3 託された命
「?」
気が付いたとき、目に飛び込んできたのは灰色の空だった。朝のようだが、雲が蔓延っていて爽快感はない。
「お、気が付いた。」
右手から声がした。と、次の瞬間。
バシャァッ!
「!?」
顔に冷や水を浴びせられた。
「起きた?」
目元を拭うと次に飛び込んできたのは、悪戯っぽく笑うレッシイの顔だった。水と笑顔のダブルパンチでフュミレイの眠気ははっきりと覚めた。
「___生きてる?」
体を起こそうとすると強い痛みが全身に広がった。それが命の実感となった。状況は飲み込めないが、辺りの景色からここがファルシオーネで、試練の洞窟の入り口近くだということは分かった。
「助けてやったのよ。」
いつになく困惑しているフュミレイを面白がって、レッシイがニヤニヤしながら言った。
「レッシイが?」
「あたしは扉に消えたのに!って思ってるでしょ。甘い甘い。あの試練の作者はあたし、いわばあたしが管理人ってわけ。扉から全てを見通せる部屋に移って、しっかりあんたを審判していたのよん。」
「そうだったのか___」
「惜しかったわね。でも今のあんたの力じゃあいつは倒せそうにない。ファルシオンを持つには足りなかったわね。」
「だいぶね。」
「フフ、さすがに分かってらっしゃる。」
フュミレイは肘を張ってゆっくりと体を起こした。レッシイが治療してくれたのだろう、骨折などの傷はあらかた癒えていたが、右腕だけは動かすとジンジンと痺れが走るようだった。
「そんなあんたなら、自分の戦い方がどれだけ危険だったかも分かってるわよね。」
「___」
レッシイに言われるまでもなく、フュミレイはまじまじと自分の右腕を見た。血は洗い落としてくれたようだが、編み目のようにして黒い紋様が蔓延っていた。闇の力が肌に染みついている、いや蝕んでいると言うべきか。
「たしかにあんたは母さんの薫陶を受けて闇への適正を示しているし、それを導き出す方法も身に着けている。それ自体凄いことだけど、あんたは母さんじゃない。今あんたが使っている力は、母さんの寵愛によって植えられたものだ。無理に絞り出せば、神でもないあんたはやがて闇に食われる。」
「そうなったらどうなる?」
レッシイは脅しのつもりだったが、フュミレイは驚くどころか目の色を変えて問い返してきた。まるで全て承知の上と言わんばかりだった。
「___そういう態度、感心しないわね。」
レッシイは腕組みし、顎を上げてフュミレイを睨む。だがフュミレイもまったく怯まなかった。
「それが過ぎたことでもやらねばならない。今はそう言うときだ。闇に食われて死ぬんだとしても、あたしは戦い方を変えるつもりはない。悔いを残したくはないからな。」
二人の視線が真っ向から交錯する。火花が散るかというほど激しく見つめ合い、やがてレッシイが鼻で笑った。
「___さらに強くなったわね。」
「あの試練のセンスは嫌いだ。でも修行としては素晴らしかった。」
「あたしはセンスのほうを褒めてほしいわ。」
「それはあり得ないな。」
レッシイは手を差し伸べ、フュミレイは左手で握る。握手の後で、レッシイが体を引き起こしたそのとき。
ドォォォォッ!
激震が走った。
「!?」
取り乱す二人ではないが、突如近くで噴き上がった夥しいエネルギーに息を飲んだ。見れば灰色の空に赤い線が走っている。それはこの近くの地表から放たれたもので、剣山のような岩がまとめて四つも崩れ落ちていた。
「何だ___このパワーは!?」
レッシイをも呻かせる破壊力を二人は肌に感じていた。大気が凍てつくようで、気を抜くと全身が切り裂かれそうだった。しかしおそらく危険はない。
「この感触はバルバロッサだ。」
「あいつ!?あいつの斬撃だってのか!?」
「ほら。」
大男がこちらへとやってくる。黒いマントの至る所が切れ、全身に大量の傷が刻まれているのは明らか。しかし漆黒の大剣が放つ赤いオーラがバルバロッサ自身をも包み込み、血の滴りを許していなかった。
「あいつ___」
パルーゼ族の末裔と聞かずとも彼の強さは推し量っていたつもりだ。しかし今こちらに向かって来るバルバロッサに漲る力はレッシイの予測を遙かに超えている。なにか鬼気迫るものがある。
「くっ!」
レッシイは黄金に輝いた。しかしその腕をフュミレイの右手が掴む。光のオーラに肌を焼かれないよう闇を露わにして。
「大丈夫。彼は変わっていない。変わったのは剣だ。」
フュミレイの言葉を聞いたわけではないだろうが、バルバロッサを覆う赤い光が剣に吸い込まれて消えていく。そうすると彼の鋭気も幾らか和らいだ。しかしいつになく何か言いたげな顔で、彼の場合それだけでも様子がおかしいと言える。
「遅かった。」
「なにが?」
「ロゼオンが死んだ。」
「!!」
狼狽の理由はすぐに知れた。レッシイの輝きも一息で吹き飛ぶような衝撃だった。
「死んだって___どういうことよ!?」
「バルカンが来たのか?」
「いや、ロゼオンは自ら死を選んだようなものだ。」
「!?」
「自らの命をオコンにくれてやったのだ。」
「ちょ、ちょっとまって!あんたの話じゃ要点が見えてこないよ!」
レッシイははやる気持ちに任せてバルバロッサに近寄り、彼が視線をきつくしようと構わずに額と額をくっつけた。熱でも見るかのような仕草だが、レッシイは至って真面目な顔で目を閉じた。
「思い出して。あたしにはそれで伝わる。」
「___」
その時の出来事はすぐにレッシイの脳裏へと流れ込んできた。
伝説の剣を作る。ロゼオンは明け方になって突然そんなことを言いだした、それ自体不自然だった。だがバルバロッサは彼に剣を託し、彼は鬼気迫る形相でそれを打ち直し始めた。バルバロッサはそちらに目を向けようとはしなかったが、視界には留めていた。
「バルバロッサ。この剣はパルーゼを埋め込まれた時点で君と一心同体だ。」
無言で槌を振り下ろしていた、ロゼオンが不意に語り出した。
「君は剣に命の一部を預け、剣は君をより強くする。」
バルバロッサは答えないがロゼオンは構わずに続けた。
「その剣が君よりも強くなったらどうなると思うね?」
「なに___?」
返答は興味の証。ロゼオンは汗にまみれた髭面でニヤリと笑った。すでに彼の手元には今までとは様相の違う黒い大剣があった。常識的な鍛冶ではないが、槌の一振りごとに剣は確かに変化していたのだ。
「この剣に我が力の真髄を叩き込んだ。君は___私を超えられるか?」
ロゼオンは剣を掲げ、手を放す。しかし剣は転げ落ちることなく宙に留まり、やがて翻ってその切っ先をバルバロッサに向けた。
「名付けよう、王剣ゼダンだ。長らくパルーゼ族の長であった男の名だ。」
剣が弾けるように動いた。猛然と振り下ろされた一撃をバルバロッサは飛び退いて回避する。しかし剣は自由自在に宙を舞い、息つく暇もなくバルバロッサに斬りかかる。さらに___
ゴォッ!!
根元に宿る深紅の宝石が輝くと、切っ先から赤い光線が迸る。それはバルバロッサのマントを切り裂き、間合いを詰める隙を生んだ。
「っ___!」
受け止めるしかない。左腕に蔓延るパルーゼの鱗を盾に、バルバロッサは滑るような黒い長剣を受ける。
ギギッ!
「!?」
パルーゼの硬度ならば止められるはず。まして彼は赤甲鬼の力を露わにしていた。しかし刃はバルバロッサの鱗をあっけなく罅入らせ、さらに食い進もうとする。
「ちっ!」
肉を抉られようとも構わずに、バルバロッサは剣の横腹を蹴飛ばして跳ね上げる。そしてお構いなしに柄を握りにかかった。
「!」
握ることはできた。しかし手が燃えるように熱くなり、切り裂かれる感触があった。剣が抵抗しているのだ。
「暴れ馬を手なづけるのは簡単ではない。君にそれができるか?」
いつの間にか、周囲の剣山岩に屋根が掛かり始めていた。鉄鋼に溢れるファルシオーネの形を、ロゼオンは自らの力で変えようとしていた。
その顔色は鍛冶に精魂を注いだ後とは言え、酷く疲れて見えた。
オコンがやってきたのは、バルバロッサと王剣ゼダンの気配が完全に岩のドームに押し込められてから暫くしてのことだった。
「ロゼオン!」
オコンは空々しくもロゼオンの元へと飛んできた。リーゼを殺しソアラたちを取り逃がした彼の次のターゲットは、すぐに決まった。今のファルシオーネにはロゼオンとレイノラの代理と娘がいるに過ぎない。孤立した彼らの力を頂き、あわよくばファルシオンをも手にする。バルカンに対してより有利な状況を作るため、当然の選択だった。
「待っていたぞ。」
しかしロゼオンは彼の来訪に驚かなかった。雄々しい髭の迫力そのままに、威風堂々として迎え入れた。
「私がおまえと同じ立場だとしても、同じように動いただろう。次に命を奪うならば、確かに孤立している私が適当だ。」
「!」
むしろ驚かされたのはオコンの方だった。浅ましくも彼に近づいて、不意打ちを食らわせるつもりでいたオコンだったが、逆に胸に杭を差し込まれたかのような衝撃だった。
「そう怯えるな。私は待っていたと言ったはずだ。」
「ロゼオン___貴様___」
まるで子ども扱いだ。全てを知っているなら、ロゼオンはなぜこうも悠然としていられるのか。
「ファルシオーネは私にとって過ごしやすい場所だ。ここには純度の高い鉱石が豊富にある。彼らは私の目となって、世界の境目から海の向こうを眺めることもできる。」
「見ていたというわけか___」
オコンの手から水流が迸り、三つ又の槍へと形を変える。次の瞬間には髭の奥の喉元に切っ先が突きつけられたが、ロゼオンは身じろぎ一つしなかった。
「見ていたとも。そしておまえの意志に従おうと思ったのだ。」
「!?」
オコンが目を丸くする。その態度にロゼオンは失笑した。
「それほどに意外か?よほど罪悪感があると見える。」
「くっ___!」
「自信を持て。そうでなければじきに目覚めるバルカンには勝てぬぞ。」
「言われずとも!」
三つ又の矛から溢れ出した海水が帯となってロゼオンの首に絡みつく。しかしそこでオコンは苛立ちを消した。
「___じきに目覚めると言ったか?」
「急げオコン。このままではバルカンは朝食にキュルイラとビガロスを食うだろう。」
ロゼオンは剛直な男だ。口数は多くないが、潔く、大胆な決断を毅然と下す男だ。だからこそかつてジェイローグを鼓舞し、ファルシオンを完成させるに至った。
「___すまない、ロゼオン。」
「それでは駄目だ。卑屈になっているようではな。」
「___」
オコンは目を閉じた。再びそれが開かれたとき、彼の顔は確固たる意志の力に漲っていた。
「ありがとうロゼオン。あなたに心より感謝する。」
「そう言えるおまえには、きっと救いがあるだろう。」
そしてロゼオンは自ら前へと進み出た。オコンは彼の意志に報いるべく、三つ又の矛に力を込めた。
まさかだった。
ゼダンを渾身の力で握り続けていたバルバロッサがロゼオンの死を知ったのは、僅かに剣の動きが鈍った瞬間だった。その時すでに、矛に射抜かれたロゼオンの体が消えようとしていた。
そして彼はオコンが飛び去るのを見た。オコンはファルシオンを探そうともせず、ここにいると分かっているはずの鼠たちに目もくれず、おそらくはバルカンの世界へと飛んでいったのだ。
「___」
呆然とするバルバロッサの手をゼダンはすり抜けていた。しかし彼はゼノンを追うよりも、ロゼオンの最期を見つめ続けていた。その時___
『案ずるな、バルバロッサ。』
ロゼオンの声がした。
『我が肉体は滅び、オコンのものとなった。しかし私は自らの力の多くをここに残した。』
赤い光を揺らめかせながら、語っていたのは王剣ゼダンだった。
『いまオコンにレッシイたちの邪魔をされるわけにはいかない。ましてファルシオンを奪われることなどあってはならない。握るべきは君たちだ。君たちならば、必ずやオコンを正しき道へと連れ戻すこともできる。そしてあやつにはまだ戻れる余地がある。』
「___だが、命まで捧げる意味があるのか?」
裂傷だらけの手から血を垂れ流しながら、バルバロッサは問いかけた。
『君が問うてくれるとは思わなかったよ。』
「___」
『すでに世界のバランスは崩れている。Gの力は十二の均衡の元に保たれていたが、もはやここまで崩れては止めようもない。できるとすれば、Gの欲望に支配されることなくその力を己に留められる強い体、精神、意志を持ったものだけだ。それは我々ではない。』
「俺たちに負の遺産を押しつけるのか?」
『そうとも言えよう。だがもはや我々ではバルカンは止められない。それこそ、オコンがした道、彼はどうやらリシスとリーゼをその手に掛けたようだが、そうでもなければ今のバルカンに我々が抗う術はない。だから私もその可能性に命を託した。同時に___』
王剣ゼダンが赤いオーラを強くする。
『君たちに賭けたのだ。だからこそレッシイも、オル・ヴァンビディス創世の歴史上はじめてファルシオンに人が近づくことを許した。そして私は君に究極の剣を握るチャンスを与えている。』
再び、漆黒の刃が猛威を振るう。
『さあ私を超えろ!バルバロッサ!』
岩に包まれた景色の中、バルバロッサは少ない動きで刃を回避する。先程とは違う。赤い光線も難なくやり過ごす適応力。
「あいにくだが___」
そして深く低い声で呟く。
「俺には奴らのような志はない。だが___」
突きにかかってきた剣に身をかがめて突進する。肩越しのすれ違い様、バルバロッサは力強くゼダンの柄を握った。
「究極の剣で最強の敵を切り刻むことには興味がある。」
『それでいい。力を示すための道具であれ、おまえの剣を愛する心があれば、私は咎めはしない。』
バシュッ___!
バルバロッサの手の中で血が弾け飛び、剣から迸ったオーラは彼の肩にも裂傷を刻む。しかしバルバロッサは全く怯まなかった。
「うおおお!」
そして彼自身も、ゼダンに劣らぬ赤いオーラで全身を包み込んでいった。
それが事の顛末だ。
「まさか___オコンが___」
レッシイの手を握ることで彼女と同時に知ることを許されたフュミレイは、ロゼオンの死とオコンの裏切り、二つの驚きに打ちのめされていた。だがレッシイは努めて冷静だった。
「バルカンのやった事が知れれば、繰り返す奴が出てくる可能性はあった。それがオコンだってのがあんたにはショックなんだろうけど、考えてもご覧よ、オコンの周りには神にも劣らぬ力の持ち主がごろごろいる。それを誘惑っていうのさ。」
「!___そうだ、ソアラたちは!」
夜が明けてしまった今、無事かどうか確かめる術はない。しかしどうやら戦いはオコンの世界で起こっていたようだ。それはロゼオンの言葉から読みとれた。だとすればソアラたちがただで済んだとも思えない。
「どうなってるだろうね。でも、それを確かめるために戻るの?」
レッシイは淡泊に言い放った。彼女の切り替えの速さというか、過去を悔やまない姿勢は徹底していた。そしてフュミレイも、鏡の試練でそれを鍛えられた。
「___そうすれば、別の神がオコンに殺される。」
「そういうこと。でもロゼオンのようにそれを良しとする人が___あ〜、いないかな。残りのメンツには。」
大地神ビガロス、酒の女神キュルイラ、妖精神エコリオット。バルカンとオコンを除けば残された神はたった三人でしかない。オル・ヴァンビディスは確実に崩壊へと進んでいる。
「信じるしかない。ソアラたちは無事だ。」
僅かな無駄が命運を分けかねない。一人一人がやれることをやると同時に、他の誰かの成功も全面的に信じるべきだ。信じるに足る仲間たちなのだから。
「あたしはオコンを追う。バルバロッサ、来てくれるか?」
黒と赤に彩られた男はいつものように黙って頷いた。
「ん、それでいいと思うよ。でもフーミンもバルバルもその体じゃ犬死にでしょ。」
飛び立とうとしたフュミレイの腕を掴み、レッシイは髪に結びつけた鈴の一つを外すと彼女に握らせた。
「あんたの魔力さえ回復すればあとはいいよね。その鈴を握ってればそこそこ戻るはずよ。ま、あんたの水瓶を満タンにするのは無理だろうけどさ。」
「ありがとうレッシイ。」
それから、あえて別れの挨拶はせず、フュミレイとバルバロッサは遠くの空へと消えた。それを見送ったレッシイは一つ長い息を付く。
「ったく___あんたらしいや。手向けに紅茶をいれとくよ。」
寂しげな笑みを浮かべた次の瞬間、彼女の姿は消えていた。
一方、そのころ。
(急げ___!)
ソアラは全速力で飛んでいた。下に広がるのはジャングルと色鮮やかな花々が入り乱れる景色。視界の先には遙か遠くにうねった巨木の影を捉えていた。
「あああああ!」
猛然と黄金に輝いて、ソアラは流星の如く飛んだ。仲間たちの姿はなく、彼女一人で偏屈な妖精神の元へと急いでいた。
___
「でも!」
ソアラを焦らせていたのは、仲間たちへの心配だった。
「でもじゃないの。誰よりも早く飛べるあなたは、少しでも早くエコリオットにオコンのことを伝えないといけないわ。」
棕櫚の意識が戻るまでジェネリ神殿にいるつもりでいたソアラだったが、フローラをはじめ皆が一刻も早くエコリオットの元に向かうよう口を揃えて言ったのだ。
「ソアラが心配するのは分かるよ、ここはオコンの世界の隣だしね。でも棕櫚が回復するまで待ってたら、ううん、あたしたちを連れて飛ぶだけでも時間を無駄にすることになる。それって___あたしは許される事じゃないと思う。」
ミキャックは自分の傷の治癒を後回しにしてまで気丈に振る舞っている。翼をずたぼろにした彼女が、笑顔でソアラの肩に手を掛けて励まそうとする。
「みんなそれぞれができることを最大限にやるんだ。誰かが傷つくことを恐れるんじゃない。傷つこうとも乗り越えられるって信じることが大事なんだ。」
「___信じたいよ。信じたいけど___」
現実に二人、大いなる痕跡を残して散った男たちがいる。でもそれを最も悲しんでいるはずの一人、ミキャックの言葉はそれだけに重い。
「___駄目ね、せっかくリーゼさんがあたしを目覚めさせてくれたのに。こんなんじゃ駄目。みんながいたからあたしもいるのに、何でこんなにウジウジしてんのかしら。それこそあいつがいたら背中引っぱたかれそうだわ。」
バチンッ!
言ったそばからソアラの背中に強烈な平手の一撃が降りかかった。
「こんな感じか?」
「った〜っっ!」
その場で背を仰け反らせて呻くソアラは、横に立つ竜樹をしかめっ面で睨んだ。
「心配すんなよ、ここは俺が何とかする。オコンが来たってここなら陸に上がった亀だぜ!」
カラカラと笑う竜樹。ソアラの背中には真っ赤な紅葉ができあがってるだろうが、ジンジンとするその刺激も彼女の言葉や振る舞いも、百鬼のそれを見ているようだった。
もしここに百鬼がいて、同じ言葉を掛けられたら自分はどう動くだろう?
「___迷っちゃ駄目ね。」
「目が覚めたろ?」
「ええ、とっても!」
ビタンッ!お返しの一撃を竜樹にみまい、喘ぐ彼女に笑みを送る。まだ互いのことを良く知っているわけでもない竜樹に励まさていること、それ自体が仲間の良さを改めて教えてくれた。
「あたしは先に行くね。オコンのことを知らせてすぐに戻るから、みんなはむやみに動かないでここにいて!」
覇気の戻ったソアラに触発されるように、皆も力強く頷いた。そのとき___
「あ!」
ライが上擦った声を上げた。見ると彼の前に横たわる棕櫚が目を開け、傷みに顔を歪めながら首を起こしている。
「ぎょ___」
「え!?」
「魚類にしてください___陸に亀じゃ___普通ですから___うっ。」
そしてまた倒れる。
「えぇっ!?突っ込んだだけぇっ!?」
ライの叫びがこだました。
___
結局、みんなの心遣いもあってソアラは勇気を持ってジェネリ神殿を出た。疲労は問題ない。少し休んだだけでそれなりに回復した。だが胸中の不安は、時が経つほどに膨らんでいった。少なくともジェネリの世界を抜けるまでは、オコンに場所を悟られないよう力を抑えて動く必要もあった。荒廃が進むムンゾの世界を見ると焦燥が募った。エコリオットの神殿が見えると、自らの持てる全ての力を飛行へと傾けていた。
「へぇ。」
それだけに、エコリオットの反応はやるせなかった。
「へぇ___って。あたしの言ってること分かってます!?」
まだ肩で息をしているソアラは、手遊びに夢中でこちらを見ようともしないエコリオットに、苛立ちを隠せなかった。
「分かってるヨ。でもだからなんなのさ。」
「そんな___!」
偏屈だという話は聞いていたが、オコンの裏切り、リーゼとリシスの死を聞いても彼は人ごとのようだった。
「バルカンがやったことだヨ。他の誰かが真似したって不思議じゃないヨ。」
「!」
「誰かが同じ事をするたびに、君は同じように僕の所に怒鳴り込んでくるのかい?」
「___」
「僕は誰が何をしようと興味はないヨ。」
エコリオットの言葉は極論だが、その思考はソアラの怒りを掻き消し、冷静さを取り戻させた。深読みかも知れないが、彼はとうの昔からそうなる可能性を感じていたように思えた。
「___オコンがあなたを殺しにくるかもしれません。」
「それで君に何か不都合があるのかな?かなかなかな?」
彼の前では愚直なまでに本心を語るべき。そう思ったソアラは、なぜここに危険がやってきては困るのか、自分の思いの真髄を導き出した。
「あります。いまここにはあたしの子どもたちがいるから。」
「おヨ?」
エコリオットが顔を上げた。手を止めて、ようやくソアラの目をまじまじと見た。容姿は子どもだが、その瞳はあまりにも深く、光の加減や角度一つでキラキラと色が変わる。まるで奥底に永遠の花園が広がっているようだった。
「栗色の?」
「ええ。」
「目が鳶色?」
「ええ。」
「ちっこいの二人?」
「ええ。」
一つ一つに大げさな身振り手振りを交え、エコリオットは言った。そして___
「似てないヨ!ビックリするヨ!」
「ぇ?えぇ?___そうかな?」
「ああ!でも君はセティに似てるヨ!」
「セティ___レイノラの娘の?」
「ヨっ。」
ソアラの問いには答えることなく、エコリオットは手鏡を取りだした。それをソアラに向けると彼女は驚いて目を丸くした。
「こ、これ___!?」
「うん、セティに似てるヨ。ああ、興味が出てきたヨ!」
鏡の中でソアラは金髪と青い瞳になっていた。戸惑いながら自分の髪を引っ張って確かめてみるソアラ。そうしているうちにエコリオットは手鏡を消していた。
「君もドラゴンになれるの?久々にあれを見たら僕もいろいろ手伝っちゃってもいいヨ。」
「ド、ドラゴン?」
「できないの?ののの?」
「___全然ピンとこない。」
「え〜!セティに似てるのに、ガッカリだヨ。きっとその色のせいだヨ。」
「ちょっと待って待って!ガッカリさせたのはごめんね、でもセティはドラゴンになれたの?」
「教えないヨ。」
(きーっ!)
辺りのものを掻きむしりたくなる衝動を抑え、またもやそっぽを向いたエコリオットの前でソアラは必死に息を整える。やるべきことはこんな無理問答ではないはずだ。
「他の神にもオコンのことを伝えてもらえますか?」
「なんで?面倒くさいヨ。」
予想は付いたがエコリオットの答えは連れなかった。
「ならそれはあたしが伝えに行きます。代わりにジェネリ神殿に隠れているあたしの仲間を保護してくれませんか?」
「それは無理だヨ。」
「無理?」
エコリオットは偏屈だが嘘つきではない。嘘どころか、誤魔化しすらなく自分の思いを言葉にする人物だ。話をしていてそれは感じた。とすると「面倒くさい」と「無理」では同じ拒否でも意味が変わる。
「なぜ無理なんです?」
エコリオットが手遊びを止め、子どもの顔で生意気に深い溜息をつく。
「保護するには強くないといけないヨ。でも僕のところに野蛮な戦士はいないヨ。君の仲間たちを守れるわけがないヨ。それにここのみんなは外に出るのが嫌いなんだヨ。」
「バルカンがあなたを殺しに来たら誰が戦うんです___?」
「誰もいないヨ。だから僕は生きてるんだヨ。」
「!」
バルカンとエコリオットの世界は隣り合っている。おそらくは互いに互いを良く知っている。バルカンは彼が脅威にならないと分かっているから、すぐ近くにいるのに放置しているのだ。そしてエコリオットもそれが分かっている。
「でも___あなたは生きることを諦めてないんでしょ?だからレイノラとあたしの子どもたちに力を貸してくれている。」
「もとは興味なかったんだヨ。でもジェイローグだったから、どんなになるのか楽しみで手を貸したんだヨ。」
「え?___ジェイローグ?」
「君もセティだからきっともっと強くなれるよ。アヌビスやレイノラやガキンチョたちと一緒に、面白いものを見せてくれると思うヨ。僕のアポリオを使いたくなったらおいでヨ。僕がまだ生きてれば、力になってあげてもいいヨ。」
「ちょっ___!」
エコリオットの体が透明に変わっていく。それに気付いたソアラは掴まえようと手を伸ばすが、次の瞬間には霞となって消えていた。
「!?」
そして彼女自身、密林に咲く巨大な花びらの上に立っていた。慌てて宙へと舞い上がり、うねった枝葉を破って空に飛び出す。巨木の神殿は、深緑の海原の果てにその影が微かに見えるだけだった。まるでさっきまでの会話が夢か幻のようだった。
「ジェイローグって___」
しかしその名だけは深く記憶に焼き付いていた。結びつけたくはないが、エコリオットが誰を竜神帝こと光の神ジェイローグに例えたのか、想像できてしまうのがとても怖かった。
「嘘よ。」
エコリオットは嘘つきじゃない。さっきまでそう思っていた自分に嘘を付く。エコリオットがリュカとルディーにジェイローグを重ねていたことを認めたくない一心で。
ゾクッ___!
寒気が走った。自分の想像で悪寒がした___のではない。エコリオットの幻影を振り払った瞬間、背後に渦巻くまがまがしい気配に体が反応したのだ。
「!」
振り返り、慄然とする。そこには一面の鋭気の壁が広がっていた。あらゆる侵入者を阻む壁は、エコリオットの世界に面して遙か彼方まで走っている。
そしてソアラは今更ながら自覚した。エコリオットの隣が奴の居場所であることを。フェリルと共に自分を壊した悪魔のテリトリーであることを。
「く___」
バルカンが近くにいる。そう考えただけでソアラの鼓動は激しさを増した。鳥の悪魔はフェリルに通じ、フェリルの記憶は永劫終わらぬ悪夢を想起させる。
「はぁっ___はぁっ___」
壁だ。目の前にはただの結界があるだけだ。なのにソアラはそれを見ているだけで、悪魔に全身を嬲り回されているような嫌悪感に襲われた。息が荒くなり、自分の体を抱くようにして竦み上がった。
誰もいないのに。壁があるだけなのに。
「___だ___めだ___」
そうだ。誰もいない、壁があるだけだ。そしてなによりフェリルは死んだ。バルカンの目はすでに私を見てはいない。記憶を怖がるなんて馬鹿げている!
「だめだ___駄目だ駄目だ___駄目だ!」
声がソアラを奮い立たせた。顔は汗にまみれていたが、彼女の目は精悍な輝きを取り戻した。自らではどうにもできなかった恐怖を克服してみせた。
「落ち着け___この壁の向こうはバルカンの世界。たしかビガロスとキュルイラはこの壁の動静を見張っているはず。エコリオットはあたしが急いでいると知って、親切でここまで運んでくれたんだ。あたしが勝手に取り乱しただけだ。」
声に出して自分に言い聞かせる。昔からよくやる方法。
「大丈夫。」
腕を抱く。左腕の無限に右手を、右腕のバンダナに左手を添える。いまの自分が最も落ち着く所作。そのまま目を閉じると、彼女の体は百鬼の温もりを思い出す。大らかな彼が抱きしめてくれるような気持ちになる。
「よし。」
手を放したときには息の乱れも消えていた。彼女は一つ頷いて目を開ける。
「!!!?」
そして驚愕した。目の前の白い壁から巨大な鳥の顔が飛び出していたからだ。
「クァァァッ!!」
鳥は甲高く嘶き、すぐさま全身を露わにする。外からの全てを阻む結界を、鳥は内側から抵抗無く抜けてきたように見えた。
(大丈夫!バルカンじゃない!)
鳥は鳥だがバルカンではない。それがソアラを驚愕の坩堝から引き戻す。巨大な猛禽の襲撃は、かえって彼女を正気にさせた。
「っ!」
僅かな遅れが敵の先手を許した。猛禽は鋭い爪で野鼠を捕らえるようにソアラを鷲づかみにする。鋭い爪が肩と腰に食い込み、身動きを封じられる。だがソアラに動揺はない。
(ご無沙汰。手応え思い出させてね!)
敵の力を推し量り、むしろドラグニエルとの信頼を確かめるいい機会だ。それほどの余裕があった。
ゴッ___!
しかしソアラが力を示すまでもなく、巨大な鳥の首は断ち切られた。彼女の背後には血の雨が降り注いでいる。鳥の指は解け、ソアラを残して眼下の密林に落ちていく。
「何者かと思ったが___!」
重厚かつ豪快な声とそれに似つかわしい風格。千年も前からそこにある巨大な岩のように、日を遮って立つ大男。
「私が手を下すまでもなかったようだな!」
「あなたは___?」
「大地神ビガロス!おまえのことはレイノラから聞いている。」
ビガロスの所作は高圧的で、今もソアラを下に見て語る。だがソアラにとってはそれくらいで調度良かった。
「案ずるな!私はおまえの味方だ!」
その大きな胸に身を預けても、きっと彼は拒まない。そんな大らかさ、包容力が今のソアラにとっては何よりも嬉しい。
「戦えるな?」
「もちろんです!」
ビガロスの視線が壁へと映る。ソアラも振り向くと、壁から無数の嘴がタケノコのように飛び出している。
「バルカンが方々にしもべを飛ばしているのだ。私はそれを叩いている。まずこれを蹴散らしてからおまえの話を聞こう!」
地鳴りの響きのような大声がソアラを奮い立たせる。久しぶりに感じる心地よい高揚。
「おまえに我が背中を預ける!ゆくぞ!」
「はいっ!」
信頼で結ばることの心地よさ___ソアラはまた一つ忘れていたものを思い出した。同時に、バルカンに挑めるだけの心の強さも戻りつつあった。
だが彼女はまだ、元の自分を蘇らせている段階に過ぎない。究極への階段を駆け上がるバルカンに抗うには、あまりにも鈍い歩みである。
(確かに力はある___だがレイノラめ、高く見積もりすぎだ。)
鳥をうち倒しながらも、ビガロスはソアラの力を計っていた。そして彼女がレイノラの切り札と知っていたビガロスは、少なからず失望感を抱いた。
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