1 超越した存在

 主が死した世界は徐々に荒廃していく。死した十二神の力はバルカンかオコンに継承されているが、世界がありのままに維持されるわけではない。世界の活力は主の生命力に通じるのである。
 「あれか。」
 その世界は緑に溢れ、数多の生命が活気と殺気を持って騒ぎ立てる。その喧噪を真っ向から突き破る黒犬は、自らの手を煩わせるでもなく背後に「鳥」の死体を転がしていった。
 「あそこに御大がいるわけだ。」
 邪神アヌビスは遠くにそそり立つ巨大な鳥の巣を指さして言った。彼はいま、結界に閉ざされたはずのバルカンの世界にいる。時にしてソアラがビガロスと出会う少し前だ。
 「本当に行くんですか?アヌビス様。」
 アヌビスの後ろにはヘルハウンドのクレーヌ、ガッザス、ディメードが続いていた。疑問のなさそうな男たちと違って、クレーヌは不安げに問いかけた。
 「なぁにびびってるんだクレーヌ!?女王様の名がすたるぜっゥゴッ!?」
 豪快に笑い飛ばそうとしたガッザスの顎に鋭い鞭が打ち付けた。
 「だぁれが女王様よ。」
 「それそれ、その鞭。」
 「はぁ?」
 茶々を入れてきたディメードを眼光鋭く睨み付けるクレーヌ。
 「気が立ってるなぁ。あの日か?」
 「___アヌビス様、冗談にも品性は必要です。」
 アヌビスすら苦笑させる迫力。だがクレーヌはすぐに心配顔に戻って小さな溜息をつく。
 「バルカンは我々の脅威となりうる存在ですが、まだこちらの動きはほとんど知られていません。あえて身を晒す必要はないように思うんですが___」
 「見てみたいんだよ、Gに一番近い奴を。少なくとも俺はあいつに見られているしな。グレインが死んだ森で。」
 「!」
 クレーヌが息を飲む。ディメードとガッザスもその名を聞くと表情が硬くなった。
 「奴が結界を張ったとき、幸運にも俺たちは内側にいた。外に出るのも容易でないし、せっかくなら誰にも邪魔されずにバルカンとご対面を果たそうというわけだ。難しいことじゃないだろ?」
 アヌビスはニヤニヤと笑いながら、軽々しく言う。だがクレーヌは納得しなかった。たしかに彼ら四人はいまバルカンの世界に閉じこめられている。しかしそれは偶然ではなく、アヌビスがはじめからバルカンの神殿を目指していたからこその結果であり、クレーヌにも行動の意図を問いただすべきか悩む時間は十分にあった。
 「見て___どうするんです?」
 臆さずに問いかける。明らかに反抗的に。
 「私はアヌビス様の意思を理解できないまま動きたくはないんです!」
 「___」
 「私の忠誠は決して揺らぎません。でもグレインの死には納得していません!なんでかって考えたら___あたし___アヌビス様がこっちで何をしたいのかよく分からないって気付いたんです!」
 思い切った物言いだった。ヘルハウンドはアヌビス子飼いのしもべだが、気弱なグレインを除けばボスとの会話で萎縮する玉はいない。しかし彼の意志に楯突くとなると話は別だ。少なくともリーダーのカレンは絶対にしない。
 「バルカンに会ってどうするんです?アヌビス様はこの世界で何を得ようとしているんです!?アヌビス様の最大の敵は誰なんです!?ジェイローグですか!?ソアラですか!?それともバルカンですか!?」
 ここにカレンがいれば、有無言わさずクレーヌの反抗を止めただろう。しかしガッザスとディメードは動けなかった。彼らも少なからず疑問を抱いていたからだ。
 「___」
 黄金色の瞳に見据えられると、分かっていても足が震えそうになる。手にした鞭が揺れないように、できる限り心を鎮めて、それでも強い情熱をその目に込めて、クレーヌはアヌビスを見つめ続けた。
 「俺は___」
 やがてアヌビスが口を開いた。冗談めかした笑顔ではなかった。
 「新たな見識と力を得るためにここにきた。」
 そして近くにあった巨木に手を触れる。それはすぐさま黒い邪輝に蝕まれ、朽ちるように折れていった。木が倒れると、鳥たちが慌ただしく飛び立っていく。アヌビスの力を恐れるように、遠くに見える巨大な巣へと逃げていく。
 「座れ。」
 倒れた木の幹を巨大なベンチにして、アヌビスはヘルハウンドの面々を座らせた。
 「俺は気分屋だ。目指すものもころころ変わる。それに付き合わされるおまえたちは大変だろうから、少しだけ話をしてやろう。」
 意外だった。アヌビスの真の意志を知るのはダギュールだけと言われる。事実、ヘルハウンドもアヌビスの命令に従うだけでしかない。それはかつての八柱神もそうだった。
 (聞くに及びません___)
 クレーヌにはそう言い放つカレンの姿が鮮明に想像できた。だがこの戦いの熾烈さを身を以て知りつつある彼女は、実際少し死を恐れていた。何も知らずに散ったグレインの無念を思うと余計に。
 「お願いします。」
 「クレーヌ!」
 ガッザスが語気を強める。しかしクレーヌは構わず巨木のベンチに座った。
 「カレンが知ったら怒るだろうな。」
 その隣へディメードも腰を下ろす。
 「秘密にしておけ。一番振り回されてるあいつをおまえたちで支えてやればいい。」
 「!」
 その言葉にガッザスが目を見開いた。そして熱血漢の大男もまた、鼻息を荒くしながら巨木へ座りこむ。
 「さて___」
 そしてアヌビスは、いつになくシリアスな犬の顔で語り出した。
 「俺が目指すものは___」

 一方そのころ、ヘルハウンドのリーダー、カレン・ゼルセーナは___
 「忌々しい壁だ。」
 結界の外にいた。
 アヌビスがバルカンの世界にいるのは知っている。カレンはミキャックの救出に動いたため合流が遅れたのだ。彼女は一人壁の外で待つことを強いられていた。
 「苛立つとビガロスに気取られる。」
 いや、一人ではない。光の壁を睨むカレンを、緑の木陰に寝転がって見守る男がいた。引き締まった長身の体躯を包むのは、黒服、黒マント、黒い靴に黒い手袋、極めつけは顔全体を隠した黒い仮面。それはアヌビスをモチーフにしたような犬の面だった。
 「じっと息を潜めて待とう。」
 「黙れ猪口才。」
 「俺の名前はブラックだ。他の連中みたいに名前で呼んでくれ。」
 名前も色合いそのままだったが、嗄れた聞き取りづらい声だけはスマートな容姿に似合っていなかった。声量にも乏しく、機能を失った喉を無理矢理震わせているかのようだった。
 「あいにくだが私はまだ貴様を認めていない。アヌビス様の勅命によりここに置いてはいるが、貴様はまだヘルハウンドではない。」
 彼はグレインを失ったヘルハウンドに、アヌビスから宛われた補充人員である。ただ正確には候補でしかない。ヘルハウンドとして認めるか否かはリーダーであるカレンに任せられている。そして現状、彼女はブラックを快くは思っていない。
 「やれやれ。心配性なお方だ___」
 そんな上官の気も知らず、消え入りそうな声なのに饒舌な口調でブラックが軽口を叩く。次の瞬間___
 シュッ!
 彼の喉元に、爆炎の手甲が突きつけられていた。
 「口を慎め。私ごときに身を案じられるアヌビス様ではない。」
 「___」
 仮面の奥に殺意を込めた視線を注ぐ。しかしブラックは咽頭さえ動かさなかった。
 「分かってる。」
 そしてほんの軽く手で押して、爆炎の手甲を退ける。しかし___
 ジュゥッ。
 「ぅいっっっ!!」
 手甲の表面が熱々だったのは誤算だった。
 「ふん。」
 生意気な新入り候補にお灸を据えて、カレンはまた壁の前へと戻っていった。

 「いいかげんにしてたください!!」
 「お、落ち着けクレーヌ!」
 いきり立つクレーヌをガッザスとディメードが必死に止める。彼らの前ではアヌビスが頭を抱えていた。いましがた食らったクレーヌの踵落としが思いのほか痛かったらしい。
 「だって!」
 真面目な顔して「趣味のメルヘンポエムのネタ集めだ」と言われれば、クレーヌが怒るのも無理はない。ただ踵が飛んでくるとはさすがのアヌビスも予想外だったらしい。
 「お〜いてぇ。」
 「謝れ!クレーヌ!」
 「あ〜、気にすんな。」
 ガッザスはクレーヌの頭を掴んで詫びさせようとするが、顔を上げたアヌビスがそれを制した。
 「いつになく鋭い蹴りだったぜ。」
 「___申し訳ありません。」
 クレーヌもようやく落ち着きを取り戻す。いつまでも頭を掴んでいるガッザスと、ここぞとばかりに腰を抱いているディメードを振り払って、アヌビスに頭を垂れた。
 「いや、グレインのことを思えば悪ふざけだったな。だがそんなに怒られるとおまえに話すべきか考えものだ。」
 「___と言いますと?」
 アヌビスは少しだけ虚空を見上げ、改めてクレーヌを見据えた。ドキリとしたがクレーヌも目を逸らすことはなかった。
 「俺は俺自身の好きなように動いている。そのためにグレインは死んだし、おまえの旧友のライディアも死んだ。それが受け入れられないと言うなら、おまえには話せない。」
 「!」
 「おまえの知る顔、例えばかつての八柱神は俺の我が儘で全滅だ。それだけじゃない、俺は冥府の頂点に立つものとして、俺の目指すもののために誰かが命を失うことを躊躇ったりはしない。それをおまえは受け入れられるのか?」
 アヌビスの内に秘めた凄みは知っていたつもりだ。しかし普段があまりに飄々としているから、少し真面目な顔で難題を向けられるとクレーヌの思考はたちまち混沌とした。
 「どうだクレーヌ?声にしづらければ縦か横か、首を動かすだけでいい。」
 もしも睨み付けての問いかけなら、恐怖に屈して答えは縦しかありえない。だがアヌビスは精悍に、まるで告白の時のような優しさを秘めた顔で、じっとクレーヌを見据えた。まともな思考など期待できる状況ではない。自然と汗が噴き出てきた。だが黄金色の瞳を見つめていると、やがて何かが吹っ切れた。
 そして思い出したのだ。さっきの自分の言葉を。そして自分がずっと支えていたい、幸せになって欲しいと願う隻腕の親友の生き様を。
 自ずと答えは一つになった。
 「受け入れられます。」
 「本当か?」
 「あたしの忠誠心は揺るがない、その言葉に嘘はありません。」
 「___ふぅん。」
 アヌビスは顎に手を添えて不適に笑った。いかにも意地悪な笑みだった。
 「俺の目的がただの観光だとしても?」
 「はい。」
 「ソアラといちゃいちゃしたいだけだとしても?」
 「はい。」
 「メルヘンポエムのネタ集め___」
 「それは嫌です。」
 「なら___」
 短い間はあった。しかし彼は事も無げに続けた。
 「世界をも超越した存在になることだとしたら?」
 「!___」
 クレーヌの肩が竦んだ。ガッザスとディメードも同じだった。
 「それが___」
 「答えは?」
 それが真の目的なのだろうか?いや、きっとそうだ。
 「___はいっ!」
 クレーヌは身震いしながら、いつになく大きな声で答えた。言葉の意味は分からない、しかしアヌビスからそれを伝えられたという事実だけで、稲妻が走ったかのような衝撃だった。しかも事はそれだけでは終わらない。
 「いい返事だな。」
 アヌビスがクレーヌの手を握った。
 「ここは鳥が多いから語りたくはない。だからおまえには直に見せてやる。ただし、その命を俺のために使うと誓えるならだ。カレンと同じようにな。」
 迷うまでもない。邪神の手に体を引き寄せられるよりも早く、答えは決まっていた。

 アヌビスは邪神だ。邪神の父と高尚なる母から、正確にいえばその邪輝を源に生まれた崇高なる存在だ。誕生したアヌビスはまだ黒い霞でしかない。彼はそれから、一生を共にする体を自らの意志で選ぶことになる。
 偉大なる邪神を父に持ちながら、彼は貧相な黒犬の体を選び、アヌビスとなった。その決断からしてこの男は変わっていた。それを否としなかった彼の父にもまた、変わり者の素養はあったのかもしれない。
 アヌビスは常に独特だったが、暗黒の闇に生きるものたちの頂点に君臨するという「邪神の本分」だけは忘れなかった。いわば父の覇道を継承したわけだが、変わり者ゆえに彼を認めようとしない輩は多く、一時冥府は四分五裂した。
 しかしアヌビスは冥府の頂点に立つ。それはこの世に生を受けてからの必然であり、それができなければ邪神としての価値を失うことになる。冥府を統一し、父をも滅し、彼は変わり者アヌビスでなく、真に邪神アヌビスとなった。神としてはガキ扱いできる若さだったにも関わらず。
 アヌビスの側にはそのころからダ・ギュールがいた。魔に墜ちた元天族の神官は冥府でも居場所がなかったが、アヌビスは彼を重用した。それは彼の語る話が面白いからだった。
 ジェイローグ、闇の女神レイノラ、竜の使い、G___アヌビスの興味の源泉はダ・ギュールによって掘り起こされてきた。だが彼は、アヌビスがそれを望むから語ったにすぎない。思い浮かべたくもないだろう天界の風景を、無口な彼が好んで語るはずがない。つまりダ・ギュールは、当初からアヌビスの命ずるままに動く忠義の将であった。
 その後、アヌビスの興味は竜神帝ことジェイローグに向けられた。絶対的な存在と謳われ、事実彼の父も触れようとさえしなかった光の神に挑むことを決意したのである。しかしそのためには、隔絶された世界である冥府をジェイローグの居場所に近づける必要があった。ジェイローグの手元に自ら進み出る、それは冥府滅亡の危険を孕んだ行為だったが、彼は何ら躊躇わなかった。もはや無風と化した冥府に飽きていたからだ。
 天族同志の争乱。竜の使いユーリスが死に、翼を持たない天族が滅び、レイノラがジェイローグを憎むきっかけとなった出来事。あの時、アヌビスは冥府をジェイローグの居場所に近づけた。その結果、冥府は半壊の危機に陥ったが、彼はジェイローグとの接点を絶たなかった。
 時を経て、アヌビスはジェイローグの目の届く場所、地界へと居を移した。そこに冥府との連絡口を築きつつ、表だっては何をすることもなく、辺境の島でジェイローグが治める世界を感じていた。超龍神に邪輝を植え付けるなどの悪さはしたが、自らの力を封じていたジェイローグは、アヌビスを監視はしても滅ぼそうとはしなかった。いや、できなかった。
 やがてソアラが誕生し、時を経てアヌビスは彼女と出会う。当初はジェイローグを焚きつけるための駒、新たなる挑戦へのきっかけ程度にしか見ていなかったソアラが、彼を驚かす存在になる。
 さらには黄泉という名の世界。新たなる興味はアヌビスを動かし、レイノラをも巻き込んで、やがて世界をも動かす。機が熟したのだ。天界への侵攻で、アヌビスはジェイローグを無力化させるに至った。
 これでアヌビスは頂点に立った。だがそれは見かけ上のことだ。かつて究極の力と恐れられたGがある。ジェイローグを破り、アヌビスはその遺産に手を伸ばす資格を得た。だからこそ彼は、オル・ヴァンビディスにいる。

 クレーヌは闇の中にいた。彼女は黒しかない景色の中で、アヌビスの記憶を辿っていた。そして今、バルカンの世界に立つアヌビスへと辿り着いた。
 「___」
 でもなぜだろう、釈然としない。
 「世界をも超越した存在。」
 そう、結局その言葉の意味はピンとこなかった。
 (って___アヌビス様?)
 姿は見えない。しかし隣にアヌビスがいて、肩を抱いてくれているような感じがした。今の言葉は、アヌビスが耳元で囁いてくれたかのようだった。
 やがて、見えないアヌビスがクレーヌに問いかける。
 「この世界を作ったのは誰なのか?」
 分からない。誰か分かる人がいるのか?
 「俺たちの遠い祖先は、どこから生まれたのか?」
 分からない。誰か分かる人がいるのか?
 「俺でいうならば、邪輝の誕生とは何か?」
 分からない。アヌビス様が分からないのならおそらく誰にも分からない。
 「俺は確かに冥府の頂点には立った。しかし冥府を制してはいない。宿り木たる世界がなければ生命は誕生すらままならない。それを知らない俺は真の神ではない。」
 そうなのかも知れない。しかしそれを知ることなどできるのだろうか。
 「かつてバルディスに現れたGは、世界を破壊した。破壊の果てには___変な言い方だが、無が現れた。つまりGの果てに世界は無へと帰るということだ。」
 無というのはこの闇のようなものだろうか。
 「無は闇とは違う。光と色がないのはもちろんだが、それ以外の全ても存在しない。前後左右すらもだ。前も後ろも上も下も、一つの基準点があって初めて現れる。俺の勘では、Gは世界を無へと変え、やがて唯一無二の基点となるはずだ。ではその先に何があるのか?何が起こるのか?」
 考えたところで確かな答えなど導きようがない。今はアヌビス様の言葉を待つだけでいい。
 「それは誰にも分からない。だがオル・ヴァンビディスが一つのヒントだと俺は考えている。十二神はGの力を源に、新たな世界を創造することに成功した。連中が大地や海や森を司る神だったこと、エコリオットが創造の手法を探求していたことは幸いだったし、部分的にバルディスの残骸が使われているかもしれない。だがこれだけ安定的な世界を創造したという事実は興味深い。」
 するとアヌビス様は___
 「かつてGは自らの力を源に、全く新しい世界を創造しようとしていたんだと思う。過去の全てを消し去り、新しい世界のもと、新しい生命が誕生し、繁栄する。それは今のような人ではないかもしれない。その世界の創造主という意味では、Gは超越した存在、真の神となり得ただろう。」
 Gの力で自らが真の神になろうとしている?
 「でもそんなものが面白いか?」
 違った。
 「確かに自分の作った世界だが、そんな考え方で世界を見れる生物が誕生するまでいったいどれだけの時間が掛かるんだ?俺は冥府の宿り木に生まれたが、今ではその冥府を動かすことができる。もちろん創造主の顔色なんて窺う必要はない。真の神なんてものは誰の記憶にもないからだ。存在すら考えたこともないからだ。」
 肩を抱く手が放れたような気がした。代わりに、耳元に優しい吐息が触れ、ささやきが聞こえた。
 「Gが世界の再創造のプログラムのようなものだとして、俺はそれに匹敵する力を身に着けたいとは思う。だが、世界を無にする行程は不要だ。作るのであれば、過去、歴史、記憶、全てを生かしたまま作る。」
 それが___真の目的?

 「!」
 クレーヌは目覚めた。
 「お?」
 彼女はディメードに抱き止められて眠っていた。
 「大丈夫か?」
 ディメードはまだ目の虚ろなクレーヌの眼前で手を振る。それに覚醒を促されたか、クレーヌはディメードの手を打ち払って勢い良く体を起こした。
 「アヌビス様___!」
 辺りを見渡しても、黒犬の姿どころか森の景色さえない。夢で見た暗闇と同じ世界に、自分とディメードだけがいた。
 「アヌビス様はバルカンの所に行ったよ。一人で行くと言ってたが、ガッザスが無理矢理付いていった。」
 「そんな!」
 クレーヌは立ち上がり、どこでもなく辺りの闇を掻きむしる。しかし手応えはない。
 「無駄だ。アヌビス様特製の闇のカーテンはそう簡単に破れない。」
 「あたしはアヌビス様のお手伝いがしたいんだ!」
 クレーヌは闇雲に鞭を振るう。しかし何かに触れた感触すらない。
 「俺は自分がGになるつもりはない。」
 「!?」
 「Gに頼るつもりもない。だがGに劣らぬ力は身に着けるつもりだ。そのためには、俺を頂点に立たせない存在が必要になる。かつてのジェイローグがそれだった。そしていまは___」
 「ディメード!」
 なぜだか無性に腹が立ったクレーヌは、ディメードの胸ぐらを乱暴に掴んだ。
 「俺はこれからバルカンがそれに値する存在かどうか、見てくる。」
 「あんたが言うな!ディメード!」
 「落ち着けクレーヌ。」
 ディメードがクレーヌの手に触れる。彼自身の言葉に戻ったことで、クレーヌもまた我を取り戻した。フッと力が抜け、指が解れた。
 「俺はアヌビス様の指示に従っただけだ。」
 「______そうか___そうよね。ごめん、どうかしてた。」
 離れようとしたクレーヌの手を取ったまま、ディメードは逆の手で彼女の肩を掴む。
 「なあクレーヌ。俺たちは俺たちの信じるままに行動すればいい。アヌビス様は俺たちを守ってはくれないが、俺たちが本音を偽ってまで命を捧げることを望んでもいない。それで十分じゃないか?」
 「___」
 クレーヌは答えなかったが、吐息の分かる距離で語るディメードと、真っ直ぐに視線を交わしていた。
 「おまえがこの件から手を引きたいといえば、アヌビス様だってそれを咎めたりはしないと思う。」
 「あんたは___アヌビス様のために命を捨てられる?」
 「ああ。ヘルハウンドだからな。」
 ディメードは即答した。そう聞かれることを予想していたわけでもないだろうに、彼には迷いがなかった。
 「この部隊に入ったときから覚悟はしているつもりだ。ただ、俺の覚悟なんぞカレンに比べれば豆粒みたいなもんだろう。」
 「___」
 そう、それがヘルハウンドだ。グレインにそこまでの志しはなかったようだが、少なくともカレン、ガッザス、ディメードには気骨がある。では自分はどうだろう?
 「___あたしはカレンを放っておけなくてヘルハウンドに入った。その時点であんたたちとは少し違うかもね。」
 その言葉にディメードは長髪をかき上げてニヤリと笑う。
 「だろうな。アヌビス様もそれが分かっていたから、おまえには全てを見せて選択の余地を与えた。俺やガッザスはアヌビス様のために尽くすことに疑問を持っちゃいないから、そんなことを知る必要もない。それで自分の寿命が縮んだとしても、アヌビス様が過去を忘却しない方だと分かっているから、その記憶に残る生き方ができればそれで十分だ。」
 「ふぅん。」
 気のない返事だが、クレーヌは真剣に考えていた。本来竹を割ったような性格の女が、いつになく湿っぽい顔で悩み続けていることにディメードは胸を擽られた。
 「クレーヌ。」
 「ん?ん!」
 衝動的に、ディメードはクレーヌの口を吸った。一瞬だけ肩を竦めたクレーヌだが、すぐに力みを解いて彼に任せた。長い口付けだった。
 「眠り姫には王子のキスだ。目が覚めたら好きに行動すればいい。」
 唇が離れると、余韻の残る吐息に乗せてディメードは優しく言った。クレーヌは頬をほんのりと上気させて笑みを見せる。そして___
 「___ありがと。おかげで目が覚めたわ!」
 バチンッ!
 愛情を込めてディメードの頬にも真っ赤な跡を染み付けたのだった。
 その時!
 フッ___
 「!?」
 「っ!」
 彩り鮮やかな景色が戻った。唐突に、二人を包んでいた闇が消え去ったのである。
 「アヌビス様?」
 戻ってきたアヌビスが一部始終を見て悪戯をしたのだろう、二人揃ってそう考えた。しかし周囲には邪神どころか、声も気配も大きなガッザスの存在感すらない。
 「チチチ。」
 「クェックェックェッ。」
 森の中に立つ二人を周囲の木々から無数の鳥が見下ろしている。円らな瞳の一つ一つが残忍な輝きを放って、二人を監視しているかのようだった。
 「どういうことだ___闇のカーテンが勝手に消えるなんて普通じゃないぞ!」
 ディメードはクレーヌを庇うように身構え、掌の宝石を煌めかせる。
 「アヌビス様に何もなければね___」
 「馬鹿な!!」
 気障なはずの男がヒステリックに声を荒らげる。クレーヌ自身も「あり得ない」と思いながらの言葉だったが、冷静に全ての可能性を考えねばならない。カレンほど一途でない自分には、それができるはずだから。
 「ディメード、あたしさ、ヘルハウンドに入った一番の理由はカレンのためだけど、やっぱりアヌビス様のことも好きよ。」
 「それで?」
 「大切な人のために全てを捧ぐ生き方なんて、女冥利に尽きるじゃない?」
 ディメードの背後から唸りを上げて鞭が飛ぶ。鋭く正面の木に打ち付けると、衝撃が蛇のようなうねりを刻んで幹を駆け上がり、枝に留まる無数の鳥へと食らいつく!
 バササササ!
 鳥たちが慌ただしく舞い上がり、奇声を発する。それを突き破るようにして、ディメードとクレーヌは空に舞い上がった。かなたに聳える鳥の巣の周りでは、遠目にも巨大と分かる怪鳥が無数に飛び回っていた。
 明らかに様子がおかしい。信じたくはないが、何かあったと思うしかない。
 「行こう!ディメード!」
 アヌビスがそこまで考えていたかどうかは分からない。つまり、自分が何らかの危機に陥る可能性についてだ。いざその時にクレーヌが迷い無く動けるように、あのタイミングで己の真意を知らせたのだろうか?それは分からないし、今のクレーヌにはどうでも良いことだった。もうこれっぽっちの迷いもないのだから。




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