1 深淵へ

 水晶の中へと戻るなり、フェリルは脇目もふらずに自室を目指した。肉で隠されたいくつかの扉を抜けると、今度は迷宮本来の石壁が顔を出し、しかも大気を食って光を放つ虫、不橙火虫を仕込んだランプも並んでいる。おどろおどろしい肉の迷宮とはあまりにも趣が違う。それは先の扉を開くと一層際だった。
 「___」
 一つ息を吐き、フェリルはゆっくりと扉を閉めた。そこが彼女の部屋だ。ソアラが一度だけ連れてこられた部屋でもある。落ち着いていて、女らしさもある。毒々しさやけばけばしさとは無縁なその部屋こそが、彼女の本質を現すのかもしれない。
 「はぁ___」
 また息を吐く。重い溜息だった。暫く扉に寄りかかってから、やがて彼女は思い立ったように部屋の奥へと進んだ。
 そこには六つの燭台が丸く並んだテーブルがあった。円の中央には、裏返しのテーブルクロス。それを翻すと、魔法陣の刺繍が現れた。フェリルは指を一凪ぎすると、そこから放たれた火の玉が全ての蝋燭に火を灯す。
 そしてフェリルはなにやら呪文を呟きはじめた。
 「___」
 部屋の隅、ドレスルームの長いカーテンに身を隠す男には、全く気付かない。
 (こんな古典的な隠れかたしかできなかった俺も俺だが___それを見破れないあいつは相当追い込まれてるな___)
 サザビーはじっと息を潜めて成り行きを見守っていた。
 侵入は簡単だった。ソーマの効果が生きているうちに、束縛の支配から解放された男たちに、ここの構造をあらかた聞いたのだ。支配されていても見たものは覚えているようで、男たちはフェリルの自室への道を丁寧に教えてくれた。
 そして隠れるのもただカーテンの裏にいるだけではない。
 「見てるんだったらできるだけ協力してくれ。」
 彼は隠れる前に、誰にでもなくそう言った。それからしばらくして彼の体に黒い霞が掛かるようになった。アヌビスの闇は恰好の隠れ蓑となる。もしフェリルが平常心を保っていたとしても、サザビーに気が付いたかどうかはわからなかった。
 「___」
 ここまで全てがうまくいっている。魔法陣の上に光が立ち、朧に人影が浮かび上がりはじめると、サザビーはいよいよ息を飲んだ。

 そうだ。彼は核心に触れようとしているのだ。
 失態を演じたフェリル。後ろに男が居るのなら、彼女は彼に許しを請い、指示を仰ぐだろう。おそらくこれまでもそうしてきたはずだ。
 そして、今まさにその時がきた。

 『急な連絡はやめろと言ったはずだ。』
 輪郭が浮かび、鮮明になる前に声がした。凛々しく、芯の強そうな男の声。
 「ごめんなさい。でも大変なことが起こって___」
 『どうかしたのか?』
 その姿はすぐに明らかになった。

 (___!)
 サザビーは息を飲んだ。そこに映っていたのは知った顔だった。しかし、フェリルの裏で糸を引く人物としては、考えてもみない男だった。
 (まさか___あいつが___!?)
 だが今となって思えばその可能性も否定できない。あれが敵だとして、こちらを欺くべく動いていたとしたら、それはそれで合点のいく行動もあった。しかしこれは痛恨だ。あれが敵で、窮地に落ちたフェリルを救うべく動くとしたら、一刻も早くその正体をレイノラに伝えなければ全てを内から滅ぼされかねない。
 『それは気の毒だったな。だが気に病むことはない。いつまでも隠し通せるものでもないさ。』
 「まだあなたが疑われることはないと思うけど___」
 『それもいつまで持つか。勘のいい奴ならば、私も力を得ていることに気付くかもしれない。いずれにせよ潮時だということだよ。考えてもみるんだ、これは先へ進む良い機会だ。』
 「先へ?」
 『そうだとも、君を打倒するために力を持ったものたちが動く。それは私たちにとってけっして不都合ではないはずだ。私たちはもはや、二人の手でGの全てを得る域に達しようとしている。新たな一歩を踏み出す良い機会だよ。』
 男は終始フェリルに優しかった。
 「ありがとう、優しくしてくれて___あたしあなたに怒られるんじゃないかって___見捨てられるんじゃないかって___」
 そしてフェリルは信じられないくらい弱い女でいた。
 『何を言うんだ。私が君を助けた理由を忘れた訳でもあるまい。』
 「___」
 フェリルは頷く。
 『私が君をどれほど愛しているか、バルディスで君を失ったときにどれほど嘆いたか、ムンゾ神殿で助けを求める君を見たときにどれほど狼狽したか、ムンゾにどれほどの憤怒と殺意を覚えたか、君は分かっているはずだ。』
 それもまた一つの核心だった。この男がフェリルを助けた理由がそれだ。
 「ありがとう___」
 フェリルは純愛に身を委ね、恋する乙女の顔で男の像を見つめた。
 (___こいつぁ___)
 像だから何とも言えない。だがサザビーは男の誠実な口振りに、うさんくささは感じても真実味は覚えなかった。事の経緯は分からない。確かにこの男はかつてフェリルを愛していたのかもしれない。しかし急な連絡に苛立ちを見せた最初の振る舞いからして、今この男がフェリルの愛のためだけに動いているかどうかは疑問だった。
 もちろん憶測でしかないが。
 「本当にごめんなさい、折角手に入れた獲物まで逃して___でもなぜあなたはあの女を生かすことに拘っていたの?全然役立たずだったわ___」
 彼が許してくれると分かったからか、フェリルはソアラのことについては苛立ちを見せた。ソアラに拘らなければ、フュミレイたちの侵入を許すどころか、接点さえなかったと言うことだろう。
 『あれはジェイローグとレイノラの血族だ。それだけで手元に置く価値があった。』
 「なぜ?」
 『かつて真っ向からGに挑んだのはこの二人だけだ。他の神はどこかで逃げることを考えていた。だが二人が立ち向かえたのは、Gに対する責任、戦わなければならない使命を強く抱いていたからだ。計らずとも二人の愛がアイアンリッチの憎悪を生んだ。Gは二人の愛の産物であり、二人が戦うことを運命付けられた相手だ。我々は、少なくとも君は三人の神を殺し、今この世界で最もGに近い。その君を脅かす可能性が最も高いもの、それがあの女だと感じたから、私はこちらの駒にしようと考えた。それに___最初にあの女を見つけて連れ帰ったのは君だろう。』
 「あの時はあいつが使えると思ってたからで___」
 『支配にもギリギリのところで踏みとどまっていた。だが君への恐怖心を消すのは簡単ではない。もしこれからレイノラの軍勢と戦うことになったとして、あれが敵の内にいることは我々にとってプラスだ。そう考えた方が良い。』
 「___うん、わかった。それで___あたしはこれからどうすればいい?」
 『そうだな___』
 浮かび上がる男の像。その目がフェリルから逸れる。
 『まずそのカーテンの裏を調べてみることだな。』
 そして悪魔の如く言い放った。
 (!!)
 あの像は敵にフェリルを映すだけではなかったようだ。像の位置からして、敵にはフェリルの部屋が見渡せ、カーテンは十分視界に入ったのだろう。息は潜めていた。しかしもしかしたら少し裾が動いたかもしれないし、敵はアヌビスの闇をもろともせず、長いカーテンの下に僅かに覗く足を見破ったのかもしれない。
 ともかくサザビーは窮地へと追い込まれた。
 「カーテン___?」
 フェリルが振り返ったその時、ドレスルームを隠していたはずのカーテンが、本来のレールを外れて扉に面した部屋の壁へと勢い良く伸びた。それだけではない、大量のドレスが火に包まれて部屋へと飛び出してきたのである。
 「おのれ___!」
 フェリルが目を見開き、その指が僅かに宙を凪ぐと、大気に震動の網が走る。それは刃となって炎を蹴散らし、ドレスを細切れに切り刻み、カーテンを八つ裂きにし、壁に深く抉り込んだ。しかし、カーテンの裏に張り巡らされていた白黒斑の蜘蛛の巣が、刃の威力を半減させていた。それはサザビーの練闘気。彼は万が一に備えてカーテンの裏に練闘気を編み目にして走らせていた。技巧的な彼だからこそできる、光と闇の鎖帷子。それでカーテンをレールから外し、大量のドレスまで放り投げて見せた。しかも弱い火炎呪文で火を付けて。
 「くっ___!」
 壁には僅かに血染みがついていた。しかし扉は開け放たれ、そこにいただろう人物は消えていた。彼の目の前でまたも失態を演じてしまった。フェリルは唇を噛んで駆け出そうとする。しかし___
 『待て!』
 男はそれを止めた。
 「どうして!?追わないと___!」
 『あれは隠れるのが得意なようだ。それになにかしら周到な脱出の用意をしている。彼ならそうする。』
 僅かに裂けたカーテンの隙から、像の男はその優れた目でサザビーの姿を捉えていた。そして彼の口調は明らかにサザビーを知っていた。
 『フェリル、全ての束縛を解け。』
 「え___?」
 『君には何人たりとも生きてここから逃さない最高の束縛術があるだろう?』
 「!___血の束縛!」
 『そう。すぐに取りかかるんだ。そして___私も動くとしよう。どうにも我々の愛を邪魔する輩が多すぎるからな。それに彼ならば万が一にも血の束縛から脱することもあり得るかもしれない。』
 「そうしたら___?」
 『その時はその時だ。我々はいよいよ次のステージへと進む。』
 男に焦りの色は皆無だった。

 見るものは十分に見た。次はここを脱出しなければならない。もちろん見たものはアヌビスに伝わるわけだから、正義面したあいつの化けの皮はいずれ剥がされるだろう。だがアヌビスの気まぐれを当てにすることはできない。レイノラたちに一刻も早くこの事実を伝えなければ、彼女たちが危機に瀕することになる。
 「___」
 闇の霞を纏い、サザビーは肉の迷宮を駆けた。少しだけ顔の黒い紋様が大きくなっていたが、彼自身では気付きようもなかった。迷宮は狭い。フェリルが動揺しているだろう今がチャンスと睨んだから、彼は小細工無しに駆け抜ける道を選んだ。柔らかく、足を取られがちな肉の道は、多少なりとも彼を苛立たせた。
 「なっ!?」
 しかしそれが急変する。唐突に肉が失せ、フェリルの部屋周辺と同じ石の迷宮へと景色が変わったのだ。それはフュミレイが古代呪文ソーマで束縛の力を掻き消したときと同じ情景だった。
 (___どういうことだ?)
 不思議だったがサザビーは足を止めなかった。しかし彼を惑わす出来事はさらに続く。
 「おお!おまえか!」
 体格のいい男が通路の先で喜色満面に叫んだ。彼は確かフェリルに支配されていた男の一人だ。フュミレイとミキャックの逃亡を手助けし、運良くフェリルの毒牙に掛かる前にソーマが消え、再び束縛に墜ちてここに残っていた口だ。その男が、明らかに自我を持った顔でサザビーに手を振っていた。
 「良くやってくれた!フェリルを殺ったんだな!?」
 彼だけではない。出口へと続く道に、残っていた男たちが殺到していた。全員がフェリルの束縛から逃れていた。迷宮も含め、あらゆる束縛が消えているのだ。
 「___いや、俺は何もやっちゃいない。」
 束縛の力が一斉に消えた。フェリルの死を思わせる状況だが、それはあり得ない。あの状況で、しかも映像でしかない男にフェリルを殺せるはずがない。いや、もしその方法があったとしても、殺すとは考えづらい。
 (俺を捕まえることを諦めたとは思えない___ならあえて束縛を解いたのか?どうして?)
 長居して黄色いガスを吸いすぎたからか、サザビーの思考回路は混迷していた。だが足を止めようとはしない。解放された男たちの流れに続いて、サザビーも出口を目指す。
 「お!ここだぞ!」
 出口付近の雑踏のはずれで、太鼓腹の丹下山が手を挙げる。サザビーは浮かない顔のままで人混みを掻き分けて彼の元へ近づいた。
 「うまくいったんだな!」
 「多分な___」
 サザビーの答えは鈍かった。
 「やっぱりおまえらはあっしと兄者の見込んだとおりだ!さすがだぜ!」
 しかし丹下山はサザビーの背中をバンバンと叩きまくり、意気揚々と自らの臍を開く。周りの男たちの活気も手伝ってか、サザビーの複雑な顔色など彼の目には入ってなかったようだ。
 「さあ入れ入れ!数あわせはしておけって兄者に言われてるからよぉ!」
 そう言うなり丹下山はサザビーの背中を押して、自らの臍へと導く。何度やってもあまり気持ちいいものではないが、サザビーはそれすらも無関心に、ただこの不可解な状況への考えを巡らせ続けて丹下山の臍の中へ飲み込まれた。
 ギュモン___チュポン___
 「よぉしぃ___だっしゅぅつぅぅするぅぜぇぇぃいいぃぃ___」
 臍の中は不思議な場所だ。真っ暗で、内蔵の蠕動だろうか、水気のある音や、関節の駆動音など、様々な音が聞こえる。だがそのどれもが心地良いのは、母親の腹の中と同じだからなのだろう。丹下山の声も、周囲の雑踏も、非常に籠もったり響いたりで聞き取りづらいが、確かに聞こえていた。
 「ぬおぉぉおお!?」
 丹下山が上擦った声を上げた。
 「どうした?」
 腹の中で語りかければ彼の耳には届く。周囲の男のざわめきも聞こえたので、異様に感じたサザビーはそう問いかけた。
 「うんにゃぁぁ、たぁぶぅん兄じゃぁだぁぁ。いまぁ向こぉう側ぁにいった男がぁぁ矢ぁでぇ打たぁれぇてぇ中にぃぃ押しぃ戻さぁれぇてぇぇきぃたぁぁ。」
 「なんだって___?」
 丹下山の声は聞き取りづらかった。もし彼が「外に出た男が空雪の矢に撃たれて水晶の中に押し戻されてきた」と言っていたのなら、それは大問題だ。空雪がなぜそんなことをしなければならない?
 (警告だ___丹下山への!)
 そうだ。おそらく空雪の矢が押し戻した男は死んでいたのだろう。だから周りの男も異様なざわめきに包まれたのだ。では男は体のどこを撃たれていたのだろうか?喉か?頭か?心臓か?もし肩や腕や足だったとしたら、彼は矢で死んだのではないことになる。
 (フェリルが秘密を守るためには、侵入者の俺を生きてここから出さないことがなにより___もしあいつの束縛に、例えば鴉烙の命の契約のような、人の生き死にを支配する秘術があったとしたら___!?)
 それがある場所にゲートのような形で仕掛けられていたとしたら。
 「丹下山!外に出るな!」
 危機感に煽られて、サザビーは叫んだ。そのとき、すでに関節の音も、内蔵の水気ある音も聞こえなくなっていたことに、彼は気付いていなかった。
 「ぐっ!?」
 異変はすぐさま彼の身にも降り懸かる。適度な柔らかさと暖かさでその身を包む丹下山の臍。その環境が一変したのだ。柔軟な肉感は失せ、たちまち堅さを増してくる。それはサザビーの体を締め付け、砕かんばかりの硬直だった。
 「まずい___!」
 このままでは臍の中で圧死する。そう感じたサザビーは必死に藻掻いた。鈍い音は筋肉が切れた音だろうか、ともかく暗闇に一筋の光を見つけたサザビーはそこに手を伸ばした。
 ボゴバッ!
 そこは横穴の外だった。水晶から脱し、浅い横穴から崖下に向かって、今まさに丹下山の体が傾こうとしていた。臍から手を伸ばし、サザビーは這い出るように素早く腰まで脱する。
 「くっ!」
 崖から横に向かって木の根が飛び出していた。落ち際にそれを見つけたサザビーは、自由でない体で必死に腕を伸ばした。
 「ぐあっ!」
 渾身の力で根に食らいつく。肩が酷く痛んだが、何とか踏みとどまった。そして下半身も臍から抜ける。
 「丹下山!」
 丹下山には臍を締める力さえ残っていなかった。目を剥き、硬直した体で崖下へと落ちていく。
 彼はすでに死んでいたのだろう。サザビーにはただ見下ろすことしかできなかった。
 「!?」
 丹下山だけではない。水晶から出てきただろう男たちが押し出されるように、次々と崖下へと転げ落ちていく。誰もが目を剥き、硬直し、中には皮膚が剥がれ、長時間煮込まれたかのように肉がボロボロと崩れはじめているものもいた。
 その情景はまるで死肉の滝のようだった。
 「なんだ___こいつは___!?」
 さしものサザビーも顔中を冷や汗で濡らしていた。水晶から出てきたものたちが、自分を除いて全て息絶えている。いや、自分の身体にも本当に異常はないのか?
 「!?」
 力を込めているつもりだった。それなのに手が木の根から滑りつつあった。サザビーは慌てて肩を張り、根をたぐり寄せるようにして自らの体を持ち上げる。手で掴まるのではなく、肘を曲げて両腕をフック状にして根に引っ掛けた。
 「___どういうことだ___」
 側ではまだ次々と死体が落下している。だがサザビーはそちらよりも自らの手を見つめて愕然としていた。握る、放す、その動作を繰り返す。逆の腕の皮を摘んでみたりもする。だがそうするほどに、彼の息は落ち着かなくなっていった。
 (指の感覚がない___)
 それだけではない、何もしていないのに足先が痺れてきた。頭も痛くなってきた。体が固くなりつつあるのを感じた。
 「束縛___」
 これがフェリルの秘策か。水晶の出口に彼女はおそらく命を奪う束縛の罠を張ったのだ。恐れていたことが現実となった。自分がすぐに死なないのは、丹下山の臍の中にいたからだろう。彼が盾となったことで効果が弱くなった、あるいは遅れているのだ。
 そのとき___
 「!」
 死肉の滝の向こうから、一本の矢がこちらに向かって猛スピードで突っ込んでくる。
 「空雪___!」
 その矢の意図を察したサザビーは、思うように動かない体に鞭打ち、片腕を根から外してグイと伸ばした。
 「練闘気!」
 白黒斑の糸が伸びる。それは彼の横を駆け抜けようとしていた矢に瞬時に絡みついた。そしてサザビーは根を放す。
 グンッ!
 練闘気の糸に結ばれ、サザビーは矢に引かれて崖の向こうの森へと飛んだ。ただひたすらフェリルに感づかれないことを祈るのみ。そして、見てきたものを誰かに伝えるまで、自分の命が持つことを願うのみだった。

 「___」
 ミキャック・レネ・ウィスターナスは落ち着かない時を過ごしていた。彼女はムンゾの世界、しかもフェリルの水晶からそれほど遠くない場所で息を潜めていた。そこは洞窟だが、中は広く、また生活用具、武具、様々なものが大量に置かれていた。一番奥の部屋には立派な机も、ベッドもあった。
 そこは生前を思い出しつつ山賊稼業に勤しんでいたものたちのアジトだ。そして、フェリルが囲っていた男たちの一部が元いた場所だった。ミキャックはアジトの一番奥、豪華なボスの部屋でサザビーの帰りを待っていた。
 「___」
 部屋にはランプがあった。しかし明かりは灯さない。暗い部屋で、ミキャックはベッドに寝転がることすらなく、ただひたすら歩き回り続けていた。
 コツ___コツ___
 「!」
 足音が聞こえると、彼女は肩を竦めた。すぐに足を止め、部屋の扉の横で耳をそばだてた。
 「お〜い。」
 「!」
 ボスの部屋を出て少し行くと天井の高い広場がある。酒樽やら乾物やらテーブルやらが並ぶ賊たちの社交場だ。声はそこからしていた。
 「可愛いお尻とけしからんオッパイをした翼付きの娘さんや〜い。」
 勇んで部屋を飛び出したミキャックの足がもつれて転倒しかけた。酷い呼び方だとは思ったが、こんな事を言うのは間違いなくサザビーしかいない。ミキャックは眉間に皺を作りながらも、跳ねるように広場へと飛び出した。
 「何なのよ!その言い方!」
 そして言い放つ。ムッとした顔で現れた彼女だったが___
 「よ。」
 サザビーは思ったよりも静かだった。広場の真ん中に丸椅子を引いて深く腰掛け、体を前に折れて両膝に両肘を付いていた。そのままの姿勢で手だけ挙げる。ミキャックには彼が笑顔であっても酷く疲れていると一目で分かった。
 「大丈夫?」
 怒っていたのが一転、ミキャックは急に不安げな顔になって彼に歩み寄ろうとする。どうもいつもと様子が違う、そう直感したのだ。
 「ちょっとそこで止まってくれ。」
 「?」
 しかしサザビーは穏やかな笑顔でミキャックを制した。
 「そこでさ、ゆっくり回ってみてくれないか?」
 「??___なんで?なんかするんでしょ___?」
 「いいから。」
 ミキャックは渋々ながらその場で一回転した。
 「もっかい。もうちょっと楽しそうに頼むわ。」
 「えぇ?」
 「あ、その前に。火ぃつけてくれるか?」
 サザビーは煙草をくわえていた。なんだろう?彼が無事に戻ってきてくれたことが嬉しいからだろうか?ミキャックは彼の言葉に従うことに不思議と躊躇いを感じなかった。でも喜々とできない自分もここにいる。
 フッ___
 自然だった。近づきたかったこともあって、ミキャックは彼の側まで歩み寄って、その指を煙草の先に寄せた。弱い火炎呪文が煙草を赤熱させる。
 「あんがと。」
 「サザビー___どうかしたの?どこか悪いみたい___顔の黒も増えてるし___」
 そう問うことに葛藤は感じなかった。彼に対してなら、自分は不思議と飾らないですむのだ。
 「おまえがいるから大丈夫。」
 「___なにそれ?」
 「な、もうちょっと離れて、おまえを良く見せてくれ。」
 「___」
 ミキャックは反論することもなく、彼の願いを聞き入れた。少しだけ離れて、彼に自分自身の姿を良く見せるために回った。彼はただ見ているだけ。何もすることはなく、ただ煙草が短くなっていくだけ。
 「もういいよ、あんがとな。」
 そう言ったとき、灰の堪りきった煙草をサザビーはその場に吹き捨てた。いつもはどこかに先を擦りつけ、火を消してから捨てるのが彼のやり方だとミキャックは知っていた。
 「どうしちゃったの___本当に何か様子がおかしい。」
 ミキャックの胸中にはもやが掛かったようだった。不自然なことをさせられて、彼自身の所作もなんだか不自然で、原因不明の胸焼けのようだった。彼が何か達観した風でいつも以上に落ち着いているから、かえってミキャックは時が経つほど落ち着かなくなった。
 後になって思えば、それは悪い予感だったのだろう。
 「おまえのことをしっかりと目に焼き付けておきたかった。」
 「___どういうこと?」
 ミキャックの顔に不安が差す。
 「よっ___」
 老人がそうするように、サザビーは膝に手を付いて、かけ声と共に重たげに立ち上がった。彼がよろめいたように見えたから、ミキャックは思わず駆け寄っていた。しかし身を寄せるよりも早く、彼の手が彼女の肩に掛かった。
 「ミキャック。俺はやるだけのことはやった。」
 「?___なにが___」
 腕一本の距離で二人は見つめ合う。
 「約束が違うのは分かっている。でも俺は少し正直になることにした。」
 「???」
 片方の目が際だって黒いことも、今は気にならなかった。
 「俺の命を継いでほしい。」
 「___え___」
 些細なことなど、目にも耳にも入らなくなった。広い洞窟の中で、今の自分の前にはサザビーしかない。フェリルのことも、レイノラのことも、彼以外の全てがその瞬間に頭の中から吹っ飛んだ。
 「いのち___?」
 「俺はつくづくな男だ。今このときに至って、何を一番したいかって考えたら、それはおまえを抱くことだった。」
 「今このとき___?」
 「そう。死ぬ前に何がしたい?って奴だよ。」
 「死ぬ前___?」
 フッ___
 ミキャックの体から力が抜け、その場に崩れ落ちかけた。サザビーは棒のような体で彼女抱き留める。その衝撃で、気絶の縁から意識が戻った。
 「ごめんな。驚かせた。」
 「___」
 「いつもこうだな。おまえには最初から最後までやな思いばかりさせる。」
 二人は胸を、腹を、腰を、正面からつきあった形で抱き合っていた。サザビーだけでなく、意識を取り戻したミキャックも彼の背に腕を回して縋った。
 「残念だ。おまえの胸の柔らかさも良くわかんねえや。」
 「___」
 ミキャックには言葉がなかった。ただ彼の頬に頬を寄せ、少しでも伝わるよう、全身を密着させていた。
 「___」
 「嘘でしょ___」
 サザビーも沈黙していると、やがてミキャックが弱い声で呟いた。
 「また変な冗談___あたしを怖がらせて___」
 「嘘でも冗談でもない。俺はじきに死ぬ。」
 「なんで___」
 「敵の全容を暴いた代償さ。本当なら体が固まって即死だったが、丹下山が盾になってくれたおかげで俺はここまで来る時間を得ることができた。でももう腕も足も感覚がない。そのうち声も出なくなって、目も耳もきかなくなって、ただの肉の塊になる。」
 そう言うサザビーの声が実際に掠れていたので、ミキャックは言葉に詰まった。彼の肌の冷たさに胸の奥で恐怖が渦巻いたが、それを和らげてくれるのもまた彼の肌であった。
 「そんなこと___そうよ、レイノラ様ならきっと何とかしてくれる。クリスタルの最後の一つを姉様が持ってるんだから、離れていても半日あれば十分に戻れるわ。」
 「フュミレイが無事ならな。」
 「無事よ___当たり前じゃない。」
 「それにレイノラなら何とかできる、ってのは正しい考えじゃない。」
 「だからってあなたをこのままにして___!」
 「半日も持たないよ。」
 「!」
 「それに俺は、残された時間全てをおまえのために使いたいんだ。」
 冗談だという淡い期待はもう捨てるしかない。悪戯好きではあるけど、こんな、人を酷く傷つけるような真似をする男ではない。こんなに重みのある言葉を冗談で口にする男ではない。ミキャックにはそれが分かっていた。分かっていたからこそ辛かった。
 「好きだ、ミキャック。愛してる。」
 「___」
 「いつからおまえにそういう感情を抱いたか、ちょっと見当も付かないが___もしかしたら俺らしくもない一目惚れだったのかもしれない。」
 「___」
 「おまえの辛い人生が俺の心を擽ったのも確かだ。それは認める。でも同時に、母親を知らない俺は、おまえみたいないい女に甘えたいとも思っていたのかもしれない。」
 「___」
 「でも今はそんな理屈どうでもいい。俺はおまえが好きだ。今このとき、俺の前におまえがいてくれること、それは俺にとって最高の幸せだ。」
 ミキャックには返す言葉がなかった。いや、返せやしなかった。涙を一杯に溜めて、ようやく口を突いて出たのは心からの声だった。
 「___酷い___」
 声も体も震えていた。
 「酷すぎる___残酷すぎる___もうこんなの___絶対にいやだったのに___」
 彼女の愛は死に結ばれる。彼女の育ての親であり、かつ仇敵であった一人の紳士。自らのプライドと愛の狭間で揺れたディック・ゼルセーナ。二人とも、ミキャックへの愛を語り、そして死んでいった。
 サザビーだけは、そんなことはあり得ないと思っていたのに。
 「嫌だっていってたのに___!」
 ごめん___
 すまない___
 そんな軽々しい言葉では済ませられない。サザビーにはミキャックを慰める言葉が思いつかなかった。なんとしても幸せにしたいと思っていた彼女を、いま過去の誰よりも苦しめてしまっている愚かな自分に腹が立った。
 「エレ サムナ リブレスタ ノウ」
 囁くように、サザビーは呟いていた。
 それは彼の故郷、ゴルガの古代語。

 神よ、あなたはなんと残酷なことを。

 すでに神を知る自分が言う言葉ではないかもしれない。しかし自分自身の不甲斐なさに、彼の口は勝手に動いていた。かつてのクーザー王妃でありサザビーの初恋の人、ナターシャ・ミゲルの死の覚悟をただ見送ることしかできなかった自分を呪って叫んだ言葉。
 彼が衝動的にこの言葉を口にしたのは、あれ以来だった。
 「ミキャック。」
 触れ合う頬にはまだかろうじて感触が残っている。だから彼女の涙が幾らかでも和らいだのを感じた。
 「___」
 「残された時間、俺はできる限りおまえを愛したい。」
 「___」
 「それが俺にできるせめてもの償いだ。」
 「___」
 ミキャックは頷かなかった。しかし自らの存在感を少しでも強くサザビーに知らせるかのように、強く唇を押し当てた。恥じらいなどない。使命感に駆られた戦士のような迫力で、彼女もまた深くサザビーを求めた。
 深く___深く___互いの深淵まで。

 「______」
 外はもう朝だった。サザビーはもはや歩くこともままならなかった。ただ、少しでも、彼女から離れてその時を迎えることを考えていた。だから、朝の霞みに包まれた森を一糸まとわぬ姿で這うように進んだ。
 最後の魔力は睡眠呪文エルクローゼに使った。今頃、ミキャックは山賊のアジトのボスの部屋、そこのベッドの上にいる。神々しい体で、彼の上着を側に抱いて、もしかしたら眠りながらも涙でそれを濡らして。
 「情けねえ___」
 死を恐れないものなどいるものか。視界は歪み、もはやなにも聞こえない。考えることもままならない。言葉も自分ではそう言っているつもりだが、おそらく舌はまともに動いていない。あらゆる関節が固まり、心臓も固まりつつある。服を着ることはおろか、何か羽織ることさえできなかった。かろうじてできるのは、練闘気を全身に巡らせて、流れを失おうとしている血を強制的に巡らせることくらい。
 しかしやることはやったのだ。
 今はもう、自分の果たした功績で自分を認めさせるしかない。
 「すまねえゼルナス___」
 掛け替えのない人に謝るしかない。
 「すまねえソアラ___ライ___百鬼___フローラ___みんなすまねえ___」
 大切な仲間たちにわびるしかない。
 「じゃあな___ミキャック___」
 愛した人に別れを告げるしかない。
 「___」

 朝の霞みの森。
 柔らかな、水の雫に濡れた土と草。
 その健やかな香りに抱かれて。
 サザビー・シルバの旅は終わった。




前へ / 次へ