1 悔恨

 大海を臨むテラス。フュミレイはそこに一人で立ちつくしていた。
 「___」
 二つ向こうの世界ではいま、壮絶な戦いが繰り広げられているかもしれない。そう思うと彼女の胸中は不安で一杯だった。だがそれ以上に、慟哭に伏したくなるような悲しさが延々と渦を巻き続けていた。それでも自分はこの朝日の下に身を晒し、涙も流さず海を見つめていられた。
 それができる人間が、いまは誰よりも気を強く持っていなければならない。彼女は自らに強くそう言い聞かせた。サザビー・シルバの死の報せは、それほど痛恨だったのだ。
 (凛様のことは心配だ___でも今は、やっぱり凛様の言われた通り、ここに残るのが正しかったらしい。)
 フュミレイはレイノラの言葉を思い返し、そんなことを考えた。敵がバルカンと分かった今、レイノラのいる戦場に少しでも早く馳せ参じて助けとなる、少し前まではそうすべきだと思っていた。しかしいざこうしてテラスで寂しい海原を眺めていると、当時の自分の心がいかに乱れていたか気付くことができた。
 (あのような心持ちで戦ったところで、足手まといにしかならなかったろう。)
 ___城の中では、まだソアラたちが涙に暮れている。あの棕櫚でさえ涙を零していたのだ。全てを語るまで気丈でいつづけたミキャックは、ついに涙を止められなくなって、ソアラと抱き合って号泣した。ライも、フローラも、嗚咽を止めることができずにいた。リュカとルディーはさっきまであたしの隣で海を見ながら泣いていた。きっと今はソアラのところだろう。
 戦える人なんて誰もいなかった。命の保証がない旅だと分かってはいても、死の覚悟を決めて挑むべき敵だと分かってはいても、実際それに直面すると、誰もがまともではいられなかったのだ。
 それはあたしたちの弱さでもあり、絆の強さの証明でもあるのだろう。
 乗り越えなければならない、しかし慣れる必要は全くない。犠牲など誰も望んではいないのだ___
 「戻ろう。もう私は、現実を受け入れられたはずだ。」
 フュミレイはもう一度海を眺めてから、踵を返した。しかし、ふと視界が何か見たことに気が付いた。反応が遅れたのは、彼女の心が未だ平静にはほど遠いことの現れだろう。
 「なんだ___?」
 一歩だけ踏んだ足を止め、彼女は振り返った。
 「___?」
 遠く、遙か遠くだ。しかし見通しが良いので少なからず陰影は見えた気がした。
 「誰かいる___?」
 かなたの沖合の海に何かがいる。オコンの僕?いや、それにしては妙な胸騒ぎがする。あの影が、こちらに向かって何かを強く訴えかけているような気がした。
 「___」
 自分の直感はなるべく信じたい。フュミレイはおもむろに、テラスから宙へと飛び出した。

 「が___!」
 黒い直線が空に走り、その一端では嘴を砕かれ、顔を黒く染めたバルカンの体が宙を泳いでいた。レイノラの秘技、宵闇の裁きをまともに受けた鳥神の顔は拉げ、もはや鳥の面影は残していない。
 ギャウン!
 余韻に浸るかのように悠然としているレイノラの体に、四方から杭を刺すようにして光が走った。
 「油断したわね。」
 フェリルの束縛術だ。セサストーンは基点を必要とする反面、一度仕掛けてしまえば術者は自由が利く。ここでレイノラの動きを止められれば、彼女の勝利は揺るがないはずだった。
 「なにが?」
 「!?」
 しかしレイノラは構わずに振り向いた。
 「ムンゾの束縛は強力だ。しかし我が闇の衣の前では無力。」
 それはいわばアヌビスの邪輝と同類の力だった。彼女自身の体を包む暗黒の波動こそが、彼女の攻撃の源であり守備の源でもあるのだ。
 「すぐに終わらせる。」
 「!!」
 一瞬にして、レイノラはフェリルの眼前に迫っていた。何ら反応する間もなく、漆黒の鞭がフェリルの腕に絡みつき、手甲を纏った左手がフェリルの喉笛に迫る。
 「くっ!」
 強烈な突風がフェリルの体を流れさせ、刃は彼女の首を掠めただけ。しかし手甲が纏っていた闇が破裂すると、無数の闇の帯がフェリルの体を捕らえに掛かる。
 「こいつ___!」
 フェリルは狼狽した。自らの力に確信を持っていたにもかかわらず、この闇は風を無視し、束縛を蹴散らし、オルローヌの力に至ってはなんの役にも立っていない。
 「!」
 闇の帯で結ばれた二人。次の瞬間には、フェリルの眼前にレイノラの左手があった。いままさに、新たな裁きが下されようとしていた。
 (いや___これは!)
 コンマ一秒とない一瞬だった。フェリルは不意に閃き、反射的に動いていた。宵闇の裁きを放つ直前だけ、闇のオーラはレイノラの手に結集する。その時、彼女は無防備になる!
 ズバッ!
 「!」
 レイノラの脇腹が割けた。いや、素早い判断で飛び退いたことで、被害を脇腹のみに留めたのだ。もしフェリルを放して避けなければ、胴を両断されていただろう。
 「ふふ___ふふふはは!」
 思いがけない出来事に、フェリルは笑った。背を濡らした冷や汗に、なかなか戻らない引きつった頬に、彼女は笑ってしまった。三人もの神を殺めていながらレイノラ一人に追い込まれ、結局は役立たずと思っていたオルローヌの力に救われた、それが可笑しかった。そして安堵と共に腹立たしさも沸いてきた。
 「あたしをびびらせるなんてさ___百万年はやいのよ!」
 傷ついたレイノラをあざ笑い、フェリルはその手を彼女に向けた。超振動の刃でぶった切ってやるつもりでいた。
 しかし___
 「えっ!?」
 突如レイノラとフェリルの間にバルカンが割って入ったのだ。
 「ぐっ!」
 レイノラはバルカンの強烈な蹴りを受け、宙を吹っ飛ばされた。しかしすぐさま身を翻して踏みとどまる。その額には汗が滲み、脇腹の傷は闇に包まれながらもまだ塞ぎ切れてはいない。バルカンの良く効く目はそれをしっかりと見ていた。しかも彼の顔の傷はほとんど消え失せている。
 「邪魔よ!仕留められるチャンスだったのに!」
 放ちかけた超振動の刃を打ち消して、フェリルは不満たっぷりに言い放った。
 「腕をよく見てみろ。」
 しかしバルカンは冷然と答える。その視線は決して穏やかではなかった。
 「___腕?」
 フェリルは自らの右腕に目を向ける。そしていつの間にか、腕に無数の黒い筋が走っていることに気が付いた。
 「夢中になる悪い癖だ。あの女は宵闇の裁きは諦めたが、せっかくの闇を無駄にはしなかった。そのまま刃を放てば、ムンゾの束縛にも似た支配の力で腕をねじ曲げられ、自分の首を真っ二つにしていただろう。」
 「___」
 バルカンは冷静だった。それに比べてフェリルの視野は狭く、三人もの神を殺したにもかかわらず、その優位性をまるで活かせていなかった。いいようにレイノラの術中に落ちていたのだ。
 それは彼女にとって屈辱以外の何ものでもない。頂点を目指す器にないとでも言われているかのようだった。
 「落ち着け、フェリル。君はこの場にいる誰よりも強い。レイノラは変化したが、落ち着いて挑めば君の敵ではないはずだ。」
 「分かってるわよ!」
 バルカンの慰めも苛立ちの源にしかならない。そしてレイノラがこちらではなく、一心にバルカンを睨み付けているのも気に入らなかった。
 「そうやってコントロールしているのか。盲目的な女を牢から救い出して、自分の野心のために利用しているわけだ。」
 事実、レイノラはバルカンだけを見ていた。先程の攻撃からもうあれだけ回復したことも解せなかったが、それ以上にこの男の所作一つ一つに本音の影がちらついているのが気に入らなかった。
 「おまえはフェリルを駒にしか思っていない。」
 「その口を塞いでやる!」
 フェリルが宙を蹴る。一気にレイノラへと迫り、レイノラは鞭を振り上げたが___
 グンッ!
 「!?」
 鞭は彼女の手から放れ、上空の高みへと跳ね上げられた。
 「くっ!」
 フェリルの打撃がレイノラを襲う。素早い拳、蹴りは的確にレイノラの防御の穴を狙い打つ。
 「おのれ___!」
 レイノラの体で闇が膨れあがる。闇の壁はフェリルの攻撃に対するクッションとなって全てを受け止める。しかし彼女の脇腹では塞がりかけた傷口が再び裂けていた。
 「エクスプラディール!」
 闇の壁を盾にして、裏から強烈な爆破呪文を放つレイノラ。しかしその時フェリルはすでに彼女の真横に回り込んでいた。呪文を放つほんのごく僅かな、あって無いような隙に彼女はレイノラの横を取った。
 ドゴガッ!
 裂けているのとは逆の脇腹に、フェリルのつま先が食い込んだ。前へと集中していた闇の壁を避けるようにしての攻撃は、レイノラの臓腑に食い込み、肋を数本へし折りながらその体をセサストーンの光に向けて弾き飛ばした。
 グンッ!
 渾身の力を込めて、レイノラは踏みとどまった。背は今にも赤紫の光に触れそうだった。
 (___妙だ___攻撃が___くっ___)
 レイノラからはバルカンに奇襲を仕掛けたときの勢いが失われていた。傷の治癒もままならなければ、思考もおぼつかず、自慢の黒髪は艶を失い、右目の白い瞳はくすんで灰掛かっていた。ただそれでも戦う意志だけは持ち続けていた。
 「オルローヌの力よ___」
 赤紫の光に囚われた姿で、キュルイラが声を絞り出す。彼女は苦汁を飲むかのような、迷いに迷った顔で続けた。
 「オルローヌは人の心を読める。普段のあんたなら読まれないだろうけど、戦いみたいに意思がはっきりと表れる場では防ぎようがない___攻撃も、あんたの弱点も全て見抜かれている___」
 それを告げてもレイノラを絶望させるだけかもしれない。だからキュルイラは迷っていた。そして実際、レイノラは疲れ切った顔で言葉を失うだけだった。
 「急に弱くなったわね。燃料切れってとこかしら?」
 フェリルはあざ笑うように、高い位置から彼女を見下ろしていた。その後ろにはバルカンも悠然と構えている。嘴の傷はもう完全に消えていた。
 「あたしはソアラの頭を覗いて色々知ってるのよ。だからあんたが昔のレイノラとは違うってことも分かってた、遙かに弱くなっているってこともね。さっきは少し面食らったけど、最大出力は十秒も持たなかったみたいね。」
 万全を期すならば、余裕のあったバルカンがもう一押しして、レイノラをセサストーンの中に入れてしまえばすんだことだ。それをしない時点で、彼らはもう自らの勝利を疑っていない。
 「で、どうする?あたしが殺していいの?それともあなたがやる?」
 「君がやればいい。」
 もはやレイノラはさらしものでしかない。臓腑の傷から口に上がってきた血を吐き捨てて、裂けた脇腹を癒す力も残っていない闇の女神。フェリルとバルカンは狩りを楽しむかのように、獲物の前で悠然としていた。
 逆転の秘策?熱視線を向けるビガロスなどはそれを期待しているのだろうが、残念ながらない。フェリルの言った通り、完全な燃料切れだった。これでは今から基点の破壊に標的を変えることもできない。
 (これが精一杯だったか___わたしが未熟なばかりに___)
 悔いが残る。もう少し時間があれば、本来の力を取り戻すこともできたろうに。思うに付けて、ダ・ギュールの計略に墜ちてジェイローグと仲違いしていた時間が悔やまれた。千年の永きを無駄に過ごし、衰えた体を元に戻すのは簡単なことではなかった。
 「フェリル。」
 ならばせめて、今できることだけはしておこう。言葉という武器で。
 「託卵(たくらん)と言う言葉を知っているか?」
 「___は?」
 フェリルは訝しげに首を傾げた。勝利への確信が余裕を生み、無碍にレイノラの声を断とうとはしなかった。
 「ある種の鳥がやる手口だよ。自分の卵を他の鳥に暖めさせ、雛を育てさせるのさ。雛はその巣にもともとあった他の卵を全て破壊し、自分だけが見ず知らずの親鳥の愛を一心に受ける。哀れな親鳥は、成長して自分よりも体が大きくなった雛を見ても、我が子だと信じて一生懸命育てるのさ。本当の子を殺されたとも知らずにな。」
 そこでレイノラは言葉を止めた。空間を漂っていた闇の切れ端が弾け飛んだことで、彼女は両手を突きだして闇の波動を絞り出した。それは密かに迫っていた超振動の刃を黒に蝕む。しかし勢いは刃が上。辛うじて分断することはできたが、彼女の両脇を舐めるように通り過ぎた刃によって、手から肩まで真っ直ぐに腕が裂けた。
 「だらだらとくだらないことを___何が言いたいのよ。」
 フェリルは苛ついた様子でレイノラを睨み付ける。両腕をダラリと垂らした血まみれのレイノラはそれでも笑っていた。
 「卵がG、暖めているのがおまえ、暖めさせているのは___」
 ゴオオオ___!
 核心を語るでもなくレイノラの言葉は遮られた。彼女の意図を理解したフェリルはすぐさま強烈な熱風を放ち、レイノラを包み込む。あらゆる水分を奪うジェネリのシロッコは、レイノラの血を砂に変え、喉を干上がらせ、声を封じる。それだけでなく、髪をやつれさせ、肌を罅入らせ、眼球を収縮させる。
 死は目前に迫っていた。それは三人の神を焦燥の坩堝に落とす。
 「ぬおおお!我が身のなんたる不甲斐なさか___!」
 ビガロスは必死に体を動かそうとする。セサストーンを力で克服しようとする。
 「あたしの酒を___」
 キュルイラは全身を脱力させる。セサストーンを柔軟に脱しようとする。
 「俺はなんのためにここまで___!」
 オコンは地に眠る水を自らの力で奮い立たせようとする。セサストーンを内にいながらの技を試みる。
 だが神の牢獄の前では無力だった。
 「誰か___」
 本来は祈られる側である。しかし三人の神はさらなる大きな存在を信じて祈った。
 レイノラを助けてくれ!___と。

 ザンッ!
 熱風が止まった。
 止めたのは強力な斬撃だった。
 断ち切られたフェリルの片腕が、クルクルと回りながら地へと落ちていく。

 シュッ!
 次の一撃は空を切った。ぐらついたフェリルの体をバルカンが引き寄せたからだ。しかし漆黒の長剣は掠めただけで、バルカンの翼を深く切り裂いていた。
 「こいつ___!」
 速く、力強い剣が止まらない。後方に飛びながら、バルカンは嘴を開いて破壊光線を放った。しかしそれは男の赤く輝く左腕に当たると散り散りになって消え、勢いを殺す役目すら果たせない。
 バルバロッサの太刀筋はあまりにも鋭かった。

 フッ___
 突如、赤紫の光が消える。神の牢獄は基点を破壊されて効力を失った。
 「レイノラ!」
 その時、レイノラはすでに眼下の森に届くところまで力無く落下していた。キュルイラは悲鳴を上げたが、レイノラは森から現れた髭の男に抱き留められた。
 「遅れたことが幸いしたな。」
 「ロゼオン!」
 鋼の神ロゼオン。バルバロッサを連れてきたのも彼だった。

 ギンッ!
 二つの刃が交錯した。バルバロッサの長剣をバルカンの爪が受け止めた音だった。左腕に蒼白なフェリルを抱いて、バルカンは巨大になった右手の三本の爪でバルバロッサの長剣を挟みつけていた。その手は人と同じ五本指から、鳥の足に等しい形へと変わっていた。
 鳥にはもう一つ、蹴爪がある。剣を受け止めた次の瞬間には蹴爪が急速に伸びて、バルバロッサの腑を抉っていた。
 「多少慌てはしたが、所詮はこんなものか。」
 羽毛に覆われた顔に冷や汗はない。しかし嘴の歪みが一瞬とはいえ彼が動揺したことを物語っていた。ただそれも一瞬だったのだ。フェリルをしっかりとその身に抱き、僅かな呼吸の間が生じると、バルカンはすぐさま逆転の一手を打って出た。
 ただミスがあったとすれば、彼がバルバロッサのことを良く知らなかったこと。一介の戦士と同程度に見ていたことだろう。この男が時に、ソアラよりも頼りになる人物だと言うことを知らなかったのだ。
 「動きを止めたな。」
 蹴爪は確かにバルバロッサの腹に突き刺さっている。口元から血を垂れ流しながら、しかし彼は平然と言ってのけた。
 「空牙裂砕。」
 漆黒の長剣から突如として力が溢れ出た。バルカンは咄嗟に爪を開いたが、それでも間に合いはしない。竜波動にも勝るとも劣らないその力は、剣を握る左腕の赤い輝きと共に、バルカンの手の中で爆発した。
 「がああ!」
 バルカンの右腕から血が噴き出した。三本の爪は全て砕け、蹴爪も大きく罅入っている。腕には深い裂傷が無数に走り、血飛沫は黄金の羽毛に編み目を刻んでいく。肩から背中まで達したそれは、彼の右の翼の根元まで辿り着くと一挙に弾けた。
 「ぐぎがあっ!」
 鳥にしてはあまりにもくぐもった悲鳴を上げるバルカン。右の翼が自らの重みで傾ぎ、ゆっくりと千切れて宙を舞い落ちていく。バルカンは目を血走らせ、開いた嘴から舌を突き出す。しかしすぐにグンと血まみれの右腕を引き絞ると、今までにない形相でバルバロッサを睨み付けた。
 「貴様___戦神の力を得たこの私に恐怖を抱かせるとは___!」
 怒りに満ち満ちた彼は、言葉も冷静さを欠いていた。
 「___仕留め損なったか。」
 そう呟いて、バルバロッサは赤い輝きを消す。そのまま彼の体は傾むいた。臓腑の傷は決して軽いものではなかったのだ。だが彼は状況を案じてはいなかった。ロゼオンから与えられた自らの仕事は、敵に一太刀浴びせ、時間を稼ぐことだったからだ。彼はそれを十二分に完遂した。
 「優秀な配下を持ったな、ロゼオン。」
 巨大な斧を握る大地神ビガロス。
 「いや、彼はレイノラの部下であり私の友人だ。私は彼の武器を鍛えたに過ぎない。」
 美しい長剣を握る鋼の神ロゼオン。
 「戦神の力を得たと言ったな、バルカン。その意味を聞こうか?」
 勇壮なる矛をもつ海神オコン。
 あとはバルカンを取り囲んだ三人の神が始末を付ける。
 「ちっ___!」
 状況は思わしくない。片翼を失い、右腕を負傷、それでも彼はまだ戦うに十分な生命力を持っていたが、左腕にはフェリルを抱いている。
 「おまえがセラを殺したのか?バルカン!」
 怒声とともに、大気に渦潮が現れる。強烈な水流は瞬く間にバルカンの背を捉えると、一気に飲み込んでビガロスの方へと吹っ飛ばす。そこではビガロスが大斧を振りかざしていた。地神の一撃の破壊力を知っているからこそ、バルカンの羽毛は総毛立った。
 「カァッ!」
 バルカンは奇声と共に水流から左の翼を伸ばし、渦の回転に変化を付ける。辛うじて軌道を逸らし、振り下ろされたビガロスの斧は空を切った。しかし___
 グゴォォォッ!
 「!!?」
 その風圧だけで、鉄の塊に打ち拉がれる重量感。バルカンの体は渦潮から弾き飛ばされ、一気に大地に向かって吹っ飛んでいく。次の瞬間、大地で轟音が唸り、深い谷が刻まれる。大地の神ビガロスは自らの斧の一振りで谷を作るのである。
 「おのれ!」
 しかしバルカンは辛うじて波動の圧力から脱し、宙に留まっていた。彼の周囲にはビガロスに砕かれた大地から大量の鉱石が跳ね上げられていた。
 「アイアンストーム!」
 猶予は与えない。ロゼオンの一声で、大量の鉱石が高速に動き出し、バルカンに四方八方から襲いかかりはじめたのだ。
 「ぬうう!」
 石の殴打にバルカンが呻く。彼はようやく、自らが窮地に立っていることを実感した。そして左腕で抱かれているだけの女に目を向けた。
 「フェリル!デュランダルだ!おまえの刃を私の周囲に張り巡らせろ!」
 それはフェリルの得意技、超振動の刃の事だろう。彼女はバルバロッサに片腕を落とされたが、意識も途絶えていないし、戦える力が残っていることをバルカンは分かっていた。しかしフェリルは動かない。
 「なんでよ___三人も神を殺したのに___あたしは___」
 彼女は錯乱状態にあった。目を泳がせ、今バルカンが晒されている窮地を自らに重ね、嘆くばかりだった。彼の言葉は耳に入らず、ただ強くなったはずの自分が名も知らない黒い男に軽くあしらわれたことがショックだった。
 「フェリル!」
 「!」
 大きくよく響く声で、バルカンは怒鳴った。愛する男の、聞いたこともないような怒声にフェリルは我に返る。
 「っ!」
 空からオコンの槍が迫っていた。バルカンは破壊光線で鉱石の嵐に道を作ると、一気に飛ぶ。しかしオコンの槍を逃れても、行く先には巨大な大地の壁がそそり立った。
 「戦え!フェリル!戦えるはずだ!」
 三人の神の猛攻にバルカンは確実に追いつめられていた。反撃の糸口を掴むには、左腕のフェリルが我を取り戻すことが不可欠だったから、彼はいつになく強い口調で叱咤した。
 しかし、フェリルの思考は混沌としていた。それは彼女がバルカンの腕の中で、今という状況の不幸をより冷静な目で見てしまったからだった。
 「ムンゾのことは嫌いだった___」
 壮絶なる戦いの喧噪には似つかわしくない弱い声で、フェリルは言った。
 「あたしを助けてくれてくれたのは嬉しかった。あいつを殺してやりたいと思っていたのも確かだった___」
 「フェリル!何を言っている!?」
 オコンの水流に邪魔されて、ビガロスの一撃を避けきれない。バルカンの左の翼が断ち切られた。
 「でもそれからはムンゾが何をしていたか、みんなに話して理解してもらえばよかったのよ___ジェネリは___ジェネリとは決して悪い関係じゃなかったのに。あのときのあたしはどうかしていた___」
 「フェリル!今は手を貸せ!」
 決定的な一撃からは逃れている。しかしバルカンの体には傷が増えていく。浅い傷は見る見るうちに塞がっていったが、それだけでは追いつかないほどダメージの連鎖が続く。
 「あたし___強くなんてなりたくなかった___あなたが気付かれるとまずいって言うから___」
 もはやバルカンの耳にはいるのは、フェリルの虚しい呟きだけだった。

 「う___」
 「よかった!気が付いた!」
 酒の女神キュルイラは攻撃的な気性とは裏腹に、高い治癒能力の持ち主だ。瀕死だったレイノラを早くも死の淵から呼び戻して見せた。
 「___キュルイラ___?」
 「あんたには後でたっぷりお礼を言わないといけないね。」
 上空では激しい力のぶつかり合いが続いている。それは大気を揺るがせ、目には見えなくとも夥しい波動を放ち続けている。朦朧としていたはずのレイノラは、キュルイラの笑顔の向こうに戦場を見るなり、カッと目を見開いた。
 「バルカン___!」
 「大丈夫。ビガロスたちに任せなよ。」
 キュルイラは身を起こそうとしたレイノラの体を押さえる。しかしレイノラの視線は空に釘付けになっていた。
 「違う___キュルイラ!あれを!」
 「え?」
 キュルイラも空を見上げた。そして血が雨滴となって降ってくる様を目の当たりにした。それは血で羽毛を赤くしたバルカンの、左腕の辺りから吹き出していた。

 「な___んで___?」

 それが最期の言葉だった。血を得られなくなった自らの脳が、辛うじて口を動かして言った最期の問いかけだった。
 血飛沫はバルカンの左腕の中で噴き出していた。それは抱えられた胴体の首から放たれていた。一言だけ残し、彼女の頭は長い髪をクルクルと風車のように回しながら、地へと落ちていく。その場にいた誰もが、切り落とされたフェリルの頭に目を奪われた。
 殺したのはバルカンだった。
 「フェリル!」
 レイノラは呆然とするキュルイラを振り払い、フェリルの頭の落下点へと飛んだ。
 「!」
 地に辿り着くよりも早く、彼女の頭は形を失っていった。破れた砂人形のように、砂の帯を描きながら消えていく。この世界での命ある者の末期。肉体は滅び、力は殺めた者の手に。
 「___」
 レイノラの手の上には砂の一粒もない。ただ、フェリルが付けていたものだろう、一組のピアスだけが残された。レイノラはそれをはじめて見た気がしなかった。もしかすると彼女がフェイ・アリエルだった頃に付けていたものかもしれない。
 「バルカン!貴様!」
 極限状態だったのだろう。左腕に抱くフェリルの首を落とす。愛していたはずの女を自らの手で殺める。それをしてしまった後、ビガロスが激昂するまでバルカン自身も呆然としていた。
 「___!」
 しかし彼は豹変した。腕に抱かれたフェリルの体が砂粒となって消え、それがバルカン自身の体に引き寄せられるようにして消えていくと、彼からは動揺が消え失せた。綻びだらけだった表情が隙のない顔へと変わる。まるで別人のように、バルカンは冷然としていた。それはビガロスを躊躇させるほどの急速な変化だった。
 グンッ!
 バルカンが右腕を振り上げた。傷口から血が飛び散ろうとも顔色一つ変えることなく。そして戦場に異変が起きる。

 バババババババババ!

 「!?」
 誰もが目を疑った。眼下の森から、空を覆い尽くさんばかりの大量の鳥が飛び立ったのである。森はビガロスの地震であらかた崩壊している。にもかかわらず、どこにこれだけの鳥が潜んでいたのかと言いたくなるほどの凄まじい数だった。
 「これは!」
 ビガロスが、オコンが、一帯を埋め尽くそうとする鳥をなぎ払う。しかし大量の鳥は際限なく森から沸いて出てくる。
 「バルカンを逃がすな!」
 鳥たちの意図を察したロゼオンが叫んだ。すぐさまオコンが宙に巨大な渦潮を生み出し、鳥たちを根こそぎ飲み込んでいく。しかし___
 「やられた___!」
 バルカンはすでにそこにはいなかった。




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