間、できる限り愛するか___)
 ルディーの大人びた言葉は、ライたちから目を背けていたミキャックの心にも響く。
 (サザビーと同じだ___)
 思い出されるのは、残された命を自分に注いでくれた男のこと。あの時のことを思い出し、ミキャックは引き寄せられるように振り向いた。
 (あぁ___)
 そして膝から崩れ落ちそうになった。だが絶望したのではない。ライとフローラとジェト、その三人の抱擁が作り出す穏やかな息吹に、胸の仕えを全て抜き取られたような心地だった。
 この家族に訪れたのは身も凍るような不幸だ。しかし今この瞬間、変わり果てた姿でも我が子を愛せる喜びに、愛される喜びに満ちている。あの呆けた老人が、二人の胸の中で目を細めていることにミキャックは心を震わされた。
 「あなたの名前は___アレックス。」
 「うん、そうだよ、アレックス。」
 やがて二人は老人に優しく告げる。
 「___アレックス___アレックス___アレックス___」
 老人はその名を忘却しないよう、何度も何度も呟いていた。それが二人にとって何よりの救いだった。我が子は、ようやく帰ってきたのだ。




前へ / 次へ