3 正しき道

 海神オコンはソアラを殺そうとしていた。だがこの男は、冬美にしろ黒麒麟にしろ全幅の信頼を置いていたように見えた。それがなぜソアラを手にかけようとしているのか?竜樹には理解できなかった。
 だが竜樹にとってそんなことはどうでもいい。
 「はっきりしてるのは、てめえが敵だって事だ。」
 花陽炎を上段に構える。そして___
 「ずああ!」
 袈裟切りに振り下ろした。
 パアアッ!
 道を遮っていた海水の滝が真っ二つに裂け、竜樹は室内へと飛び込んだ。その勢いのまま、憮然として立つオコン斬りかかる。
 「!?」
 しかしオコンが唐突に消えた。いや、正確に言えば床に沈み込んだのだ。次の瞬間にはオコンが廊下に、先程まで竜樹の立っていた場所に浮かび上がった。竜樹は水を吐き出したものの、苦しげに突っ伏すソアラを守るようにしてオコンに向き直る。その勇姿を、オコンは冷酷な眼差しで見ていた。
 「セラの力か、それがおまえを微睡みのさざ波から守ったようだな。」
 「!?」
 竜樹は息を飲んだ。
 「波音は人の感情をコントロールする。穏やかなる波は、人に微睡みをもたらすのだ。だがさすがは戦神の申し子、その程度で宥められる玉ではなかったらしい。」
 オコンは雄弁に語った。言い訳などなく、彼は自らの言葉で自らの行いを認めてみせた。
 「何でソアラを殺そうとした!?」
 「無駄だからだ。」
 「!?」
 「力を持ちながら戦わない。それは無駄だ。オル・ヴァンビディスは無駄をなくすことができる世界だ。戦わないなら、Gに挑む意志を持つ者に力を捧げるべきだ。それが世界のためになる!」
 「!!」
 「竜樹と言ったな。おまえは確かに戦いの意志を持つ。だが世界を思うならば、その力は分かつべきではない。大いなる一人の戦士に集約されるべきだ。」
 ゴッ___
 空間を押しつぶすような重い音に竜樹は天井を見上げた。そう、ここはオコンの神殿。実体がありつつも、そのほとんどは水で作られた場所だ。天井が破け、莫大な水が一気に落ちてこようとも驚くことではない!
 「おまえの力も俺が貰おう。そして、俺がバルカンを倒す!」
 そして竜樹とソアラは水へと没した。
 「悪く思うな。フェイ・アリエルも含めれば奴は五人の神の力を手に入れた。それに抗うには、同等以上の力が必要なのだ。神に匹敵する力を持つと言われる病人、戦神の一部を得た猛者、いや、それでもまだ足りない。少々小粒だが、あと四つほど捧げてもらうぞ。」
 オコンには嘲笑など無かった。むしろソアラと竜樹の冥福でも祈るかのように目を閉じていた。その礼節ある態度は、誰にでも無く自らの正当性を主張しているかのようでもあった。短い祈りを終えると、オコンは僅かな感慨も残さず踵を返した。
 「花陽炎!!」
 怒濤の水音。それを劈いた竜樹の声にも、オコンは足を止めなかった。最後のあがきとしか思えなかったからだ。
 「絶空の霞!」
 ドゴオオオッ!
 轟音が神殿を揺さぶり、オコンを仰け反らせた。彼の鼻面を掠めて、巨大な円が神殿を貫いていた。それはまるで掘削機のように、竜樹の刃の方向に円形のトンネルを切り開いていた。
 「逃げんなよ。俺はまだ終わってないぜ。」
 大穴を悠然と通り抜け、竜樹はオコンの前に立ちはだかった。角や牙や紋様を浮かび上がらせた戦闘用の姿で。
 「小賢しい。海の世界で俺に勝てると思うのか?」
 「やってみなきゃわかんねえぞ。」
 確かに勝てるかどうかは分からない。だが抗うこと、時間を稼ぐことはできる。それができれば十分だ。
 「うおおお!」
 雄叫びとともに、竜樹はオコンに斬りかかった。

 「どうなってんだよ___何でオコンさんが!?」
 微睡みのさざ波の影響だろうか、ライは普段にも増して状況の整理に手間取っていた。だが今に関しては、フローラもミキャックも「なぜオコンがソアラを殺そうとしたのか」という問の答えを見つけられずにいた。
 「おそらく___」
 ただ棕櫚だけは違う。彼は逃亡しながらも冷静に考えを巡らせていた。
 「フェリルとバルカンの力を知り、レイノラさんと同じように、オコンも勝てないレベルではないと感じたのだと思います。そして力を持ちながら一向にそれを発揮しないソアラさんにジレンマを感じていたのでしょう。」
 「だからってこんな身勝手なこと無いよ!それに、オコンがやろうとしているのはGにGで対抗するようなものじゃない!?」
 ミキャックも憤りを隠せずにいる。フローラだけはただ静かに、ソアラを抱いていた。皆ずぶ濡れなのは、ソアラと同じように部屋の床に体を沈められたからだった。毒や催眠術に強い棕櫚がいち早く目覚め、鯨に化けて三人を根こそぎ救い出し、さらに神殿の中を泳いで竜樹の元へ急いだ。
 絶空の霞で海にトンネルを掘ったあの瞬間、竜樹は別の方向にも穴を開けていた。棕櫚の接近を感じ、彼女は顔を出した鯨の口に迷うことなくソアラを放りこんでいた。
 そしていま、鯨の棕櫚は四人を背に乗せて逃げている。
 「皆さん、どこでもいいから掴まって下さい。化けます!」
 「えぇ!?」
 掴み所のない鯨の肌にライとフローラは必死に掌を押し当て、ミキャックは翼を広げて空に舞い上がる。続いて鯨の棕櫚が巨大な腹で波を叩きつけ、勢い良くジャンプした!
 ブォアッ!
 棕櫚は宙で巨大な鳥へと変化し、一気に空の高みへと舞い上がる。水面からは無数の巨大な鮫が顔を出し、空を食らっていた。
 「海はオコンのテリトリー。どうやら俺たちをここから逃がすつもりはないようですね。」
 夜だから満足にはいかないが、鳥の目には海を覆い尽くすハンターたちの影が見えた。海中に沈められただけで明らかではあったが、棕櫚はオコンがソアラだけでなくここにいる全員を殺すつもりでいると改めて確信した。
 「まずはソアラさんを安全な場所へ運びましょう!」
 ソアラの意識はまだ混迷の中にある。彼女を守ることを第一とするなら、棕櫚の判断は妥当だ。しかしライの考えは違った。
 「竜樹が戦ってるんだ!僕だってこのまま逃げるつもりはないよ!彼女を助けないといけない!」
 ライというのはそういう男だ。今のソアラには分かっていても認められない正義感の持ち主だ。冷静ではなくとも、心に響く情熱を持っている。
 「___」
 フローラはソアラの肩を少し強く抱いた。まだ気を失っているはずの彼女が、ライの言葉に震えたように思えたから。
 「いや、あたしがやる!竜樹を神殿から助け出して、みんな生き残るんだ!」
 「ミキャック!?」
 今度はミキャック。恋人を失ってなお、彼女は戦いを恐れない。
 「___ソアラ?」
 目を閉じている。表情だって無い。でもフローラはまたソアラが震えたように思えた。戦いの意志を恐れるかのように。
 「棕櫚はみんなを運んで!エコリオットの世界を目指して!」
 「一人でなんて無茶だ!」
 ライはそう言い放つが、ミキャックは手分けをしなければならない理由に気付いていた。
 「レイノラ様がいない時を狙ったっていうのが重要なんだ!オコンは多分、あたしたちを殺してからもレイノラ様を騙して平然と振る舞うつもりだ!それをさせないために、あたしたちはなんとしても生きてこの事実を伝えないといけない!」
 「!」
 「バルカンを倒すためなんてただの綺麗事よ!オコンはいずれレイノラ様や他の神も手に掛ける!」
 「でも___どうして!?」
 ライはまだオコンを完全に見限った訳ではなかった。ここまで全面的に協力してくれた人物が、こうも大胆に裏切れることを信じられずにいた。それは彼の優しさであり、甘さでもある。
 「どうしてって___裏切りってそういうことでしょ!?」
 裏切られ続けてきたミキャックとの違いでもある。
 グンッ!
 その場を旋回していた棕櫚が一気に首を傾けた。体が急旋回し、オコンの神殿を背にする向きへ。
 「ちょっ!?棕櫚!」
 ライが慌てて羽毛の深い背中を尾の方へと這いずる。ミキャックはすでに背を向け、神殿に向かって飛んでいた。
 「ミキャックゥゥッ!!」
 ライは絶叫した。棕櫚が一気に加速しても、悲痛な呼び声はミキャックの耳まで届いていた。
 「棕櫚!引き返すんだ!」
 今度は背から頭の方へ、ライは棕櫚の背中を這いずり回った。しかし棕櫚は眼光鋭く遠くの空を見つめるばかりだった。
 「引き返してくれ!」
 ライはその手に練闘気のロープを現して、棕櫚の首に駆けようとする。しかし棕櫚の化けた黄泉の怪鳥はあまりに巨大でうまくいかなかった。
 「引き返せよ!」
 思いあまって彼の頭の上にまで進み、その大きな目に向かって怒鳴りつける。そこでようやく棕櫚の瞳がライを睨んだ。
 「駄目です。」
 「なんで!?」
 鳥の口から響いた深い声に、ライはすぐさま反発した。だが姿を変えても棕櫚はいつもの冷静な棕櫚のままだ。
 「ミキャックさんの言うとおりだからです。俺たちは生きてレイノラさんにオコンの裏切りを伝えなければなりません。」
 「でも!」
 「オコンは以前からこのタイミングを待っていたはずです。彼の野心___いや、おそらくはジェネリを失ったことによる絶望が、彼を暗黒の道へ走らせたのでしょう。そうでもなければ、ここまで周到な動きはできませんよ。」
 「___でも___」
 「竜樹さんがいなければ、俺たちはすでに殺されていたかもしれない。彼女が身を挺して守ってくれたソアラさんを守ること、生きてレイノラさんに事実を伝えること、それに死力を尽くすのは恥じることではありません。」
 「___」
 「いいんですよライさん。あなたのような優しい人がいるから、俺たちはこうして戦っていられるんです。」
 「違う___」
 ライは棕櫚の頭にしがみつき、短い羽毛に顔を押しつけるようにしていた。その手はやるせなさをかみ殺すように、柔らかな羽を握りしめていた。
 「___悔しいんだ___」
 声が震えていた。
 「僕はみんなを守りたいのに___空も飛べないし呪文だって使えない___戦場にも立てない自分が悔しいんだ___!」
 ライは泣いていた。憚ることなく涙を流し、鼻水で顔をグチャグチャにしていた。
 「俺は___全力で生き残ればそれで良いと思います。」
 「___」
 「生き残ることそのものが戦いです。オル・ヴァンビディスから生きて故郷に帰ること、それこそが俺たちの勝利です。それが適うまで、自分たちにできる精一杯のことをやる、それだけでは足りませんか?」
 ライは答えなかった。棕櫚の羽毛に顔を埋めたまま、しかし震えは止まっていた。
 「ライ。棕櫚の言う通りよ。私たちにできるのは生きること。そしてソアラの力になり続けることよ。」
 顔を上げたのは、フローラの叱咤の声を聞いてからだった。強い向かい風が涙も鼻水も全て吹き飛ばし、ライは精悍な戦士の顔を取り戻していた。
 「行こう___棕櫚!」
 「ええ。ただこの先、オコンもただではすまさないでしょう。その時は頼みますよ。」
 「もちろん!」
 ライもフローラも棕櫚も、誰一人として希望を捨てていない。しかし棕櫚の読み通り、オコンがこのまま彼らを見逃すこともない。仕留めるための用意は密やかに、しかし着々と進められていた。その気配を感じている者がいるとすればおそらく___

 「うおりゃあああ!」
 竜樹は怒声とともに花陽炎を振り回した。彼女の周りにオコンの姿はない。しかし際限なく押し寄せる水を打ち払うにはそうするしかなかった。全身を百鬼直伝の練闘気で覆い、苦手ながらも少しだけ宙に浮いて、全周囲から迫る水を食い止め続けていた。
 「!」
 ガギィッ!
 三つ又の槍と花陽炎が交錯する。龍のようにうねりながら襲いかかる水流を囮に、オコンが仕掛けてきたのだ。
 グンッ!
 的確に心臓を狙ってきた槍は食い止めた。しかし三つ又の刃は生きているように動き、花陽炎を挟みつける。竜樹の動きが止まるとすかさず無数の水流が襲いかかった!
 「花風散月!!」
 しかし竜樹は落ち着いていた。花陽炎の刃が弾けるように消えると、大量の真空の刃となって辺り一帯に飛び散った。それは水流を砕き、目前のオコンに手傷を負わせる。怯みながらもオコンは槍で竜樹を突きにかかるが、すでに元通りになっていた花陽炎が横凪ぎに打ち付け、捉えるには至らない。
 「おらおらおら!」
 再び竜樹が刀を振り回す。オコンが動きを止めても水流は休み無く彼女を襲うが、竜樹も休み無くそれに応じている。動きが鈍るどころか、未だ息を切らす様子すらない。
 (セラの武器を完璧に使いこなし、無尽蔵の体力を持っている___もしやセラの力の大半は、バルカンでなくこいつに___)
 疲労を感じていないのはオコンも同じだったが、竜樹にだけ時間を取られるのは好ましくない。そしてここまで抵抗できる彼女に別の魅力を感じ始めてもいた。
 (その力、俺が貰おう。)
 全周囲からの水流が一斉に竜樹に迫る。
 「花風散月!」
 竜樹は再び花陽炎を弾けさせた。竜樹を中心に無数の刃が飛び散る。それは先程と同じように水流をことごとく蹴散らしていった。だがそれだけでは終わらない。今度は二の手があったのだ。
 「!」
 水流の内から散弾のように、小さな魚たちが弾け飛んだ。そのどれもがピラニアのような鋭い牙を持ち、竜樹の全身に食らいつく!
 「捉えたな。」
 手こずらせたがこれまでだ。後は水流を一つその口の中に潜り込ませ、肺を水で破裂させればいい。しかし全身から血を弾けさせようと、水流が猛然と顔に向かって伸びてこようと、竜樹は取り乱さなかった。
 セラの冷静さが彼女に宿っているかのようだった。
 「血の霞___炎舞陽炎!!」
 「なっ!?」
 竜樹の体から迸る鮮血が、突如として燃え上がった。魚はおろか、水流をももろともしない強烈な炎が竜樹を中心に巻き起こる。それは海水の天井を貫き、炎の先を夜の空に突き抜けさせるほどの威力だった。
 「これは___セラの奥義か!?」
 オコンは戦いていた。圧倒的優位に立ちながら、セラの落とし子の末裔に、一介の戦士が局面において神の力を凌駕するという事実に、驚かされ続けていた。だがそれただけだ。彼女はよく頑張ったが抵抗することしかできない。時間稼ぎという虚しい役目を果たしただけだ。
 「___」
 炎が急速に弱まる。貫かれた天井は、上から押さえつけるように新たな水が蓋をして、そのまま炎を押し込めていく。意地の抵抗か、炎は再び勢いを増した。だがそれも一瞬のこと、そこからは加速度的に弱まっていった。それは竜樹の力が劣るからではなく、別の理由のためだった。
 「この狭められた空間で、おまえは炎を灯した。素晴らしい威力だったが、そこにもう十分な酸素はない。」
 そう。火種が尽きつつあったのだ。水流はただ竜樹のいる空間を封じているだけ。ただそれでも彼女の息を絶やすには十分だった。そして___
 「!?」
 炎の消失を前にして、オコンはそこには誰もいないと知った。
 「く___!」
 オコンの顔が引きつる。穏やかだったはずの目つきは、怒りに歪められていた。
 焦りはない。落ち着いて周囲に目を向ければ、竜樹が翼の女に抱えられて神殿から遠ざかっていると分かった。おそらく先程僅かに反発した炎は、突破口を開くためだったのだろう。外で手をこまねいていたミキャックの気配を感じていたのか、それとも炎が水を貫いた瞬間、二人が閃いて意志疎通を図るでもなく最善の策を取ったのか、それは分からない。確かなのは竜樹は神殿からの脱出に成功し、ミキャックがそれを助けたことそして、オコンが彼女たちを捕らえるのはまったく難しくないということだ。
 「往生際の悪い鼠が___!」
 だがしかし泥にまみれるような屈辱感はあった。戦いを知りすぎている連中の抵抗は、雑兵の所業にしては大胆すぎるのだ。
 「神の意志に従え!」
 誰にも悟られないように、オコンはなるべく静かに動くつもりでいた。しかし今となってはどうでも良いことだ。神をも欺く雑兵を根絶やしにすべく、彼は海神の本領を発揮しようとしていた。

 「俺のことなんかほっときゃ良かったんだ___」
 「それ以上無駄口きかない。ソアラを守れないまま死にたいの?」
 血まみれの竜樹を抱きかかえ、ミキャックはエコリオットの世界を目指して全速力で飛んだ。少しでも速くオコンの世界を脱したい。敵の追撃から逃れるのはもちろん、技量を逸脱した大技で自らの体をも酷く痛めつけた竜樹を治療するためにも。
 「俺なら大丈夫。おまえの持ってきてくれたこれを握ってると、自然と力がわいてくるんだ。」
 「___」
 竜樹の手には百鬼のバンダナが握られていた。ミキャックも自らの腰にサザビーの上着を巻き付けていた。
 「あなたを助けられたのは偶然みたいなものよ。神殿の水が邪魔して手を出せなかった。せめて形見の品だけでもと思ってテラスに向かったら、ちょうど水に飲まれようとしているところだった。あたしが手を伸ばしたその先に、あなたの炎が飛び出してきたんだから。」
 「呼んでくれたんだろ?きっと。」
 「そうかもね。」
 愛する人は違っても、その人を失ってなお戦っているのは同じ。傷を舐めあう訳ではないが、彼らのことを思い出すと二人は自然と笑顔になった。
 その時、ミキャックは翼に落ちる雫を感じた。
 「雨___?」
 一滴、また一滴、大粒の雨が翼に触れ、やがて頬に触れ。
 「!?」
 翼ではあまりピンとこなかった。しかし頬に落ちてはっきりと分かった。
 「熱い___!」
 「なんだって?」
 「これはただの雨じゃない___!」
 雨が本降りになるまで数秒と掛からなかった。たちまち地獄のシャワーとなって辺り一帯に降り注ぎはじめた。
 「あああああっっっ!」
 ミキャックが声にならない叫びを上げる。大きな翼から一気に白い煙が立ち上り、羽の一つ一つが溶かされていく。降り注ぐ強い雨に、それでも彼女は竜樹を自らの下に抱くようにして、なおも前に進もうとする。竜樹も彼女の体を伝う雨、飛び散る雫でその威力を知った。触れただけで肌が赤く焼けただれるだろう強い酸だった。
 「オコンか___!」
 その雨を降らせているのが誰か、想像するのは難しくなかった。

 「嘘だろ___」
 ライは愕然として虚空を見ていた。それでも練闘気を迸らせて巨大な傘を作り、棕櫚もフローラもソアラも守っていた。
 「同じね___」
 フローラも息を飲んだ。二人はこの雨に見覚えがあったからだ。
 「同じって___それってどういうことだよ!?」
 「___」
 「あのとき僕らを助けてくれたのはオコンさんだよ!?」
 「それがきっと違うのよ___」
 「!」
 ライにはもはや言葉がなかった。裏切りは今に始まったことではない、いや裏切りの以前に信頼がなかったというほかない。
 「どういう事ですか?」
 突如振りだした酸の雨で、大きな鳥に化けた棕櫚の体ではまだ白い煙が燻っていた。羽が減っていくらかみすぼらしくなり、少しスピードも落ちたが、棕櫚の顔つきは精悍なままだった。背に宛われたフローラの手から流れ込む、強い治癒の魔力のおかげだ。
 「私たち___リシスの世界でこの雨に降られているの。」
 「!?」
 「その時、気絶した私たちを介抱してくれたのはオコンさんだけど、雨の直前に森が死んでいった___つまりリシスさんが殺されているのよ___」
 「なるほど。」
 「その時はアレックス___ジェトと名乗っていたけど、彼が雲を吹き飛ばしてくれたから無事でいられた___」
 「この雨がオコンによるものとする証拠はありませんが、もしそうだと仮定すれば、オコンは当の昔に俺たちを裏切って、いや___はじめから信用していなかったということですね。」
 「酷いよ___そんなのって___」
 正義感の強いライには辛い現実だ。彼はオコンに恩義を感じていたし、危機を救ってくれたと感謝していた。だがそれさえオコンの芝居だとしたら?しかも彼はレイノラやジェイローグの深い友人であり、かつてともにGに挑んだ急先鋒だというのに。
 千年を超える時というのはあまりにも長すぎる。死を迎えることもなく、無味な世界でひたすら生き続ける。それは想像を絶するほどの虚しさだろう。それがオコンを変えたのだろうか?
 悩んだところで答えなどでない。本人でなければ分からないことだ。ただ一つはっきりしているのは、オコンが彼らを殺すことに何ら迷いを抱いていないことだけ。
 ダァァァァンッ!!
 轟音があらゆる雑駁な音を打ち消す。目映い光は波のうねりを浮かび上がらせ、空に蔓延った黒雲の深さをしらせる。光った瞬間に攻撃は始まっていた。強烈な稲妻が、空を行く棕櫚へと打ち付けていた。それは鳥から、その背に乗る三人まで、一瞬にして感電させる。皮膚を引き裂き、血を煮立て、脳天から足先までを焼き付ける、圧倒的な破壊力。
 グンッ___!
 それでも棕櫚は落ちなかった。白い煙から黒い煙に、体に燻る焼け跡も構わずに、棕櫚は飛んだ。
 「うあああ!」
 ライが叫ぶ。天に突き上げた両手は、所々裂けて血で濡れていたが、練闘気の傘を消すことはなかった。
 「リヴァイバ!」
 夫の練闘気が少なからず盾になっていた。傷を負いながら、ソアラを抱きながら、フローラは自らの魔力を二人に注ぎ続ける。
 しかし雲ある限り雨は止まない。雲の中に電気が堪れば、稲妻は幾らでも落ちてくる。そして雲は海から生まれる。
 ドォォォォンッ!!
 再び雷鳴が轟いた。治癒に勝る速さ、強さ。ライの生傷から血が弾け飛び、棕櫚の羽毛も所々真っ赤に染まる。鳥は一度ガクンと高度を落とし、それでも自らを奮い立たすように再び高度を上げる。
 「___雲の上に行ってみますか?」
 電撃は喉を痺れさせる。棕櫚は酷く掠れた声で言った。
 「行けると思う?」
 「俺がオコンだったらそう動くことを読むでしょうね。」
 「僕はまだ耐えられるよ。」
 「なら___このまま飛びますか。」
 二人は決死の覚悟で前を見つめた。三発目の雷を食らっても、棕櫚は今度は高度を下げることさえなく、ライも彼の背に仁王立ちしたままでいた。
 「___」
 雷は高いところから走る。仁王立ちで両手をあげるライから棕櫚へ、フローラとソアラに走るのはそれからでしかない。彼女は治癒の魔力を全開にしながら、しかしそれを追い越して傷ついていく男たちの背中に、唇を噛んだ。
 いつしかその視線は、未だ自分の胸の中で目を閉じるソアラに向いていた。
 四発目。それは棕櫚が翼を羽ばたかせた瞬間に落ちた。ライより高い位置に振り上げられた左の翼の先に、稲妻は突き刺さった。無数の羽が散った。棕櫚の体は大きく傾いたが、すぐに軌道修正する。翼の先は酸の雨にも打たれていた。しかしライが気合いの雄叫びを上げると、練闘気の傘は元の大きさを取り戻し棕櫚を雨から守る。
 だが、あと何発耐えられるのか。ジェネリの世界への境界線はまだまだ先だというのに。
 五発目。ライの肘が少し曲がった。それでも彼はすぐに持ち直す。棕櫚は直前に高度を下げ、片足を海水に晒すことで稲妻を逃がそうとした。それ自体は成功だったが、顔を出した巨大鮫に、鳥足の指を一つ食われた。
 刻々と傷ついていく男たち。もう限界だった。
 「いい加減に___いい加減に目を覚ましてよ!!」
 フローラが叫んだ。雷にも動じなかったライが、驚いて肩を竦めたほどだった。
 「わかってるくせに___さっきからずっと気が付いてるくせに___なんで気絶したふりなんてするのよ!!」
 怒りはソアラに向いていた。優しく抱くのではなく、襟首を捕まえるようにして、目を閉じて首を傾けたままのソアラに訴えかけていた。
 「あなたエクスプラディール使えるじゃない!竜波動を打てばあの雲に大穴を開けることだってできるじゃない!それができるのに___どうして何もしないでいられるの!?棕櫚もライもこんなに傷ついて___どうしてそれを黙ってみてられるのよ!」
 六発目。しかしライがとっさの機転で剣を空に放り投げ、稲妻は剣を通じて海へと落ちた。オコンの意志が働いているからなのだろう、稲妻が放たれる直前、雲の中で小さな稲光が不自然に散発することに彼はようやく気が付いた。だが剣は一本しかない。
 「ソアラ!聞こえてるはずよ!それに___あなたの体はもうどこも病んでいない!あたしには___あたしには分かってるんだから!」
 やりたくないと言った荒療治、ソアラだけに頼りたくないという前言、その全てを反故にする訴えではあった。しかしフローラには逃げ続けるソアラの姿がどうしても我慢ならなかった。
 「もうやめようよ。」
 しかしそれでも、この雲を切り裂くだろう究極の剣は錆び付いたままだった。ソアラは目を開けたが、ライや棕櫚の精悍さとは真逆の、冷め切った顔でいた。
 「いいじゃないの___オコンがやってくれるんでしょ?あたしはそれでいいわ。あたしたちの代わりに戦ってくれるなら、どうぞ殺して。」
 フローラに胸ぐらを掴まれたまま、ソアラは澱んだ雲を見やって言った。
 「___あたしの___あたしの目を見て言いなさいよ!だらしないことばかり言って___後ろめたい気持ちがあるから人の目を見ることだってできないんじゃない!!」
 「___」
 ユラリとソアラの首が動く。久しぶりに力を込めたかのように、ゆったりと、彼女は顔を上げてフローラの目を見た。
 「そんなに生きたければあたしをオコンに捧げなよ。見逃してくれるかもよ。」
 昨日今日と、何度ソアラの言葉に胸を抉られたろう。フローラは彼女がもとのソアラに戻ってくれることを決して諦めない。でもソアラは期待を裏切り続けている。フローラにとっては、オコンのそれよりも手酷い裏切りだったに違いない。それでも彼女は耐えてきた。打ちのめされ続けても、ソアラの事が好きだから手を尽くしてきた。感情的になってしまった、罵りもした、それでもソアラは振り向いてくれない。
 そして彼女は、握っていた手を放した。
 「あたし___ソアラのこと嫌いになりたくない___」
 雷鳴に消え入りそうな弱々しい声で、呟いた。
 「ううん、あなたがどんなに突き放そうとしたって、あたしたちは誰もあなたのことを嫌ったりしない___それがあなたにとって迷惑なことでも、あたしたちがソアラという希望を捨てることは絶対にない!」
 ダンッ!
 フローラが棕櫚の背を蹴った。彼女の体はライの傘を脱し、酸の雨が降り注ぐ宙へと流れた。
 「フローラ___!」
 思わず口を突いて出た名前。無関心を装っていたくせに、ソアラの視線は宙に投げ出されたフローラに釘付けになっていた。
 「なんてことを!」
 「フローラ!?」
 棕櫚とライが振り返る。その時、フローラは全身を魔力で覆い、宙に留まっていた。酸の雨に服を、肌を、髪を焼かれながら、それでも空に蔓延る黒雲を睨み付けていた。
 「あたしが活路を開く___トルネードサイス!!」
 棕櫚が大慌てで旋回するのと、フローラの両手から巨大な竜巻が吹き出したのはほぼ同時だった。
 竜巻は降り注ぐ雨粒を蹴散らして、蔓延る黒雲に深々と食い込む。そして雲を高速の渦の中へと飲み込んでいく。効果的に見える。しかしソアラには分かってしまった。フローラがすでに回復呪文のために相当量の魔力を消費していたこと、トルネードサイスの持続には並々ならぬ魔力が必要なこと、魔力が尽きたとき彼女に起こること、黒雲は猛烈な勢いで吸い込まれているが決して死んではいないこと。
 「___」
 見ていられない。ソアラは全身を震わせて、きつく目を閉じた。次の瞬間___
 ドォォォォンッ!
 稲妻が走った。だがそれはフローラではなく、自然の掟に従って棕櫚へと注いだ。棕櫚が急激に高度を上げて、自らに雷を呼び込んだのだ。ライもソアラもその背にいた。しかし避雷針となったのは棕櫚の嘴であり、二人に届いたときには多くの抵抗が電圧を弱めていた。
 しかしそれもその場凌ぎでしかない。棕櫚は真っ直ぐ飛べなくなるほど傷つき、フローラのトルネードサイスも明らかに縮んでいる。空に蔓延る雲は、まだ遙か彼方まで広がっている。
 「もういやよ___どうしてそんなに戦うのよ___戦ったって辛いだけじゃない!」
 心で叫んだつもりだった。しかしソアラは声に出していた。傷つく仲間たちから目を背けながら、彼女は涙をこぼしていた。
 「戦わないのはもっと辛いはずだよ。」
 そばにはライがいた。彼はソアラを肩越しに振り返って言った。練闘気を放出し続けることで彼の顔には明らかな憔悴の色が刻み込まれている。しかし瞳だけはギラギラと輝いて見えた。生きることへの執着に溢れていた。
 「空が飛べない僕には分かる。僕はいま棕櫚の傘になることしかできない。それはとても辛いよ。だから今のソアラの辛さも分かるつもりさ。」
 ライはいつまでも誠実だった。不甲斐ないソアラを突き放そうとはしない、叱ろうともしない。
 「勇気を出しなよ、ソアラ。怖がっちゃ駄目だ。」
 隈の浮かんだ顔で、ひたすら励ますだけだった。
 「___」
 その時___自分が何を恐れていたのか、ソアラには分かった気がした。すでに夫と一人の仲間が命を失い、いま三人の仲間の命の火が消えかけている。
 それが怖かったのだ。自らが戦うことではない、戦いで傷つき、倒れる友の姿を見るのが怖かったのだ。フェリルに見せられていた夢は、自分が誰かを殺し、誰かに殺される様だった。他にも色々あって混同しているが、改めて思い返すならそのときに自分が一番恐怖していたのは、友の死を見せられることだった。彼らは最後まで抵抗する。夢の中でもそうだった。しかし抵抗するからこそ、より残酷な死が待っている。死ねばそこには何も残らない。何もだ。虚無が広がるだけだ。
 「ライ、ありがとう。」
 「!___ソアラ!」
 久しぶりにソアラから前向きな言葉を聞けたことに、ライは喜々とする。疲れなど一瞬で吹き飛んでしまいそうだった。しかし___
 「ごめんね。」
 ダッ___
 「ソッ___!?」
 突然だった。ソアラは目を閉じ、涙をこぼしながら自ら棕櫚の背を蹴った。ライは練闘気の傘を消して手を伸ばすが全く届かない。すでにその時には、酸の雨を浴びながら真っ逆様に荒海へと没しようとしていた。
 ソアラが身を投げた。その衝撃は、ささやかな抵抗を続けていたライたちの闘志を吹き消すに十分すぎる。
 「絶空の霞!!」
 だが消されたのは闘志でなく雲の方だった。一帯の雲が消え去ったわけではない。しかし彼らの上空の雲だけは一瞬にして消し飛ばされた。
 「何も言わないで。」
 ソアラも海中の鮫の餌食にはならなかった。その体は宙でミキャックに抱き留められていた。全身傷だらけで、自慢の翼は羽のほとんどが抜けてひどくみすぼらしい。それでも彼女はいつも通り、いや、いつも以上に美しく輝いて見えた。
 「あたしたちは絶対に諦めさせないから。」
 ミキャックは一気に空の高みへと舞い上がる。それを追うようにして、波が錐もみ状に捻れながら宙へと伸び上がってきた。
 「今のうちに雲の上に抜けるんだ!」
 竜樹は半ば魔力の尽きたフローラに肩を貸し、全身に練闘気を迸らせて叫んだ。彼女も傷ついていたが、気迫は微塵の衰えも見せていなかった。その姿に勇気づけられたか、力を失いかけていた棕櫚も大きく羽ばたく。
 いざ!花陽炎が切り開いた雲の穴が閉じないうちに!___彼らは全力で浮上した。
 バッ!
 上には夜空が広がり、下には雲海が広がる景色。高度にすればそう驚くほどの高さではなく、下よりは冷えるが身も凍る寒さというわけでもない。雲はそれだけ海面に近く、低い位置に蔓延っていた。
 「やった!」
 雲の下とは比べものにならない平穏。棕櫚の背中から眼下を覗き見て、ライは思わず笑顔になる。だが竜樹もミキャックも、険しい顔つきのままでいた。このあと敵がどう動くか想像するのは難しくなかったからだ。
 「ソアラ、忘れ物。」
 ぬいぐるみのように腕に抱えられているソアラの首に、ミキャックは布を掛けた。それはフェリルの元から救出されて以来、全く袖を通していなかったドラグニエルだ。ブランクはほんの数日でしかないが、躍動感に溢れていたはずの刺繍の竜が今は死んで見えた。心なしか色もくすんでいる。
 「きっとこいつもソアラの帰りを待ってるよ。」
 それだけ告げて、ミキャックは棕櫚の背にソアラを下ろした。ソアラはただ呆然と羽毛の上にへたり込む。手元に垂れてきたドラグニエルの袖を握ることもなく。
 「降りて休んでな。」
 「ありがとう___」
 竜樹も棕櫚の背にフローラを下ろす。そして足早にソアラの元へと歩み寄った。色々思うところはあるだろうに、彼女は臆することなくソアラの前にしゃがみ込んだ。ソアラが嫌悪を見せようと構いはしなかった。
 「聞いてくれ。俺、さっきおまえの旦那に助けられたんだ。」
 そう言って、竜樹はソアラの眼前に百鬼のバンダナを見せつけた。その端に、真っ赤な血が染みていた。
 「これはオコンの血だ。絶体絶命って時に、俺の練闘気に反応してこいつが剣みたいに堅くなって伸びたんだ。ビックリした。俺はただ覚悟を決めただけだったのに、百鬼が助けてくれたんだ。」
 ソアラは答えなかった。しかし背けていたはずの目はいつのまにか竜樹を見ていた。言葉の一つ一つで慌ただしく動く瞳孔が、彼女の動揺を物語っていた。
 「俺、百鬼が生きてるかもって思えるようになった。だから___今度はこれをおまえが持っていてくれ。きっと、おまえもそう思えるようになるよ。」
 竜樹はソアラの右腕にバンダナを結わえ付ける。ソアラは抵抗しなかった。
 「竜樹!来るよ!」
 「ああ!」
 そして竜樹は棕櫚の背を蹴る。エコリオットの世界に向けて飛びながら、右にミキャック、左に竜樹と棕櫚を守るように並ぶ。巨大な殺意がすぐそこまできていること、それはこの場にいる誰もが感じていた。
 ドンッ!
 雲が貫かれた。
 ドンッ!ドンッ!
 夜の空に柱が立ち上る。それは空に向かってマグマのように吹き上がる水の柱だった。行く手を阻むように、皆の前へと次から次に立ち上る。
 「これは戒めだ。」
 そして、奴が現れた。
 「おまえたちを軽く見ていた俺への戒めだ。」
 棕櫚も、竜樹も、ミキャックも止まらざるを得なかった。柱は連なり、壁となって行く手を阻み、その中央から水を突き破ってオコンが姿を現した。
 圧倒的な存在感。水の壁よりも、彼の存在そのものが巨大な壁。その体に傷を刻み、とくに閉じた左目から流れ出る血は、凄みを際だたせる。
 「セラの落とし子、翼の女、必死の抵抗が神にこれほどの傷を付けたのだ。それは素直に讃えよう。」
 左目、それは百鬼のバンダナに突き刺された傷。全身に散らばる小さな傷はミキャックが仕込んだ機雷によるもの。つまり呪文の力を込めた羽を可能な限りばらまいた罠の成果だ。
 それはまさに二人の抵抗の証。治癒できる傷を、オコンは自らの戒めとしてその身に残し、再び彼らの前に立ちはだかったのだ。
 「誇るがいい。俺の血肉となることを!」
 海が立っていた。水の壁はいつの間にか皆を取り囲み、さらに天井で狭まってドームに変わる。皆は空へと伸び上がった海に捕らえられていた。雲をも超える高さだというのに。
 「花陽炎!」
 竜樹が強行突破を試みようと刀を振り上げる。しかしそれを振り下ろすよりも速く、水が無数の弾丸となって四方八方から降り注いだ。
 「ぐああっ!」
 竜樹の腕を狙い打つように、大量の水が襲う。高速で放たれた水は皮膚に抉り込む鋭さで、竜樹の腕を食らっていく。それは皆にも降り注ぎ、その多くは巨大な鳥でいた棕櫚の体にめり込んでいく。だがもはや誰がどうという問題ではなかった。水玉に続いて、天井、壁、立ち上がっていた海が一気に倒れ込んできたのだから!
 ドオオオオオッ!!!
 海に落ちたら終わり。誰もがそう考えて逃げていた。しかし今、彼らは揃って海に飲まれた。雲を破り、大海に叩き落として、海は小さな人間たちを砕こうとする。反り上がった海が倒れ込むと、すぐに海原は轟音を響かせて巨大な渦潮を描き出した。雲の穴から降りてきたオコンは、悠然とそれを見下ろしていた。
 「偉大なる海の藻屑と消えろ。それこそが正しき道だ。」
 死を悼むわけでもない。オコンには悲壮感や罪悪感など皆無だった。これがバルカンを打倒するための最良の手段と考えていたからだ。
 誰もやらないから自分がやったにすぎない。本気でバルカンを倒すという意思表示の一つでしかない。自らの罪の正当化でなく、これが正当な道なのだ!
 「正しいかどうかは自分が決める事じゃないわ。」
 「!?」
 意外な声に、オコンは振り返る。
 「あなたが正しいと思っていても、否定する人が多数なら、それは正しい道とは言えない。」
 そこには素朴な女性がいた。荒れ狂う海を下に見て、飾り気のない彼女はそれでも強い意志のある目をしていた。
 「何をしに来た?リーゼ。」
 オコンが冷然と問う。収穫の女神は海神の問いに悲しい顔をする。
 「変わったわね___オコン。」
 「変わった?」
 「あれほど誠実だったあなたが、なぜこうも堕落してしまったの?それほどジェネリの死が辛かったの?」
 「堕落だと?」
 オコンの眉間に力が籠もる。こめかみが若干震えたようにも見えた。
 「私から見れば堕落でしかないわ。命を奪うことを是としては、例えバルカンが倒れてもあなたがその代わりになるだけよ。」
 「俺がアイアンリッチになると言うのか?」
 「なるでしょうね、あなたの行動には志がない。リシスを殺めたことをひた隠しにしてさも平然と振る舞うあなたに、志があるはずもない。」
 その言葉にオコンは少しだけ目を見開いた。そして哀れむようなリシスの眼差しを一笑に付す。
 「フハハ___何をしに来たのかと思えば、なるほど思わぬ所で用心深いな、リーゼ。」
 「違うよ、私じゃない。私はそんなに鋭くない。頼まれたのよ。」
 「なに___?」
 「感じていたのかもね。あなたの近くにいて、ジェネリを失ったあなたの心が日に日に荒んでいくのを。昔のあなたをよく知っているから余計に感じていたのよ。」
 「!!___レイノラか!」
 オコンが怯んだ。それまではリーゼの言葉を軽くいなしていたが、思わぬ人物の影に彼は息を飲んだ。だが、レイノラがリシスの死の真相に気付いたとしたら、なぜ寵愛する部下たちを預けていく?
 「信じていたからでしょう。レイノラは悩んでいた、でももし本当にあなたがリシスを殺したとして、まだ間違いを正す時間はあると考えていた。あなたはバルカンと違うと思っていた。あなたのことを信じていたからよ。あなたのことを最良の友の一人と思っていたから。」
 「軽々しく俺の心を読むな!」
 オコンは大きく腕を振るう。どこからともなく舞った波飛沫がリーゼの頬を濡らした。
 「それだけ動揺しているからでしょう?でも今ならまだ戻れるわ。」
 リーゼの落ち着いた言動はオコンを苛立たせる。そうとも、彼女はこの状況を分かっているのだろうか?十二神の中でも力に乏しい女神が、自らの正義に邁進する覇者の前で、何を宣っていられるのか。
 「弱い者は強い者に食われる、それは自然界の流れを司るおまえの領分のはずだ!このままバルカンに太刀打ちできる存在が現れなければ、俺たちは奴に食われるだけでしかないことは分かるだろう!?」
 もはや歯止めは利かなくなっている。事が明るみに出た時点で、いや、レイノラに疑われていると知った時点でオコンの進むべき道は一つしかない。もはや戻るべく道は閉ざされている。
 「命は奪うものではないわ。生きるために頂くものよ。頂く命を失った強者に残された道は、朽ちること。そう、かつてのGが虚無を産み始めたようにね。」
 パシュッ___!
 高い音を立て、さきほどリーゼの頬に弾いた海水が弾けた。それは触れていた皮膚をえぐり取り、素朴な女性の頬を傷つけた。
 「説教は御免だ、リーゼ。俺は俺の信じた道を行く。バルカンの自由にはさせない!」
 彼はすでに踏み出した。リシスを殺めた時点で、退路は断ったのだ。

 ___
 リシスの世界。森は命ある限り老婆を守りつづける障壁となる。それはムンゾの結界など取るに足らないほどの防護壁だが、あの瞬間だけは隙が生じていた。ジェトと名乗る男のために、ライとフローラが必死の抵抗と懇願を続けていたあの時だ。
 オコンは、リシスの世界で繰り広げられる戦いの気配を感じていた。彼は森の鉄壁を信じながらも、老婆の事を気に掛けていた。だから様子を見に来たのだ。

 森は見ていた。
 オコンがリシスの元へと辿り着くのを。
 そのとき、ジェトに憑依したリシスがまるで抜け殻のように無防備であったことを。
 そんな老婆の姿をオコンがじっと見ていたことを。
 リシスは息子のように思っていた海神を信じ、無防備でいつづけたことを。

 森は見ていた。
 オコンが酷く呆然とした、まるで意識がどこかに飛んでしまったかのような顔で、リシスの首をはねた瞬間を。
 噴き出す血飛沫に、オコンの瞳が輝きを取り戻し、息を荒らげていく姿を。
 血まみれになって叫ぶ取り乱した姿を。

 しかし___
 狼狽は一瞬でしかなかった。老婆の体が朽ち、砂の煌めきとなって彼に吸い込まれていくと、オコンは変わった。
 彼は雲を呼び起こし、酸の雨を降らせた。リシスの世界の全てを滅ぼそうとした。しかしそれはジェトの抵抗に阻まれる。ライとフローラも生き残った。そこでオコンは新たな道を見出す。「助けに来た」というおそらくごく真っ当であろう行動を、彼らに印象づけたのだ。
 かくして野心は隠蔽され、欲望は秘密の宝箱にしまわれた。
 それを森は見ていた。滅びつつも年輪に、種に刻み込んだ。リーゼはその執念の種子を実らせ、収穫したのである。
 ___

 「あなたがリシスを殺めてしまったとき、どれほど自らを呪い、後悔したか___それを知った以上、私にはあなたを目覚めさせる使命がある!十二神の一人として!」
 「片腹痛い!」
 憎みあうことの無かったはずの二人が刃を合わせる。一方は憚ることのない殺意を込め、一方はやりきれないもどかしさを込めて。




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