2 鏡に映るもの

 「夜明けか。」
 ロゼオンとバルバロッサはファルシオンの洞窟から少し離れた場所で待っていた。レッシイは二人に「帰れ」と告げたが、ロゼオンは断固として引かなかった。自分の目でファルシオンの状態を確かめたかったのだ。
 「時間が掛かるものだな。」
 フュミレイとレッシイが洞窟に消えてから数時間。剣山岩の狭間から覗く空が少しずつ明るくなり始めている。ロゼオンが言葉を発したのも久しぶりだった。
 「バルバロッサ。」
 そんな彼以上に無口な男に声を掛ける。
 「おそらくまだ暫く掛かるだろう。どうだ?おまえの剣を鍛えさせてはくれないか?」
 今更の感はある。夜更けのうちに始めれば暇を持てあますこともなかったろうに。
 「おまえの剣はまだ未熟だ。故郷で調達したものにパルーゼを埋めたのだろうが、残念ながら土台が良くない。しかし私が鍛えれば劇的に変わる。」
 ロゼオンの情熱は殊の外だった。少し不可思議に思いながらも、鋼の神の腕前を信頼しているバルバロッサは重い腰を上げ、剣をロゼオンに向かって放り投げた。
 「ぬぉっ!投げる奴があるか!」
 足下に突き刺さった長剣は大いに神を慌てさせたが、ロゼオンはすぐに平静を取り戻してバルバロッサの剣を握る。パルーゼの魅惑的な輝きをじっと見つめてから、豊かな髭をつり上げて笑った。
 「伝説の武器を持たせてやろう。期待して待つが良い。」
 ロゼオンの周囲には、いつのまにやら様々な鉱物と重厚なハンマーが現れていた。

 「はぁはぁ___」
 体の重みは顕著だ。骨折や内臓の損傷は癒せても、体に蔓延る疲労感を完全に消すのは難しい。そもそもこの疲労が行き着くところまでいってしまったら、おそらく回復呪文も効かなくなるだろう。
 (惑うな___最後まで突き進むだけだ!)
 引き返すという選択肢はない。この身滅びても前に進むのみ。
 「ぐ___!」
 しかし壁は高い。また力の奪われる感覚があった。これでおそらく百二十八分の一だ。それでも魔力はまだ底を突かないし「どんなに二分されようと決して零にはならない」と自らに強く言い聞かせて前へと進むだけだった。
 (次か___)
 足場の悪い道の先に薄ぼやけた光が射している。どうやら一人になってから七つ目の試練に辿り着いたようだ。
 (上か。)
 天井に穴が開いており、光はそこから漏れていた。高さにして三階くらいだろうか?水に濡れた岩壁は滑りやすく、よじ登るのは難しそうだ。
 「___その気高き翼は地に這うことを知らず、月と共に瞬き、風と共に謳う___」
 いつもなら手間取るところではない。しかし今の自分は百二十八分の一だ。少しでも魔力の消耗と体への負担を抑えるため、フュミレイは宙に舞うにも長い詠唱を躊躇わなかった。
 ふわりと宙に舞い上がり、ゆっくりと昇っていく。糸で引き上げられているかのような拙さだったが、集中を切らすことは許されない。額に新たな汗を浮かべながら、フュミレイは時間を掛けて穴の上まで到達した。
 そして、今までとは違う景色に眉をひそめた。
 「___鏡?」
 部屋の中央には、天井から釣る下げられた蝋燭が光る。それは部屋の壁に張り巡らされた鏡に、いくつもの光となって映っていた。その下にフュミレイは立っている。鏡の中に鏡、その繰り返しの中で、無限大の自分と光と鏡が溢れかえっていた。
 (不愉快な場所だな___)
 際限がないというのはいい気分がしない。まして自分が動くと寸分違わず、反転した自分も動く。それが無限に重なる姿は人から落ち着きを奪う。
 (破壊していいものか?これが試練だとすれば普通の鏡ではないはずだが?)
 しかしフュミレイは落ち着いていた。もっともここまで来れるだけの経験を持った戦士ならば、誰であれ取り乱しはしないだろう。しかし少なからず動揺はする。そして心に隙が生まれる。
 「!」
 鏡の中に、別の顔が見えた気がした。鏡の中の蝋燭が目映くて、つい目を奪われていたそのとき、ふと自分の後ろに誰かが立っているように見えた。
 「___」
 振り向いてもそこには誰もいない。鏡には自分がいるだけで、気配も感じない。しかし心が乱された。それは自分自身の不安のためだろうか?
 (いや、違うな。)
 フュミレイは目を閉じた。目で見るから本質を見失う。鏡は所詮、視覚を惑わすものでしかない。冷静に、音もなく忍び寄る暗殺者の気配だけを感じればいい。
 そして___
 グンッ!
 フュミレイは振り返り様に、凝縮された魔力の籠もった人差し指を向ける。
 「!!」
 そこには確かに存在があった。それを今できる最も破壊力の高い攻撃で撃ち抜くつもりでいたが、フュミレイの指先は輝かなかった。
 「何を躊躇う。おまえは我が教えをいまだに理解していないようだ。」
 「ち___」
 高まっていた魔力は集中力を失ったことで大気に紛れて消えた。
 「父上___」
 そこにはフュミレイの父であり、知略でレサ家を支えた重鎮、シャツキフ・リドンがいた。年齢にしては大柄な体躯、厳格な面立ち、口髭に、一切の妥協を許さない鋭い眼光。生きていても死んでいても体温を感じさせない、まさしくフュミレイの知る父の姿であった。
 「!」
 しかし感慨に浸る間など無い。父はおもむろに銃を抜き、躊躇うことなく娘に向けた。レサの紋章が刻まれた家宝の銃だ。フュミレイは小さい頃、それを何度か見たことがあった。初めて人を撃つ感触を覚えさせられたのも、この銃だった。
 「くっ!?」
 必死に横っ飛びし、弾丸から逃れる。父は構わずに、連式銃の弾丸六発を撃ちきった。そのうち一つは娘の右ふくらはぎを食い破り、一つは左腕を掠めた。
 空になった弾倉に、父は悠然と次の弾を込めていく。何も言ってはくれない。慈悲をかけることも過去を懐かしむこともなく、ただ狩りを愉しむかのようにフュミレイを仕留めようとしている。
 (どういうことだ___本当に父上なのか?)
 力の落ちた状況では、右足の傷を塞ぐより弾を込める方が早い。次に狙われれば致命傷は裂けられないだろう___いや、それよりもこの状況をどう理解すればよいのか?オル・ヴァンビディスは死の世界だから、死者の魂を引きずり出すことなど雑作もない、という根拠の欠片もない理屈で片づければいいのか?
 (違う___確かに父上かもしれないがこれはファルシオンの試練だ。)
 痛みで冷静になれるのは良いことだ。フュミレイは冒頭の父の言葉を顧みて、父がことあるごとに言っていたリドン家の教えを思い出した。
 「愚かな。」
 何もできない娘を哀れむでもなく、むしろ怒りを込めてシャツキフは引き金を引いた。すると銃身が真っ赤に燃え上がり、暴発する。飛び散った弾丸と銃の欠片はシャツキフの顔やら首やらに食らいついた。
 「これはファルシオンの試練だ。たとえここが死者の世界であれ、あたしに縁ある人物であれ、立ちはだかる壁は超えねばならない。それは変わらない。」
 密かに飛ばした赤熱の魔力で銃を暴発させた。それが目の前の父を殺すことになっても、彼女に動揺はなかった。
 「目で見、耳で聞くものに惑わされるな。信じるは揺るぎなき自らの意志にあり。」
 「そうだ。それでこそ我が娘だ。」
 血飛沫を上げてシャツキフは倒れた。見ていて気持ちの良いものではなかったが、情念に駆られようものなら朽ちかけの父に叱責されただろう。
 バンッ___
 部屋を覆い尽くす鏡の一つが割れた。そちらを見る前に、別の鏡に視線が止まる。また後ろに人が立っていたからだ。
 「俺を殺したのと同じ手だ。芸がないやつぁ長生きできねえぜ。」
 「ああ___誰だっけ?」
 眉毛すら剃り落とした坊主頭の大男はドルゲルドだ。フュミレイのあからさまな挑発で頭に血を上らせて大口径の銃をぶっ放すあたりも、彼そのものだった。だが弾丸はその破壊力をフュミレイにぶつけることができない。力は削られていても感覚と経験は生きている。敵の殺意を感じ、目を見やり、攻撃のタイミングを図るのは難しいことではなかった。
 ガシッ___
 「!」
 しかし突如背後の鏡から現れた気配までは察知しきれない。
 「つ、掴まえたぞ!」
 明らかに高揚した声で、暴君ノヴェスクはフュミレイの体を力任せに締め付ける。さばおりのような形で捕らえられたフュミレイだが、生前から抱いていた劣情が爆発したのだろう、ノヴェスクの手はすぐに彼女の乳房へと移る。
 隙が生じた。腕の締め付けがゆるまった瞬間、フュミレイはノヴェスクの脇腹を切り裂いて飛び跳ねた。ドルゲルドの弾丸はノヴェスクを粉砕して、彼が出てきただろう背後の鏡をも砕いた。しかし直後には、ドルゲルドの頭部もフュミレイのディオプラドに吹き飛ばされていた。
 バンッ___
 着地とほぼ同時にまた鏡が一枚割れた。この鏡の枚数だけ、生前自分に関わった「死人」が出てくるのだろうか?
 「過去からの殺戮者か___」
 「適切な物言いね。」
 今度は女。振り向いたフュミレイは自分に良く似た女性の登場に、僅かだが目を見開いた。
 「私がこの姿でここに立つということは、あなたの記憶の中に地界での私の姿があったと言うこと。やはりあなたはあの戦いを見守っていたのね。」
 「___姉さん。」
 レミウィス・リドンの両手には、こちらに向ける銃がない。しかし優しげだが探求心に溢れる瞳は、父にも負けない眼光の鋭さを持つ。
 「いえ、見守っていたというのは違う。高みの見物をしていたと言ったほうが適切かしら?だって私の死の瞬間も、自由を奪われたソアラに臓腑を貪られる姿も、しっかり見ていたのでしょう?私と違って父に忠実なあなたは、残酷を苦にしないものね。」
 レミウィスの両手に魔力が渦巻く。フュミレイの力は大幅に削られている。しかしレミウィスのそれは地界を旅していた当時のままのようだ。満たされた魔力の膨大さをフュミレイは肌に感じていた。
 「信じるは揺るぎなき我が意志にあり。」
 だが彼女は怯まない。父の姿を見せられたことが、彼女を一層頑なにしていた。
 「ヘイルストリーム!」
 強大な氷結呪文が迫っても、フュミレイの両手はビクともしない。それ以外の皮膚には氷が張り、血管をも凍てつかせようとしている。しかし両手の黒いオーラだけは揺るがない。
 「闇の一閃。」
 フュミレイの呟きと共に、彼女の指先から糸のように細く、しかし凄まじいスピードで一直線に闇が伸びた。それは針の鋭さで吹雪を貫き、レミウィスの眉間に突き刺さり、後頭部に抜けた。
 「それでいいわ。私たちの歩んだ道は違うけれど、誇れるものだから。自信を持ってあなたの信じる道を進みなさい。決して悔やむことなく。」
 レミウィスは整然とそう語り、その場に崩れ落ちた。肉塊と化した姉の姿に、フュミレイは僅かだが顔をしかめ、呟く。
 「苛烈だ___この試練は。」
 本音が漏れた。両手は必要以上に強く握りしめられていた。
 これは試練であり、鏡が映した幻影に過ぎない。その思いが彼女にとっての拠り所だった。死者は死者であり、生き返るはずなど無い。そう強く言い聞かせることで、自らを奮い立たせていた。しかし割り切ってはいても、これが鏡の枚数分続くのかと思うと辟易とした。
 「疲れてきましたか?」
 「!!」
 そんな嫌気に追い打ちを掛けるように、一番勘弁願いたかった顔が現れた。
 「___アレックス___」
 白竜軍の将軍であり、フュミレイの師であったアレックス・フレイザーだ。
 「元気ないですね?久しぶりに会えたというのに。」
 穏やかな物腰、優しさに溢れる眼差し。類い希な勇気と闘志を眼鏡で隠し、そのズレを治す仕草までかつてのまま。親子であってもおかしくないほど年は離れていても、フュミレイは彼に憧れ以上の感情を抱いていた。
 「さあて、フュミレイ。何をしましょうか?まずは昔話でもしましょうか?」
 アレックスは優しくエスコートするように手を差し伸べる。フュミレイは自然と彼に引き寄せられていく。天井から吊された蝋燭の光を抜きにしても、彼女の瞳はいつも以上に潤んでキラキラと輝いていた。
 「___」
 アレックスの手に武器はない。魔力もない。無防備を示すことで、フュミレイも口元を綻ばせて彼に身を預ける。
 「辛かったでしょう、フュミレイ。」
 「___会えて良かった。」
 アレックスの胸に身を埋めるフュミレイ。その時、彼女の背を抱く手の爪が鋭さを増していく。彼女の見ていないところで、優しいはずの男には似合わない嘲笑を浮かべ、髪が揺れ動く。殺意は強かに隠されていた。
 「私もですよ。」
 「あたしをいたぶれるからか?」
 しかし先に牙を剥いたのはフュミレイだった。アレックスの胸に押し当てた手が猛然と輝きを発し、氷の刃が男の胸板を貫く。
 「があああっ!」
 血反吐を吐いて苦悶の叫びを上げるアレックスの顔はすでに崩れていた。フュミレイは素早く飛び退き、両手に魔力を満たしていく。彼女の前で、アレックスの髪が猛然と伸び、広がっていく。背丈が伸びているのに、体つきは女性らしい丸みを帯びていく。
 「やるならおまえが少しでも本性を見せてからと決めていた。」
 「貴様ぁぁ!」
 悪女フェイロウが本性を晒す。艶美な姿でなく、ローゼンスクを失って狂気に走った時と同じ形相で。
 「助かるよ。おまえなら何も躊躇う必要がない。」
 かつての天敵の登場にも、フュミレイはいつも通りだった。むしろ戦意の高揚と共に、限界以上の魔力がわき出してきたほどだ。
 「ドラギレア!」
 猛然と放たれた炎が、傷の影響で動きの鈍いフェイロウを襲う。しかし一陣の風とともに、フェイロウの前に立った人影が彼女の盾となった。
 「!!」
 メイド服姿の女は燃えさかる炎にも努めて無表情でいた。
 「セルチック___!」
 かつてフュミレイと同じ苦難を味わった少女が、なぜか今はフェイロウを守っていた。
 「申し訳ありません、フュミレイ様。それが鏡の意志でしたので___」
 炎の中でセルチックが崩れ落ちていく。その様に目を奪われてしまったフュミレイの足に、髪が絡みついてきた。
 「___!」
 すぐさま電撃が迸る。体が仰け反り、皮膚が破れ、焦げた匂いをまき散らす。
 「あははは!猪口才がなめた口を聞くからさ!」
 あらん限りの電撃を浴びせ続け、フェイロウは高笑いする。しかしそれも長くは続かなかった。
 ボトッ___
 フェイロウの首が転げ落ちたからだ。攻撃に夢中になりすぎて、彼女はフュミレイが飛ばした魔力の球に気付かなかった。それに後方から首を断ち切られたのだ。
 「はあっはあっ___!」
 だがフュミレイのダメージも大きかった。電撃による全身の傷はもちろん、百二十八分の一の力で大技を使ったツケもある。
 「ぐ___」
 しかし立たねばならない。
 「てめえは生きていたのに、俺は処刑された。全くどうかしてるよな。恨みを晴らさせてもらうぜ。」
 鏡は待ってくれないのだ。はやくも目の前には、銃を突きつけるザイル・クーパーの姿があった。別の鏡にはハウンゼン・グロースの姿も見えた。
 「うああああ!」
 まるで夢幻地獄である。しかし絶叫は怯えでなく、自らを奮い立たせるためのものだった。

 「___」
 フュミレイは部屋の中央で、立て膝の状態で俯いていた。激しく肩を揺するでもなく、ただ静かに息を整えていた。
 部屋に残された鏡は一枚だけになっていた。たったいま、かつて忠誠を誓っていたアドルフ・レサを断腸の思いで滅したところだった。
 「ご苦労様。」
 そこで再びアレックスが現れた。先程と同じように、優しい言葉を掛けてにこやかに微笑んでいた。今度も無防備で、武器らしいものは何一つ持っていなかった。
 「よくここまで戦いました。本当に強くなりましたね、フュミレイ。いまのあなたは心も体も昔よりずっと成長している。」
 フュミレイは身動きせずにいた。無駄な体力を消耗することなく、相手の出方を窺うつもりでいた。
 「さぁ、あとは私を倒しておしまいです!もう私にできることは、大人しく消えることだけですから、あなたの体力が戻ったらひと思いにやっちゃってくださいね!」
 しかしこの振る舞い、言動___
 「あ、しまった!」
 心穏やかにさせる気配___
 「むしろあなたを襲うくらいじゃないとやりづらかったですよね___あぁ私としたことが___」
 「___アレックス?」
 「はい。」
 「本当に本物___?」
 フュミレイは立ち上がった。誘われるように、少しふらつきながらも手を伸ばした。
 「う〜ん、それはハイとは言えません。」
 「?」
 「まあ座ってください。本当はこういうの試練の意図に反するんでしょうけど、あなたにはどうしてもご褒美をあげたいから、ここのことを話しますよ。」
 アレックスはフュミレイの手を取り、彼女の支えとなってから自ら先に座って見せる。まだ多少は疑いながら、それでもフュミレイは彼と向かい合うように腰を下ろした。
 「ここはあなたの心を試す鏡の間です。あなたの記憶に残っている人々が、鏡の力により具現化されてあなたを襲います。ここはオル・ヴァンビディスの奥深くですから、色々な魂が眠っています。その中からあなたの記憶にある人物に近い気質を持った魂を、鏡の力で引っ張り出して、そっくりな複製を生み出すというわけです。まぁここに現れたのは精巧に作られた偽物とでも言いましょうか。」
 「___そうか。」
 フュミレイは幾らか沈んだ声で呟いた。
 「がっかりしました?」
 「いや、半分以上信じてない。」
 俯きがちな彼女を気遣うアレックスだったが、フュミレイはきっぱりと首を横に振った。
 「相変わらずですね。」
 「どっちが。そうでも言えばおまえを消しやすいと思ったんだろう?」
 「___まあそういう部分もありますが、嘘を言ったつもりもありませんよ。」
 「いや、少なくともおまえは違う。あたしの記憶を頼りに精巧に作られただけの奴が、こんなに喋れるものか。おまえ、父、姉___あたしをただ襲うだけでなかった人たちは他とは違う。」
 「それは記憶の美化というものです。あなたが私たちに励ましてほしいと思う心が、鏡に反映されたにすぎません。私が戦いを放棄して話していられるのは___私から言うのもおこがましいですげと___あなたが私を何よりの心の拠り所としているからでしょう。」
 「___」
 確かにそうなのかもしれない。でも信じたくはない。
 「ファルシオンを手にするには揺るぎない自己が必要です。相手が誰かは問題ではありません。今あなたがすべきはファルシオンを手にすることであり、それを握ったとき、あなたは審判の資格を得ます。ファルシオンは過ちを正すためだけに使わねばなりません。あなたがいかなる事象にも動じることなく振る舞えることを示すために、私を消してご覧なさい。それが正しい道なのですから。」
 そう言ってアレックスは目を閉じた。その場に座り込んだまま、動くのをやめた。フュミレイは暫く彼を見ていたが、やがて膝を抱えると、項垂れるように自らの腕に頭を擡げた。
 「やれるわけないだろ___」
 そして呟く。
 「あたしは___もう二度とおまえを傷つけたくない___いやむしろおまえに殺されるなら本望だった。」
 顔は上げない。アレックスの姿を見ることができない。
 「どうしても駄目ですか?」
 「___」
 「偽物なのに?」
 「___」
 「ここを抜ければ後は最後の試練があるだけなのに?」
 「___」
 フュミレイが少しだけ顔を上げた。前髪の奥の左目がアレックスを見て、すぐに逸れた。あの優しい顔を見せられると、それだけで心が折れる。
 「ごめんなさい。」
 口を突いて出たのは謝罪の言葉だった。やがて短い沈黙を経て、アレックスの立ち上がる音がした。すぐに、フュミレイの肩に温もりが触れた。
 「謝るのはこっちです。あのときもいまも、結局私はあなたを苦しめてしまっている。」
 肩が少し震えた。顔は上げるのが恥ずかしくなるほど歪んでいた。
 「ごめんなさい。フュミレイ。」
 間違っている。あの時も、ゴルガで彼を撃ち殺す前もそうだった。謝るべきは彼ではないのに。
 「なんで___っ!!?」
 堪らずにフュミレイは顔を上げた。その唇にアレックスが舞い降りる。
 キスまでも優しく、彼女の体が崩れないように支えながらの短い接吻。
 唇を放した彼は、眼鏡を外した顔で微笑んでいた。
 「私はあなたのことが大好きです。だから私の分も精一杯生きてください。それが今の私のただ一つの願いです。遺言にもそう書いたでしょう?」
 その言葉は徐々に消え入りながら、しかしフュミレイの心にしっかりと染みていく。口伝てに与えられた何かのせいだろう、薄れゆく意識の中で彼女は別れを直感した。

 「___」
 目覚めたとき、そこには誰もいなかった。あったのは目尻から耳元へ続く涙の跡と、ある程度傷が癒えた自分の体、そして唇の余韻。
 アレックスはもうそこにはいなかった。
 「眼鏡___」
 床に眼鏡が落ちていた。そのレンズには油か何かで書いたのだろう、「希望を」と記されていた。手を触れると、泡のように弾けて消えてしまった。
 と、同時に最後の鏡が割れる。その後ろに、先へと進む道が現れていた。
 「ありがとうアレックス。」
 フュミレイは姿無き思い人にそう告げて、また歩き出した。

 アレックスは次が最後の試練と言っていた。
 一本道の先に光が見える。フュミレイは余計なことを考えず、ただ無心でそこを目指した。力の削られる感覚があっても、顔を歪めることすらなかった。
 やがて景色が開け、広い部屋に出た。その一番奥に巨大なドラゴンがいる。無数の篝火に照らされた鱗はオレンジに輝き、首を上げると身の丈はフュミレイの五倍はくだらない。鼻息だけで辺りの塵を焼き付ける迫力で、察するに秘めたる力は竜の使いのソアラに匹敵する。
 まさに最後にして最強の試練。
 「さぁて、やろうか。」
 二百五十六分の一まで削られた力で適う相手ではないだろう。しかし彼女は落ち着き払っていた。確かに、鏡の試練で心は強さを増していた。
 「ゴアアアアア!」
 しかし敵は圧倒的だった。開口一番吐き出した炎は、部屋一杯に広がって辺りの気温を急上昇させる。際限を知らない魔力で何とか炎を塞ぎ止めたフュミレイだったが、それが止むと同時に繰り出された尻尾は止められなかった。横凪ぎに打ち付けた巨木のような尻尾は、一撃でフュミレイの左腕、肋を打ち砕く。壁に打ち付けられて、右の肩も砕けた。
 「グルルル___」
 圧倒的だ。竜はすでにフュミレイの前に悠然と構え、鶴首で見下ろしている。力だけでなくスピードも凄まじかった。まともにやり合ってかなう相手ではない。可能性があるとすれば、奴が口を開いた瞬間、外皮よりは軟弱であろう口内から頸椎か脳を砕くべく闇の波動を放つしかない。
 「ゴガアッ!」
 雄叫びと共に竜が口を開く。フュミレイは満足に動かない腕を、闇の力でつり上げる。その右手は黒いうねりに包まれていた。
 「宵闇の裁き!!」
 右腕から黒い砲弾が放たれる。レイノラのそれに比べれば遙かに小さい闇の波動だったが、それでもフュミレイは二百五十六分の一の力で奥義を放ちきった。竜は口を閉じようとせず、喉奥に輝きを燃え上がらせる。
 炎で吹き消すつもりなら好機だ。闇の力は炎を超越し、貫くはずだから。
 (捉える___!)
 フュミレイはそう確信した。しかし勝利の笑みを浮かべる余裕はなかった。そして___
 パシュゥゥッ!!
 確信は脆くも打ち砕かれた。
 「!?」
 竜の喉奥の輝きに触れた瞬間、渾身の闇は一瞬で消し飛んでしまった。炎であれ吹雪であれ苦にしないはずの闇が、無惨なほどに簡単に消されたのだ。
 「馬鹿な___」
 フュミレイの顔が引きつる。確信を潰されたショックではなく、自らの体を蝕む傷みに。
 「うぐ___ぐぅぅっ!」
 宵闇の裁きを放った右腕で血が弾け飛んだ。攻撃時に服の袖は消し飛んでいたが、真っ赤なドレスでも着ているかのように肌が血で染まっていた。限界を超えた力を使ったことで、肉体が悲鳴を上げる。無数に開いた傷口で血が煮えたぎるように飛び散って、蒸気すら立ち上らせていた。
 (!___まさか!)
 しかしフュミレイは終わろうとしている自らの人生を振り返るでもなく、ドラゴンになぜ闇の波動が効かなかったのかを考え続けていた。そして気が付いた。顔を上げるとあまりの目映さに左目が潰されそうだった。
 そうだ、目映いのだ。これは炎ではなく「光」だ。
 (宵闇の裁きを消したのは___竜波動!)
 輝かしい光の向こうでドラゴンの鱗の本当の色を知った。
 それは橙でなく黄金だった。
 直後、視界が真っ白に塗り潰される。
 最期に知ったのは、体が昇華する感覚だった。




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