3 魂よ
絶望。それは望みを絶たれること。希望を失うこと。
我々は戦っている。決して絶望せず、一縷の望みがある限り戦い続ける。
しかし、希望は失われた。絶望することなど無いと思っていたが、今となって思う。
これが絶望というものなのだと。
「オコン様、レイノラ様、お帰りです!」
与えられていた部屋を暗くして、ただ幻想的な海の壁に包まれて、フュミレイは柔らかなベッドに身を預けたままその言葉を聞いた。
嬉しい報せなのに、体はすぐに動かなかった。早く行かなければ、出迎えがないことをレイノラ様が不思議に思う前に。私が彼女に伝えると言ったのだから。
「___」
フュミレイは起きあがる。乱れた髪に簡単な手櫛を通し、目尻を拭って彼女は部屋を出る。
「待ちなよ。」
廊下に出た瞬間だった。彼女の手を脇から誰かが取った。
「俺も一緒に行く。おまえのそんな顔を見せられたら放っておけない。」
竜樹だった。戦神セラの忘れ形見はなぜかオコンの神殿にいた。
「___」
フュミレイは頷かなかったが拒否もしなかった。
「妙だ___」
オコンが呟く。神殿全体を陰鬱な空気が包んでいるようだった。確かに主がいない間の神殿は活気に乏しく寂しい場所だが、今はまるで葬儀のように重苦しく、もの悲しい空気が充満していた。
(___なにがあったの___?)
レイノラは堪らずに唾を飲み込んだ。フュミレイの言葉を聞いたときから嫌な予感が渦巻いてしょうがなかったが、ここに舞い戻ってそれは確信へと変わった。なにかこの世の終わりのような、酷く悪い報せがあるのだろう。
「どうかしたのか?」
「それが___」
神殿のテラスに出迎えに出た神官にオコンが問う。しかし彼は俯いて口ごもるばかりだった。
「お帰り。」
「!」
そこに竜樹が現れた。黄泉以来の顔の登場に、レイノラは目を見開いた。
「凛様___」
彼女に手を引かれて、フュミレイがいた。レイノラが見たこともないほど弱々しい顔で。
「冬美___?」
「うぅ___」
レイノラの顔を見て名前を呟くと、フュミレイを支えるものはなくなった。竜樹が手を握っていてくれたことで、彼女を奮い立たせていた責任感も失せていった。ただ口元に手を宛い、ガクリとその場に崩れ落ちるだけだった。
「俺が言う。いいよな?」
耳元に口を寄せ、竜樹は囁いた。フュミレイが微かに頷くのを見届けて、竜樹は彼女の背を撫でてから立ち上がった。
「俺は大事なことを伝えにきた。こいつはそれを俺から聞いた後も、みんなを励まして、自分であんたに伝えるからって言ってた。でも限界だったんだ。だって___こいつは俺よりも辛いはずだから。」
レイノラはただ黙って竜樹を見つめた。竜樹は一つ息を付き、片手を刀の柄に宛って、セラの勇気を借りるようにして続けた。
「百鬼が死んだんだ。」
_
__
___
セラの世界を離れた竜樹は、ヘル・ハウンドたちによって妖精神エコリオットの神殿へと導かれた。
「そそられないヨ。」
エコリオットは大きな輪にいくつもの小さな輪が絡み合った玩具を手に遊ばせながら言った。
「その臭そうなものに触ること自体、やだヨ。」
彼の言葉は実に単純で、相手の気持ちを慮ったり、妙な気を回すようなことはしない。好きなことには執着し、嫌いなことにはにべもない。ただし、無礼な態度を取られたとしても怒りづらい相手なのだ。
「大事なことなんだ。頼むよ。」
百鬼のバンダナを貶されたのに、竜樹の口調は穏やかなままだった。それもそのはず、エコリオットの背丈はリュカやルディーよりも小さい。顔だって体つきだってそう。彼は見るからに幼児なのである。指しゃぶりをしてもなんら違和感がないだろうし、よちよち歩きでも不思議でない体だった。
「アヌビスの頼みだから入れてやったけど、期待はずれだヨ。帰って帰ってヨっと。」
顔も見るからに子供だが、話すことは一人前。手元で遊ばせていた輪のパズルは、早くも解れて一本の鎖になってしまった。水晶に世界を創造してしまう妖精神にとっては、些細な退屈しのぎにもならなかったようである。
「あ〜あ、つまんないヨ。」
幻想的な嘘くさい世界。密林にはカラフルで非常識な動植物が溢れ、神殿は捻り曲がった巨木の中にある。その木の内側にまで、たくさんの花やらなにやらが咲き乱れているのだ。エコリオットが手近な花の一つをつみ取ると、それは彼の手の中で木組みの人形に変わった。本当に何でもありの世界なのである。
「つまらないならやってくれ。このバンダナの精霊を呼び出して、戦場で何があったのかを教えて欲しいんだ!」
アヌビスの意向でもある訳だが、竜樹がここにやってきた理由はそれだった。エコリオットはあらゆるものに宿る精霊を具現化することができる。いわば物言わぬ物と語る事ができるのだ。
『ヤダッテバ。』
今、彼の手元で木彫りの人形が答えたように。
だがこの世界がなんだろうとエコリオットが我が儘なガキだろうと、なんとしても百鬼の行方を調べたかった竜樹には、引き下がるつもりなど微塵も無かった。
「頼む!___うぇっ!?」
しかし唐突に肌を撫でる感覚が走ると、さしもの彼女もたじろいだ。
「げげっ!?」
見れば晒しが蛇のようになってうねうねと動き回っている。しかも___
『あんたたまにはアチキを洗いなさいよって!汗くさいったらありゃしないわって!』
頭を上げて文句まで言う始末。竜樹が呆気にとられている隙に、蛇はグネグネと動き回って彼女の横腹やら脇やらを擽りはじめた。
「わわっ!や、やめろ!くすぐってえ!」
「うほほのほ。」
どうして良いか分からずに脇を開けてクルクルと回る竜樹。エコリオットはそれを見ると手を叩いて喜んだ。
「エコリオット。」
すっかりエコリオットの玩具と化した竜樹を見かねてか、この場に一人同行したクレーヌが言った。ピアスから現れた小さな鬼が頬を引っ張って邪魔をするが、彼女はまったく意に介さずに続けた。
「彼女はセラの血を引いてるのよ。それでもまだ興味がないかしら?」
頭では髪飾りの精霊が現れて、ばっちり決まっていた髪型を滅茶苦茶にしている。ただ彼女は余裕たっぷりの物腰を崩さず、勿体ぶるような口調で続けた。
「あなたがこの世界に開けた穴から出ていった子が、世代を越えて帰ってきたの。バンダナ調べてやるのと引き替えに、この子の隅々まで色々調べちゃえばいいじゃない。あなたの創作活動の成果が分かるのよ?こんなチャンス二度とないと思うけどなぁ〜。」
その言葉にエコリオットはしばし沈黙する。そして___
『ショウガナイネ。』
木彫りの人形がそう答えると、いたずらものの精霊たちは消えていった。
「ふへ〜、助かった!」
「ありがと、エコリオット。」
竜樹が晒しの蛇から解放されたのを見届けて、クレーヌはニッコリと微笑んだ。エコリオットは彼女のことを見ようともしなかったが、ちょっとだけ頬が赤くなっていた。天の邪鬼な妖精神は、どうやら綺麗なお姉さんに弱いようである。
___この時までは、まだ竜樹も明るかった。嫌な想像をしてなかったといえば嘘になるが、エコリオットの幻想的で子供じみた世界に気を紛らわされていた。バンダナの精霊を呼び出してもらうことにも、さしたる緊張は感じなかった。それはアヌビスへの報告役であるクレーヌにしても同じ事だった。
「それじゃあ、その汚いのをそこに置きたまえヨ。」
「いちいち___いてっ。」
口答えしようとした竜樹の腿をクレーヌが密かに叩く。事をややこしくするな!というプレッシャーを一瞥し、竜樹はテーブルの上にバンダナを置くと、そそくさと離れた。エコリオットがなにやら手を揺り動かし、竜樹は彼の隣に立って息を飲む。そして___
「ホイッ。」
エコリオットが片手を振り上げた。すると音もなくバンダナから光が立ち上り、いとも簡単に男の姿が浮かび上がった。大きさは小さな猿ほどだが、体型のバランスは成人男性そのもの。髭を蓄えたそいつは勇猛な戦士のようだった。
「ほら、出たヨ。」
「触らねえでできるんじゃねえか。」
ポカッ。
散々不潔よばわりされた腹いせか、竜樹は自然とエコリオットの頭に拳骨をぶつけていた。クレーヌが慌てたのは言うまでもないが___
「いいつっこみだヨ。」
エコリオットはむしろ喜んでいた。
『我が主を敬愛なさる姫君よ。』
だがぬるい馴れ合いはそこまで。小さな戦士がその場に跪き、深みのある声で言うと誰もが押し黙った。
『姫君よ。』
誰も答えない。
『姫君よ。』
「あんたよ。」
「え?俺!?」
クレーヌに背を突かれ、竜樹は目を丸くして驚いた。
「あんたは女。それにあれの持ち主を愛してるのはあんただけでしょうが。」
姫君と呼ばれることに納得がいかない竜樹は、ばつが悪そうに頭を掻きながらバンダナの精霊の前へと歩み出た。
『姫君よ。あなたの前に立てたことを光栄に思います。どうか我が主の最期を見届けて頂きたい。』
「___え?」
最期___と言ったのだろうか?竜樹は自らの耳を疑った。
『あなた様に伝えるのが私の務め。我が主もきっとそれを望んでいるはず。どうか私を手に取り、額へと当てていただきたい。』
それだけ言い残して、精霊は消えた。ただの汚れたバンダナに戻ったそれを見つめて、竜樹は半開きの口を閉じることもせず、小さな戦士の言葉を顧みようとした。
でも___つい数秒前のことなのによく思い出せなかった。自分の頭は確かに記憶しているのだろうけど、無意識に思い出すことを拒んでいた。
「___」
手を伸ばしかけて、止まった。唾を飲んだことで口も閉じた。テーブルのバンダナを睨むようにして、彼女は葛藤した。
(いや___俺は百鬼を信じている!)
しかしその一念が彼女を突き動かす。乱暴にバンダナを掴むと、勢いのまま額に押し当て、後頭部で縛り付ける。
気が付くと、竜樹は戦場を見下ろしていた。瞬きの間に景色が変わっていた。
そこには百鬼と性骨がいた。
「これは天恵!」
時は、竜樹がリュカと共にセラを連れて戦場を離れ、そして今まさにセラが息を引き取ろうかという頃だった。戦いを優勢に進めていた百鬼だったが、森に隠れて呪文で性骨の力を抑えていたルディーがグレインの不意打ちに倒れたことで、性骨の逆襲が始まろうとしていた。
「!」
性骨は速かった。百鬼が戸惑った一瞬の隙に彼の懐に潜り込んでいた。鋭い爪が百鬼の腹に抉り込む。しかし百鬼は怯むことなく片手で性骨の腕を掴み、瞬時に逆手にした刀で性骨の胸を突いた。
「うおおお!」
そもそもこの男に心臓があるのかどうか、あったとしてそれが左胸にあるかどうかも分からない。刀は性骨の胸を貫いていたが、百鬼はそこからさらに練闘気を膨れあがらせようとする。
ギュンッ!
しかし遅い。性骨は逆の手で百鬼の刀を掴むと、その爪を食い込ませ力任せにへし折った。
「相打ちになればわしは負けぬ。」
性骨の爪。右は百鬼の腹に食い込ませたまま臓腑を掴んで彼の動きを止め、刀をへし折った左手を首に向かって走らせる。だが百鬼は柄に僅かに残った刃で性骨の左腕を突き上げ、的を逸れた爪は彼の右目尻を切り裂いた。
「砕けろ!」
刀の長さは関係ない。性骨の左腕に食い込んだ折れた刀身が、燃え上がるように光り輝いた。壮絶な波動は天へと伸びる光の剣となり、性骨の左腕を砕く。百鬼がそのまま光の剣を傾けてきたので、性骨も堪らず斜め後方へと飛んだ。
間が生じると光が消える。百鬼はよろめいたが、それでも立て膝になることさえなかった。左寄りの腹に開いた穴からは血が止めどなく流れ、食いしばる口からも歯の間を塗って血が溢れていた。目尻の傷は、その衝撃波だけで眼球を裂かれ、視界は左側しかなかった。
「その体でまだやろうというのか?」
「体は関係ねえよ。魂が折れない限り俺は戦い続ける。」
はったりだろう。だがそう認めさせない何かが彼にはある。類い希なる精神力、かつて六つのリングの中で魂のリングに適応を示した男からは、自信が漲っている。この身滅びようとも今この戦いに勝つことが自らの使命。その確信に何ら疑いを持っていない。
性骨にとっては極めて不愉快な男だ。
「ならばその心根すらも折ってやろうぞ。」
性骨の体が急速に再生していく。左腕は練闘気で肩口まで砕け散っていたが、見る見るうちに骨が、肉が復活していく。そればかりか、彼が負った全ての傷が満たされ、目に見えて肉体に活力が漲っていく。
「戦いているな?」
性骨が笑う。もはや輪廻転生の秘技が無かろうと不安はない。
「セラが死んだのだ。わしは今その力を得た。」
百鬼が絶句した。性骨にはそう見えた。
「わしはもはや誰にも負けぬ。」
「いいや、俺が負かす。」
だが彼は違った。満身創痍であっても、百鬼は凛として立ち、折れた刀を性骨に向けて構えた。その態度に性骨は苛立った。無類のサディストである彼は、敵が絶望に暮れる姿を何よりも好む。しかし百鬼は決して絶望しなかった。
諦めはしない。例え僅かな可能性であっても、彼は勝利を信じ続ける。絶望とは正反対の、希望の象徴であり続けるのだ。
常軌を逸した能力ゆえに、無限の孤独を生き続ける性骨にとって、希望など掃いて捨てるほどの価値もない。生き続ける自らに絶望しつつ、他人にその絶望を分け与えることだけを楽しみとする悪鬼にとって、百鬼ほど、ニック・ホープほど激しい憎悪を抱かせる人物はなかったかもしれない。
「ならば心臓と頭、そして左目だけは最期に残してやろう。そこまで順々に砕いてやる。貴様が絶望する瞬間をわしに見せてみろ!」
性骨は飛んだ。百鬼に迫り、まずはどこから滅してやろうかと考えていた。
冷静ではなかったのかもしれない。体に漲るセラの力が、彼に今までにない興奮をもたらし、いつもの周到さ失わせていたのかもしれない。ノミのような小さな敵であっても、万全を期す男のはずだった。それが今は、自信に溢れすぎていた。
ゴッ!
大地には百鬼の練闘気による刀傷が無数に走っていた。今、性骨が百鬼に迫ろうとする軌道、その両翼を挟みつけるような形にも、傷は走っていた。そこから猛烈な輝きが吹き出したのだ。
「な!?」
性骨は狼狽した。その光は猛烈な熱を帯び、性骨の体を浸食する聖なる波動に満ちあふれていた。あらゆる絶望を希望に塗り替える。そんな力があるかのようだった。
「くっ___!」
理由を考える暇など無かった。だが性骨はなぜだかこの光を恐れた。先程の練闘気と大差ない、いや本質は同じもののはずなのに、これに触れると自分の体が溶けて消えるように思えてならなかった。
「は!」
光の壁に挟まれて、前を見るとそこには短くなった刀を振り上げた百鬼がいた。彼自身もまた、光り輝いていた。その光は短い刀身に巨大な光の刃となって続いていた。今までの比ではない。
「!」
その時、性骨は見た。彼の左腕に輝く紋様を。
絶望は限りを知ること、希望は限りを知らぬ事。
無限を暗示する横の8の字に、彼は自らの限りを知った。
ドオオオオオオオオッ!!
刀が振り下ろされた。輪廻転生に終止符が打たれた瞬間だった。
やがて光が消えた。戦場には深い谷が刻まれ、その端に百鬼が立っていた。夥しすぎる自らの力に服は破れ、バンダナも幾らか短くなって風に舞い、やがて大地に落ちた。
「___」
もはや彼に命はなかった。あらゆる傷口が衝撃で一層大きく開き、その全てが渇いていた。呼吸も、鼓動もない。ただ物としてそこに立っているだけだった。あの練闘気は自らの命の全てだったのだ。
だが彼の肉体は滅びない。死と共に体が崩壊へと進むこの世界にあって、彼の肉体は消える気配もない。自らの魂が折れていないことを誇示するように。
その時である、戦場に新たな影が現れた。
「見事だ。」
バルカンだった。
「見事な力、見事な魂、見事な死だった。」
彼はどこからともなく現れた。小さな鳥となってルディーが隠れていた森から様子を窺っていたのかもしれない。しかし彼は戦いを見守ることはしても、百鬼の助けに入ることはしなかった。セラと性骨の戦いも見ていただろうに。
「オル・ヴァンビディスの掟をも覆し、滅びてなお自らをそこに留める、その精神力は神である私をも感服させる。レイノラが力を失いながらなぜここまで来ることができたか、そしてあの脆いソアラがなぜここまで戦えたか、おまえを見れば良く分かることだ。」
バルカンは百鬼の左腕に刻まれた無限の紋様を見つめていた。彼はこれを知っていたのだ。フェリルの持ち帰った戦利品の左腕にも同じ物があった。
「安心して逝け。おまえはこれから全ての頂点に立つ者の肥やしとなるのだ。セラの力と共に、あの悪鬼の生命力、おまえの魂を私が貰おう。」
百鬼の背後に立ち、バルカンはゆらりとその手を振り上げた。鋭い爪が刀のように伸びると、その姿はまるで切腹の介錯をする武士のようであった。
「!」
しかし無情の介錯人となったはずのバルカンの心が乱れた。百鬼の指が動いたのを、鳥の観察眼は見逃さなかったのだ。
「こやつ___!」
バルカンは爪を振り下ろす。しかし___
ギンッ!
迷いのあった爪は、折れた刀に食い止められていた。
「___!」
バルカンは息を飲んだ。瀕死とは思えない力強さ。未だ蒼白ではあるが、百鬼は確かに動き、呼吸し、そしてバルカンを振り返った。顔に汗を浮かべ、口の周りを渇いた血で染めて、片目の男がこちらを見た。
彼は確かに生き返っていた。
「待ちなよ___俺はまだ死んじゃいない___」
そればかりか喋ってみせた。血の気の無かった体にも急速に赤みが戻っていく。
「それに___なんか変なこと言ってたよな___まるで今のソアラを知ってるみたいな___」
百鬼の体の内から、湯でも沸くかのように生命力が滾っていく。片目の傷、腹の傷が蠢いている。彼自身は気付いていないようだが、全身の傷が急速に再生しようとしている。
戦神セラの最大の武器は無尽蔵の体力。
悪鬼性骨の最大の武器は果てることのない生命力。
百鬼は今、それを受け継ごうとしている。
一介の人でありながら、神の力を苦もなく受け入れようとしている。
無限の存在になろうとしている。
「うおおおおお!」
恐れ戦き、バルカンは絶叫した。
ごく短い時間だった。バルカンは全身全霊で百鬼を殺した。彼が真に覚醒する前に、殺さなければならなかった。それはもはや狂気の沙汰というほか無かった。百鬼の体が砂粒のようになって、キラキラと輝きながら己に吸い込まれていくまで、彼は殺し続けた。
「はぁっはぁっ!」
血の一滴まで煌めきとなって消えたとき、バルカンは大きく目を見開き、肩で息をしていた。それほど必死だった。だが今、戦場が元の土色に戻ると彼は急速に落ち着きを取り戻していく。
「クク___」
次にこみ上げてきたのは笑いだった。
「ククカカカカカ!」
そのころ、リュカと竜樹は戦場に近づこうとしていた。彼らはバルカンの叫声を聞いていたかもしれない。だが聞こえていたとしても、野鳥が警戒の声を上げているくらいにしか思わなかっただろう。
それからのバルカンは速かった。彼は二人の接近に気付くと同時に、森影から息を潜めて、それでも荒ぶる吐息と手足の震えを止められずにいる気の小さな男に気付いていた。
目があった瞬間。グレインは腰を抜かした。そしてバルカンは彼に近寄ってこういうのだ。
「私は今最高に気分がいい。本来なら問答無用で殺すところだが、おまえには生きるチャンスをやろう。ここであった出来事を完璧に隠し通すことができれば生かしてやる。だが少しでも、誰かに勘ぐられただけでも駄目だ。」
残酷なゲームに末期を弄ばれ、グレインもまた命を落とした。
それがあの場所で起こった全てだった。
「___」
竜樹はただ立ちつくしていた。戦場に駆けつけてきた自分の姿を見た瞬間、景色がエコリオットの神殿に戻った。百鬼のバンダナを頭に巻いて、愕然としていた。
(嘘だろ?)
口は動いたが声にはならず、彼女はそう自問していた。しかし___
『私の責務は事実を伝えること。どうか今見たものを否定なされるな。それが私の願いであり、主の望みでもあるのです。』
バンダナからの答えははっきりとしていた。慰めなど無い。厳しい現実から目を背けるのではなく、その全てを受け入れることを竜樹に求めてきた。
(嘘だ___)
虚空を見つめ、竜樹の口が弱々しく動く。
『我が主は死んだのです。どうか、主の遺志を継いでいただきたい。主が愛した他の姫君たちを、やや子を、お守りいただきたい。あなたであればこそ主も願うことができるのです!』
「嘘だ___!」
それは心の叫びだった。願いが声を取り戻させていた。
『否!』
「嘘だ___嘘だっていってくれ___!」
竜樹が膝からその場に崩れ落ちる。涙はまだ留めていた。認めたくない一心で。
『我が主を犬死にさせるおつもりか!』
「!!」
その言葉は竜樹の身体に電撃を迸らせた。セラの死も辛かった、だが今はそれ以上に、体の心棒を抜かれてしまったかのような虚無感だった。失われた心棒を注入するには、それくらい辛辣な「喝」が必要だったのだ。
「ううううう___」
竜樹の瞳に光が戻った。ギラギラと燃える復讐の炎が。彼女の手はすでに花陽炎に添えられていた。
「うおおおおお!!」
そして変わる。自らの妖魔の資質である変化により、竜樹の闘気は夥しく膨れあがる。
「よよヨ!?」
それはエコリオットをも慌てさせた。巨木の内に造られた神殿を殺気が刃となって駆けめぐる。それは咲き誇る艶やかな花々を、気迫だけでたちまち死に追いやっていった。
「ぶち殺してやる___あの鳥野郎___!!」
言葉に理性はある。しかし今の竜樹は獣同然。かつて羅刹と呼んでいた歯止めの利かない殺戮の意志を、久しぶりにその身に宿らせていた。
「待ちな!」
今の竜樹に触れるのは危険だ。しかし放っておくわけにもいかなかったクレーヌは彼女の前に回り込む。案の定、竜樹は構わずに刀を振り下ろした。
「!」
しかし、眼前のクレーヌは裏が透けて見えていた。彼女自身は自らの幻影より三歩も後ろに立っていたのだ。
「待てって言うんだ!あんた一人で挑んでなんになる!幻の一つも見抜けない分際___!」
クレーヌはいつもの強気で竜樹を叱責した。しかし言葉は最後まで続かなかった。三歩離れていたはずなのに、彼女の開いた胸の谷間に赤い筋が走ったのだ。
「え___?」
クレーヌが自らの異変に気付いたのは、鼻先に伝う血の滑りのせいだった。そして、正中線を血で濡らす自分の姿にゾッとした。竜樹は唖然とする彼女に向けて、再び刀を振り上げていた。
『いい加減にせぬか!』
しかし、女の一喝が刀を止めた。いや、そればかりか花陽炎は自ら意志を持って竜樹の首筋に刀身を寄せたのである。そして竜樹自身も燃えさかる殺意が急速に冷やされていくのを感じていた。
この声を聞いては致し方ない。百鬼に対してそうだったように、彼女は尊敬する師に対してとことん弱いから。
『貴様は私を望まぬ血で汚すつもりか!?』
花陽炎の刀身に浮かぶのは、サイズこそとびきり小さいがセラその人だった。
「セラ___?」
『落ち着け竜樹。辛くとも、おまえにはやらねばならぬ事がある。』
「うぅ___」
『案ずるな。私は常におまえの側にいる。』
辛辣な事実と暖かい言葉。もう竜樹の涙を止める物はなくなっていた。
「うああああああああああん!!」
その場にへたり込み、竜樹は天を向いて子供のように泣きじゃくった。
「ふぅ、冷や冷やさせるヨ。」
難局を乗り切った功労者は、珍しく額に浮いた汗を拭っていた。花陽炎の精霊がほとんどセラであったこと、その幸運を喜びながら。
それから、竜樹は声と涙が枯れるまで泣いた。いかにも煩わしそうだったエコリオットはその場から姿を消す。竜樹が落ち着きを取り戻したのは、クレーヌが自慢の体についた傷をあらかた癒しきったころだった。
「俺はオコンって奴のところに行く。」
涙が消えると、竜樹はすぐに立ち上がった。まだ現実を受け入れるのが辛いし、百鬼の死を完全に認めた訳ではない。それでもバンダナの精霊が言ったように、これを伝えにいかなければならない。それは百鬼のためであり、冬美との友情、由羅との腐れ縁のためでもある。なにより、彼の子供たちのためにも伝えなければならない。使命感が竜樹を奮い立たせた。
「いいんじゃない。」
クレーヌは手鏡で顔に傷が残っていないか丹念に調べていた。
「連れてってくれ。」
「嫌よ。ここまで連れてきたのは、あたしたちもあそこで何があったか知りたかったから。それだけでしかないわ。顔まで切られてあんたのことを手伝う義理も、竜の使いたちに力を貸す筋合いもない。」
方向音痴の助けは欲しかったが、クレーヌの言うことは逐一最もだった。彼女が明らかに怒っているのも分かったから、竜樹は無理強いはしなかった。
「それもそうだな。ここまで連れてきてくれてありがとう。アヌビスにもそう伝えてくれ。」
だがクレーヌにはそんな竜樹の態度が意外だったようだ。
「___へぇ、少しは大人になったじゃない。」
「成長しないとな___師匠たちに怒られる。」
そして竜樹は姿無いエコリオットにも礼を言ってから去った。「君を少し調べさせてくれヨ」と声だけが帰ってきたが、竜樹は苛立つこともなく先送りを頼んでいた。彼女の態度に拍子抜けしたのだろうか、エコリオットもそれ以上は語らなかった。
(妙に落ち着いて___本当に悲しいとああなるのかも。でもあたしは悲しむより憎むわ。仲間を殺した敵をね。)
鏡を閉じ、クレーヌもまた踵を返す。その瞳はグレインの命を弄んだ鳥神への怒りに満ちていた。
竜樹は一心不乱に進んだ。神殿の外にいた精霊に、オコンの城への方角だけを聞き、とにかくそちらに向けて真っ直ぐに進み続けた。立ちはだかるものがあれば切り払うだけ。彼女は自らの前に最短の道を刻んでいった。
そして海へ。オコンが戦闘状態だったからか、海は酷く荒れていた。いずれにせよ竜樹には飛ぶ、走る、泳ぐくらいしか手段がない。足取りはやや鈍ったが、彼女は真っ直ぐ進み続けた。
そしてフュミレイに見つけられたのである。彼女の呪文で、竜樹はすぐにオコンの神殿へとたどり着いた。フュミレイからソアラのことを聞き、竜樹は迷いながらもまず彼女だけに百鬼のことを告げた。
「つまらない冗談だ。」
フュミレイは一笑に付そうとしたが、明らかに動揺していた。竜樹が冗談でもそんなことを言わないのを彼女は知っていたからだ。そして竜樹が百鬼のバンダナをしていることも疑問に思っていたからだ。
「折角また会えたってのに、こんな最悪なことねえよな___」
「ああ___だが、泣いている場合じゃない。」
フュミレイの強さに竜樹は感服した。同時に彼女が冷静すぎることに腹立たしさも覚えた。だが彼女がティーカップを倒したことで、指の震えを止められずにいると知った。ただ気丈なだけなのだと理解した。
それからフュミレイはソアラと子供たち以外の、ライ、フローラ、ミキャック、棕櫚を呼び、竜樹に事を告げさせた。サザビーに続く同胞の死の報せに、彼らは我を失った。一人、棕櫚だけが冷静さを保っていた。ただその彼でさえ、一雫の涙を抑えることはできなかった。
泣かなかったのはフュミレイだけだった。
それから、ショックの大きいライとフローラ、ミキャックを棕櫚に任せ、竜樹とフュミレイはソアラの元に向かった。子供たちが一緒にいることは聞いていた。ソアラは竜樹を見ても敵意を見せることなく、むしろ懐かしがる素振りまで見せていた。彼女が黄泉にいた頃とは別人のように弱々しいことに、竜樹はショックを受けた。いまここで百鬼の死を告げれば、彼女は自刃の道を選ぶのではないかという不安を抱かせるほどだった。
「お姉ちゃん!よかった!また会えたね!」
元気に出迎えてくれたのはリュカだけ。かつてのソアラのように敵意を見せているのは娘のルディーだった。だが今の竜樹にとってはどちらも胸に痛い。リュカの暖かさも、ルディーのトゲトゲしさも、根こそぎ叩きつぶす報せを告げなければならないのだ。
「実は___」
そこで竜樹の言葉は止まってしまった。この三人に、百鬼の最愛の家族に、この報せはあまりに残酷すぎると感じてしまった。
「落ち着いて聞けとは言わない。だがこれは嘘でも冗談でもない。戦場での厳然たる事実だ。」
すると、彼女の隣でフュミレイが語り出した。目を潤ませることもなく、喪服のような黒装束で、フュミレイは冷徹に続けた。
「ニックが戦死した。」
竜樹はゾッとした。今この時、彼女は指の震えも、舌のもつれも、汗の一つもない。あの衝撃をもう克服したその姿に、竜樹は「かなわない」とすら感じていた。だが心地よいものではなかったし、そうなりたいとも思わなかった。
ソアラ、リュカ、ルディー、全員がこの世の終わりを見たように落胆した。魂を抜かれたように呆然とし、泣きわめき、のたうち回った。ソアラは子供たちを慰めることすらできずにいた。
「あたしは先に行くよ。なんとかしてレイノラ様にことを伝えてみる。」
「___ああ。」
フュミレイが去り、竜樹もやがて部屋を出た。しかし扉を背にして暫く立ちつくし、中から聞こえる慟哭を胸に刻みつけていた。こんな悲しみは絶対に繰り返してはいけないと誓った。そして百鬼の偉大さを改めて思い知り、また涙で頬を濡らした。
誰もが自らのすべき事を見出せず、ただ漠然と、傷ついた心が少しでも癒えるのを待っている。そんな中でもフュミレイだけは違った。彼女は自らの闇の力を駆使してレイノラに事を伝えることに成功した。
それからレイノラが戻るまでは、ただひたすら無情な時を過ごすだけ。
そこでようやくフュミレイは一人になった。竜樹も一人になった。
竜樹はフュミレイが悲しいはずなのに、平然としているのが癪だったから、暫くして彼女の居場所へと向かった。
そして聞いた。声を殺しながら、それでも押さえきれずに溢れ出す嗚咽を。
堪らなかった。竜樹は彼女の元に近寄った。
フュミレイは拒んだが、構いはしなかった。
「おまえが悲しむのを笑う奴なんて誰もいない!そんな奴がいたら俺が許すもんか!だっておまえは百鬼のことを___世界で一番愛してるんだ!」
そしてフュミレイは竜樹に素顔を晒した。涙で滅茶苦茶になった顔で、子供のように泣き喚いて、竜樹に縋り付いた。竜樹も抑えきれなくなった。百鬼との思い出が、冬美と三人での思い出が、全てを支配した。
そして二人は、互いに抱き合いながら心の底から泣き続けた。
誰に憚ることもなく。ただ偉大なる魂のために。
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