2 夢
「へ〜!」
キュルイラが感嘆の声を漏らす。レイノラも辺りの景色に新鮮な驚きを抱いた。
巨大な谷は自然に溢れていた。背の高い木はないが、苔や草に蒸した地帯が多く見られる。降りてみると狭間の台地は穴の開いたチーズのようで、そこかしこが洞窟で結ばれていた。洞窟はそれぞれが水路となり、豊かな水とともに滝の音を響き渡らせ、それに混じって多くの鳥の声。しかし穏やかな囀りであり、敵意とは無縁だった。
「楽園___」
ふとそんな言葉が頭を過ぎった。ここは鳥たちの楽園かもしれない。もう日も沈む頃だから、鳥たちは自分のねぐらに帰り、明日に備える時間だ。谷に空いた洞窟やより小さな穴蔵、せり出した岩の陰などからいくつも覗く鳥の顔は、何にも毒されていない無垢なものだった。
ここは鳥たちの楽園なのだ。ここに彼らを脅かすものはない。穏やかな眠りには最高の場所なのだ。
「間違いない。」
「うん、あたしも同感。」
だから二人は確信し、互いの顔を見合わせた。
「バルカンはここにいる。」
続く言葉は見事に揃っていた。
「?」
気が付くとフュミレイは日差し穏やかな場所にいた。辺りは深い緑に包まれている。自分が横たわる草原も、辺りを囲む木々も、良く知っている種類。寒い地に植生する木々だ。
「馬鹿な___」
フュミレイは我が目を疑った。日差しがあまりにも穏やかだったから、余計に違和感がある。しかしこの植生、穏やかながらも影には冷たい棘を残した大気___
「ケルベロス?」
そこは彼女の故郷の風景だった。木々を渡るリスの姿も、小枝からこちらを見下ろす鳥の姿も、故郷で幼少の頃に見たものばかりだった。この陽気は雪深いケルベロスが最も美しく輝く、命の息吹に溢れる季節のもの。僅か数週間しかない大国の春の趣。
「おはよう。」
男の声がした。忘れがたい声だが耳にした機会は決して多くない。仰向けの体を起こし、見やった先には古代の王の威厳を湛えた髭面があった。
「オルローヌ___!」
探求神オルローヌだ。ケルベロスの景色には重ならない人物がそこにいた。
「目覚めの心地はいかがかな?姫君。」
「なぜ___?」
「君が私をここに呼んでくれたのだ。」
疑問はあった。しかしこれが夢だとしたら、もう少し醒めないで欲しいとも思った。
「夢だと分かってなおここにいられるのが君らしい。そう、これは夢だが、今の私は君の偶像という訳でもない。私は君に呼ばれて夢に舞い戻ったのだ。」
「私が呼んだ___?」
オルローヌはフュミレイに手を差し伸べる。彼女はそれを取り、ゆっくりと引き起こされた。温もりすら現実的だった。
「私は礼をしなければいけない。」
「礼?」
「君が私を愛してくれたことだ。そうでなければ私はこうして現れることもなかった。」
「___私はあなたと別れてから、あなたのことを思う暇もなかった。そんな女に愛する資格などあると思う?」
「資格は全ての女にある。選ばれるのは常に男だよ。だから私は嬉しいのだ。」
オルローヌはそのままフュミレイを引き寄せて、己の胸に抱いた。フュミレイも拒みはしなかった。
「戦いは辛いか?」
「思うはずもない。」
「今の君には守るべき人がいる。そういうときの君は強いからな。」
「ふふ___まただ。全てを見透かすあなたとの出会いは本当に心地良い。」
そして、いまこの胸に抱かれることもとても心地よかった。
「君は目覚めと共に戦いに舞い戻るだろう。それは君が正しいと信じる道だ。私にはそれを止めることはできない。レイノラを守りたいという思いは、今の君の全てだ。夢の中で私と語らいながらも、君の体は目覚めるべく闇と眠りに勝とうとしている。君が目覚めたいと思えば、すぐに私は消え、元の景色が戻るだろう。だが今の君では、レイノラを守ることはできない。」
「___」
「懐かしい景色と私に抱かれ、君の心は満たされていくだろう。しかし君の力の器は依然として満ちてはいない。私にできることは、きっかけを与えること。」
「オルローヌ___?」
彼の気配が小さくなっていく気がした。フュミレイは愛おしげに、胸の中で顔を上げた。
「そんな顔もできるのだな。可愛い子だ。」
オルローヌは微笑む。鼻先の触れ合う距離から、唇が触れ合うまで、僅かな動きしか要さなかった。
「ありがとうフュミレイ。せめてもの礼に、私も力を尽くそう。私にできる唯一無二のこと___過去の想起。夢の中なら君は彼女と会える___」
声ではない。意志が流れ込んできた。それと共に、オルローヌの気配が消える。しかし温もりはそこに残っていた。目を閉じていたフュミレイは、触れる肌に別の優しさを感じ取り、目を開けた。
「こんにちは。」
美しい女性がいた。キュルイラのような艶はなくとも、その深緑の瞳は誰よりも神秘的で、同姓のフュミレイの心を釘付けにするほどの魅惑に溢れている。類い希なる理性、しかしそこに冷たさはなく、触れる肌の温もりを抜きにしても、聖母の優しさを感じさせる女性。
「あなたは___」
初めて会った気がしない。でも見たことのない顔。なのにずっと昔から知っている気がする人。フュミレイは答えを察していたが、その人の口から名を聞きたかった。そして彼女は躊躇い無く答えてくれた。
「ギギ・エスティナール。」
改めて聞くと背筋に電撃が走るようだった。伝説の魔女というにはあまりに優しく、穏やかな表情は意外だった。
「初めましてというのも少し変かしら?でも、あなたのおかげで私はこうして人と言葉を交わす機会を得た。あなたのような人が現れ、それに少なからず関われることを嬉しく思います。」
物腰も同じように柔らか。魔道に精通するもの独特の偏屈さ、冷徹さといったものは感じられない。フローラのような慈愛溢れる人。
「感謝するのは私の方です。あなたがいなければ私はここまで戦えなかった。」
「それは違うわ。私はあなたのきっかけに過ぎない。あなたの力はあなた自らの資質と努力によるものよ。今の言葉はお世辞で、あなたの本音はそう信じて疑わない、そうでなければ先へは進めないわ。」
「___」
「私を拠り所にしてはいけない。それではあなたは私を超えられなくなってしまう。すでに超えようとしているのに、自ら踏みとどまってしまっている。」
ギギ・エストは両手の指を広げて、眼前へと翳す。すぐに十の指それぞれが輝き、それぞれに違う気質の魔力が灯る。炎、冷気、風、閃光、水、毒___
「___」
そしてフュミレイに近づけてくる。フュミレイはその手をじっと見つめはしたが、戦きも、後ずさりもしなかった。
シュ___
熱いものに水を落とすような音は、フュミレイとギギの指の間で起こった。ギギが近づけてくる手にフュミレイも手を重ねていた。それぞれの指に同質の魔力を同量宿すことで、互いの力が相殺され、二人の手が重なった。
「これを事も無げにできるあなた。いま私の関与は何もない。あなたにとって私が目標であったのは嬉しいことだけれど、あなたはすでに私を超えているわ。」
「だとしたら私は___もうこれ以上レイノラ様やソアラの力にはなれないのか?」
そうも思いたくなる。七年の修行を許されず、いまバルカンの元へ赴くことも許されなかった。
「そんなことはないわ。あなたはひとつの学術的指導さえあれば、ごく短時間のうちに自らの努力で強くなれるもの。」
ギギは微笑みを浮かべ、そのままフュミレイの手を握っていた。しなやかで、柔らかく、もう死しているはずなのに優しい温もりのある手。
「学術的指導___?」
ギギが頷く。
「あなたの考える魔力とは?魔力は何に由来する?」
「魔力は人の精神に由来し、自然の力を借りて無色の力に炎などの色を付けるものと理解しています。」
「それは一般論。あなたがそこで留まっているとも思えないわ。」
「___魔力と精神は関連していますが、源そのものが精神にあるというのは違うと思います。例えば大気などに遍く力、それそのものが源であり、それをコントロールして具現化するのが魔力であり、人の精神はその操作に関わっている___」
ギギは笑みを一層深くして、大きく頷いた。
「その考えは正しいわ。そこまで辿り着いているのなら、私も話すことができる。」
ギギは手を放した。そしておもむろに頭上へと振り上げる。
「魔力は自らの体内から放つものではない。遍く力を結集するために力が使われているのよ。その結集のために人は疲弊し、消耗する。」
ギギの手がゆっくりと光り始めた。あえて見せているのだろう。魔力の波動が小さな光の粒となって、彼女の体の内ではなく、外から手に集まっていくのがはっきりと見えた。
「論理を分かればあなたにもこれくらいのことはすぐにできる。私が示すのは、魔力の正体。魔力が究極の有の力であると言うこと。」
「有の力___?」
ギギは頷く。
「ものはそれそのものが一つではない。ものは目にも見えないような小さな粒の集合によりできているの。言葉を持たない物体も、私たちのような生命も、その小さな粒の質、或いは結びつき方で様々な形を成す。例えば砂を押し固めていくとやがて石になるのと同じ。その砂でさえ、もっと果てしなく小さな欠片の組み合わせでできている。もっと言えば、空気だってたくさんの粒からできていて、私たちはそれを体内に取り込んで生命を維持している。」
難解な話だったが、理解のできないことではない。無数の鉱石が剣に変わる、その鉱石を砕けば内にはまた別の結びつきが見える。生命の誕生を思えばなおのこと。男と女のささやかな一片が新たな生命となるのだから。
「結びつき方で物は形を変える。例えばどんなものがあるかしら?」
「水、蒸気、氷。」
「そうね。」
それは魔道を志すものにとって知っておくべき事柄だ。水は熱すれば蒸気となり、蒸気は冷やせばまた水になり、さらに冷やせば氷となる。魔力とは体内を流れる水であり、それを呪文によって蒸気に変えて発散する。蒸気が冷やされて水に戻るのは、体を休めると魔力が回復することに通じる。そしてさらに冷やして氷とするのは、さまざまな魔力を秘めた道具の誕生に通じる。
「でもね、魔力の源は水ではない。水だとすれば、それは自分の体内ではなく体外にあるわ。水に対しエネルギーをかけることで蒸気となる、逆に水からエネルギーを奪えば氷となる。魔道師はこのエネルギーの操作を行える人物であり、それに膨大な精神力が必要なのよ。」
フュミレイは息を飲んだ。それは魔力に関する原理そのものを覆す言葉だった。中庸界、いや魔族やレイノラのような神であっても、魔力は自らの内にあるものと認識されているはずだ。しかし魔力は外にある。魔力を求道し、その境地に達したギギ・エストにフュミレイは敬服する思いだった。
「驚いている、そしてあなたはその境地に自ら辿り着けなかった自分を戒めている。でもそれは違うわ。真の原理は常に封印され続けてきたのよ。知ることは正しいことではないとして。」
「___どういうことです?」
「魔力は究極の有の力。最も単純であると同時に、使い手次第では世界の全てを覆しうる力。もちろんエネルギーの操作による精神の疲弊は生命に大きなダメージを与えるから、世界を覆すほどの存在などそうは現れない。しかし私やあなたのように、有を操る才能、飛び抜けた才能を持つものは、そこに到達しうる可能性を秘めているかもしれない。果たしてそんな人物が、エネルギー操作の原理を知って自制を失えばどうなるか?物を構成する粒に結びつきの強弱はあれ、その源自体は変わらないのよ?」
「___全てが滅びる。」
ギギは頷いた。先程にも増して真剣な、情熱の滲む顔で。
「魔力の原理は滅びを生む。だから私はそれに気付いても封印した。私の前にも気付いた人がいたかもしれない。でもおそらく、それに気付けるだけの理性を持った魔道師であれば皆、事実を封印しただろうと私は思う。」
「回復呪文は?原理に基づけば、あれは物を構成する粒の置き換えということ?」
「そう。」
「では魔力は再創造をも可能にする?」
「創造は無理よ。でも再生ならできる。使い手の精神が許せばね。許される範囲を超えれば、使い手自身が自らの体を維持できなくなるでしょう。」
使い手自身の肉体もまた、粒の集合体。過ぎたエネルギーの操作により、使い手の体が影響を受けるというのは納得できることだった。
「戸惑わずに考えられるあなたにはそれだけの素養がある。魔力の原理を知ることで、あなたの扉はきっと開かれる。」
「しかし、なぜ私にこのようなことを教えたのです?」
「それは愚問ね。あなたが封印を解くに値する魔道師だという以外に、どんな答えがあるというの?」
ギギは再び笑みを見せる。しかし包み込むような優しさだけでなく、凛とした力強さが滲んでいた。後継者と見込んだ人物を勇気づけるように。
「私はきっかけを与えただけ。あなたを縛る鎖を緩めただけ。それを解くのはあなた自身であり、時が来て、また封じる必要があると感じればそうすればいい。でももしあなたが耐えることができないと言うのなら、私はこの夢の記憶を消します。」
世界の操作者。それはまさに神の所業。
「私は___」
自らの命運を決める選択は、神の大審判のごとく。しかしフュミレイの答えははじめから決まっていた。
一方、レイノラとキュルイラは鳥たちの楽園を進む。
「___」
水の穿ちが作り上げた入り組んだ谷の景色は壮観である。見渡す限りの大地に虫食い跡のように谷が走り、天然の橋をいくつも架ける。谷底はあるところでは池となり、洞窟となり、植生の宝庫となり、虫や魚も選り取りみどり。
「___」
しかし感傷に浸る心地には慣れない。観光なら胸の透くような気分になるのだろうが、このどこかに世界を覆す厄災の源が眠っているのだから、安らげるはずもない。しかも前に進めば否応なしに近づいていくのは虚無の壁であった。
「大丈夫よ。」
前を行くエルハーレを見つめるレイノラの緊迫を察し、キュルイラは彼女の肩を叩いた。しかしレイノラは僅かに振り返って引きつった横顔を見せるだけ。Gと実際に相対した彼女を支配するのは過去の記憶か、今のレイノラには余裕が感じられなかった。
「バルカンがGに近づいているといってもまだ半分だもの。それにあんたは実際に勝ってるんだから。」
「___それは分かっているつもり。」
彼女の励ましに、レイノラはようやく答えた。そして空に目を移す。もはや日は落ち、辺りは夜へと変わろうとしていた。谷の中は所々明かりの差す場所はあっても、そのほとんどが暗闇の迷路。黒く塗られた緑のエルハーレはふらつきながら暗がりを飛ぶ。
「あんたが夜を怖がってどうするの?」
「フフ、本当ね。」
闇の女神ともあろうものが、闇と虚無の区別も付かないなどあってはならない。この暗黒の迷路の終点が虚無だとしても、知らず知らずそこに飛び込むなどあり得ないことだ。キュルイラに背を叩かれて、レイノラはようやく少しだけ緊張を和らげた。
その直後___
ゴオオオォッ!
「!」
豪快に、エルハーレが燃えた。闇に塗りつぶされた体は、黒は黒でも墨の固まりへと変わり果てていく。それほど強力な炎だった。
「見て___!」
それだけではない、キュルイラが指さした先には炎が点々と続いていた。まるで廊下を照らす松明のように、谷の両側が一定の間隔で燃えさかっている。
「進もう。」
「信用するの?露骨すぎない?」
些かの迷いも見せないレイノラに、キュルイラは疑うように問いかけた。
「きっとバルカンがまだ万全じゃないのよ。他に赤と黒の卵があったから、この炎はそのどっちかの鳥がバルカンから遠ざけようと思ってやってるんじゃない?」
「確かにそうかも知れない。それにこの先は虚無へと続くわ。」
「だったら___」
「でもそうじゃないかもしれない。バルカンは絶大な自信を持ってわたしたちを導いているのかもしれない。それに___」
次の言葉まで間があった。それはレイノラが思いを巡らせた時間だった。
「私は光に導かれたい。」
「___そっ、じゃあここはジェイローグに免じてあんたの顔を立てよっか。」
「ありがとうございます。」
キュルイラの訝しげな顔はすぐに冷やかしの笑みへと変わった。彼女は何度か頷いてレイノラの肩に手を掛けた。
「ロマンチストだねぇ、あんたも。」
「どうも。」
そして二人は炎の道を進む。キュルイラは周囲に警戒の網を張り巡らせ、レイノラはささやかな物思いに耽りながら。
(ジェイローグよ、私に希望を。)
どんなに炎が眩しかろうと、闇の女神の周囲には暗黒のオーラが宿る。周囲を大きな光に包まれると、彼女の闇は一層凄みを増すようだった。
炎に挟まれた谷は、幾度か角を折れて、やがて真っ直ぐ伸びる広い谷になった。それはまるで、偉大なる王の玉座へと続く廊下のようでもあった。いや、この場合は魔王か。
「近いね。」
キュルイラの頬を汗が伝う。それは炎が熱いからではなく、炎の谷から覗く夜空、その夜空すら掻き消す黒い壁がそうさせた。この谷を真っ直ぐ進めば虚無に当たる。しかもそれはもう遠からずの距離まで迫っている。全てを無に返す場所への前進は、さしずめ自ら酸の池に踏み込んでいくような心地だった。
「ぅ___」
空気が深淵に向かって流れている。虚無が飲み込むことで、少しずつ、全ての形あるものが消されているのだ。時折肌を撫で、背を押す大気の動きは、後ろを進むキュルイラを否応なしに脅かしていた。
「キュルイラ。」
そんな彼女に、先程から押し黙っていたレイノラが声を掛ける。
「なに?」
「ここまででいいわ。」
「え?」
レイノラは振り返らずに言い、キュルイラは呆気にとられて目を白黒させた。
「ちょい待ち!これがただのバルカン探しじゃないってのは分かってる。オコンやソアラをアポリオに押し込めて、リュカとルディーって子たちに別の仕事を与えて、あんた自らここまで来たのは、全てにけりを付けるためよ。それを承知であたしは付いてきた。何度も言わせないでくれる?あたしは最期まで見届ける!」
声を荒らげるキュルイラに、レイノラは立ち止まり、振り返った。
「___」
その微笑みに、キュルイラは息を飲んだ。穏やかさ、優しさ、凛々しさ、気高さ、彼女の微笑は見る者の感情次第で自在に変わる。そう、初めて会ったときから不思議な魅力を持った人物だった。闇を司る身でありながら太陽のような暖かさを持ち、左右相反する色の瞳も相まって、二律背反の同居したような不思議な感覚を抱かせた。
神と一介の人の混血だからかどうかは分からない。ただレイノラの笑みは、ある時は見る者を勇気づけ、ある時は慰め、ある時は安らぎとなり、ある時は戦意を掻き立てる薬にもなる。
「優しいのね。」
「え?」
余計なことを考えていたキュルイラは、思わず問い返した。
「バルディスの時からそう、口は悪いけど、あなたはずっと味方でいてくれたと思ってる。本当に感謝してる。」
「ちょっとあんた___」
何を言ってるんだ!?そう叱責しようとした唇を、レイノラの指先が押さえた。その一瞬で、黒い雫がキュルイラの口内へと流れ込んでいた。
「なんだって___?」
それにはレイノラの思いが込められていた。夜が来たとはいえ、周囲に鳥の目が無いとは言えない。そしてどんなに無垢な顔をしていようと、彼らの見たもの聞いたものがバルカンに筒抜けであることには変わりない。だからレイノラは言葉で伝えることを避けたのだ。
「先輩、ここまでありがとうございます。」
レイノラは深々と頭を下げた。キュルイラは炎に照らされて美しく輝く黒髪を見据えると、やがて苦々しい顔になって目を閉じた。
「急に改まるんじゃないよ___!」
そして一撃、平手でレイノラの頭を叩く。そのまま振り抜いた手は、レイノラの顔の前まで下がっていた。鼻を擽る香りを携えて。
「飲みな。」
「これは___?」
「景気づけの一杯に決まってるだろ!」
レイノラは顔を上げる。キュルイラが目を潤ませながらも、気っ風のいい笑顔だったことに胸が熱くなった。
「ありがとう。」
そして小さな器に並々と入った酒を一息に飲み干す。水のように透明の酒は、芳醇な香りと熱い刺激を全身に染み渡らせる。
「___!?」
途端、異変が起こった。
「ベノ・バショラワ、最高の酒だよ。この前の戦いでも、ソアラの治療中にこっそり一滴飲ませてやったわ。」
その名は聞いたことがあった。一時的に生命の潜在能力を呼び起こし、とくに戦闘能力を大きく向上させるという酒。全身に沸々と沸き上がるエネルギーが、レイノラにその効果を実感させていた。
「ソアラにはあんまり飲ますと逆効果だろうけど、あんたなら問題ないでしょ?」
「ありがとうございます!」
「___いい顔してるわ。絶対に最高の結果を。」
「もちろん!」
そして二人は握手を交わす。レイノラは達観の境地に立つ者だけに許される柔和な面もちで、キュルイラはできる限り彼女を勇気づけるべく涙をこぼさない気丈な顔で。
「ほら!行け!」
手を放すとキュルイラはすぐにレイノラに前を向かせ、背中を押した。振り返って手を振ったレイノラに対し、口を真一文字に結び、腕組みをして深く頷いた。
谷へと進むレイノラ。
見送るキュルイラ。
少し先に、谷の両端が飛び込み台のようにせり出している場所があった。そこをレイノラが通り過ぎると、どこからともなく背後に黒い鳥が躍り出た。雀ほどの小さな鳥は、おそらく黒い卵から生まれたのだろう。
鳥はレイノラを襲わない。キュルイラのことも無視していた。ただ、炎に照らされた谷に黒い羽を散らすだけ。
それは谷底に向かって放射状に突き刺さり、浸食するように大地を壊していく。
すぐに大地に穴が開き、そこから黒いものが立ち上がった。
その黒は黒く見えるだけ。何もないから黒く見えるだけ。
行き着く先に見えていた、そそり立つ黒と同じ。
虚無。
「くっ___」
キュルイラは踵を返した。堪えていた涙がこぼれ落ちた。レイノラを説得する言葉が思いつかなかったこと、力づくで止める術がなかったことを、今更ながら悔やんだ。でもそれではいけないとすぐに翻意し、彼女は託された使命を全うするためにその場から消えた。
目指す場所はエコリオット神殿。レイノラはバルカンの罠に気付き、ここでキュルイラを帰らせたのだ。先程の闇の雫に、彼女の意図が詰まっていた。
『この先にバルカンがいる。そしてこの谷の向こうは、周囲を虚無に囲まれている。酒瓶のように、狭い入り口の向こうに広い空間があるの。でもそれを覆うのはガラスでなく虚無。おそらく敵の中に、バルカンかも知れないけど、虚無を誘導する力を持ったものがいる。そいつは私たちがこれ以上前に進んだ段階で、瓶に蓋をするでしょう。そんな場所に二人で行くことはないわ。私が行って、バルカンを倒し、私もまた虚無に消える。大丈夫、絶対にやり遂げてみせるから、あなたはどうかエコリオットの神殿に戻ってここでの出来事を伝えて。私が戦いを終わらせることを伝えて下さい。大事なこと___キュルイラ___あなただから頼めることなの。』
「知っていて足を踏み入れるとは、恐れ入りました。」
惑うことなく、ただ前を見据えて進むレイノラの前へ、黒い鳥が躍り出た。しかし向き直るのではなく、背中を向けて横顔だけを見せていた。小さな雀の瞳に滲む理性と知性は、これまでの大柄でカラフルな鳥たちを遙かに凌駕していた。
「お察しの通り退路は断ちました。この先で主と共に待ちます。」
先導するように進む黒い鳥は、何も答えないレイノラの周りをぐるりと一蹴してから、先に奥へと飛び去っていった。
谷は徐々に両端を狭め、ついには屋根となって結ばれた。天井ができたことで、谷だったそれは縦に大きく口を開けた洞窟となった。炎の導きはその先にも続く。皓々と燃えさかっているはずなのに、洞窟の奥底は暗い。それは全てを飲み込む虚無のようでもあったが、闇の女神は自らと光の導きを信じ、前へと進んだ。
やがて黒い霞を抜ける。その先の景色は明朗だった。そして少し汗ばむかというほどに、温暖な空気に満ち満ちていた。
「___」
現れた物体を目の当たりにして、レイノラは生唾を飲み込んだ。
「卵___」
それ以外に言い様はない。彼女の前には卵があった。洞窟の奥底にドーム状に広がる部屋、まるで膣を抜けて辿り着いた子宮のような場所で、大量の白い羽に埋もれて、巨大な卵が居座っていた。
「バルカンの卵___」
高さはレイノラの背丈ほど、長径はその倍程度。確かに大きいが、ドラゴンの卵にはもっと巨大なものもある。見た目も青みがかった基本色に斑模様が広がるだけで、そう目新しさはない。しかしこの卵からは近寄り難い波動が出ているように思えた。
「外から感じていた大気の流れは虚無じゃなかったのか___」
背を撫でるような大気の動きは、虚無に大気が食われることで起きていると思っていた。しかし、どうやらそれは違う。バルカンの卵殻の表面が呼吸しているのだ。
「我々はここで、バルカン様の復活と進化の助けとなっていました。」
声と共に、後ろを先程の黒い鳥が封じた。
「バルカン様に託された新たなる命に、新風を吹き込むことが我らの役目。」
そしてもう一羽。前から孔雀ほどの大きさの、真紅の鳥が現れる。
「フェニックス___」
レイノラは思わず呟いた。卵の裏手から現れたそいつは、全身を真紅の羽毛に包むだけでなく、その一つ一つに小さな炎を宿し、キラキラと輝いていた。おそらくここまで導いてきた炎はこの鳥のものだろう。
「我が名はウルヒラ。赤のウルヒラ。復活の象徴たる鳥の一族。」
ウルヒラは翼を広げ、卵を覆い隠すようにする。すると卵の周りの白い羽毛が赤色に変わっていく。
「だがその務めももう終わり。」
「!」
ウルヒラの声を聞いたのか、卵に小さな罅が走った。それだけで、肌を切り裂くような鋭気が溢れ出る。罅の奥から禍々しい欲望が染み出してくる。
「我らが主は目覚める。我は主の目覚めの糧。炎は生命に活力を与える___」
ウルヒラの体が崩れだした。ドロドロと溶け、マグマのような赤熱する水になって、卵の上に広がっていく。その一部は罅へと流れ込み、卵を内から熱くする。殻の中から発せられた光は、生命の影を透かして映し出した。
翼、嘴、それらしきものの蠢き!
ダンッ___!
レイノラは弾けるように動いた。ドレスはドラグニエルに似た武闘着へと変貌し、その右腕に黒い円月が現れる。額には銀のティアラが輝き、右目を露わにする。
バルカンがフェリルを殺めた戦いで、レイノラが見せた戦闘モード。一瞬での変化は、彼女が全力であることを証明していた。
「あああぁぁ!!」
口上などいらない。技でも何でもない。レイノラは全ての力を刃に込めた。ウルヒラの助けを得て、バルカンは今まさに蘇ろうとしている。性骨の能力が聞いたとおりなら、新たなる誕生はかつての体の死を意味する。同時に次なる種を残していなければ再度の復活はできない。無論、卵が種を残せるはずもない。
やるなら今!少しでも無防備なうちに、一刀に伏すだけだ!
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