4 聖母
そのころキュルイラは目を閉じてひたすら真っ直ぐ飛んでいた。渓谷を出ても鳥たちが襲ってくることはなく、肉体的なダメージはない。しかし背後の虚無が遠ざかっていく様には心を痛め続けた。
「!」
いつのまにか巨大な力が接近していたと知り、キュルイラは驚いて目を開けた。反応が遅れたのはレイノラのことを考えていたからではなく、近寄る人物が完全に気配を消していたからだった。
「私です。」
現れたのはフュミレイだ。
「レイノラ様は?」
彼女は冷静だった。一人のキュルイラを見ても取り乱した様子はない。冷酷なほどに落ち着いていた。
「教えてください。」
「___エコリオットの神殿に帰るわ。あんたにあげた宝石で送りなさい。」
キュルイラは多くを語ろうとしなかった。しかし射るような隻眼に見つめられ、酒の女神は思わず呻いた。
「___なんて目よ。」
「バルカンと闘っている?」
「どうすることもできないわ!レイノラは虚無に囲まれた場所にいる!あたしたちは彼女を信じて待つ、それ以外に何ができるの!?」
らしくない。物事を俯瞰的に見る術に長けた女神が、酷く錯乱していた。声を荒らげて吐き捨てると、首を折れて項垂れてしまった。
「帰るしかないんだよ。あたしたちにできるのは、レイノラが負けたときに備えることさ___」
俯いたまま弱い声で語る。しかし、優しい感触に手を取られると彼女は顔を上げた。見ればフュミレイがキュルイラの指に黒いリングを通していた。
「ちょっと___!」
抵抗すべきだった。しかし冷酷に見える女の手の優しさに、キュルイラは柄にもなく面食らってしまった。
「私はレイノラ様に救われた。今度は私がレイノラ様を救う。」
「無茶だ___!」
引き留めようとしたときには、キュルイラの体は強烈な魔力に包まれていた。黒いリングにフュミレイが魔力を注ぎ、帰巣の力を発動させたのだ。
ギュンッ___!
指輪から吹きだした黒がキュルイラを飲み込むと、問答無用で空を駆ける。黒い球体はあっという間に夜空に溶けて、遙か彼方へと消えていった。
「___」
最後まで見送ることはせず、フュミレイは前を向いた。世界の果てにそそり立つ黒と、夜空の黒の違いが、今の彼女にははっきりと見えていた。
虚無に囲まれた闇の鳥かごの中で、レイノラとバルカンは苛烈な戦いを繰り広げていた。虚無への適性を得ただけでなく、バルカンはエコリオットの世界で倒されたときよりも強くなっていた。しかしレイノラはそれを凌駕している。
刃と爪がぶつかり合えば刃が勝ち、嘴から放たれる破壊のエネルギーは消し飛ばされ、闇の鳥かごそのものもレイノラに味方して攻撃の媒体となる。闇の波動はバルカンの翼を吹き飛ばし、黒髪は槍となってバルカンの胸に突き刺さった。
しかしバルカンには「Gへの覚醒」という大きな武器があった。虚無に適応するだけでなく、多少の傷はすぐに再生する。さらに自身の能力とレイノラの強さへの慣れか、時間が経つほどにバルカンの力は向上した。
バルカン自身がまだ自分の力を把握し切れていないなかで戦っているのだ。数分としないうちに、戦況はレイノラの優勢から互角に転じた。
ザンッ!
レイノラの刃がバルカンの胸を裂く。それは敵の左腕を肩から切り落とし、断面からは酸の血が溢れ出たが、バルカンはお構いなしに右腕をレイノラに放った。再生力を頼りにした防御無視の攻撃は、レイノラのみぞおちに抉り込んでいた。
レイノラの体が吹っ飛ぶ。しかし闇の壁に触れると優しく抱き留められるように止まった。ダメージも闇へ流れて消えていた。
『終わりだ!』
レイノラの前に躍り出るバルカン。斬撃から一秒無いが、彼は左腕が再生していると確信していた。
『な!?』
しかし左腕はない。そればかりか傷口に黒い染みがべっとりと広がっていた。その変化にバルカンは気付いていなかった。
『どういうことだ!?』
「闇の支配。」
『なに___!?』
アヌビスの邪輝と同じように、闇は敵を蝕み自由を奪う。バルカンがむやみに傷つけられている間に、レイノラは彼の体に大量の闇を流し込んでいた。
「封じられていることにも気付かない自我の欠落。もうあなたは私の知っているバルカンではないのかもしれない。」
『黙れ!』
バルカンが嘴を開いたその時!
ズンッ!!
『あ___がっ___!』
喉奥に漆黒の槍が突き刺さった。レイノラの装束と結ばれた円月刀は、瞬時に一筋の槍へと姿を変えていた。
『がガッ!?』
バルカンは息絶えない。息絶える方法を忘れているのかも知れない。しかし彼の動き、再生能力は、塗りつぶす黒に封じられていく。
「バルカン、どうかこれで終わりにして。」
レイノラはバルカンの喉笛に突き刺さった槍を押す。先端は首の後ろへと抜け、槍からは燃え上がるような破壊の力が溢れ出る。それはバルカンの頭部を煮え立たせ、皮のないグロテスクな顔をドロドロに溶かしていく。
「私もすぐに逝くから。」
レイノラが念を込める。黒い鳥かごの中に、さらなる黒が走った。
「___」
レイノラは平静だった。気をやるほどの痛みが体を引き裂いても、彼女は顔色一つ変えなかった。手にしていた槍、槍を握っていた左手から半身に開いた肩まで、少し前に出した左足、それらをまとめて失っても平静でいた。
『すまない、意地悪だったな。』
そう言ってバルカンは冷笑を浮かべた。彼の体は再び再生を始めた。喉奥を貫いた槍も、レイノラに塗りたくられた闇も、虚無の中で綺麗サッパリ消えていた。そう、バルカンの周りには虚無の柱が広がっていた。虚無は、彼がそうしたいと思うだけで、闇の檻を簡単に貫いていたのだ。
『こんな闇の鳥かごごとき、虚無を導けばすぐに破れたのだ。ただ、少し遊んでみたかっただけだ。私は君が嫌いじゃないから。』
虚無の中ではバルカン以外の全てが無力。槍も、闇も、レイノラの体も、一瞬で消えるだけだ。
「分かっていたわ___分かっていたけど試してみたかったのよ。もうこの状況では、私にあなたを力で止める方法がないのはなんとなく分かっていた___でも、もしかしたらと思ったから戦ってみたの。」
失われた左半身からレイノラの体が血に染まる。虚無に食われた体には回復の魔力もまともな効果を示さなかった。それに気付くと、彼女は治療さえやめた。
「もうあなたを破滅させる勇者はいない。虚無でさえあなたを止められない。もし勇者がいるとすればそれはあなた自身よ。」
『何が言いたい?』
バルカンは虚無の中から手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
「戻ってきてはくれないの?あなたがあなたであるうちに。もうあなたはこの世界にいる誰よりも強い___あなたに抗う存在はあっても、あなたを御すことはできない。それでは駄目なの?」
それは懇願に近い訴えだった。バルカンの行為を愚かと知りながら、それでも恥を承知で彼を許し、彼に許しを請うた言葉だった。
『駄目だ。私はもう決めた。この世界の全てを虚無に返し、私が新たな世界を作る。飽和した世界はバルディスだけではない。そして世界の生き死にを左右するのも私だけでいい。君も、ジェイローグも、アヌビスも、ソアラも、存在すべきではないのだ。』
「いつからそう考えていたの___?」
『昔から。遠い昔からだ。人が隆盛となり、我ら他種族が人の下に追いやられた時からだ。』
「___本当に?」
レイノラは臆さずにバルカンを見つめていた。しかし黒と白の瞳は、バルカンには幾らか濁って見えた。
「フェイ・アリエルへの愛とムンゾへの憎悪からではなくて___?」
『ふっ___』
バルカンはその言葉を一笑に付した。
「あなたはGが消えるまで身を窶す覚悟でいた___私はそう信じている。でもそれをフェイ・アリエルとの再会と、ムンゾの蛮行が変えてしまった。あなたはここに居続けることに虚しさを抱き、絶望し、全てを終わらせようとしたのではないの?」
『君は___』
レイノラの言葉に重ねるように、バルカンは言った。
『虫酸の走るような女だ。』
「___」
『残された僅かな命を綺麗事のために使う。ジェイローグを思うこともせずに。私には理解できないよ。』
バルカンはレイノラの頬を一撫でし、背を向けた。
「私を体の一部にしないの?」
『君には毒があるから。』
闇が全て砕け、虚無が広がる。しかしそれはレイノラの居場所までは消し去らなかった。虚無の鳥かごの中には、まだレイノラがいられるだけの場所が残されていた。
『レイノラ、私はやり遂げる。世界はあの時一度終わるべきだったのだ。そうすれば、より多くの悲しみを生むこともなかったろう。』
「悲しみと共に多くの希望も生まれている。あなたに挑む者たちがその象徴よ。」
『だがそれとて所詮は滅びの道だ。』
虚無の中でバルカンは立ち止まり、今一度振り返った。レイノラの体をじっと眺め、嘴を歪めた。
『すまなかった。君は偽善者ではない、聖母だ。それだけは詫びよう。』
「___バルカン。」
『せめて光と共に、安らかに無へ帰れ。』
鳥神は去った。レイノラはその背中が虚無の向こうの在りし世界に消えるまで、じっと見つめていた。ついにその背が見えなくなると、彼女は一筋の涙をこぼしていた。
「泣いてくださるので?」
「___」
一人になったレイノラの右肩に、黒い雀が止まった。バルカンの配下、黒のザノゥだ。
「ありがとうございます。あなたの優しさはバルカン様に少なからず癒しを与えました。」
「あなたはなぜここに___?」
レイノラはザノゥに右手を差し出す。黒い雀は彼女の意志に従い、そちらへと移った。
「私は無は通れません。この戦場に立った時点で消える運命です。」
「そう___」
「水先案内人を務めましょう。」
「フフ、縁起でもない。」
レイノラは力の抜けた笑顔を見せて、周囲に視線を移した。今自分が立つのはかつての谷底で、広さは宿屋の一室ほどでしかない。虚無はゆっくりと、残された在りしものを浸食していた。
「彼はなぜあんなことを言ったの?」
「聖母ですか?」
「うん。」
「あなたが絶望していないと知ったからです。ここで絶望すればすぐさま自ら虚無に落ちる。ウィアロージェのように、体の内から虚無に食われます。しかしあなたには全くその兆候が見られなかった。あなたがこの期に及んで希望を捨てていないことに、バルカン様は心底感銘したのだと思います。」
ザノゥの言葉は誠実だった。
「おそらく___もう少し早くあなたと再会していれば、あるいは___」
「それはよしましょう。私もこちらに来る少し前までずっと絶望していた。それを___私の百分の一くらいしか生きていないような子たちが変えてくれたのよ。私一人の力では何も変えることはできなかった。私自身も変わっていなかったはずだもの___」
「人は人を変えるのです。バルカン様を変えたのはムンゾであり、フェリルだった。あなたや別の誰かであれば、今は違う姿でここにおられたと私は思っています。ただ、その時には別の誰かがGを求めたかもしれません。」
「___そうね。」
レイノラの長髪が動き、ザノゥの頭を優しく撫でる。
「若いのに立派ね。さすが、バルカンの子。」
「恐縮です。」
ザノゥも目を細め、小さな嘴でぎこちなく笑った。
「女神様、残された時間を頂けるなら、あなたのことをもっと聞かせていただきたい。」
「いいわ、この際だから色々話してあげる。」
死を前にしたとは思えない安らぎ。ザノゥはレイノラに惹かれ、レイノラは彼をここに残してくれただろうバルカンに少なからず感謝していた。
(バルカン___)
虚無を目前にした鳥たちの楽園、複雑に入り組んだ渓谷の一つに身を隠し、フュミレイは夜空を睨み付けていた。気配を殺し、息を潜め、見やる先ではバルカンがゆっくりと飛行していた。これまでに見た鳥神とは違い、生物らしからぬグロテスクな容姿をしていたが、奴がバルカンであることには何ら疑問を感じなかった。
(虚無から出てきたようだった___ということはレイノラ様は___)
悪い想像が渦巻く。しかしいまははやる気持ちを抑え、バルカンの目を免れなければならない。動くのは奴が十分に遠ざかってからでなければ___
(っ!?)
バルカンがこちらを見たような気がした。いや、目があったはずだ。鳥の目は渓谷のごく僅かな隙間の奥で光る隻眼をきっと見つけた。にもかかわらず、彼はゆっくりと飛び去ったのだ。
(な、なぜだ?どうして___?)
フュミレイは困惑した。バルカンにしてみれば取るに足らない存在と言うことだろうか?
(いや___考えても仕方ない。バルカンが目覚めたのは事実だ。私は一刻も早くレイノラ様の精子を確認し、ここでできるだけの手を尽くし、エコリオットの神殿に戻らなければならない。)
しかし彼女はすぐに迷いを断ちきる。鳥たちの視線があろうと臆することも騒ぎ立てることもなく、バルカンとは逆に虚無へと向かって進んだ。
「後悔はありますか?」
ザノゥはレイノラに問うた。残された場所は宿屋の一室から、ベッド一つの広さに変わっていた。
「あるわ。」
「どんなことです?」
「一つはジェイローグのこと、もう一つは子どもたちのこと、全部愛する人のこと。」
「愛とは凄いものですね。」
「あなたも愛しているでしょう?バルカンのことを。」
「無論です。ただ、あなた様にも愛情を抱いています。」
「ふふ、お上手。」
レイノラは右手に留まるザノゥの嘴に優しくキスをした。
「___こ、光栄です。」
黒い鳥が少し赤くなった?かもしれない。
「ところでザノゥ、あなたはバルカンから力を与えられたと言ったわね?たしかその能力は丹下山という妖魔のものだったはず。」
「神ほどの力を持ってすれば、同族に力を与えることは難しくないと聞きます。」
「そうなの?」
「同族、同じ気質と言いましょうか。」
思えば竜樹はセラから力を与えられていた。だとすれば少し惜しい気がする。無に返すくらいいなら、この力を捧げたい人がいたのに。
「どうかいたしましたか?」
「いえ、なんでもないわ。少し思い出したい人がいただけ。」
「光の神ですか?」
レイノラは首を横に振る。
「私は光の神を慕っていた。でも私たちは光と闇、同族と言うにはほど遠いわ。そして私の娘たちも、私よりは光の神に近い気質を持つ。振り返っても、私が同族と思える人は父を除けばただの一人だけだったと思って___その子に面と向かって感謝の言葉を伝えられなかったことを後悔していたの。」
「___そうですか。」
(虚無___この中のどこかにレイノラ様がいるのか___?)
そそり立つ黒を前に、フュミレイは立ち止まっていた。黒は少しずつではあるが、着実に形あるものを食い進んでいる。だが、その有様を思うにつけ、レイノラがこの中で形を保っていられるのかは疑問だ。しかしバルカンは確かにここから出てきた。
(___)
フュミレイは右手に魔力を灯し、すぐさま氷の塊が掌から伸びる。氷結呪文の一つ、アイスシックルだ。それをそのまま虚無に差し込んでみる。
「っ___」
衝撃らしい衝撃もない。しかし虚無に触れたその場から、氷の塊は瞬時に消し飛んでいた。切れ味鋭い剣で断ち切られたかのように、綺麗な断面を晒していた。
(形ある者を食らう___有を食らう___しかしその速度は速くない。)
ジワリジワリと虚無は迫る。しかしフュミレイは後ずさることなく、むしろその両腕を虚無に向かって付きだした。
「ギキ・エスティナール、我が師よ。あなたの教えを形にするときがきた___」
虚無は前へ、必ずしも一定のペースでなく進む。突如速さを増し、フュミレイの指先に触れるかと言うところまで迫り___
止まった。
ゾオオオオ___!
変わりにフュミレイの両側を、避けるようにして虚無が食い進んでいく。いや、正確に言えば形あるものが自ら崩壊して虚無を呼び込んでいる。形あるものは、フュミレイの前で虚無に自らを注いでいる。
それが有を操作する力、「魔力の原理」の成せる業。
「行ける___!」
フュミレイは確信を持って言った。
「終わりの時が来ました。」
「ええ。」
レイノラに残された場所は、ベッドから椅子の一脚ほどに縮んだ。もう指折り数えるほどの時間しかないだろう。
「祈りも無に消えるでしょうが、最期に何を思いますか?」
「あなたは?」
「私はバルカン様の理想の実現を。」
ザノゥは最期に忠義を示す。
「私は愛する人たちの無事を。」
レイノラは最期まで希望を捨てない。
「どちらかしか適いませんね。」
「そうかしら?」
レイノラは肩へと移したザノゥの嘴に触れ、頬に沿うように促す。
「ありがとうザノゥ。あなたはいい水先案内人だった。」
「私もバルカン様とは違った考えの方と会えて良かった。短い間でしたが、非常に満たされたときでした。ありがとうございます。」
そしてレイノラは目を閉じる。ザノゥもそれに倣った。
直後、虚無は残された全てを飲み込んだ。
前へ / 次へ