4 畏怖

 「まさかだな、ワン公より先にバルカンが出てくるとは。」
 森の木々の一つ、日の当たらぬ場所に広がる闇で嗄れた声がした。
 「貴様___勝手な真似を___!」
 その闇に別の木の狭間から影が飛び込んでくる。辺りの木ではより空に近い場所で無数の鳥が囀っていた。その目があるから、彼らは闇に身を潜めていた。
 「近くで見たいじゃん。」
 「行動は私が決める!」
 影の中にいる限り、二人の体は黒に塗り潰され、鳥の目には映らない。仮面の男ブラックと苛立つカレンは狭い闇の中にいた。
 「あんまり騒ぐと鳥に気付かれるぜ。」
 「大概にしておけ___名誉の戦死と片づけることもできるのだぞ___!」
 「分かった分かった。」
 絶対に分かってない。投げやりな返事にカレンはますます苛立ったが、バルカンが近くにいる状況では手甲をブラックの喉笛に近づけても、熱くすることはできなかった。
 「で、どうするよ。」
 木はそれほど大きくない。完全な闇となる影は狭く、二人はそこに全身をスッポリと隠す必要があった。アヌビスならこの手の闇を自在に広げる事ができるが、カレンやブラックにそんな技巧はない。
 「そうだな___」
 いつもの冷静さを取り戻したカレンは、喉笛から外した手をブラックの肩に掛け、伸び上がるようにして枝葉の向こうの空を睨んだ。空のそこかしこで時折目映い閃光が走っている。光の射す角度によっては影が消されかねない。カレンは周囲を確認しようと視線を下ろした。そこでブラックと目があった。
 「?___今度は何だ?」
 狭い闇の中で二人は酷く接近している。木の幹を背にするブラックと、それに覆い被さるようにするカレンは互いの匂いも分かる距離だった。
 「気にしないのな。」
 服に隠されてはいるが、カレンの胸はブラックの仮面に触れていた。ただそれを指摘されても彼女は顔色一つ変えない。
 「可笑しいか?」
 「いや、格好いいと思うぜ。」
 ブラックにも舞い上がる様子はない。それは彼なりにカレンが異性を気に掛けない理由を感じていたからだった。
 『お取り込み中のところ失礼。』
 「っ!?」
 知った声が闇の中に割り込んできた。カレンは驚いて身を竦め、手がブラックの肩から滑ると二人の体はますます密着した。素敵な感触にご満悦のブラックをよそに、カレンは慌てて振り返る。
 「ア、アヌビス様!?」
 声の主はアヌビスだ。しかしそこにいたのは雀のように小さいが、何から何まで真っ黒な鳥だった。
 「な、なぜそのようなお姿に!」
 「違うだろ、どう考えても。」
 突然のことで少々取り乱したらしいカレンに、ブラックが嗄れ声で突っ込む。彼女は後ろに密着しているブラックの仮面をキッと睨み付けた。
 『バルカンの部下を乗っ取ってるだけだ。俺はまだ結界の中にいる。』
 「そうでしたか___」
 『それにしても___おまえたちがうまくやってるか心配だったんだが、隊長自ら体を張ったスキンシップとは感心感心。』
 「ち、違います!」
 二人の距離をアヌビスに茶化されると今度は取り繕うような慌てぶり。普段は異性を意識しないカレンだが、アヌビスの前では話が違うようだ。
 「なかなかいいおっぱ___ぐふっ!」
 とはいえ、取り乱しながらも見事な肘撃ちでブラックの横やりは許さない。その一撃で我を取り戻したか、カレンは闇の中で平伏して問う。
 「してアヌビス様、どのような御用向きで。」
 『ああ実はな___』
 その顔つきはいつもの謹厳実直なカレンに戻っていた。

 「ずおおおお!」
 気合一閃、ビガロスの斧が空を裂く。バルカンは鈍った動きでそれでも宙で身を翻し、やり過ごそうとする。
 「!」
 その先にソアラが現れる。黄金の竜を宿した紫紺のドラグニエルを纏い、右腕に黄金の爪を煌めかせた彼女は、それ以上に目映く輝いている。
 「くっ!」
 脇から胸にかけて食らいつこうとする爪を、バルカンは体を反らして回避する。重力に任せてそのまま回転し、振り上げた足の蹴爪でソアラを襲う。
 「竜___」
 しかしその時には、ソアラはバルカンの下にいた。下から引き寄せられる力が働いているならば、下に体を逃がすのが最も自然な回避の選択肢となる。そう読んだソアラは簡単にバルカンの背を取った。
 「波動!」
 黄金の波動が青空を一層目映くする。下から上へ、バルカンを撃ち抜くことはできずとも、ビガロスの重力に反して体を引き裂かんばかりに下から上へと突き上げる。
 「ぐぅぅっ___!」
 重力と竜波動、二つの力に挟み込まれたバルカンの体は動きを失っていた。
 「ここまでだ!」
 そこにビガロスの斧。
 「ぬおおおおお!」
 怒声とともに振り下ろされた一撃は、バルカンの下にいたソアラの波動をも裂き、大地にギロチンとなって降り注いだ。危機を感じたソアラは瞬時に飛び退き、眼下の森が震える様を目の当たりにした。
 「凄い___」
 土煙ではっきりとは見えない。しかし大地に深甚の谷が刻まれたことは分かった。もし巻き込まれたらと思うと正直ゾッとした。
 「はっ___!」
 今見るべきは下ではない。気配はまだ近くにあった。見上げるとそこでは、ビガロスが血みどろのバルカンの額に斧の刃先を当てていた。
 バルカンはビガロスを睨み付ける。容赦ない重力は、溢れ出る鮮血を滝のような速さで大地に落としていく。
 「さすがだ。」
 先に口を開いたのはバルカンだった。脊柱線に沿って胸も腹も背中も裂けているが、彼は明朗に言った。斧を押しつけられた額から新たな血が流れ出る。
 「大神に次ぐ地位だけのことはある。私はいささか見くびりすぎていた。」
 傷は開いたまま。それでも生命を保てているのは、彼が少しでもGに近づいていたからだろう。
 「後悔しているか?」
 ビガロスは問う。
 「自らの行いに後悔はない。しかしフェイ・アリエルの不幸には悔いが残る。」
 「神の誇りは潰えぬか?」
 「無論だ。」
 「何が失敗だった?」
 「ムンゾを疑わなかったこと。そしていま少々早く目覚めすぎたことだ。」
 「そうか。」
 バルカンは神妙だった。その態度、視線にビガロスは意気を感じた。
 「命乞いをせぬ潔さ、それはまさに私の知る鳥神バルカンなり。私もその意気に答えよう。」
 斧が白いオーラを纏う。壮絶な力が斧の刃先に結集していく
 「さらばだ、バルカン。」
 そして___
 「ふ。」
 バルカンが嘴を歪めた。
 ヒュッ!
 負傷も重力も嘘のように、バルカンは軽やかに腕を振り上げてビガロスを切り裂く。しかし彼の目に映るのは、ビガロスの形をした石像だった。ビガロスは空蝉のようにして、突如石像と入れ替わっていた。
 「見抜けぬとでも思ったか!」
 「!」
 彼はバルカンの後ろにいた。鳥が振り返ろうとしたその時には斧が脇から食い込んでいた。まさに一刀両断。バルカンの胸から上は斧の刃に乗ってスライドし、切り離された下半身は宙を舞う。
 「!?」
 しかしいずれからも目立った出血がない。いや、あるにはあったのだが、それよりも鳥の顔、羽、翼が強い重力に原形を保てなくなった事のほうが目を引いた。それは鳥の皮を被った別の鳥。バルカンの下で胴を断ち切られていたのは、大きな鶏だった。

 「同じ手に二度も掛かる。」
 後ろから声がした。気配も後ろから広がった。これほど夥しく、触れがたいほど神聖で、偉大で、恐ろしい気配だというのに、声を聞くまで全く気付かなかった。
 「知恵の傀儡ウィザドール。オルローヌの秘術をもう忘れてしまったのか?」
 愕然としてしまった。十二神の中で誰よりも恐れを知らず、剛毅な男が戦いてしまった。奴が本当の姿を現した瞬間から勝負は決まってしまった。
 「ビガロス、あなたは御しやすい人だ。」
 バルカンはビガロスの後ろで腕組みし、ただ悠然としていた。
 姿は変わらない。猛禽の顔も、黄金の飾り羽も、柔らかな羽毛も、筋骨引き締まった体躯も、鋭い蹴爪も、大きな翼も、先程ビガロスに始末されたバルカンのイミテーションと同じだ。だが存在感は比ではなかった。
 「ぅぁ___」
 ソアラはただただバルカンを見上げていた。少し前、森からゆっくりと浮上してきた鳥神バルカンに彼女は気付いた。しかし何もできなかった。彼がビガロスと同じ高さに上がるまで、体の震えを止められず、口の中を乾ききらせ、でも体は汗で濡らし、恐怖のあまり黄金も保てなくなって、ただひたすら見送ることしかできなかった。バルカンがほんの一瞬視線を向けて笑みを見せただけで、意識が喪失しかけた。
 ビガロスの背中に見つけた勇気のかけら、それを一瞬にして粉微塵に砕かれたかのようだった。
 (こんな___こんなことって___)
 動きたい。このままではビガロスが危険だ。彼の側に寄って、戦う勇気を貰いたい。そしてバルカンにできる限りの抵抗をしなければならない。なのに___体が動かない。
 (比べ者にならない___こんなの___アヌビスだって___)
 バルカンの全身から溢れ出る力と意志は、ソアラから全てを奪った。それほどこの男の醸す全てが圧倒的だった。殺気とか、邪念とか、そういったものとは一線を画している。彼は全ての頂点に立つものとして、自らの意志をひれ伏す者たちに告げるだけでしかない。彼が死ねと言えば死ぬ、それは神託であり、愚衆は屈服することしか許されない。
 (勝てる訳がない___)
 威光とでも言おうか。偉大なる存在に対峙したとき、否応なしに感じる畏怖の念。アヌビスの本気を見たとき、竜神帝の真の姿を見たとき、今まで感じたそれらの畏怖よりも、いまそこにいるバルカンのほうが畏れ多かった。
 「私は敬意を示す。もはや誰も侮りはしない。たとえあなたが私よりも劣っていようと、大神に次ぐ存在の命を頂くときはそれ相応の畏敬をもって臨む。それはかつてこの力に臆さなかった竜の神の血族にしても同じ事だ。」
 バルカンがユラリと手を伸ばす。その掌の先で、ビガロスはただ硬直していた。
 「案ずることはない。私はGを支配する。そしてこの力を身に留めたまま、あらゆる世界の頂点に立つ。もはや十二神の苛酷なる務めは終わったのだ。だからあなたも安らかに逝け。」
 バルカンの掌から閃光が迸った。それは瞬時に周囲の大気を白く濁らせ、夥しい波濤となってビガロスを襲う。そこに込められた破壊力は、ソアラを総毛立たせるほどだった。
 「おおお!」
 しかしビガロスは抵抗した。呆然としていたかに見えた彼の瞳には瞬時に力強さが戻り、雄叫びと共に盾を突き出す。踏ん張りのきかない空中でのこと、波濤はビガロスを押し込み、さらに鉄壁だった盾をも浸食していく。
 「無駄な抵抗は痛みを増やすだけだ。」
 「そのような言葉をぬかす輩が___敬意などと語るな!」
 バルカンはビガロスの怒声を鼻で笑い、掌に込める力を幾分強めた。するとビガロスの盾は一気に罅入り___砕けた。
 「滅せよ!ボルガンダ!」
 その瞬間、ビガロスが叫んだ。白い波濤は大地神を飲み込むかに見えたが、盾が砕けたその場所から地鳴りのような轟音とともに赤熱の激流が噴きだしたのである。
 ゴオオオオオ!!
 マグマだ。大地の源は白い波濤を蹴散らし、バルカンを襲う。自信に満ちあふれているからこそバルカンは動かない。マグマの激流は彼の胸にぶち当たると一気に全身を包むように広がり、柔らかな羽毛を燃え上がらせる。バルカンは瞬時に火だるまとなった。
 「ずぁああああっ!」
 それでもビガロスは攻撃の手を緩めなかった。マグマは彼がバルカンに向けた両の掌の前、その空間から噴きだしている。しかし赤熱の波動はビガロスの全身を包み、自らの鎧をも破壊していく。
 いや、砕けた鎧がエネルギーに変わっている。彼の装備、彼の肉体まで、その力の源はマグマなのだ。大地神の名に相応しく、彼は自らの生命力の全てを、バルカンを滅するために使おうとしている。百鬼が全身全霊の練闘気を放つように。
 「この身果てようとも貴様だけはここで止める!!」
 マグマのエネルギーが頂点に達する。飛び散る熱波だけで眼下の森に炎を広げていく。大気は息苦しいだけでは済まないほどの熱を帯びる。ビガロスの鎧はすでに消え失せ、筋骨隆々とした巨大な体躯も心なしか萎みはじめている。頬が削げ、目が窪んでいく。それでもマグマの勢いは衰えない。
 だが、いまだにマグマがバルカンを捉え火だるまにさせていること、それが現実だ。彼は力を受けながら、後退することもなく空に居続けている。
 パァァッ!
 轟音が弾け飛んだ。あれほどの目映さと激しさでバルカンを襲っていたマグマは、割れた風船のように破れて散り散りになった。小さな火の玉が無数に森に降り注ぎ、火の手を一層広げていったが、空の火種は完全に消し飛んでいた。
 「残念だったな。もはやあなたに俺は止められない。」
 火炎に包まれていた痕跡などないようだった。燻る煙どころか羽の焼ける匂いすらさせず、ただ淡い青色のオーラに身を包んだバルカンがそこにいた。その嘴が開くのを、ビガロスはただ見ることしかできなかった。

 ドッ___!

 その砲撃は静かだった。しかし恐るべし速さと力を持ってビガロスを襲った。触れた瞬間、エネルギーが弾けて巨大な爆発を巻き起こす。
 ただその時、バルカンの眉間には幾らかの力が込もった。爆破は緩衝する力があったからこそのもの、本来ならば弱った地神の胸を貫いて、遠くにあるだろうエコリオットの神殿まで届くはずだった。
 「!」
 ビガロスは目を丸くした。体に痺れるような衝撃はあったが、痛みらしい痛みはなかった。己の胸に縋り付くようにして、暖かな感触があっただけだった。
 「___馬鹿な!貴様は___!」
 ビガロスにソアラが抱きついていた。バルカンに背を向けて、彼の胸にしがみついていた。その背は真っ赤に染まり、神の力を宿した竜の装束も裂けていた。紫色の髪を結っていた紐は消し飛び、長かったそれは首の下当たりで無惨に焼ききられていた。
 「なんということを!」
 背中の赤は血に染まった肉だった。背中は巨大なナイフで抉られたかのように削がれ、骨の露出した場所もあった。
 「っ___ぁっ___」
 ソアラは息も絶え絶えだった。ただビガロスにしがみつくのが精一杯だった。呼吸がままならず、口から漏れるのは詰まった呻きと鮮血ばかり。
 「ぁた___じゅぅ___に___まも______」
 言葉にならない。しかしビガロスは彼女が何を言おうとしているか分かった。
 私は十二神を守るために来た。
 今まで果たせなかったその勤めを、絶対的な脅威を前に身動きできなかった体を奮い立たせ、やってのけた。それは彼女の意地でもあり、強さでもある。ビガロスの双眼からは憚らず涙が溢れ出た。
 「僅か一分。」
 しかしバルカンは冷淡かつ平坦だった。
 「彼女の命は、あなたが僅か一分長く生きるために費やされた。あいにくだがそれ以上にもたらすものはない。」
 その翼を雄々しく開く。羽の一つ一つに鋭気が宿るのをビガロスは感じていた。羽を飛ばして縦横無尽の刃とする「昔」のバルカンの奥義だ。あえてビガロスも知る技を用いたのは、彼の心を折ろうという腹づもりか。
 「侮蔑はさせぬ___」
 しかし今のビガロスにそんなものは関係ない。片腕で血まみれのソアラを優しく抱き留め、逆の拳に力を込める。もはや盾も斧も鎧もない。しかしビガロスは諦めようとしなかった。
 「我が命に代えてもこの女を死なせはせぬ!我らのような存在のために命を賭すことを厭わなかった勇者を___捨て置くことなどできようものか!!」
 ソアラの行為は彼を奮い立たせた。最果ての世界で誰に知られるでもなく長い時を費やしていた十二神。ただひたすら自らの命が果てるまで、そこに居続けることを勤めとした神々。彼らの周囲には生命の形を成すものたちがいる。それらは主人たる十二神を守るために動くが、そこに己の意志など存在しえず、ただ義務的に尽くすだけ。
 ソアラの行為はそれとは根本から異なる。彼女とて、盾になったところでビガロスがバルカンの脅威から逃れきれないことは分かっていたはずだ。それでも身を挺して守ろうとした行為そのものが、人の温かみであり、優しさであり、勇気なのだ。それが無謀な行為であっても、バルディスを去って以来触れたことの無かった人らしい感情に、ビガロスは涙していた。
 そして長い長い時が、自分から、バルカンから、オコンから、全ての十二神から奪い取ったものを知った気がした。
 (彼らは持っている___この殺伐とした世界を変える穏やかな光、温もり、優しさ、信じる心、希望を!___それを絶やすことなど絶対にあってはならぬ!)
 その刹那、ビガロスは目を閉じていた。それがバルカンには覚悟を決めた姿に見えた。だから羽を広げたままで大地神の言葉を待った。しかし彼が目を開いたときに気が付く。ビガロスは抵抗の意志を一層燃えたぎらせていると___
 そしてバルカンは雄々しい叫びを聞いた。
 「僅か一分とは笑止千万!彼らは我らに燻る数千年もの虚無を埋めてくれるではないか!それすらも分からぬ愚者に成り果てたか!バルカン!!」
 大地を揺るがす怒声とともに、幾らか縮んだ彼の体躯から再び夥しいエネルギーが溢れ出た。
 「なんとしても抗うか。」
 それが合図だ。すでに力を満たしていたバルカンは、翼を大きく振り上げた。阻むものなど何もない。これでまた彼はGへ近づくことになる___はずだったが。
 ドドドドドドドドド!!
 空が爆発した。燃えさかる森に触発されるように、無数の爆発が巻き起こり、バルカンの飛ばした羽をことごとく蹴散らした。それは花火のような目映さで、バルカンとビガロスの間で弾け続けた。
 「___な、なにごとだ!」
 ビガロスも驚いていた。しかし爆破は彼とバルカンの間に障壁は作っても、ビガロスの肌を焼くことはない。一方でバルカンには火種そのものがいくつもぶつかっていった。
 「虫か。」
 先程から辺りには大量の羽虫が舞っていた。ただそれは森の火災から逃れてきただけと意に介さなかった。小さな爆弾を抱えて飛んでいるとは思わなかった。
 バルカンを攻め、ビガロスを守る。虫はビガロスの周りにも飛び回っているが、爆発するのはバルカンの周りだけ。それが術者の意志を物語る。
 「小癪。」
 そこまで分かれば興味も失せる。爆破は邪魔立てでしかなく、バルカンを傷つけるほどのものではない。まさに羽虫を振り払う手応えで、バルカンは眼下の森に向かって空を切った。
 「!!?」
 その動作を目の当たりにした瞬間、森の闇に隠れていたカレンは凍り付いた。偶然かも知れない、しかし奴の攻撃は的確にこちらを狙っていた。虫に爆弾を仕掛けた張本人を見透かすように。

 大地が割れる。バルカンの腕の一振りで、森に一文字が走った。それは燃えさかる炎をも蹴散らし、木々をなぎ払い、大地の奥底まで深く抉り込む。ビガロスの渾身の斧よりも深く広く、谷を刻んだ。
 「___くっ!」
 一瞬、視界が闇に落ちた。しかし鈍い痛みが覚醒を促し、カレンは今起こった出来事を知った。凄まじい破壊力に辺り一帯が吹き飛び、彼女は木片と瓦礫にまみれ、仰向けに倒れて目覚めた。遠くには、できたばかりの断崖絶壁が見えた。
 「危なかったな。」
 そちらに目を奪われて、自分の腰に俯せにのし掛かるブラックに気付くのが遅れた。
 「すまない、礼を言う。」
 彼はカレンの下腹部に頬を寄せるようにしていたが、カレンは怒るどころか詫びの言葉を口にした。それもそのはず、あの瞬間に硬直してしまったカレンをブラックがタックルで吹っ飛ばさなければ、今頃谷底で粉微塵になっていただろう。
 「!?___貴様!」
 一転してカレンの頬が強張った。しかしブラックをはね除けることはなく、肘を張って体を起こしつつ、瓦礫を退かしはじめた。
 「___!」
 そして息を飲んだ。先程からなま暖かい感触が足を濡らしていた。悪い予感はしていたが、その正体を知るのに時間は掛からなかった。
 「馬鹿な___!」
 そこにあるはずのものがない。仮面の男の体は、腰から下が消えていた。黒と赤が入り乱れた血が噴き出して、瓦礫の山に凄惨な彩りを加えている。
 「ありがてえ、心配してくれるのな。」
 「当たり前だ!アヌビス様が認めた以上、我らは同志だ。まして貴様のようなものに守られ、あげく先に逝かれてはあまりに屈辱的だ!」
 カレンは爆炎の手甲とは逆の左手に輝きを灯す。回復呪文だ。その光は辺りの鳥の目に止まるものだったが、彼女は躊躇わなかった。
 「そういう潔いところ好きだぜ、リーダー。」
 「黙っていろ!」
 傷は深い。しかし仮面のせいだろうか、ブラックには全く悲壮感がない。それがカレンを苛立たせもしたが、同時に冷静にもさせた。
 「心配してくれてありがとな。でも今の俺にはこれも大して痛くない。それにもうじき約束の時間だぜ。」
 「!___そうか!それで貴様は___!」
 「そういうこと。隊長に負けじと俺たちのご主人様を全面的に信頼したからできたことさ。そうじゃなきゃただの自殺行為だぜ。」
 仮面の僅かな隙間、そこからブラックの素顔の白い歯が覗いた。彼は確信をもって笑っていた。その態度に、カレンは少なからず心強さを感じた。

 「さて、覚悟は決まったか?」
 バルカンは悠然とビガロスをみていた。優劣はいかにもはっきりとしている。しかしビガロスは、ソアラの鼓動がほとんど感じられないことに焦りは抱いていても、今自分の立たされている状況への恐怖はなかった。
 「そんなものはとうの昔に決めている。裏切りを断じて許さぬという覚悟をな!」
 「息巻くだけでは何も残らない。」
 バルカンが右手をユラリと振り上げる。
 「そろそろ終わりにしよう。あなたは私のものとなる。」
 掌に破壊の力が結集する。ビガロスは険しい顔でそれを睨み付け、同時に肩に担ぐようにしていたソアラに添えた手に力を込める。
 (案ずるな。死なせはしない。)
 彼は確かに覚悟を決めていた。バルカンの攻撃に抵抗するのではなく、奴の進む道をできる限り妨げてやろうと。
 「さらば___」
 その瞬間、ビガロスは自らの体に残された力の全てを露わにしようとしていた。しかしバルカンが唐突に後ろを振り向いたことで、思いとどまった。
 「なんだと?」
 眠りから覚めて以来初めて、鳥は訝しげな目をした。視線の先にあるのは彼の世界を覆い尽くす結界。それが___
 パシィィッ___!!
 罅入った。
 「!」
 バルカンは目を見開き、振り上げた手は何も生みださずに降りてくる。彼は確かに驚いていた。罅から黒い歪みが広がると、紙に灯った火のように結界を浸食し、破壊していく。それから十秒としないうちに、結界全体に罅が走った。
 バァァァァァンッ___!
 巨大なガラスが砕けたかのようだった。罅入った次の瞬間に、結界は粉々に飛び散って崩れ落ちる。その破片はあっという間に、大気に溶けるように消え去った。
 「なっ!?」
 呻いたのはビガロスだ。バルカンはただ感嘆の面もちで結界が消える様を見続けていた。一方の大地神は、大切に抱き留めていたはずのソアラが跡形もなく消えてしまったことに狼狽していた。
 「___」
 バルカンはそちらを一瞥すると、結界が消えて露わになった己の世界に再び目を移す。
 「さすがだ。しかし無理は体に毒だぞ、黒犬。」
 その嘴が、挑戦的な笑みに歪む。しかし薄笑いはすぐに掻き消された。
 「!!?」
 結界が壊された残響だろうか、バルカンは頭に鐘突きの残響のような違和感を覚えていた。それは彼の感覚を鈍くさせる。ただそうでなくとも、見事なまでに森にとけ込み、唐突に姿を現した男の気配を察するのは難しかったろう。
 「ぐっ!ごぉあ!?」
 バルカンの体が水の柱に飲み込まれた。水のドラゴンはうねりを上げてバルカンに食らいつき、その体をビガロスの前から吹っ飛ばしていった。
 「貴様は___!」
 ビガロスは唐突な出来事に唖然とした。しかしその攻撃が誰によるものか知るのは簡単だったから、顔つきを険しくして現れた男を睨み付けた。
 「オコン!」
 Gに近づくもう一人の十二神は、堂々たる姿でそこにいた。




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