1 ソアラの限界
(なんなのよ___あいつ!)
ソアラは複雑だった。見れば竜装束にも黒い血染みが付いている。自分が輝いたことで、アヌビスの体が所々キラキラと光り、血に濡れていると分かった。あのアヌビスがあれほどの傷を負ったこと、それがおそらくバルカンに絡んでの負傷であろうこと、だからこそ痛感させられるバルカンの強さ、そうまでしてアヌビスが自分を助けてくれた事への釈然としない思い、様々な感情がソアラの胸中と悶々とさせた。
「!!!」
しかし、焦げ臭い森を破って空に飛び出せば、そんな気持ちは全て吹っ飛んだ。そこは戦場から僅かに離れた位置だった。あれほど燃えさかっていた森の炎が全て消え、白い蒸気が一帯を満たしていた。
消し去ったのは大量の水。空に舞うのは三人の神。襲いかかる無数の海水のドラゴンに相対するバルカンと、それを操るオコン、その後ろからオコンに怒声を浴びせているビガロス。
ソアラが見たのは、ビガロスに背を向けているオコンの横顔。目を閉じた刹那の神妙な面もちだった。
「駄目___!!」
叫ぶ、飛び出す。しかし___
ほんの少し前のこと。バルカンは強烈な水に飲み込まれ、ビガロスの前から吹っ飛ばされた。龍の形をした海水のうねりを見たビガロスは、やってきたのがオコンであるとすぐに気付いた。
「オコン!」
海神はビガロスをバルカンから救ったのだ。しかし大地神は怒りの形相でオコンに怒鳴りつけた。
「貴様のしたことは全て聞いている!」
オコンは答えない。ただ真剣な眼差しで水のドラゴンを見つめ、腕を振るった。その掌の軌道からさらに三つの水龍が生まれ、一つ目の水流を砕いたバルカンに休む間を与えない。砕かれた水は燃えさかる森に豪雨となって降り注ぎ、炎を鎮めていく。
「なぜリシスとリーゼを殺した!?我らの志を忘れたか!?外道に走っては貴様とてバルカンと変わらぬぞ!」
綺麗事だ。バルカンが手に負えない存在になってからでは、何もできない。しかしビガロスの物言いは道徳的ではある。だからオコンは彼に反論せず、背を向けたままバルカンを追い込むことに集中していた。
「オコン!答えよ!私が納得する答えを聞かせてみろ!」
「___」
「おまえではGの力を我がものにすることなどできない!バルカンを倒したとて、おまえはアイアンリッチと同じようにGに飲み込まれて理性を失う!私にはその姿がはっきりと見える!」
「___」
「やすやすと外道に落ちた貴様の軟弱な心では、Gに打ち克つことなどできない!貴様に正しき志が残っているのなら、今からでも遅くはない、残ったものたちが互いの手を取り、知恵を出し合い、勇気を持って戦うのだ!」
ビガロスの叫びはそこで絶たれた。黙って聞いていたはずのオコンが、その手を大地神のみぞおちに突き刺したからだった。
「オ___コ___ン___」
手はビガロスの背へと突き抜けた。しかし大地神は力強い視線を保ったまま、その手をオコンの肩に掛けた。
「まだ間に合う___戦っているのはおまえだけではないのだ___!」
やせ衰えた大地神の顔など見たくもなかった。しかしビガロスは肉体が果てようとも消え失せないほどの情熱の持ち主。
「ビガロス___」
そして元来、オコンもそれに比肩するほどの熱を持っていた。
大地神ビガロスはバルディスの頃から海神オコンを買っていた。ジェイローグの陰に隠れがちだった若者は、誠実で、思いやりと優しさに溢れ、それでいて芯の強さ、自らの正義への信念、毅然とした姿勢を持ち、その若さにして模範的な存在であった。ジェイローグが嫌疑を掛けられたときも、オコンは無実を疑わなかった。それは彼が周りに惑わされない、確固たる自己を持つからこそだった。
今もオコンは確固たる自己の元に動いている。彼は自らの行動を正しいと信じている。しかし同時に疑ってもいる。それがかつてのオコンの行動とは異なっている。だから彼はビガロスの罵声に沈黙を守り、反論さえしなかった。
誤った道であるとの疑いを胸に秘めつつ、彼はそれを押し殺し続けている。それが間違いだと諭すのは年長者の務めだ。しかしビガロスにはできなかった。それは彼にとって最大の心残りであった。
「あなたの力を預けてくれ。俺は必ずバルカンに勝つ。」
その言葉は希望にならない。個人の信念でどうなる相手ではないのだ。
「一人では勝てない___!」
だからビガロスは最後まで彼を戒め、冷静沈着を貫いていたオコンの歯を食いしばらせた。そして___
バッ!!
オコンが離れた。その瞬間、彼とビガロスとの間に黄金の輝きが割り込んだ。
「ビガロス!!」
ソアラだ。彼女はオコンには目もくれず、ビガロスの巨体を宙で抱き留めた。しかしその手の中で見た顔は、もはや原形を留めていなかった。体の内側から溢れ出した海水が、ビガロスを破壊する。ソアラは肌を濡らすばかりで、彼の力を感じることも、言葉を聞くこともできなかった。
「ビガロス___!!」
水に膨れた体はすぐにキラキラと輝く光の帯となり、オコンへと流れていく。ソアラが口惜しさを滲ませて握りしめても、光は指を通り抜けてオコンへと導かれていった。
「よく生きていた。」
オコンが言った。ソアラは彼を見やるが憎悪の籠もった目ではなかった。哀れむような眼差しには同情すら滲んでいたが、オコンは無表情に空を見つめていた。
「だが邪魔だ。死にたくなければ消えろ。ここで終わりにする。」
鳥を追い込んでいたはずの水のドラゴンが、一斉に弾け飛んだ。空の高みでは、バルカンが悠然と羽を繕っていた。
「思い切ったものだな、オコン。」
そして軽々しく問う。オコンの射るような眼差しも意に介さず、バルカンは高い空から海神を見下ろしていた。その態度に敬意などあるはずもない。
次の瞬間には、オコンの拳がバルカンの言葉を遮っていた。語らいなど無駄。そう言わんばかりにオコンはバルカンに襲いかかった。
「く___!」
外界の緩衝を受けないはずの闇の空間が震えた。全身の傷があらかた消えたクレーヌは、不安げに空を睨み付ける。
「怖いか?」
「___ちょっとね。」
「おや、正直だ。」
ディメードの茶々にも、彼女の反応はいつもと違った。そんな彼女の手をディメードはそのまま握り、クレーヌも拒まなかった。むしろ止まらない震えを預けるように強く握り返した。
「ほら、隊長___」
それを見て、いつの間にやら下半身を取り戻したブラックがカレンに手を差し出した。
「いらん。」
「いや、俺が怖いから握ってほしいんだ。」
「いいだろう。」
爆炎の手甲で手を握られ悶絶するブラック。他のヘルハウンドたちは新入りを白い目で見ていたが、アヌビスは二人のやり取りを見てケラケラと笑った。
「おまえらいいね。」
「ご冗談を。」
「まあそう言うなって。」
闇に安坐するアヌビスは、隣に立つカレンの背中を叩いてニヤニヤと笑う。しかしすぐに視線を上に移した。漆黒の闇を透かして、彼の目には刃を交えるオコンとバルカンの姿が見えていた。
「しかしこの森もいつまでもつか。吹っ飛ばされたら俺たちの居場所もばれるな。」
その視線の先では壮絶なエネルギーがぶつかり合い、闇の内側に小さな火花を散らした。
「こうなると思っていたか?」
アヌビスは手に壺を握っていた。その中に揺れる液体を口に流し込む。強いアルコールの匂いが広がった。
「終わるとしたらこんな感じかもしれないとは思ってた。でも、今戦っている二人はちょっと意外よ。」
その背に触れるのはキュルイラ。先程まで血に濡れていたアヌビスの背は、今は酒に濡れていた。結界を破壊し、傷ついたソアラをビガロスから強奪したアヌビスに、キュルイラ自ら歩み寄っての協力だった。癒しの力が必要だったアヌビスにとって、まさに砂漠のオアシスともいうべき女神の登場だった。ソアラとクレーヌ、ブラックの傷も彼女が癒した。酒の力での治癒は若干の酔いを伴うが、その割にソアラがシャンとしているのは、彼女が酒を盛られていると自覚していないからだろう。
「あんたは私たちを殺さないのね?それどころか部下にソアラとビガロスを守らせた。今までだってチャンスも力もあっただろうに、何もしてないじゃない。」
「Gを見てみたいからな。」
その答えにキュルイラは軽い溜息をつく。
「___悪い奴だわ、あんた。」
「そうかね?」
アヌビスはニヤニヤと笑って答えた。
それからキュルイラは、邪神の背に酒を塗り込みながら考えた。この男は良くも悪くも争乱の源となる存在であり、歴史の破壊者だと。自らの意志があろうとなかろうと、この男の行く先に平穏はない。それが邪神と呼ばれる存在の資質なのだろう。
この男がGを知り、それを生の目で見たいと思ったから、オル・ヴァンビディスは動かされた。バルカンがムンゾを手にかけたのはそれよりも前のことだが、彼が訪れるための下地が作られていたとすら思える。そう信じられる何かをアヌビスは持っている。そしてこの男と運命の糸、いやいや、鉄の鎖で結ばれているらしい竜の使いもまた、同じ星を持っているのだろう。
これまでのバルカンは絶対だった。アヌビスを軽くあしらい、ビガロスを片手で捻り、ソアラなど相手にする価値もないといった強さだった。その脅威に、初めて真っ向からぶつかれる存在が現れた。
「つぁぁ!」
気合いと共に、水のドラゴンがバルカンを襲う。バルカンは目にも止まらぬ速さで空の高みへと飛翔するが、水も迷い無く矛先を上に向ける。
しかしバルカンの嘴の奥から強力な破壊のエネルギー弾が飛ぶ。水龍を吹っ飛ばす算段だが___
パァァッ!
水は固まりでなくなった。針のように細い数万の水となりエネルギー弾は手応え無く大地に突き刺さり、巨大な爆発を引き起こす。一方の水の針は、逃げ場のない攻撃となってバルカンを襲った。
「ちっ!」
たかだか水だ。しかし凄まじい水圧をごく狭い一点に向ければ槍の一突き以上の威力を発揮する。バルカンの体を貫くことはなくとも、数万の打撃は無視できない。蟻でさえ数で獣を倒すのだから。
「シロッコ!!」
バルカンの羽ばたきが熱風を呼ぶ。それは無数の水を一気に大気へと変えていく。だが同時に一帯が蒸気の渦に包み込まれていく。
「!」
読んでいたのだろう。その間隙を縫って、オコンはバルカンに接近していた。その拳は鋼鉄と化していた。
ドゥゥゥッ___!!
鈍い轟き。その瞬間、ソアラは蒸気を突き破って吹っ飛ぶバルカンの姿を唖然として見送った。爆煙と轟音とともにバルカンの体が大地に抉り込む。その衝撃で森は揺れ、大地に巨大な亀裂が走るのが見えた。
オコンの力はかつて襲撃されたときを明らかに上回っている。鋼鉄の拳から繰り出された一撃は、ビガロスのそれを彷彿とさせた。
(いける___)
風が蒸気を浚い、オコンの姿が現れる。その横顔は徹底して無表情だが、どこか憂いが差していた。
(はず___)
それを見ていると、なぜだかソアラは不安になった。ビガロスの背中とは違う。オコンはバルカンを圧倒しているはずなのに、勇気づけられるものがなかった。それは次に殺されるのは自分かもしれないという思いのせいだろうか?いや、少し違うような___
「!!!」
余計な考察がソアラに隙を作っていた。炎を消し去られたことで森から立ち上る白い煙。そこに一直線の切れ目が走ったと気付いたのは、もはや煙の裂け目が手の届く場所まで近づいてからだった。見えない刃デュランダルは、大地から正確にソアラの首を狙って放たれていた。
ガッ___!
しかし刃はソアラの前で食い止められていた。オコンが鋼鉄化した右腕でいとも簡単に受け止めていた。ソアラに背を向けて、オコンは煙の切れ目から一瞬覗いたバルカンを見つめていた。
「ありが___っ!!」
礼を言おうとしたソアラだったが、後ろを向いていたオコンの左手から水の槍が飛び出し、彼女は必死に身を捩った。鋭い一撃は胸元に鎮座するドラグニエルの龍の額を僅かに切り裂き、圧力だけでソアラの胸に焼け付くような痛みが走る。
「邪魔だと言ったはずだ。バルカンに奪われるくらいなら俺が殺すぞ。」
「っ___」
痛々しい。いまのダメージにかかわらず、オコンのこういった態度を見るたびに胸の詰まる思いがする。
(そうだ___あたしはレイノラの思い出を知っているから___)
バルディス時代のオコンを知る者、それは十二神とレイノラ、ジェイローグくらいだろう。そのレイノラからソアラはバルディスでの出来事を知らされている。それだけに、今のオコンが彼本来の姿でないと確信できるのだ。リーゼもリシスも、そう思っていたから彼は元に戻れると断言していたのだ。
虚像が本来の自分を凌駕することなどあり得ない。それはつまり、虚像であり続ける限り、オコンは真のオコンではないということ。ではバルカンはどうか___
「その手はロゼオンか。」
地の底から、バルカンが浮上してきた。その羽毛と嘴は血で濡れていた。腹に叩き込まれた鋼鉄の拳が、体の内側に衝撃を巡らせたのだろう。
「君は大した奴だ。リシスとリーゼ、返す刀でロゼオンとビガロス、それでいて平然としている。」
形勢は明らかに不利だ。しかしバルカンにはこれっぽっちの焦りも見えない。ソアラは恐怖を胸に、オコンは哀れみを瞳に込めて、傷ついた鳥を見つめる。
「終わりにするぞ、バルカン。」
右手の鋼鉄が失せ、代わりにその両腕を水の流れが取り巻いていく。
「海は全てを飲み込む。大海の波濤は全てを洗い流し、新たなる歩みの始まりと成す。」
水はオコンの全身に広がる。そして青い輝きと共に彼の体を包み込んだ。
「!」
バルカンが目を見開く。そこには青と白の色合い鮮やかな、美しい鎧を纏ったオコンがいた。冠のような兜には青い宝石が煌めき、その手には勇壮かつ流麗な三つ又の矛が握られていた。
戦闘形態。竜の使いが黄金に輝くように、オコンもまた美しく、力強く変わった。
「俺の力はすでにおまえを超えた。大海に伏せ、悪しき鳥よ。」
戦いを終わらせる。オコンは悲壮な決意を胸に、矛を振りかざした。そして___
「!!?」
我が目を疑った。いや感覚を疑ったと言おうか。気が付いたその時には、バルカンが彼の真横にいた。そして鋭い鉤爪の足で、オコンを蹴飛ばしていた。
オコンは一直線に吹っ飛んだ。しかし大地すれすれで巻き起こった波が衝撃を殺し、身を翻す。だがその時にはバルカンの拳が眼前に迫っていた。
「ぁ___」
ソアラはただ愕然とした。いや、しかしそれ以上に驚いているのはオコンだろう。彼が決着を付けるべく海神の武装に身を包んだ直後から、形勢が逆転した。一瞬の猛攻にようやく間が生じたとき、煌めく青と白はすっかりくすんでしまっていた。
一方で、傷ついていたはずの鳥は、大地からこちらを睨む海神を悠然と空から見下ろしていた。海に空は飲み込めない___そう言わんばかりに。
「すまないが___」
バルカンが言った。オコンは肩で息をして、鳥を睨む。
「君は私には勝てない。なぜなら君が愚かだからだ。」
バルカンはにやけもしなかった。突き放すように、冷淡に言い放った。二人の戦いをただ宙に留まって見ることしかできなかったソアラは、今も二人の対峙を横から見つめている。口を挟む余地はない。しかしどちらが優位かは火を見るよりも明らかだった。
「まだだ___!」
「いや、もうはっきりしている。何度も言うが君が愚かだからだ。」
「ふざけるな___!」
熱と水の連続で、戦場には大量の水蒸気が蔓延り、空には雲が垂れ込めていた。オコンの叫びと共に何が起こるか、体験者のソアラには想像に容易かった。
ドォォンッ!!
雷鳴が轟く。無数の稲妻が、バルカンへと降り注いだ。
「!___まさか!?」
しかし打ち震えたのはオコンのほうだ。バルカンは稲妻にも顔色一つ変えないどころか、その輝きを放散もせず、身に留めていた。さらに___
「カァッ!」
鳥らしい叫声と共に、口からエネルギー弾を放つ。輝く砲弾は稲妻を纏っていた。
「くっ!?」
オコンは目前まで迫る砲弾を矛で切り裂いた。分断されたエネルギーは彼の両隣の大地へと突き刺さり、猛然と爆発した。
「貴様___!」
次の瞬間、オコンはバルカンと同じ高さまで浮上していた。爆煙を背にして再びバルカンと対峙する。しかし顔つきから落ち着きは消えていた。
「よくかわした。」
「ふざけるな___!」
オコンの矛がバルカンを襲う。しかしバルカンは僅かな体の動きで、矛の先に触れて軌道を逸らす。三つ又の刃の一つは翼を掠めたが、勢い余ったオコンはバルカンに懐を晒してしまった。
「!!」
バルカンの指がオコンの右肘を撫でた。次の瞬間凄まじい水流がオコンの髪から溢れ出た。それはオコン自身を飲み込み、滝の勢いで大地へと注いだ。ソアラにはその水から弾き出されて宙を舞う右腕が見えた。
「くっ___!」
オコンは再び地に立った。その右腕は肘から先が失せていた。
「まだだ___!」
しかし水流が回りながら落ちる右腕をオコンの元まで運び、そのまま腕の断面に吸い付ける。切れ目を包むようにして水泡のバンドができると、オコンの右手は元通りに動いた。
「ほう。」
完全ではないが巧みな治療術だ。バルカンは感心した様子で頷いていたが、それ自体がオコンにとっては屈辱的である。
「なぜだ___なぜ俺は___!」
疑問はそれに尽きる。バルカンはムンゾ、ジェネリ、オルローヌ、セラの力を得ている。飛翔の女神フェイ・アリエルも殺めてはいるが、Gの力を均等に分け合った十二神の力はバルカン自身を含めて五人分。
オコンはリシス、リーゼ、ロゼオン、ビガロスの力を得ている。セラが本来の力で無かったことを差し引けば、むしろオコンの方がよりGに近づいているはずだ。だが、彼はバルカンに手も足も出ない。
「答えは簡単だ。」
オルローヌの能力で心を読んだか?いやそうでなくとも今のオコンの疑問は簡単に見抜けただろう。バルカンは自らの優位を誇示するように、嘴を上げて言い放った。
「君が強くなっていないからだ。」
「!?」
「君は進化の方法を知らない。さらに力をその身に馴染ませるためには眠りが必要だ。」
バルカンがオコンを指さす。威圧するような仕草にオコンは歯を食いしばる。
「っ!」
が、すぐにハッとして首を捻った。その兜に何かが掠め、装飾の一部を砕いてオコンの頭から弾き飛ばした。
「よく避けた。」
「___」
見くびられている。怒りを込めて言い返すべきなのに、オコンは甲高い音を立てて転がる兜を呆然と見つめていた。
「Gを見てきた君なら分かるだろう。力を十分に馴染ませるためには、体を休めて深く眠ることが必要だ。小さな壺に多すぎる水は入らない。大きな壺でも口が小さければ水を満たすのには時間が掛かる。すなわち眠りは壺の入り口を広げ、進化は壺そのものを大きくする。君は確かに四人の神を殺めているが、彼らの力は君の壺の口が開くのを待っている状態だ。まだ君の身にはなっていない。」
「だが技能は___!」
オコンは素早く横に飛ぶ。デュランダルが幅の広い刃だとすれば、この攻撃は見えない矢か。僅かに及ばず撃ち抜かれた左腕には、綺麗な丸穴が開いていた。オコンは傷をすぐさま水泡で塞ぎ止める。
「それは力ではない。知識だ。やり方を努力無く受け継ぐだけにすぎない。こういうふうに。」
バルカンが指で空を撫でる。その軌道に沿って白い筋が宙に浮かび上がると、突如白い刃となってオコンに襲いかかった。
「大地の障壁!!」
オコンは矛を大地に突き刺して叫んだ。すぐさま矛を中心に大地が立ち上がり、盾を作り出した。刃と盾は真っ向からぶつかり合ったが___
「くっ___!」
砕けたのは盾の方だった。しかしオコンはいち早く舞い上がり、軌道を変えて急上昇してきた白い刃を睨み付けた。
「メールシュトローム!!」
オコンの指から水流が渦となって放たれる。それは白い刃を覆うように飲み込むと、簡単に打ち消していった。
「さすがに見事な対処だ。だが本来なら、白刃の牙はビガロスの壁で簡単に防げる技だというのは分かっているだろう?」
「___」
オコンは言葉を失っていた。あの白い刃はジェネリの技だ。目に見えるが威力はおそらくデュランダルと同等、しかも自在に軌道を変え、消し去られない限り永久的に追尾する。ただ風は元来大地に弱い。ビガロスの力を秘めた壁であれば容易にうち消せるはずだった。
「これが力の差だ。力に優るものが劣るものを打ち砕く。ごく単純な仕組みだ。」
バルカンは笑わない。冷然と、オコンを突き放すように言い放つ。
「さらに言おう。黒犬のおかげでまだ私の眠りは浅い。そして私は、すでに進化の術を得ている。」
「!!!」
「お喋りが過ぎたな。しかしここで君を殺せば大勢は決する。一挙に五人分の力を得るのは負担だが、今の私ならば苦もなく克服するだろう。いやそれにしても気分がいい。まったくもって___」
嘴が歪む。久しぶりに見た笑みは、侮蔑を込めた冷笑だった。
「君が愚かで良かった。」
目の前でオコンがいたぶられている。熱せられた鉄の上に立たされているかのように、オコンはバルカンが放つ攻撃に踊らされている。あまりにも惨たらしい光景だ。オコンがどれほどの覚悟をもってリシスを、リーゼを、ビガロスを、そしておそらくはロゼオンまでも殺したか、それが分かるから、あまりに不甲斐ない海神の姿をおそらく彼自身が最も嘆いているはずだ。
「___」
どうすることもできない。立ち入れる戦いではない。
ソアラにはただ怯えることしかできなかった。アヌビスを振り切って飛び出した威勢は消え、ここで震えて少しでも長く生きるか、今すぐにあそこに飛び込んで自殺するか、その選択を迫られていた。
(あたし___)
怖かった。フローラの瞳に、ビガロスの背中に勇気を貰ったはずなのに、ソアラにはただ腕を抱くことしかできなかった。
力の差がわかってしまうから、そんなことしかできなかった。
『諦めるのか?』
その時だった。
『なんだよだらしねえなぁ。今までだって俺たちよりずっと強い奴に挑んできたじゃねえか。』
聞き覚えのある声が脳裏に響いた。
『心配すんな。おまえだって今が限界じゃないはずだ。なにせ一度はあのアヌビスに勝った女、しかも俺の愛した女だぜ?って男の俺がこのざまってのがどうにも情けないけどな!』
「え!?」
まるで浅い眠りに見た夢のようだった。バルカンの強烈な力に当てられて、気を失ったのかも知れない。しかしそれにしては自分の体は宙に留まったままだった。目の前ではいまだオコンが痛めつけられているというのに、この状態でうたた寝とは信じられなかった。
(百鬼?)
そしてあの声だ。あれは確かに百鬼の声だったように思う。そして今の自分の手は、腕を抱くように、右手は左の無限の紋様に、左手は右のバンダナに触れていた。
(百鬼なの?)
念じながら強く触れてみる。しかし何もおこらない。戦場の爆音が聞かせた幻聴だったのだろうか?
「百鬼___」
言葉に出してみても変わらない。しかし___
「あたしの___限界か。」
変わったことも確かにあった。
「おのれ___!」
オコンの青と白の鮮やかな武装は、彼の究極の戦闘形態であった。それだけに一太刀浴びせることもできず、いいように翻弄されている自分には怒りすら覚えていた。
バルカンは昔からこの武装を知っている。だからこそ出させた上で、オコンの力の底を計ったのだろう。
(このままで終わらない!これで死んでは、俺は何のために同志の命を奪ったのだ!!)
怒りが力を呼び覚ます。例え身にならずとも、自らが背負った使命の重さが限界を押し広げる。彼を奮い立たせるものは、己の行動が正しかったと証明し、犠牲となった神々に報いたいとの思いだけだった。
「うおおおお!」
目前に追尾するかまいたち、白刃の牙が迫っていた。しかしオコンは逃げることなくそれに立ちはだかる。視線の先には、白刃の向こうで次の攻撃を用意しているバルカンがいた。
「破滅の波は空をも飲みこむ!」
だがオコンは構わなかった。奴が自信を過信に変えている今、究極の攻撃で全てを終わらせるつもりだった。
「カオスシュトローム!!」
オコンの両手から、海水が渦を成して放たれた。それは空に向かう塔のように巨大で、白刃の牙に一切の抵抗を許さず飲み込み、蹴散らしていく。その威力たるや巨大な津波をねじ曲げて結集し、破壊の渦へと変えたかのようだった。
しかしバルカンには動揺すらなかった。油断ではなく、彼は確信を持ってオコンの限界を見つめていたからだ。そしておもむろに翼を広げ、両の拳を体側に引く。
「ビュイガの目覚め。」
バルカンの体が白い波動に包まれた。その瞬間、オコンはバルカンにさらなる戦闘形態があったことを思い出した。奴は様々な鳥の性質を体現する。ビュイガとはバルディスの海鳥で、荒波をもろともせず海中に飛び込み、自在に泳ぎ回って魚を捕らえる性質を持つ。しかも今のバルカンに漲るエネルギーは先程までの比ではない。かつて見たGにも劣らぬ壮絶さ。余程の戦士でも気をやられるほどの、禍々しい殺意に溢れていた。
「うおおお!」
それでもオコンにはこの攻撃しか残されていない。飲み込んだ全てを藻屑と変える最強の波に賭けるしかなかった。
しかし、期待は一瞬で打ち砕かれる。
バシュッ___!
バルカンが翼を畳み、嘴を付きだし、弾丸のようにして荒波に飛び込んだ瞬間、あれほどの勢いを誇っていた波の渦が、まるで槌に叩かれたガラスの筒のように脆くも砕け散ったのだ。
大量の水が弾け飛ぶ。しかしそれよりも早く、弾丸と化したバルカンの嘴が真っ直ぐにオコンの心臓に突き刺さろうとしていた。巨大な力の放散は術者の動きを鈍くする。究極の波がいとも簡単に打ち砕かれた絶望感も相まって、オコンは止まってしまった。
ガッ___!
「!」
しかし嘴はオコンの胸を貫かなかった。僅かに逸れて、禍々しいエネルギーが右腕を焼いただけだった。
「竜波動!!」
黄金の波動がバルカンを追撃する。しかしバルカンは翼を広げて身を翻し、波動に向き直るとその手を振るった。鈍い音とともに弾かれた黄金の波動は、バルカンの羽を少しだけ抉って眼下の大地へと突き刺さり、猛然と爆発した。
ザァァァァッ!!
砕かれたカオスシュトロームの海水が、豪雨となって降り注いだのはその直後だった。しかし黄金の輝いたソアラの体を濡らすことはなかった。
「貴様___!」
「諦めるのは早いわ。あなたも私も目指すものは同じはずよ。」
ソアラは凛然として言い放った。口元に可愛い牙が覗いていたが、彼女は気付いた様子ではなかった。
「俺はおまえを___」
「殺さないわ。もうあなたはそれが意味のないことだって分かっているもの。それに、そうでなくとも私はあなたに背中を見せられる。」
変われば変わるものだ。何が彼女をそこまで勇気づけたのかオコンには知る由もないが、怯えがちだったときとは比べものにならない凛々しい顔を見せつけられて、不覚にも彼女の血族を実感してしまった。
その時点で自分は敗者だと悟った。かつての戦いで、正しき道は常にジェイローグの後にあった。それは今も同じなのかもしれない。親友であることを差し引いても彼の進む道に魅力を感じた過去を、オコンは僅かとはいえ思い出していた。
「お願い。一緒に戦って。」
会話は長くは続かない。バルカンの姿が消えたかと思うと、一瞬でソアラの前へと躍り上がっていた。
「ドラグニエル!」
鋭い爪が振り下ろされようと、ソアラは怯まなかった。黄金竜の鱗で塞ぎ止めるつもりでいた。
「!?」
しかし彼女の左腕に集った鱗はまばらで、輝きもソアラの光を浴びているのにどこか鈍かった。生身の腕で受けるのと大差ない状態だった。が___
ガギッ!!
爪はソアラの肩を掠めて伸びた矛に食い止められた。オコンだ。背中から矛が迫るのを感じていただろうに、ソアラは全く意に介していなかった。
「ユグドラシルの指!」
高らかな声と共に、矛から猛然と木の枝が噴きだす。それはバルカンの爪を包み込み、瞬く間に鳥の体に絡みつく。それがオコンの答えであり、信じていたからこそ、ソアラはバルカンの隙を逃さずに動けた。
「はああああああああ!」
もともと肉を切らせて骨を断つつもりでいた。盾で攻撃を受け、その瞬間に隙を見出して巨大な一撃を叩き込むつもりでいた。だからソアラの反応は敏速だった。
「神竜掌!」
黄金に燃えさかる拳をバルカンに___
シュッ___!
叩き込まなかった。そればかりか姿まで消していた。ソアラの首があったろう場所を、今まで隠していたらしいバルカンの手首から飛び出した鎌爪が切った。
その時ソアラの腰はバルカンの顔の高さにあった。黄金に燃えさかるような輝きは、右の拳から足へと移っていた。
「神竜脚!!」
渾身の一撃だった。
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