1 魂の爪痕

 葬儀を終えて、レイノラはソアラたち親子と竜樹を除いて一つの部屋に集まっていた。話は、まだ終わっていない戦いのためにこれからどう動くのか、それとソアラのことだった。
 ソアラは未だ病の淵にあった。だが病んでいるのは体よりもむしろ心であった。精神を混沌とさせるガスの中で、フェリルに見せられた無限地獄。その地獄から救出され、子供たちと再会したことで笑顔を取り戻しつつあったのだが、それでも落ち着きの欠如、思考の停滞、感情の鬱屈、いまだ平常とは言い難かった。
 「気持ちの問題だろうとは思います。喉の渇きや幻覚といった中毒症状はもう見られませんし、戦おうという気持ちを取り戻してくれれば___」
 「でも今それを求めるのはあまりにも難しいですね。」
 フローラの言葉に棕櫚が続ける。フローラは苦渋の面もちで頷いた。彼女の仕草に迷いを感じたレイノラが見つめると、フローラはその視線を避けるように一度額に手を当ててから、重々しく続けた。
 「実は___あまりこういう事は言いたくないんですけど、ソアラの体はもうほぼ完治しているはずなんです。でも私の前では中毒症状が残っているように装っています。」
 「嘘を付いているということ?」
 「私は、戦いたくないという意思表示だと思っています___色々なことがありすぎたから、そうなるのも無理はないですけど___ちょっと___」
 ソアラのことを誰よりも知っているという自負があるからこそ、彼女の行動はフローラにとって辛かった。今のソアラには克服をしようという意志も勇気もない。ポポトル時代から、ともに命の瀬戸際を渡ってきた思いがあったから、本音を語ってもくれず、嘘で誤魔化そうとしているソアラの姿は悲しかった。
 「荒療治は効果的だと思う?」
 レイノラの問いかけにフローラは迷いつつ首を横に振った。
 「効果的がどうかは分かりません。でもわたしは嫌です。ソアラを頼りにするよりも、今まで彼女に頼ってきた分を私たちが返さなきゃいけないと思います。」
 その思いはフローラに限ったことではなかった。ライもミキャックも頷いていた。ソアラの痛々しい姿が、彼らを奮い立たせる一因となっているのは間違いなかった。
 「おまえたちも同意見か?」
 レイノラは棕櫚とフュミレイに視線を送る。棕櫚は頷き、フュミレイは沈黙で答えた。
 「分かった。ならおまえたちはここでソアラを守ることに徹しなさい。バルカンは私と残った神々で始末を付ける。」
 「レイノラ様!?」
 フュミレイの言葉を手で遮って、レイノラは続けた。
 「おそらくこれからの戦いに耐えうる力をもつ者は限られている。もし私が倒れたときのために、おまえたちは全力で最後の希望を守りきるのよ。」
 その言葉には有無言わさぬ強引さがあった。ライとフローラはただ頷き、棕櫚は沈黙しながらも探るような視線を向け、フュミレイは少し戸惑っていた。
 「フローラ、ソアラはあなたに任せる。今となってはソアラのことを一番知っているのはあなただから、あなたが思う最善の策を取りなさい。」
 「___はい!絶対にソアラを蘇らせてみます!」
 蘇らせる___その言葉が今のソアラを物語っていた。フローラにしてみれば今のソアラは屍のようなものなのだ。彼女が心底から百鬼の側へ行くことを望まないうちに、誠心誠意尽くさなければならない。

 「レイノラ様!」
 具体的なことは何も決めていない。バルカンが目覚めるのが何日後かは分からないが、早ければ数分後かもしれない。ただ長短はあるにせよ、貴重な時間を得たのだ。なのにレイノラからは、フローラをはじめ、ライにも棕櫚にもミキャックにも自分にも「ソアラを守れ」以外の指示はなかった。それでいながら足早に踵を返した闇の女神に、どこか焦りのようなものを感じたフュミレイは堪らずにその後を追っていた。
 「フュミレイ。」
 確信があったのだろう、レイノラは知った顔で振り返り、彼女の名を呼んだ。葬儀の後だから余計かもしれないが、薄暗く人気の無い廊下は水の流れだけが妙に冷ややかだった。
 「レイノラ様、私は___」
 「私はこれから出かける。」
 「!?___」
 一方的な言葉にフュミレイは閉口した。
 「三日ほど留守にするわ。」
 「三日___ですか?」
 「それだけあればバルカンに太刀打ちする力が得られる。」
 「力___?」
 まだ思考が鈍いのか、フュミレイにはレイノラの意図が分からなかった。オル・ヴァンビディスで安易に力を得るとしたら命を奪うことだが、レイノラがそれをするとは思えない。いくら追い込まれたとしてもだ。だが三日でいったい何ができるというのか?
 「挑むための修行よ。」
 「修行___?」
 黄泉で一年間修行をした。だがレイノラは本来の力を取り戻せなかったと言っていた。それが三日でどうなる?浅はかな目ではあったが、フュミレイはレイノラがこの場を収めるためのでたらめを言っているように思えてきた。
 それはある種、自暴自棄にも思える言葉だ。レイノラはバルカンとフェリルに死の淵まで追いつめられたと聞いている。その彼女が挑むといったところで、脳裏には玉砕という言葉以外なにも見えてこない。
 「それをして___勝てる見込みがあるのですか?」
 「そんな確証めいたもの、今までもあったかしら?それにおまえが手を尽くせば勝てるとでもいうの?」
 「!」
 手厳しい言葉だった。
 「___すみません。私はまた出過ぎた真似を___」
 「勝てる可能性があるからやるのよ。今はおまえたちが己を鍛えるより、私自身が本来の力を取り戻すことのほうがより確実な戦力強化に繋がるわ。」
 「そうか___三日でそれを可能にする策があるのですね。」
 直前まで弱々しかったフュミレイの顔が、レイノラの意図を知って元の利発さを取り戻してきた。その変化にレイノラは微笑む。
 「やっとらしくなってきたわね。」
 「!___からかっていましたね!」
 「目覚めさせたといってほしいわ。さあ冬美、この黒麒麟の考えを述べなさい。」
 レイノラは微笑を称えて、その手でフュミレイの鼻先を指さした。フュミレイはその場に平伏し、流暢に語り出した。
 「凛様はバルカンと戦い、フェリルとも戦った。そして二人の力を肌に感じ、かつてのGほどではないと悟った。それはつまり___凛様が本来の力を取り戻せば十分に勝てる可能性があるレベルだった。ただそれでも、その二人が一つになったことで、新たなバルカンがどれほどの力を発揮するか分からない。それがいつ目覚めるかも分からない。短かい間に力を取り戻す方法が黄泉にはなかったけれど、ここオル・ヴァンビディスにはあった。それを使えば本来の力を取り戻せる確信が凛様にはある。一方で、万が一つに凛様が敗れようものなら、残りの戦いはソアラに託される。凛様はつまり、ソアラに自分と同等かそれ以上の資質を感じておられる。現状では戦力にならないソアラを全力で守れ、つまりは自らを犠牲にしてでも守れと指示するのは、彼女にその可能性を感じているからに他ならない。」
 そこまで話したところで、レイノラが軽い拍手で言葉を遮った。
 「良くできました。随分脚色してるけど、あながち間違っていないわ。」
 「ありがとうございます。」
 「ただ一つ決定的な間違いがあった。それは残念だったわ。」
 フュミレイは瞬きをし、改まってレイノラに一礼する。忠義心の固まりのような姿勢に、レイノラは自然と笑みを浮かべていた。
 「私がいない間の指揮はおまえに一任する。これから三日間、おまえがレイノラとして振る舞いなさい。オコンにも遠慮をすることはないわ。」
 「___まことですか?」
 「冬美、さっきの決定的な間違いというのは、残りの戦いを託せるのがソアラだけではないと言うこと、そして自分と同等かそれ以上の資質を感じているのもソアラだけではないという事よ。私とおまえが語らずとも意思を交わし、離れようとも心に通じ、何よりおまえが闇を苦にしないこと、それがどれほど素晴らしいことか自分に問うてみるが良いわ。」
 「!」
 レイノラの言わんとしていることを理解し、フュミレイは息を飲んだ。その敏感な反応にレイノラは口角を歪めた。
 「そうそれ、その反応でこそ冬美よ。」
 「___ありがとうございます。」
 それからフュミレイはレイノラを見送るべく、彼女に付いて歩いた。オコンの元を訪れ外出の報せと、その間の代役として今更ながら紹介されもした。オコンは笑っていたが、握手を求めてきた。
 なにか新鮮でもあった。父から常に冷静でいるよう厳命されながら、レサ家の頭首の元に目通りをした頃を思い出した。取り繕ったような冷静さを看破され、後で父から叱責を受けたものだった。
 「それじゃあ、後は頼む。」
 レイノラはテラスから発とうとしていた。飛び立とうとする方角にはジェネリやムンゾの世界がある。
 「凛様、どちらに行って何をなさるのかだけは教えてください。」
 「そうね___」
 未だ答えを明かそうとしないレイノラは、顎先に手を当てて思案する。その時だった___
 「エコリオットの所だろ?」
 いつも通りの無遠慮で、竜樹が割り込んできた。ただ彼女はいつになく思慮深い顔でいた。十分に考えた上での行動だと表情で主張していた。
 「あいつのところで七ツ釜と同じものを使わせてもらうんだ。そうすれば一週間が一日になる。」
 「?___そうか!フェリルの持っていた水晶ですね。」
 渋々ながらレイノラは頷いた。笑みは消え、幾らか眉間に力が籠もっていた。知られてまずいことでもあるのだろうか?彼女は何か言いかけて、一つ深い息を付いた。そして___
 「いるのだろう?」
 竜樹の後ろに視線を向けて言う。すぐさま二人が弾けるように飛び出してきた。
 「僕も一緒に連れてって!」
 「私も!お願いします!」
 リュカとルディーだった。
 「おまえたち___!」
 二人はフュミレイの横をすり抜け、レイノラの前へと並び立った。父の死に涙していた憔悴はなく、彼の友人や恋人の誰にも増して戦いの意志を露わにしていた。小さな背中が大きく見えたのだから間違いない。
 「これからはお母さんじゃない!僕たちが戦うんだ!」
 「でもそれにはもっと強くならないといけない!だから私たちも一緒に行きます!」
 レイノラはこうなる可能性を想像していた。だからこそ、一人で静かに発とうと思っていたのだ。

 ___
 それは闇の雲に乗ってやってきたリュカ、ルディーとともに、キュルイラの世界からオコンの世界へと戻る道すがらでのことだった。
 エコリオットが水晶に小世界を作る研究をしている___リシスから聞いた話を確かめるためにレイノラは子供たちとエコリオットの元に立ち寄った。
 「ああ確かにそうだヨ。アポリオをたくさん作って、いくつかは欲しいという連中にあげたヨ。ムンゾにはバルディスであげたヨ。欲しいっていうからいくつもあげたかもネ。それは間違いないヨ。」
 エコリオットはあっさりと認めた。結果的にこの水晶の小世界、エコリオットの言うアポリオがムンゾの欲望に火を付けた。だがだからといってエコリオットを責めることはできない。
 彼はまさしく神の所業で特別な道具を与えたに過ぎない。セラはそれを自らの鍛錬の場に使い、リーゼはどうやら貴重な作物の育成場にしているらしい。責められるべきは自らの支配欲のために「悪用」したムンゾだ。
 「エコリオット、その水晶___」
 「アポリオだヨ。楽園という意味だヨ。」
 「___アポリオを作ることでオル・ヴァンビディスのGをかなり消費できるの?」
 「それはないヨ。一つ一つの世界はとても小さいんだヨ。この世界を維持するために消費される力に比べたら全然大したことないヨ。ただいくつか作った凄いのは、それなりにGの力を貰ったけどネ。」
 エコリオットはレイノラの前では饒舌だ。ここへと来る前、うわさ話の好きなキュルイラに「エコリオットはあんたに憧れてるから、うまく使ってやりなさいな」と言われたことが思い出される。もちろん顔に出したりしないが。
 「そうだヨ!試してみるといいヨ!」
 うねった木に腰掛けていたエコリオットは意気揚々と立ち上がり、背伸びして高いところの枝に手を伸ばす。
 「ありがとう。でも今はいいわ、急いでいるから。」
 レイノラが素っ気ない返事をすると、彼はいかにも残念そうな顔になりながら、それでもまだ未練たらしく指先で枝をつついた。
 「ちっちゃい。」
 「ほんと、ちっちゃいよね。」
 そんな妖精神の仕草を見て、リュカとルディーが囁きあう。二人は先程からこのど派手な落ち着かない世界に目を奪われてばかりだったが、今は明らかに自分たちよりも幼いエコリオットに興味津々の様子だった。
 「君たちみたいなガキにちっちゃいなんて言われたくないヨ!」
 「わっ!」
 背伸びをしていたはずのエコリオットが、どこからともなく大きな花びらを取りだして翻すと、次の瞬間、彼はリュカとルディーの後ろに咲く巨大なユリの中から顔を出した。リュカが大げさに驚くと、エコリオットは楽しげに笑った。
 「おヨ?よよヨ?」
 ところが一転、ビックリして尻餅を付いたリュカと、いつものように平静を装うルディーを、エコリオットは代わる代わる眺めはじめた。
 「な、なによ。」
 ルディーが幾らか怯みながらも強気に睨み返す。その姿にエコリオットは大きな目で何度か瞬きした。そして___
 「これレイノラの子?」
 「いいえ。」
 突拍子もない質問だったが、レイノラは落ち着いていた。
 「何でそう思ったの?」
 「だってジェイローグに似てるヨ。」
 「___そうね、私も時々そう思う。」
 子供なりに二人の会話を理解したルディーは、ドキリとして肩を竦めた。
 「強くなるヨ。このガキンチョ。」
 「___かもしれないわね。」
 強くなるという言葉に、リュカも胸が疼くのを感じた。
 「ありがとうエコリオット。私たちはもう行くよ。」
 「レイノラ!君がその気になったならいつでもおいでヨ。アポリオは絶対に君の助けになるヨ。なんといっても僕が作った最高のアポリオ、そこの中では___」
 ___

 「これは取り返しのつかないことだ。後戻りもできない。おまえたちは強くなる代わりに大事なものを失うだろう。そして例え強くなったとして、それを見たソアラはきっと悲しむ。」
 目の前に並び立つ子供たちを見下ろして、レイノラは厳格な面もちで問いかけた。風が前髪を揺らめかせ、右目をちらつかせる。
 「僕たちはもう決めたんだ!今よりもずっとずっと強くなって、戦うって!もう誰にもお母さんを泣かさせたりするもんか!」
 「怒られるかもしれないのは分かってる。でも私たちだって戦いたいんです。もうあんなお母さん見たくないもの!」
 それでも二人の決意は揺るがなかった。いや、どんなに打ち伏したところで決して折れないと感じさせる強い意志があった。まるで父の魂が乗り移ったかのように。
 「分かった。」
 やがて折れたのは、レイノラの方だった。

 水流清らかな部屋。オコンがいない間は夜の海のような静けさと恐ろしさを醸していたが、今は陽光が透けてキラキラと光り、魚たちが遊び泳ぐ姿も見える。掻き乱された心に安らぎをもたらすにはもってこいの場所だった。
 ただそこでも、ソアラの気は晴れなかった。彼女はベッドに突っ伏し、近くには椅子に腰掛けて目を閉じるフローラがいた。ソアラは時折寝返りを打って、それとなくフローラの様子を気にしていた。何度か思案しながら、やがてついに口を開いた。
 「___ねえ、フローラ。起きてる?」
 「うん。」
 フローラは目を閉じたまま答えた。
 「ずっと起きてた?」
 「うん。色々なことを考えてた。」
 「___あたしも。」
 ソアラから話しかけたのは久しぶりだった。少なくともサザビーの死の報せを聞いてから今の今まで、ソアラから何か語りかけられることはなかった。フローラは目を開けて、仰向けに横たわるソアラを見やった。心境の変化を期待したが、彼女の顔からは覇気が失われたままだった。
 「ソアラはどんなことを考えていたの?」
 「______言いたくない。」
 多少は落ち着いたかもしれない。でもまだ前向きにはほど遠い。
 「私にも教えてくれないの?」
 「___」
 「言いたくないならいいよ。」
 「______ごめん。」
 「ううん、あたしこそごめん。」
 会話が止まった。おしゃべりで知りたがりなソアラはどこに行ったのだろう。今の彼女は知ることを拒み、教えることを嫌う。まるで自らをこの世界から隔絶したがっているかのようだった。
 「フローラ。」
 ノックもなく部屋の扉が開いて、ライが顔を覗かせた。
 「フュミレイが呼んでるよ。」
 「そう___」
 「行ってきなよ、あたしは大丈夫。だいぶ落ち着いたから。」
 ソアラが口元を歪める。笑みと言うにはあまりに朗らかさを欠いていたが、彼女なりの努力が見える仕草だった。フローラは自然と微笑み返し、頷いた。
 「ちゃんとノックくらいして___」
 「あ〜、忘れてた。」
 廊下に出た二人の声が、扉が閉まるまでの僅かな時間だけソアラの耳に届いた。
 「ノック___か。」
 些細な偶然でしかない。しかしソアラと百鬼の関係は、女の部屋に入るのにノックもできないデリカシーの無さから始まっている。
 ガバッ___
 仰向けの体を俯せに翻し、ソアラは枕に顔を押しつけた。
 すると___
 「邪魔する。」
 またノックもなくドアが開いた。ヒタヒタという素足の音を聞けば、竜樹であることはすぐに分かった。できれば関わりたくない相手だ。彼女もそう思っているだろうにわざわざ覚悟を決めてやってきたのだから余計に。
 「由羅___じゃなくてソアラ。」
 竜樹はベッドの横に立っている。だがソアラは顔を向けようとしなかった。衣擦れの音、膝をつく音、やがて水のベッドに伏す自分よりも下から声が聞こえだした。
 「ソアラ。百鬼のこと、いやこれまでのこと全部だ、俺のやってきたことは間違いばかりだった。本当にすまねえ、この通りだ。」
 顔を上げなくても分かる。竜樹はきっと額を床に擦りつけるほど深く土下座している。
 「アヌビスの肩を持ったのは俺だ、白廟泉を開いたのも、性骨をこっちに持ち込んだのも俺だ。百鬼は俺に良くしてくれて、俺はそれに甘えちまった。その結果がこれだ。あげく俺は今までおまえの邪魔ばかりしてきた。」
 竜樹は神妙だった。傍若無人な顔しか知らないソアラにとっては、まるで別人のようなしおらしさだった。
 「許してもらおうとはおもわねえ、恨んでくれて結構だ。だがもし俺の顔を見るのが嫌じゃなければ、あんたのために働かせてほしい。骨の髄がすり切れるまでこき使ってくれ。あの鳥野郎の所に殴り込んで、一太刀食らわせて死んでこいっていうなら喜んでやってやら。」
 ソアラは答えない。動きもしない。そして竜樹は最も言いたかった言葉を続ける。
 「俺の命をおまえにやる。それが俺にできるせめてもの償いだ。」
 だがそれでも、ソアラは動かなかった。扉を閉ざしたままでいた。竜樹は彼女の声を待った。そのまま床に額を押しつけて待ち続けた。
 「なら___」
 そしてソアラが呟く。
 「ならここで自分の首を落としてよ!あたしは___あんたの顔なんて見たくもない!あんたが___あいつを___あんたを守るために___!」
 枕に埋もれて酷く籠もった声だった。しかし震えて、時に上擦る叫声は怒りに満ちていた。
 カシャッ___シュッ___
 それ以上言葉が出なくなったとき、ソアラは音を聞いた。刀を愛し、鍛冶に目覚めた夫を持っていた彼女は、それが鍔の鳴った音、鞘から刃が抜かれる音だと知っていた。
 静寂が恐ろしかった。彼女の存在がそこにあるのは分かる。立ち上がって刀を抜いたのも分かった。それはおそらく彼女の首に宛われようとしている。それなのに、彼女はなんと落ち着いているのだろうか。息の乱れも、高ぶる鼓動も、体から沸き立つ熱も感じない。
 竜樹はやる。本当に覚悟している。それは私のためではなく、おそらく百鬼のために彼女は私に命を捧げたのだ。
 グッ!
 花陽炎が走る。頸動脈を、脊柱を断つべく刃が滑る。
 「!」
 刃に血が伝った。しかしその量は決して多くなかった。竜樹の首に宛われた花陽炎はほんの首筋を掠めた程度で、浅い傷を付けただけに留まっていた。飛び起きたソアラが、竜樹の手ごと刀を止めていたからだ。その瞬間だけ、彼女は黄金に輝いてすらいた。
 竜樹とソアラの目が合った。達観した面もちの竜樹、紫へと戻り卑屈なまでに顔を歪ませたソアラ。
 「あんたは___どこまであたしを苦しめたいのよ!___もう___あたしのせいで誰かが死ぬのは嫌なのに!!あんたの命なんか欲しくもないのに!!」
 喉を引き裂かんばかりの叫びだった。ソアラは竜樹の手ごと花陽炎を固く握り、その場で泣き出してしまった。嗚咽混じりの声で彼女は嘆いた。
 「あたしのせいよ___あたしが百鬼もサザビーも殺したのよ!___あたしが竜の使いだから___妖魔の子だから___戦う力を持っていたから___二人は死んでしまった___あたしと出会ったばかりに___!!」
 竜樹は自分の行いを悔いた。彼女にとって何が辛かったのか、それを考えもせずに命を捧ぐというのはあまりに安易だった。彼女が何を嫌悪していたか、何を憎み、何を恨んでいたか。それは自分自身だったのだ。ソアラは自らの存在が命の火を消してしまうと考えていたのだ。
 「二人だけじゃない___みんな死んじゃう___あたしのせいでみんな死んじゃうのよ___!」
 「それは違うわ!」
 半ば狂乱しかけていたソアラをフローラの声が止めた。開け放たれた扉から、彼女は足早にソアラの元へと歩み寄り、その手を振り上げた。
 「!」
 ソアラは刀から手を放し、肩を竦めた。しかしその頬に訪れたのは痛みではなく、優しい手の温もりだった。
 「あなたのせいじゃない。だったらどうして今もなお私たちは戦おうとしているの?それはあなたのためじゃない、私たち自身の意志よ!私たちはGを阻止するために戦っている、それが正しいことだと思って戦っているのよ!」
 フローラはソアラの頬を両手に抱くようにして、鼻先が触れ合うほどの距離で彼女を見つめ、言った。力ずくでもソアラの目を逸らさせまいとし、自らの情熱を突きつけた。
 「でも___でもきっかけを作ったのはあたしよ!あたしがトーザスの言葉を無視していればそれで済んだことよ!フュミレイを探そうとしたりしなければ___!」
 フローラの手をソアラが振り払う。それでも二人の距離は変わらなかった。視線もぶつかり合ったままだった。
 「どうしてそれがあなたのせいになるの!?だって___私たちはずっと旅をしてきた、一緒にアヌビスと戦ってきた仲間じゃない!」
 「そんなの___そんなの分かってるわよ!その仲間が___あたしにとって掛け替えのないみんなが、私より先にいなくなっちゃうから辛いんじゃない!一番戦える力を持っているのはあたしなのに!!あたしは何もできずに___!」
 激昂していた。それはフローラだけでなく、ソアラもだった。廊下には棕櫚もミキャックもフュミレイも、割って入ろうとして彼らに止められたライもいた。フローラがこんなに怒っている姿を見るのは初めてだった。ソアラのこんな大声を聞いたのも久しぶりだった。無二の親友であるはずの二人が、いま心の奥底からぶつかり合っている。それを邪魔するべきではないと思った。
 「みんながこっちにきて戦っている間あたしは何をしていたの!?あたしは___あたしが最後にあいつの顔を見たのは黄泉なのよ!!」
 「___!」
 誰もが言われるまで気付かなかった。なぜこんな重苦しい事実に気が付かなかったのかと自責の念に駆られた。
 そうだ、ソアラが百鬼と最後に会ったのは黄泉でのことだ。日数にすればそれほどでもないかもしれない。でも誰もがそれを遙か遠い昔のように感じた。きっとソアラ自身はもっとだろう。
 「あたしはその間ずっとフェリルに滅茶苦茶にされて___もう死にたかった___でもフュミレイたちが助けてくれて、それでもあたしはそれが嘘かまやかしに思えて___死にたかったはずなのに、フェリルのところに戻る気になってたのよ___」
 フェリルのところで何があったのか、いや何をされたのか、ソアラは決して語ろうとしなかった。しかし今、閉ざされた忌まわしい記憶の扉を彼女は少しだけ開いていた。そして気が付いたのだ。いくら地獄を見せられようと、まやかしと理解していれば逃げ道はある。現実に比べれば遙かに生やさしいものだったと。
 「それを棕櫚が止めてくれて、今あたしはここにいる。でもあたしはずっと不安でしょうがなかった。みんなの側にいるのに息苦しくて、怖くてしょうがなかったのよ。これ自体フェリルのまやかしかもしれない、フェリルがわざとあたしを逃がしたのかもしれない、これはきっとさらに私を追い込むための罠だ、そんなことばかり考えて___そこにサザビーの___それからあいつの___百鬼の死よ!___嘘じゃないのよ!そんなことだけ嘘じゃない___フェリルの所にいればあたしは嘘と本当の区別が付かないままだったのに___そんなことだけ!」
 強く目を閉じると涙の雫が弾けた。だがソアラは泣きじゃくることはなく、潤んだ眼をきつくして、フローラを睨むような顔で言い放った。フローラは微動だにせず、重病を告知するかのような深刻な顔つきで聞き続けていた。
 「あたしはもう戦わない。戦いはやめたの。だからフローラも、みんなももう戦わないで。どうしても戦うなら、あたしを殺して。目を潰して、耳を千切って。そうよ、ここならあたしの力を無駄にすることもないわ!!」
 短い静寂。フローラの落ち着いた眼差しに哀れみを感じたソアラは、唇を噛んで目を逸らした。次に口を開いたのはフローラだった。
 「私が___私たちが許しても百鬼が許さないわ。彼はまだ戦っているのよ。」
 「___ふざけないで。くだらなすぎるわ。」
 酷い言葉だった。自棄になっているにしても「くだらなすぎる」とは、よくフローラが、その場にいた竜樹が堪えられたと思うほどの下劣な台詞だった。
 「___人はね、命を失っても魂を残すのよ。医学を志した私が言うとおかしく思うかもしれない、でもね、人は生きている間に魂の爪痕を刻み続けるの。私にも刻まれている、医学の道を示してくれたテンペスト先生、絆の大切さを教えてくれたアレックス将軍、二人はすでに亡くなっているけど、その魂の爪痕は決して消えることはないわ。百鬼もわたしたちに爪痕を刻んでいる。戦うこと、諦めないこと、みんなその遺志を感じているのよ___あなたは何も感じないの?その左腕で___!」
 左腕。そこには無限の紋様がまだくっきりと残っていた。水虎と寧々の逸話に倣い、百鬼と二人で刻んだ契りの印。だが、今のソアラにとってこれほど忌々しいものもないだろう。彼は死んだ。なのにこの印はいまだ左腕に居座っている。それを見るほどに、惨めな思いに晒される。
 「あたしはそんなロマンチストになれないわ。」
 「ソアラ___!」
 「だったら!!」
 苛立った怒鳴り声がフローラの声を詰まらせた。
 「あなたの子が___アレックスが死んでも同じ事が言えるわけ!?」
 「!!!」
 フローラが震えた。水流の部屋が氷の洞窟に変わったかのようだった。誰もが言葉を失い、ただただ凍り付いた。
 「______どうして___そんな酷いことを言うの______?」
 一瞬にして力が奪われた。フローラの目に堪えていた涙が溢れ出し、彼女の声は弱々しく上擦った。ソアラは目を逸らしていた。見続けられなかったと言った方が正しいだろう。でも謝るそぶりもなかった。
 「私たちじゃ___私じゃ百鬼の代わりにはなれないの?___あなたを慰めることも___立ち上がらせることもできないの?______私___ソアラを___元のソアラに___私の好きなソアラに戻ってほしくて______」
 言葉にならなくなっていた。玉のような雫を零し、フローラは力無く後ずさる。口元に手を添えると、彼女はよろめくようにして走り出し、部屋から飛び出していった。
 「フローラ!」
 開け放たれた扉を筒抜けに、廊下で激しい足音とライの声が響いていた。入れ違いに部屋へと入り込んだのはフュミレイだった。本来の情熱を押し殺し、氷の篭手を纏った彼女を、ソアラは厳しい視線で睨み付けた。今この場に立ち入られること自体が不愉快だった。
 「あたしが何を言ったところで、おまえを苛立たせるだけだろう。だがこれだけは言っておく。あたしには、ニックが残した魂の爪痕がある。それはそこにいる竜樹にも刻まれている。だから彼女は命の危険を冒してここまで来てくれた。おまえにもあるはずだ。あたしたちにあって、おまえにないはずはない。ニックのことを愛しているのならな。」
 ソアラは答えなかった。フュミレイは無言で竜樹を手招きし、踵を返す。竜樹もフュミレイが背を向けた途端俯いてしまったソアラを一瞥し、歩き出した。
 「おまえの子供たちにも魂の爪痕は刻まれている。彼らはいま、誰よりも戦うことを望んでいる。おまえが拒もうと、私たちは彼らの遺志を尊重する。」
 扉に手を掛けながら、フュミレイはベッドに座るソアラにそう告げる。俯いていた彼女は顔を上げた。だがその時には扉が閉まり、あたりは薄暗い海の中へと変わっていた。
 「___」
 その途端、ソアラは力無く肩からベットに倒れ込んだ。
 「ぅぅ___」
 目を閉じると嗚咽がわいてきた。でも外にはまだ誰かいるかもしれない。彼女は手近にあった枕を掴み取り、その端を噛みしめた。自らを抱くようにした手。左肩に宛われた右手は、無限の紋様に深く爪を突き立てていた。
 悲しみはこの部屋のように、海の青のように深かった。




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