4 思い出の実
「ううっ!」
戦いは一方的だった。オコンは海を反り発たせることも、蔓延る雲から稲妻を落とすこともなく、あえて自らの槍でリーゼを追い込んでいく。抵抗する無意味さを知らしめるかのように、収穫の女神を圧倒していた。
「これではやられに出てきたようなものだな!」
「くっ!」
リーゼはその手に鎌を握り、必死の抵抗をしていた。だがオコンの攻撃をいなすばかりで攻撃には出られない。
(なんとか___時間を稼がないと!)
だがそれで良いのだ。オコンが手加減をしてくれるなら、できるだけそれにつきあって時間を稼がなければならない。胸に隠した水晶の存在に気付かれる前に。
___そこはいつも強い風が駆け抜ける。清廉な空気に満ちあふれ、汚れを寄せ付けない聖域。私はそこで病に蝕まれた体を休めなければならなかった。
「ぬぅっ?」
自宅へと戻った白髪の老人は呻いた。出かける前に片づけた本棚が、またもや無惨に散らかされていたからだ。老人は溜息をつく。長い白髪、眉、髭、小柄な体と相まって仙人のような風体の彼はオウルといった。
ここ、ホルキンスの谷の長老だ。
「これ、ソアラ。」
「あ!すみません、すぐ片づけます。」
自分の周りに本の山を築いてなにやら熱心に調べものをしていたのはソアラだった。少し痩せて、心なしか目も窪んで見えるが、活力はある。長く伸びた紫の髪は背中の辺りで軽くまとめられていたが、いつもの行動的なポニーテールではなかった。
「片づけなどよいぞな。見たい本があればわしが医院まで持っていくと言ったろうに。無理に動くと体に毒じゃぞ。」
オウルはソアラが部屋を散らかしたことなどどうでも良かった。それよりも肺に重病を抱える彼女が、毎日のように医師の目を盗んでは医院を抜け出していることが心配だった。
「ずっと寝ているほうがよっぽど毒よ。筋肉だって落ちちゃうし。」
「ならばエストラダを説き伏せてみることじゃのう。」
「___長老ってば相変わらずつれないんだから。」
そう言いながらオウルの髭を摘んで上げ下げするソアラ。顔色は良くないが、表情は病気を感じさせないほど明るかった。
「で?今度は何を調べておる。」
「うん、また魔道書なんだけどね、六つのリングのことが詳しく書かれたのがあったでしょ?魔力の受け皿になるとかどうとか___」
このところソアラは本の虫だった。退屈なベッドの上で彼女の情熱を一心に受けるのは様々な本。オウルの莫大な蔵書を猛烈なペースで読みあさり、自分に役立つ、とくに「動かなくても戦える方法」、「旅の助けとなるだろう世界の知識」の収集に躍起になって、大量のメモも拵えていた。
「おぉ、あれか。」
「覚えてるの?」
「ふむ、いまわしが持っておる。」
「やった!」
ソアラは病気とは思えない軽やかさで、オウルの差し出した本を掠め取った。
「アモンに焚きつけられおったな。」
「おまえがその気になればあいつらに居場所を教えられる!な〜んて言われたらさぁ、あたしはずっと前からその気だもの。アモンさんってばいいこと教えてくれたわ〜、オッパイ触られたけど。」
「傷の経過を調べるためじゃと言うておったぞ。」
「絶対、嘘!」
昨日までソアラは沈みがちだった。再び旅に出ることを諦めてはいなくても、その道はあまりにも険しい。だが残り少ない命なら、できるだけのことをやって燃え尽きたいとも思っていた。
ソアラはまた彼らと会える可能性に胸躍らせていた。自分が適応した炎のリングならば、離れていても魔力で何らかの反応を引き起こせるかもしれない。もし仲間たちの誰かがそのリングを持っていれば、彼らと再会するきっかけを作れるかもしれない。
「長老、あたしの仲間たちが来るときは当然結界は解いてくれますよね。」
「おお、それは案ずるに及ばぬぞよ。」
「ありがと〜!」
「じゃが、彼らはそちを死んだと思っておる。簡単にはいかぬと思うがのう。」
溌剌としていたソアラの顔にほんの少しだけ寂しさが滲む。しかし彼女はすぐにもとの笑顔を取り戻した。
「大丈夫。あたしは分かってくれるって信じてる。最初は悲しむし、怒られるかもしれないけど、きっと分かってくれると思うよ。」
そう言い切れるソアラと仲間たちの関係に、オウルは目を細めた。ホルキンスの谷の長老はこのとき、ソアラがいずれこの困難な病を克服するだろう予感がしたという。彼女はおそらく仲間たちの手によって救われるだろうと___
___二人は一つのベッドに裸で横たわっていた。
「不思議だよね。」
「なにが?」
懐かしい場所へ戻って、気が高ぶっていたのだろう。互いに眠れず、月光に照らされた中庭で偶然すれ違ったのは少し前のことだった。二人きりだったのに踏み切れなかったことをもどかしく思っていたはずなのに、いまはもう新しい関係へと進んでいる。互いの鼻先が触れ合う距離、肌の温もりが否応なしに分かる距離での会話は、とても新鮮だった。
「あたし百鬼のこと好きなタイプじゃなかったはずなのよ。」
「え〜?そうなのか?」
「う〜ん、どっちかというと知的な感じの人が好きなんだよね。」
「あ〜そうか、確かにそうだよな。」
「いまラドのこと思い浮かべたでしょ?」
「うっ___」
厚い胸板に爪を食い込まされ、百鬼は呻いた。爪の痛みより、相変わらずの無頓着さでムードを壊しかけた自分のへまが痛かった。だがソアラは呆れ半分、懐かしさ半分で笑っている。ホルキンスでの再会が久々なら、このデリカシーの無さも久々だった。
「相変わらずよね〜。でも何でだろうね、あたしはいつの間にか百鬼のことが好きになってた。あんなに喧嘩もしたのにさ。」
「俺が惚れてたからか?」
「本当に?だってあたしは男友達みたいでとっつきやすいだけなんでしょ?」
「でも意識はしてたぜ。あれだよ、エンドイロで気絶したおまえを抱き留めて、その時にはもう意識してたな。」
「早いな〜。あたしは最初は、あっけらかんとしてて話しやすいライの友達としか思ってなかったよ。」
「でも悪い印象じゃなかったんだろ?」
「そね___好みじゃないのに!」
「今は?」
「フフフ。」
ソアラは唇に答えを込めた。百鬼はそれを全身で受け止める。
その彼の暖かさが、今という幸せが、ソアラにはたまらなく嬉しかった___
___孤島フィツマナックから芸術都市ローレンディーニへ。連絡船が北の都市へと近づくに連れて風は肌寒さを増していく。少し前だったら、この冷たさが身に染みて仕方なかったろう。今は心地よい涼しさに思える。
「結婚すっか、ソードルセイドで。」
その言葉は彼女の心に大いなる温もりを与えてくれた。彼が側にいて、お腹の中に彼との結晶がいる。それだけでソアラは満たされた心地だった。
「おい、冷えるぞ。中に入れよ。」
いつまでも甲板から戻ってこないソアラを気遣って、百鬼がやってきた。
「変わるものね〜。」
「なぁにが。」
悪戯っぽく笑うソアラに、百鬼は伏し目がちに問い返した。
「あんたがそういう気を利かすところ。昔じゃ考えられなかったわ。」
「だと思ったよ。」
「今だけのサービスじゃないといいんだけど。」
「見くびるなよ、俺はもう切り替えてるぜ!」
「___そういうのは浮気した側が言うことじゃないでしょ。聞きようによっては、本命はフュミレイだけどここは切り替えてやってくしかないって風にも聞こえるわ。」
「そういう意味じゃねえぞ!断じて!」
冗談か本気かはともかく、なんでも笑い飛ばしてしまいそうな豪快さに触れるとホッとするのは確かだ。そして他人からすればつまらない会話でも、今の二人にとっては一つ一つに味がある。
「あたしさぁ___」
「ん?」
「百鬼に会えて良かったよ。」
肩を抱かれながら船室へ。
「俺も良かったよ。」
「あなたにはまだフュミレイがいる。故郷だってあるじゃない。でもあたしにはあなたしかいないから。」
「___」
「ずっと一緒にいようね。」
「もちろんだ。俺たち自身のためにも、生まれてくる子供たちのためにもな。」
肩を抱くのとは逆の手で、百鬼はソアラのお腹に触れる。ソアラも手を重ねた。
「赤ちゃんはみぞおちにはいないわよ。」
「え?あ、そう。」
___
___
「う〜ぅ〜う〜!」
大きな扉を前にして、百鬼は落ち着かない様子で動き回っていた。
「殿、落ち着きなされ。」
「これが落ち着いてられるか!」
「しかし奥方の息みよりもおよそ殿の唸り声の方が大きいですぞ。」
「なら耳栓でもしておけ!」
んな無茶な。老家臣は喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。
フュミレイの犠牲のもとに、中庸界に蔓延った脅威はひとまず去った。しかし消し飛ばされたクーザーマウンテンの下に現れた魔導口とその向こうに消えた超龍神、さらにはアヌビス。新たな脅威がそこにはある。だが戦いへの扉を開くまで、戦士たちには束の間の休息が与えられた。
そして、新しい命が誕生しようとしていた。
「!!」
産声が聞こえた。一つ、そして時を置いてもう一つ。二つの声が重なると、やがて扉が開けられた。
「おめでとうございます!若君と姫君を一度に授かるなんて、素晴らしいことです!」
大仕事を終えたソアラの横に、二人の赤ん坊がいた。疲労と充実の入り交じったソアラの顔は、それ以上に幸せで満たされていた。新たな命の誕生と妻の無事を知った百鬼にも、言葉では言い表せない感動がこみ上げていた。
「ソアラ___よく頑張った!ソアラ!!よく___」
感涙にむせぶ百鬼。彼はソアラのベッドに縋り付くようにして、大粒の涙をこぼしていた。そのとき二人は幸せの絶頂を感じていた。命を授かることの感動は、何にも勝る素晴らしさだと知った___
___
「あたしさ___」
「ん?」
「こんな人生、考えたこと無かった。」
リュカと名付けた男の子を百鬼が、ルディーと名付けた女の子をソアラが、それぞれに抱く。そんな暖かくも穏やかな時の流れの中で、ソアラはそう言った。
「誰でも未来の自分を想像したりするでしょ?でも、あたしにはそれができなかった。考えたくなるような人生じゃなかったからね。なによりこの色だもの、こんな幸せが自分にやってくるなんて、本当に考えたこともなかった。」
百鬼はただ黙って聞いていた。
「この子たちを授かったのはとても嬉しかったけど、本当のことを言うと凄く不安だったのよ。だってさ、この子たちがもしあたしと同じ色だったら___そう思うととても不安だったの。」
リュカとルディー。二人の髪と瞳の色は紫ではない。決して珍しくない栗色の髪と鳶色の瞳をしていた。
「でも今は違うわ。嫌な想像とか不安とか、全部吹っ飛んじゃった。とても幸せな未来だって想像できる。ううん、不幸なことがなにも想像できないのかも。」
じっと愛娘を見つめていたソアラは顔を上げ、百鬼に微笑みかけた。
「あなたのおかげよ。あなたがあたしを幸せにしてくれた。あなたと出会えて本当に良かった。あなたがあたしを変えてくれたんだもの、だからちゃんとお礼を言わせて。」
百鬼も振り向く。二人はじっと見つめ合い、ソアラは小さく頷いてから続けた。
「ありがとう。」
「___」
「___」
「___ぷぷっ___」
「うふふっ___」
二人は声を殺しながら笑っていた。いつもそうだ。面と向かって真面目に、少し気恥ずかしいことをすると、どちらからともなく笑ってしまう。でもその瞬間はとても幸福だし、そんな二人だからうまくいくのだろうと思える。
「おまえに感謝されるのは素直に嬉しいよ。でもちょっと違うと思うところもあるぜ。」
「なにが?」
「おまえを幸せにしたのは俺だけじゃないってことさ。ライやフローラ、サザビー、棕櫚、みんなとの出会いがあって今があるんだ。アレックス将軍やフュミレイがいなかったら___俺たちは出会えてないかもしれないし、ここまで分かり合えなかったかもしれない。」
「そうだね。うん、本当にそう思う。」
「感謝の気持ちをみんなにも分けてやらないとな。俺だけ独り占めしちまったら悪いよ。」
「うん。」
そしてソアラは目を閉じた。百鬼も同じように目を閉じた。二人は今までの出会いに、別れに、友に、仲間に、師に、感謝した___
暖かな光。
とても暖かな光。
自分の体の奥底から、それはとめどなく溢れ出て、爪の先まで暖めてくれる。
命ある者はいつか必ず死ぬ。
しかし生前の記憶は、それが偉大であるほど色濃く刻みつけられる。
それが魂の爪痕。
それが思い出。
「うくぅっ___!」
リーゼの顔が歪む。美しいのに飾ることもなく、素朴な黒髪の村娘のような女神は、必死に抵抗していた。だがオコンが手加減をしていることを差し引いても、リーゼに勝ち目はなかった。
「生命のある場所でこそおまえは本領を発揮する。だがここでは無力だ!」
収穫の女神リーゼには「人への恵みとなりうる全ての生命」が敬意を払う。たとえオコンの手中にあろうと、人が食物とする種類の魚たちは、リーゼを襲うことはしないだろう。むしろ守ろうとさえするかもしれない。しかしオコンの前では魚たちも無力なのだから、この状況を切り抜ける決め手にはならない。
「くっ!うぅっ!!」
オコンが突いて出た槍を、リーゼは辛うじて回避する。しかし槍から水流が吹き出すと、容赦なく収穫の女神の鎌を弾き落とした。
力の差は歴然。オコンは勝利を確信していたが、リーゼも諦めてはいない。胸にしまった水晶が放つ暖かみ、それが彼女を勇気づけていた。しかし___
ビッ!
オコンの槍がその暖かな水晶に突き刺さる。リーゼは慌てて手を伸ばすが、槍が振り上げられると罅入った水晶はオコンの手に渡った。そこで二人の動きが止まる。勝ち誇ったオコンと口惜しげなリーゼ。悠然と語り出したのはオコンの方だった。
「おまえの底は知れた。この水晶はエコリオットのだろう?中には時間の流れが違う小世界があるはずだ。この場に現れたおまえは、渦潮の水流の一部ごと、奴らをこの水晶に隠した。傷を癒す時間を与えるためか、策を練るためか、いずれにせよ俺にとっては袋の鼠でしかない。」
そしてゆっくりとリーゼから離れていく。
「この中にはセラの生まれ変わりと、レイノラとジェイローグの子孫がいる。それだけで十二分の収穫だ。この水晶の檻の虫たちを始末するだけで、バルカンを打倒する力が得られるだろう。」
オコンは下へ。リーゼはただ慄然として彼を見下ろすだけ。
「俺はそれで満足だ。もとよりそれだけを得るつもりでいた。だからここでおまえを殺すことはしない。口封じも必要ない。レイノラに疑われている以上、俺は俺のやり方で邁進する以外に道はないからな。」
海に半身を沈め、オコンは背を向けた。リーゼの目は慄然から悲哀へと変わっていた。
「俺はこれからこいつを海の底深くに沈める。リーゼ、おまえは自分の場所へ帰れ。そしてせいぜいバルカンに殺されないように気を付けることだ。」
「その優しさが残っているのなら、あなたにはまだ別の道が見えるはずよ。」
オコンは振り返らない。しかし半身を海に沈めたまま止まっていた。
「今のあなたはリシスの命を継いだだけでしかない。誰もが許すわけではないだろうけど、まだ清算の余地はあるわ。思慮深いリシスはきっとあらゆる可能性を考えながら、あなたの前で無防備でいたはずだから。」
「残念だが!」
リーゼの言葉に込められた同情は、オコンの声を荒らげさせた。説得の声を遮るようにオコンは続けた。
「それではバルカンには勝てない。非情さが無ければ奴を倒せるはずもない。その生ぬるい感情は、俺にとって毒でしかない!」
水晶を握るのとは逆、槍を握った右手が海の中に入り込んでいた。リーゼには見えない場所で破壊の力を蓄えていた。そして、絶叫とともに槍から水流が迸る!
下から上へ、全くの不意打ち。水流は巨大な槍となってリーゼの心臓を貫きに掛かる。痛めつけられた脆弱な女神には、到底やり過ごすことなどできない攻撃だった。
ゴオオオオッ!
「!?」
しかし、水の速さを追い越すようにして迸った光が、巨大な槍に食らいつくと水の飛沫へと霧散させる。
オコンは我が目を疑った。それは自らのすぐ横から放たれていたのだ。左手の指が焼き付けられて、水晶がその手から零れようとしていた。振り向いたその時には、水晶から巨大な鳥が飛び出していた。そして___
「させない___!」
彼女はすでに外にいた。自らの波動で突破口を開き、オコンの前へと立ちはだかっていた。
「貴様___!」
オコンが呻くのも無理はない。眠れる竜が目覚める要素はどこにもなかったはずだ。そのはずなのに、彼の視線の先にはドラグニエルを身に纏い、普段は紫色の髪を黄金に輝かせ、左腕に無限の紋様、右腕に愛する人の遺品を宿したソアラ・バイオレットがいる。
オコンが見たことのない、勇壮な姿で。
「くっ!貴様が!」
オコンはリーゼを見上げた。リーゼはソアラの復活に勇気づけられるように、悲哀を消していた。
「その水晶に時間の違いはないわ。貴重な果実のなる木があるだけよ。」
「果実だと___?」
「その果実の種はリシスにもらったの。」
「!」
「果実の名前は___思い出の実。人が不幸にも忘却してしまった幸せな思い出を、鮮明に思い出させる果実よ。リシスがなぜ、その種を私に託したと思う?」
リーゼは述懐を込めて問いかける。だがオコンは憮然として彼女を睨み付けるだけ。黄金のソアラにも警戒を敷き、その背後へ遠ざかっていく大きな鳥も視界に収めつつ。
「ムンゾが死んだ後、私は一度だけ彼女に呼ばれて会いに行った___含蓄深いリシスは、少なからずこうなる可能性を考えていたのよ。」
そのときの老婆の姿は今でも目に浮かぶ。彼女はまるで自らの死期を、そしてオル・ヴァンビディスの未来を悟ったかのようだった。
___
リーゼがリシスに招かれたのは、フュミレイが彼女の元からオルローヌの世界へと去った直後だった。フュミレイは気付いてなかったが、彼女の服に引っかかっていた小さな葉っぱに、リシスの念が込められていた。リーゼはそれを得て、リシスの元へと向かったのだ。そこで浴びせられた言葉は忘れられないものだった。
「わしらは遠からず殺されるじゃろう。」
「!」
驚くリーゼをよそに、リシスは目の前の切り株を杖で叩く。そこには円を描くように十二の針が打たれ、それを頂点に輪を掛け、対角線を結ぶようにして糸が張られていた。一本の長い糸の輪を複雑に巻き付けてあるのだ。
「何度も弛みかけながら、幾星霜保たれてきた糸がついに緊張を失ったのじゃ。」
リシスは針を一つ抜き取る。すると糸は一気に張りつめたものを失った。
「もはや十二の輪は保たれてはおらぬ。糸が余って張りは失われたままじゃ。」
頂点が一つ消えたことで、糸は十一の針をずり落ちていく。
「これに緊張を保たせるにはどうすればよい?」
「___別の針を打つ?」
「そうじゃな。そうすれば糸は変わらず保たれよう。それには、かつてここに刺さっていた針と同等以上の強い針が必要じゃ。ただそれとは別にもう一つ方法がある。分かるかの?」
「いえ___」
「こうじゃ。」
リシスは針の一つを取ると、そこに糸をぐるぐると巻き付けていく。余分な糸を針が纏うようにして、十一の支点にかつての張りが蘇る。
「!___リシス、これは!」
リーゼはリシスが何を言わんとしているか察し、息を飲んだ。
「さすがに察しがよいのう。」
「この糸はGを暗示している___!?」
「そうじゃ。糸はこの世界に遍く力じゃ。ムンゾが死んだ。しかしわしらはそれを察することさえできなんだ。それはつまり、糸が弛んでいないということじゃ。」
「それは___」
「別の針が現れたか、すでにある針がその身に糸を巻き付けたかということじゃよ。そしてわしは___後者じゃろうと考えている。」
「!」
若い女神リーゼは老神リシスにいつも驚かされてばかりだった。だが今日ほどの驚きはなかったろう。
「オル・ヴァンビディスはGのもとに成す。誰しもが少しずつ、その身中にGを持っている。それは例えば、Gの野心、果てぬ欲望をも少なからず受け継いでいるということじゃ。」
「つまり___私たちの誰かがムンゾを殺した。」
「儂はそう思っておる。おまえがどう思うかは別の話じゃがのう。」
リシスが切り株を杖で叩くと、針と糸は宙に舞い上がり、葉っぱの形になったかと思うと一陣の風に乗って木々の中へと消え去った。
「わしのような先のないものとは違い、ここにはおまえのような若い神もいる。しかも、この変化のない牢獄のような世界で年老いることもなく、じゃ。」
若い神と言われて思い浮かぶ顔は、オコン、ジェネリ、バルカン、エコリオット、セラ___あたりか。思えばオル・ヴァンビディスに穴を開けるというあってはならない行動に出たのも若いエコリオットとセラだった。
「おまえのように悩みのない___あぁ、褒め言葉じゃぞ___いや、悩みでなく迷いじゃな。ふむ。おまえのように迷いのないものには無縁じゃろうが、Gを封じ続ける使命に、未来のない世界に辟易としているものもおるはずじゃ。その欲望を抑え続けてわしらはただ時が過ぎゆくのを待っておる。いわば巨大な壺に少しずつ欲望の水を垂らしながら日々を過ごしておる。」
リシスはさらに続けた。
「神といえど人じゃ。過去はやがて記憶の果てに追いやられ、決意は慣れという魔物に食われていく。今を照らす希望の光がなければこそ、やがて過去も決意も暗黒へと葬り去られるじゃろう。そしてオル・ヴァンビディスにはその光がない。今までこそわしらは自我を保っていたが、それはほんの些細なきっかけで崩壊する脆さを孕んでおる。」
リーゼはただ深刻な顔のまま、耳を傾け続ける。
「リーゼよ、冒頭にわしのいった言葉を覚えているな?」
「ええ___」
「わしは誰がムンゾを殺めたかは分からぬ。しかしわしら十二神の中にその真相を知るものがいるはずじゃと睨んでおる。そしてもし真実が露見すれば、他にも欲望の水瓶を溢れさせる者が現れると考えておる。」
「そんな___」
「リーゼや。この種を育ててはくれぬか?少し扱いが難しいが、おまえならばできるじゃろう?」
唐突に、リシスは皺だらけの掌に一粒の種を乗せて差し出した。
「これは?」
「思い出の実の種じゃ。」
「思い出の実___?」
「わしらはこの閉ざされた世界でただひたすら時を過ごしておる。それはバルディスでの暖かな記憶を薄れさせ、欲望、絶望の源を生みかねない。壺に満たされた魔性の水を抜くには、忘れてしまった希望を思い出す事がなによりじゃ。」
「___」
「もし、おまえがこの先、血迷った同志と相対することがあるならば、その実を与えてみると良い。そやつが心底までGに狂っていないならば、きっと目覚めさせることもできよう。」
「分かりました。」
そして、種はリーゼへと託された。だがリーゼには疑問があった。なぜリシスがまるで自らの死後を託すようにして、種を授けようと思ったのか。
「オコンがのう。」
「!」
心を読まれてリーゼは思わず肩を竦めた。
「わしはオコンのことが心配なのじゃ。」
「オコンが?」
「あやつはジェネリへの思いが強すぎる。もしジェネリを失えば___」
「そんな!」
「いや、忘れておくれ。あやつがわしをババのように扱うでの、ちょっと孫への勘ぐりが過ぎたようじゃ。あやつがわしを殺しに来るなど過ぎた妄想よ___」
リシスは深い皺をさらに深くして笑った。それが森の女神と話した最後だった。
___
戦場に風が吹き抜ける。しかしリーゼ、オコン、ソアラ、彼らの間だけ風が止まっているかのように大気が張りつめていた。
「あたしも疑っていた___」
リーゼの告白に続く沈黙を破ったのはソアラだった。敵意が無いことを示すように、紫色へと戻った姿で。
「海の中でリーゼさんに助けられて、その瞬間、思い出の実のことを聞いたわ。水晶の中には大きな木が一本あるだけだったけど、それも大量の海水でへし折られてしまって、あたしはそこでもやっぱり諦めたままだった。でもみんながなんとか無事だった実を集めてくれて___本当、やけくそだったのよ。だってみんなに無理矢理口に詰め込まれたんだから。」
ほんの少し前のことなのに、ソアラは遠い昔のことのように言う。だが実際彼女にはそんな錯覚があった。
「それでね、忘れていたことをたくさん思い出したの。とても暖かいこと。そこにはいつも百鬼がいたわ。」
そう。短い微睡みの中で、彼女は自らの人生を一から振り返っていた。絶望の中で否定していた幸せな思い出の全てを、まるで自分がまたその場にいるかのように、彼がそこにいるかのように、感じていた。
「それで分かったのよ。あたしの歩んできた道は間違いじゃなかったって。百鬼が死んだことは凄く悲しいけれど、彼が私の心から消えるわけじゃない。でもメソメソ泣いてばかりじゃ、きっといつか消えてしまう___ううん、消えていたのよ。だから立ち上がることができなかった。」
オコンは答えない。ソアラを振り向くこともせず、リーゼを睨み付けていた。だがその視線からは、殺気にまみれた先程までの厳しさが失せつつあった。
「オコンさん。」
彼を振り向かせようと、ソアラは呼んだ。その手には橙色のまん丸な果実があった。それが思い出の実だ。
「お願い、オコンさん。思い出の実を食べて。あなたがジェネリさんのことを思うなら、これ以上彼女を悲しませないで。」
ソアラはそう言って実を差し出す。だがオコンは振り向かなかった。ただ憎らしさを込めて、頬を強張らせるだけだった。
「貴様にジェネリの何が分かる___」
リーゼを睨んだまま、オコンは苛立ちを噛みしめるように吐き捨てる。
「ジェネリさんの全ては分からない。でもあの人の最期を見た私には、あの人が底抜けに暖かく優しい人だということは分かるわ。もし彼女が生きていたら、今のあなたを止めようとするはずよ!」
「___」
オコンの答えは無いかに思えた。しかし彼は、不意に短い溜息をつき、ソアラに向けて手を伸ばした。
「___よこせ。」
「オコン!」
リーゼは喜々として手を叩く。ソアラはオコンがいまだに振り向いてくれないことに若干の不穏を抱きながら、それでも橙の果実を彼に向けて放り投げた。受け取ったオコンは、躊躇う様子もなく思い出の実を囓った。
「___!」
体験したソアラには分かる。その瞬間から、幸福な思い出が走馬燈のように彼の脳裏を流れているはずだ。オコンは天を見上げるようにして目を閉じた。愛する人、風の女神ジェネリとの幸せな時間を確かめるように。
険しかったオコンの表情が和らぎ、毒気が抜け落ちるように、一滴の涙が頬を伝う。時間にしてものの数分。ソアラが立ち直るのに要した時間と変わらない。オコンは目を開け、潤んだ瞳を晒した。
「ありがとう、リーゼ。」
そしてそう呟く。リーゼは安堵の笑みを浮かべ、彼の元へと下降してくる。オコンは彼女の手を取ろうと右手を伸ばした。
「俺の決意は一層確かになった。」
「!?」
そこでオコンが豹変した。右手の指から槍のように鋭い水流が放たれる。
ズガガガッ!
しかしそれはリーゼに届かず、割って入ったソアラに阻まれた。竜装束にいくつか水流を食い込ませ、それでも黄金の輝きを迸らせて、ソアラはオコンを睨んだ。
「どうして___!?」
もどかしさをぶつけようとしたソアラだったが、オコンの視線が彼女でもリーゼでもなく、その背後の遠くを向いていることに気付き愕然とした。
「みんな!?」
遠くから様子を見ていた棕櫚と、その背に乗る傷ついた仲間たち。海に半身を沈めたままでいたオコンは、強かに殺戮の力を蓄え続けていた。ソアラが振り向いた瞬間には、海から猛烈な勢いで水の槍が伸び上がっていた。
「え!?」
一瞬の出来事だった。盾となったことでその背に触れていたリーゼの手から、彼女の思いが流れ込んできた。そしてソアラが絶句するよりも早く、リーゼはその力を迸らせる。
「我に帰れ、メグザリア!」
リーゼの体から緑の輝きが広がる。次の瞬間、棕櫚の腹を貫かんばかりに迫っていた水が急旋回し、ソアラが身を挺して食い込めたオコンの水流が弾けた。それだけでない、ソアラの体を包む黄金色の輝きまでもが後ろに引っ張られていた。
「リ___!!」
ソアラが振り向いたのは、まさに全ての輝きがリーゼの体に降り注いだ瞬間だった。
『力になれずにご免なさい。私は戦いが苦手だから、こんなことしかできなくて___でもオコンは本当に優しい人だから、どうか彼を正しい道に戻してあげて___なんでだろう?あなたならきっとできる気がするの。』
背に触れたリーゼから伝わった言葉。それは手が放れて、彼女の体が破壊の限りを尽くされるその時まで、ソアラの脳裏に響き渡った。
ドオオオオオッ!
今までのどんな雷鳴よりも大きな音が轟いた。その衝撃波はソアラの髪を暴れさせ、棕櫚の翼を反り返らせる。しかしオコンの殺意だけは吹き飛ばす事ができなかった。
「___!」
全ての衝撃が散った果てに、リーゼの体だけが残っていた。生気はない。しかし彼女の体はまだそこにあった。
「リーゼ!」
ソアラがリーゼを抱き留めようとする。しかしそれよりも早く、宙に散っていた大量の水滴がリーゼの体に食らいついた。
ドババババ!
そしてリーゼの体は砕かれた。ソアラの目の前で、僅かな望みをも許さぬように、水の弾丸がリーゼの体を蜂の巣にし、細切れになるまで砕いた。
行き場を失った肉片は、すぐに輝ける砂へと変わる。それはキラキラと光りながら、ソアラの体をすり抜けてオコンへと消えていく。誰がリーゼを殺したかを証明するように。
「大人しくしていれば死なずに済んだものを。」
流れ込む揚々とした感触。オコンはそれを確かめるように拳を握り、言った。その言葉はソアラを現実へと引き戻し、勢い良く振り返らせた。
「オコン!」
怒りを込めてソアラは叫ぶ。だがその不可解さにオコンは冷笑を浮かべていた。
「おまえに怒鳴られる筋合いはない。おまえのような、力を持てあますだけの役立たずにはな。」
「思い出の実は___ジェネリとの幸せを思い出したはずなのにどうして!?」
オコンは鼻で笑った。だがその嘲りはソアラに向けられたものであり、自らの意志を語るときの彼は真剣そのものだった。
「だからこそ確かになったと言ったはずだ。遠い昔の幸福は、過ぎ去った時間、失われた未来の大きさを知らしめる。バルディスを崩壊させたGへの怒り、悪夢を繰り返そうとしているバルカンへの怒りは一層確かなものとなった。そのために俺が取るべき行動の正しさもな!」
オコンは揺るがない。リーゼを殺したことさえも自らの正義とする姿勢には、彼なりの信念がある。それを確固たるものにしたのが思い出の実だとすれば、あまりにも皮肉な結果だった。
「そんな___」
「俺に任せておけ。必ずやバルカンを倒し、世界を正しき方向に導いてみせる。」
ソアラには説得の言葉が見つからなかった。もしオコンとジェネリのことをもっと知っていれば、色々な言葉も出てきただろう。でも二人の幸福な時間を知るのは、きっと二人だけ。今はオコンだけだ。
彼には語り合う仲間がいない。百鬼を失ったソアラを全力で支えてくれた仲間のような存在がない。あるとすればそれはきっとレイノラであり、リーゼだったはずだ。だがその一人は彼に疑いの目を向け、もう一人は彼自身の手で命を絶たれた。
「さあ、おまえの命を捧げろ。Gを滅する力となるのだ。」
オコンはソアラに槍を向ける。ソアラはただ悲しい目でオコンを見つめていた。
「良い子だ。」
三つ又の槍がソアラの喉笛目がけて突き出される。しかし次の瞬間、黄金に輝いたソアラの体から猛烈な波動が噴き出すと、彼女は構わずに槍の刃を握りしめた。
「!」
どこにそれほどの力が眠っていたのか、オコンには理解できなかった。槍はソアラの手の中でビクともしない。海神が力を込めても、ソアラの手は刃を放すどころか血の滴りもない。
「この世界は最低よ___生き物は命でなく力として見られる。百鬼の命も、サザビーの命も___力、力って___命の価値はそんなもんじゃないのに!」
ゴワッ___!
「なっ!」
ソアラの手の中で槍の刃が砕けた。さしものオコンも怯む。彼の前で輝く黄金の女、その輝きに今まで感じ得なかった迫力があった。
「目を覚ましなさいよ___神様のくせに!!」
ソアラは泣いていた。今のオコンにその涙の意味は理解できない。誰のために、なぜ泣いているのか?つい先程出会ったばかりのリーゼ?短い時間を共にしただけのジェネリ?ソアラ自身にも説明のしようがないのだから、理解できるはずもない。オル・ヴァンビディスという世界の不条理さ、この戦いの虚しさ、オコンを救う手段が見つからないもどかしさ、色々なものが入り交じって自然とこみ上げてきた涙なのだから。
「!」
光の中で、オコンは驚愕と共に懐かしい顔を見た。ソアラの背後に、かつての友の姿がはっきりと浮かんで見えたからだ。
「竜波動!!」
黄金の輝きが迸る。それはオコンを飲み込み、海へと突き刺さる。そして猛然と弾け飛んだ。
ドゴオオオオオオオ!!
あまりにも巨大な爆発。輝きが海の底から吹き上がると、大量の海水もろとも空へ向かって力を放散させる。それはかつての竜波動とは明らかに違う。たとえアヌビスであっても、その身に受ければただでは済まないだろう驚愕の破壊力だった。
ザアアアア___
波がぶつかり合い、無数の渦を作っている。竜波動にそぎ取られた空間に、周囲の海から大量の海水が流れ込んでいるのだ。それは空へと蹴散らされた水を埋め合わせ、元の海へと戻していく。あれほど蔓延っていた雲も跡形なく消し飛ばされ、朝の光が射してきた。
「___」
オコンは乱れ打つ波の上に立ち、ただ虚空を睨み付けていた。全身に血が滲んでいたが、彼の命を脅かすような傷は一つもなかった。そして辺りの空にも、彼を追いつめる存在は居なくなっていた。
壮絶な竜波動はオコンを滅するためのものではなかった。あれを放った直後、ソアラは棕櫚の元へ飛び、ヘブンズドアを唱えた。つまり、逃げたのだ。
あの破壊力ならオコンの命を奪うこともできたかもしれない。しかし竜波動は彼の目の前で二つに裂け、その体を撫でるようにして背後の海へと突き刺さった。しかしそれだけでオコンの全身に大量の傷を刻み、痺れを走らせる威力だった。
「ジェイローグ。」
唸りを上げる波音の中で、オコンは呟いた。思い出の実のせいか、光の中で見た面影のせいか、彼の頭に浮かぶのは光の神の姿だけだった。
「おまえは確かに俺の友だった。だが、今のおまえは憎むべき敵だ。」
オコンは拳を握りしめる。全身に力を込めても、傷から血が弾けることはなかった。リーゼの力が馴染みつつあるのだろう、傷は急速に塞がりつつあった。
「ジェイローグ!おまえに問う!」
目映い光を睨み付け、オコンは叫んだ。
「俺はおまえに全てを捧げ、地獄へと堕ちた!だのにこれ以上___おまえは俺から何を奪おうというのかっ!!」
荒れ狂う波はいつまで経っても静まる気配がない。穏やかで暖かな朝の光は、それを宥めるように煌めいているのに。
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