2 静かすぎる夜に
バルカンが自らの世界に結界を張ったのが今朝のこと。それが破られるのがいつになるかは分からないが、夜が訪れると闇の鏡は忙しく黒い輝きを発した。
『貴様は?』
「レイノラ様の代理です。」
まず届いたのはビガロスからの報せだった。レイノラは予想していたが、彼はやはり只では引き下がらず、バルカンの世界を囲った結界を破ることを試みたようだ。
『ムンゾの結界は強力だ。だが奴の結界はその上を行く。我が斧でも綻び一つ作れなかった。大地を揺るがせようともビクともしない。しかもそれは地の底から天の果てまで続いている。』
「外から破るのは不可能と。」
『いや、ファルシオンを以てすれば容易い。ロゼオンが持ち帰り次第、結界を破りたい。そうレイノラとオコンに伝えよ!』
「レイノラ様が戻るのは三日後です。」
『いやそれでは遅い。おそらくロゼオンは明日にはファルシオーネより戻るだろう。』
ビガロスは剛胆かつ強引だ。フュミレイが何を言おうと、意に添わないことは簡単に切り捨てる。だが岩のようにひたすら頑固なわけではない。
「三日あればレイノラ様は蘇ります。それでもお待ちいただけませんか?」
『なに?蘇る?___ほう、なるほど。そうとなれば話は変わるな。だが三日はいかにも遅い。奴の復活が済み次第ここへ向かわせろ。我々にはもはや寸分の無駄も許されぬのだ。そうでもなければGには勝てぬ。我々は勝利のために立つのだ!代理とてその志を忘れるでないぞ!』
「はっ。」
そして何よりも自らの正義を貫く男である。今という時だから余計に、フュミレイには彼の豪傑ぶりが心地よかった。もう少しその言葉で私を奮い立たせてほしいと思わせる熱血漢だった。
『ああ、繋がったか。』
次の連絡はオコンの神殿が静寂に包まれた頃だった。日付が変わろうかという時に鏡に現れたのは髭の男、鋼の神ロゼオンだった。
『ん?レイノラではないな?』
「フュミレイ・リドンと申します。レイノラ様に変わってお伺いします。」
『ふむ___レイノラは不在か。』
「はい。三日ほど。」
『むむむ___』
ロゼオンは悩ましげに顎髭をしごいた。
「レイノラ様でなければお役に立てませんか?」
『あれならば確実だと思ったのだ。レッシイの居場所を捜すにはな。』
ロゼオンはオル・ヴァンビディスの中心、ファルシオーネにいると聞いている。そこでレッシイと来ればあのレッシイに違いないだろう。
「ベル・エナ・レッシイですか?」
『?___知っているのか。』
「はい。私もレイノラ様同様こちらに来てから日は浅いのですが、レッシイとは会っています。彼女は事情あって住居を別の柱に変えました。もとの位置からはそう遠くなかったはずです。」
『いや、私もあやつがファルシオーネの各所に隠れ家を持っているのは知っている。だがそれがどこなのかは知らぬし、呼びかけようにも奴は顔を出そうともしない。ふむ、しかし___』
ロゼオンは思案顔で、鏡に映ったフュミレイの顔を物色するかのように眺めた。
『あの警戒心の強いのがそこまで気を許すとは珍しい。そなたは気に入られているのかも知れぬな。よし、そなたレイノラの変わりにファルシオーネに来てはくれぬか?』
その問いに、あまり表情を変えないながら今度はフュミレイが思案顔になる。口元に指を当て、ごく短い時間だけ考えを巡らせた。しかし先程のビガロスの言葉から想像するに、これは急を要する任務のようだし、レッシイがロゼオンの来訪を知っていながら出てこないのか、それとも出て来られないのか、いずれにせよその理由も気になるところだ。バルカンが目覚めるまでの時間は定かでないが、今は迷いは禁物。
「分かりました、そちらに向かいます。」
『うむ、助かる。』
「ええ分かったわ。そういうことなら気を付けて。」
フローラはそう言って微笑んだが、ソアラとの喧嘩の跡が赤く擦れた目の回りに残っていた。部屋は薄暗い青だったが、橙のランプがフュミレイにフローラがどれほど泣いたかを教えてくれていた。
そこはオコンが用意してくれた部屋の一つで、かつてオコンとレイノラが酒を交わした場所でもある。心に安らぎをもたらす青い部屋だ。そこにはライとフローラ、棕櫚にミキャックもいた。テーブルには中身のあまり減っていない酒瓶とグラスがあった。
「大丈夫。とりあえずバルカンもアヌビスも今のところは怖くないし、ここにはオコンさんもいるからね。」
「アヌビスはどうでしょう?天の邪鬼ですからね。それにバルカンにしたって、部下がいないとは限らないでしょう。」
ライの楽観論に棕櫚が悪戯っぽく疑問を投げかける。
「そりゃそうだけどさ〜。」
「あたしは___アヌビスとヘルハウンドは、今は味方だと思うよ。」
アヌビスとカレンに救われたミキャックは、曇った表情に迷いを覗かせながらもそう言った。
「あれからずっとここにいたの?」
フュミレイは彼らの輪から外れていた。ソアラの部屋での一件以来、語らう相手のいない竜樹のそばにいたのだ。オコンに話を付け、竜樹の滞在を許してもらう必要もあった。
「そう。昔のことを色々話していたんだ。」
「思い出って不思議よね。思い出の数だけその人を失ったときの悲しみが増すのに、その悲しみを埋めてくれるのも思い出なの。百鬼のことも、サザビーのことも、良い思い出ばかりで___」
そう言いながらフローラは目尻を指で拭う。その仕草を見てライが笑った。
「また泣くの?」
「もう!___涙脆くなってるの。ちょっとしたことで勝手に出ちゃうのよ。」
フローラも笑顔だった。確かにたくさんの思い出が少なからず彼らの傷を癒しているようだった。
「ね、この調子だから大丈夫。」
「あなたも?」
「うん。」
傷つきやすいミキャックがドキリとした顔を見せることもなく、フュミレイの問いかけに頷いてみせた。
彼らは後ろを振り返りつつ、前を向いている。戦うことに気後れはないし、ソアラほど弱気になってもいない。バルカンがGの力を自分のものにするために眠ったのは偶然でしかないが、おかけで心を休める時間が生じたことは素直に喜ばなければならないだろう。これは彼らにとっても貴重な癒しの時だ。
「またここにいたのか。」
ソアラの部屋を見ることができる廊下の壁に、安座した竜樹が寄り掛かっていた。手は花陽炎を抱いていた。
「俺はあいつを守るって決めた。だからここで見張ってるんだ。文句あっか?」
「ないよ。ただ、ライやフローラたちと話してみればいいのにとは思う。」
「いいよ、俺は疫病神だから余計な関わりはしないほうがいい。」
その言葉を聞いてフュミレイは笑った。
「するとソアラは疫病神に憑かれているわけか?」
「てめえ___」
「冗談だよ。あたしと同じ事を言うから可笑しかったんだ。」
「はぁ?」
「自分に関わった人間が死ぬとそう思う___あたしもそうだったし、いまのソアラもそうだ。でもそれで他人との関わりを断つのはおそらく間違いなんだよ。自分の本音や正義を誤魔化すことになる。」
「よくわからねえ。」
理屈嫌いの竜樹は頬杖をついてふて腐れた。
「おまえが本当にソアラを守ろうと思うなら、彼らと連携を密にする方が得策だ。」
「___まあな。」
「今すぐでなくてもいい。おまえにその気があるなら、あたしたちと一緒にバルカンと戦ってほしい。そのためには、彼らとうち解けることも必要だ。」
「______考えとく。」
ふて腐れたままだったが、竜樹は頷いた。
「頼りにしてるよ。」
「嘘くせ〜。」
フュミレイが差し出した手に、竜樹もしかめっ面で拳を合わせる。それは互いの友情の証明でもあった。
「あたしはこれから出かける。その間、ソアラを頼む。」
「ああ、それは任しておけ。」
今度は力強く頷く。花陽炎に添えた手に力が籠もるのを感じ、フュミレイも満足げに微笑んだ。そして彼女はその足で竜樹の居場所から良く見える廊下、その中程にあるドアへと歩く。竜樹は少し緊張してその背を見送っていた。そこがソアラの部屋だからだ。
「ソアラ。」
ノックをしても返事はない。もう一度扉を叩いても同じだった。暫く待ってから、フュミレイは扉を開けた。
「___」
ソアラはベッドにいた。このところずっと解いたままの髪で、フュミレイに背を向けるような形で横たわっていた。答えもしなければ動きもしない。だがソアラの鋭敏な感覚なら気付かないはずはない。答えず動かずは彼女が眠っていないことの現れだった。
「遅い時間にすまない。起きていたら聞いてくれ。」
わざとらしい言い方に苛立っていることだろう。そう確信しつつフュミレイは続けた。
「あたしたちはいつまでも待っている。もしおまえが、悲しみを拭い捨てて共に戦ってくれるというなら、誰も拒まないし、過去をあざ笑うこともない。諸手をあげて歓迎するだけだ。何も心配することはない。それだけは分かってほしい。」
ソアラはピクリとも動かなかった。想像していた反応ではあった。
「それじゃ、私はこれから出かける。次に戻ってきたときには、あいつの昔話をしよう。あたしたちにしか分からない話しだってあるはずだろ?」
ソアラは終始無反応だった。だがいまは、彼女が聞いていてくれていればそれで良しとするしかなかった。
「___それは、まことですか?」
「ああ、魚たちから聞いた。だが小さな傷だ。大事に至るほどではないよ。」
オコンへの報告は簡単なものだった。彼はフュミレイの出立を止めようとはせず、ソアラの身を案じてくれもした。ただ彼女が自ら左腕を傷つけていたようだと聞くと、さしものフュミレイも呻いた。
百鬼の事を忘れたいのにそこにある無限の紋様。ソアラはそれを消し去ろうとしていたのだろう。気持ちは分からないでもない。
「あれは___蘇る見込みはあるのか?」
「私たちはあると信じています。」
「レイノラは彼女をとても買っていたが___」
「はい。ソアラはジェイローグとレイノラの血を引くだけではありません。間違いなく、Gに挑める資格を持った人物です。」
「そうか、ならば期待して待とう。」
期待して待っている。それは誰もがそうだ。だが今のソアラに期待に応えようという気概は全くない。百鬼の死も、生存の可能性を絞り出して縋ろうとするのではなく、嘆きつつも認めてしまっている。それはフュミレイや竜樹にしてもそうだ。
竜樹が見たのはバンダナの精霊の見た景色であり、エコリオットの力によって具現化されたものだ。万に一つの可能性でも信じていれば、ソアラの左腕の紋様が消えないことを根拠に、エコリオットの力そのものに疑問を投げかけることだってできる。それに気付いていながら声高に叫ぶ気になれないのはなぜなのだろうか?
「___」
考えても分からなかったから、フュミレイの足はテラスへと向いていた。
テラスには海を臨むようにして祭壇と、上着とバンダナがある。そこで彼女は黙祷を捧げることにした。深い真夜中の闇と、黒く沈んだ海は、死の祈りを捧げるに相応しい静けさだった。胸の内の扉を開いてくれる心地よさがあった。
「そうか___そうだな。あたしたちが盲目になっていただけだ。分かりつつ、目を背けていたんだ。」
説得力とでもいおうか、このバンダナには人を黙らせる力がある。それがエコリオットの言う精霊によるものかは分からない。だが考えてみれば、この千切れたバンダナ、染みついた血、帰らない彼、消えた性骨、セラの力を得たというバルカンの証言。それだけ揃えば十分ではないか。それを今更になって再認識している。生存の可能性を探ることの無意味さを、無意識のうちに悟っているくせに。
「残念だ。でも本当に死んでしまったんだな。」
心で思うだけでなく、声に出して言う。それはソアラが自分を認めさせるためによく使う手段でもあった。
「___素直に言うと、ものすごく後悔しているんだ。あたしが去った後の場所で、ニックもサザビーも倒れている。ソアラや竜樹にああは言ったが、あたしはどちらも悔しくて自分の部屋で泣き喚いた。でも___月並みだけどそれでおまえたちが帰ってくるわけじゃないんだ。」
誰に語るでもない、そこにあるだろう二人の余韻に、自らの心に告げる。
「あたしはやるべき事をやるよ。できることはすべてやってやる。」
一つ息を付き、彼女はゆっくりと浮上する。
「じゃあな。」
そして、優しくももの悲しい笑みを残し、世界の中心へと飛んだ。
日付が変わる。夜がいっそう深まると、オコン神殿の周りでは波の音が響くだけとなった。
「___」
ライたちが思い出話を肴に酒を交わしていた青い部屋。戦い疲れたのか泣き疲れたのか話し疲れたのか、ライもフローラもミキャックもいつの間にか眠っていた。棕櫚は猫の姿になり、ミキャックの膝の上で丸くなっていた。
「___」
静かだ。外の波音が神殿の内まで透けてくるようだ。
(逆に落ちつかねえな___)
その静けさは、廊下を睨み続ける竜樹に不信感を抱かせるほどだった。この神殿にいるのは彼らだけではない。オコンがいる、神官たちがいる、海に面した壁には魚たちも泳いでいるはずだ。その音はどうした?まるで神殿そのものが眠っているようだ。
(___行ってみるか?いや、でも冬美が出てきてから部屋に入った奴は誰もいないはずだ。ソアラも出てきてない。)
不審な点はないはずだ。そもそも俺はここに来たばかりだ。これがオコン神殿の夜の姿だというなら、それはそれで納得できる。
「___」
結局、竜樹は腰を上げようとはしなかった。
時が流れる。その流れに音はない。神殿そのものが眠りに落ちたとき、目を開けていたのはたった二人しかいなかった。一人は竜樹。一人は___
「___」
ソアラの部屋に立つ影だった。
「______」
影は、水のベッドに横たわるソアラを見下ろしていた。乱れた髪の隙間から覗く彼女の横顔。何かに怯えるように歪んだ眉、眉間に籠もる力、涙で荒れた目元、強張った頬と口、眠っているのにもかかわらず彼女は何かを恐れ、何かから逃げているかのようだった。
「せめて安らかに逝け。」
影が手を翳すとソアラの体がゆっくりと沈みはじめた。柔らかな水のベッドの中に、音もなく入り込んでいく。巨大な水の玉のようなベッドの表面は、潤いはあっても水気はなく体が濡れることはない。しかし中は違う。ソアラの髪が広がり、服も色合いを濃くしていく。顔まで入ると、鼻と口から気泡の玉が溢れ出る。それでもソアラは目覚めない。
顎を突き上げて泡の固まりを吐き出すと、もうあとは口内に引っかかっていた小さな気泡が零れ出るだけになった。
「おまえの力は決して無駄にはしない。」
絶命は時間の問題。暗い部屋に立つ影は、その力が自らの体に流れ込むのを待っていた。しかし___
ジュバアアアア!
部屋の扉、壁に裂け目が走った。
「!」
驚きとともに、影は振り返った。その時には水気を纏った三日月状の波動が目前まで迫っていた。
パシュッ!
三日月の波動は鋭い切れ味で、身を守った影の腕に浅い傷を刻む。ただそれよりも重要だったのは、後ろで水のベッドが割れた水風船のように弾けたことだった。
「っ___げほっ!がはっ!がっ___!」
支えを失い床に背を打ったソアラの呼吸が戻った。胸の苦しさが意識をも覚醒させ、彼女は何度もむせて大量の「海水」を吐き出した。
「どういうつもりだ___てめえ。」
廊下には竜樹が立っていた。切り裂かれた部屋の入り口では滝のように水が溢れ出していたが、刃を翳して流れを分かてばその先にある顔ははっきりと見えた。廊下の灯りが影の顔を照らし出していた。
海神オコンの顔を。
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