1 そそり立つ黒

 バルカンの神殿の周りでは、叫声が幾重にも渡って響いていた。神殿を巨大な鳥たちが取り囲むように飛び回っている。巨大な鳥の巣と呼ばれる背高の神殿、その周囲には墨のように黒い骸が大量に転がっていた。
 「気が立っていますね。」
 神殿内から様子を窺い、フュミレイが言った。ここに入るまで多くの同志をレイノラの闇に焼かれた鳥たちは、復讐に燃えていた。
 「その方がやりやすいよ。」
 鳥の包囲網を突破することは難しくない。レイノラの力があれば、いささかの抵抗にもならないからだ。しかし三人には別の意図があった。
 「ま、失敗したらご愛敬と言うことで。」
 そう言ってキュルイラは宙で手を揺り動かす。目を閉じて何かを呟くと、すぐにその掌が鈍い光を発し、霞のようなものが立ち上り始めた。それは雲のごとく棚引いて、神殿の外へと流れ出していく。
 鳥たちが一層騒ぎだし、編隊を組んで警戒しつつも霞に挑み始めた。霞は鳥に蹴散らされると、大気と入り交じって透明に変わる。何の衝撃もないと分かると、目くらましのようなものと考えたのだろうか、鳥たちはどんどん広がる白い霞みに群れを成して襲いかかり始めた。なかには霞の出所を狙って攻撃するものもいたが、神殿に打ち付ける衝撃とは裏腹にキュルイラは微笑していた。
 「群れが乱れてきた___」
 異変はすぐに起こった。鳥たちの編隊が崩れ、空中でぶつかるものまで現れる。それでも彼らは喜々として霞を食らう。嘴を開いて、霞を飲み込もうとする。
 「酒の効果はてきめん。」
 そう、キュルイラの放つ霞は酒だ。細かな水の粒の一つ一つが強烈かつ、生物を虜にする酒なのだ。鳥たちの乱れは、彼らが酩酊状態にあることを意味していた。

 ___少し前のこと。
 「バルカンに近づくのに、ターゲットであるあなたを連れ歩くことはできません。」
 エコリオットの神殿にソアラたちを送り届け、さらにキュルイラもそこに残すつもりでいたレイノラは、バルカン探しへの同行を志願した彼女に面食らっていた。
 「でもバルカンを素早く見つけるにはあたしの、酒の力が必要になるわ。」
 「酒が?___どういうこと?」
 「問題。生き物は酔っぱらうとどうなるか?」
 キュルイラはにこやかに、その場に居合わせたフュミレイを指さして問うた。
 「___理性を失う?」
 「ほぼ正解。正確に言うと、本能に正直になるのよ。」
 「本能?すると___」
 察しのいいフュミレイの反応にキュルイラはご機嫌な様子でウインクを送る。
 「鳥が最も強く持つ本能は帰巣本能。酔っぱらってバルカンのところまで導いてもらうわ。」
 こうして、この危険地帯にキュルイラを連れてくることになったわけだ。

 「これは___!」
 フュミレイが呻く。レイノラも息を飲んでいた。鳥の群れたちが千々乱れながら、しかし辛うじて列を成し、ある方角へと飛び始めたのだ。
 「ほうら、無駄じゃなかったでしょ?」
 鳥たちの向かう先は世界の外側。オル・ヴァンビディスの外へ外へ、つまり世界を取り囲む「虚無」の方角へ。
 「行くよ。」
 「はっ。」
 「キュルイラ、あなたはここまででいい。」
 「冗談。時間が経てば酔いは醒めるわ。でもあたしが側にいれば永遠に酔い続ける。最後まで付き合うわよ。」
 答えを予想していたのだろう、レイノラの溜息には諦めの色が混じっていた。そして彼女は指輪を抜き取る。
 「ならこれはあなたが持って。」
 漆黒煌めく宝石は、対となる石がエコリオットの神殿に残されている。いわばミキャックの羽根飾りにあった転移のクリスタルと同じ。宝石に魔力を込めて念じれば、対となる宝石の元へと導かれるのだ。
 「あたしよりあんたが一番大切にしたい子に持たせるべきよ。」
 キュルイラは笑みを浮かべながら言った。
 「___持ってはくれないわ。」
 「あぁ、一蓮托生ってやつね!」
 「いいから!」
 レイノラは構わずにキュルイラの指にリングを通すと、すぐに外へと目を移した。
 「遅れを取っている。急ぎましょう。」
 そして黒い炎に身を包み、颯爽と躍り出る。
 「ちょっと。」
 それに続こうとしたフュミレイの腕をキュルイラが取った。
 「___なにか?」
 じっと見据えられて、フュミレイは少し戸惑いながら尋ねた。するとキュルイラはいつも通りの陽気な笑みを一層弾ませた。
 「母さんを大事にしなさいよ。」
 「___?」
 そしてとびきりのウインクを送り、外へ。フュミレイは彼女の後ろ姿を眺め、小首を傾げながら続いた。

 その頃、七年アポリオの荒れ野は一層の広がりを見せていた。
 ゴォォォッ!
 巨大な力がぶつかり合うたびに、大気が痺れ、大地が震える。
 「ツァァァッ!!」
 気合いとともに、黄金に輝くソアラの拳が飛ぶ。彼女は至る所がボロボロな黒い服を来ていたが、竜の使いの輝きを受けると、破れた穴が一層広がっていくようだった。
 「っ!」
 拳は体勢を崩していたレッシイを襲う。しかしソアラと同じく黄金に輝く戦士は、自ら仰向けに倒れると、ソアラの拳をつま先で蹴り上げた。
 「いける!」
 互いに後ろ宙返りしながら、ソアラはレッシイの背中へ蹴りを放つ。だがレッシイは後ろ手に蹴りを受け止めると、一気に上空へと跳ね上がった。
 ごく一瞬にして、二つの歯車が咬み合うような攻防。しかしソアラに止まる暇はない。
 「!」
 レッシイと入れ替わるように漆黒の大剣が降りかかる。だがソアラの体はすでに刃の軌道から消え、同時にバルバロッサもゼダンから左手を放していた。その指は自らの右脇を覗き、後ろを指していた。
 「赤光。」
 赤い光線が迸る。それは後ろから迫っていたソアラの肩口を裂いた。しかしそれまで。ソアラの手が彼の背に触れたところで勝負あった。
 「波動撃!」
 バルバロッサが吹っ飛ぶ。ソアラの掌で巻き起こった爆発は、威力を極限に結集していた。音も爆炎も僅かでしかないのに、バルバロッサの巨体をいとも簡単に弾き飛ばした。
 「竜牙の雨!」
 上空でレッシイが叫ぶ。次の瞬間、両手から黄金の光線がシャワーのように降り注いだ。隙のない攻撃だったが、ソアラは黒いボロ服を切り裂かれながらも、シャワーを縫ってレッシイの眼前へと躍り出た。
 ガッ___!
 その蹴脚の威力!竜の使いであるレッシイの体をねじ曲げ、軽々と地に叩き落とす。土煙が立ちのぼり、ようやく動きが止まった。
 どこからともなく吹いた風がすぐさま煙を吹き飛ばし、大地に寝転がるレッシイを露わにする。彼女は体に傷を負っていたが、ソアラをじっと見据えたかと思うと勇ましい笑みを見せた。
 「うん、いいね。」
 その言葉に、ソアラを支配していた緊迫が解れる。
 「本当?」
 「嘘なんて言うわけないじゃん。一年かからずに二人がかりを苦にしなくなったんだから立派なもんよ。」
 「やった!」
 ソアラは宙返りして悦びを露わにする。その拍子にボロ服の裂け目が広がって、はらりと落ちそうになった。
 「おっと。」
 「調度いい。着替えなよ。」
 レッシイが跳ね上がる。戦いのダメージを感じさせない軽やかさだった。
 「着替えるって?」
 「ドラグニエルよ。決まってんでしょ。」
 「でも破れたままよ?」
 ソアラは少し離れた丘に視線を移す。そこに立つ木の枝に何か引っかかっているのが見えた。
 「いいから、着てごらん。」
 「わっかりました。」
 敬礼をしてから飛び立つソアラ。レッシイとの日々に手応えを感じているからこそ、彼女の仕草一つ一つが生き生きとしていた。

 「お待たせ。」
 ソアラがドラグニエルに身を包んで戻ってくる。装束にはバルカンとの戦いのキズが痛々しく刻まれていた。
 「やっぱりボロボロよ。微妙にオッパイ見えそうだし。」
 「いいじゃん見せたって。あたしもバルバルも気にしないよ。」
 「あたしが気にするの!」
 刺繍の竜もズタボロだ。胸の部分に鎮座する竜の頭が裂け、ソアラの肌が際どく覗いている。それ以上に背中に空いた大穴の肌寒いこと。
 「あ、バルバロッサ、これありがとう。」
 「___」
 ソアラは今まで纏っていたボロ服をバルバロッサに返す。きれいに畳まれてはいたが、開けばかつてのマントが見るも無惨な姿であることは言うまでもない。
 「ねえソアラ、あんたドラグニエルのことどれだけ知ってるの?」
 「え?」
 マントを見つめて沈黙するバルバロッサにばつの悪い笑みを見せていたソアラは、レッシイの声に振り向いた。
 「ドラグニエルのことよ。その竜の名前は?男の子?女の子?得意なことは?苦手なことは?あなたのどこが好きで、なおしてほしいところはどこだと思ってる?どういう戦い方をしたがってるの?」
 「ちょ、ちょっとまって!」
 振り向いたまま呆気にとられていたソアラだったが、我に返ってレッシイの言葉を止めた。憮然としたレッシイに、引きつった笑みを浮かべて首を傾げる。
 「___まったくピンとこないんだけど、それってどういうこと?」
 「あんたそんなことでよくそいつを着てられたわね。」
 自然と高飛車になるのは彼女の特徴なのだろうか?フュミレイとのやり取りでもそうだったが、レッシイは人の無知を楽しむ悪癖があるらしい。
 「よぉく聞きなさい。ドラグニエルってのは竜の使いのために作られた服の総称。いや、竜の使いってのはあたしたちの時代にはなかった言葉なんだけど、まあそれはおいといて、竜族である父さんの血を引いたあたしたちが、より一層力を発揮できるように助けてくれる同胞を宿した服よ。」
 「同胞?」
 「そう、ポイントはそこ。ドラグニエルには竜が宿っている。だからあたしたちは自分の服をそいつの名前で呼ぶんだよ。」
 そう言うなり、レッシイはソアラに背を向けた。巧みに編み込まれた髪の向こうで、ツヤのある黒い装束が光っていた。
 「起きな、ゼレンガ。」
 レッシイが黄金の輝きを露わにする。しかし力を押さえた激しさのない光だった。ソアラはそのコントロール術に感心していたが、すぐに別の驚きを目の当たりにする。
 「あ!」
 ボンヤリと、黒い装束の上に銀色の竜が浮かび上がってくる。だがソアラの刺繍と違って、明朗さを欠いていた。
 「ゼレンガ!」
 レッシイが一喝し、服の内から黄金の輝きが透けてくると、銀色の竜がぼやけた絵から立体感のある刺繍へ、それを通り越して服にめり込んだ生き物のような生々しさを帯びていく。
 「その服もドラグニエル___!」
 「そういうこと。ゼレンガは父さんの古い友達だった竜さ。」
 『不出来な娘の子守をしてるんだよ。未だにな。』
 装束の竜が喋った。服の中で竜は瞳を輝かせ、相対するソアラを見ているようだった。
 「しゃ、喋るの___?」
 「声くらい聞いたことあるでしょ?」
 「___」
 明らかに喋ったと分かる声は聞き覚えがない。爪や盾を生み出せただけでドラグニエルを手の内に入れたと思っていたのは、あまりに浅はかだったようだ。
 「ふぅん、こりゃ思ったより時間かかるかしら。」
 レッシイはソアラの歯切れの悪さに、溜息混じりで言った。
 「どういうこと___?」
 「次のステップに進むのがよ。ドラグニエルはあたしたちに流れる竜の血を駆り立てるのに、あんたは全く感じてない。ドラグニエルとの関係を密にしなければ、竜の使いの真価は発揮できないわ。だからね、あれだけ強いあんたの子どもたちもまだ未完成なの。」
 「!」
 「竜装束ドラグニエルには、竜の命が宿っている。あたしのために、バルディスの崇高なる竜族ゼレンガが命を捧げてくれたんだ。あんたのは姉貴のお下がりだから、あたしは中身のこともよく知ってるけど、あんた自身で聞き出してごらん。そうでなきゃ意味がない。」
 「___わかったわ。」
 ソアラは神妙な顔で頷いた。銀色の竜の眼差しと、振り向いたレッシイの眼差しが、違和感なく重なって見えた。自分もその域まで達さなければならない。
 「あんたには完成した竜になってもらう。それだけの資質はあるはずだ。傷ついた竜をどうやって再生させるか、あんただったら分かるよね?たっぷり休んでそいつは力を取り戻してる。あとはあんた次第さ。」
 そう言うなり、片手を上げてレッシイは歩き出した。バルバロッサへ近寄り、何か話して彼と共にその場から飛び立った。
 荒れ果てた大地に、ソアラ一人だけが残された。
 「よし。」
 静けさが広がると、ソアラは一つ息を付いて自分の頬を叩く。そして、紫から黄金へと変わった。
 変化はすぐに起こった。ドラグニエルの破れた穴が徐々に塞がっていく。刺繍の竜の額も塞がり、その目に生気が宿るまでそれほど時間は掛からなかった。

 鳥の群れを追い始めてどれくらい経っただろう?あれほどいた酒酔いの群れは、僅か三羽の小さな鴉になっていた。いや、鴉というにはあまりに小さすぎる鳥は、黒く塗りつぶされた文鳥である。
 「___」
 レイノラたちは無言でそれを追っていた。群れの中から数羽の鳥に闇の力を与え、高速飛行させることで時間を短縮する。外へ外へと跳び続け、いま彼らの見つめる果てには暗黒の壁がそそり立っている。
 それほど外へ来た。虚無をその目で捉えられるほどに。
 (虚無か___)
 やがてレイノラは思いを巡らせた。バルディスの終末に見た虚無が、大人しげな顔で世界を取り囲み、自分たちはこともあろうかそこへ向かっている。妙な感慨は、彼女の集中をいくらか削いでいた。
 (いつ見ても恐ろしいものね___)
 世界の切れ目にそそり立つ黒は、大地も空も全てを断ち切っているはず。見た目こそレイノラの闇やアヌビスの邪輝に似ているが、中身は決定的に違う。邪輝はそこにあるものを黒く塗り、闇はそこにある光を奪い黒くする、どちらも「有」のもの。しかし虚無は「無」だ。あの暗黒には中身も向こう側もない。あれに飲み込まれれば全ての「有」は「無」へと変わる。
 命も、歴史も、世界さえも。
 (でも___Gはそれすら克服する。)
 レイノラはそう考えていた。Gは虚無を生み、世界の全てを清算してなお、そこにあり続けられる存在だ。虚無の中で、全ての創造がGから始まる。Gを源に世界が生まれ、命が、新たな歴史が生まれる。
 レイノラもジェイローグもアヌビスも十二神も「有」に立つ神である。一方でGは「無」に立つ神。それは全ての創造の根源を成し、全ての「有」を意のままとする。まさに真の神と呼ぶべき存在。それがGであり、バルカンの求めるものだ。
 (おそらくダ・ギュールもGをそう理解した。だからアヌビスが惹かれた。)
 アヌビスはずるい男だ。せこいと言うべきかもしれない。あれは常に距離を置きながらバルカンを観察している。Gが自分にとって有益なものかどうか見極めようとしている。
 (あれがいる限り、もしバルカンを討ち果たせたとしてもGを巡る危機が去ったとは言い切れない。)
 全くもって面倒な男だ。あれの厄介なところは、邪神としての誇りを持ちながらそれに拘らない柔らかさだ。今も漁夫の利を待つような真似を平然とやってのける。
 (しかしそれは自信がなければできないこと。)
 そうだ、アヌビスは自信に溢れている。自分に克服できないものなど無いという自信がなければ、バルカンを傍観し続ける意味がない。それはGを知るレイノラには到底持てない自信。過信と笑いたくなる虚ろな自信だ。
 でも、その恐れをしらない姿が羨ましくもあり、迷惑でもあった。
 (___)
 レイノラは強さを取り戻した。しかし心は空虚なままだった。バルカンを倒し、散っていった十二神に変わってオル・ヴァンビディスに留まり、Gを静かに滅していく。それが適うかどうか、アヌビスほど楽観的ではいられなかった。
 (絶望に立ち向かうのか、受け入れるのか、逃げるのか___)
 Gは絶望と共にあり、虚無は絶望から生まれる。ロイ・ロジェン・アイアンリッチは愛情の拒絶に絶望した。バルカンはおそらく「生きる努力のいらない世界でただ静かに死ぬためだけに時を費やすこと」に絶望したのだろう。いや、彼に限らず全ての十二神がそうだ。
 (受け入れられるのか?あの虚無の嵐を。)
 バルカンがGを求めたのが絶望を打ち伏すためならば、Gをその身に留めるのは絶望を受け入れるようなもの。それは永劫の辛苦であり、克服できるかどうかはいまだ何の確信もない。アポリオでの七年を経てもだ。
 「!」
 先導する鳥から目を離し、俯くようにして飛んでいたレイノラは、腕に触れた優しい感触に顔を上げた。
 「どうかなさいましたか?」
 側に寄っていたフュミレイが、覗き込むようにして尋ねた。
 「___」
 レイノラは何も答えず、ただ銀髪の魔女の隻眼を見据えた。吸い込まれるような黒い瞳をフュミレイは抵抗無く受け入れる。長い前髪が揺らぎ、白黒逆の右目を露わにしても、彼女は微動だにしなかった。
 「フッ___」
 やがてレイノラは微笑を浮かべ、フュミレイの頬に触れた。
 「大丈夫。急ぎましょう。」
 「レイノラ様。」
 さらに加速しようとしたレイノラだが、フュミレイは腕を放さなかった。
 「私の父は尊敬される人物ではありませんでしたが、崇高なる心の持ち主でした。だから私はあの人が嫌いではなかった。そして色々な教えは私の理性の源にもなっています。その父の言葉です。」
 レイノラに対しては物静かなはずの女が良く喋る。だがレイノラも止めようとはしなかった。
 「信じるは己の揺るぎなき意志にあり。己を信じねば何一つ成すことはできぬ。」
 その時、レイノラは少しだけ目を見開いて、すぐにいつもの笑みを取り戻した。
 「ありがとう。あなたにはいつも救われる。」
 「___レイノラ様?」
 しかしその反応はいつもと違っていた。出過ぎた真似を、などと言って笑ってくれはしなかった。
 「!」
 呆気にとられている隙に、レイノラの唇がフュミレイに重なる。黄泉にいた頃に交わした口付けとは違う、切なさが染み渡る接吻。そしてレイノラはフュミレイから離れた。しばし呆然としたフュミレイは、慌てて後を追おうとする。しかし不意に体の力が抜けて、自由が利かなくなった。
 「___まさか!?」
 視界が澱む。宙に留まることもままならなくなる。レイノラの後ろ姿に、手を伸ばすこともできない。彼女の自由を奪ったのはあの切ない接吻だった。そう理解したときには、フュミレイの全てが暗転していた。
 「残酷なことするわ。」
 気を絶ったフュミレイをキュルイラが抱き留めていた。先を急ぐかに見えたレイノラもその場に留まっていた。
 「ほら、泣いてるもの。眼球のない右目からも涙を流して。」
 キュルイラはフュミレイの頬を伝う涙をそっと指で拭う。
 「キュルイラ、その子と一緒に___」
 「やよ。」
 背を向けたままのレイノラの言葉を、キュルイラはすぐさま否定した。
 「この子を生きて返すのは構わない。でもあたしは最期まで見届けるわ。」
 「___」
 「見抜けないとでも思ったの?あんたがどんな気持ちでバルカンの元に向かっているか。だからこの子だってあんたを励まそうとしていた。あんたは勇ましく立ち向かっているつもりでも、そんな物憂げな背中を見せられたら放っとけなくって当たり前よ。」
 レイノラは振り向かない。横顔すら見せない。
 「それにね、覚悟してるのはあんただけじゃない。全てを終わらせるのは、あんただけの仕事じゃない。バルディスを知る全ての神の使命よ。」
 「___うまくいかないものね。」
 背を向けたまま呟いた。
 「自分一人でやりきるのが成功だと思っているなら違うわ。ただこの子を巻き込まないのには賛成。ま、自分の娘は誰よりも可愛いものだしね。」
 「娘?」
 「あたしにはそう見えるよ。この子はレッシイやソアラよりもずっとあんたに似てる。だから気に入ったんでしょ?この空いた右目に白黒反転した目玉があったら、どんなに素敵かしらね。」
 「娘ね___」
 酒の女神はうまい。彼女の側にいるだけで、ほろ酔いのような鷹揚な気分にさせられる。話し手でもあり聞き手でもある彼女に問われると、人は計らずとも本音を漏らす。
 「そうね、そう見ていたかもしれない。それに彼女が闇の力に適応してくれたから___」
 レイノラは振り向いていた。険しさはなく、穏やかな面もちだった。
 「竜の使いはあんたとジェイローグの子だけど、力の端緒は光だ。ジェイローグの力が強く出ている。でもこの子は闇。あんたの力を苦もなく受け入れられる、それって凄いことよね。」
 「冬美と___フュミレイと出会ってから私は変わった。彼女との出会いから、止まっていた私の時はまた動き出した。もしかしたら私は彼女に動かされていたのかもしれないわ。そう、今も怯える私の虚無を埋めてくれた。」
 「良かったね。いい子と出会えて。」
 キュルイラはレイノラから受け取った指輪を外し、フュミレイの指へと通す。レイノラもただ黙って見守っていた。
 「これで願い通りでしょ?」
 「ええ。」
 レイノラは頷いて指を弾く。すると指輪から黒い霧が溢れ出し、フュミレイの体を包んでいく。
 「そうだ、いい夢を見させてあげよっと。」
 全てが飲み込まれる前に、キュルイラは小指の先をフュミレイの唇に添えた。爪から一滴の酒の雫が、口内へと落ちていった。
 「じゃね。」
 キュルイラが離れると、闇に包まれたフュミレイの体はそのまま宙に留まった。そして___
 「ありがとう、冬美。」
 思いを込めたレイノラの言葉と共に、闇が弾ける。猛然と、今来た空を逆送し、あっという間に小さくなっっていった。
 「さ、いこっか。最後の戦いに。」
 キュルイラがレイノラの背を叩く。レイノラは沈黙のまま頷いた。視線を前へと移すと、文鳥は遙か遠くを飛んでいた。
 「追います。」
 「どーぞ。」
 音もなく、レイノラの体から闇の炎が吹き出すと、キュルイラを巻き込んで勢い良く飛び出した。超高速の黒はあっという間に前を行く文鳥との距離を詰めていく。
 「!」
 しかし、数秒としないうちに炎は行く手を阻まれた。空を劈いた何かに文鳥が引き裂かれたのだ。
 「早速お出ましね。」
 キュルイラが不適に笑う。現れた敵の姿は、二人が確実にバルカンに近づいている証でもあったから笑みがこぼれた。
 「ここまでだ!」
 緑、黄色、茶色の鳥たち。七つの殻のうち、鮮やかな色を保っていた五つ、その中の三つの色に通じる敵だった。
 「これ以上は行かせなっ___いぅぅぇ!?」
 声高らかに啖呵を切った黄色い鳥が燃えた。黒い炎は容赦なく焼き付け、残されたのは墨より黒い残骸だけ。
 「リンゲルフ!」
 黄色い鳥の名を叫び、鷹のような茶色い鳥が炎を逃れて宙を舞う。孔雀のように美しい緑の鳥は、錐もみのように回転しながら空を駆ける。
 「来たな!」
 茶色の鳥の前にレイノラが現れる。しかしその気配を察していた鳥は、嘴を開いた。
 「カァァァッ!!」
 口から放たれたのは泥濘だった。強い粘着質の泥は敵の体にまとわりつき、動きを鈍らせるだけでなく、焼け付くような強い酸を秘めている。
 クンッ___
 しかしそれも敵に届けばの話。レイノラが指を振るうと宙に漆黒の雫が飛び散り、泥を一瞬にして黒へと変える。全ての泥がレイノラに触れることなく黒い雨となって地に注いだ。
 「!?」
 泥の間隙を縫って、雀の眼ほどの小さな闇の雫が迫っていた。茶色の鷹が気付いたときには、それは彼の柔らかな羽毛に触れていた。
 ゴウッ___!
 燃え尽きるまでは一瞬だった。
 「デゲン!___おのれ!」
 緑の鳥は同胞の死を悼む。しかし彼は強かに、レイノラではなくキュルイラを狙っていた。余裕の観戦を決め込んでいた酒の女神の背中を、素早い動きで捉えていた。
 「ストライト!」
 緑の翼が煌めくと、輝きが光線となってキュルイラを襲った。一瞬にして宙を劈くそれは、文鳥を引き裂いたのと同じ攻撃だった。
 「やった!」
 それはキュルイラの背中を撃ち抜いた。緑のエルハーレにはそう見えていた。
 「目に見えるものだけが真実じゃない。」
 「!?」
 しかし、酒の女神の声は彼の後ろから聞こえた。
 「くっ!?」
 振り返り、再び光線。しかしまたもキュルイラを撃ち抜く像が見えただけ。エルハーレはそれがキラキラと光って、どことなく歪んでいることに気が付いた。
 「酒はあなたを惑わせる。」
 また後ろから声。次の瞬間には、首筋に走った痛みと共に景色が渦を巻いて歪んでいた。爪から血管に注がれた酒は、一瞬にしてエルハーレの自我を奪った。
 「さ、ここからはこいつに案内してもらいましょ。」
 グッタリとした孔雀の首を掴んで、キュルイラはレイノラの元へ。しかしレイノラは前方の景色に目を奪われていた。
 「どしたの?って、わおっ。」
 先の景色はこれまでと明らかに違っていた。
 広がるのは壮観な渓谷。一つ一つの谷が大河と見まがうほど広く、水の穿ちでできたのだろうか、深く大地の底へ向かって抉られた無数の谷と、その狭間にせり上がった台地が入り組んでいる。
 「三羽のうちの誰かが幻覚で隠していたのかな?」
 キュルイラは朦朧とするエルハーレを覗き込んで言った。鳥からは何の反応もない。
 「行こう。」
 闇に身を包むこともなく、レイノラは引き寄せられるように谷へと急いだ。




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